血は水よりも濃いというけれど、その血の出処が分からない僕にはあまりはっきりとした事は言えない。ただ一つ、勝手に思うのは六十年前のあの時には、今の僕には記憶すらない親がいたのだろうか、とだけ。それか、帰るところがあったのか、と。
六十年もとんだ僕には当然のように帰るところなんてなかったし、泣き出しそうになっても抱きしめてくれるような人はいないから。
手にした血に塗れた苦無は、魔物の心臓に深く突き刺さっていたけど、そのまま捨て置くのはもったいなくて苦労して引き抜いたものだ。
思う存分暴れまわったイリュージョンのせいで体中得体の知れない液体でベトベトで居心地が悪くて仕方がない。ああ早く、早く帰りたい。帰るとはいっても、ただの、旅の宿にだけど。少なくとも気をはらなくても命は大丈夫だから。
はやる気持ちをおさえ、気を抜くとすぐ遠くでうろちょろしているのが見える魔物に手、というか刃が伸びそうになるのを抑える。わざわざ命のやり取りなんてしたくないのに手は勝手に動こうとする。
大丈夫、大丈夫、これは僕の意思じゃなくて、イリュージョンの考えで、それも本心からやりたいわけじゃなくて、ただの僕への嫌がらせだろう。僕がこうしていらついているのを面白がって見ているに違いない。悪趣味にも程があるだろ。
ルナリアを探さないと。敵対心を強く持っている魔物どもはあらかた死んだけれど、まだ魔物はいる。こんな危ないところじゃなくて街へおいでというべきなんだ。
イリュージョンを恐れて、あるいは避けている様子の彼女になんと説得したらいいのか思いつかないけど、今はこうして自我を長いこと保てるようになっているわけだし。
少しは楽観的にならないと…‥できるものもできなくなりそうだ。あれ? あそこにいるのはルナリア?
あの白くてひらひらした服がちらっと見えた気がして、僕は駆け寄った。何故か足元が膝まで泥混じりの水に取られたみたいに、妙に重い。
「ルナ……リア?」
白い服は泥に無残にもまみれ、長くてきれいな髪は引きちぎられて。僕の恐れをそのまま体現したかのように、彼女の腹部からは鮮血がとどめなく溢れる。犯人らしき姿も気配も見当たらず、僕の中でいつもつんとすましているはずのイリュージョンまでもがうろたえたのが、分かった。じわり、じわりと視界の端が焼け焦げる。
時間移動ができる彼女が、こんな目に遭うなんて、どうして?
心臓のあたりが激しく昂り、どくりどくりという音が耳元で大きく鳴る。目からはまったくもって無駄な液体が流れ出て、マスクに染み込んでいく。多分、それは透明ではなくて、彼女のものよりもいくらか濁った赤い色をしているはずだ。なんせ、鉄臭いにおいと、味が広がって、とまらないのだから。
視界が怒りで真っ赤に染まっていく。彼女の冷たい肩を震える手で優しく起こすと、形の良い唇からごぶりとまた赤い血が、血が!すべてが赤に染まるかのよう。真っ赤だ、赤だ、鉄の色だ! それ以外にはなにもない!
「ルナ!」
口から勝手に溢れる、僕の、そして僕のものではない声。悲壮なイリュージョンの、聞いたこともない、声。
「……おい!」
おいていかないで、ルナリア! 愛しい、僕の唯一のひと! 大切でかけがえのない君! 胸の奥底から込み上げてくるのは確かに僕の感情であるはずなのに、だれ? 誰の感情?
吠えるように叫ぶ。誰だ、誰がこんなことを!殺意と、悲しみと、行き場のない溢れ出る感情が背に納めていた曲剣をとらせた。
「おい、目を覚ませ!」
誰の声だ。誰が僕に話しかけているんだ。そうか、姿見えぬこいつがルナリアを? 手に炎の力を集める。握っていたはずの刃はいつの間にか感触ごと消え失せ、素手になっていたが関係ない。刃の消えた手に思いっきり力を込めて殴りかかった。たしかにこっちにいるという、確証を持って。
「危ないな!」
しかし、その手は止められる。腕ごとたやすく捕まれ、拳はやんわり受け止められて。その衝撃で僕は目をはっと開いた。目の前には、変わらず赤があった。
それは赤。赤は赤でも、そしてそれは確かに鮮血でも、目の前にあるのは目が覚めるような鮮血の色でしかなく、また頭を強かに打ち付けて眼前がチカチカするような赤であり、僕の原初、”血”は”血”でも”血縁”の方の”血”の赤だった。
系譜的には他人ではあったけれど、呆れた表情を隠そうともせず、その真っ赤な目をもったドラゴンは僕を見下ろし、かすかに微笑んでいた。
「目が覚めたか?」
「はい、……」
「腕を随分あげたじゃないか。まあ、それはそれだな。反省しろ」
げんこつが一発。それからなだめるように頭を撫でられた。小さい子供にするように。きっと僕が年甲斐もなく抱きついたら、受け入れてくれるんだろうなと、夢の余韻で手を震わせながら思って、安心して、息を吐き出した。
そうだ、僕は……夜も遅かったし、アレンデルの風が心地よかったから眠ってしまったんだっけ。赤い色彩のその青年の姿をしたドラゴンは、不思議と僕に安心感を与えた。どうしてだろう。
「ふむ、夢の中でベスティネルのかけらが殺されて錯乱していたと」
「む、ルナリア、と呼んでください、ルビナート」
「それじゃ、私のこともルビナートさん、ルビナート様、それが嫌ならルビさんと呼ぶんだ、いいな?」
「えー……親父、そりゃないですよ……」
「父と呼ぶなと何度言わせるんだ。まったく、学習する前に頭がへこんでしまうかもしれないな?」
まあそれは私が教育的指導として叩くからだが。せっかく私に似せたイケている顔は涙や鼻水でぐちゃぐちゃ、目は充血し、声も枯れているとは。教育より先に顔を洗わせたほうがいいかもしれないな。
さて、それもいいとしても、こういうとき「父」は「子」にどうするのだったか。怖い夢を見て震える子供にするアドバイス。ふむ。やったことがないこというのはいかに素晴らしい私といっても間違えそうだ。
とりあえずまずは褒めるべきだろうな?お陰で思念体として例外なくか弱い私の手に傷ができたじゃないか。どこかで見た育児書には目線を合わせ、ゆっくりと言い聞かせるべきだとあったな。そしてできていることは思いっきり褒める、と。上下関係を躾けるのも大事だが信用なくして飼い主とペットの関係も成り立たない、と。
ん? これはペットの指南書かもしれないが。
「ランクロウ、その根底にある古の忠誠心はなかなかのものらしい」
「……はあ」
「あるいは愛情、あるいは友情だな。君の中にはその全てがあるらしいが、今の『レン』にとっては友情というべきか。それはまあ、尊いものだし大切にすべきだな。私に手痛い一撃を与えられるようだし」
まだ流れたままの涙は朝露のようにキラキラきらめいて顎を伝い、ランクロウの膝を濡らしていく。ランクロウの目線が気まずげに泳いだが、肩を掴んで捕まえた。
「だがな、とらわれすぎるのはやめろ。彼女はもういないし、君はその夢で随分疲弊したらしい。それよりも楽しかった頃の記憶の夢の方が互いのためだろうよ」
「簡単に言いますね」
ふむ。まあ、そうか。目の前の小さく幼いドラゴンの中にはたいした記憶がない。普通の人間くらいの記憶と精神性しかなければそんなものか。妙に人間のようで、人間よりも律儀に素直なやつだからな。その少年の肉体と、本来なら多少は落ち着いてくるはずの精神が絶妙にあっていて、外見通りでしかないのだろうよ。
「ああ簡単なことだ。ランクロウ、今の望みはなんだ?それに集中してさえいれば過去にとらわれずに済むんじゃないか?」
「アイオナとの約束を果たして、この世界の均衡を取り戻すって、ことですか?」
そりゃまた大層なことだ。随分とお人好しなことだ。知ってはいても、実際に聞いてみれば自分が自分たり得る前のビヨンドドラゴンの尻拭い。そして果たせるかもわからない命を賭した約束。見てきたとはいっても、だからといってそこまでとらわれる必要もないだろうに……そこまで人間めいたのならば、私の見てきた人間のように毒で消えることもなくなった体で好きに生きればいいものを。
ま、もしそんなやつならば私が目覚めることもなく、こいつはさっさとどこかでのたれ死んでいたんだろうな。
「それが望みならそうだ。……まあどっちにしてもそろそろ泣き止めよ。私が泣かしているように見えて見聞が悪い。誰か来たらどうするんだ?」
「そのときはルビナート様が悪いんですって言ってやりますよ。ねえ、ルビナート」
「ん?」
「じわじわと、きますね。大切な人を失った悲しみというのは」
友を失った息子の顔を見返す。私の前には出てこない、愛する人を失った息子の顔を想像する。きっと人間の生よりはるかに長い間この世界を旅してきたランクロウは、決してあの時は見せなかった表情をしていた。ああ、私に今ならなつくかもしれない。
少年の形をした悲しみに、そっと抱擁の一つくらいは与えてやってもいいかもしれないが、せっかく涙を引っ込めようとしているんだ、自尊心を私は尊重してやった。