モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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持ち越す話


BORN TO KILL

 

 

   人殺しを許す慈悲は、人殺しを育てるに等しい

 

                   ――――ウィリアム・シェイクスピア

 

 

 丸一日寝込んだヤトの頭はすっきりしていた。脱皮したかのような晴れやかさで体も軽く、フェザー級の足取りで家を出た。体調を崩して政務を丸投げされ、アインズはさぞかし怒っているに違いない。王宮へ向かう道すがら、ヤトを知っている通行人はすれ違うたび足を止めて挨拶をしてくる。 

 10人近くと談笑したあたりで進行速度の遅さに辟易する。獣を大量殺戮した魔導国の悪漢、邪神ヤトノカミは通行人から逃げ出した。炉端に積もる木の葉やほこりを巻き上げ、風のごとき駆け足で王宮へ向かった。

 

 絶対の支配者、最強の魔法詠唱者、空気の読めない(KY活動中)国王のアインズは、頸骨からぶら下がって甘えるイビルアイを優しく宥めていた。

 

「サトルぅ、早く行こうよぅ」

「ああ、わかっているよ、キーノ。デミウルゴスが支度をしているから、それが終わったら行こう」

「えへへ、嬉しいなぁ」

「新婚旅行、楽しみだな」

 

 ヤトは珍しく空気扱いされた。胃もたれしそうな甘い空気は、前日の政務を丸投げした腹いせだと確信があった。下手に刺激して糖度が上がるのを避けていたが、一向に甘さが消える気配がない。蛇の声色は馬鹿にするものへ変わった。

 

「いつまでいちゃついてんだ、そこの馬鹿二人。馬と鹿で合わせてバカップルとでも言いたいのか、アホども」

「おぉ! いつからそこにいたのだ、ヤト!」

 

 あまりのわざとらしさに指摘する気にもならない。そもそも、ヤトが入室したのを見てアインズは「おはよう」と挨拶していた。

 

「ヤト殿、ラキュースの具合はどうだ? 体調不良の原因は何なのだ」

「もう元気だよ。腹が減るらしく、朝っぱらから精の付く肉にかぶりついてたぞ。つーか、いつまでもベタベタしてんなら俺は帰る」

 

 アインズは巨大ネックレスと化したイビルアイをようやく下ろした。咳払いをして本題に入る。

 

「ヤト、私は数日間だが王都を空ける」

「ふーん?」

「新婚旅行だ」

「……聞き間違いかな。鎮魂旅行ですか? ちん――」

「新婚旅行、ハネムーンだ」

「ほう、いい度胸してますね。俺は新婚旅行に行ってねえですが」

 

 ヤトは太々しさを増長させる。アインズから聞き出した言い訳は以下のものであった。

 

 竜王国の一件で自分たちの住んでいる大陸の辺境が、ビーストマンや食人種族に囲まれたか弱い餌場だとわかった。敵対勢力の視察および調査を兼ね、王宮の中庭地下ダンジョンで使うスケルトンの確保に沈黙都市に資源確保へ出かけるという。早い話、やはり新婚旅行だった。

 

 周回コースと日数を考慮すると、軽く一週間は帰ってこない。

 

「そのあいだに俺一人でこの書類の山を片付けろというわけスか。いい度胸してますね、またタイマン張りますか? 暑苦しい青春を追体験しましょうか?」

「嫌みがうまくなったな、ヤト。なんならお前が沈黙都市へ行っても構わんが」

「できないとわかってて言ってますよね? 俺、アンデッドじゃないし。ラキュースは体調不良中だし」

 

 仮面を外して顔を紅潮させるイビルアイは、赤ずきんの頭頂部付近からハートマークをシャボン玉のように吐き出していた。桃色のハートマークがつつつと昇っていき、天井にぶつかって消えた。アインズの声は妙に明るい。

 

「良いこともあるぞ。竜王国の女王が私のいない間にこの国を訪れるだろう。デミウルゴスとパンドラは属国化の条件をまとめてくれたようだ。そこの書類を読むだけで、お前でも簡単に属国とできる。空いた時間で竜王国の女王と浮気しても私は他言しない」

「ざっけんな」

「意外だよ。お前は幼女趣味だったのか? 竜王国の女王がまだ幼いとは知らなかったが、本当にあの少女を抱きたいと思ったのか?」

「いや、奴は人間形態が二つあるんです。一つはロリ娘ですけど、もう一つの体は成熟した女の体で……なに言ってんだ俺は」

「人間が人間化できるのか……パンドラの欲しいものリストにそんなのがあった気がするな」

 

 出掛けることは決定事項であるもの言いだ。パンドラを呼び出して政務を手伝わせるのは妙案であった。

 

「パンドラは何をしてるんですかね。呼び出してもいいですか?」

「駄目だ。奴は私の指示で別の仕事をこなしている。他国を迅速に吸収する魔導国は忙しいのだ」

「……」

 

 妙案は即座に潰えた。これまで政務や雑務を他人任せにしてきた(ツケ)の支払いを迫られていた。

 

「ヤト殿……妾を乱立して子供を大量に儲けても知らんぞ。プレイヤーの子は世界の脅威だ。親子喧嘩で首都が壊滅しかねない。ツアーが昔に言ってたぞ」

 

 遠い目になったヤトに、イビルアイが抗議してくる。彼女の機嫌を損ねるとラキュースに報告されかねない。話題の方向性を急回転させた。

 

「大丈夫だよ。どんなに色っぽい女だろうと、俺は妾を作るつもりはありませんよ。体の関係だけでも作る気なし、これ以上メンドクセエ案件はイラネ」

「お前は半分人間なのだから手を付けてもいいと思うがな。人間の残滓は私よりも残っているだろう。女を複数囲うのは、時代背景を踏まえれば取り立てて珍しい話ではないが」

「いや、めんどくさいッスわ。あの二人だけいれば――」

「そういうのを執着心というんだ。一般的に人間の男は気が多いものだろう。お前はラキュースとレイナースに拘り過ぎている」

「……そうかなぁ」

「この機にしっかりと振っておけ。後の遺恨と騒動を招くぞ? 私を見ていればわかるだろう」

 

 アインズのこれまでの状況証拠は十分な説得力を持っていた。

 反してヤトの気は重い。ここは恋愛シミュレーションゲームではなく、異世界という名の現実であり、振れば相手は悲しむ。ゲーム内で立ったフラグをへし折るのとはわけが違う。人は期待されると応えようとする。営業マンだった経験が余計にそれを強めていた。

 

「チッ、面倒だな。わかりましたよ」

「レイナースもきちんと振らなかったからこうなったのだろう?」

「いやー……俺の記憶ではきちんと振った気がしますけどねー……」

「何にせよ、遅かれ早かれはっきりさせるべき問題だ。そちらは任せたぞ」

「わかりましたよぉ」

 

 気が付けば、アインズの新婚旅行はなんとなく承諾したような流れになっていた。二人が当てつけに甘ったるい余韻を執務室に残して消えたころ、自分が誤魔化されてハメられたと気が付いた。呼び出されたデミウルゴスを連れ、夫婦円満にハネムーンへ旅立っていった。

 

 ジエットの母が煎れてくれた熱くて苦いお茶をすすりながら、デビルズタワーのように積み上がる書類の頂上から、無造作に一枚を読み進める。何やら短い文章が書いてあったが、ヤトはこの世界の文字を読むことができない。自動翻訳されるのは、口から出る活きのいい言葉だけである。

 

「読めねえんだよ、この世界の文字は。ああ、メンドクセ」

 

 ヤトは水晶フレームの眼鏡をかけた。ピントのズレた文字が焦点が当たったかのように、レンズ越しに判読できる文字に変わった。

 

《愛されたい――クロエ・ベアトリーチェ》

 

「誰だよ、何だよこれ。どこのどいつだ。独り言みたいな書類をのっけんなっつーの」

 

 久方ぶりの事務処理は面倒くさかった。独り言を呟くヤトの両手で、デビルズタワーの頂上にあった書類は使用済みの鼻紙よろしくクシャクシャに丸められ、ゴミ箱へ目がけて放射線を描いた。投球の才覚はなく、弧を描いた書類はゴミ箱の(ふち)に当たってソファーの前まで転がった。

 

 どうせ後でメイドが掃除するだろうと、拾いに行く手間を億劫に感じて無視を決め込んだ。そうして次の書類に目を落とす。

 

《アクア・リザードマンか半魚人なのか不明な生物の被害が多発している。カジキマグロの突き刺さった死体は何なのでしょうか ―― 海岸沿いの小さな漁村》

 

「冒険者を派遣して調査。敵は殲滅と指示」

 

 書類に殴り書きをして、処理済みの棚へ放り込んだ。乱暴に押した判は残像が重なっていた。

 

《竜の背中に乗りたい! ―― 近所の子供》

 

「ふざけんな」

 

 反射的に呟く。

 

 このような書類が回ってくるのも、魔導国がどれほど平和なのかという証明であった。少なくとも、日々を一生懸命に生きている国民は幸せそうだ。書類はアルシェ行きと書かれ、学校関係者に丸投げされた。常闇の竜王は日の当たらない裏庭で眠り込んでおり、白金と虹色もそのうちに王宮を訪れる。後はアルシェが何とかしてくれるだろう。

 

《新種のラミアをヤトの愛妾にしてほしい。絶世の美女だから一度だけでも会ってください ―― カルネAOGよりトブの大森林の蛇たちの懇願》

 

「破棄。蛇を嫁にしろと? あの馬鹿蛇ども、蛇の頭に脳みそ詰まってんのか。知能が足らないんじゃねえのか。俺の嫁は人間だっつーの。ああもう、こんな書類をのっけんなよ! めんどくせえな!」

 

 自分自身に跳ね返ってくる物言いだったが、ヤトは自分を棚に上げていた。書類はゴミ箱めがけて弧を描き、今度はゴミ箱に入った。

 

「よし、やった」

 

 喜んで腕を振った拍子に陶器のティーカップが倒れ、次に読もうと並べられていた三枚の書類にお茶がぶちまけられた。悲鳴を上げて水滴を拭きとるも、インクが滲んで読めない。文字が解読可能なのは一枚だけだ。

 

《今日、そちらへ行きます ―― エドストレーム》

 

「そんなことをわざわざ投書すんな!」

 

 まとめて捨てられた三枚の書類はゴミ箱に入った。読まずに捨てるなど支配者層にあるまじき行為であったが、先ほどから火急を要す件はない。これらはラナーとアルベドに精査されたあとの出がらし、アインズとヤトの確認用書類である。平和な文章が続くのでヤトは舐めていた。

 

 扉がノックされ、メイドが来客を告げる。書類に記載してあった通り、エドストレームが来訪した。

 

 

 

 

 急遽、ペストーニャとセバスは呼び出しを食らう。執務室へ急ぐと、黒髪黒目のヤトと扇情的な服を纏う女性が待っていた。

 

「悪いな。そこの女の願いを叶えて八本指幹部を蘇生してやってくれ。この前の戦争の功労者として、報酬をあげなきゃいけないからな」

 

 露出の多い服を着た女性は立ち上がって頭を下げた。エドストレームは六腕を代表し、八本指復興を直談判にきていた。サキュロントは他の報酬を欲していたようだが、ゼロに殴られて黙ったと聞く。

 

「デイバーノックとペシュリアンはどうなったのでしょうか」

「悪い、それは無理だ。アンデッドは蘇生の仕方を知らないし、もう一個は使ってるから」

「そうですか……」

 

 大蛇の心変わりを恐れ、エドストレームは静かに従った。エロ最悪はともかくとして、筆舌に尽くしがたい拷問の末に無為な死を与えられるのは御免だ。

 

「セバスはペスの護衛ね。危害を加えようとしたら殺していいよ」

「そんなこと……しませんわよ」

 

 エドストレームは恐れのあまり、性格(キャラクター)が変わっていた。

 

「あと無礼な態度もだめ。八本指幹部が刃向かってくるなら、アンデッドに変えて二度と蘇生できないようにしよう。その場合、死体はナザリックに送っておいて」

「畏まりました」

「わかりましたわん」

 

 ペストーニャは立ち去ることなくヤトを見つめている。何か言いたいことがあるのかと、ヤトも黒目に犬の頭部を映した。

 

「ヤトノカミ様、ソリュシャンが体調を崩しました。どうしましょう……」

「……はい?」

 

 ペスの話によると、ビーストマンの死体を持ち帰ったナーベラルとソリュシャンは、喧嘩したユリと仲直りをして通常業務に戻った。闘技場に死体の山を積み上げている際、ソリュシャンが意識を失って倒れたらしい。回復薬や魔法の効果はなく、HPやステータスに異常は見られず、原因不明で今に至るという。

 

「精神的なものの可能性があります」

「……ちょっとこっちに連れてきてくれ。俺の御付きでもさせれば気分転換になるかもしれん」

「わかりました、後ほどメッセージで伝えておきますわ」

「犬の語尾つけるの忘れてるぞ」

「わん」

「いいよ、言い直さなくて。それからさ、罪人を収容する人間牧場を作りたいんだ。罪人は牧場で皮を剥がれて、罪の重さが日数を表すみたいな。デミウルゴスとパンドラに伝えておいてくれ。場所は農業用の土地を邪魔しないような広さのある場所がいいな」

 

 追加の来客を告げるノックが聞こえた。

 

 

 

 

「やはりあなたは邪悪な大蛇に過ぎません。人間が幸せに暮らせる世界を作ってくれるかもしれないと、僅かでも期待した私が愚かでした」

 

 人間牧場と小耳に挟んだ漆黒聖典の若き隊長は、久方ぶりに激怒していた。彼は蛇と出会ってからよく怒っている。ヤトはここ数ヶ月で彼の血圧が急上昇していると踏んでいた。こめかみに浮き上がる青筋血管も手慣れたものである。

 

「人間の国家で人間を資源にするなど言語道断! いかに罪人であろうと、同じ人間なのですよ!? あなたは元人間でありながら、なぜわからないのですか!」

「ウルセエナア……」

 

 退屈して視線を泳がせると、番外席次がソファーに座って退屈そうに足をプラプラさせていた。他の漆黒聖典の隊員も、報告そっちのけで激怒する隊長に何も言えず、黙って扉付近まで引いていた。彼らが長期滞在で何をしてきたのかよくわからなかった。

 

「人間は異形種ではない! そんな悪辣非道な行いをするのなら、私はあなたと戦います!」

「おまえ馬鹿じゃねえのか? 人間は悪寄りの生物だぞ? なまものと書いていきものと読む! みたいな」

「茶化して誤魔化さないでください! あなたこそ真の邪悪だ! 人間は異形種に怯えながら日々を必死に生きて――」

「だから、異形種に怯えなくなった人間は悪になるんだよ」

「貴様に何がわかる!」

 

 少年は聞く耳を失っている。耳なし芳一の怒号に、ヤトは徐々に苛立つ。

 

「うぜえんだよ。ガキのくせに誰に説教してんだ、ボケ。社会に出てないクソガキが」

「年齢は関係ない! あなたのやり口が腐っていると言っているんだ!」

「だから社会に出たことないお前が偉そうに言うなって言ってんだよ。その目で人間の悪意ってのを見てから言え。いいか、ビーストマンの軍隊で――」

「人間はか弱き生き物だ! 信仰の名の下に、敵がいなければ平和で善なる国家を作ります! あなた達は必要ない!」

「この糞餓鬼が。黙って聞いてりゃいい気になりやがって。ちょっとだけぶっ殺すぞ」

 

「ねえ……」

 

 少女の声は届かない。彼女はソファーの足元に落ちていた書類に気付く。丸めて捨てられていた書類を広げ、皺を必死で伸ばしていた。

 

「そんなに不満ならかかってこいや。バンガイにも勝てない雑魚が、誰に口を利いてんだ」

「私は人間のために戦います! たとえ、あなたが相手でも! 勝ち残った強者が、弱き民を好き放題に弄んでいいわけがない!」

 

「ちょっと……無視しないでよ」

 

「弄んでねええ。絶対に罪人が増えるから、そいつらが二度とそんな気を起こさないようにって言ってんだよ。いつかの続きをここでしてやろうか」

「六大神、隠匿されしスルシャーナ様の加護を受けた漆黒聖典第一席次です! 頭の悪い蛇ごときに負けたりはしません! かかってきなさい!」

 

「おい!」

 

「下水道に頭から落としてやる。汚いものに塗れれば少しは考え方も変わるだろ」

「貴き信仰は汚れたりしない! 邪悪な蛇を倒し、魔導国の歴史は今日から別のものに変わるのです!」

「聞けええええ!」

 

 番外席次はソファーを踏み台に飛んだ。レベル100神人の踏み台にされたソファーは中折れして倒壊する。太々しい態度の番外席次に遠慮し、離れて座っていたエドストレームは倒壊に巻き込まれた。ヤトの顔面に飛び蹴りがさく裂し、勢いで反転した番外席次は隊長の鳩尾へ剛拳を見舞う。

 

 大蛇と少年は、激痛のあまりその場で悶絶して床を転がった。セバスは慌ててヤトの前に立ちはだかり、番外席次を迎え撃つべく中段に構えた。

 

「御方への無礼、許しません。バンガイ様」

 

 番外席次は何も言わず、クシャクシャに丸められた書類を広げた。

 

「ねえ、どうしてこの書類、ゴミのように転がってるの?」

 

 ペスはそれとなく何かを察し、セバスを入り口付近へ移動させた。

 

「ペストーニャ、私はヤトノカミ様をお守りしなくては」

「痴話げんかは犬も食べませんわ……ん」

「?」

 

 エドストレームはペストーニャに優しく起こされ、巻き添えを喰わないように後ろへ隠れる。

 

 番外席次は未だ倒れているヤトに馬乗り、ジャケットの胸倉を掴み上げた。顔が急接近したがヤトの視界はひどく掠れていた。彼女の表情さえ判別ができず、眼球が水飴に変わったようだ。

 

「いっ……てぇぇぇ……」

「起きろよ。どうして私の書類をこんなにするわけ? 喧嘩でも売っているの?」

「何だよ……いつっ、書類って何だよ」

「ほら、これ。私があんたに宛てた手紙」

 

 ヤトは世界の文字が読めない。眼鏡を外した彼には、何らかの暗号じみた記号でしかない。

 

「知らねえよ、なにいってんだ」

「私は本気だったのに……」

「だから何だよ」

 

 ペストーニャが近寄ってきた。番外席次の手から書類を受け取り、セバスから預かった眼鏡をかけて読む。

 

「なによ、ワンちゃんは邪魔しないでくれる? なんならあんたから先に殺すよ?」

「ヤトノカミ様、これはクロエ様からの便りです。恋文ですわ」

「クロエって誰だよ……」

「私だよ!」

 

 ヤトは自分に馬乗りになって胸倉を掴む少女を見た。ここでようやくヤトも勘付く。自分が最初に丸めて捨てた書類は彼女の恋文だったのだ。それにしては妙に短い文面だったが、仮にあれを本気で書いたとすれば激昂するのも理解できる。至近距離で眺めれば、両眼が涙で潤っていた。

 

「何だよ……何なんだよ……ラキとレイナが恋文でも出してみなさいって言うから書いたのに……悩みながら本気で書いたのに」

「いや、俺、お前の名前なんか知ら――」

「もういい! 死んじゃえっ!」

「っ……てええええええ!」

 

 番外席次は手のひらから怪光線を出し、ヤトの両肩を貫いた。光線は肩をぶち抜いて床板まで穴をあけていた。そのまま立ち上がり、ヤトの鳩尾を踏み台にして跳ねる。執務室の扉は蹴破られ、彼女は全力で走り去った。執務室は風通しが良くなり、魔導国の王宮に相応しいだろう。

 

 改めて激痛に悶絶し、釣り上げられた鮪のように暴れるヤトは執務室の机の脚をへし折った。両肩に空いた風穴をセバスとペストーニャに塞がれるころ、漆黒聖典は隊長の肩を支えて退室した。肝心の“真水の海”に関する報告は一切なされなかった。

 

「え……なにこれ」

 

 空気になっていたエドストレームの呟きは風に乗って消えた。

 

 ヤトは穴の開いたジャケットと黒シャツを脱ぎ、半裸で治療を受けていた。事態が今一つ呑み込めず、なぜ自分が酷い目に遭わされるのかと愚痴を垂れる。ペストーニャは創造主に似て察しが良かった。

 

「ヤトノカミ様。彼女を呼び出して話をすべきです。真摯に言ってもらいたい場合もあります。このままでは、王都の政務に支障がでるのではありませんか?」

「……あーメンドクセエ。ペス、やけにその辺の事情に鋭いのはなんでだ? お前、本当は餡ころさんが擬態してるんじゃないだろうな」

「わん」

 

 コンコンと扉をノックする音が聞こえた。扉は破壊されているので、正確には扉脇の壁を叩く音だ。騒ぎを聞きつけたアルベドが佇んでいた。

 

 

 事情を聞いた彼女は腕を組み、窓際へもたれ掛かった。何をしても様になる美女であったが、彼女をよく知るヤトが見惚れることはなかった。

 

「ふぅ………ペストーニャ、セバス、あなた達は公務へ戻りなさい。そこの彼女は新組織設立の要、お待たせしては申し訳ありません」

 

 ペストーニャとセバスは目で合図をし、一礼の後に退室した。ナザリック随一、至上の無慈悲な女神に口答えは許されない。エドストレームはペストーニャに背中を押され、セバスを付き従えて彼らのアジトへ向かった。

 

 ヤトはシャツのボタンを止めながら彼女を窺う。アルベドは無言でヤトを見ていた。

 

「……なんだよ、何か言いたいのか?」

「お戯れもほどほどになさってはいかがでしょう」

 

 改めて考えると、彼女と二人きりで会話をするのはナザリックで果たし合った以来である。言葉の取捨選択を間違えれば、いつかの再現が成される気がした。危機感を抱き、会話を慎重に押し進めていく。

 

「何のことだ。俺は初めから一貫してるだろ」

「仕方ありませんわね。ヤトノカミ様、本日は王宮へお泊りください。明日、改めて番外席次をこちらへ寄越します」

「やだよ、面倒くさい。あいつは俺に何を望んでるんだ、別に俺じゃなくても――」

「愛を」

「……?」

「愛を、乞うております」

 

 何も答えない。おモテになるのも考え物だなと、これまで小馬鹿にしてきたアインズの苦悩を味わう。しかし、アルベドの口からは予想したものと違う回答が出てきた。

 

「まったく、モテるのも考えも――」

「ご安心ください、誰でもよいのです」

「あ、そ、そう……そうなのか……」

 

 それはそれで少しだけショックだった。

 

「彼女は六大神の先祖返り、スレイン法国最強の暴力です。しかし、ここに至るまでの経緯は常軌を逸脱しております。奇跡とも言えるでしょう。プレイヤーの子孫がエルフ王に強姦された末に世界へ産み落とされた彼女は、生い立ちに相応しき精神の歪みを持っています。あれの母親は、宗教の名の下に犯されて生まれた子を育てなければなりませんでした。彼女の母親は女性が味わえる苦痛や苦悩を全て味わったのです」

「……胸糞悪い」

 

 何ら救いのない話であった。胸のあたりにイガイガした何かが生じ、気分を悪くさせた。

 

「加えて先代の神官長たちは、彼女を異形種に対抗する一暴力、一つの殺人機械(killing machine)に育て上げました。そんな環境でまともに育つはずがありません。彼女が求めているのは血で血を洗う闘争、心は強者を求めています。ヤトノカミ様、法国攻略戦で彼女と戦い、それを組み伏せましたね?」

「ああ、危なかったけどな」

「もしヤトノカミ様が負けていれば、彼女の興味はアインズ様へ移っていたでしょう。スルシャーナという強者へ捧げていた関心が他者へ移っただけなのです」

「……俺がやらかしたってわけか」

 

 ヤトが彼女に勝利したのは偶然である。実際のところ、彼女の腕力は大蛇の自分と大差ないと思っていた。食らわせられた飛び蹴りの位置が、あと数センチ下にずれていれば顎にクリーンヒットして脳震盪を起こしていた。

 

「死んだふりでもしておけばよかった」

「ひび割れた荒野のごとき心は闘争と強者を求めています。生まれながらにして血塗られた道を示された殺戮者。彼女は彼女なりの宗教を持っているのです」

「そんなのアインズさんに言えっつーの。俺は女を囲う予定はないぞ。戦いが好きならずっと戦ってればいいじゃないか」

「休憩所代わりに利用しているヤトノカミ様の邸宅にて、ラキュースとレイナースの幸せそうな顔を見たからです。ヤトノカミ様不在の邸宅で、二人の話題は自然と御身に関わるものになるでしょう。このところ、ますます頻繁に出入りしているようですが、お聞きしていますか?」

「……あのアマ、俺の目の届かないところで」

 

 服を着て立ち上がったヤトを見て、アルベドは軽い溜息を吐いた。

 

「現在、アインズ様はスレイン法国の反異形種派閥を懐柔するべく、デミウルゴスを連れて作戦行動中です。もっとも、懐柔とは名ばかりの示威行為です。ここで番外席次に迂闊な行動をとられると、あちらの作戦の妨げとなる恐れがあります。彼らの希望を根こそぎ奪うためにも、彼女は何があっても王都に釘付けにしなければなりません」

「……そうなのか? だって俺にはハネムーンって」

 

 アルベドの口角が痙攣した。ヤトにそう伝えると聞いていたが、他者の口から聞くといい気分はしない。

 

「日ごろの恨みと仰ってましたわ」

「ぁあのぉやぁろう……」

 

 絶望のオーラが漏れ、アルベドの声で収束した。

 

「番外席次の件はお任せください」

「……どうするんだよ」

「教えませんわ。ヤトノカミ様はこれより夜通し、書類整理をお願いします。判を押していただきたい書類は山ほどありますので」

 

 美しい淫魔の笑みは悪戯っ子に似ていた。顔の造形が美女なのだから一枚の絵画のように様になっていたが、相手はあのアルベドだ。裏側でどんな恐ろしい策を考えているかもしれず、ヤトは素直に頷くことができない。

 

「ヤトノカミ様は起きた事象に対して、場当たり的な対応をしていただければ結構です。全てこちらでお膳立てを行います」

「いや、まぁ、アルベドがそういうならそうなんだろうけどさ。何が起きるかは知りたいな。心構えってのが――」

「つたない連携は命取りですわ、ヤトノカミ様。大船に乗ったつもりでお任せください」

「……大船ねぇ」

 

 自信満々な彼女に押し切られ、傾いた机に腰かけた。ヤトの知性はアルベドの半分以下である。講じる策の質でアルベドを追い抜く奇跡は起きない。アルベドは組んだ腕を解き、机の前に移動した。

 

「それでは、明日をお楽しみに。書類の方、よろしくお願いします。今晩中に半分まで進めていただけると助かります」

「半分……? うー……吐き気が……喉が痛い……」

「悪阻でございますか?」

「妙に落ち着いているな。やはり妻としての立場がそうさせるのか。いつからそんな冗談を言えるようになった。また何か企んでいるんじゃないだろうな」

「あら、くふふふ、私としたことが」

「ところでラナーの姿が見えないけど」

「彼女はとある場所で公務に勤しんでおります」

「とある場所?」

「はい、私たちのよく知る場所です」

「……?」

「それでは失礼します。夕食は後ほどメイドに届けさせます。お酒はブランデーのXOに致しましょう。ちょうどよい骨休めですわね、くふふ」

 

 白い淫魔はクスクスと笑いながら出ていった。一人になっても、扉が壊れて公然と開放されているので落ち着かない。ヤトは執務室で頭を抱える役目をアインズから引き継ぎ、どうしたものかと苦悩する。この世界に転移したとき、女性経験はヤトの方が上だった。後方からあっさりと追い越され、今や背中も見えぬ遠くを突っ走っている。他を寄せ付けない首位独走であった。

 

 悩んでも結論は出ず、アルベドの考えもわからない。嫌々ながら書類の整理に戻った。夜になって窓の外は夜景に変わる。机には書類の山、明日には番外席次への対応を迫られ、外出している暇はない。雁字搦めになって王宮執務室に束縛された。

 

 身動きが取れず、ヤトは執務室で叫ぶ羽目になる。

 

「あああ! めんどくせえええ!」

 

 半月に吼えた。

 

 

 

 

 王都の夜は以前と比べて明るくなった。夜になってどこからともなく這い出してくる悪党の姿はなく、平和な心地よい静寂が支配する。だが、路地裏の暗がりは別だ。

 悪巧みをする八本指の残党、魔導国を物色にきた流れの盗賊や強盗、借金取りや浮浪者、社会不適合者などが路地裏でたむろしている。そこを疾走する一人の男性、貴族を思わせる顔立ちは焦りで歪み、嫌な臭いのする汗を滝のように流していた。

 

(やってしまった。俺は殺される、今度こそあの化け物共に殺されてしまう!)

 

 エルヤーは走る。事を起こしてしまった現場から、誰の目にも止まらないように。少しでもその場を離れるように。石畳が泥濘(ぬかるみ)のように感じられ、自分で思っているほど進まない。時間経過でいっそう焦る。

 

 

 事の始まりは数時間前、他チームと協力して王都の仕事をこなし、打ち上げを兼ねた夕食に付き合わされた。その酒の席で交わされた会話に端を発する。

 

「見たか? 昨日、王都に現れた巨大な黒竜」

「ああ、魔導王陛下が僕にした竜王だって聞いた」

「本当にさ、この国にいると退屈しなくていいよな。仕事は帝都と変わらねえけど量は多いし、酒は旨いし、ねーちゃんも綺麗で飯も美味い。娼館が少ないのが問題だけどな」

「女と言えばよ、知ってっか? 迷路みたいな夜の路地を歩くと、たまにエルフが体売ってんだってよ。一晩だけエルフを買えるなんざ、この王都だけだろうぜ。金額はそれなりに張るが、奴隷を買うよか安く済むらしいぜ」

 

 人間と比較して、森妖精(エルフ)は美人が多い。この世界は美男美女が多いが、彼らはそれよりも頭一つ秀でている。森妖精(エルフ)の奴隷は初期投資がえらく高額で、一たび購入すれば日々の食事や雑費などの生活費がかかる。一晩だけで済むのならそれに越したことはない。

 

「天武の旦那、興味あるんじゃねえかい?」

 

 彼らの視線はエルヤーに向く。蛇に一撃でぶちのめされ、従者の森妖精(エルフ)たちを没収されてしまった噂話は、瞬く間にワーカーたちの間で流布していた。王都に来てから森妖精(エルフ)をよく見かけるが、肝心の奴隷販売所は一向に見当たらず、開店する気配もない。

 フォーサイトと再会してからというもの、夢の中で幾度となくイミーナを犯し、顔の形が変わるほど殴打した。

 

 従者のエルフを失った現状、単身の自分は人手の足りない他チームに混ざるしかない。

 格下ワーカーと手を組むのはいい気分がしないが、他に手立てはない。単身で冒険する愚かさは知っている。何よりも我慢ならないのが、時おり彼らの瞳にこちらを蔑視する色が浮かんでいることだ。蛇にぶちのめされた過去と、エルフに暴行する性的嗜好を笑っている。

 

 手早く食事を済ませ、エルヤーは銀貨を置いて席を立つ。

 

「私はこれで。また仕事で組むことがあればよろしくお願いします」

「おう、こちらこそまた頼むぜ、天才剣士さんよ」

 

 気さくに別れたが、彼らの内心は知っている。天才剣士を自称するエルヤーを蔑み、馬鹿にしているのだ。

 自他ともに認める天才剣士、ブレイン・アングラウス。無骨な戦士長、ガゼフ・ストロノーフ。ブレインの愛妾、クレマンティーヌ。イジャニーヤ頭領ティラ。冒険者チーム蒼の薔薇、朱の雫。そして、漆黒の大英雄、冒険者モモンと相棒、美姫ナーベ。その頂点にいるのが、魔導王アインズ・ウール・ゴウンと右腕の大蛇。魔導国で上を見ればきりがない。

 帝都で最強を語っていた自分が、この王都ではこれまで蔑んできた下流(ゴミ)戦士の扱いを受けている。

 

 日々、行き場のない鬱憤はミルフィーユ並みに大きく積み上げられていき、いともたやすく臨界を超えた。下等種族のエルフを、肉体的にも精神的にも思う存分踏み躙ってやりたかった。

 

 夜を進む彼の足は、自然と路地裏へ流れていく。噂の街灯娼婦はすぐに見つかった。

 

「お兄さん、遊んでいかない?」

「……お願いします」

 

 反射的にそう答えていた。酒の酔いも手伝い、歯止めが利きそうにない。エルフに手を引かれ、付近の安宿へ消えていった。

 

 エルフを長時間に亘って暴行の末に殺害し、逃亡中の今に至る。

 

 慌てて逃げるエルヤーは、暗がりの辻で誰かと派手にぶつかった。相手はその場で平然と立っていたが、エルヤーは壁まで飛ばされた。頭部を壁に強く打ち付け、視界がチカチカと光る。

 

「あ、すみません。大丈夫でしたか」

 

 顔にあどけなさを残す長髪の少年が覗き込んでいた。即座に激昂するほど愚かではない。

 彼は王宮で見かけたことがある。装備品も自分には手が届かない一級品だ。

 

「いや、こちらこそ申し訳ない。急いでいたので」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です。先を急ぐのでこれで――」

「お待ちください」

 

 少年が彼を止めたのに理由はなかった。敢えて言うのであれば、これまでの経験からくる脊髄の裏付けに従ったまでのこと。ワーカーらしき戦士を観察すると、仄かに香る鉄錆の臭いがそれを立証した。

 

「失礼、あなたは誰かを殺してきたのではありませんか?」

「な、何を言っているんですか。私は――」

「血の臭いは服を着替えない限り、付いて回るものです。どこの誰を殺してきたのですか?」

 

 隊長は腰に帯びている剣を引き抜いた。武器を抜いた今ははっきりとわかる。先ほどまであどけない少年だった彼は、自分では太刀打ちできぬ存在、遥か高高度へ存在している化け物へ変わった。剣を交えるのは自殺行為、無言で逃げ出しても追いつかれるかもしれない、誤魔化して命乞いは見破られた場合のリスクが大きい。

 

 気が付いたらエルヤーは土下座していた。

 

「見逃してくれ!」

「……詳しいお話を。それで判断いたします」

 

 少年は左手を差し出して話の続きを促す。

 

「エルフの娼婦を殺してしまったんだ。あいつら、対価を払ったら額が少ないと難癖をつけてきて……それで、カッとなって押したら机の角に頭をぶつけて」

「エルフ……ですか」

 

 本当にその場限りのいいわけでしかない。死体の損壊状況はそんな生温い過程ではない。

 自分でも愚かだとわかっていたが、予想に反して少年の警戒は薄れた。

 

「娼館に所属せずに客を取る方が悪いのかもしれません。この場は見逃しますので、一刻も早く王都から逃げてください」

「よろしいのですか……?」

「蛇は罪人の牧場を建設するつもりです。いま捕まってしまえば、体中の皮を剥がされる日々が待っています」

 

 蛇への嫌悪が殺人事件の容疑者を(ゆる)した。殺人といっても相手は人間ではなく、森妖精(エルフ)一体である。どうせすぐに蘇生するのだろうと高を括り、幼い隊長は同じ人間の彼を逃がす。

 

「騒ぎを聞きつけて誰かが来る前に、一刻も早く王都から逃げてください」

「ありがとうございます」

 

 二人は旧友同士がするように手を振って別れた。

 

 蛇に一矢報いた気分の少年は、スレイン法国の讃美歌を鼻歌にして帰路につく。

 

 エルヤーは逃走資金を得ようと、まだ明かりのついている屋敷へ逃げ込んだ。

 

 

 

 

 翌日、眠ることなく書類の整理をしたヤトは、大蛇の姿で椅子に腰かける。唯一の執務室で眼鏡をかけた大蛇が書類を読む光景は、異形種の国家ならではであった。

 アルベドの悪巧みに警戒心はあったが、今は書類の山を減らさなければならない。一晩かけて書類整理に精を出したおかげで、積み上がっていた書類の高さは半分以下になっていた。

 実際に進めてみると一枚の時間はさほどかからない。

 

 作業の進歩状況に機嫌を良くし、昼間から酒を飲んでいた。

 

「夕飯は何かなぁー」

 

 気楽なものである。たまに訪れるメイドは一言で追い払われた。アインズ不在の現状で大蛇の自分が面会をしても、何の生産性もない。

 

「蛇様、王国貴族が面会を希望していますが、どうなさいますか?」

「追い返せ。書類で忙しい」

「レイ将軍という方が、魔導王陛下に――」

「追い返せ」

「陽光聖典と――」

「追い返せ」

「蛇様、ご休憩に耳のお掃除などはいかがでしょう」

「追いか……はい?」

 

 ジエットの母だけが妙なことを言っていた。そちらは丁重にお断りをし、残念そうに彼女は退室した。入れ替わりに入ってきたメイドは、新たな来客の訪れを告げた。

 

「蛇様、バンガイと名乗るお嬢様がお越しです。お通ししてもよろしいでしょうか」

「……お嬢様?」

 

 許可をした覚えはないが、メイドは沈黙を肯定と判断した。執務室のソファーと扉を破壊し、飛び蹴りを食らわせた凶暴な番外席次。それによく似た貴族の令嬢がいそいそと入室する。歩く姿はまるで百合の花だ。

 

 着飾ったドレスでありながら装飾は控えめに統一され、舞踏会で見たどこぞの貴族の令嬢に似ていた。十代前半の容姿を持ちながら、艶やかな唇には紅が差され容姿にそぐわない色気を漂わせていた。白銀と漆黒の色が左右で分かれる長めの髪は夜会巻きに整えられ、レイナースのブローチとよく似た宝石の髪飾りがあった。化粧はされているが薄めに抑えられており、彼女が本来持つ顔立ちの美しさを特段に際立たせた。瞬きするたびに、左右で色の違う宝石のような瞳が輝く。

 

 彼女は傾いている机の前に立ち、小さなお辞儀をした。

 

「ヤトノカミさん、この前は申し訳ありませんでした」

「……誰だ?」

「漆黒聖典、番外席次です」

 

 態度と衣装が違うだけでこうも印象が違うものかと思われた。呆気にとられ、開いた口が塞がらない。ここで求婚されたら反射的に応じてしまいそうだった。また、彼女を飾り付けたアルベドと彼の嫁二人は、それならそれで構わないと思っていた。

 

「……」

「昨日の無礼をお詫びにきたの。本当にごめんなさい。痛かったでしょ?」

「……ん」

「どうしたの?」

「いや、別に」

 

 こうして絶世の美女という蝶になって羽ばたくべく生まれた者の、羽化する前の蛹状態を前に言葉が出なくなる自分が情けない。ヤトが復帰したのは冷静に考えれば見た目が十代前半の少女に、少女趣味のない自分が手を出すわけがないという理論に基づいてのことだった。

 

「ゴホッゴホッ、う“うん。どうしたんだ、今日は着飾って」

「綺麗でしょ?」

「そうだな……」

「よかった」

 

 普段の血塗られた笑みではなく、屈託のない満面の笑みだった。

 

「ねえ、その気になった? 私、いつでも妾になってあげてもいいのよ? 今日はそのつもりで来たから」

「その話か……」

「えーっと、確か……今日は帰りたくないのー」

 

 最後の台詞は棒読みであった。ここで嫁にするべきなのかもしれないが、見た目が幼い彼女へ大蛇の食指は伸びなかった。アルベドはそのような指示を出しておらず、そこに重要な意味はないと取った。ヤトの役目は彼女が里帰りするのを阻止することだ。

 

 大蛇は席を立ち、番外席次の前に立った。柄にもなく真剣な赤い瞳で正面から見据えた。期待しているような瞳が眩しい。

 

「番外席次、悪いんだけど。俺はお前の気持ちに応えられない」

「あなたは私を倒したから、好きにする権利があるわ」

「俺が勝ったのは偶然だし、お前が六大神の秘法とやらを使ってたら負けてたかもしれない。それに、俺には先妻がいるから」

「一夫多妻でも構わないけどね、あなたはプレイヤーだから。それに、子どもさえ作ってくれればそれだけでもいいのよ………私のこと、そんなに嫌いなの?」

「そういう意味じゃない。あの二人だけで手いっぱいだ」

「二人を殺せば私を愛してくれるのかしらね」

 

 微笑みは血に塗れた。ここから受け答えを間違えると戦闘になるだろう。彼女ならその手段を選びかねない。ヤトは慎重に言葉を考えた。少女は悩める大蛇を覗き込む。

 

「ねえ、見てよ。私だって鎧を脱げば、こんなに可愛くなれる」

 

 その場でクルッと一回転した。スカートが遠心力で少しだけ上がる。数多の生物の返り血を浴びながらも彼女の身を守る鎧を脱ぎ捨て、着飾るだけのドレスを纏う彼女はとても嬉しそうに笑った。

 

「私のこと、ちゃんと見てよ。だって私、こんなに綺麗になれるんだよ。子供だって産めるんだから」

 

 大蛇は答えない。

 

「だから、私のこと好きになってよ。私も愛してよ。ラキュースとレイナースは幸せそうに笑っていたわ。私もあんな風に笑いたいの。だって、あの二人、あんなに弱いんだよ。本気で殺そうと思えば首を強く握るだけでへし折れるのに、私よりも幸せそうに笑ってた。どうしてあんなに弱い人たちが幸せになれるのか、教えてよ、ねえ」

 

 彼女の内面、心の奥にある純粋な場所へ触れた気がした。天の岩戸はゆっくりと開いていく。

 

「………それは寂しいんだよ」

「はぁ?」

「お前はあの二人が羨ましくて、自分に相手がいないから寂しくなったんだよ。ただ、それだけのことじゃないか。それ、とても人間臭いよ」

 

 ヤトは脊髄の反射に従う。理屈は必要ない、どうすればいいか体が勝手にやってくれる。

 自然と彼女の肩に手を置き、しゃがんで顔を正面から見つめた。

 

「俺に拘る必要はない。遅かれ早かれ、俺より強い奴は出てくる。お前も戦闘じゃなく、誰かを好きになってから考えればいい」

「それ、どうやってやるの?」

「なに?」

「だから、誰かを好きになるって、どうやってやるの?」

 

 翡翠の瞳だけが濡れた宝石のように輝いた。

 

「私は異形種の殺し方しか知らない。それしか教わってない。どうやって人を好きになればいいの? 自分より弱い人間や異形種を、弱い相手をどうやって好きになればいいの? ねえ、教えてよ」

「教えてって……教えるもんじゃないしなぁ」

「ねえ、教えてよ。どうやって弱者を好きになればいいの? 私だって家族が欲しいの。あんな風に笑い合いたいの。だから、教えてよ」

「………」

「ねえ、私にも教えてよ」

 

 彼女は大蛇の体を激しく揺さ振った。自覚のないままに、少女の左目から一筋の雫が零れた。

 

 早死にした彼女の母は、今際の際に自らを看取った娘の瞳に何ら感情が浮かんでいないのを見る。もっと愛情を注いであげても良かったと後悔した。そうさせなかったのは自らを犯して孕ませた異形種(エルフ王)への憎悪が成せる業。愛情不足の子は自らを大切にできない。自分にその価値がないと、自己完結させてしまう。

 

「神人だったお母さんも、戦い方を教えた神官も、そんなこと教えてくれなかった。私に異形種を殺せって、それしか教えてくれなかったもの。誰かと明るく笑い合ったり、目を輝かせて好きな人のことを話したり、嬉しそうに文句を言ったり、そんなやり方、私は知らない」

 

 ヤトはそんな言い方しかできない彼女が可哀想に思えた。

 

「子供がほしい。私の強さを引き継いで、私と一緒にいてくれる子供がほしい……だって、私は独りぼっちだもの。みんな私より先に死ぬ。だから私はみんなが死ぬのを見ている。私はいったい、何なの。自分で自分を殺せばいいのかな」

 

 彼女が魔導国に来てから喧嘩ばかりしていたので気が付かなかったが、彼女の歪みはクレマンティーヌよりも長く生きている分、修正が利かない。百年を超える記憶の書きつけを弄るのは、いくらアインズであろうとも骨が折れるし、失敗する公算が高い。

 

 事実、アインズはクレマンティーヌの記憶操作は大雑把にしかできていない。ゆっくりと時間を掛けて正常に戻すしか手はないだろう。そう思ったヤトは、深い溜息を吐いた。

 吐息は目の前にいた番外席次の顔にかかり、端正な顔の眉が顰められた。

 

「はぁー………わかった。わかったよ」

「子供、作ってくれるの?」

 

 彼女は顔を上げた。微かな希望で輝いていた。

 

「違うよ、馬鹿。お前は俺の部下になれ」

「そんな立場、別に欲しくないけど」

「俺は41人の仲間を呼び戻す。それがアインズさんのためだからだ。他の目的や寄り道のイベントは後回しだ。だから、それまでお前に応えることはできない」

「なんで、誰かのためにそこまでするの? 王様はただの友達なんでしょ?」

「………ふっ、ふふ」

 

 ヤトは静かに笑った。彼女の口がへの字に歪む。人が真剣に話しているのに笑う大蛇をぶちのめしてやりたかった。

 

「悪い悪い。そうだよな、赤の他人のためだもんな。そうだなぁ………愛、かな」

「え……あなたもしかして、同性愛者? ……だから私にも興味が無かったんだ」

 

 番外席次は後ろへ退いた。健全な宗教国家に性的倒錯者は存在しない。目の当たりにした異形の変態に、生まれて初めて彼女は畏れを抱いた。

 

「ちっげーよ、オセロ馬鹿娘。誰かのために何かをしたいと思うってのはある意味で愛だ。俺たちの世界で歌になってたぞ。あの人も俺のために命を懸けてくれたから、そのお返しをしないとな」

「馬鹿みたい。教典にも似たようなこと書いてあったけどさ、それって馬鹿みたいだよ。誰かの喜ぶ顔を見て満足できるのって、自己満足の独りよがりじゃない」

「お前にも、そんな相手ができるといいな」

「……できないわよ。だって、私より強い相手はあなたと王様としかいないから」

 

 唇を噛みしめ、悔しそうな表情をする彼女は美しかった。それに見惚れることなく、ヤトは妙案を思いつく。

 

「俺の仲間は凄いぞ。世界最強の剣士……ってあの人は結婚してたか。最強の魔法詠唱者はどうだ? 俺のゲームの師匠なんかは退屈しないぞ?」

「なにそれ」

「嫌がらせが凄すぎて……退屈どころじゃないぞ」

 

 自分で言っておきながら、過去の嫌な記憶を思い出して気分が落ち込んだ。

 

「ダメだったら永遠の企業戦士とか、同性でもいいなら女教師とかはどうだ? ロリコンの鳥人に忍者に武人に軍師に教授、商人に綺麗好きに……なんかキャラ濃いな……」

「それ、あなたのお仲間さんの話でしょ? 本当に帰ってくるの?」

「……少なくとも、俺はその手段を探す。だから、お前も付き合え。どうせ暇だろ?」

「暇って……これでも真面目なんだよ? スルシャーナ様へ捧げるお祈りも三日に一度くらいはしてる」

「どちらかといえば不真面目だな……」

「誰も帰ってこなかったら責任とってよね」

「ああ、わかった。そんときは後妻にしてやる。もうちょっと体が大きくなっててくれるとありがたいんだが」

「約束だからね!」

 

 今日一番の笑顔だった。ヤトは小指を差し出し、つい最近、竜王国の女王としたように指切りをする。鱗だらけの太い小指と、しなやかで華奢な小指はしばらく絡み合ってから離れた。

 

「約束だな。お前は明日から俺の部下だ。お前は強いんだから勝手に戦うなよ? 敵対者でもない相手は勝手に殺すな。殺人は重罪とするからな」

「そうなんだ。魔導国で殺人は重罪なんだね」

「今、俺が勝手に決めた。お前の役目は異形種狩りじゃなくて、世界平和な」

「ふーん……そう。いいよ、今はそれで。約束、守ってよね」

「ああ、お前も成長させろよ、体を」

「だから、そんな方法を知らないよ」

 

 生まれながらの殺し屋(BORN TO KILL)は、持ち前の闘争本能で戦いを避けられず、敵を殺さずにいられない。

 

 愛情とは彼女に唯一付け入る隙であり、もっとも費用対効果の高い手段だった。自身の人間性へ固執するかのように、二人の女性に執着するヤトはその役目を放棄した。魔導国の武力は強化されたが、彼女が満たされるのは幾分か先に持ち越された。

 

 自動的にまだ見ぬ誰かへ役目は引き継がれ、彼女が求めている相手は舞台へ上がる寸前で運命(シナリオ)を設定される。

 

 それが誰かは投げられた賽の目だけが知っている。

 

 

「ところで、常闇の竜王(ディープダークネス・ドラゴンロード)って私より強いかな? 戦ってみてもいい?」

「だめ。お前、話を聞いてたか? お前が戦ったら王宮が潰れるだろ」

「あ、そっか。ごめんね」

 

 

 前途多難であった。

 

 





BORN TO BE KILLは英語の文法的に間違い。

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