桂馬くんが、使った痕跡の無い新品のチョークを手に黒板に向かう。
そしてそのまま『完全とは?』と大きく書き込んだ。
「では、議論を始めよう。まずエルシィ、完全とはどういう意味だ?」
「えっ、私ですか!? 灯さんではなく!?」
「コイツは一応さっき言ってただろう。完全な人間とは……ああいや、お前なりの答えを言ってみてくれ」
か、完全かぁ……考えた事も無かったよ。
完全、完全……
「すいません、『完全』を答えるんですよね? 『完全な人間』ではなく」
「ああ。まずはそっちから」
「そうですね……『欠点が無い事』でしょうか?」
完全無欠って四字熟語があるくらいだし、どうだろうか?
と言うか、桂馬くんは答え知ってそうだなぁ。
「ふむ、いい線行ってるな。
倉川、異論はあるか?」
「欠点が無いだけでは不完全じゃ。あらゆる長所を備えていなければ」
「実に結構。全てにおいて欠点が無いだけでは平均値な存在まで含まれる。
まぁ、そういう存在の方が実は完全なのかもしれないがな」
「寝言は寝てから言うのじゃ。そんな存在が完全なわけが無かろう」
うぅ……灯さんにダメ出しされてしまった。
そっかそっか。言葉の定義って意外と難しい。
「エルシィ、異論はあるか?」
「ありません!」
「では、完全とは『欠点が無く、あらゆる長所を備えている』だな」
桂馬くんがその言葉を黒板にサラサラと書き込んでいく。
……私たちは一体何をやってるんだろうか? 女の子を攻略するはずなのにいつの間にか議論になってるよ。
「では次、欠点は……無いものだからあまり深く突っ込まなくていいか。
『あらゆる長所』とはどういう意味だ? 何が当てはまる。
じゃあ、その意見を言った倉川。述べてみろ」
「そうじゃな……その長所は『人間の長所』に限定して良いのか?」
「……まあいいだろう。あらゆる概念の長所とすると範囲が広すぎるからな」
黒板に『人間の長所』という文字がサラサラッと書かれる。
「では、先ほども言った事じゃが……正しい行いをし、強い精神を持ち、不安も無ければ争う事もしない。そういう人間じゃ」
「ほうほう」
キーワードが黒板に書かれる。
『正しい行動』『強い精神』『不安を持たない』『争わない』。
これが完全な人間が持つべき長所?
「他にも色々とあるのじゃが……キリが無いのでとりあえずこんなもんじゃな」
「……それは言葉で説明し切れてないと自白していないか?」
「揚げ足取りをするでない。すぐには終わらぬという意味じゃ。いつかは挙げ終えるじゃろう」
「そいつは失敬。それじゃあエルシィ、反論はあるか?」
反論かぁ……この4つのキーワードに対して『完全な人間』にそぐわないものはどれかって事だよね?
………………
……あれ? 屁理屈かもしれないけど、これって全部アウトなんじゃない?
「えっと……まずは灯さんに質問です。
この『正しい行動』っていうヤツですけど、『正しい』って何ですか?」
「む?」
「数学の証明とかならまだ理解できますけど、正しい行動って一体何なんでしょう?
それが定義できなければ『正しい行動』という単語に意味なんてありません」
「ふむ……説明は難しいが、定義自体は不可能ではないはずじゃ」
可能であって欲しいけど、言葉の定義の難しさはさっき感じたばかりだ。
しかもさっきよりも複雑そうだ。可能なんだろうか?
「そういう事なら僕から一つ、具体的なケースを提示しよう。その時にどういう行動を取るのが正しいのか考えてみようじゃないか」
それは言葉の定義とはまた違うと思うけど……これで正しい行動が判断できなければ定義不可能って事になるのかな?
私の理論へのアシストなのかもしれない。
「君達は高速で動くトロッコの上に乗っている。
ふと前の方を眺めると線路の上に人が居た。しかも何故か5人も。何もしなかったらその人たちを跳ね飛ばして確実に殺す事になるだろう」
何か凄いテーマが出てきた。
え? サラッと殺すとかいう単語が出てきたよ?
「だが……線路には分岐が存在した。トロッコを操作すれば別の線路に行く事が可能なようだ」
「それだったら、そっちに行けば解決……ではないんですよね?」
「ああ。もう1つの線路では1人の人間が何かの作業をしているようだ。そっちに進めば確実に殺す事になるだろう」
「うわぁ……」
「……さて、お前たちはどういう行動を取る? 正しい行動を選択してみてくれ」
落ち着いて考えてみよう。
トロッコを操作しなければ5人の人が死ぬ。実際には運良く助かる人も居るのかもしれないけど、あくまでも例え話だから死んでしまうとしておこう。
トロッコを操作して分岐に進めば、その5人が助かる代わりに1人が死ぬ。
……この問題、普通に考えたら……
「そんなもの、分岐に進む方が正しいに決まっておろう」
「それで良いんだな? 5人を救う為に1人を自分の手で殺す……と」
「それが最善じゃろう」
「……エルシィはどうだ?」
「えっと……実際にそんな場面に遭遇したら行動なんてできないと思いますけど……やっぱり分岐を進むべきだと思います」
「……まあ普通はそう答えるよな。
おめでとう。君達の行動により世界は滅んだ」
「えっ? どういう意味ですか?」
「実はお前たちが助けたその5人な、将来核兵器すら凌ぐヤバい兵器を開発する存在だったんだよ。ああ、あの時事故死していれば世界は滅びずに済んだのに……」
何か凄い盛大な後出しを受けた。こういう問題でそれはちょっと卑怯じゃないかな?
「……ではそれを踏まえてもう一度、トロッコの上のお前たちはどうする?」
「……その5人を轢き殺すのじゃ」
「そうなりますよね……」
「だろうな。
おめでとう。君達の行動によりまた世界は滅んだ」
「また!? ……ですか!?」
あ、危ない危ない。一瞬素が出た。
で、今度はどう滅んだの?
「君達が助けた例の1人だが、実は宇宙人のスパイでな。僕達の情報をこっそり送っていたようだ。
数年ほど経過した後、過激派の宇宙人が直接乗り込んできてなんやかんやあって滅んだ。
ああ、あの時轢き殺して居れば……」
「……何か雑ですね」
「そりゃそうだ。今思いついたんだから」
言っちゃったよ。思いつきだって。
これ、何をどう答えても結局世界が滅ぶよね……?
「……こんなもの、どうしろと言うのじゃ?」
「これはあくまでも例え話だ。だが、『正しい行動』がいかに曖昧なものか分かったんじゃないのか?
お前たちは最初は1人を殺したくせに僕がちょっと言うだけで5人をアッサリと殺した。
その時はそれが最善の行動だと思っていたんだろうな。だが、その『最善』はアッサリと変わった」
「……なるほどのぅ。して、お前だったらどうするのじゃ?」
あ、確かにそれは気になる。
このムチャクチャな問題に対して桂馬くんはどう答えるのだろうか?
「そんなもの決まっている『質問する』だ」
「……何?」
「だから、出題者に質問するんだよ。
例えば、線路の上の合計6人に悪人は居るかってな。
正しい選択肢を選ぶには正しい情報が不可欠だ。情報次第で取れる選択肢は変わってくる」
「でも……今回は悪人だらけでしたよね……神様はどうなさるんですか?」
「全ての質問を終えた後という事だな?
勿論、『ブレーキを使って停車する』だ」
「止まれたの!?」
「止まれないとは一言も言ってないぞ」
確かに言ってなかったけど、言ってなかったけどさ!!
「……しかし、お前の話では両方とも極悪人なのじゃろう? 余計に世界滅亡が早まるのではないのか?」
「そんな事知ったことか。本来ならトロッコに乗ってる僕にそんな未来予知染みた事ができるわけない。
とりあえず死人が出ないようにするだけで精一杯だよ」
……なるほど、これって結果を見るか過程を見るかっていう話でもあるんだね。
桂馬くんの選択肢は過程だけを見れば6人の命を救うっていう正しい行動をしたけど、結果的には滅亡へと導かれたわけだ。
……どっちを見て判断すべきなんだろうね。『正しい』って。
「ああ、ちなみにだが……両方救った場合は核兵器を凌ぐ凄い兵器を宇宙人に対して使う事で結果的に平和が保たれる。やったな」
「ご都合主義過ぎませんか!?」
そうなるならどこからどう見ても正しい選択肢になったけどさ……どうなのそれは。
「……むちゃくちゃじゃな」
「ムチャクチャだが、お前にこの可能性を否定する事はできない。何故ならお前は情報を得ていないから。
そして、そんなムチャクチャな事の全てを把握する事は人間にはまず不可能だ」
「……良かろう。『正しい』の定義は今の私には不可能なようじゃ。取り下げてくれ」
「りょーかい。で、エルシィ、他に意見はあるか?」
そう言えば、灯さんの意見の論破が目的だったね。次行ってみようか。
次は……『強い精神』だね。
今回の話の元ネタは『トロッコ問題』でググれば出てきます。『正しい』という言葉の脆弱さを証明する方法を考えていたら思い出しました。
記憶に頼って書いたため元ネタとは若干違いが出ています。トロッコに乗ってるのではなく分岐点のスイッチの近くに立っているだけだったりとか。
こちらは意図しての追加ですが、助ける5人や1人の善悪なんてのも考えてないし勿論止まれません。ただでさえややこしい問題をこねくり回してムチャクチャにしております。
最初からトロッコ問題じゃなくて水平思考ゲームとして臨んでいればそこまで理不尽でも無さそうですけどね。