風上家に生まれて   作:新六毛

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太陽を目指すアセンブリ 4

門柱の影から、あやかは半身を乗り出す

 

「…………………………」

 

初夏の長い夕暮れは既に終わり、辺りは夜の帳に覆われ始めている

だが、風上邸に明かりは灯らない

知恵故障の感覚でも、既に門限は言うに及ばず、お姉達の帰宅の時間さえ大幅に過ぎていると思われた

奇跡が味方したのか?

何らかの理由でお姉達の帰宅が遅れていれば、あやかの門限破りもバレる事を無い

尤も、学校エスケープの報が届いていれば、お仕置きは免れまいが、それでも門限破りの罪を重ねるよりは遥かにマシな筈である

 

「お母さん… ありがとうなのだ……」

 

あやかの中では屡々、己に都合の良い偶然は天国の母がもたらす慈愛の現れという事に変換される

母が雲の上から常に己を見守り、助けてくれる…

母を失った者なら誰もが抱くその感慨を、あやかはカルト宗教レベルで盲信しているのだ

ならば何故母は姉達にお仕置きを止めさせ無いのか…

そこには考えの至らぬ知恵故障…

否、それを考えれば"宗教"が破綻するとの知恵はあるのかも知れない

 

あれから重い身体と心を引き摺って丘を下りた

疾うに収穫の終わった菜の花畑の脇を抜け、通い慣れた通学路に戻った時、とうとう忌むべき現実に直面させられた気がして、胃の中に何かが込み上げてきた

大きくゲップをして、輝く木星を見上げた

紡ぐべき謝罪と弁解の言葉を何度も胸に反芻し、そして考えられる最良の結末の訪れを天国の母に祈った

そしてその願いの一端は叶えられたのだ

 

「た、ただいま帰りましたのだ……」

 

玄関を開いてから、闇の向こうにそう呟いた

万が一の事もある

居眠りをしていて明かりを灯し忘れているとか…

それに対する保険の為に、帰宅の挨拶を普段通り放った

お姉達に対する挨拶の欠忘は、風上家法第3条第1項に違反するのだ

尤も、あやかはそんな家法に因らなくても、大好きなお姉達への挨拶は欠かさないが…

 

「……………………」

 

しかしやはり、反応が示される事は無かった

それに少しだけ胸を撫で下ろし、靴を脱いでから一歩を玄関より踏み上げる

 

「うへっ!?」

 

鼻を突く異臭に、そのあやかの身体は硬直した

強烈な悪臭… という類いの物では無かったが、それはあやかが今まで嗅いだ事の無い…

それでいて頗る悪心を覚える… 謂わば本能に根差した…

 

「……………………」

 

何故かとても胸騒ぎがした

心臓がバクバクと音を立て、とても息苦しくなった

力を込めて身体の呪縛を解き、震える手でリビングのドアを開いた

 

「………か姉?」

 

窓から差し込む薄明かりに、ソファーの手前、カーペットの上に寝そべる影が見えた

証明のスイッチがなかなか押せなかった

躊躇したのでは無く、手が震えて言う事を聞かなかったのだ

そこであやかは掌を壁に叩き付け、それで漸くLEDに明かりが灯った

 

「ま… まどか… 姉……?」

 

そこには俯せるまどか姉の姿

 

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

次の瞬間、あやかは錯乱し、空気を震わす程の悲鳴を上げた

 

「ま、ま、ま、まどか姉ぇぇぇぇぇっ!!」

 

更に次の瞬間、あやかはその横たわる長姉の元に飛び付いた

腹の下から滲み出し、カーペットの上に大きく広がった赤黒い何か…

それが血糊である事ぐらいは知恵故障でも分かった

まどか姉から流れる彼女の血液だと…

 

「ま、ま… 嫌っ! ま、まどか姉ぇ……!?」

 

覗き込んだその顔は蒼白で、頬の下まで自らの血で真っ赤に染められていた

肩を揺らそうとしたが、触れる事ができなかった

動かさない方が良いのではないか?

勿論、現場保持などという馬鹿げた理由では無い

生存の可能性に関わるのではないかと思ったのだ

 

「きゅぅ… きゅぅ… 救急車… 救急車……」

 

パニックに陥ったあやかは激しい動悸に襲われ、目の前が暗くなっていく事に気付く

それでもまどか姉を救えるのは自分しか居ないと、リビングの奥の黒電話までふらつきながら走って行く

 

「うひっ!?」

 

だが、力の入らぬ足先は、何かに蹴躓いてバランスを崩す

フローリングに尻餅をつく

視線の先に、蹴躓いたそれが飛び込んできた

 

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? さ、さ、さやか姉ぇぇぇぇぇっ!!」

 

背中に深々と包丁が突き立てられたさやか姉が、血の海に沈んでいた

半開きの瞼の下から虚ろな瞳があやかを捉えていた

黒真珠とあやかが形容していた憧れの漆黒には、最早生気の輝きは断片も無く、ただのガラス玉の様にくすんで見えた

 

「うわぁぁぁぁ…… うわぁぁぁぁぁ……」

 

もう何が何なのか、訳が分からなくなったあやかは、尻を引き摺りながらモチモチと後退りするしか無かった

お姉達は… あやかの最愛のお姉達は… 死んでしまった……

殺されてしまった……

いったい誰が…? 何の為に…?

 

「うぅぅぅううぅぅぅぅ…… うぅぅ……」

 

キャパの乏しい大脳新皮質がショートした

常人でさえ狂うであろう状況である

知恵故障に状況の処理ができよう無かった

あやかの股座から、フローリングの上に液体が広がっていく

 

 

 

「ゴメンなさいなのにゃ… でも対価は支払って貰わねばならないのにゃ…」

「ヒィッ!?」

 

 

 

背後からの声に、あやかの垂れ流す液体が一際量を増した

 

「嫌っ!? だ、誰っ!?」

 

振り返った先に少女が居た

鮮やかなパッションフルーツパープル色のショートボブが、LEDの明かりを受けて艶やかに輝いていた

 

「い、嫌っ! ひ、人殺しっ!!」

 

状況と彼女の台詞、そして全身に浴びた返り血…

あやかの罵声は的を外れてはいなかった

そしてその己の叫びに、もう一つの感情が直ぐに触発された

 

「よ、よくも…! よくもあやかの大事なお姉達を…! よくもぉぉぉっ!!」

 

立ち上がったあやかは、そのまま背後のさやか姉だった物に飛び付き、そこに刺さる包丁を引き抜いた

柔らかな肉の感触が手に伝わり、あやかの胸を滅茶苦茶に掻き毟る

幼き日、手を繋いで夕焼けの中を一緒に歩いたさやか姉…

厳しいながらも深い愛で、母の代わりをずっと務めてくれたまどか姉…

それが今は、ただの肉塊である

この目の前の鬼畜の所業で…!

あやか狂った 望んで狂った

狂って恐怖を消し去ったのだ

血塗られた包丁の鋒を、憎悪と共にお姉達の仇へと向ける

 

「……許して欲しいのにゃ… こうするしか… あやかちゃんを救うには… 対価を最大限生かすには… これ以外に方法が……」

 

あやかは駆け出していた

 

「うっ……」

 

柔らかな感触と、小さな呻き…

あやかの復讐の刃は、憎むべき少女の土手腹に深々と吸い込まれた

 

「……ゴメンなのにゃ…… あやかちゃん… 今回は… ボクの負けで… いいにゃ……」

「……?」

 

少女はあやかを深く抱き締めると、頬をあやかに寄せて、それからゆっくりと崩れていった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハロゲンの赤い光が瞬いて、重低音のブザーが鳴る

 

「ノルマを果たせないのはお前だけだな、エレーナ…」

「い、今少し! あと少しなんです! どうか、どうかもう少しだけ猶予を下さいな! 」

 

そんな事は認められないとは分かっていても、食い下がらずには居られない

男は顎をしゃくって壁際に立つ二人に合図を送る

ツナギを着たその二人の男が、エレーナと呼ばれた娘の両腕を拘束する

 

「ま、まって下さいな! た、助けて下さいな! ちょっ? 誰かっ!? ……アーニャ!」

 

名前を呼ばれてビクッとなる

 

「ア、アーニャ! 助けてな! 二つ… 二つ分けてちょうだいな!」

 

悲痛な叫びから耳を遠ざけるかの様に、俯いて背中を向ける

 

「アーニャ!? どうして!? 私ら姉妹の様なもんなんな!!」

 

二つだけなら分けてあげられなくもない

共同作業という体

そうしてくれと彼女は言うのだ

公式に共同作業も認められており、その代わりノルマのカウントも折半となる

つまりあと一つ完成に上げれば、彼女は今日を生き延びられるのだ

だが、もし自分が仕上げたコサージュに一つでも不具合品があれば、その時点で今度は己のノルマが不成立となり、処分対象になってしまう

そんな理由もあり、実際に共同作業などを行う物好きは存在しない

厳密に言えば幾人かは居たが、そんなお人好し共は真っ先に処分場の錆と消えていった

厳しい様だが、そもそも己の能力不足が原因である

生まれた事が間違いなのだ

今日を生き延びたとて、明日以降は更なるノルマが課せられるのだ

遅かれ早かれ、結果は変わらない筈なのだ

 

「あぁぁ… 嫌だぁ! 鬼! 悪魔! うわぁぁぁ……!」

 

ファームに向けたものかも知れないし、自分に向けたものかも知れない

怨嗟の叫びを残しながら、姉妹の様に育ったエレーナは処分場へ引き摺られて行った

 

(もし逆の立場なら、キミはボクにコサージュを分けるのかにゃ?)

 

アーニャは胸の中で彼女に問い掛けた

答えはきっとノーであろう

事実、一昨日はこうしてサンドラを見殺しにしたではないか…

そう自分に言い聞かせれば、幾らか罪悪感が減退された

生まれた事が間違いなら、死んでこそ漸く幸せになれる事だろう…

今度はベルの音が高く響いた

 

「総員終業… 房舎に戻れ」

 

その声に今日を生き延びた"姉妹"達が作業台の上を片付け始める

アーニャもまち針を針刺しに適当に収めると、出来高を藤蔓のバスケットに無造作に纏める

そしてそそくさと立ち上がり、一番に作業場の通用門を潜った

 

アルミトレイの上に盛られたその夜の砂糖の塊は、何時に無く乾燥していて喉につかえたのを覚えている

アーニャのコサージュに不具合品など無かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生… お願いします… ですのだ…」

 

あやかは白衣の男性に深々と頭を下げる

 

「ご心配には及ばないと思います 確立された治療法ですし、手術自体も一時間程度で済みます」

 

その言葉にあやかはホッと胸を撫で下ろした

だが、それと入れ替わる様に別の憂慮が頭を擡げる

 

「あの… 費用の方は… お幾ら万円… なのですだ?」

 

乾いた喉の奥から絞り出したその声は、微かに震えていた

命の対価である 決して安い物ではなかろう

場末の風俗街、そこでの指名すら途絶えがちである今のあやかに、その安からぬ物を捻出する事は生易しい事ではない

 

食べる事で精一杯…

 

そう、あやかは息子と二人…

否、愛しい一人息子に白いご飯を食べさせる為だけに、毎夜ローションを掻き混ぜてきたのだ

後ろめたい気持ちが無かった訳ではない

だが、重い知的障害を患う己には、他に糧を… 息子と共に人並みの暮らし得る術が無かったのだ

満面の笑みで妊娠を告げたあやかを、その子の父親である男は嘲り、ゴミの様に捨てて出て行った

お前の様な知恵故障が生まれたらどうするんだ?

そう言って、中絶費用三十万円を投げ付けて出て行ったのだ

男はあやかの若い身体にしか興味が無かったのだ

あやかという人間には微塵も興味を持っていなかったのだ

否、人間とも思ってもいなかったのだ

あやかは記憶の中の朧気な母の姿を思い起こした

自分が生まれた後、直ぐに姿を消したという父…

同時の母と、今の己の姿が重なった

たがらあやかは一人で子供を生み、育てる事にしたのだ

だが今、それを可能にさせた母譲りの天性の美貌も、寄る年波と苦労の連続に、落日の如き陰りを見せていた

そしてその最愛の息子を襲った病魔…

心臓移植以外に助かる術が無いと知って、人伝に評判を聞き縋ったこの病院…

我が子を助けたい一心で、その先の事は全く考えていなかったのだ

 

「今大事なのはお金の事ではありません、息子さんが完治する事です 違いますか?」

 

医師の言葉に思わず涙が溢れ出た

こんなにも温かい言葉を、久しく向けられた記憶が無かった

今一度大きく頭を下げると、息子の身上を彼に託した

 

 

 

長い廊下の向こうからストレッチャーがやって来る

手術に赴く息子にせめて励ましの言葉をと、立ち上がって身を寄せたあやかを、それに付き添っていた看護婦が制した

 

「あぁ……」

 

それで察したあやかは再び廊下の端に寄り、目の前を行くストレッチャーに目礼した

 

 

 

「風上さん、どうぞ中へ…」

暫くした後、あやかは手術準備室に案内された

部屋の中央には、人工呼吸器を繋げなれ横たわる二つの影

手術着姿の医師があやかを促す

 

「薫… がんはるのだ……」

 

全身麻酔により昏倒する一人息子の姿に、あやかは溢れふ涙を押し止める事が出来なかった

 

「風上さん… 法令に則りまして、移植体の目視確認の方もお願います…」

 

医師はそう告げて、もう一方の手術台に掛けられていたシーツを捲った

 

「……………………」

 

分かっていた事だが、やはり胸が締め付けられる

そこには息子と同じぐらいの歳の少年が横たわっていた

 

「心苦しく感じるかもしれませんが、彼には自我も意識もありません この様な治療の為にファームで養殖された人工生命です ……よろしいですか? 今から"これ"の心臓を息子さんに移植します」

 

あやかは胸の前で手を合わせると、深々と頭を下げた

 

「……ごめんなさいなのだ ……ごめんなさいなのだ ……貴方のお命、薫に頂きますのだ……」

 

 

 

 

 

手術は予定を五分オーバーしたが、大きな問題無く終了し、次の日の夕方は集中治療室での面会が許された

 

「先生、ありがとうございました… のだ」

 

もう何度目か分からない感謝の言葉を、その場で再度紡いだ

 

「もうお礼は結構ですよ」

 

流石に苦笑いを見せた医師に、あやかの頬も漸く綻ぶ

 

「それよりも奇遇ですね…」

「……?」

 

医師がちょっと大袈裟なリアクションをして、あやかの顔を覗き込んだ

 

「まさか養殖体移植手術の試験施行第一陣がお母さん、貴女だったとは…」

 

医師のする話の意味が分からず、あやかは小首を傾げる

 

「……あらっ? ご存知無いのか… 記憶が無いのですかね… まぁ 当時は余り公にはし難い空気でしたし… ご両親が伏せていたのかも知れませんね……」

 

「………………」

 

「あぁ いえいえ私が言いたかったのは、この病気や治療に遺伝的要素は無い、という事です …お気を悪くされたのなら、申し訳ございません」

 

あやかはそれでも話が飲み込めず、大分間を置いてから反問した

 

「あやか… 私… 移植手術… したのですか…? のだ?」

 

今度は医師が間の悪そうに頭を掻きながら、ボソッと答えた

 

「えぇ~… お母さんが~… 子供の頃… 八歳の時、ですかね… カルテが残ってます… 心臓移植…… 当時解禁されたばかりのこの治療法を用いましてね……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手が震えて針の狙いが定まらない

こんな筈では無いのだ

最初のほんの小さなミス… キルトのカットに手こずりリズムを崩した

これが実力ではないのだ

そんな思いがさらに筋肉を強ばらせる

ハロゲンランプが明滅し、ブザーが空気を震わせた

 

「アーニャ、ノルマを果たせないのはお前だけだな」

「ま、まって欲しいのにゃ! アクシデント! これはアクシデントなのにゃ!」

 

そんな事は認められないとは分かっていても、食い下がらずには居られない

ツナギの男が二人、アーニャに歩み寄る

 

「だれか!? だれか…? あと一つにゃ… 誰か……」

 

"姉妹"達はアーニャの声など聞こえないかの様に、それぞれの作業台の上を片付け始める

 

「あぁ……」

 

力無く呻きを上げるアーニャの両肘が、男達に固められた

よもや今日この日が自分の最期それになろうとは…

 

「ボクは… ボクはまだまだ… 誰にも… 誰よりも……」

 

覚悟が無かった訳では無い

寧ろ仮に処分場に送られる時が来たとしても、エレーナの様な醜態は晒すまい、そんな決意すら胸に秘めていた

ただ、この結果が頗る不本意であり、無念極まりないのだ

だから思わず声が漏れ、態度に出たのだ

"姉妹"達の目にそれは、往生際の悪い醜態に映ったかも知れない

 

「こ、これっ! 一緒に作ったのだ! 本当なのだ!」

 

半ば引き摺られるアーニャの前を横切り、一人の"姉妹"が男… 彼女らの監督者の前に両手を差し出した

それぞれの掌の上に、ピンクとモスグリーンのコサージュ…

 

「……フンッ」

 

監督者は小さく鼻を鳴らすと、アーニャの両腕を締め上げるツナギの男達に目配せした

 

「にゃんっ!?」

 

ゴミを投げ捨てるかの様な要領で、アーニャは乱暴に放り出された

そのまま勢い余り、冷たいコンクリートの床の上を無様に転がる

 

「総員終業、房舎に戻れ!」

 

監督者のその声で"姉妹"達は一斉に立ち上がり、逃げる様に作業場を後にして行く

直ぐ様後方の金属扉が開いて、そこから全身を白衣に包んだ人影が幾つか、入れ替わる様に流れ込んで来る

彼らは手早くコサージュの納められた藤蔓のバスケットを回収すると、再び金属扉の向こうに消えて行った

 

「アーニャ、タチアナ、一緒に消毒されるか?」

 

床の上に踞り、放られた際の痛みが引くのを待っていたアーニャと、その彼女を心配そうに覗き込んでいたタチアナは、その無機質で冷たい監督者の言葉に、弾かれる様に作業場の通用門を駆け抜けた

 

 

「あ、ありがとうなのにゃ…」

「えへへっ 気にする事無いのだ」

 

夕餉の食堂、向かい合って座ったタチアナに、アーニャは改めて礼を述べた

気にする事は無い、と言われても、命を救われたのだから、恩義を感じない訳にはいかない

 

「い、いいのだ?」

 

せめてもの感謝の証にと、トレイの上の砂糖を半分、彼女のそれに取り分けた

せめてもの、と言うか、それ以外に物理的な謝礼は不可能である

幸か不幸か、同じ立場にある彼女には、それでアーニャの心意気が十分通じたのだろう

幸せそうな笑みを浮かべて、彼女は一・五人分の砂糖の塊を平らげた

 

「……………………」

 

そう、とても幸せそうに…

アーニャは暫くの間、彼女のその表情を凝視していた

見とれていた、と言った方が正解かも知れない

生まれて此の方、こんなにも満たされた誰かの表情を間近に拝んだ事があったろうか?

多分、無い

当然、自分もした事も無いだろう

それは確信できる

 

何がそんなに楽しいのか…?

 

勿論、砂糖を沢山食べれた事だろうが、それだけでそこまで幸せになれるのか…?

 

多分、イレギュラーなのだろう

 

記憶に覚えは無いが、姉妹の様に育った筈の彼女は余りにも自分に… 自分達に似ていない

よくぞここまで生き延びられたものだ

ひょっとしたら、昨日今日生まれたばかりの"妹"なのかも知れない

だとしたら多分、長くは生きれないであろう…

 

「えへっ… タチアナはボトルフラワー工志望のタチアナなのだ! 好きなお花はクローバーなのだ!」

 

皿から顔を上げた彼女と目が合い、唐突に興味も無い自己紹介を披露された

或いは興味を持ったと誤解されたのかも知れない

 

「……アーニャなのにゃ… 今後とも宜しくにゃ……」

 

愛想笑いを浮かべる予定だったが、何故か自然と笑みが溢れた

彼女の屈託の無い笑顔に釣られたのかも知れない

明くる日から、アーニャはノルマの消化をタチアナとの共同作業に託した

何故かは上手く言えないが、彼女となら効率良く事が運べる気がしたのだ

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