明日の7時、12時でそれぞれ一本ずつ更新する予定です
『畳の宇宙』
いぐさの一本一本を数えていれば宇宙が見えるような思いだ。
幾重にも折り重ねられたいぐさはどこまでも終わりなく、俺はついに千九百の大台まで数えることが出来た。俺は姿勢が悪いから正座し続けていると足がしびれてしまう。なんとか気を紛らわせるためにいつからか畳の網目を数え始めるようになったのである。
単純作業や毎日の習慣には哲学が宿ると誰かが言っていたような気がするが、俺も畳の網目を数えていると次第に意識が遠い場所へふよふよと飛んで行き、まるで天の川銀河と平行に飛んでいるような気持ちになってしまう。網目はどこまでも続くのだ。千九百二十七。千九百二十八。千九百……。
「あのような行い。西住流の子として恥を知りなさい」
どこかで誰かが身体をびくつかせたような気がする。どこかで誰かが悲しそうな顔をしているようだ。
とにかく、俺には関係のないことだ。俺は片手を畳におき、引き続き爪でたぐるようにしていぐさの網目を数えはじめる。これは邪道である。いぐさが痛んでしまうから本来ならばあまりやりたくないが、せっかく二千に届きそうなほど数えることができたのだからとなりふり構っていられなくなる。
「あなたも、西住流の名を継ぐ者なのよ」
誰かがしゃべっている。
「西住流は何があっても前へ進む流派。強き事、勝つ事を尊ぶのが伝統」
誰かがしゃべっている。
「母さん。でも、死んじゃうかもしれなかったんだよ」
俺がしゃべっている。
俺に向けられた視線は突き刺さりそうなほど鋭かった。
「一意、これは戦車道の話よ。黙っていなさい」
宇宙はどこまでも広い。俺はこの畳を宇宙として見ることが出来る。
いつのまにか姉さんがどこかへいなくなってしまった。
『うちは全員西住ですが?』
姉さんと二人で道を歩いていたところ、後ろから「西住殿~!」と声をかけられて二人して振り返る。
「あ、あぅ」
「優花里さん、ふたりとも西住だから……」
「もしもし、西住さんいますか? だね」
「お母さんが『うちは全員西住ですが』って言ってたの怖かったよね」
「西住流家元に言われたらもう何も言えません……」
昔はよく姉さんたちの戦車道仲間が家に電話をかけてきてはそれで自爆していたような気がする。あのころは幼いこともあって携帯ももっていなかったし、俺やみほ姉さんならともかく、母さんやまほ姉さんが出ると『西住ですが?』になってしまうのでかわいそうだった。
「というか秋山さんはなんでみほ姉さんのこと西住で呼んでるんですか?」
「うぇえ!? いや、そのぅ、私などが西住殿を名前で呼ぶなんて畏れ多いというか、今までずっと西住殿と呼んでいたから慣れてしまったというか……」
話しをききながら女の子同士っていろいろ難しいんだなあと思っていたが、隣を見るとみほ姉さんがなんとなくむずがゆそうな顔をしているのに気が付く。その顔をみながらこういうところはあんまり変わっていないんだと少し笑う。
「でもみほ姉さんは名前で呼んでもらいたがってますよ」
「あっ、い、一意!」
顔を真っ赤にした姉さんに怒られながらけらけらと笑う。秋山さんもあわあわするばかりでなにもできず、俺は朝の仕返しを出来た気分だ。最後に勝つのは末っ子だなとほくそ笑む。
「に、西住殿がそうおっしゃるのでしたら私は!」
俺が完全勝利に震えていたところ、意を決したような秋山さんの声がそれを止めさせた。姉さんもびっくりして目を丸くしながら秋山さんを見ている。
「えっと、私も、優花里さんのことは大切な友達だと思ってるから」
そういって姉さんはゆっくりと二度息を吸い、秋山さんのことをまっすぐに見つめる。
「名前で呼んでもらえると、すごく嬉しいよ」
「っ、ぅ~! みほ殿!」
「はい! 優花里さん!」
「なんだよこれは」
姉と友人の美しい友情を目の前で見せられ、なんだよこれはという気持ちになっていた。これがひとをからかった人間の報いなのかという言葉が胸中に泡のように浮かび、そのままやはり泡のように消えていった。
『素敵なカバさん』
大洗の練習を見学させてもらい、その後にあんこうチームの面々とともにお昼を食べる。
「それにしてもみぽりんと一意君、本当によく似てるよね」
並んでサンドイッチを食べる俺と姉さんを見て武部さんがしみじみとした声をあげた。
「確かに、初めて一意殿をみた時は驚きました」
「おりょうさんなど、ドッペルゲンガーかと思っていましたね」
改めてそう言われると色々と思い出すことがある。中学時代には女顔とからかわれたりして随分腹を立てたものだが、最近はそういうことも少なくなった。
「俺はちゃんと声変わりしたので、声を出すとすぐわかるんですけどね。もう少ししたら髭も生えるんじゃないかな」
「それ良くないよ! せっかく綺麗な顔してるんだから絶対脱毛しなきゃ!」
脱毛!
男に脱毛させようというのはかなり無茶な要求のように思える。最近は男でも化粧水を付けたり脛毛を脱毛したりするようだが、俺にはあまり関係のないことだと思っていた。
「自分の長所を伸ばしていかなきゃね」
「しっかり女装させたら沙織よりも美人になるかもな」
「麻子ひどい!」
麻子さんの毒舌に俺自身もなんとなく複雑な心境になる。俺も男に生まれた以上ロンメル将軍のようなダンディな男になりたいとつくづく思っているのだが。
そう意見を口にしたところ、姉さんからこらえきれず失笑が漏れたのを見て猛烈に機嫌が悪くなった。
午後の練習がはじまってからも憮然として戦車を眺めていると、邪魔するよ、と声がしてすぐ隣にエルヴィンさんが腰かける。いまだに本名を教えてもらっていないんだが、もしかして自分でも忘れているんだろうか。
「どうした少年。ご機嫌斜めかな」
うわなんだこのひとかっこいいな。こんなかっこいい第一声を放つ人は生まれて初めてなのでびっくりしてしまう。俺はそのあまりの先輩風におそれをなし、とつとつと先ほどの理不尽をエルヴィンさんに相談し始める。
「なるほど。それは確かに隊長も配慮が足りないかもしれないな」
「でしょう。姉さんは昔から俺を侮るんですよ」
「だが君も」
俺の言葉を遮るようにしてエルヴィンさんが言葉を発する。俺がハッとして彼女の方を見ると真摯なまなざしでじっと見つめ返された。
「それぐらいのことで感情を表に出しているようではまだまだだな」
肩を掴まれ、熱っぽい視線で見返される。
「いいか、自分の人生は、……自分で演出する。そうだろ?」
「ろっ、ロンメル将軍!」
「決まったな」
「決まったぜよ」
「そうかぁ?」
いつの間にか周囲を取り囲んでいたカバさんチームの面々からかわるがわる声がかかる。うろたえているうちに四人からかわるがわる背中をどやされ頭を撫でられ、腐るな腐るなと声をかけられた。
「素晴らしいことじゃないか。長く離れていた家族なのに会えば昔と同じように接することが出来る」
左衛門佐さんが隣にあぐらをかいて座り、呵呵と笑ってまた俺の背中をたたいた。それからはまたいつも通りの歴史談義が始まり、今回は兄弟編ということで最終的にはアベルとカインまで話が飛んでしまう。
はっきり言って話の半分ぐらいは何を言っているのかわけがわからないんだが、それでも彼女たちの会話の軽妙さに笑顔があふれた。
遠くに姉さんの指揮するⅣ号が見え、先ほどの言葉を考える。
「そんなもんかな」
大洗女子チームとの午後はそんな風にして過ぎていった。