「――異常なし。帰還しなさい」
加賀のその指示に妖精達が応える。
日本近海にやってきた加賀から放たれた艦載機による哨戒だ。護衛として摩耶を旗艦とした水雷戦隊が周囲を警戒しているが、どこにも異常はない。
異常がないのはいいことなのだが、最近はそうでもない。
「今日もまた異常なし、か。どうなってんだかね」
「静かなのはいいことよ。何事もないなら、それでいいわ」
「ま、そうなんだけどさ。それがここまで続くと、不気味さを感じるってもんだぜ」
「……そうね。それには、同意するわ」
静かな海。
それはいずれ叶えるべき人類と艦娘達の希望にあふれた夢。擬似的ではあるが、目の前でそれが叶っている。
しかしその海を見つめる加賀や摩耶の眼差しは疑心に溢れていた。
呉鎮守府へと戻ってきた凪。
新年を迎えてもやる事は変わらない。三が日の休日を終えれば、また遠征を行って資源を増やし、空いている艦娘達は訓練を行って力をつけていく。
大淀の件は美空大将に伝えたので、調整完了を待つのみ、と大淀に伝えたのでひとまずはこれで置いておくことにする。
朝は大淀と書類整理を行い、時に弾着観測射撃についての書類を書き進めていく。昼からは工廠に向かって装備いじりをする。
それを一月の大半で過ごしてしまった。新年を迎えはしたが、それまでのばたばたした空気はなく、実に平穏で変わり映えのしない日常となってしまったのだ。
弾着観測射撃のために主砲の調整を日々行っているが、凪と夕張の手だけではそろそろ限界が見えてきた。
二人に出来るのは微調整と補修ぐらいなもの。艦娘ごとのクセを加味して使いやすくし、命中率向上などに努めるだけだ。装備の性能向上も多少は出来るが、大きな変化が起きるわけではない。それにも限度がある。
それが出来るとしたら艦娘の装備を構築できる第三課のスタッフだけだろう。それも当時凪がいた部署よりも更に上の部署のスタッフだ。
凪がこうして装備をいじることが出来るのは、第三課にいた経験に基づいて作業しているおかげ。だが第三課全体でみれば下の方なので、これくらいしかできないのだ。
それでもやらないよりはやった方が少しでも良い結果になる。凪自身の趣味という事もあって、今日もまた工廠で作業をする。
「――ふぅ。主砲調整はこれで全部かしら?」
「……ん、そのようだね。悪いね、夕張。君も訓練があるのに」
「いいのよ。私もこういう作業、好きだしね。……それに弾着観測射撃に関しては、私は参加できないからこっちで腕ふるっちゃうわよ」
夕張は残念ながら偵察機を積むことが出来ない。
そのため最近の訓練に追加している弾着観測射撃に関しては夕張は戦力外となっている。
通常の砲撃や雷撃訓練などを終えれば、こうして工廠にやってきては凪と一緒に整備をする。
去年から変わらない、夕張の日常。最初は驚いた作業着姿の夕張ももはや慣れたものであり、むしろ似合っていて自然体だと思えるくらいになっている。
「お茶にしますか? 提督」
手が止まったのを見計らって大淀が声をかけてくれる。机には淹れたてのお茶がカップから湯煙を立ち上らせていた。作業もひと段落ついたのでありがたとうと礼を述べて頂くことにした。
以前もそうだったが、工廠での休憩時間には大淀が淹れたお茶を頂くようになっている。大淀にも他の仕事があるのだが、手が空けば凪の様子を見に来てタイミングを窺っているようだった。
恐らく年末の件があってのことだろう。
少し積極的になっているらしい。
凪としても何となく察しているので、仕事などに不都合がない限りは大淀の好きにさせておくことにしている。
「――ここにいたか、提督」
入口から顔を出したのは長門だった。その手には報告書らしきファイルを手にしている。
席についている凪に近づくと、それを手渡してくれた。
内容としては弾着観測射撃の訓練方法のまとめである。何も知らない艦娘達が、どのようにして一から弾着観測射撃の技術を学んでいき、身に着けさせるかを項目にわけて書かれている。
それを踏まえ、呉鎮守府の艦娘達がどれだけ身に着けたのかの報告書も同封されていた。
大淀が新しく淹れてくれた紅茶を飲みながら内容に目を通していく。
その間長門も紅茶を頂きながら待ち、大淀や夕張と談笑している。数分かけて目を通し終えた凪は小さく頷き「オーケー」と口にした。
「ご苦労様。ほぼ全員が習得し終えたようで何よりだよ」
呉鎮守府の艦娘達で、弾着観測射撃が可能な艦は身に着けた。近海の敵相手にそれを成功させるだけの実戦経験も積んでいるが、確実に成功するわけではない。これもまだまだ実戦を繰り返していけばいいのだが、問題が発生している。
それまでは近海にもぽつぽつと駆逐艦や軽巡の深海棲艦が見かけられたのだが、ここ最近は見かけられなくなった。
深海棲艦の脅威が取り払われたのならば喜ぶべきことだが、奴らはまだ存在している。
四国から先に進み、太平洋近くまで出ても以前に比べて明らかに少なくなっている。
佐世保にいる湊に訊いてみても、同じ結果だった。
九州方面も深海棲艦が確認されていないというもの。少し遠出してもあまり確認されず、実に平和な海が広がっているようだった。
では南方はどうなのだろうか、と茂樹に訊いてみると、普通に深海棲艦が確認されるようだ。深海棲艦が完全に殲滅されているわけではない。
ということは深海側が日本近海から撤退したのではないか、と考えられる。理由は分からない。
(いや、親父が言っていたな。準備を整える、と。ということは、いったん日本から離れて何らかの準備をしようとしているのかもしれない)
知性がないただの化け物ならそんな行動はあり得ない。
しかし凪には奴らには深海提督がいる、という情報がある。深海提督が思考し、作戦を立てるのであれば、深海棲艦へ指示を出して撤退させることが出来るかもしれない、と推測が出来る。
何かを準備し、実行に移そうとしているのかもしれない、と懸念しても、それをどこでやるかまではわからない。陸上基地の深海棲艦を作ろうとしているならば、太平洋にあるどこかの島でやろうとしているのだろうか。
あるいは北方、それともフィリピン方面?
どちらにせよ、次の前兆が見られるはずだ。それを見逃さなければ出遅れる事はないだろう。
そんな風に考えていると「――難しい顔をしているな」と長門が声をかけてくる。
「あまり一人で考え込むものではない。詰まるようならば、私達も話を聞くが」
「……そうだね。と言いたいけれど、今はあまり情報がないからね。ただ推測するしか出来ないのが現状だろう」
と、何に悩んでいるのかを話せば、長門達も納得するように頷く。
そう、わかっているのは奴らには深海提督がいて、次なる陸上基地の深海棲艦を作る可能性がある、ということだけ。
南方海域からは大きな反応が消え、現在の日本近海ほどではないにしろ、深海棲艦の数は減った。だからといって南方提督がいなくなったわけではない。次の手を出さないという保証はないが、大和的にはあれだけの大敗を喫したのだから、多少は懲りるだろうと考えていた。
「だから備えるしかない。基地対策に三式弾の人数分の量産、砲などの装備の整備……現状で俺に出来るのはこれくらいだからね」
「そして新たな戦術の考案。これもまたあなたの成果でしょう」
長門がファイルを指さして微笑する。
今では形になりつつある弾着観測射撃。湊の協力もあってここまでまとまったのだ。他の鎮守府でも問題なく力を発揮すれば艦隊の戦力向上につながり、それはこの戦術を考案した凪の成果として認められるだろう。
新米提督ではあるが、こうまで軍に貢献したのだ。長門も秘書艦として誇らしく感じるものである。
凪も微笑を浮かべて頷きはするが、諸手を挙げて喜ぶような事はしない。
上に行く欲がないし、大本営に取り入ろうとも思わない。
ではなぜこのようなものを立案したのかといえば、他の鎮守府の艦娘達にも少しでも力を得、生き残ってもらうためだ。
決して勲章が欲しいとかそういう思いでやっていることではない。
「成果には報酬が与えられるべきだと私は考えるのだが……あなたはそれを望まぬのですね」
「今の大本営にそれは望まないよ。もう少しまともになったんなら考えなくもない。あー、でもそれでもあっちに行こうとは考えないか。うん、俺はこっちでゆっくり過ごす方が性に合ってる。あるいは第三課のような日々でもいいわ」
「確かに、提督が大本営で活躍しているイメージってあんまないかも。それよりも機械いじりしている方が似合ってる感じ」
「……それはお前がよく工廠で共に活動しているせいだろう、夕張。とはいえ……私も大本営の会議室などに座っている提督を想像できんな」
軽く頭を押さえる長門に、そうだろうそうだろう、と頷く凪。自分の事ながら、それに対して同意している辺り、その場に似つかわしくないのは自覚しているようだった。
そんな風にまったりしていると、工廠に大和の姿が現れる。凪と長門を見つけると、「ようやく見つけたわ」と軽く駆け寄ってきた。長門はまた何かめんどうな事になりそうか、と軽くため息をつく中で、
「提督、最近出撃がないから体が鈍ってしまいます。何かないかしら?」
「んー、そうは言ってもね、近海に敵がいないんだから仕方がない。かといって遠洋まで出撃する案件もない。となればこうなるのも当然の流れというものだよ」
「長門と遊んでばかりでは刺激が薄くなってしまうのが困りものですよ」
「……あれが遊びか、ふふ、そうか……」
脳裏に思い出されるのは「遊び」で片づけていいものか、と思えるものと、確かに遊びだと言えるもの。腕相撲や普通の相撲はいいとして、殴り合いを交えた格闘戦に模擬弾での演習……これらもそうだというのだろうか。
さすがは元南方棲戦姫。血気盛んなのはいいが、度が過ぎれば困りもの。
艦娘の大和の成分が出てきても、それは決して消えない個性として今も残り続けているようだ。
「んー、大淀。何か任務とかあるかい?」
「少しお待ちを」
そう言ってタブレットを操作し、大本営から発令されている任務を調べ始める。
しばらくそうしていたが、小さく首を振った。「緊急の案件とかもないようです」と言うと、大和はわかりやすくつまらなそうに息をついた。
そんな大和に「こうまで平穏な空気。逆に何かある、と思ってもいいのかな、大和?」と訊いてみる。
「……そうですね。私は南方の下についていたから他の輩の特徴はあまり知らないけれど、日本近海は中部、そして北方の管轄。主に米を相手にする中部に、露を相手にする北方。比率でいえば北方の方が日本に意識を向けていたかと思うけれど、最近は中部も日本へと動き出していた、ような気もしますね」
「じゃあこの平穏を作り上げたのは中部か北方か、どちらかはわからない?」
「ええ。私には判別つかないです。……あー、でも」
と、何かを思い出すかのように唇に指をあてながら思案し始める大和。
少しして「――おぼろげに思い出したんだけれど」と前置きし、
「――中部って、南方よりも多少人臭かった」
「…………つまり、どういうことなのかな?」
「いえ、そのままの意味なのだけれどね。南方って、魂と骨ぐらいしか形を保ててないし、思考もただ与えられた任務を成功させようとする人形でしかなかった」
南方棲戦姫だった頃の南方提督はそういう印象だった。
今では敗北に敗北を重ねて負の感情が溢れ出ているが、それもまた亡霊らしい反応といえる。
「というか、それが深海提督の一番の特徴。でも、中部は少し違う」
目を閉じて思い返す。
自分が南方棲戦姫として生み出されようとしている過程の中で、南方提督と中部提督が会話をしている事があった。魂が新たな肉体に定着し、少しずつ目覚めに向かっている中での出来事だった。
だからそんなにはっきりとは覚えていない。
でもそれでも、両者には違いがあった事が何となくわかる。
「中部は、感情があったように思える。……うん、あなた達を半年見てきて、それがよりわかる。負の感情だけではなく、自分の意思を持って思考する人のような感情、魂があったように思えるわ」
「だが深海提督は、深海棲艦を生み出したものの意思によって生み出された人形だとお前が言わなかったか?」
「ええ、そういうもののはず。……もしかすると、少しずつ人間だった頃の記憶が戻る事でそうなっているのかもしれない。中部は」
「ということは、中部提督が生きていた頃が海軍の、それも提督だった場合は……」
「その知識を思い出していてもおかしくはないわね。そして、それを生かして今回の一件を命じたなら」
「…………やっぱり何かをしようとしているわけだ」
では何かを仕掛けてくるのは中部提督ということなのだろうか。
少し近海から太平洋の様子を定期的に見て回る事を検討しようか、と考えていると、大和はまたうずうずと体を震わせ始めている。
「あー、やるならやるでさっさとしてほしいわね。このままじゃこの溢れてくるものが発散出来ないわ」
「平和なのが一番だというのに。それじゃあまた佐世保と演習でもするかい?」
「それも悪くはないけれど、他の鎮守府との交流はしないのです?」
「他はね、どこも大本営のアレだからねえ……」
横須賀、舞鶴は昔から大本営の上層部と繋がっている提督が務め、大湊は大湊で中立ではあるが、協調性はない。少し前の深山のように面倒事には関わらず、自分の思うが儘にやっているようだった。
しかし最近は大本営から警告がいったのか、多少は表に出てきているという話がある。最低限の戦果を挙げて提督の地位を守っていたかの提督は、近海から深海棲艦がいなくなったのを知ると、戦果を求めて少し北方へと手を広げているのだとか。
「……ダメもとで大湊にでも声をかけるか。新しい相手なら、多少は満足するかい? 大和」
「ええ。悪いわね、催促してしまって」
「なに、これをいい機会と考えるとしよう。……たぶん、乗らないと思うけど」
小さくため息をついて立ち上がり、執務室へと足を運ぶことにする。その後を大淀、夕張が続き、長門と大和はまた何かを言い合いながら工廠を後にするのだった。
呉鎮守府より広められる新たなる戦術。
そして新しい縁の繋がり。
新年という新しい門出の祝いを祝福するかのように、冷たくも爽やかな風が凪達を吹き抜けていった。
これにて4章終了となります。
また間が空いてしまいましたが、何とか終わらせられました。
お待たせしてしまいすみません。
今回は色々と先のためのフラグをいくつか用意する章でした。
次回より14春が絡む5章となります。
これからも拙作をよろしくお願いします。