──あ。
距離にしておよそ二百メートルくらいか。あたしの足ならダッシュすれば30秒くらいで着く距離だ。
その30秒先にある、隣のショッピングモールから続く歩道脇のベンチ。そこに、覚えのある猫背が見えた。
総武高校の男子の制服。その頭にはぴょんと跳ねた癖っ毛が揺れていた。
すぐに道行く人達に隠れてしまったけど。
立ち上がって眼を凝らし、再び往来が途切れる瞬間を待つ。
10秒、20秒……あ、チャンスっ。
うむむ、よく見えない。
自分の目にズーム機能が欲しい。チャリンとコインを入れれば5分間見えるあの観光地の望遠鏡でもいい。
とにかくあのベンチに腰掛ける猫背の制服姿の男子を確認したい。
だけど今はお店が混み合う夕方。一瞬見えたそのシルエットは、あっという間に行き交う人の群れに隠されてしまう。
「今の、やっぱり先輩……だった?」
うーん、先輩の様な、でも違う様な。
でもでも、風に揺れるあの特徴的なアホ毛の持ち主は二人しか知らない。その内の一人は現在生徒会室でお茶を啜っているはず。
じゃあ、あれはやっぱり──。
だめだ。
これはもう直接確かめなければ後々の生徒会の仕事にも影響する。主にあたしの精神面において。
だって、先輩がいてくれたから今まで頑張ってこれたんですよ。
先輩が説得してくれたから、嫌がらせで立候補させられた生徒会長をやる決意をした。
先輩が助けてくれたから、海浜総合との合同クリスマスイベントも何とか乗り切れた。あと、さりげなく荷物を持ってくれるのはあざとかったけど、嬉しかったな。
ディスティニーランドで葉山先輩に振られた後も、先輩が傍にいてくれた。振られたのはすごく悲しかったけど、先輩のお陰で寂しくはなかった。
まあ……振られるのは分かってたけど。あれは自分の中での区切りというかケジメみたいなものだったし。
思い返すと、随分助けられたなぁ。
『責任とって、くださいね』
去年のクリスマス前の、あの時を思い返す。
誰もいない終電間際の電車の中とはいえ、我ながらあんな大胆で恥ずかしい台詞を口に出せたものだ。
しかも、先輩の耳元に口唇を寄せて。
先輩の耳に、あたしの吐息が届く距離。互いの頬の熱が伝わりそうな距離。
先輩とあたしの最接近だ。
あの時の先輩、耳を真っ赤にして困ってたなぁ。
今思い出しても体温が少しだけ上がってしまう。
──と。
ダメダメ、今は想い出に浸っている場合じゃなかった。
会わなきゃ。
敷石の歩道に躍り出る。
さっき目を凝らした先に向かって、軽い足取りを気取って一歩、また一歩と歩く。そのうちもどかしくなって、早足。そしてついには駆け出す。
速度を上げると柔らかな空気は風となって容赦なくあたしの前髪をバラバラに分解していく。
更に足の回転を上げると、ぱたんびたんとみっともない音を立ててローファーの靴底が敷き詰められたタイルを叩く。
みっともない。そんなの到底可憐な乙女の足音ではない。けど、気にしていられるか。
今あたしは。
先輩に会わなきゃならないんだ。理由なんてどうでもいい。こじつけた言い訳なんて要らない。
ただ、会いたいんだ。
「あっ」
走って、走って。人の波が途切れた先。ベンチに腰掛ける先輩の姿が見えた。相変わらずの猫背で何だかほっとしてしまう。
きっと先輩のことだから、女子二人の買い物の長さに辟易して休憩しに来たんだろうなぁ。
普段なら減点対象ですけど、今日は許してあげますね、なんて。
「と、と、と」
慣性の法則に逆らって急制動をかけ、スパイの様にささっと木陰に身を隠す。
木陰からちらっと標的を確認し、コンパクトを取り出してチェック、手櫛で跳ねた前髪を整える。
よしっ大丈夫。今日もかわいいよ、いろはちゃん。
そのまま鏡の中で二、三度笑顔の練習をして、いざ行かん。
何気なく、さりげなく。さもこの先に目的の店があるかの如く気分を装う。
あたしは、たまたま買い物に来たんだ。そして奇遇にも先輩に出会うんだ。
だから、先輩があたしに気づくまでは決して目線は先輩のいる方へは向けてはならない。
あくまで偶然だから。たまたま通りかかったら偶然先輩に声を掛けられるだけなんだから。
もう少し、あと少しで先輩が座るベンチ。
さあ、さあさあ。
もう直ぐ可愛い後輩が通りますよ。
いつでも準備万端です。遠慮なく声をかけてきてくださいね。
ううっ、ドキドキする。なんでこんなに心臓が踊るんだろう。それになんか汗が出てきちゃう。まだ汗ばむ季節じゃないのに。
熱くなった顔を隠す様に俯いて、ベンチの前に差し掛かる。
早く。早く、先輩──。
──あれ?
あれれ?
あたし、もう通り過ぎちゃいましたよ?
もしかして、まったく気づいてない、とか?
またラノベでも読んでるのかな。
こうなったら不自然だろうが何だろうが構いはしない。引き返して、あたしから話し掛けてしまおう。
そうだ、最初からそうすれは良かったんだ。何も小細工する必要なんて無かったんだ。
いつも通り無遠慮で不躾な後輩として、ずかずかと先輩の領域に踏み込めば良かったんだ。
まったく、先輩ったら世話が焼けるんだから。
ブーメランの様に弧を描いて、くりんと素早く転回する。どーです、見ましたか先輩。これが葉山先輩直伝のクライフターンですよっ。
その自称クライフターンの瞬間、視界の隅に映った景色は、さっきとは違う光景だった。
「あ、あれ……いない」
さっきまで先輩が座っていたベンチでは、若いお母さんがベビーカーを傍らに停めて小さな子供を休ませている。
あらかわいい、いくつなのかな〜じゃないっ。
先輩は、先輩は何処に行ったの?
「あ」
きょろきょろと目を走らせると、向こうのショッピングモールの中に入って行こうとするアホ毛が、もとい先輩の後ろ姿が。
くううっ、逃がしてなるものか。
こうなったら先回りだ。正面からすれ違えば、いかに先輩といえども気づかざるを得ないはず。
よし、ダッシュで別の入口から入って、先輩を待ち伏せしてやろう。結衣先輩や雪ノ下先輩に見つかっちゃうかも知れないけど、そん時はそん時だ。
てか今日のあたし、走ってばっかりだなぁ。あーあ、また前髪崩れちゃった。
別の入口に向かって走っていると、前方の自販機前に気配を察知。
あのお団子頭は……結衣先輩だ。その横には黒髪ロング、雪ノ下先輩もいる。
おっと、これは予定外。
再びスパイの如く木に身を隠しながら近寄ってお二人を覗き見ると話し声が聞こえる。
「もうっ、ヒッキーったら何処行っちゃったのっ」
「仕方ないわよ。あれだけ騒ぎながら長時間商品を選んでいたら、誰だって店員の目が気になるわ。比企谷くんの性格ならば尚更よ」
むむむ、やっぱり三人揃って仲良く買い物ですか。その割に雪ノ下先輩の表情が優れませんね。しかもお二人も先輩を探している様子。
「ご、ごめんね、なかなか決まんなくて。ゆきのんも疲れちゃったよね」
「いえ、まだそれ程は疲れていないわ。まあ、それなりに楽しかった、のかしら」
「──ゆきのんっ」
あちゃー、結衣先輩ったら公衆の面前で雪ノ下先輩を抱き締めちゃって。
「ゆ、由比ヶ浜さん……暑いのだけれど」
「ご、ごめん」
「いえ、以前ほど嫌ではないから構わないのだけれど」
「前は嫌だったんだ!?」
「慣れというものは恐ろしいわね」
──何だろう。
結衣先輩と雪ノ下先輩の距離が近い。
物理的にも近いけど、何より縮まっているのはお二人の距離感だ。以前よりもお互いに遠慮しなくなっている様に見えた。
これもバレンタインの日に何かがあった影響、なのかな。
心の中を疎外感が吹き抜ける。
奉仕部のお三方にとってのあたしは、いつまで経っても新参者の生意気な後輩なのだろうか。
結衣先輩と雪ノ下先輩、それに先輩。
あの三人と肩を並べる日は……。
ううん、ダメ。
こんなのあたしらしくない。
「──由比ヶ浜さん、向こうも探してみましょう」
「あ、待ってよ、ゆきのんっ」
雪ノ下先輩が歩き始めた方角は、先輩がいたのと全く逆。
どうしよう。
出て行って教えるべきか。
いやいや待って。そんなことしたら怪しまれる。なんであたしが先輩の居場所を知ってるの、ってことになる。
何か此処にいる言い訳が必要だ。
そうだ、生徒会の備品を買いに来たという名目にしよう。それなら此処にあたしがいても不自然じゃない。上手くいけば先輩たちとご一緒出来るかも知れないし。
よし、結衣先輩の所へ……あれ?
いない。雪ノ下先輩の姿も見えない。
やっちゃった。また見失っちゃった。
あたし、何してるんだろうな。
「──おい」
くっそー、何でいなくなっちゃうの。先輩も、結衣先輩たちも。あたしがいるのを知ってて弄んでるんじゃないでしょうねぇ。
「……おい、一色」
あーもう、誰だか知らないけどうるさいなぁ。
「なんですかもうっ、人が考え事してる時にっ……へ?」
自分でも驚く程の剣幕で振り返った先には、ビビり顔の──先輩がいた。
やっちゃった。
「あ、いや、悪かった。考え事の邪魔してすまなかった。じゃあな」
バツの悪そうな顔を残して立ち去ろうとする先輩の制服、その裾を思わず摘んでしまった。
先輩は驚きと困惑が混じった顔で振り返る。
「あ、その、違い……ます。今日は、生徒会の備品を買いに、その……」
あれ。あんなに京葉線の車内でリハーサルしたのに、練習した台詞が全然上手く言えない。
てか別にここにいる理由なんて聞かれてないじゃんっ。何を自分から怪しまれる発言をしてるの。
落ち着け、落ち着け。そう念じるほどに焦っていく自分が分かる。
「そ、そうか、じゃあ……なっ!?」
「ま、待ってくださいっ」
再び立ち去ろうとする先輩の制服の裾をぐいと強目に引っぱってみたものの。
ううっ、気まずい。
話題、何か話題は……あ。
「せ、先輩は何してるんですか。今日は部活休みなんですか」
「あ、ああ、ちょっと買い物に、な」
答えながらも先輩の視線は、あっちを向いたりそっちを向いたり忙しそうだ。
あのお二人を探してるんだ。あたしが目の前にいるのに。
でもまあ、それが先輩ですよね。
頭をフル回転させる。
ここでお二人が行った方向を教えてあげれば先輩は助かるし、あたしも先輩に恩を売れる。
でも、もう少しだけ一緒に……。
頑張れいろはっ。
いつもの調子で言っちゃえ。
「ちょうど良かった、買い物に付き合ってくださいよ〜」って。
ほれ、早く。
先輩があのお二人のことを口に出す前に。
「そういや一色、雪ノ下と由比ヶ浜を見なかったか?」
……はいタイムアップ。
もう、ぐずぐずしてるから。仕方ない。素直に情報を提供して、いつもの様に貸しを作っておくか。
「ゆ、結衣先輩たちなら……向こうに行きましたよ」
「お、そうか。いやあいつら急にいなくなったから探してたんだよ。助かったわ」
「いやいや、先輩が女の子の買い物の長さに疲れて逃げ出しただけなんじゃないですかぁ?」
ぎくりというオノマトペが聞こえそうなくらいに先輩が驚いた顔を向ける。
「……なにお前、見てたの?」
「見てなくたって分かりますよ、そのくらい」
逃げ出したと言ったけど、実際は違うのだろう。
先輩のことだ。自分と一緒に買い物してる結衣先輩たちの姿を誰かに見られたくなくて、さりげなく離れたのだ。
結衣先輩や雪ノ下先輩が悪く言われない様に。
本当、自己評価が低いんだから。
「ま、ありがとな、助かったわ」
よっこらせ、と、手に提げた紙袋を持ち直して先輩があたしの前を通り過ぎる。
だめ、だめっ。
気がつくと、あたしは先輩の後ろから襟首をつかんでいた。
「うわっ、何だ、何か悪いことしたか?」
「……してないですけど」
「なら、何だ」
「あ、あたし、もうすぐ誕生日なんですけどっ」
「おう、知ってる。だから今日……あ、いや、何でもない」
え。
え、え、え。
──ええっ〜?
それって、今日奉仕部のお三方が買い物に来た理由って、もしかして。
咳払いをひとつ。先輩が真剣な眼差しを向けてくる。
「いいかお前、今日ここで俺に会ったことは忘れろ。つーか間違ってもあいつらには言うなよ。でないと俺の身が危険だ」
「へ? なんでですか?」
「──理由は言えん」
「はあ?」
本当はもう察しはついている。だけど、まったく分からないふりをして、可愛らしく小首を傾げてみせる。
それもこれも、先輩がそそくさと立ち去ろうとするからですよ。
「あー、とにかくお前、自分の誕生日を誕生日当日まで忘れてろ」
何て言い草だ。
年に一度の日を忘れろなんて。それに忘れなきゃいけない日までその日のことを忘れていろなんて、矛盾しまくりだ。
「無茶言わないでくださいよー、忘れられるわけ無いじゃないですか」
「そうだろうな。だからせめてここで俺と会ったことだけでも忘れろ、な」
まったく。先輩は何も分かってない。
そっちの方が忘れられませんよ。どんなに些細なことでも、先輩との大事な想い出なんですから。
「忘れられるわけ……ないですって」
「お前って、そんなに頑固な奴だったか?」
「知らなかったんですかぁ?」
「いや、まあ、知ってたけど」
……へ?
何それ何それ。
嬉しい、けど。
「な、何ですかそれ。お前のこともしっかり見てるぜっていうアピールですか。かなりグラッと来ましたけど今日のところはごめんなさいっ」
「──その無駄に振られた回数、そろそろ三桁の大台に乗るぞ」
え。
先輩、あたしが冗談で振った回数までカウントしてくれてたの?
几帳面というか、よく見てるというか、心をくすぐるのが上手過ぎです。でもそれ無意識で言ってるんですよね、先輩は。
はぁ、先輩と付き合ったら苦労しそうだなぁ……って、違うからっ。
……いや、違わないけど。
「ま、そのうち由比ヶ浜あたりから連絡がいくだろ。それまで大人しく沈黙を貫いてろ」
あ。
言葉の途中でちらっとあたしを見た時の、照れる様な優しく柔らかい目。
見ちゃった。ばっちり見ちゃった。
「……分かりました」
まあいいです。
今日はこのくらいで勘弁してあげます。色々とご予定もあるみたいですし。
でも、すっごく楽しみにしてますよ。
あたしの十七歳の誕生日は、もうすぐなんですからねっ。
了
「一色いろはは疾走する。」をお読みいただき、本当にありがとうございました。
明日、4月16日は一色いろはの誕生日。
きっと数多くの誕生日SSが投稿されるでしょう。
なので私は敢えてその前を書きました。
というわけで少し早いですが、
☆★☆ HAPPY BIRTHDAY いろはす ☆★☆