――最後に戦うならシルク・タングステンだ。
かのギルド連合のナザリック地下大墳墓大侵攻敗北からしばらく経過して、引退を考えるプレイヤーが増えると、誰かがそう言った。そして、それを聞いた十人のうちの九人が肯定した。否定した一人も、九人の意見を聞くと納得した。
シルク・タングステンは遅く、固い。技術は高いが、絶対に先手を取られることがなく、回避されることも稀だ。攻撃力が低いため、大ダメージは受けにくい。攻撃を受けることが前提のビルド構築のため、攻撃が無効化されることもない。特殊技術は質よりも量を重視しているため、基本的な対策さえしていれば問題ない。
シルク・タングステンのPVPの成績は恐ろしく悪い。本人が極端な構築をしている上に、勝てる戦いも今後の布石としてわざと負けることが多いからだが、最重要の理由ではない。それは、引退前のプレイヤーが最後の戦いに選ぶからだ。その中には当然、廃課金者も多い。課金アイテムや使いきりの限定アイテムなどを惜しみなく使い、勝利をもぎ取られた。
全盛期において、シルク・タングステンと戦うことは割りに合わないと誰もが言った。その由来は、彼の圧倒的な耐久力にある。早い話、倒すのに時間がかかりすぎるのだ。おまけに、シルクの煽り方が上手いため、必要以上に課金アイテムを使用したり、隠し玉的必殺技を使ってしまう。だが、それらは『最後の戦い』であるならば、何の意味もないデメリットがある。
おまけに、悪名高きアインズ・ウール・ゴウンのメンバーだ。勝った時の爽快感もあるし、負けても納得ができる。あるいは、負け続ける彼を見ても罪悪感は少ない。彼自身、楽しそうに負けてくれるからだ。余程時間がない限りは、彼も一騎打ちの申し出を断ることはない。
シルク・タングステンと戦った者は人間関係が歪む――という都市伝説もあったが、そのユグドラシルの人間関係を終わりにしようとしているのだ。何の問題もない。
何人ものプレイヤーが彼と精一杯戦って引退していった。百人を超えた時、シルクも自分とのPVPを引退試合にするプレイヤーを数えるのをやめた。……否、一緒に数えてくれるギルドメンバーがいなくなったから、数えるのが面倒になっただけだ。
シルク自身、楽しくなかったといえば嘘になる。本当の意味でのワールド・チャンピオンの全力と戦ったプレイヤーなど、数えるほどもいないのだから。観客も沸いたものだ。相討ちにしてみせた時は、ブーイングがひどかった。その相手が再戦を挑んでくることさえ稀だったが。
ただ、シルクがその気持ちをモモンガに言うことはなかった。メンバーが減り、声に影が差してきた彼に、楽しくプレイしていることを言うのは悪い気がしたからだ。情報収集を怠るようになったモモンガも、シルクがそのような扱いを受けていることを知らなかった。
いつからだろうか?
罵声ではななく歓声を受けるようになったのは。
モモンガに代われ、たっちを呼んでこい、ウルベルトを戻せ、と言われなくなったのは。
試合後に差し出された手を自然と握り返せるようになったのは。
相手を倒すことではなく、自分が楽しむことでもなく、相手の全力に応じることを第一にするようになったのは。
本当に、いつからだろうか。
『アインズ・ウール・ゴウンの残党』と呼ばれなくなったことに、寂しささえも感じなくなったのは。
■
ミリオンが裏切っているかもしれない。
その可能性をパンドラズ・アクターから提示された時、モモンガは頭が真っ白になった。
なぜ、よりにもよってミリオンなのだ。
NPCは製作者―ー創造主に似る傾向にある。設定の空白が多い者に顕著だが、書き込みの多い者にも創造主を彷彿とさせる部分がある。書き込まれた設定に関しても創造主の影響が多々見られる。シャルティアとアウラ―ーペロロンチーノとぶくぶく茶釜の関係がそれに該当するだろう。
だから、ミリオンはシルク・タングステンに似ている。モモンガは――創造主であるシルクですら――ミリオンにどんな設定が書かれているのかは覚えていない。確か、最初は空白だったはずだ。ギルドメンバーが色々とアドバイス(という名の茶々)をした結果、何か簡潔な一文を入れたはずだ。特に印象深いわけでもないから、シルクらしい、極めて適当な一文であるように思う。記憶に残っていない以上は確証などないが。「とんでもない変態である」などだったら覚えていただろうか。
ともかく、某ペンギンのようにナザリックを支配しようと画策するような設定がミリオンにされていないことは確かである。シルクは敵に対しては悪意の塊と呼んで差し支えないほどの行為に及んでいたが、その反動で仲間には優しくしていた。それこそ、鉄砲玉の役割や楯役を進んで引き受けてくれた。彼の「仲間のダメージをすべて肩代わりする」特殊技術にはいつも助けられたものだ。そのことに不平を漏らしたことはない。仲間たちが減ってからもそれらしい発言をこぼすことはなかったため、心底で憎悪を燃やしていたなんてことはないはずだ。
そんなシルクの性質を受け継いだミリオンが裏切った。
パンドラズ・アクター曰く、ミリオンの行動はシルクへの忠義らしい。シルクへの忠義ということはどういうことなのか。なぜナザリックに害を及ぼすであろう行動が、忠義になるのか。実はシルクもアインズ・ウール・ゴウンに不満があったのだろうか。それとも、ミリオンとしては父親がギルド長であるべきだと考えているのか。実際は、パンドラズ・アクターの誤解だったという線もある。ナザリックを出てから連絡はないが。
モモンガはミリオンやシルクのことだけを考えればよいわけではない。とりあえず、モモンガの眼前で盛り上がっている二人を諌める必要があるだろう。
「ドワーフ達を助けるべきです」
「そんな無意味なことはすべきではないと思うがね」
「…………」
現在、モモンガ一行はドワーフの王都にある宿屋にいる。
モモンガは幻術で顔を変えている。鈴木悟としての顔は『漆黒の戦士アインズ・ウール・ゴウン』としての顔であるし、お馴染みの指輪の力を発動している顔は『冒険者モモン』の顔だ。だからこそ、図書館に保管されていた資料などを参考に幻術で新しい顔を作り上げているのだ。職業は戦士の設定だ。件のタレントのおかげで、職業が異なっても装備ができるようになったが、まだまだ本職には及ばない。レベル百の魔法職であるモモンガは戦士職三十三相当の身体能力がある。しかし、その身体能力はあるだけで、技術が伴っていない。
デミウルゴスは指輪の力で人間化している。元々の顔とは似ても似つかない顔だ。黒髪黒目で日本人っぽい外見なのは創造主の正体につられたのだろうか。アウラとセバスは普段と同じ姿だ。
ミリオンの件をパンドラズ・アクターに一任した後、ドワーフと一時期交流があったリザードマンのゼンベルの案内の下、ドワーフの都市に着いたまではいい。だが、その場所はドワーフ達から放棄されており、その理由はクラゴアなる種族の侵攻だった。戦況はドワーフの劣勢。クアゴアに襲われそうになっていたドワーフを助けた(実際は若干違うのだが)ことで、王国には無事に入ることができた。ドワーフの国の事情を軽く調査した後、ドラゴンがいるという旧王都に向かう予定だ。
モモンガ一行はドワーフサイドに対して、『ドラゴン生態調査をしに来た学者の一団』と話してある。デミウルゴスが学者、セバスとモモンガは対モンスターの護衛、ゼンベルはドワーフの王国までのコーディネイター、アウラはその仲介役という設定だ。
「なぜですか、デミウルゴス」
「おっと、デミウルゴスとは誰のことだね。私は‟南方から来たモンスター学者の『ティマイオス』”だが」
「……失礼。彼らを助けたとして、我々に不利益などないはずです。むしろ国家単位で大きな恩を売れるという意味では有意義なはずですが」
「いや、力を示すとなれば我々の正体を、延いてはナザリックの存在を明かすことになる。それはあの方々の方針とは異なる。時が来るまで、我々は正体を隠しておく必要があるのだからね」
「何もナザリックのことを明かす必要があるとは言っていません。この世界でも不自然ではない程度の援助ならば可能だと申し上げているのです」
「だとしても、ここで我々が手を貸す理由はないだろう。それに、この都市を見る限りでは、ドワーフ達でもあと半年は耐えられるだろうからね。それまでは様子見だ」
「半年しか耐えられないと見るべきではないですか?」
「いや、存外長いものだよ、半年というものも。そのあいだに彼らが打開策を思いつく可能性も、まあ、なくはないだろうからね。ここで我々が手を貸してしまえば、ドワーフとしてはプライドを傷つけられたと考えないかね?」
「確かに誇りは大切なものです。ですが、この都市には戦士だけではなく、非戦闘員の一般市民もいます。誇りと同じくらい、命も大切なはずです。貴方ならば既に思いついているのでは?」
「それは買いかぶりすぎだよ、セバス。あの方々ならばともかく、現時点では私にはとても考え付かないよ」
「では、御方々のご意見を……」
「おやおや、セバス。君ともあろう者が御方の手を煩わせるつもりかね? 今すぐ滅ぶわけでもない、利用価値の薄い種族のために、御方々のお知恵を借りようとは」
「彼らに価値があるかどうかはまだわからないではありませんか。彼らのことをよく知ればその素晴らしさが発見できるはずです。それに、自らの利益で命を取捨選択するというのは、強者の傲慢ではありませんか? そのような考えは控えるように命じられていたと記憶しておりますが」
「自分が動けば解決すると考えているのも、驕りだと思うがね」
これである。どうしても、彼らの創造主――たっち・みーとウルベルト・アレイン・オードルを思い出すやり取りだ。空気がギスギスしているが、どこか心地よい懐かしさを思い出すモモンガは二人の言い合いを眺める。
なお、デミウルゴスだけが偽名を使っているのは普段と姿が違うからだ。使い分けは重要だ。なぜティマイオスという名前を使っているかはモモンガは知らない。セバスやアウラに関しては、今後のことを考えて偽名を使った方が面倒になるかもしれないと考えたのだ。ドワーフの国と交流が続くは不明だが。
ちゃんとドラゴンがいることは確定した。判明している情報としては、クアゴア達を支配していること、複数体いること、ドワーフ達では太刀打ちできないということである。ドワーフ達をすぐに殲滅できないところを見るとそれほど力はないのか、あえて隠しているだけなのか。いずれにしても様子見の段階だ。旧王都に到着してすぐに倒そうとするのは無茶だろう。
「……あんた達さー」
「良いんだ、アウラ」
二人を諌めようとするアウラを、逆にモモンガが止める。
「ですが、モードレッド様」
「様はやめろと言っているだ……っと、言っているでしょう」
モードレッドというのが今回のモモンガの偽名だ。シルクに連絡を入れたときに咄嗟に彼が「モーさん」と呼んだために使わせてもらうことにした。確か、『モードレッド』というのは中世の騎士王伝説に登場する騎士の名前だったはずだ。どんな逸話があるかは知らないが。
「今回に限っては、こうして二人に自然なやり取りをさせた方が良いのです。アウラも普段友人に話すような口調を心掛けるように」
「は、はい。頑張ります」
無理っぽいな、と心の中で呟くモモンガ。
「では、モモ、ではなく、モードレッドさ――んの意見を伺ってみましょうか」
「仕方がないね。モードレッドさ――ん。ご意見を戴けますか?」
まさか飛び火しているとは思わなかったモモンガは一瞬反応が遅れた。考える振りをして表情を手で隠す。モモンガとしても考えがまとまらないというのが本音だ。ドワーフそのものにはそれほど価値を感じないが、彼らが作れるというルーンを刻み込んだ武器――結構廃れているそうだが――には興味がある。クアゴアの具体的な戦力は分からないし、ドワーフからの見返りもそれほど期待できない。だが、ドワーフが必要になった時に訪れて、クアゴアに滅ぼされていました、なんて展開は愚かすぎる。
「わ、私の考えを述べても良いですが、その前にゼンベルの考えも聞いてみようじゃないですか」
突然名前を呼ばれたリザードマンはびくりと反応した。
「え、お、俺ですか?」
「他に誰がいる?」
「あー。俺なんかの意見は参考にならないと思いますが……。それ以前に、俺には考えらしい考えなんて浮かばないと言いますか……」
確かに直接的な肉体での戦いを尊ぶリザードマンに、このような話を考えさせるのは酷だったか。いずれはナザリックに属する者として多少は考えられるようになってもらわないと困るが、まだその段階ではない。だが、これを機会にリザードマンの思考能力を知っておくとしよう。
「では、貴方ではなく、ローラならどうでしょうか。もしローラがこの場にいれば、どのような意見を出すのかを答えてください。彼女は貴方達の実質的なリーダーなのです。ドワーフ達をどう扱うかくらいの予想はできるでしょう」
我ながら上手い切り口だと思うモモンガだったが、ゼンベルの反応を見て考えを改める。
「ろ、ローラ様、ですか?」
怯えていた。
この旅の中、彼らは自分たちのちょっとした言動に気を使っていたようには思うが、これほどまでに顕著ではなかった。そこには間違いなく、恐怖や忌避といった感情が見て取れた。
「どうしました?」
「いや、何と言いますか、あの方は怖いんですよ」
「怖いとは、どのように?」
ローラには暴力による恐怖政治をしないように厳命してある。リザードマンを支配するに至った戦いが鞭だとすれば、ナザリックの支配下になったことを飴だと認識させることで、支配のテストケースにするためだ。もしもローラが恐怖政治をしているのだとしたら、改善させるべきだ。
「あー……」
言い淀むゼンベル。それを見て、モモンガは自分やNPC達からローラに話が伝わるのではないかと危惧しているのだと察する。そのため、口調を支配者モードに切り替えて質問する。
「遠慮するな。お前から聞いたと分からないようにする」
「……強いとか、邪悪だとか、遠慮がないとか、怒りっぽいとかじゃないんです。ただ不気味なんです。あの方と話していると、底無し沼に足を突っ込んだみたいな感覚を受けると言いますか」
ローラの兄であるミリオンが守護している領域が底無し沼ではあるが、狙ったわけではないのだろう。直接的な接点はないはずだ。
「それで、ローラ様ならどうするって話でしたけど……」
リザードマンの表情は人間のそれとは違うために、感情が分かりにくい。だが、モモンガの目にも彼の顔に宿っていたものが生理的嫌悪に近い感情であることは明らかだった。
「あの方なら多分、ドラゴンは皆殺しにした後に、クアゴアは共食いに追い詰めて、ドワーフは間引きします」
■
帝都の路地裏にて、シルク・タングステンは一人首を傾げていた。
「ちっ、見失ったな」
有体に言えば、彼は道に迷っていた。もっと俗っぽい言い方をすれば、迷子になっていた。それなり以上の立場にある三十路近いおっさんが、一度出会っただけの男と鬼ごっこの末に迷子になっていた。はっきり言って、バカである。
シルク・タングステンの能力は受け身に特化しているため、自分から能動的に攻撃することは苦手だ。つまり、逆探知は得意だが、追跡は苦手なのだ。恐ろしく下手くそだ。元々の素早さも低いこともあるが、この町の土地鑑は皆無だ。土地鑑がある上、ワーカーとして悪知恵が働くヘッケランの方が有利だった。
なお、ナーベことナーベラルとははぐれた。連絡手段は魔法でどうにかできるため、それほど焦ってはいない。だが、土地鑑のない町において迷子になったことには変わりない。それに、一人になったナーベラルが問題を起こしていないかも心配である。自分がフォローする前提で彼女を連れてきたというのに。
「早くも予想外の事態が続いているな」
シルクは深い溜息を吐き出すと、足元を軽く踏み鳴らす。すると、その影からは悪魔が出現した。
「ナーベを探してこい。見つけたら、闘技場の入り口で待つように伝えてくれ。俺もすぐに行く」
悪魔は深々と頭を下げると、そのまま建物の影に体を沈めた。悪魔に告げた通り、表通りに戻って闘技場に向かおうとしたのだが。
「――期限はまだのはず」
「いやあ、そうねんですがね、フルトさん。上司の方から、返済を急ぐように言われていてですね」
ガラの悪そうな男に少女が絡まれている場面を目撃した。会話に集中しているのか、相手はこちらに気づいていないようだ。
男は。少女の方は見覚えがある。確か、先ほどまで追っていたワーカーのチームにいたはずだ。ある事情から先ほどの男よりも印象に残っている。
「何という巡り合わせ。この世界の神が俺を試しているのかな?」
神様甘くねえ? と内心で逆に文句を言うシルク。他者には報われるべきだと考えているシルクだが、自分がこういう拾い物みたいな幸運に恵まれることは面白くないのだ。今回に限っては、この縁に甘えるとするが。
「――これから仕事があるからもう少し待ってほしい」
「そうは言われても、こっちにも都合があってですね……」
「おい、そこのガラの悪そうな野郎」
「あ? 何だ、お前……」
いくらか軽く腕っぷしが立つ男と言っても、明らかに魔法詠唱者らしき初対面の相手に敵意を放たれれば戦慄するだろう。男がたじろぐと同時に、シルクは一歩詰め寄る。相手に威圧感を与えつつも、逃げられる余裕を残っている距離感を保つ。
「俺は今、非常に機嫌が悪いんだ。このストレスをぶつけても問題なさそうな相手を探していたんだけどさー、良かったら相手になってくれるかな?」
笑顔は威嚇が元になっているという説があるそうだが、今のシルクはその説に強い説得力を持たせるものだった。全く温かみのない表情が、彼の危険度を表現している。
「い、いや、お兄さん、誤解しないでほしいな。俺は仕事をしていただけだよ。このお嬢さんの家がしている借金の取り立てをしていただけで……」
「……ほう? 賭博部門の所属か」
じろりと、シルクは男の目を覗き込む。顔の包帯をズラして、左目を露出させる。明らかに人間の瞳とは違う輝きを放つそれが、男を映し出す。
「出身は帝都じゃないが、それなりに大きい都市。この業界に入ったのは十五を過ぎてから。組織的には下っ端だが、部下が四人いる。ただし、一人は優秀でもうじき自分を追い越しそう。はー、どの業界も大変だねー」
魔法でも使ったのか、男の経歴を並べるシルク。別段、特別な技術ではない。この世界の事情や男の身なりを参考にしている当てずっぽうがほとんどだ。だが、そこまで冷静に考えられるような知性はないだろう。男の感情を隠そうともしない反応がそれを物語っている。
「どうする?」
言外に脅しをかけてくるシルクが、男の目には言い様もないほど恐ろしい怪物に見えた。シルクが手を上げようとすると、それに過剰な恐怖が生まれてきて、反射的に逃げ出してしまった。
男に手を振って見送ると、シルクは名前を知らない少女――アルシェの方を向く。
「よお、また会ったな、お嬢さん」
「――貴方とは面識などない」
「王都で会ったじゃん? いや、俺もつい数時間前なら思い出せなかったんだけど? 人の縁ってやつはどうにも奇妙な繋がりでできてやがる」
警戒を解かないアルシェ。彼女との関係を考えれば妥当な態度ではあるが、じっとシルクを睨みつけている。この場にシモベがいれば攻撃的な態度を取ったであろうが、この場には二人しかいない。視線はシルクから離せないが、アルシェは逃げ道を探している。こうして面と向かえば、先ほどのやり取りや王都での経験がなくても分かる。この男は危険だと。
「そんな目で見るなって。別に助けたつもりもないし、暴力を振るうつもりもないし、俺のことを探っていた理由を聞くつもりもないよ。お話をしたかっただけだ。ちょいと背中を押してやろうってな」
「――背中?」
訝しそうにするアルシェに、シルクは鋭いナイフを突き刺すように告げた。
「お前の両親は一度でも、お前にありがとうって言ってくれたことあんのか?」
その言葉に、アルシェは固まった。警戒心どころか心の奥深い部分がズタズタになるほどの、何かに触れられた。
「両親を捨てようか悩んでいるんだろう? 今の俺の一言で、結構心の天秤が傾いたと思うが、どうかな」
言葉が出てこないアルシェに対して、魔術師は口早に言葉を並べる。
「貴族の出身だが、家は爵位を剥奪されている。返す当てもないのに、借金を繰り返している。数年前まで魔法学院ってやつに通っていて、成績は上から数えた方が早い。現在では、うーん、第三位階まで使えるな。それから下に弟か妹……二人で、これは双子か?」
ズバズバと、アルシェの来歴を当てるシルク・タングステン。
「……そう身構えるなよ。こんなの簡単な人間観察だ」
ちなみに、小馬鹿にするような口調になっていることも、性悪全開の笑顔を浮かべていることも自覚していない。人を騙すことが得意であることは、人に信用されやすいことと同義ではない。シルクはむしろ人間の疑心を利用している。無自覚で。
もっとも、今回に関しては騙すつもりも利用するつもりもない。当然、信用される予定もない。ただ、警告をしたいだけだ。
「まあ、ネタだけばらすとな。お前によく似た雰囲気のガキを知っている。まだ歳が二桁になる前の話だ。俺が……いや、私の友人にはなれなかった相手の一人だ」
「――その人は」
「死んだよ」
冷たい声だった。
「苦しんで死んだ。悼まれずに死んだ。自分の命に代えてでも守ろうとした彼の妹も死んだ。せめて、彼が旅立ったのが善なる神の御下であることを願うよ」
そうでなければ報われないと、無表情で彼は呟く。顔や声には感情が見えないが、ないのではなく、隠そうとしているのは明らかだった。
「愛を放棄した親は、もう親じゃない。人間ですらない。人の皮を被った悪鬼だ」
知ったようなことを言うなと否定するのは簡単だった。シルクの顔に、憂いが浮かんでいなければ。強い後悔にも似た感情が見えていなければ。
そして、はっとする。アルシェだって、そう思っていたはずだ。あの両親はもうどうしようもないと、王国から帰還した時に理解したはずだ。なのに、どうして今の彼の言葉を否定しようなどと考えたのか。他人だからか、両親よりも下のヒトデナシだからか。あるいは、アルシェはまだ両親を捨てきれていないのか。
「……関係のない話なんだけどさ。帝国貴族の一部で流行っている邪神信仰について知っているか?」
そんな雰囲気で始めた話が本当に関係のない話だった試しはない。身構えて、彼の言葉に耳を傾ける。
邪神信仰については噂程度ならアルシェも聞いたことがある。だが、彼の口ぶりからすると、噂ではなかったようだ。国の暗部をどうしてこの男が知っているのかはどうでもよかった。
「そこではな、信徒になった人間に神への捧げ物と称して、人を殺させる儀式をやっているみたいなんだ。実際は貴族の弱味を握るための教団側のでっち上げなんだが……。いやあ、殺す命ってのはどういう風に選んでいるんだろうな。そこらへんの浮浪者を殺してもしょうがないよなー。生贄にする人間といえば、昔から少女と相場が決まっているが、調達は難しいよな。売るってやつがいれば、高く買い取るんだろうけどよー」
それを聞いて、アルシェの顔が強張った。彼の言いたいことを理解した。理解してしまった。
「有り得ないと思うか? そこまでしないと思うか? そんなことはねえんだよ。堕ちる奴はどこまでも堕ちる」
悲しい顔をしていた。どこまでも悲しい顔だ。モモンガが見れば、「そんな顔もするんですね」と言ったであろうほどに、滅多に浮かべない彼の悲痛。
「もう一つ、関係のない昔話をしよう。ある屑みてえな少年の実体験だ。そいつは年齢が二桁になる前には、親に無理やりある仕事をさせられていた。まあ、誰にだって簡単にできる仕事だ。そう、ストレスの溜まった大人の相手をするだけだ」
その言葉の意味が理解できないほど、アルシェは真っ当な世界を生きていない。貴族だった頃の自分であれば否定しただろうが、ワーカーとして社会の闇部分を嫌でも知ることになった。そして、それが作り話でも聞いただけの話でもないことは、嫌と言うほど伝わってきた。
「何よりもそいつにとって不幸だったのはな、そいつが一番不幸じゃないってことを実感していたからだ。具体的にどう不幸だったのかは、それがそういう場所だってだけで想像できるだろう? 自分が殴られたり蹴られたりしている横で、それ以上のことをされていたら、そりゃ自分が一番不幸じゃないって嫌でも理解する」
自分が不幸でないことを実感していないことは不幸だ。だが、自分が不幸であることを実感してしまうことも、自分がいる場所を底辺ではないと理解してしまうこともまた不幸なのだ。実感して理解してしまった以上、目を逸らすことなどできるはずもない。
「だから、底辺に落ちないためには何でもやったよ。その過程で色々と覚えた。人間の思考を学習した。人間の醜悪さだけを知るはめになった。人間ってやつは、どうしようもねえと知った」
幸福の方向性など人によって異なる。だが、何が不幸であるかはおおよそ同じなのだ。金がなく、愛がなく、死がそばにある。
「俺より不幸な人間はいくらでもいる。だけど、俺が不幸じゃないわけじゃなかった。幸運なんて考えは、大人が盗んでいきやがる。どこにも神様なんていない。誰も人間なんかじゃない、ヒトデナシしかこの世にはいない。そういう世界で生きてきた」
選択肢など最初からなく、選択権など永遠にないはずだった。ルート分岐などどこにもない。自分がどれだけの奇跡の上になっているか、シルクは自覚している。おそらく、自分の人跡には分岐点などなかった。あるとすれば、ユグドラシルに最後まで残ってしまったことだろう。それにしたって、残る以外の道は考えられなかった。こんな世界に来るとは予想できるはずもないのだし。
「変えられるうちに変えておけ。逃げられるうちに逃げておけ。信じられるものがあるなら、それが無事なうちに行動すべきだ。失ってからだと遅いぞ。見ず知らずの誰かなんて、誰も助けてくれないんだからさ」
そんな当たり前のことはアルシェだって知っている。どんな汚いお金でも人は生きていける。お金がなければ生きていくことはできない。貴族でなくなった自分や妹達を助けてくれるものなんてない。自分がワーカーとして働いているからこそ、妹達は生きているのだ。それを、ちゃんと、知っていたはずだ。理解していたはずなのに、この男はその認識を否定している。――お前は世界に甘えている、と罵倒してくる。
「君の友達はいい奴かい?」
「――うん」
「そっか。じゃあお前もいい奴なんだろう。いい奴は幸福になるべきだぜ? 俺にもいい奴と言える友達はいるんだけど、一人だけとんでもねえ屑野郎がいるんだよ。あいつを友人と言えるあたり、俺もヒトデナシだって自覚するんだよな」
その昔、一緒に太陽を見たよ、とシルク・タングステンは嘯く。
「何だろう。あいつのことを話していると、ちょっと不安になってきた。あの野郎、どっかの誰かに俺を殺すように頼んでいるような気がする。だけど、そこに悪気はなくて、本当は頼んだ相手に死んでほしいか、俺と相手に仲良くしてほしいかのどっちかな気がする。俺が悪意の塊だとすると、あいつは理不尽な善意の権化だよなー」
「――その具体的な直感を口にするのはやめてほしい。巻き込まれそう」
「否定できないな。自重しよう」
そこは否定してほしかったアルシェ。
「てか、大切な相手だからって大事にしていればいいって話じゃないよな。見捨てることも時には必要だ」
「――大切なのに?」
「大切だからこそだよ。この世界の地面に立ってから俺はずっと後悔している。何でつまんねえ意地を張って、最後まで残ったんだろうってな。いやはや、笑えるくらいの偽善者だ! 人間の振りなどするから、こうなるんだ。生まれながらのヒトデナシのくせにな!」
何がおかしいのか、けらけらと笑った後、シルクは立ち上がる。どうやらこの場から立ち去るようだ。もう少し話していたいという思いを抑えるアルシェに、シルクは何か思いついたように訊ねた。
「あ、そういえば、名前。お前の名前、何てーの?」
アルシェは自分の名前を言いかけて、先程の会話の内容を思い出す。そして、頭を振って、言葉を紡ぐ。二度と出会いたくないヒトデナシに向けて。
「――貴方に名乗れるような名前はない。どうか私のことは忘れてほしい」
「そっか。俺、記憶力ないからすぐ忘れるよ」
言外に「それでいい」と伝えて、シルク・タングステンはその場を後にした。彼の姿が見えなくなるとほぼ同時だった。
「はあ、はあ……。あ、あれ、アルシェか」
「――ヘッケラン」
同じワーカーのチームのヘッケランが路地の角から現れた。何かから逃げてきたかのような表情と疲労感だ。顔も汗だくで、時折背後を振り返る。アルシェが反射的に、というか先ほどまで話していた相手の顔が思い浮かぶ。
「はあ、はあ……。早くこの場所から離れるぞ。ほら、王都のあいつ。あの変な魔術師が帝都に来ていてな……」
「――突然で悪いけど、話がある」
その日、一つのワーカーチームが解散を決定した。
シルクとフォーサイトの縁はこれまでです。バラバラになることも、洗脳されることも、体重が増えることもないでしょう。
原作のようにナザリックに侵入していた場合、アルシェは星獣にされます。人間でなくなった彼女が『最初に何をさせられるか』はご想像にお任せします。