夕方頃東京について一泊し、翌日も東京観光を楽しむためにもう一泊することにした。
ホテルに泊まる際に猫をどうしようかと考えたが、バイクを停めるとすぐにリュックから飛び出して夜の街に消えていった。都合の良いやつである。夜の間に怖いひとにつかまって三味線にされちゃわないかとか考えていたのだが、翌日姿を見せると三匹ぐらい子分をひきつれて番長の風格を出していたので心配して損したと思う。
生まれて初めての東京は刺激的だったが、とにかく人が多くて辟易したというのが正直なところだ。道行く人はみな歩くのが早く、そして街中から耳が痛くなるような音量で何かが聞こえている。熊本も都会ではあるし一番栄えているところはそう大差ないように思えるが、東京の凄いところはそれがどこまでも続いていくところだと思う。果てしなく続くビルの森と雑多な情報。そして人の群れ。
俺は観光の後ですっかり疲れてきってベッドに倒れこみ、翌日ホテルのビュッフェで朝ごはんを食べながらため息をついた。気がついてはいたのだが、俺って本当に田舎者なんだなあと思う。オレンジジュースを飲みながら外を見ていると、見覚えのある不細工な猫が大量の子分をひきつれて街を闊歩している。あいつを気にするとろくなことがないと思った。
見るものはいくらでもあるような気がしたが、何も見る必要はないようにも思える。少なくとも表面上は。ここは目的のない人間にとってあまりにも空虚な街だった。
俺はその日の昼前に猫をリュックに詰め込み東京を後にした。
俺は孤独な再開だったが、猫は大勢の子分に見送られて誇らしげである。俺もこれぐらいのバイタリティを身に付けたほうがいいのかと思う。
いくつかの道を抜けて国道一号線に乗る。ここから先はしばらくこの道を走り続けることになるだろう。
交通量が多くとても広い道だ。千葉に入ったあたりから何車線もある横幅の広い道が増えてきて、これが全て車で埋まることがあるのだと想像すらできない。その全てに意味があるなどということは現実感のない事実で、何もかもが巨大すぎて曖昧としていた。この大都市を走る全ての車が目的をもってどこかに向っているなんてどうして想像できる。
そしていま俺もそのなかのひとつだと。
横浜駅あたりで道を曲がり、海辺の公園で一休みする。どうやら予想以上に人に酔っていたらしい。ベンチに座って掌で顔を包み、大きく息を吸い込む。大丈夫。俺はすこしびっくりしているだけだ。頭の中で何度もアキからもらった言葉を繰り返す。だが、なんだか嫌な予感がして仕方ない。猫がすぐ隣に座り込み、ふてぶてしく体を投げ出した。その姿に悪態をつくことすらできない。
どうしようもない気分の悪さに俯いていると、視界の端に真っ白なハンカチが差し出された。
「ひどい汗ですわ」
見上げると、金色の髪をした美しい女性が目の前に跪いてこちらを見詰めている。彼女の言葉で全身が汗にぬれていることに気が付いた。
上手に声を出せないでいると、ハンカチを持ったその手が俺の頬を撫でた。
「あ、あの」
「健康は目的ではないが、最初の条件なのである」
きょとんとして目をしばたかせると、彼女はそんな俺の様子を見ていたずらっぽく笑う。涼やかな瞳と凛とした雰囲気で、俺の周囲にさわやかな風が吹き抜けるようだった。
「体調にはくれぐれも気を付けなくてはいけませんわ」
顔を覆っていた汗をぬぐうと彼女はそう言って俺の手にハンカチを握らせ、立ち上がって少し遠くを見つめた。
「中華街で美味しいものでも食べるのが良いのではなくて?」
去っていく彼女はどこまでも優雅で、俺は掌に残されたハンカチに目を落とす。のろのろと猫がよってきたので額を押してハンカチから遠ざけた。
生まれて初めての横浜中華街にはとにかく圧倒された。
まずだいいちに色彩感覚が日本のそれではない。色彩鮮やかな甍に覆われた門には毛筆体で『中華街』と書かれ、その周囲がいわゆる『禁色』の縁で覆われている。なんというかもうこれぞ中華街というほかない。昔みたアメリカのチャイナタウンを舞台にした映画はこれほどあからさまではなかったため、まるである種のテーマパークに迷いこんだようにすら思える。
俺はその一画に入ったごく最初期になんだか押しの強いおじさんにつかまり、言われるがままに買ったタピオカジュースを飲んで中華街を巡り始めた。まあまあ美味しいから良いのだが、もしこれでひどいものを掴まされていたらショックのあまり今日中に神奈川県から脱出していたような気がする。それぐらいあの押し売りには勢いがあった。
とはいえ、その後に食べた中華は絶品である。小龍包や肉まんを食べれば中から肉汁がこぼれだし、笹に包まれたちまきにはこれでもかと具が詰め込まれている。物欲しげに見ていた猫に肉まんの生地を食べさせてやるとうれしそうに尻尾を振っていた。いつか家族で来られたらいろんなものを少しずつ食べられるといいと思う。きっともっと楽しい思い出になると感じた。
ほどよく膨れたお腹を抱えて街を観光していると、通りの向こうによく目立つ赤毛の女の子を見つけた。あっちへこっちへ行ったり来たり、見るからに落ち着かない様子だが、やがてその場に立ち止まり周囲を見回しはじめる。そして彼女の瞳が俺のほうを向くと、標的を見定めた猟犬のようにこちらへ駆け出してくる。
「あなた!」
目の前で急停止した彼女が勢いのままに俺と鼻突き合わせる。俺はその勢いに圧されこくこくと何度も頷く。
「間違いありませんわ! あなたが西住一意さんですわね!?」
その言葉にまたこくこくと頷くと、彼女が「やりましたわー!」と喝采とともに両手を挙げる。なんだか知らないがやったらしい。嬉しそうに飛び跳ねる彼女の口から「ダージリン様とアッサム様に褒めてもらえちゃいますわ」とか聞こえ、嬉しそうなのは良いが次第に人の視線を集めてしまっているのが気にかかる。猫も足元で困ったような顔をして前脚を舐めていた。
なんだかよくわからない空間に置かれて思考停止するが、ようやく彼女が喜びの舞を止めたので再起動した。
「こうしてはいられませんわ! すぐペコさんとルクリリ様に……おぉ?」
右を見て、左を見て、準備運動のように後ろをふりかえって、そしてまたこちらを見る。
「あのー、私の友人をご存じありませんこと?」
「知るはずがない」
「……これはいわゆるLost Childですわ」
英語を覚えたばっかりの中学生みたいな使い方だが、ともすればビジュアル系バンドの歌詞みたいでちょっと笑ってしまう。よくよく見ると彼女の着ている制服は聖グロリアーナのもので、英国式の教育に力を入れているはずなのにそれで良いのかと突っ込みたくなった。
なんだか面倒なことになりそうなので俺は適当に挨拶をして逃げようと思ったのだが、じゃあ、と言って振り返った瞬間に腕を掴まれる。あなたを連れて行かないといけないんですの、と言われてもなにがなんだかよくわからないんだが、とにかく俺じゃなきゃいけないらしい。
猫がかったるそうに声をあげたことで完全に逆迷子の子猫ちゃんになった。猫のおまわりさんと犬の迷子だったらあの童謡は永遠に解決しなかっただろう。
聞くところによると携帯も忘れてきたしなんなら普段からいろんなところに忘れているらしい。俺が母さんに交渉して必死に買ってもらおうとしているものをこいつ……。
めんどうになって「中華街だってそんなに広くないんだし、適当に歩いていればいつか会えるんじゃないですかね」と答えると、それは良い考えですわ! と手を引かれる。どうしても俺もついていくことになるらしい。
「……西住一意です」
「ローズヒップですわ!」
ローズヒップさんと連れ立って中華街を歩く。道中伺ったところによると、彼女は聖グロで戦車道の隊員をしており、先ほどから出てくるダージリンというひとはそこの隊長らしい。そういえばみほ姉さんの試合を観に行くたびに優雅にお茶を飲んでいる二人組がいたようなきがするが、まさかあのひとたちだろうか。俺はやっぱり戦車道のひとはちょっとおかしいと思いながらローズヒップさんの言葉に耳を傾ける。
「ダージリン様はとっても優雅で、いつも誰かの名言ばっかり言っているんですのよすごく賢いんですの。それからアッサム様はちょーほー活動? というのが得意で、頭に木の飾り物を付けて戦車から飛び出して行って、敵の情報を掴んできてくださったりしますの」
あとルクリリ様は口が悪いですわ。というローズヒップさんによる聖グロメンバーの寸評を聞き、俺の頭の上にクエスチョンマークが百個ぐらいともる。全く意味が分からない。すごい。どうやら今名前が挙がったひとたちが三年生で、彼女とその友人のオレンジペコさんは一年生らしい。
俺はローズヒップさんおすすめの肉まんを食べたりサトウキビのジュースを飲みながら、彼女が嬉しそうに話す仲間たちの話を聞いていた。元気いっぱいに話す様子から彼女が本当に仲間たちを尊敬していて、自分の所属するチームが大好きなんだということが伝わってくる。それはそれとしてこの落ち着きのなさは聖グロ的にはどうなんだろうと思うが。ローファーバキバキだぞこのひと。
しばらくそんな風に歩いていると、突然後ろから「ローズヒップさん!」と声がかかる。ふたりして振り返ると亜麻色の髪をギブソンタックにまとめた少女が立っており、こちらをみて少し息を弾ませていた。あ、ペコさんですの。とローズヒップさんが呆けた声を出す。なるほどあのひとがペコさんかと思っていると、俺たちのところに近づいてきた彼女がまじまじと俺を見詰めてくる。
「西住一意さん、ですか?」
自己紹介すると、彼女からも「オレンジペコと呼んでください」と言われる。なんでも良いけど本名じゃないと思うんだが。
「ローズヒップさん、まさか本当に見つけちゃうなんて」
「そっくりだったからすぐ捕まえましたのよ!」
「確かに絶対に間違えようがないです。ダージリン様がおっしゃっていた意味もわかりました」
うんうんと頷きあう様子を見ていても仕方がないので、足元の猫に肉まんの皮をやったり腹を撫でたりする。最近は野外で軽食をしていてもこいつがじゃれついてくるのですっかり右手だけで食事をするようになった。左手で撫で、右手で食べる黄金のコンビネーションだ。
俺がふたりのことを放置して猫をなでていると、「結構マイペースな方ですわ」「常に周囲を見ているみほさんとは違うタイプですね」とか聞こえてきたが、単にこの旅の途中で個性的なひとに会いすぎたせいであんまり気にしなくなっただけである。肉まんを食べ終わったあたりでふたりの会話もひと段落し、俺も立ち上がってふたりに向き直った。
「ところで、ローズヒップさんはペコさんともうひとり名前を挙げていた気がするけど、そのひとはどうしたんですか?」
「そうですわ! ルクリリ様も一緒に来ていたんですの!」
ローズヒップさんとふたりでペコさんのことを見ると、なんだか申し訳なさそうな顔でもじもじとしている。ローズヒップさんが心配そうな声音で「ペコさん?」と問いかける。
「あのー、ローズヒップさんがいなくなった後ふたりで手分けして探そうということになったんですが……。ルクリリ様の携帯、充電が切れていたようで、実は」
「……もしかしてこれって、迷子がふたりに増えただけなんですか?」
「いわゆるLost Childrenですわ」
俺はローズヒップさんの相槌を聞き、それを言うならチルドレンだから、と心の中でツッコミを入れた。