呉鎮守府より   作:流星彗

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出撃

 

 その日の呉鎮守府は平穏そのものだった。佐世保から湊たちが訪れ、各々演習を行うなど、交流を進めており、両艦隊共に力を付けている。同時進行として、演習を行っていない艦娘の装備を預かり、凪たちが工廠で調整を行っていた。あらかじめ艦娘から意見を聞き、どのように調整するかを確認した上で行ったが、まずはものは試しと那珂の装備を調整した。

 結果的には那珂のクセに合わせた調整により、彼女には大満足してもらえたようで、佐世保の艦娘たちにも凪たちの調整の腕が評価されることとなった。湊もまた改めて凪の腕を再評価し、さすがは第三課で一年過ごしただけはあると、納得するほどのものだった。

 

「何はともあれ、上手くいったようで良かったですよ」

「おかげさまでね。君のおかげだ、ありがとう」

「別に。あたしはただ、ちょっと尻を叩いたくらいでしょう。決めたのはあんただ。おめでとうございます」

 

 ぶっきらぼうではあったが、神通とのケッコンカッコカリのことを祝福してくれる。凪もそれを素直に受け入れつつ、それ以上は言葉を重ねなかった。本心でいえばあそこで促してくれたからこそ、最高のタイミングだったといえる。

 あのまま、まだ悩み続けていたら神通はどうなっていたことだろうか。もしもの話ではあるが、悪い結果が起こっていたかもしれない。そう考えれば、あそこで相談し、促してくれたからこそ、湊にはそれ以上の感謝の言葉を送ってもいいだろう。

 しかし彼女の性格を考えれば、それは望まないに違いない。これは、胸の内にしまっておくことにした。

 

「それで、以前の話なのですが。他にもまだ悩み事があるとか」

 

 扇風機に当たりつつ、湊が話題を振る。艦載機を様々な角度から確かめながら、「ああ、それね」と凪は相槌を打つ。翼を少し調整しつつ、凪はどう言ったものかと少し考えるも、ゆっくりと話し始める。

 

「中部提督の正体について少し考えていたんだよ。最初は南方提督として、あの大和の前身である南方棲戦姫を生み出し、先代の呉提督を落とし、中部提督へと移籍。積極的に戦うのではなく、色々と深海棲艦の調整を進める性質。それが大和が朧気ながらも覚えている中部提督の特徴らしい」

 

 加えて前回の戦いからして、こちら側の戦力を推し量りつつ、基地型の深海棲艦もあわせて取るかのような戦いを進める。今までにない深海棲艦の戦い方をする中部提督は、一体何者なのか、それが気になって仕方がないと語れば、湊も同意するように頷いた。

 推察するポイントは、猫も含まれるだろうと言うと、湊は「……猫」とぽつりと呟く。

 

「うちに潜り込んできた白猫。あれがもし中部提督からのスパイと考えるなら、中部提督が人間だった頃、猫が好きだったとも考えられないかい?」

「…………白猫、機械いじり、海で死んだ……」

 

 何かに気づいたように目を細め、小さな雫が彼女の頬を伝った。それらの条件に合致する人物を、湊はよく知っている。もしも彼が中部提督だというのならば、それは何という運命のいたずらだろうか。

 白猫だけならまだいいが、もし黒猫もいるならば、ほぼ間違いはないだろう。しかし黒猫については目撃例がない。だからまだ確信は得られない。それでも何故だろうか。湊は胸のざわつきを止められない。

 そうなのではないか? と一度でも疑ってしまったら、それが溢れて止まらない。本当にそうならば、伯母の美空大将になんて報告すればいいだろう。そんな不安すら覚えていた。

 湊の異変に、凪も艦載機から彼女へと視線を移して気づく。机にそれを置くと、「心当たりが?」と問いかけてしまう。

 

「……ええ。凪先輩にも話したことがあるでしょう――」

 

 その続きを言おうとしたとき、二人の懐からアラームが鳴り響く。それは緊急通信を知らせるものであり、すぐさま通信機を取り出すと、「――大本営より各鎮守府の提督へ通達する」という男の声が聞こえてきた。

 

「二つの海域にて、深海棲艦の大勢力が確認された。一つはアリューシャン列島、もう一つはミッドウェー諸島。この時期に、これらの海域にて活動する深海棲艦、これを見過ごすわけにはいかない」

「ミッドウェー諸島……!」

 

 通信から聞こえてきた二つの海域に、思わず凪も声を漏らし、湊も息をのむ。通信の向こうの男もまた怒りに震えるような声で、言葉を続ける。

 

「かつて我らが敗北を喫したミッドウェー海戦、それを彷彿とさせる敵の動き。明らかな挑発であろう。だが! 我ら日本海軍はそれを打ち砕いてこそ、あの悪夢を真の意味で打ち払えよう! 日本の鎮守府に属する提督たちよ、今こそ力を結集する時である! アリューシャン列島、ミッドウェー諸島へと赴き、敵勢力を殲滅せよ!」

 

 今、大本営は何と言った? と凪は思わず湊と顔を合わせた。日本に属する提督の力を結集させ、かの海域へと赴けと、そう命令を下したのか?

 確かにかつての大戦においてミッドウェー海戦は、日本海軍にとって悪夢のような戦いと言えるだろう。だが、だからといってまさか日本の鎮守府の力を全て使って、新たなるミッドウェー海戦を行うというのか?

 これは確認しなければならないと凪と湊は工廠から走り出し、執務室へと駆け込んだ。すぐさま美空大将へと通信をつなぐと、先ほどの通信について問いただした。

 

「これは正式な命令として発令された。アリューシャン列島、ミッドウェー諸島へと、それぞれの鎮守府の戦力をぶつけ、深海棲艦を殲滅する。それを以ってしてミッドウェー海戦を勝利で飾ろうということらしい」

「しかし伯母様、それでは本国をがら空きにすることになりますよ?」

「大本営が抱える艦隊が守備を務める。完全に無にするわけではない、というのがあれらの言だがな、私としては賛同できん。ミッドウェー海戦に対する思いを利用した挑発、それを捨てきれない」

 

 煙管を吹かしながら、美空大将は苦い表情を浮かべている。彼女としても、反対したかったらしいが、会議において多数決によって、総力を挙げて深海棲艦を殲滅する方針が決まったようだ。

 多数決で決められたならば、異議があったとしても覆すことはできない。やむなく、先ほどの内容で命令が下されることとなったようだ。

 

「……親父が懸念した流れが、こういう形で定まったのならば、文字通り深海棲艦はこの戦いで、ある意味決着を付けようとしているでしょう。かつてのミッドウェー海戦に見立てた作戦というのが憎い演出です。だからこそ、私は奴らの動きをこう推察します」

「聞かせてみろ」

「かつてはアリューシャンに敵戦力を誘い込んで集め、本命であるミッドウェーを叩こうと考えた日本海軍。しかしその作戦は読まれ、ミッドウェーにおいて艦隊決戦を行い、更に采配の不備により、一航戦をはじめとする多大な犠牲を出して敗北した。それをなぞるような動きをすることで深海側は我々を誘い、かつての悲劇を覆させようとしているのは間違いないでしょう」

「ミッドウェー海戦という大きな餌がありますからね。絶対に大本営は乗ってくるだろうと考えて、ミッドウェーに我々の戦力を集め、逆にアリューシャンに敵主力が集結。アリューシャンに向かっていた艦隊を殲滅し、更に側面から叩いてくる、とか?」

「それも考えられるね。でも、アリューシャンやミッドウェー、どちらも囮だとすると?」

「――本命は、ここか」

 

 カン、と煙管を灰皿に叩きながら、美空大将が頷く。絶対に誘いに乗る、その推察は今、大本営の決定から的中されている。全力を以って悪夢を晴らしに行くつもりが、更なる悪夢が忍び寄ってきている状況。考えられないものではない。実際に本国の守りを薄くすることは、美空大将も懸念していることだ。だからこそ反対していたのに、それは叶わなかった。

 元より深海棲艦は人類の敵だ。人間同士の戦争ではない。深海棲艦の目的は人類の滅びである。敵戦力を撃滅し、力を削ぎ落し、降伏を促す戦争ではない点を間違えてはいけない。人類の滅びが目的なのだとしたら、日本海軍の中枢である大本営を直接攻め入る可能性を考慮するのは自然なことだ。

 現在は大本営を中心に各地に鎮守府があり、国を守っている状態だが、ここでミッドウェー海戦を意識させ、それぞれの鎮守府から戦力を送り出したとするならば、国の守りが薄くなる。そこを狙ってこない理由がない。

 

「でもどうするんです? あたしたち、出撃命令が大本営から下されているんでしょ? それを無視してここに待機すれば、命令違反として逆に処分を受けてしまう。その上、本当に奴らが来なかったら、目も当てられない」

「命令は遂行してもらう。だが、艦隊の一部を置いていく。それならば命令違反にはならないでしょう。海藤、湊、あなたたちの戦力の一部を、そこに置きなさい。それによって向こうでの戦力は落ちるでしょうが、しかし複数の鎮守府による作戦なのだから、大きなマイナスにはならないでしょう」

「私としては許可していただけるのであれば、ぜひともそのようにいたしますが、よろしいのですか? 確かに命令違反にはなりませんが……」

「かまわない。第一にすべきは国を守ることだ。深海棲艦を殲滅することは大事ではあるが、国防を疎かにするわけにはいかない。当たり前のことだ」

 

 そして出撃する際の動きについても説明される。

 アリューシャン列島には大湊と舞鶴が、ミッドウェー諸島には横須賀、呉、佐世保が出撃することになったようだ。大湊の宮下提督は冬に会ったことがあるが、横須賀と舞鶴の提督は凪と湊は会ったことがない。

 そもそも美空大将と派閥が異なる西守大将の派閥に属している提督とのことなので、馬が合わないだろうし、敵意すらあるかもしれないといわれているくらいだ。余計な諍いが発生しかねないため、会わないようにしていた。

 しかし今回の作戦では、ついに横須賀の提督と顔を合わせるだけでなく、肩を並べて戦うことになってしまう。それもまた不安要素になってしまう。

 

「こればかりは二人が上手くやってくれとしか言えん。私はお前たち二人だけなら心配はしてない。それほどの信頼を預けている。……が、横須賀の北条に関してはわからない。あれは西守派の中でも長い輩だからな。だが……うむ、もしかすると、万が一に上手くいく可能性もあるやもしれん。確証はないが」

「……承知しました。何とか、上手くやってみましょう」

「健闘を祈る」

 

 頭が痛いことだが、しかしやらなければならない。ため息をつきながらも、二人は放送を流し、艦娘たちを一堂に集めることにした。広場に集まった呉と佐世保の艦娘たちに、凪はミッドウェー海戦が始まることを告げる。すると、その作戦名に艦娘たちがざわつきはじめた。

 無理もない。一部の艦娘にとってもまた、艦だった時から刻まれる、重大な海戦なのだから。一航戦と二航戦の四人にとっては、戦没した戦いでもある。その表情に影が差し込んでいた。

 

「だが君たち全員を出さない。一部の艦隊は、ここで待機してもらい、敵の奇襲から日本を守る役割を担ってもらう」

 

 何故そうするのかについての説明も行われた。推測が混じる話ではあるが、最近の深海勢力の動きからしてあり得ない話ではない。特にミッドウェー海戦となれば、ウェーク島の戦いを指揮したと思われる中部提督が関わっている可能性も捨てきれない。

 ならば、奇襲を仕掛けるのが中部提督という可能性が高い。それを防ぐための戦力を残すという意図に、艦娘たちも納得した。

 

「呉からは主力艦隊、一水戦、二水打を残す。が、二水打から木曾、君が外れ、大淀と入れ替える。大淀、君にはここに残り、俺の代わりとして長門と共にまとめてほしい。部隊として出撃するのも許可する」

「承知いたしました。お任せください」

「うちからは主力艦隊、一水戦、二航戦を残す。……上手く呉の部隊と組み合わせて戦って」

 

 それぞれが残した顔ぶれは以下の通りとなった。

 呉鎮守府より、

 主力艦隊、長門、山城、鳥海、摩耶、翔鶴、瑞鶴。

 第二水上打撃部隊、大和、日向、ビスマルク、鈴谷、大淀、村雨。

 第一水雷戦隊、神通、北上、夕立、綾波、Верный、雪風。

 

 佐世保鎮守府より、

 主力艦隊、扶桑、霧島、羽黒、那智、千代田、龍驤。

 第二航空戦隊、蒼龍、大鳳、瑞鳳、大井、天津風、夕雲。

 第一水雷戦隊、那珂、木曾、陽炎、暁、朝潮、大潮。

 

 以上の艦娘たちがこの呉鎮守府に残されることとなった。残された艦娘たちのリーダーは、自然と呉鎮守府の秘書艦でもある長門が務めることとなり、呉の大淀と合わせて、それぞれの艦娘をまとめることで合意した。

 そんな彼女を呼び出し、少し離れたところに移動すると、凪は懐からお守りを取り出す。大湊を出立する時に宮下から渡されたお守りである。彼女曰く、悪しきものを寄せ付けないお守りだそうだが、しかし神社生まれで、色々視える人だ。思った以上の効果は秘められているだろう。

 

「このお守り、良いのか? こういったものは神通に持たせてやるのがいいだろう?」

「もちろん神通も大切さ。でも、彼女にはあの指輪がお守りとなってくれるだろう。しかし君にはない。……他の艦娘たちも大切だが、長門、君もまた俺にとって大事な存在だし、君にもたくさん世話になったし、支えられた」

 

 呉鎮守府の秘書艦として、実に多くのことをしてくれた。そんな彼女の近くにいられない戦いは、今回が初めてだ。だからこそ凪は、神通とはまた別のお守りとしてこれを持たせたかったのだ。

 

「俺から渡せるのはこれだけだ。これを胸に、どうか無事に戦いを終えてほしい。何事も起こらないことを祈るけれど、もしも本当に襲撃が来た際には、よろしく頼むよ」

「任された。提督がいなくとも、あなたの意思はしっかりと私の胸にある。国を守るため、全力を以ってして対処しよう。あの宮下提督によるこのお守りもあるのだ。きっと何があっても大丈夫だろう」

「心強いよ」

 

 不安はあるが、胸に手を当てて不敵に笑う長門は、やはりこの上なく頼もしい。それに加えて宮下のお守りがあれば、何があったとしても大丈夫だろう。

 でもなぜだろうか。胸がざわつくし、妙に腹も痛む。ああ、これはいつもの不安による虫の知らせだけではない。何かが起きようとしているのだ。来ないでくれと願おうとも、恐らく敵は動いている。

 その不安が的中するのはミッドウェー海戦なのか、それともミッドウェー海戦に対処すべく戦力を投入し、空いた本国を奇襲する部隊によるものか。それは凪にもわからない。ただ幼いころから嫌な予感というものは、彼にとって否応なく的中し、凪に現実を見せつける。今回もまたそれから逃げることはできないだろう。

 せめて最悪だけは避けてほしい、そう願わずにはいられない。

 

「ご安心ください、提督。大淀さんだけではありません。戦場では私もまた、長門さんを支えます」

 

 そう言って神通も話に加わってくる。その左手にはあの日渡したケッコンカッコカリの指輪がきらりと光っている。めでたい日からあまり日数は経っていないというのに、まさかこのような大きな戦いが起きるとは思いもしなかった。

 だがミッドウェー海戦でなくとも、いずれ艦娘は戦場に赴くものだ。規模の大小はあれど、常に死と隣り合わせの戦場で戦う存在であることは避けられない。提督に出来るのは、彼女たちが無事であることを信じる、それだけである。

 

「うん。そうだね。君たち二人が揃えば、きっと大丈夫だろう。みんなをよろしく頼む。そして全てが終わったら、生きて俺たちをここで出迎えてくれ」

「もちろんです。私たちは沈みません。あなたのいないところで、消えるような真似はいたしませんよ」

「そうだ。……それに不本意ながら、まだまだ面倒を見なければならないやつもいるからな。あれも成長しているのだし、良き旗艦に成長するまでは、私もおちおち沈んでもいられん」

 

 と、苦笑を浮かべながら長門は大和を見やる。この一年で不思議な縁が結ばれ、いい関係を築けている相手だ。第二水上打撃部隊の旗艦として任されることで、より成長をしているが、長門から見ればまだまだといえる。そんな彼女がどこまで成長するのか、長門としても楽しみで仕方がない。

 長門が認めるくらいのものにまで成長するのを見届けるまでは、死ぬわけにはいかない。そう心に決めているからこそ、このような状況であろうとも、自分に任せろと、頼もしく笑えるのだ。凪の不安を吹き飛ばすように、ぐっと拳を握り締める長門。その手には、紐で結ばれたお守りが静かに揺れている。

 信じよう。ここにいられなくなった自分にできるのは、そんな彼女の手を握りしめ、自分の額に当てて静かに祈るのみ。そして神通の手も握りしめ、ただ静かに彼女もまた無事であるようにと祈るのだった。

 

 

「――そう、これが運命」

 

 命令を受けた彼女、宮下灯は静かに頷いた。彼女のもとにも大本営からの通信による命令が下された。了承はした、したが、彼女とてそれを全面的に納得したわけではない。

 アリューシャン列島に自分が赴くのは構わない。大湊警備府の位置から見ても、北方海域に出撃するならばこの大湊は地理的に言っても合理的だ。だが、なぜ舞鶴を加える必要があるのだ?

 更に言うならば、ミッドウェー諸島にも呉と佐世保が行けばいいのだ。二つの鎮守府は提督同士が親密な関係にあるのだから、上手く連携を取って戦うことができるだろう。なぜそこに横須賀を加える必要があるのだ?

 これはやはり、西守派閥の思惑が絡んでいるのだろう。この一年で呉の凪が戦果を次々と挙げ、先日はウェーク島での戦いで呉と佐世保の連携の良さも示してしまった。美空派閥からすれば、この二人の活躍は彼女らにとっても大きなプラスとなっている。

 対して西守派閥にとってはなんのプラスにもなっていない。この一年だけで大きく差を付けられたようなものだろう。そんな時に、このミッドウェー海戦が行われるとなれば、それに食いつかないはずがない。

 横須賀と舞鶴をそれぞれの戦場に加えたのは、絶対に戦果を挙げるのだという派閥の意図が感じられる。そのためによもや本国の防衛を疎かにしようとは。大湊と呉と佐世保、この三つで事に当たり、横須賀と舞鶴で本国を守れればそれでいいだろうに。横須賀が太平洋方面、舞鶴が日本海で睨みを利かせられるだろうに、それすらも捨て去るとは、愚かとしか言いようがない。

 

「これだから派閥の争いは面倒なんですよ。余計な意図が入るから、大事なものを取りこぼす」

 

 ぼやきつつ、机の上に置かれている器から視線を外した。器に満たされた水には、黒いしみがじわじわと広がり、揺らめいていた。宮下が手を振れば、その黒いしみは消え去ったが、先ほどまで視ていたものは、もう彼女の脳裏に残っている。

 あの日見た凶兆はより大きくなり、その時が近いのだということを知らせていた。まさかミッドウェー海戦とは宮下も思いはしなかったが、納得はいく。彼女とてミッドウェー海戦という大きな事件は意識せざるを得ない。

 というよりも、凶兆は誰にでも訪れるものだろう。もしかすると宮下にとっても良くない未来が待ち受けているとも捨てきれない。

 だが、それがどうしたと気を引き締める。どのような形であれ戦場に赴くのだ。常に死は付きまとう。占いは道を示してくれるツールでしかない。吉兆や凶兆を占いはするが、その全てに宮下は従うわけではないのだ。

 彼女にとって占いは心構えをするための前準備でしかない。凶兆が示されたなら、それを現実のものにしないよう、注意して事に当たろう。そう意識するためのもの。

 

「鳳翔、皆に通達を。我らはこれより、アリューシャンに向かいます。迅速に準備を整えてください」

「承知いたしました」

 

 一礼して鳳翔が部屋を後にすると、宮下は窓の外を見やる。

 北方海域は何度も彼女の艦娘が哨戒し、戦場としてきた海域だ。アリューシャン列島にも何度か赴いたが、今回ほどの規模の艦隊が結集したことはあまりない。

 元よりなぜか北方海域の艦隊は、積極的に日本へと攻撃を仕掛けてくる様子はなく、ロシア方面を主に戦場としていた節がある。とはいえ、何度かロシアと連絡を取った限りでは、北方海域からは規模の大きな攻撃もそんなにはなかったとか。強かったのはロシア北方からの襲撃くらいで、それと比較すると小さめだったらしい。

 それから推察するに、北方海域の深海棲艦に積極性はなく、様子見程度に戦いを行うだけの存在だろう。それがいよいよ牙を剥いてきた、そう考えられる。

 

(深海提督……その一人、北方提督とやらがいるならば、今回その影を捉えることができるでしょうか。このわたしの艦隊と何度も争った勢力の主。はてさて、如何ほどのものでしょうか)

 

 知らず、胸が躍る宮下だが、その表情に笑みはない。ただ静かに、小さく、北方提督への戦意を昂らせるだけだった。

 


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