呉鎮守府より   作:流星彗

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悪夢

 

 

 夢を見ていた。

 いや、これは夢といっていいのだろうか。辺りを見回しても何も見えない白い世界。そんな中に自分は立っていた。一歩前に足を踏み出しても進んでいるのかどうかわからない空間。そんな中にぽつんと一人だけ立っているのは異質。

 これが夢でなくてなんだというのだろう。

 

 誰かいないのか?

 

 そう辺りに呼びかけてみるが、自分の声が遠くに消えていくだけで、何も返ってこない。

 そんな世界にただ一人というのは、とても孤独だ。心がざわつきそうになる。

 夢なら早く覚めてくれ、そう願いたくなる中でひたすらに歩みを進める。

 どれだけの時間が流れたのかもわからない。1分だったのか、5分だったのか、あるいはそれ以上? 短いような長いような、そんな時間を経てようやく世界に変化が訪れ始める。

 

「――――?」

 

 誰かが立っているようだ。

 でもその姿はよく見えない。目を凝らしてみても輪郭がぼやけたように映っている。ただ自分に対して背を向けているのではないかということだけはわかった。

 そこにいるのは誰だ?

 そう呼びかけてみる。すると、

 

「――――」

 

 声がようやく返ってくる。しかしその声はよくわからない効果が付与されているかのように判別がつかない。それでいて何を話しているのかも認識できない。

 

 何を言っているんだ? そもそも聞こえているのか?

 

 その誰かは自分の呼びかけに応える気配もなく、恐らく淡々と言葉を発し続けている。しかし相変わらず言葉がわからない。

 そんな中で、世界に少しずつ異変が訪れた。

 何もない白い世界だったそこに色が付き始めた。自分が立っているそこに暗い蒼が差し込みはじめ、頭上は宵の黒に染まっていく。その中にぽつぽつと光があることから、頭上は星空ではないかと推測出来る。

 自分は夜の海の上に立っているのだとわかるのに、そう時間はかからなかった。では目の前にいる誰かは海の上に立つもの、艦娘ではないだろうかと推測出来る。あるいは、深海棲艦なのではと。

 世界が色づくにつれてその誰かはゆっくりとこちらに振り返ってくる。でも完全に振り返らない。顔は自分に向けられているようだが、やっぱりその顔が誰のものなのか、声すらもはっきりと判別がつかない。

 君は、誰なんだ?

 じっと目を凝らしてみてもその顔がはっきりと像を結んでくれない。

 世界が夜に染まっているからだけでは説明がつかない。まるで自分はその誰かの姿を見たくないとでも思っているのだろうか。

 見えないなら、近づけばいい。

 でもその誰かに近づこうと足を踏み出しても、どういうわけか距離が縮まらない。走っても走っても水を踏みしめて跳ねる音が聞こえてくるのに、まるで自分はその場で走り続けているかのようだった。意味がわからない。

 そんな自分に振り返った誰かは、まだ淡々と自分には認識できない言葉を続けてくる。

 

「――ッ!?」

 

 はっと気づけば、いつの間にか自分の足に何かがしがみついていた。虚ろな目をした何かが数人、海の中から手を伸ばし、体を出し、海に引きずり込もうとしている。抵抗しても影が次々と海の中から現れて、両足にしがみついてきた。

 その影もまた目の前にいる誰かのようにはっきりとした形を持っていない。だがそれでも影の輪郭からして、どこか見覚えのあるような姿をしているような気がした。

 気のせいでなければ艦娘のような姿を形作っている。色づいていないが、輪郭だけでそうではないかと思えるような姿をしている。それが自分を海の中に引きずり込もうとしているのだ。

 悪夢だ。

 本当に艦娘だとするならば、どうして彼女達が自分を海に引きずり込もうとしているのか。

 やめてくれ、と叫びながら振り払おうとしても、影は何も応えない。

 目の前にいる誰かも止めはしない。

 

 思わずその誰かに助けてくれと手を伸ばしてしまう。

 するとどういうわけかその誰かはそっと右手を前に出してくれた。

 もしかして助けてくれるのか? そう小さな希望を持った刹那、

 

「――――沈め、何もかも」

 

 空間にそんな不穏な声が残響を伴って響いた。右手を伸ばしてくれている誰かの後ろからも不穏な影がやってくる。海の中から伸びる無数の手が背後から誰かの身体を掴んでいく。同時にどこからか反響するような声が聞こえてくる。

 

 帰りたい。

 沈みたくない。

 消えたくない。

 

 どうして?

 どうして自分だったの?

 どうして助けてくれないの?

 

 死にたくない。

 

 死ぬがいい。

 沈むがいい。

 あなたも、私達と一緒に――

 

 悲しみ、疑問、そして怒りと憎しみ。

 様々な感情を含んだ声があちこちから聞こえてくる。その声に乗せるように無数の影の手が誰かの頭、肩、体と触れていく。そのまま自分と同じように海の中へと沈めていくように。

 待て、と強く手を伸ばす。

 その誰かの正体が分からないのに、反射的にあれを連れていってはいけないと止めようとしてしまう。

 でも体は前に進んでくれない。

 自分もまた影達に足を掴まれているのだから。

 

 取り巻く影の手に体が見え始める。無数の手を作り上げているものもまた、艦娘の誰かのような輪郭を形作っていた。それだけでなく、深海棲艦のような輪郭も見える気がする。そんな影に、未だ姿がはっきりと見えない存在はその体を奪われていく。

 待ってくれ、行かないでくれ。

 でもその後に続く名前が出てこない。あれはいったい、誰なんだ?

 

「――――」

 

 だが、どういうわけかその誰かは最期に口元に小さな笑みを浮かべていた。まるで自分を安心させるかのような柔らかな微笑。

 それを認識する一瞬の時間にその誰かは完全に影に包まれ、海の中へと連れ去られた。

 それを目にして叫んでも、言葉にならない音の響きが口から出る。連れ去られたものの名前は、やはり出てこないままにただ無情に手を伸ばすだけだった。そんな自分もまた足から伸びてくる影に包まれていき、視界は完全に海の闇に消える。

 

 

「――――ッ!?」

 

 目を開くと、見覚えのある天井がそこにあった。体からは冷や汗を流し、その右手は何かを掴もうと伸ばしている。

 あの悪夢と体がリンクしていたのだろう。

 覚えている。

 荒い呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻そうとしている間でもあの悪夢の様子を思い返せる。ふと視界の端に誰かが自分に向けて声をかけているのだと、ゆっくりと気が付いた。

 

「――く、提督……! わかりますか?」

 

 ゆっくりと落ち着いてくると、その誰かの正体が分かった。続いて声も次第に耳に入ってくるようになる。それだけでなく、伸ばされた手を握りしめられていることもわかった。冷や汗で濡れているはずなのに、彼女は構うことなく両手で包み込んでいる。

 

「……神通、か」

「はい、大丈夫ですか?」

「……なぜ、ここに?」

「時間になってもいらっしゃらないので、迎えに来ました。するとうなされていたようでしたので、何度も呼びかけ続けていました。……大丈夫ですか?」

「ああ、うん……そうか。すまない、心配かけたね……」

 

 手を離そうとすると、神通はぎゅっと握りしめてくる。「……無事で何よりでした……」ととてもほっとしたように呟き、両手を額に当てて安堵する。本当に凪を心配していたようだと窺える様に、凪はまた心がざわついた。

 神通の気持ちは聞かされて把握している。これもまた彼女の愛情からくる献身なのだろう。だからこそこんなに心配かけてしまったことを申し訳なく思う。

 同時に未だに彼女の気持ちに応えられていないことにも申し訳ない。でも今それを口にするのもどうだろう。そのタイミングではないだろう。

 そんなことを考えていると、扉が開かれて「神通、色々持って……おお、目が覚めたのか提督」と長門が顔を出した。その手にはたらいなどがある。後ろからは大淀がついてきている。

 

「神通さん、訓練の時間が迫っていますがどうしますか?」

「……行きます。役割は果たさないといけませんから。では、提督。失礼します。お大事になさってください。お二人ともここはお願いします」

「了解した。心配せず行ってこい」

 

 凪が心配なのは確かだが、しかし神通は自分の仕事や役割を放棄するようなことはしない。そこに私情を挟むことを良しとしない艦娘だった。だからこそ信頼して長を任せられる人物でもある。

 一礼して去っていく神通に入れ替わるようにし、大淀が書類のファイルを手にして凪に今日の仕事について質問した。こうして凪が倒れているのだ。凪の判断に委ねるところは訊き、それ以外は大淀が処理してくれることになった。

 今ここで処理できるものは処理し終え、「ではそのように進めます。お大事にしてくださいね」と大淀も敬礼して退出した。

 残ったのは長門であり、傍に置いてあったたらいからタオルを取り出し、ぎゅっと絞り込む。どっと水がしたたり落ちる中で「汗をかいたろう。私でよければ拭いていくが」と少し絞りすぎな気がするタオルを見せてくる。

 

「あー、うん。お願いしようかな」

 

 それを無碍にするのも気が引けたので、寝間着を脱いでいく。あらわになった凪の身体を優しくタオルで拭いていく長門だが、まじまじとその体つきを見つめているようだった。見た目が女性だからか、どこか気恥ずかしく感じてくる凪。

 出来る限り意識しないようにとしていたが、どうにも気になってしょうがない。

 

「……そう見つめないでくれるかい?」

「む? いやすまない。まじまじと見つめるものではなかったな」

「見ていてもおもしろくないでしょ」

 

 アカデミーに通っていた頃は鍛えることもあったが、呉鎮守府に着任してからは鍛えるというよりも趣味に走ったり、デスクワークをしたりする日々が多くなっている。

 そうなると自然とどこかたるんでくるものだ。軍人らしい体つきとはいえなくなっているんじゃあないだろうか。

 それに対して長門の腹筋といったらどうだ。艦娘は誕生時からある程度身体的特徴は決まっているが、長門のそれは男性と比べてもがっしりしている。重武装である戦艦の艤装を纏いし艦娘という特徴を出すためだろうか。

 当時の艦娘の調整をしていたであろう美空大将。これだけの艤装を纏っても何ともない女性というイメージを形にしたのが、この長門の姿なのだろう。それだけでなく武人然とした性格まで備えたのだ。

 だがそれでもなお長門らしいと思えるのは、彼女の在り方が違和感ないためだろう。

 腹筋が割れていようと、たくましい女性という在り方が崩れていないからこそ、これでいいと思えてくる。

 

「そうでもないぞ。こうして男性の身体をまじまじと見る機会が訪れようとは思わなんだ。多少なりとも興味深い。が、そう恥ずかしがられては奇妙な感覚になりそうだな。すまない、控えよう」

 

 が、そんな風にどこかお茶目さも見せてくる。それが親しみを生み出してくれる。

 苦笑を浮かべつつ先ほどよりも控えめな視線で体に浮かんだ汗を拭っていく。時々たらいでタオルを洗いつつ、胸、腹と両腕と終えれば、背中へと移っていく。その中で「これだけの寝汗。よほど良くない夢でも見たらしいな」と心配そうに言う。

 

「……まあ、うん。よくわからないけれど、良くないものではあったかな」

「虫の知らせの一種か?」

「どうだろうね。俺の腹痛はそういう性質ではあるけれど、さすがに予知夢とかそういうのは今までないよ」

 

 それにあれが予知夢であってたまるものか、という思いもある。

 飲み込まれたのは誰かはわからないが、しかしあれをそのまま捉えるならば、誰かが轟沈する暗喩だ。

 最期まであれが誰かはわからなかったし、何を言っているのかもわからなかった。

 そんな形で轟沈を示唆するような悪夢まがいの予知夢を見せられても困る。

 しかしそんな凪の思いとは裏腹に、その体は悪夢によって苦しみをあげた。それは腹痛とはまた違った形で彼の心身を蝕んだのは確かである。

 

「こうしてあなたが倒れたのは去年以来か。あの頃はまだあなたのことがよくわからないままでの事だったが、今回は違う。……何があった、提督。良ければ聞かせてほしい。私で助けになるのであれば、喜んで手を貸そう」

 

 逡巡したが凪は長門に夢のことを話した。自分自身もよくわかっていない夢だったが、長門は特に笑うこともなく、静かに耳を傾けていた。やがて話し終えると、長門は口元に指を当てながらその内容について考える。

 確かに凪が推測した様に見えたものは艦娘か深海棲艦のどちらかなのだろう。前者ならば轟沈を暗喩する夢と捉えられる。しかし後者ならばどうなのだろうか。深海棲艦が何者かに捕らわれて沈められる。これは何を意味するのか。

 しばらく考えたが、思い浮かぶような答えといったら一つぐらいだった。

 

 すなわち、大和轟沈。

 元深海棲艦だった大和がやられてしまうという暗喩である。一度は沈んだ彼女が蘇り、そしてまた沈む。そうなってしまっては今度はどうなるかはわからないが、そもそも彼女を、いや艦娘を誰も沈ませるわけにはいかない。

 そんなこと、この長門が許さない。

 

「安心してくれ、提督。そのような悪夢を実現させる気はない。もしもそんなことがあろうとも、この身に代えて私が皆を守り抜いてみせよう。ここに誓う」

「はは、それはありがたい誓いだね。でも俺としては君にも沈んでほしくはないんだけども」

 

 それだけの強い意志で誓ってみせるという証なのだということはわかっている。秘書艦としての責務であり、彼女の気質からくる言葉だということも理解している。

 だが頼もしい。

 彼女がそう言ってくれるだけで、こんなに心強いことはない。

 安堵するように目を閉じる凪に、タオルをたらいに沈めた長門は新しい寝間着を着せてやるとベッドに横たえた。大事をとって朝は寝かせてやることになったらしい。凪としては気分は落ち着いたのだが、去年のこともある。

 それにここ数週間は色々と忙しかったため、ここで一度休息をとるのもいいだろうということになった。

 ふと、ベッド脇のデスクにお守りらしきものが置かれていることに長門が気づく。神通が用意したのだろうかとそっとそれを手にしてみると、ただのお守りではないことがわかった。

 何らかの力がお守りの中に秘められているのだ。

 その力は手にした長門に反応したのか、一瞬だけ力を発したが、また落ち着いていく。

 

「提督、これは神通が?」

「ん? いや、それは大湊の宮下さんから貰ったものだね」

 

 大湊警備府の宮下といえば元神社出身の提督だったかと長門は思い出す。ただの巫女というよりはオカルト方面の力も持ち合わせている彼女だ。もしかするとこのお守りにも何らかの力が込められていたのかもしれない。

 短い付き合いだったが、あの宮下が凪にお守りを渡したのかというちょっとした驚きもあったが、長門は元の場所に戻してやる。

 しばらく凪の様子を見守り、今度は穏やかに眠り始める凪を見届けると、長門も自分の役割を果たすために静かに退出した。そのまま彼は昼過ぎまでゆっくりと眠り続けるのだった。

 

 


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