大洗への旅   作:景浦泰明

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第二十二話 『猫』

 試合が始まり、全員声を一言も発することなくスクリーンを見続ける。会場全体には常に小さなざわめきがさざ波のように広がっていたが、こと俺がいる席の周囲に咳の音ひとつ響かず、それどころか周囲のひとの嚥下の音すら響きそうなほど静まり返っていた。俺と同じように、その場にいた全員が何一つとして見逃すことのないようスクリーンに集中している。

 

 ここにきて、もう俺には何一つとしてできることは無い。だが昨晩アンツィオのひとたちと話したことやかつてアキからもらった言葉を思い出し、俺は「みほ姉さんに女神がほほ笑むように」と必死に想う。折角奪取した高地をカールによって奪われ、大学選抜の奇襲に見舞われる戦車に、知らず俺の両手は祈りをささげるような形に組まれていた。今の俺にはこれしかできることはないが、それでもこの思いが届いてくれればと強く手を組み合わせる。

 

 試合の途中、いつの間にか崩れていた天気がついに雨に変わる。試合はカール自走臼砲による弩級の砲撃で大学選抜の優位で進み、大洗は敵から奪取した高地を捨てて撤退を余儀なくされていた。そんななか、カチューシャさんが敵の追撃にあって狙い撃ちにされる一幕があった。必死に逃げるカチューシャさんだが、数にものを言わせて打ち込まれる砲撃に次第に追い込まれていく。俺はその様子を眺めながら、雨に打たれていることも忘れて歯をきつく噛みしめる。仲間を次々に失っていくカチューシャさんの姿が痛ましく、胸が締め付けられるようだった。結局彼女は大学選抜の猛追を潜り抜けたが、そのときには既にプラウダの機体は彼女ひとりだけになっていた。

 

 試合を観ている間、俺は気が付くとカチューシャさんのことばかりを気にしていた。彼女が追いつめられるたびに心臓が高鳴り、敵を撃破するたびに心躍るような思いになった。プラウダの生徒たちから圧倒的な信頼を得ていた彼女は今や、たったひとりでも初めて一緒に戦う選手たちと団結し、次々と華々しい活躍を収めていく。その姿はあのときプラウダで悩み、苛立っていたカチューシャさんとはまるで別人のように見えた。

 

 試合も終盤にさしかかり、大学選抜のなかでも傑出した動きを見せる三車――きっとあの副官の三人だろう――が園内の中央広場に向う。決着の時が近づく中、その三車に対してレオポンさんを先頭にエリカさんとカチューシャさんが強襲を仕掛ける。レオポンは規格を超えた加速に自滅してしまうが、背後に控えていたカチューシャさんが敵の一車に体当たりを敢行し動きを止めることに成功し、その隙をついたエリカさんがついにバミューダの一角を陥とした。同時にカチューシャさんとエリカさんもやられてしまったが、これでもう敵は三車でのコンビネーションを敷くことはできない。彼女たちの大金星だ。

 

 撃破された戦車たちが動きをとめ、戦況を映すスクリーンの端でカチューシャさんが戦車から這い出すのが見える。戦車から周囲を見渡し満足げに笑う彼女を見て、俺は彼女がひとつ大きな壁を乗り越えた瞬間を見たように思う。きっと彼女だけではなく、この試合は誰にとっても価値のあるものだろうが、俺にとってはいまの彼女の表情がその全てを象徴するもののように思える。

 

 試合が最後の瞬間に近づいたころ、俺はようやく、いつの間にか雨が上がっていたことに気が付いた。

 

 試合についてひとつだけ言えることがある。やっぱり俺の姉さんたちは世界一だ。

 

 

 

 「次からはわだかまりのない試合をさせて頂きたいですわね」

 

 逆隣りの女性の言葉に母さんが短く言葉を返し、ゆっくりと立ち上がる。会場でみほ姉さんが多くの選手に囲まれてかわるがわる抱きしめられ、その勝利を寿がれていた。母さんはそれを一瞥すると口の端に小さく笑みを浮かべ、そしてすぐそれに背を向ける。

 

 「行くわよ、一意」

 

 その言葉に俺は固まったままでうごかず、猫を抱いたままじっと姉さんたちを見詰める。まだ帰るわけにはいかない。心のどこかでそんな声が聞こえてくる。試合には勝った。姉さんたちのことを応援することもできた。それでも俺はまだ大切なことが済んでいないような気がしていた。俺が旅に出た理由。俺がこの家の一員として居続ける意味……。

 

 「一意」

 

 観客席の向こうから再度母さんの声がかかり、俺は震える足でゆっくりと立ち上がる。不安で視線を上げることが出来ず、せわしなく色々な場所に目をやりながら母さんのすぐそばに近寄った。

 

 声を出そうとして恐怖のあまりに喉がひきつるのを感じる。もしこれを言って、母さんがくだらないことだと一蹴したらどうすればいいだろう。俺は母さんのことを信じられなくなるのが何よりも怖い。だが、自分が今までしてきたことの何もかもが間違っていないと確信するために、俺はひきつる喉を無理やり引き絞り押し出すように声を吐いた。

 

 「母さん、みほ姉さんに会って、話をしていこうよ」

 

 震えて歪んで、自分でも笑えるぐらいに情けない声だと思う。それを聞いたときの母さんの表情は怪訝なもので、俺は心が折れそうになるのを感じた。それでも言葉を繋げる。

 

 「みほ姉さんに会って、試合のことを話そう」

 

 「そんなものは必要――」

 

 「必要なくなんてない! 必要ないわけないよ!」

 

 声を調整する場所が壊れてしまったのかと思うほど大きな声が出た。何年かぶりの母さんが驚く表情を見て自分が何を言っているのか次第にわからなくなってくる。思っていることの百分の一でも伝わってほしい。その思いでもういちど声をあげる。

 

 「母さん、きっと、それだけじゃだめだよ」

 

 今度は消え入るような声しか出せなかった。俺はうつむき、そして黙り込む。どうしてこんな風にしかできないんだろう。本当はもっといろいろなことを考えていたはずなのに。いざとなるとこんな言い方しかできない自分のことを呪う。目を瞑り、どうしようもない無力感にそれ以上言葉を繋げられないでいると、背中に暖かな掌が添えられるのを感じた。

 

 目を開いたら目の前に母さんがいた。右手を俺の背に回し、優しく自分の方に引き寄せてくれる。

 

 「背が伸びたわね」

 

 言葉と声の調子が完全にまほ姉さんと同じで、なんだかすこし笑えてしまった。母さんの目を見てゆっくりとうなずき、俺は「中学の頃より三センチ伸びたよ」と囁く。母さんの掌が背中から頭にうつり、俺の髪を優しく二度撫でた。それから俺は母さんに手を取られ、ゆっくりと、しかし母さんの確かな足取りに引かれて観客席を下っていく。

 

 観客席の下にはまだ沢山の選手が残っており、そのうちのいくつかの視線が俺たちの方に向けられる。俺が母さんの隣から少しだけ前に出ると、人波をかきわけてみほ姉さんがこちらに駆け寄ってくるのが見え、それから勢いよく抱きしめられた。

 

 「一意! ありがとう!」

 

 それが何に向けてのありがとうなのかはよくわからなかったが、今度は俺からみほ姉さんのことを強く抱きしめる。大洗のときとは逆で、今度はみほ姉さんが苦しげに声をあげた。しばらくそうして抱き合い、身体を離したあとでみほ姉さんの視線が俺の少し後ろを定めて固まる。俺はゆっくりと姉さんから身体を離し、猫と一緒にふたりを見守るような場所に立つ。

 

 しばらくの間、ふたりは向かい合ったまま話そうとしなかった。みほ姉さんはどこか決まり悪そうに立ちつくし、母さんは相変わらず表情を変えずにまっすぐみほ姉さんのことを見詰めている。会場の選手たちもあえてこちらには近寄ろうとせず、大洗のひとたちが心配そうにこちらを見ているのが見えた。

 

 「みほ」

 

 優しげな声で母さんが呼びかけ、その声に反応してみほ姉さんが困惑したように母さんのことを見詰める。そのどこかおびえたような姿に母さんの表情がすこし歪む。母さんの瞳がまっすぐにみほ姉さんの瞳をとらえ、それに引かれるように彼女も視線を正した。そしてようやく母さんの口から次の言葉がこぼれだした。

 

 「おめでとう。素晴らしい試合だったわ」

 

 みほ姉さんはしばらくの間呆けたように瞳を大きく見開いていた。かけられた言葉の意味が呑み込めないようだったが、次第にその大きな瞳がゆらりと震え、大粒の涙がこぼれだすのが見える。それは一粒あふれだすと後を追うように次々とこぼれだし、やがて粉塵と煤にまみれた彼女の頬を幾条もの線になって伝った。感極まってしゃくりあげるみほ姉さんを母さんが優しく抱きしめた。

 

 「今度は正々堂々と、玄関から帰ってきなさい」

 

 母さんのその言葉にみほ姉さんが何度も何度も同じ返事を繰り返し、やがてすがりつくようにして母さんを抱きしめて泣いていた。

 

 俺はその姿を見て胸いっぱいにためた息を大きく吐きだす。二人に背を向けて歩き出すと足元に猫がすり寄り、俺はそいつを抱き上げて胸の中で腹をなでた。猫の浮かべる気持ちよさそうな表情に、胸の中の高揚するような満足感が次第に心地よく全身に流れていくのを感じる。

 

 芝生の向こう、激戦が繰り広げられた平野から硝煙の匂いが混じった冷たい風が運ばれてきた。俺と猫は選手たちの向こうに広がる平野を眺めた。腕の中の猫を見詰めると、彼は俺の胸元に額をこすりつけ、いつにもまして激しく甘えてくる。俺が手を差し出すとその指を一本ずつ舐め、顎の下をくすぐると気持ちよさそうに声をあげた。ふと、いままで一度も考え付かなかったことを口にだす。何故こんな当たり前のことを今まで思いつかなかったのだろう。俺は目の前に広がる平野を見詰めながら、なぜだかこれを口に出した瞬間に何かが終わってしまうような気がしていた。

 

 「お前の名前……」

 

 決めなきゃな。そう言おうとして、指に激痛が走る。一瞬遅れてそれが猫に指を噛まれた痛みだと気付く。その痛みに驚いて彼を取り落としてしまうと、普段の姿からは想像もつかないような猫らしい体さばきで着地し、あっという間に走りぬけていった。猫との間に大きく距離があき、俺はたよりなげに手を伸ばす。

 

 猫は一度だけこちらを振り返ると、行儀よく座って尻尾で二度、三度と地面を叩き、大きく高い声で鳴いた。俺にはそれがまるで手を振り別れを告げるように見えた。周囲の選手たちが次々と猫の存在に気づき声をあげる。一瞬、猫がまっすぐに俺の目を見た。

 

 次の瞬間、猫は猛烈な勢いで駆け出し。二度と振り返ることはなかった。居並ぶ選手たちの間を潜り抜け、これまでに見たこともなかったような俊敏な動きを見せる。俺は彼に向って「おい!」と声を張り上げ必死に後を追ったが、とても追いつくことはできなかった。やがて選手の波を抜けたころ、平野の向こうに小さく颯爽と駆け抜ける彼の姿を見つける。彼はそうして森のなかへ消えていった。

 

 二度と振り返ってはくれなかった。

 

 


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