それは青天の霹靂といえるものだった。
クリスマスイブ、家に帰ってきた海藤迅はただ一言、「クビになってきたわ」と苦笑を浮かべた。母親も「……そう」と返し、鞄とコートを受け取っている様子を、凪は呆然と見ていた覚えがある。
父親の話は学校の友人にも自慢できるものだった。遠い海で活躍している父親の事は誇らしいもの。寂しいと感じる事はあっても、しかし国のために戦っているのだ、と寂しさを押し殺した。
そんな彼が、海軍をクビになったというのは信じられない事だった。
「おう、凪。……すまんな。父さん、提督じゃなくなってもうたわ」
「ど、どうして……? だって父さん、今まで、ずっと……」
「……ま、しゃーなしやな。それより、今日はイブやろ? 美味いもん食いに行こうやないか」
ぽんぽん、と頭を撫でながらからからと笑う。
しかし凪は俯き、納得がいかないと体を震わせていた。あれだけ活躍していたのに、どうしてクビにされなければならないんだ。人類の脅威である深海棲艦相手に戦い続けていた海藤迅は、海軍にとっては大事な人材だったはずだ。
どんな理由があってこんなことになったんだ。
でもその理由は、数年間凪は知ることは出来なかった。迅が凪に語らなかったという事もあるし、母親に対しても彼の口から語らなかった。彼はただ甘んじてその処分を受けたのだと母親も察していた。凪の頭を撫でてやっている迅の笑顔は、無理に作ったものだと気づいていたらしい。
その日は外で食事をとり、クリスマスの日は母親が腕によりをかけて作り上げた料理をいただいた。その場にはサンタ服を着た迅が場を盛り上げようと頑張っていた。凪もそれに一応乗りはしたが、やっぱり前日の出来事が尾を引いてしまっていた。
せっかくの家族団欒でのクリスマス。
心から楽しむことは出来なかったのだった。
それから数年は知らなかったが、アカデミーに入学し、資料室で過去の出来事を調べた事でようやく知ることが出来た。
当時海軍は近海周辺を平定し、新たなる資源地の開拓のためにマレー方面へと手を伸ばしていた。
海藤迅はその作戦における司令官を務め、二人の提督とその艦娘達を纏める事となっていた。作戦は問題なく進行し、敵艦隊の本隊が集まっていた沖ノ島海域でその事件は起きる。
それまでの深海棲艦ではエリート級までが確認されており、数は少ないとはいえ艦娘達もまた練度が少しずつ高まってきていた状態。そして提督もまた連戦連勝を重ねた事で浮ついていた状態にあった。
要は慢心していたのだ。
海藤迅という頼もしい司令官の指揮の下ならば、自分達に負けはない。
しかし戦果の大半を迅に持っていかれるのも我慢ならない。迅も戦っているが、自分達もまた戦っているのだ。迅がそうであるように、自分達も今以上の地位を獲得したい。そのために敵本隊を壊滅させる、その大部分の戦果が欲しいと欲を持ったのが仇となる。
本隊と会敵し、順調に敵を殲滅していた事で更に気分が乗ったのだろう。迅が止める間もなく、部下の一人が更なる追撃を艦娘に命じた。
その時、海から新たなる戦力が出現した。
それがル級フラグシップ、ヲ級フラグシップだった。
今まで見た事のない新たなる深海棲艦。それによって生まれた混乱、困惑が隙を生み、部下の艦娘達が次々と撃破されていく。それを救出すべく、迅の艦娘達も動き、混乱状態にある艦隊を迅が何とか纏めていった。
敵勢力は退ける事が出来たが、被害は大きかった。先走った部下の艦娘の大半だけでなく、迅の主力艦娘も数人轟沈する事となった。
作戦自体は沖ノ島海域の平定により成功したが、しかし完全に部下を諌める事が出来ず、多数の艦娘の轟沈という結果もある。
責任は司令官である迅に向けられ、その責任を取る形で辞職する事となった。
だが、この話の裏ではやはり他の軍人らの思惑もあったらしい。
ただの海軍の人間だった海藤迅。
深海棲艦の出現から艦娘との意思疎通の早さ、妖精とも繋がることが出来たという事実。そして持ち前の知識と才能から横須賀鎮守府の提督に任じられる。
海域平定や資源開拓など様々な実績を残し、なおかつどのように艦娘達を運用するのか、どういう艦娘が求められるかというレポートを第三課にも提出。
これにより第三課のメンバーからも信頼され、艦娘達にも調整が施されていったという。
彼の後に続くように呉や大湊、舞鶴に佐世保といった鎮守府も開かれ、提督が着任する。迅が拓き、示した道に素早く乗れたのは少数で、他はまだまだ試行錯誤の中にあった。
無理もない。
当時はまだまだ深海棲艦だけでなく、艦娘についても不明な点が多かった。そんな中でいち早く順応し、どのようにすればいいのかまで考えて動いた迅がある意味異常だった。
順調に出世を重ねていく彼の姿は、同期や上にいる者からすれば羨ましいというより、嫉妬、脅威の対象になっていた。優秀な人間というのは頼もしくはあるが、しかし同時に敵を作りやすい。
だからこそただの一度のミスだけで退陣しろ、という雰囲気が容易に作られ、そして迅はその空気を察して自ら辞職した、というのが真相に近しいものだったらしい。
そして迅が提供した情報や資源地などの成果は、そのまま大本営と後に続く提督らの役に立てるのだった。
この事実を知った凪は静かに憤慨した。
よもや大本営が、同じ海軍の者が父の出世を妬み、排除しにかかったせいで父が海軍を辞める事になっていたなんて。どうして大本営も引き止めなかったのか。あれだけ大本営に貢献した父を、どうして……、と。
だが、止めなかった者がいないわけでもない。
第三課に所属する者達が抗議していたらしいが、結局それが通る事はなかった。海藤迅は一般人となり、今も静かに暮らしているのが現実である。
凪が第三課に所属したのも、こういう背景があっての事だ。趣味という事ももちろんだが、父に味方してくれた第三課ならば、自分も鬱陶しい奴らに会わずに過ごせるだろうと考えての事だった。
でも今はその第三課からも離れ、こうして呉鎮守府にいる。別に今はそれに不満があるわけではない。艦娘達を守らねばならない、という意識もちゃんと持てている。
だが、今も大本営の上に座する者達はあまり変わっていないらしい。美空大将がそんな彼らを相手に何かしているようだが、詳しい事は知らないし知ろうとも思わない。
(……そういえば、美空大将殿も元は第三課出身だったか)
第三課の作業員だった彼女は艦娘を生み出し、調整する事に対して才覚を発揮し、のし上がる事となった。迅もどのようにすればより艦娘の力を振るえるか、扱えることが出来るかのレポートを提出していたらしい。
となればその頃に二人は知り合っているのではないだろうか。
(そう考えると、俺の事を美空大将殿が知っていてもおかしくはないのか)
彼女が凪に目を付けた理由として、あり得ない話でもない。
ベンチに腰掛けながらそんな事を考えていると、いつの間にか目の前でじっと凪を見つめている夕立がいた。不意に現実に戻ってきた凪は「――ん? うぉっ!?」と肩を震わせるくらいに驚いてしまう。
危うく落ちかけたが、夕立がさっと支えてくれたのでそうはならなかった。
「そ、そんなに驚かれるとは思わなかったっぽい……。大丈夫? てーとくさん」
「あ、ああ……うん、大丈夫。ありがとう」
「何か悩みがあるの? あたしで良ければ聞くよ?」
「そう見えたのかい?」
「うん。ちょっとだけ不機嫌そうな色が見えたっぽい。何かを思い出している風にも見えたし、昔の事を気にしてるのかなって」
そういえばこの夕立はそういうのに気付くところがあった、と凪は思い出した。
凪の調子の悪さにも気づき、声をかけてきたり見舞いに来てくれたりしていたっけ。
グラウンドには順調にパーティ準備が整っており、机が並べられるだけでなく、ステージも作られている。工廠の妖精がその作業を手伝っているせいか、かなりの早さでそれが組み上げられているようだった。
凪も何か手伝おうとしたのだが、「提督はそこで見ているだけでいい」と言われてしまい、こうしてベンチに座っていた。そうしていると、先程の話で昔を思い出してしまい、ぼうっとしてしまったというわけだ。
「なに、気にする事はないよ。そうだね、あえて挙げるならこうして手伝いもせずに見ているだけ、というのが気が引けてしまうというのが悩みかな? ははは」
「提督は報告書を書いたり、私達の様子を見に来られたりと忙しかったでしょう? 今はゆっくりしていただきたいのですよ」
そう言いながら神通が、冷えた紅茶が入ったペットボトルを手に近づいてきた。どうぞ、と手渡してくれたそれに軽く口をつけながらお礼を述べ、「ゆっくり……か」と苦笑を浮かべる。
「提督は一度倒れられていますからね。仮に倒れたとしても私がフォローいたしますが、そうなるよりかは倒れないようにしていただいた方がよろしいです」
泊地棲姫を倒した後の事を言っているのだろう。前科があるのだから余計に倒れるな、と釘を刺しに来たようだ。
「ソロモン海戦の後、ろくに休まずに弾着観測射撃についての訓練、報告書の作成と動き続けておりますよね? 多少は休息をとっていらっしゃるようですが、それでも少しずつ疲労は蓄積します。うっすらと、ついておりますよ?」
と、目元を示してきた。もしかすると、クマが出来始めているのだろうか。と、つい手をやってしまった。
「うんうん。提督さんに倒れられたら、あたし達、とっても困るっぽい! クリスマス、楽しむことが出来ないもん」
「ええ、そうですね。私達の為にも、佐世保の方々の為にも、きちんと休むこともまた提督の仕事だと私は思います。どうか、お聞き入れください」
「……わかったよ。そこまで言われちゃあ休むしかないじゃないか」
「ありがとうございます。では夕立ちゃん、続きをしましょうか」
「はーい」
一礼し、夕立を連れて神通が作業に戻っていく。
このままここで見守るのもいいが、戻って一度横になり体を休めた方がいいかもしれないと立ち上がる。すると、どこからかにゃーん、という小さな声が聞こえてきた。
なんだろうか、と見回してみると、離れたところで子猫が歩いているのが見えた。白い子猫だ。どこから迷い込んだのだろうか? と凪はそっと近づいて腰を下ろしてみる。
それにしても小さい。子猫というにもかなり小さな猫であり、その表情が何とも言えない味がある。
「……まさか、妖精猫か?」
烈風犬もこのくらいの小ささをしていたため、そう推測した。となると、どの装備妖精の猫だ? と思い返そうとするが、子猫は凪を警戒したのか、じりじりと後ずさりし、たたたーっと鎮守府の方へと逃げていった。
逃げられてしまったな、と小さく息をつくが、妖精ならば妖精同士で何とかするだろう、と放っておくことにする。工廠妖精とならば多少なりとも通じ合っているが、それ以外の妖精となると凪もまだまだ理解が進んでいるわけではないのだ。
私室へと戻り、鏡を確認してみると神通が指摘したようにクマが出来かけていた。しかしそれはよく見ないとわからないようなうっすらとしたものなのだが、よく気づいたものだと思う。それだけ、普段の凪の顔を知っていて、微細な変化も見逃さないという事なのだろうが……そんなに心配させてしまっているのだろうか。
心配といえば、と思い出す。
年明けて一旦帰る事を親に言っておかないと、と電話を取ることにした。少しコールを置いて「はい」と相手が出てくる。
「……どうも、母さん」
「あら、凪。どうしたんよ?」
「まあ、うん。年明けにさ、そっちに一度帰ろうか、と思ってさ。その報告を」
「あらそう。わかった。父さんにも言うとくわ。あ、それと今日はイブやったな。メリークリスマス。なんかお祝いとかするん?」
「ん、一応は」
「そう。……艦娘に囲まれて楽しめるくらいにはなっとるんやろうな?」
「大丈夫や。何度か宴会もしてるしな、艦娘に囲まれるくらいなら、どうということはなくなっとる」
「ふーん、あんたがなぁ。そら半年も提督やっとったら、いい加減慣れるわな。母さん、安心したわ。その調子で、ええ娘も見つけるんやで」
「……母さんもそういう事気にするんかい」
いい歳した女性というのは、どこもそういうものなのだろうか、と辟易し始める。「なんや、他の誰かにも心配されとるんか?」とどこか面白そうな声で訊いてくるので「いや、別に?」と素知らぬ顔をしておく。
「そりゃあ母さんも父さんも、そろそろええ歳しとるからの。孫も見たくもなるもんよ。せやかてうちの息子ときたら、ぼっちで青春時代を過ごすっちゅうことをやらかすやん? こんなん心配もするやんか」
「一応完全ぼっちではないと言っておくで、母さん」
「そうやったな。……ま、何にせよあんたがそうやって大勢の人らとパーティしとるんは、親としても成長を喜ぶもんや。色々積もる話もありそうやし、年明けを楽しみにしとるで」
「……ん」
「父さんにも何か言うとこか?」
「……いや、親父とは直接会って話すよ」
電話を終え、一息ついた凪は神通に貰っていた紅茶を軽く飲む。
何も手伝わないというのはやっぱり気が引けるが、しかし体を休めるというのも大事なこと。凪はベッドに横になり、目を閉じるのだった。
その頃、会場の準備を行っていた神通達の下に淵上が近づいていた。
気配に気づいた神通が振り返り、「どうかされましたか?」と問いかける。淵上はきょろきょろと辺りを見回し「海藤先輩はどこに?」と問い返した。
「提督でしたら、先程お帰り頂きました。ここ最近あまり休めていらっしゃらないようでしたので、この機会にお休みになられたら、と」
「まだ昼なのに?」
「一度倒れた事がありますからね」
「ああ、そうなの。そりゃあ二度目を避けたくはなるわね」
「……あなたも、少し疲労の色が見えますが」
「あたしは問題ないわ。恐らく海藤先輩ほどに動いてはいないから。……でも、そう。となると、これはどうしたものかしら」
そう言ってメモ書きをひらひらとさせる。「拝見しても?」と神通が断りを入れると、どうぞと渡してくれた。
「うちの那珂がステージを作るなら、と色々とプランを提案してきてね。もてなされるだけでは性に合わない。こっちからも何かをやらせてくれ、みたいな感じで。それで海藤先輩にどうするかを相談しようかと思ったんだけど」
「那珂ちゃんですか。……ふむ」
川内型の三女にして神通の妹。呉鎮守府にはいないが、知識としては共有されている。
艦隊のアイドルを自称し、元気でなかなかにハイテンションな娘だ。自称しているものの、その見た目や振る舞いはまさしくアイドルといってもいいくらいであり、そういう意味では提督らによく認知されている。
夜戦大好き長女と艦隊のアイドルの三女、それに挟まれる常識人な次女、というのが川内型の認識となっているのだ。
例え鎮守府におらず、一度も会ったことがなかったとしても、これらの情報や性格は艦娘ごとに生まれた時から存在している。そのため、メモ書きに書かれている内容や淵上の話を聞いて、那珂らしいと苦笑を浮かべることも出来る。
「ステージの出し物とかはいいけれど、勝負まで書いてるから。そちらの艦隊の都合もあるでしょう?」
「――勝負、ですか」
神通の目の色が変わった。
確かにメモ書きには鎮守府対抗○本勝負、というものも書かれている。どういった勝負内容にするかも提案されており、神通は微笑を浮かべて淵上を見つめる。
「私どもとしては構いませんよ。こちらも血気盛んな娘達が多いですからね。例えレクリエーションだとしても、挑まれれば受けて立ちましょう」
「……ああ、そう。で、勝負内容とそれに必要なものとか、色々あるけれど大丈夫?」
「問題ありません。我が鎮守府の工廠妖精達は提督とよく作業をしていらっしゃいますからね。何かを作る事に関して経験値は多く得ているのですよ。小道具なども張り切って作ってくれますよ」
「さすが、元第三課。提督になってもまだやってるんだ……」
「趣味と仰っていますが、それには留まらないのがあの方です。暇があればいつでもやってらっしゃいますので、妖精達も練度を高めて……恐らく他の鎮守府の工廠妖精と比べると差がはっきりするかもしれませんね」
そう言いながらステージで作業をしている工廠妖精を見つめる。「それと」と神通は肩越しに振り返って、
「勝負をするならば報酬も必要ですね。その方がより勝たねばならない、と気合が入るというものです」
「確かに。でもいいの? こんなの相談しておいてなんだけど……」
「お気になさらず。それで明日のパーティが少しでも盛り上がるというならば、これくらいどうということはありませんよ。では、場所を変えて細かいところも詰めていきましょうか」
鎮守府へと促しながら神通が先導するように歩き出す。
ただクリスマスパーティするだけと思っていたが、これは少し楽しくなりそうだ。なんだかんだ言って神通は少し戦いというものが好きらしい。例えレクリエーションだとしても、やるからにはきっちり勝たなければいけない性分である。
静かな心に、沸々と沸き立つもの。
冬のメインイベントだが、これは熱くなれそうだ、と感じてくるのだった。