夜。
風紀委員としての連日の激務は昨日で終わり、達也は久々に疲れを残していない状態で魔法式の研究を行うことができた。
司波家の自宅の地下にはある事情により、大学の研究機関クラスの機材が設置されている。
(それにしても、酷い目にあったな)
端末に表示されたデータを見ながら、達也は昨日までの日々を思い出す。
特に最終日に至っては通報、急行、戦闘、通報……の延々の繰り返しであり、達也をして「軍の訓練にも劣らない」と思わせる日だった。
おまけに元凶である結代雅季はカウンセリング室でお茶を飲んでいたというのだから、それを聞いたときの風紀委員のメンバーは……言わずもがな。
尤も、カウンセリング室に乗り込んだ森崎駿が問答無用で雅季に関節技を決めたので大分溜飲を下げることができたが。
「お兄様、お茶に致しませんか?」
一階から可愛らしい声が聞こえてくる。どうやら深雪がお茶を淹れてくれたようだ。
「ああ、いま行くよ」
達也はモニターをオフにして席を立つと、階段へと向かって歩き出し――。
――短続的な術式ね、空でも飛ぶのかしら。
「――ッ!!」
咄嗟に背後を振り返りCADを構えた。
「――深雪!」
兄の普段とは程遠い、鋭い呼び声を聞いて、深雪は即座に階段を降りて達也の下へ駆け寄る。
「お兄様、一体!?」
「視線を感じた。深雪、お前は何も感じなかったか?」
「いいえ、特には……」
深雪は首を横に振り、地下を見回す。
計測用の寝台、データが映っている端末、CADの調整用の工具が入ったツールストレージ。
見た限り変わった様子は無い。
「気のせい、ではないのですか?」
今なお戦闘者としての、『ガーディアン』としての表情を崩さない兄に、深雪が尋ねる。
「深雪、俺はモニターを『オフ』にして席を立った。この意味がわかるか?」
深雪は愕然として、再び端末を見た。
モニターは『オン』になっており、そこには達也がつい先ほどまで構築していた魔法式のデータが映し出されていた。
――ふふ、良い勘を持っているわね。
同じ頃、この世界ではない世界で、結代神社の神紋である『弐ツ紐結』の紋が入った浅葱色の神官袴を身に纏った結代雅季は月を見上げていた。
結代神社の縁側で月を見上げながら、一人酒を嗜む雅季。
『あっち』の常識では雅季の年齢での飲酒は違反だが、生憎と『こっち』ではそんな法律ありはしない。
そう、ここは幻想郷。
今なお人と妖と神が住まう楽園だ。
この神社に住んでいるのは、一人の巫女と一柱の神様。
うち巫女の方はもう寝ていることだろう。神様の方は、たぶん寝ているか、それとも奉納された神酒を嗜んでいるか。
「やれやれ、制御可能なギリギリのところまで手を抜いて、それでも上位か」
浮かぶ笑みは苦いもの。
神話の時代とは、この世の理が創られた時代。
神代から続き幻想を紡ぐ雅季にとって、この世の理を行使する魔法は
「かといってこれ以上手を抜けば微調整が効かない。なかなかどうして、難しいものよ」
それでも雅季より上がいたことで、まだ人の理解の範疇に収まることができた。
まあ、だからといって大っぴらに魔法を行使するつもりは無いが。
魔法科高校に入学したのは、あくまで趣味である演出魔法――幻想郷で考案された『スペルカードルール』という「魅せる遊び」を魔法で行うためであるのが一つ。
白黒の魔法使い、霧雨魔理沙が言っているように、弾幕ごっこは殺し合いを遊びに変えたルールだ。
雅季はそれと同じように、魔法という殺し合いの術を遊びに変える方法を示し、そしてそれは『演出魔法師』という名称が生まれたように受け入れられつつある。
「殺し合うより楽しむ方を誰もが望んでおきながら、自ら境界を作って敵を作る。とはいえ、『離れ』『分つ』は世の理。仕方なきことか」
「人は境目を作りたがるもの。国境線然り、人種然り、魔法師然り、そして一科生と二科生然り」
突然隣から声が聞こえてくるが、雅季は特に驚いたりしない。
するりとスキマから姿を現したのは境目に潜む妖怪、八雲紫だ。
紫は縁側に置いてある雅季の酒瓶を手に取ると、勝手に懐から取り出した杯に注ぐ。
「その間に潜む妖怪としては嬉しいことでしょう」
「そうね。それはその間に立つ結代も同じ、でしょう」
互いに意味深な言葉を交わしながら杯を呷る。
こうして酒を飲む度に、酒はやはり幻想郷で造られたものに限る、と雅季は常々思う。
(なら、今度は魔法でお酒でも造ってみようかね)
そんな事を内心で思いながら、雅季は紫に尋ねた。
「ところで、あれから何か情報は入りましたか?」
尋ねたものは雅季が魔法科高校に入学したもう一つの理由。
外の世界で八雲紫が捉えた、ある種の情動の波。百年前のものと同じもの。
「いいえ」
扇子で口元を隠しながら、紫は否と返す。
「境界を操ると言えど、世界は広きもの。全ての人を見通すことは適いません」
「そうですか」
雅季は空に浮かぶ月を見上げ、紫に告げる。
「人の世が終われば幻想も終わる。それは結代としては座視できない」
「存じておりますわ。つまり私たち妖怪と結代家は利害が一致しているということ」
そこで会話が途切れ、両者は再び静かに杯を呷る。
幾ばくかの時が流れた後、
「ところで、あの兄妹の家にお邪魔してみたのだけど」
唐突に紫は口を開いた。
「あの達也という子、空を飛ぶ術式を作っていたわ」
「へえ」
雅季は素直に感嘆の声をあげる。
不法侵入については何も言わない。言っても無駄だ。
紫が達也の地下室にスキマを開いてモニターをオンにしてから、達也が振り返るまでの時間はおよそ半秒にも満たない。
それだけの時間があれば、紫にはその術式がどういったものなのか余裕で理解できた。
これが異変解決時の博麗霊夢ならスキマを開く前に気づいたことだろう、勘で。
ちなみに、やろうと思えば達也に気づかれずに術式を盗み見ることだって可能だ。
先程も達也がいなくなってから見れば良かったというのに。
それをせず敢えて痕跡を残したのは、彼女が妖怪ゆえのこと。
何かがいたはずなのに、正体がまるでわからない。人の恐怖を煽ることは妖怪の性だ。
「認識と情報のみで空を飛ぶとは……。でも、それって“大変”そうですね」
「ええ。“大変”そうでしたわ」
常人が、いや魔法師が聞けば首を傾げる会話でも、雅季と紫の間では成り立っていた。
「では、そろそろお暇致しましょう。ふふ、お酒ご馳走様」
雅季が振り返った時には、既に紫の姿はそこには無く、空になった酒瓶だけが置かれていた。
「さて、かのスキマ妖怪は結代を以て何を企んでいるのやら」
得体の知れない、幻想郷の友人知人たちに言わせれば胡散臭い『妖怪の賢者』八雲紫。
だが、その胡散臭さも、『妖怪の賢者』などと大層な二つ名を持つのも、星空を見上げるだけで弾道計算を暗算で出来るほどの知力をあの妖怪が持ち合わせているからこそ。
その計算高さを持って、どんな未来絵図を描きながら『現実』と『幻想』の狭間で動いているのやら。
雅季が神官袴の懐に手を伸ばすと、そこには龍笛が収まっている。
龍笛を取り出すと、雅季は縁側から立ち上がる。
『能力』を駆使するだけで、雅季の身体は宙に浮かぶ。
雅季は空を見上げると、そのまま月夜に飛び出した。
その日の晩、幻想郷のどこからか龍笛の音色が聞こえてきたという。
司波兄妹と幻想の、ほんの僅かな邂逅の話でした。