モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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長すぎるんで分けました




そこで生きるだけの奇跡ー前座ー

 

     The goal of (あらゆる生あるものの)all life is death(目指すところは死である)

 

 

            ――――ジークムント・フロイト

 

 

 

 完全武装したアルベドは、蛇神ヤトノカミの首を掻っ切ろうとしたあの日の長柄斧(バルディッシュ)を携え、王宮の中庭でお辞儀をした。彼女の後方に付き従うはスレイン法国最強の特殊部隊、神に弓引く背教者、祖国の裏切り者となった漆黒聖典の面々だ。

 

 結局のところ、第一席次を除く彼らは改宗したとは言い難いが、全員が隊長に従っていた。各々の葛藤はあろうが、ここで従わずに離れていくのは危なっかしい少年を見捨てるようで気が引けた。隊員で隊長を嫌うものは存在しない。

 

 黒鎧に身を包むアルベドは、顔を右に左に振って誰かを探していた。

 

「番外席次がいませんわね」

「ああ、あいつは暇そうだったから正体不明な生物の被害が出ている聖王国との国境に行かせたよ」

「それは好都合。軍門に下った第一席次の手腕に期待しましょう」

 

 

 取り立てて不満も言わず、アルベドと漆黒聖典は転移ゲートに飲み込まれた。踏み出した彼女は立ち止まり、去り際の置き言葉を残す。

 

「ヤトノカミ様。竜王国の女王と竜王が魔導国領内に入ったそうです。順調にいけば二日以内にこちらへ到着するでしょう。到着したらラナーへ連絡を」

「ん? ああ、わかった」

 

 彼女の意向が分からずに分かったと答えた。魔導国の王宮でよく見られる、いつも通りの風景であった。

 

 

 

 

「魂の還る場所は種族に関わらず等しいと聞く。再利用される魂は新たな種に受肉する。そこに意思が反映されるとしたら、君は何を選ぶのか、聞かせてくれないか」

「そうね……人間かな」

「そうか……」

 

 彼の妻は聡明というだけではなく、感性も鋭い。竜王の表情を読めるのは世界全土で見ても少ないだろう。夫のみに限定する、と前置きがつくのだが。

 

「予想と違っていたのね。あなたにとっては短い付き合いだけど、少しだけ竜の表情はわかるのよ」

「君は竜を所望すると考えていた。人間の生は儚く短い。知識を蓄えるに相応しき種族は竜以外にあるまい」

「同感ね。自身の命題を探すのにそれより最適の種族を知らない。そう考えれば魅力的ではある。もう少しだけ考えたいわ」

「考察を満喫するのも結構だが、君の命が燃え尽きる前に教えてくれるとありがたい」

 

 それから少しの歳月が流れた。

 

 聡明だった彼女から、叡智の頂はゆっくりと剥がれていく。程なくして屍肉の塊となるだろう。彼女の命の灯が薄れていくのを観察していた少年は立ち上がる。竜王に愛情がなくても、傾斜する塔が倒壊する最後の瞬間は見たくなかった。

 

「私は行く。生まれ変わるとすれば、次は竜を所望するかね」

「……人間でいたい。私たち人間は弱くて醜く、誰かを傷つけずにはいられない。それでも、短い生を全力で生きたい。ねえ……生まれ変わったら会いに来てくれる?」

「断る。私は七彩の竜王(ブライトネス・ドラゴンロード)、人間の愛情を必要としない。再会を果たしたいのなら、転生した君が会いに来たまえ。竜王国はそのためにあるのだ」

「ふふっ……あなたはそう言うと思っていたわ。愛情と執着は違うけど、よく似ているのよ。実際にどちらかなんて何の意味があるのかしら」

 

 天井を見上げて笑った。それが彼女を見た最後だった。

 

 そこで場面は暗転した――

 

 

 七彩の竜王の化身、虹色の美少年は馬車に揺られていた。反対側に腰かけている少女は、彼の曾孫だ。話し相手が眠ってしまい退屈していた彼女は、曾祖父の両目が開いたので嬉しそうに顔を輝かせた。

 

「曾祖父様、おはようございます」

「ドラウディロン……私はどれほど眠っていた」

「さほど時間は経っておりません。魔導国の王都に到着するのは明日です」

「そうか……」

 

 七彩はそれっきり、窓の外へ顔を向けた。大蛇と出会って、数百年前の記憶が補完された。喜ばしいことであったが、一つの事実を突きつける。自身へ啖呵を切った大蛇の言葉が再生される。

 

《人間、ドラ公のひい婆ちゃんだな。愛していたのか?》

 

(馬鹿な……竜王に愛情はない。交尾は繁殖という本能の呼び声が成せる業。これは一般的に執着と呼ばれるものだ)

 

 思いもよらぬ刺激は知性の低いものからもたらされる。騒動とは知性の傾斜、ピラミッドの下から上へと流れていく。七彩の竜王は思考の奥底へ潜ろうとしたが、馬車の従者をしているヘジンマールの声で阻害された。

 

「七彩の竜王様! あれは何でしょうか!」

 

 馬車の従者、竜王の息子ヘジンマールは空を舞う黄色い布切れを指さしていた。進行方向は馬車と反対、竜王国の方角だ。記憶が音を立てて蠢いたが、何を意味するのか分からなかった。

 

「静かにしたまえ。君は馬車にだけ集中していればよい。目新しいものを発見するたび、子供のように興奮して騒ぐべきではない。観察と洞察さえ的確であれば、蓄えられた知識が自ずと解を示す。何ら仮説が思い浮かばないのは、君の知識量がそれだけ希薄なのだ」

「なるほど、勉強になります!」

 

 その返答からして知性のレベルが危ぶまれた。正直なところ、付きまとい屋(ストーカー)である肥満児の相手は面倒だ。低能とまではいかないが、知識と脳の回転に差があり過ぎる。何よりも迷惑なのが、彼の体重のせいで馬車の進みが遅い。馬の疲労も溜まりやすく、進行速度は飛行した場合の半分以下だ。心地よい揺れも長すぎれば苦痛となり、睡眠にも飽いていた。

 

 虹色の少年は再び回想に耽る。

 

(あれから何百年経ったか。未だに彼女の転生者らしき存在と巡り合うことはない。彼女なら数百年の後、人間に転生して然るべきだと思っていたが……いまだ転生の法則性は不明だ。これからは探索する範囲を広げてみるとしよう)

 

 何を話していいのか惑う曾孫を眺めた。

 

「ドラウディロン、今まで他国と縁組をしなかったのはなぜだ。子孫繁栄していれば、先祖返りする強者も現れよう」

「あ、あの、そのぅ……確かにそのようなお話は幾度かありました」

「なぜそれをしなかった」

「相手が好みじゃなかったのです」

 

 少年はため息を吐いた。

 

「ドラウディロン、君は少々俗世に染まり過ぎている。国の繁栄を考えるのであれば、子は多いに越したことはない。子が子を産み、その子がまた子を産み育てる。人が人として当たり前のように支えていく、脈々たる生命の樹。幾重にも枝分かれをして、国を支えるほどの大樹を作りだす」

「はい………すみません」

「さぞ押しつけがましく聞こえよう。だが、生とはそういうものなのだ。万遍なく無価値に与えられ、選ばれた者にのみ奪う権利が授けられる。得体の知れない何者かに奪われる前に、生命の樹が大樹となることを祈っている」

「本当、すみません……玄孫はたくさん作ります」

 

 予想に反して生命の樹は細く高い。一子相伝など望んでいなかったが、世代ごとに子は一人しか生んでくれない。一人一人の寿命が長いせいか、高さこそ立派だが枝の広がりはない。これでは少し背の高い庭木にしかならない。虹色は、萎れている庭木の先端へ話しかけた。

 

「蛇以外の選択肢も検討したまえ。彼には先妻がいる。そちらの懐妊が先だろう」

「ドレスは似合っているでしょうか。あの馬鹿野郎は満足してくれるでしょうか」

「嗜好までは把握していない。彼の性格を考慮するのであれば、そう悪い結果とはなるまい」

 

 早い話が、「知らん」ということだ。ドラウディロンの予想したより、月並みな回答だった。これは彼の関心がないことを表している。改めて幼女は話題を変えた。

 

「曾祖母様は、どんな人だったのでしょうか」

「興味があるのか」

「はい。七彩の竜王である曾祖父様を、どうやってオとしたのか気になります」

「……ふっ、君はそうやって自由に素直であるべきだ。長くなるが、構わないかね」

「はい、時間はたくさんあります」

「それでは導入として、私と彼女の出会いから始めよう。あれは私がまだ竜王の称号を得るより以前の――」

 

 会話の途中、自分の記憶に一部欠損が見られることが判明した。そこを補完しようとしたが、まるで該当箇所だけ切り取られたかのように手繰り寄せる糸さえ見当たらない。

 

 大蛇が苦悩して赤子に代理号泣させながら放浪している場面の途中、何かの気配を背後に感じ、背筋が総毛だってからの記憶を失った。そこから場面は飛び、次の記憶は大蛇が蘇生した人間の駒へ怒鳴っているところだ。切断された記憶の断片に見えたのは、黄色い外套(ローブ)

 

(私は、黄色い……何を見たのだ)

 

 

 

 

 ヤトの座る机は傾いている。元凶は番外席次のタレント、両掌から伸びるレーザー砲が両肩を貫通し、過度の激痛で跳ねまわったせいだ。国の未来を象徴しているようで、実にげんが悪い。曲がって腰かけているせいで、心なしか腰も痛くなっていた。

 

 王都の冒険者組合で会合があるので、立ち寄って顔を出しに来ましたと、エ・ランテルの冒険者組合長プルトン・アインザックと、その相棒テオ・ラケシルは言った。蛇は彼らのことを知らない。

 

 既に懐柔しているので適当に相手すればよかったが、机が傾いているので格好がつかない。その程度のことで蛇の対応は怪しくなった。

 

「この王宮の中庭に冒険者を強化する地下洞窟を建設なさったと小耳に挟みましたので」

「一度だけで構いません、視察をさせていただけないでしょうか」

「うーん……」

 

 安請け合いは怪我の元、迂闊な対応をしてアインズが積み上げた忠誠を崩す真似は許されない。それこそアインズの足を引っ張る行為であり、大して優秀でない自分にそれは許されない。大蛇は強引に話題を変えた。

 

「それより、ドワーフ国を支配したので、これからはルーン武器が手に入りますよ。なんでも、それと敵対するクアゴアまで支配したので、鉱山の採掘をやらせて材料を集め、安価で強力な武器を領内に流通させるとか」

「な、なぁにぃ!? ルーン武器が安価で手に入るのですか!」

「お、おい、落ち着け、テオ」

 

 テオの両目は限界まで見開かれ、目尻が裂けそうだった。

 

「希少価値が高くて一部の商人しか所持していないというのに、そんな簡単に」

「だから、御二人とも、そんなに急いで見学しなくても、装備を強化してからまた来てはどうでしょう。ちなみにダンジョン内に食料はありませんので、支度が必要です。パーティも二人じゃ難しいでしょう。最奥まで辿り着くには、ガゼフ並みの強さが必要ですんで」

「む、そうでありましたか。それではこちらもそれ相応の準備を致しましょう」

「本日は貴重なお時間を割いていただき、感謝に尽きません。ありがとうございました」

 

 軍隊並みの折り目正しいお辞儀をしていた。とりあえずはだが、彼らは顔を綻ばせて出ていった。これから王都の冒険者組合に行き、この噂は更に広まるだろう。次に大勢で顔を出したら、断るのは難しい。

 

 アインズならどうするかと考えても、ヤトの脳では色よい解答を導くことは難しかった。

 

「アインズさんと比べられちゃ、堪ったもんじゃねえよな……ファンタジーの世界なんだから、知性を上げる果実とかないのか」

 

 プレイヤーの影は未だ発見できず、二人しかいない可能性が高い。他の仲間を呼ぶには次元を(また)いで連絡をとる手段を探さなければならない。その前に国家の中枢としての対応という、彼にとってはこれ以上ない無理難題が残っていた。

 

「せめてもう一人いれば、俺もムキになってあの人と対等になろうとは思わなかったんだけどな……はぁーあ」

 

 彼の苦悩はそこにいる限り、ウロボロスのように繰り返す。時計の針は当人に動かせず、いつの世も他者の手によって先に進められる。

 

 

 

 

「よしよし、大丈夫大丈夫、泣かない泣かない」

「同じこと繰り返しているだけじゃない。もっとベロベロバーとか言いなさい、ザリュース」

「うむ……そうか、すまん」

「キュールルル」

「あ、ごめんな。よしよし、ほーら高い高い」

「だめね……これは」

 

 今日もリザードマン集落は平和である。生け簀は順調に拡大され続け、全員に魚は行き渡った。遺伝子改造された魚の繁殖サイクルは早く、全てが上手くいっている。

 

 残された問題は、このままリザードマンが集落だけで増え続けていいのかという点であった。彼らが多産性であれば、食料問題は常に付きまとう。人間と同様、子が一匹である体の構造に感謝した。

 

 ザリュースは与えられた休みを満喫していた。

 

(それにしても、こうして旅をして思う。帝都でお会いしたあの方はなんだ。あのとき、大蛇様が現れず、勧められたお酒を飲んでいたらどうなったのだろうか)

 

 大蛇の恐怖とも驚愕ともとれる表情を思い出す。爬虫類の顔であそこまで感情が表れることも珍しい。ザリュースが大蛇の顔に感情を見たのは、あれが最初で最後だった。

 

 疑問の答えは王都で暮らすとあるメイドが知っている。

 

 ブレインの邸宅、クリアーナは体調不良で部屋から出てこない。相棒のパナシスは心配して部屋を訪ねた。彼女はここ数日、自分の膝と頭を抱えて部屋の片隅で震えている。歯の上下がカタカタと鳴り、衝突音は朝から晩まで垂れ流された。

 

「こ、こ……こわい……はすた……ぁ……びやあきぃ……」

「クリアーナ。落ち着いて、私はここにいるわ」

「ねえ、パナシス……自分が恐ろしい怪物になる夢、見たことある? 恐ろしい怪物に出会うより、自分が怪物になる夢の方が怖い……あたしは、もう眠りたくない……」

「夢の話でしょ? 大丈夫、ここはブレイン様の邸宅だから、何かあればあの方が助けてくれるから」

「お願い! 黄色い人に出会ったら逃げて! あれは人間じゃない!」

「大丈夫よ。今日はずっとここにいるからね」

 

 パナシスは何か得体の知れないものに怯えるクリアーナを抱きしめた。悪夢を見て怯える我が子をあやす母親のように、優しく背中を叩き続けた。彼女が寝入ったのは、それから数時間後のことである。

 

 クリアーナが見たなにかは存在する。

 

 黄色い外套(ローブ)を纏った白い仮面のなにか。切れ長の目が彫刻された白仮面、その表情を窺うことはできない。ここは竜王国に侵攻したビーストマン小国家の外れ、小高い丘の頂上。

 

 彼は待っている。

 

 殺戮の万能札(ワイルドカード)が顕現するのを。

 

 黄金の蜂蜜酒を差し上げた彼女へは申し訳なく思った。眷属を召喚する黄金の蜂蜜酒を飲むと、何の代償もないわけではない。しかし、一定の時間が経てばそれも忘却の彼方へ消える。

 

 彼はまだ理性的であった。自分がこの世界に必要とされていないことを理解し、永遠の眠りを待っている。世界のどこかで眠っている他の三つの高次元意識体も、自分と共に世界を去る。人、プレイヤー、魔物、生命、そのどれでもない高次元の意識体は、約束された刻限を待っている。それだけでいいのだ。

 

Look to the sky, way up on high(天仰げ 空高く)

 

 聖歌でも歌って気楽に待てば、全てが平穏を取り戻す。

 

There in the night stars are now right(今宵は星辰が揃う夜)

 

 聞いた者を発狂させそうな歌声が小高い丘へ流れた。

 

 アインズが転移魔法で近郊へ移動する数時間前のことである。

 

 

 

 

 人は己の理解を超えたものをみたとき、強い恐怖を抱く。

 

 デミウルゴスを初めとする参謀たちの想定通り、スレイン法国の国民たちは全てが招集命令に従わなかった。国家から逃げ出し、魔導王の支配が及んでいない都市国家連合、聖王国へ亡命しようとする者もいたが、今さら遅すぎる。法国が属国化宣言をして即座に行うべきであり、アインズが反異形種派へ不快感を抱いてからでは殺してくれと懇願するに等しい。

 

 スレイン法国神都は、黒々とした煙に外周を囲まれていた。

 

 逃げ出そうとしたものは入口で止まって引き返し、大多数が大神殿へ向かった。意固地になって自宅へ引きこもって隠れる者もいたが、彼らの姿は二度と目撃されなかった。

 

 定刻が一時間ほど過ぎ、予定通り魂食い(ソウルイーター)が各地の門から侵攻する。彼らは自らが好んで食す、魂の臭いを鋭敏に察知する。隠れてこの日をやり過ごせたものはおらず、総べて一人の生き残りも許されずに魂食い(ソウルイーター)の餌食となった。骨の馬に追従する死霊の騎士(デスナイト)は、魂を食われた抜け殻を抜け目なく回収して回る。

 

 大神殿前、人骨でできた玉座に座るアインズは、座り心地が悪そうに腰を上げた。

 

(イタタ……誰かの肋骨が刺さっている。脅しとはいえ、こんな椅子に座らなくてはならないとは……ヤトが見たら、いや、仲間の誰かに見られたらとんでもないことになるぞ)

 

 さっさと作戦を次の段階へ移行したかった。沈黙都市で多量のアンデッドを入手したアインズは、二日前の不機嫌をどこかへ置き忘れていた。内心は緩み切っていたが、前方に跪く責任者たち、スレイン法国の国民の顔に張り付いた恐怖を見る限り、悟られた気配はない。

 

 パンドラは人間に化けて民衆に紛れ込み、デミウルゴスはアルベドの到着を待っている。それから数回だけ座り直すと、漆黒聖典を伴ったアルベドが到着した。

 

「遅れて申し訳ございません。守護者統括アルベド、そして改宗した漆黒聖典をお連れしました」

「ご苦労だったな、アルベド」

「感謝など勿体のうございます。アインズ様は命じてくださればいいのです。この場でも、ベッド上でも!」

 

 突然、くねくねと体を蠢かした。実はあの中に蛇でも入っているのかと、簡易玉座の前に跪く神官長たちは訝しげに眺めた。

 

「う……うむ、そうだな」

「はぁん……アインズ様ぁ……」

「アルベド」

「はい!」

「少し黙れ」

「……申し訳ございません」

 

 淫魔で元ビッチの(さが)なのか、こういうときの彼女は危ない。ここまで積み上げた群衆の恐怖が、好色な全身鎧を見て壊れるのを恐れた。自分などが聡明なデミウルゴスの計画を邪魔してはならない。

 

(まったく……アンデッドの体で何を望むのか)

 

 アルベドは鎧の奥で冗談じみた本気の涙を滲ませ、それを見抜いたデミウルゴスが大袈裟にため息を吐いた。

 

「やれやれ……神官長、これで全員ですか?」

「……いえ、全員ではないです」

「そうですか、ならばこの場にいないものは裏切り者、誤った信仰で祖国を窮地に追い込んだ売国奴と断定します。ソウルイーターに魂を捧げるといいでしょう」

「そ、そんな、もう少しだけでも」

「待てませんね。先ほどから群衆が増えている様子は見受けられません。敵対者を悠長に待つほど、我らは優しくありませんので」

「うぅ……慈悲は、ないのですか」

「お願いします……あと、10分だけでも」

 

 縋る老人の姿を見て、デミウルゴスは口角を歪めた。更なる追い打ちを仕掛けようとしたが、意外な者が割って入る。少年はこの地に来てから開口一番、かつての上位神官を怒鳴り散らした。入れ上げていた娼婦の死を消化しきれていない彼にとって、憎むべき仇敵である少し前の自分と似た彼らに、漲る敵意を放った。

 

「いい加減にしなさい!」

「な!? た、だ、第一席次?」

「無礼者! 貴様は引っ込んでいろ!」

 

 少年の額に血管が浮いた。瞬間的な怒りでかつての上司を怒鳴りつける。

 

「まだ気づかないのですかっ! お優しき六大神は人間に慈愛を注いでくれたが、他種族を憎んではいなかった。愛情を拡大解釈し、異形種を憎むなど愚の骨頂です! 抵抗するのなら誤った信仰を断罪します!」

 

 少年の一喝で年長者の彼らは本当に黙った。敬虔な信者であったころ、神官長に誤解を受けて怒られたときと立場が逆転していた。老人方がなぜ黙ったのかは、少年の瞳が教えてくれる。明確なる憎悪と殺意を宿した瞳に、命をおもんぱかる彼らは引いた。改宗はしていないが、隊長についてきた同隊員は老人を哀れに思って彼を止める。法国の暗部を担当していた彼らも、案外と博愛主義者であった。

 

「あのぅ、たいちょー……その辺でぇ、やめませんかぁ?」

「もういいよ、隊長……」

「あまりいじめちゃ、可哀想です」

「……済まない、少々、熱くなってしまったな」

 

 漆黒聖典が揃っていなければ、少年はそのまま斬りかかっていたかもしれない。神官長は安易な疑問をデミウルゴスに問う。

 

「あの、まさか、彼らを洗脳でも……」

「はぁー……あなた方は自分がそうしてきたから、我々も同様の手口を使うと思っていませんか? 実に下らないですね。彼らは洗脳してまでこちらに引き入れるほどの魅力はありません。レベルが100なのに彼は弱すぎますし、他の隊員はそれに輪をかけて弱い」

「左様でございますか……」

 

 暗黒の全身鎧が近寄ってくる。長柄斧(バルディッシュ)の刃がキラリと光り、全身に鳥肌が立った。

 

「彼らは自ら進んで我らの軍門に下り、正しい信仰という毒を打ち込むために自由意志でここにいる。私たちは何もしていない、背中を押すことさえも。彼らは自らの意思で勝手にこちらへ堕ちたのよ」

「そんな……敬虔なスルシャーナ様の信者だったのに……魔導国で何が」

「……もうよせ……考えてもわからん」

 

(そうだぞ! 俺が一番よくわからないんだからなっ!)

 

 なぜかアインズには一切の説明がない。デミウルゴスが気を回し、それくらいは把握しているはずだからわざわざ報告の手間を取らせる必要なしと判断したからだ。それも元を正せばこれまでの滅茶苦茶な成果が故。意図せず自分の首が絞められていた。

 

 それらしく振る舞うことで、絞めつけはより強くなる。

 

「魔導国とはそんな場所、ということだ。もっとも、全員が懐柔できるとは思っていなかったが、蛇の影響もあったのだろう」

「さっっっすがはアインズ様ぁ! 何も言わなくてもそこまで御見通しでございましたか! このアルベド、ますます御身への愛情を強め、子宮が――」

「アルベド、悪いがその辺にしてくれないだろうか。あとでたっぷり可愛がっていただけばよろしいでしょう。この場で取り乱すと、締め上げている群衆の空気が緩みますのでね、守護者統括殿」

「そ、そうね……私としたことが。ごめんなさい、デミウルゴス」

 

 アルベドは二日ぶりにアインズを見て抑えが利かない。淫魔の本領発揮である。デミウルゴスが釘を刺さなければ、神殿の裏へアインズを連行して良からぬ行為を働いたかもしれない。

 

「それではアインズ様、お願いします」

「……そうだな」

 

 玉座を立ち上がり、アインズは大神殿の前、衆人環視の場へ立つ。デミウルゴスは背後でアインズの邪魔をせぬよう魔法の準備を始めた。面倒な前説を省略したいところだが、彼らにとってはそちらが重要なのだ、と気合いを入れた。

 

「スレイン法国の国民諸君、私はアインズ・ウール・ゴウン魔導王だ。見ての通り、私は人にあらず、生者を憎悪するアンデッドにあらず、永久に横たわる死者にあらず、測り知れざる永劫のもとに死を超えたものだ!」

 

 群衆は様々な感情で彼を見た。顔の輪郭がぶれるほどに恐怖で震えるもの、雄々しき姿の魔導王に懐柔されそうなもの、そして明確な敵意をその目に宿すもの、表情を見れば思惑が見て取れた。アインズは演説の楔を続けて打ち込む。

 

「スレイン法国の特殊部隊は、リ・エスティーゼ王国領内の何の罪もない村を襲撃し、いくつもの村を壊滅させ、逃げ惑う村人たちを惨殺した。これは疑いようのない真実であり、現実からは逃れられない。これらの罪は、六大神を崇め奉り、異形種を憎んだスレイン法国の宗教信者全体の咎である! 宗教の名の下に、自らが正義だと信じて大量の肉塊を産み落とす君たち、全員が負う業だ!」

 

 群衆の半数近くが顔色を変えた。

 

「罪は他者を助けることで許されよう。種族の枠を超え、他種族がそれぞれの特色を生かして暮らす魔導国で、己が儚く短き、そして美しい生を謳歌せよ。人の幸福に宗教は必要ない。か弱き人間種族のみならず、異形種と手を取って暮らせる楽園を用意する。そのために私は次元を超えてここに来た!」

 

 数日前、竜王国の国民にしたように、右手を前に差し出す。

 

「私を信じろ! 六大神は偶然に転移した人間であったが、私は違う! 種族の枠を超えて平和な世を作る神となるべく顕現した! 縋るだけの宗教は必要ない、自らを導く真の宗教を、君たちが既に持っている!」

 

 両手を高く掲げ、今まで以上の大声で叫んだ。

 

「魔導国に恭順せよ! 神はここにいる! 我が名はアインズ・ウール・ゴウン、生きとし生けるものを平和に統治する神だ!」

 

 静寂の後、群衆の中から声が上がった。

 

「アインズ・ウール・ゴウン様、万歳! アインズ・ウール・ゴウン様、万歳!」

 

 扇動役のパンドラだ。全力で叫んだ彼の付近から、アインズへの忠誠心は池に小石を投げ込んだように波状効果で周囲へ広がる。過半数を少し超える程度であったが、万歳三唱はアインズの体を震わせるまで膨らんでいった。

 

 その背後、漆黒聖典第一席次の少年は、命じられずとも自発的に動いていた。惜しみない声援の中、未だに敵意を向けている者を捉えた。

 

「あそことあそこだ、捕えろ。元漆黒聖典は私が行く」

 

 同僚は即座に動く。密集する群衆を器用にかき分け、武装した漆黒聖典の隊員は、反異形種派の元漆黒聖典とその仲間を捕らえた。現役を退いた彼とその同志は神殿前に引っ立てられ、両手を掴まれて斬首を待つ罪人のように拘束された。

 

 アインズへの声援は引っ立てられた罪人を見て止まった。第一席次はアインズの前に跪く。

 

「魔導王陛下、主犯を捕えました。残党もすぐに――」

「必要ない。よくやった、賞賛に値するぞ、漆黒聖典第一席次。望むものがあれば褒美を取らせよう」

「ありがとうございます。私が望むのは平和な世界だけです」

「そうか、ならば望みのものは直に手に入ろう。それでは、彼の考えを聞くとしようか」

 

 アインズが目の前に立ったことで、死そのものの顕現である魔導王を至近距離で見た反異形種派の彼らは正気を失いかけた。それでも発狂しなかったのは、辛うじて縋る信仰が生きているからだ。

 

 顔しか動かせない状態で、彼は天に向かって唾を吐いた。

 

「い、い、異形種風情が人間を支配するなどおこがましいわ! 貴様らは人間に害をなす存在、ましてやアンデッドはその最たるものだ。人間を、なな、舐めるなぁ!」

 

 第一席次は剣の柄で彼の頭部を殴打した。

 

「……厚顔無恥もここまでくると晴れやかです。種族にこだわって異形種へ排他的な態度を取り、人間すべてを貶める真似は慎んでいただきたい!」

「黙れっ! そいつらこそが人間を蔑視する人外、滅ぼされて然るべきだ!」

「これ以上は許せない……」

 

 隊長は剣を構えた。彼の瞳は黒い憎悪に染まり、この場で処刑してしまうつもりだとわかる。

 

「支配国への反逆罪により、元漆黒聖典、あなたを粛清します!」

 

 少し前まで同じ宗教を信じ、人間世界の平和のために尽力した尊敬すべき先輩は、数日前に大切な人を間接的に殺した自分と重なる。少年は敵意と殺意で瞳を染め、底の見えない闇の深淵を瞳に宿した。

 

「こ、殺せるものなら殺してみろ! 私は暴力や洗脳に屈しない!」

「隊長! だめだ、ここで殺すな!」

「たいちょー、おちついてよぉ」

 

 死んで革命の犠牲になったものは、英霊として祀られる。それを彼は知っていた。第一席次は他の隊員に止められたが、それでも殺意は止まらない。少年が憎むべき敵、かつての自分は盲目の狂信者だ。殺意が暴走寸前、構えた剣の前に骨の手が差し出され、少年を優しく止めた。

 

 「漆黒聖典第一席次、よくぞここまで自らを縛る鎖を断ち切った。間違いに気づき、これまでと正反対の対応をするのはなかなか難しいものだ。お前を見ると、私は人間がどれほど素晴らしい生き物か知ることができる。縋ると導くは似ているが違う。彼はそれにまだ気づけていないようだ」

 

 アインズは己の中に存在しない加虐嗜好が、膨張して骸骨の体を乗っ取ろうとする感覚に陥った。それは、鈴木悟という人間の残滓とせめぎ合う、オーバーロードの性質だったのかもしれない。膨張したがる加虐心をいたずらに刺激し、この瞬間だけ本物の魔王となった。

 

「反異形種派は己が大義名分を信じ、従わぬものを暴行、誘拐、脅迫、あらゆる犯罪行為で懐柔したそうだな。それが本当であれば、反吐が出る宗教だ。だが、そこまで追い込んだ私にも責はある。反異形種派は前に出ろ、君たちの主張を聞こう」

 

 敵対者は群衆をかき分けて前に出る。無理矢理に懐柔された者は動くことなく動向を見守り、瞳に敵意を宿すものだけが胸を張って歩み出た。

 

 作戦はデミウルゴスが立案した通り、寸分の狂いなく進んでいく。アインズがどれほど正義を謳おうと、彼らを増長させるだけである。祖国を救った英雄ジャンヌダルクに、神の威光を利用するものは誰も耳を貸さなかった。ならば手段は一つ、初めから何も主張せず、ただ力を見せてやればいい。

 

「元漆黒聖典、君の望みは異形種のいない世界を作ることだな?」

「そ、そうだ! お前たち異形種に、人間を好きにはさせん! これは新時代を創る革命だ!」

「作ってやろう」

「か、かく……は?」

「人間だけが暮らす国家、新スレイン法国の建国を手伝おう」

「う、嘘だっ! 私に交渉は無駄だ!」

「ビーストマン国家を滅ぼす私の力を見て、それでもまだ心が折れないのならそれは君の宗教なのだろう。如何なる逆境をも乗り越え、人間だけの国家を建国しうるだけの強い信念だ。私は、元人間が故に人間の強さと美しさが好きだ」

「……」

「とはいえ、この地には魔導国に恭順し、平和を謳歌したいと、全力で生きたいと願う者も多い。これより、竜王国に侵攻していたビーストマンどもの小国家を壊滅させる。安全が確保されたあの周辺に新国家を設立するといいだろう。賛同者を集めろ。転移魔法で全員をあちらへ移動させる」

「……そんな」

「私の気が変わる前に行ったほうがいいと思うが?」

 

 隠れた敵対者も、これを機にまとめて相手すればよい。せっかく超位魔法を使用するというのだ、観客は多いに越したことはない。

 

 心が躍り過ぎて、肋骨の辺りで見えない心臓がドクンと鳴った。

 

「反異形種派信仰者の諸君! 異形種を嫌悪するのであれば無理に従う必要はない! 私は君たちにビーストマンの国家が滅びるのを見せる。跡地へ人間国家の建国を宣言せよ! 私とは関係ない国家を建国し、自らの信念と宗教の名の下に繁栄させろ! 領地を多めに分け与える。我らの領地へ侵入しない不可侵条約を結ぼうではないか!」

 

 判断に迷う主格を無視し、アインズは国民全体に呼びかけた。数十分後、群衆は7:3の比率で分けられ、7割の魔導国派は許可を得て解散した。

 

 この地はアインズを崇める宗教国家となるかもしれない。それはそれで構わず、どうなるか分からない未来へ釘をさす必要はない。

 

 これから地獄が訪れるとも知らず、反異形種派の顔は明るい。革命家を自称する彼らの脳は都合の良い考え方を好み、手前勝手な想像力で新天地が素晴らしい場所だと補完した。

 

 自らがどれほどの罪のない犠牲を生んだのか、省みることはない。

 

「さあ、諸君。準備はいいか。これまで嫌悪していたビーストマンの国家が、一撃で滅びるのを見て留飲を下げるといい」

 

 足元に魔法陣が展開し、彼らは光に包まれた。周囲の景色が即座に変わり、遠方に都市が見えた。デミウルゴスは(exp)を集めるアイテムの準備、アルベドは監視者を放って敵プレイヤー勢の確認、漆黒聖典は脱走者を始末しようと包囲を固めた。

 

 どれほど想像力の口伝で伝わろうと、彼らは知らない。都市国家を一発で壊滅できる魔法の威力と惨たらしさを。反異形種派の彼らは幻術で誤魔化されないよう、心を強く締め上げた。

 

(ああ、楽しみだ。この世界でどれほどの威力があるのか……胸が躍る)

 

 彼ら敵対する弱者の視点など、アインズにはどうでもいいことだ。今はただ、自分がお気に入りの魔法を全力で使えることで、愉悦に胸を昂らせた。

 

「さあ、はじめよう。諸君、真の地獄へようこそ」

 

 アインズの周囲へ魔法陣が展開される。骨の手に握られた砂時計は、砂粒に変わって風に舞う。全てが砂粒となって消え失せたとき、アインズは両手を広げて呪文を唱えた。

 

 国家など何の意味もなさない、命を踏み拉く超位魔法(お気に入り)を。

 

 

「《黒き豊穣への貢(イア・シェブニグラス)》」

 

 

 ヤトの殺戮が生ぬるく感じるほどの、次元が違う真の地獄がビーストマン国家へ落ちた。

 

 

 

 

(なんだ、これは)

 

 彼の意識は肉体を離れながら、どこか冷めた目で地獄を眺めていた。

 

(私は何を見ている)

 

 体は思うように動かせず、唇は水分を失ってカサカサと乾く。

 

(こんなことが許されるのか)

 

 反異形種派の中心人物は、これまで見たどの地獄よりも恐ろしいものを見た。遥か遠方で起きた殺戮だったが、周囲からは怯える声や悲鳴が上がり、浮き上がった意識を徐々に覚醒させる。過度の恐怖に耐え切れず魂が抜けかけていたらしく、視点はゆっくりと降下して肉体へ戻った。

 

 愚者は自らの浅はかな行いを窮地に追い込まれてから自覚する。彼は生きる教訓そのものになった。

 

 アインズの嬉しそうな声が聞こえる。元漆黒聖典の自分に言っているのだと、理解するのに時間を要した。

 

「どうした? 遠慮することはない、刮目せよ。歴史上、決して相いれることのない異形種、食人種のビーストマンが滅びるのを、な。君たちは異形種を憎んでいるのだろう? 何を恐れることがある。私が、わざわざ労力を使い、君たちのためだけに最高位の魔法をお見せしたのだ」

「こっこっ……」

 

 眼鏡をかけた悪魔が、汚物でも見たように顔をしかめて首を振る。眼鏡が太陽光を反射して眩しかった。

 

「お(つむ)の凝り固まった人間の常識とは脆いものですね。これで反異形種など笑わせてくれます。アインズ様、こういう手合いは主張こそ立派ですが、自らなにも差し出しません。早い話が、口だけの愚者です」

「かっかはっ……かっかっ……」

 

 彼は過呼吸の症状を引き起こす。全身鎧が近寄り、顔から様々な液体を垂れ流している彼を軽蔑した。

 

「なんという醜い表情。この程度で怯えるのなら、初めから何もしなければいいものを。だからこそ人間は醜い。我らに盾突いた者の末路としては、汚くて絵にもならないわ」

「ここ、こんな……ひっ」

「情けない……これが元漆黒聖典か……」

 

 アインズの許可を得る前に、隊長は剣を構えた。この場で処断しようとしているらしい。

 

「魔導王陛下、彼を斬首する許可を願います」

「第一席次、君の仲間が怯えて目を逸らしているな。魔導国側の者は無理する必要はない。少し離れた場所へ連れて行き、休ませなさい」

「しかし、私はこの罪人を」

「こんな雑魚、罪人とも言えん。私からすれば、魔導国に恭順する君たちの方が重要だ。さあ、行きなさい。仲間がこの場面を繰り返してうなされないようにな」

「……ありがとうございます」

 

 隊長の心情はわからない。他の隊員は不明だが、彼は懐柔されているように見えた。

 

 突如、転移ゲートが開いて軍服の卵頭が飛び出した。

 

「ぅアインズ様! パンドラズ・アクター、一仕事終え、ただいま帰還いたしましたっ! 先ほどの演説、お見事でございます。法国に残った彼らは、口々にアインズ様への期待と好意を口にし、その場で盛り上がっておりました! 黙ってはいられず、私は彼らに混ざり、アインズ様がどれほど素晴らしい御方か彼らに説いてきたのでございます! 我々はアインズ様へ忠誠と愛を捧げるナザリックという超個体。各々の手段こそ違えど、目的は一つ」

「……ご苦労。よくやったな」

「はっ、彼らは放っておけば、アインズ様へ信仰を捧げるでしょう。敵対者の方々は……おや?」

 

 パンドラの視界に、顔から様々な液体を垂れ流して正気が霞んでいる彼、元漆黒聖典が目に入る。彼は無言で彼の後ろへ歩み寄る。カツカツと軍靴の音を響かせ、背後を取ったパンドラは彼の両肩を掴んだ。

 

「なぁぜぇ、そんなに怯えていらっしゃるのですかな? 我らへ反発した皆様がその様では、他の国民に示しが尽きませんぞ! さあ! ここは我らと共に眺めようではありませんかっ! 至高のぅ御方々の頂点、最高位にして最強の魔力を持つアインズ様の超位魔法! この奇跡を、人に仇なすビーストマンの悲鳴を聞きながら、しかと海馬へ刻み込もうではありませんか!」

 

 パンドラは少々はしゃいでいた。アインズの勅命で仕事をこなすのは、ナザリックに属するもの無上の喜び。アインズに作り出された息子であれば、他よりも一段階上だ。

 

 悪気がないとはいえ、パンドラは少々やり過ぎた。

 

 魔法の対象は国家だが、大陸の中央にある国家とは比較にならない小国家だ。とはいえ、首都の規模と人口はそれなりに大きい。踏み潰される獣の悲鳴は、束になってこちらへ届いた。子供が作り上げた箱庭を破壊する気楽さで、おぞましい人外の怪物が彼らの歴史と命を踏みにじっている。

 

 魔導国の敵対者は、獣の断末魔など聞こえていない。直接、脳へ侵入してくるのはこの世のものとは思えぬ鳴き声。

 

《メェェェェェエエエエエエエエ!》

 

 千の仔山羊を孕みし黒山羊、豊穣を象徴する女神の落とし子、六体の異形の仔山羊が体中に生やした無数の口を開き、同時に咆哮する。現世の景色とは思えない鳴き声が、聞いた者の精神を崖っぷちに立たせた。狂気が渦巻く深淵に落ちてしまえば、発狂して二度と正気を取り戻さない。

 

 彼らはどれほど恐ろしくても目を逸らせない。如何なる恐怖であっても、それがどこで何をしているのか分からないよりましなのだ。時間経過で精神が削られていく。

 

 ここは地獄。演者も観客も、ただ地獄が過ぎ去るのを耐えるしかない。仕掛け人だけがそれを楽しむことができる。獣たちが踏み潰される瑞々しい音が、こちらまで聞こえてきそうであった。

 

 遠方で大殺戮を行う仔山羊同様、短く嗤うアインズが恐ろしかった。

 

「ははっ、随分と活きのいい子山羊たちじゃないか。そう思わんか、アルベド」

「はい、流石はアインズ様です。このまま順調に殺していけば、三十分とかからずにあそこは死都となりますわ。そのまま放置しておけば、アンデッドの苗床になるでしょう」

「それは名案だな。何しろ今回は、戦争ではなく国家そのものへ仕掛けたのだ」

 

 彼は、間違っていた。

 

 この世界で敵に回してはいけない相手順位表(ランキング)の首位、アインズ・ウール・ゴウンに喧嘩を売った自分は、これから真っ当に生きられない。仮に生き延びて人間至上国家を作ったとして、それでどうなる。常に魔導国の顔色を窺い、彼の一挙手一投足で慌てふためき、果ては勝手に潰れる、そんな未来しか見えない。

 

 むしろ潰れるまで歴史が延びれば上等で、その前に今ここで味わっている恐怖の記憶が幾度となく照り返し、この先まともな精神で生きていけない。

 

「殺してくれ……」

「何か言ったか? 元漆黒聖典で反異形種派の人間よ」

「殺してくれ……私が間違っていた。私の命を以て、今回の無礼を詫びる」

「遠慮することはない。この地へ人間国家を建国したまえ。それとも、ここで信念と宗教を捨てると申すか」

「捨てる……どうか、赦してほしい……」

「つまらん……」

 

 アインズからしてみれば、彼らを本気で潰そうと思ったら秘密裏に配下を潜ませればよい。今回、ここまで大掛かりな策に乗じたのは、後顧の憂いを解くためにも派手な魔法を使う必要があった。アインズ自身も威力を測る意味も、お気に入りを見せびらかす意味でも楽しみだった。肝心の敵対者がここまでだらしないと、せっかく打った超位魔法も興ざめだ。

 

 大袈裟にため息を吐いていると、部下を遠くへ引き離した第一席次が戻る。彼は元漆黒聖典をどうやっても粛清したいらしく、殺意で瞳が塗りつぶされていた。

 

「元漆黒聖典。上から目線でものを言わないでいただきたい。あなたが無礼を詫びるのはこれからです。ご安心ください、魔導国は人間を簡単に殺さない。他者に害成す人間は資源として有効活用が可能です。あなたたちは死なずとも牧場へ納品され、皮を剥いで羊皮紙を作り続ければいいのです」

 

(第一席次……そこまで堕ちたか。これでは暗黒聖典だ。人間牧場などという残酷極まりないものを――)

 

「それは素晴らしい。これだけの家畜がいれば、質の良い羊皮紙が安定供給できるでしょう。ヤトノカミ様が計画中の牧場に、早くも法国産の家畜が大量に送られるのです。これぞ天の采配、法国を属国化した彼らから感謝の贈り物です」

 

(……ヤトが計画中の牧場、だと?)

 

「くふふ、アインズ様。これで羊皮紙の生産はしばらく問題ありませんわ。人間の羊皮紙は羊よりもよほど優秀と既に成果が出ております」

 

(成果? 成果ってなんだ……? もう既に実験していたのか?)

 

「あるいは! 人間牧場で皮を剥ぐ従業員として使うのもいいでしょう。魔導国は大国、汚れ仕事を行う人間は多いに越したことはありません。さあ、皆さん、目覚めなさい! 大義名分は魔導国にあり!」

 

(みんな……何を言っているんだ……)

 

 アインズは敵生命体が全て死に絶えるまで、不安な物思いに耽った。

 

 これ以後、反異形種派はその言葉ごと、世界からごっそりと消え失せ、彼らがどこへ消えたのか知るのは一部の者だけである。正気を失わなかった彼らは魔導国の駒として、言いなりになる人間が必要な場へ駆り出される。

 

 普段は牧場で皮を剥ぐ業務に従事させられた。同種族の皮を剥ぐなど狂気の沙汰であったが、それ以上に恐ろしいものを見た彼らは平然と、容赦なく同胞の皮を剥ぎ続けた。慣れるまではうなされる夜を過ごしたが、慣れてからの彼らは黙々と作業に没頭した。そうしていれば、あのおぞましい仔山羊の鳴き声を忘れられたからだ。

 

 同時刻、カルネAOGのネムは昼寝の最中、幾重にも重なる女の嘲笑を聞いた。明確に邪悪な憎悪で、彼女は何かを叫んでいた。

 

 

 ネムは恐ろしくなって、聞こえなくなるまで布団の中で震えていた。

 

 

 

 

 茸頭の料理長と副料理長は、前触れなく呼び出されて王宮の執務室にいた。何か粗相をしたのかと戦々恐々とする二本の茸は、細かく震えて胞子を執務室にまき散らした。微細な胞子は蛇に捉えることができないが、妙に土臭い香りを嗅ぐ。原因がわからず、大蛇は首を傾げてから本題に入る。

 

「ナザリックの飯に慣れ過ぎた。王都の飯のレベル上げられるかな? 俺たち専用の会員制レストランでも欲しいんだけど」

 

 アルベドは食事の支度をしなかったし、ヤトも王都で食えばいいと思っていた。ここ数日、ナザリックの食事と酒ばかりだったので、王都で朝食をとろうと思ったのが失敗だった。思い起こせば、王都の食事はワンパターンなメニューしかなかったような気がしてくる。

 

 彼らは胞子をばら撒くのを止めた。

 

「んで、出来そう? 人間に教えられる?」

「教えるのは構いませんが……果たして我らの腕についてこれるか否か、でございますね」

「お話を聞いたところ、この辺りで飲まれている酒は安価な蒸留酒、血統書付きの酒や調味料ばかりの我等では材料からして差があります」

「うーん……材料はナザリックから仕入れるか……ある程度の一般開放も必要だな」

「料理は材料次第で出来上がりが雲泥の差です。下劣な食材で拵えた料理など、文字通り泥を食うようなものです」

「泥は食いたくないなぁ」

「教える分には問題ございません。幸い、この世界の人間はレベルが低く、成長の幅もありましょう」

「早急にそういう場を設けるから、よろしく」

 

 キノコヘッドたちは一礼をして帰っていった。三大欲求の一つを担う食欲は重要な要因であった。何より、ナザリックの食事が味わえるのなら売り上げも期待できる。

 

「胃袋を掴むってわけだな……」

 

 これが上手くいけばそちらの方面でも他国へ侵攻できる。無限に金ばかり集まりそうだと短絡的に考えた。時刻は正午となり、腹時計は空腹をお知らせする。

 

「昼飯でも食うか……」

 

 ついでに食事を持ってきてもらえばよかったと後悔した。

 

 

 食堂に着くとジエットが本を読みながら食事をしていた。

 

「よぅ、ジエット。お行儀悪いな」

「あ、蛇様。ご機嫌うるわしゅ――」

 

 立ち上がりかけた若者を制し、彼の向かいに腰かけた。

 

「いいよ、普通の挨拶で」

「す、すみません。こんにちは」

 

 ヤトは適当に選んだパンを齧った。若者が読んでいる本には、《よくわかる建築の初歩!》と書かれていたが、蛇神は文字が読めなかった。

 

「学校建設はどうだ?」

「大変です」

「そうだよな……」

「でも、楽しいです。自分で思うままにできるというのは、やりがいがあります」

「俺にゃ無理だな」

「人材は順調に集まっていますので、そろそろ建設に取り掛かれます。しかし、教育省の創設はやはり必要になりそうで……ブツブツ」

「ふーん」

 

 青年は串焼きを齧っていた。どうやら肉を持ち込んだらしい。他のおかずはスープとパンだけであった。

 

「なんだ、肉は持ち込んだのか?」

「はい、肉は外の串焼き屋が一番おいしいです」

「いわゆるホルモンだろ、それ。知ってるか? ホルモンって放るモンっていうのが語源なんだってよ」

「ホ、ホモン?」

「なんだよ、ホモンって。モモンさんに怒られるぞ。ジエットが漆黒の英雄ホモォンって言ってたと言いつけてやるぞ」

「……モモン様と結びつけたのは蛇様ですよ」

 

 談笑しているかは定かでなく、ジエットは誰の目から見ても困っていた。会話途中、一人のメイドが来客を告げる。

 

「お食事中、失礼します、大蛇様」

「なに? ジエットママさん」

「あら、ジエット。お元気そうね」

「朝、会いましたよ……」

 

 一緒に暮らしているのでお元気も何もない。元気になった彼女はここまで天然だったのかと、息子は不安を感じていた。そのうちに、「蛇様の妾になるわ!」と言いだしてもなんら不思議ではない。身内の生々しい場面は、倫理を冒涜する恐ろしい悪夢でしかない。

 

「竜王国の女王陛下と従者の方がいらっしゃいました」

「あれは従者じゃなくて七彩の竜王ね」

「んまぁ……そうでしたの」

「呼んできて」

「はい!」

 

 年齢を感じさせない軽やかさで彼女は立ち去った。ジエットは眉間に皺をよせ、こめかみを押さえて苦しむ。何か悩みがあるのかと観察していると、彼の悩む問題はヤトへ投げかけられた。

 

「蛇様、あまり母に気を持たせないでください」

「もーたーせーてーねえー。お前は何をわけの分からんことを言ってるんだ」

「だって……なんか仲が良さそうなので」

「普通だよ、普通。まったく、そこかしこに手を付けてたまるか。お前こそどうなんだ。お嬢様のアルシェが好きなんだろ」

「……いえ、魔導王陛下には勝てません」

「それもそうだな……大変だな、お前も」

「これは噂ですが、竜王国そのものを後宮にしようとしたと聞きましたが、本当ですか?」

「そうなのか?」

「そうだったのか!?」

 

 勝手に返事が増えた。

 

 竜王の曾孫は挨拶もせずに久方ぶりに五月蠅い。彼女の顔を見ればわかるが、初めての遠出で気分が盛り上がって興奮(トランス)状態になっている。まるで家族旅行にはしゃぐ子供であった。番外席次という一難が去ってまた次の一難(女難)だが、隣に虹色がいたので幼女は無視された。

 

「虹色もわざわざご苦労だったな」

「蛇神、肥満児を常闇に預けたのだが、構わないかね」

「好きにせい。まあ、とりあえず飯でも食うか?」

「私の目的ははっきりしている。君たちの(ねぐら)にある蔵書を借り受けたい。ドラウディロン、君は食事でもしていたまえ」

「あ、はい」

 

 幼女も曾祖父には刃向かえないようだ。

 

「あー……本を読みたいって言ってたな。何の本が読みたいんだっけ?」

「ホクオー神話だ。できれば複製を用意して譲渡していただきたい。あの肥満児にも読ませたいのでな」

「そうか、図書室の館長に聞いてみるから待っててくれ。うちの王女と面通しさせろって部下から言われてるんだ」

 

 数十分後、ヤトは北欧神話といくつかの神話体系を見繕って食堂へ戻る。ラナーは既に待機しており、連れ立って虹色のもとへ向かう。ラナーと七彩の竜王(ブライトネス・ドラゴンロード)は初対面であったが、目が合った瞬間、交差した視線に電流が走った。

 

 互いに高い知性を持つ所以か、自分と同類の人間を見抜いた。

 

「蛇神、彼女がラナー第三王女か」

「ヤトノカミ様、この御方が七彩の竜王(ブライトネス・ドラゴンロード)様ですか?」

「あ、うん、両方ともそれで合ってる」

「なるほど……ところで、記憶を奪い去る魔物に心当たりはないかね」

「んー? ………い、やぁ、知らないな。記憶を操作する魔法は知ってるが、魔物が使えるレベルのものじゃないしな」

「そうか……」

「竜王様、応接間は二階へ上がって左の部屋です。お話はそちらで」

「すぐに行こう」

 

 彼らは足早に食堂を去った。ジエットは食事を終えて立ち上がり、食堂には竜王国の女王と大蛇が残された。別の応接間へ移動する手間を億劫に感じ、国家間の属国化の相談はそのまま食堂で行われた。

 

「ほう、これが属国化の詳細か」

「見ての通りだ」

「ところで妾は募集しているのか。妻でも構わんが」

「しつこいな。そういうの、間に合ってるよ」

「愛妾はおらんのか? 後宮も支配者層なら持つべきだろ」

「逆に聞くが、お前は持ってんのか?」

「いや、好みの相手がいないのでな」

「女王なら子をたくさん作れよ」

「道中、曾祖父様にも同じことを言われた……」

 

 見た目だけ少女の淑女は相も変わらず太々しく、態度が似た者同士である両者の会合は脱線を繰り返し、遅々として進まなかった。

 

 

 

 

 虹色の少年と黄金の美女は応接間で向かい合う。入室して早々、挨拶もなしに二人は沈黙を維持した。

 

 言葉を交わさずとも、相手の知性は理解できている。叡智の頂とは、自然と容姿に反映されるもの。知性の格付けを終えた両者は本題へ入った。

 

「ラナー第三王女、とお呼びすればよろしいかね」

「ラナー、で構いません、竜王様」

「互いに探りあう必要はない。知性が近ければ交わす言葉は最小限に抑えられよう」

 

 ラナーの微笑みに影が差し込む。ここで対応を誤れば、これまで積み重ねた策が露と消える。彼女には小さな少年の笑みが、「主導権はこちらにある」と言っているように見えた。

 

「何のことかわかりませんわ」

「隠す必要はない。私の知性は言葉以上に把握していよう。雑多な言葉は無粋だ」

 

 自分より知性の高い者はアルベドしか知らなかったが、彼女とラナーは局所的に発揮されるもの。多種多様かつ多面的に捉えて蓄えた知識を、余すことなく使い切る彼を警戒する。

 

 知性が近いなど、こちらの油断を誘う謙遜だ。ラナーは生まれて初めて、迂闊な情報を漏らさぬように心を締め上げた。

 

「知性の高い君がよりによって王国で生まれたのは最大級の絶望でありながら、高品質の悲劇に相違ない。さぞや周囲を取り巻く環境へ絶望したことだろう。しかし、奇跡とは得てしてそういう者の頭上へ落ちる」

 

 ラナーの口の端が、微かにヒクヒクと動いた。少年は彼女の反応を見て満足そうに話を続けた。

 

「君は美貌と知性がもっとも輝く年齢で、百年周期でこの世界に召喚されるプレイヤーとその配下へ遭遇した。これは運命の折衷案、君が期待さえしなかった奇跡に他ならない」

「百年周期、だったのですね。御明察の通り、素晴らしい出会いでしたわ」

「天才とは絶えゆく血統、生命の大樹から外れた家系図の枝葉末節。この機を生かせるのは、叡智の頂に坐す君だけだ。屍の山で新国家の地盤を築くことなく、国を彼らに明け渡したな」

「何のことかわかりませんが……魔導国へ移行するのに痛ましい犠牲はございました。蛇様に惨殺された哀れな貴族がどれほどいたことか。惨劇の場へ居合わせながら、辛うじて生き延びた貴族は悪夢にうなされている方もいらっしゃいます。王族として、彼らへの同情と罪悪感を禁じえません」

 

 わかりやすく嘘をついている、と虹色は看破したが指摘しなかった。

 

「だが、惨劇が無ければ、王国は朽ち果てる負の波動から解放されず、滅亡の気配を振り切れなかった。生き延びた貴族はそれだけで感謝すべきだ。国を蝕んだ愚かさを省みる必要がなくなる。しかし、君はここまでの未来をどこまで想定していた。大蛇が王国を揺さぶり、魔導王が君臨するに相応しい地盤は君のお膳立てによるものか」

「過大評価はお止めください。私は可愛い部下を慈しむ一人の女です。ああ……せめて、アルベド様ともっと早くにお会いしていれば、哀れな犠牲者を生み出さずに王国を魔導国へ移行できましたのに……」

 

 ラナーの悲痛な表情に少年は口を歪めた。どれほど知識や考察の金槌(かなづち)で打ち付けても、鋼鉄の女神像のようにラナーは乱れない。黄金の魔女は内面を少しも悟らせず、顔を少しだけ伏せている。

 

 

「蛇から従者の若者を飼っていると聞いている。君の最終目的は、愛しい従者の若者を連れて魔導王と蛇神の拠点へ移り住むことだな」

 

 ラナーは沈黙で肯定した。無言の微笑みが張り付いていた。

 

「交渉は相互利益なくして成立しない。彼らは君に何を望んだ。君はどれほどのものを差し出した。国だけではなく、他にも差し出しているだろう」

 

 ラナーの表情が揺れ始めた。無表情と微笑みの中間の曖昧な表情をしている。順調に打ち込まれていくラナーの心情の暴露、真実の楔は彼女の心へ深く潜ろうと矢継ぎ早に撃ち込まれる。

 

「彼らの目的は仲間を探す旅に出ることだ。君は立場を確立し終えてから、彼らの拠点封鎖に向けて動かなければならない。拠点封鎖の話は彼らにしたのかね。いや、聡明な君のことだ、既に話を終えているな。竜王国を手中に収めたのち、魔導王と蛇が揃って王都にいるときこそ好機。その機を逃すは愚行。彼らの知性は並みの人間、君とその交渉相手の提案を容易に受け入れたのではないかね」

「フー……困りましたわ」

 

 黄金の美女は頭を振ってため息を吐き、肺の酸素濃度が薄れて苦笑いを浮かべた。これ以上、知らぬ存ぜぬは通用しない。こちらが黙っていれば、彼は反応があるまで魔女たちの計略を吐き続ける。計画は安定期に入っているが、誰かが扉の前を通りかかって計画が露呈する方がまずい。微かな綻びで全てが瓦解することもある。

 

「お見事です。封鎖の原案はアルベド様より御二方へご提案済みです。アルベド様とは魔導王陛下のお妃様ですわ」

「君の交渉相手は彼女だな。相手の知性も高くなければ交渉は成り立つまい」

「この場に居合わせたら更に話が飛躍していたでしょう。彼女の知性も私より上です。竜王様よりも彼女の方が近しいですが」

 

 ラナーは微笑みを顔面に張り付け直した。少しだけ口の端あたりが歪んでいた。

 

「全てはアルベド様のご協力の賜物。現在、大墳墓入口の簡易家屋は土に埋もれ、小高い丘となっております。アルベド様の願いはアインズ様と永遠に寄り添うこと。仲間へ執着するアインズ様は必ず旅に出られます。彼女の業務を私が代行することで、アルベド様は自由に動き、アインズ様に付き従うのです。彼女の思惑は他にもあるようですが、心が形作る闇の深淵を覗こうとは思いません」

「素晴らしい、称賛に値する」

 

 虹色は身を乗り出し、ラナーの顔を凝視した。彼女は微笑みで視線を受け止める。堅牢な金庫になっているが、虹色は彼女の正体を把握する。

 

 竜王は口を歪め、鮮やかな瞳に黄金の魔女を映した。

 

「ラナー第三王女、知性とは存在するべくして存在している。そろそろ、その薄気味悪い笑みを止めたまえ。弱肉強食の摂理が支配するこの世界、知性の高い者に慈悲はない。慈愛を施すものに知性は不要。私は君の本質を把握しているよ、黄金の魔女殿」

 

 少年が言い終えると同時に彼女の笑みが引いていく。顔面の筋肉が麻痺したような無表情が張り付いた。魚が死んだように濁った瞳に虚無を維持し、やがて彼女の口は左右目一杯に裂けた。変化する過程を見ていなければ別人に見えただろう。

 

「ほう、随分、変わるな。それが君の本当の顔か。今まで何人の人間がその顔を見た。彼らは魂となって転生を待っているのか」

「誤解なさらないでください、七彩の竜王様。私は殺人鬼ではありません。ですが、この顔を見たのは両手足の指の数より少ないです」

「結構。お目にかかれて光栄だ」

 

 二人が暗く笑い合ったとき、太陽に雲がかかり、応接間は日陰になった。影の中で知性の高い者たちが目を光らせて怪しく嗤う。

 

「それでは教えてくれたまえ。封鎖を提案するに相応しき好機は、竜王国を巡る騒動の後でなければならなかった。彼らの信頼する智将は馬鹿げた支配力に怯えていたが、君たちは知っていたな。でなければ成り立たないことがある。魔導王が全てを手に入れて帰還すると確信した理由は何だ」

「竜王様、誤解なさっていますわ」

 

 彼女の裂けた口に紅茶が吸い込まれた。

 

「私たちは何も知る必要はないのです。これまでの結果が物語るのは、世界はアインズ様のために存在し、全てはアインズ様を中心に巡る。私たちはそれを信じただけです。アインズ様は自分の思惑と外れながら、他者にとって最良の成果を導きだすのです。そうやってこの短期間で全てを平定してきました。私たちは信じただけなのです」

 

 ラナーの言い分は、ある種の盲目な宗教であった。アインズを主神とし、これまでの実績を元に彼を信じるのである。そこには論理的な根拠が存在しない。

 

「そして天は魔女の背中を押した」

「その通りです。見誤っていれば、延期すればいいだけです。あの方は遅かれ早かれ、それ相応の結果を手に入れます」

 

 虹色の少年は目を細めた。人間の容姿でも、彼の瞳は爬虫類のそれに酷似している。彼が何を思って何を見たのか、本人にしかわからない。

 

「往々にしてこのような事態は起きる。女性は男性に比べて直感に優れているという。やはり君がこの国を魔導国へ導いた首謀者だな。人間性と引き換えに、よくそれだけの知性を得たものだ。これから全盛期を迎えようとする黄金の魔女に、知性の高いだけの者は敗北するだろう」

 

 竜王はとても満足そうだった。

 

「残る疑問はただ一つ。君たちはあと何年生きるつもりなのかね。伝承によれば、プレイヤーの年齢は種族に依存するが、配下の魔神、彼らはNPCと呼んでいるが、それらは創られた永遠、生まれながらに永続性が与えられている。際限なく生きる彼らに、あとどれほど付き合うつもりなのだ」

 

「そちらは検討中です。私の可愛いクライム(ペット)、愛くるしい容姿の変化を私が受け入れられるのか、結論は出ていません。吸血鬼化の実験は進行中です。心の変容の程度が低いのであれば、容姿を固定する意味でも実践すべきと考えていますが……」

 

 彼女は少しだけ間を空けて続けた。

 

「悠久の生は人間にいささか長すぎます。”醜く長き生”を生きるつもりはありません。人間に相応しき時間だけ愛を謳歌したのち、揃って命を絶ちましょう」

「花が枯れるように、か……世界に混在しうるありとあらゆる生命体は、詰まるところ死ぬために生きている。彼らプレイヤー勢力は、その理から外れた不純物、舞台演劇に飛び入りする鼻摘み者に過ぎない。もっとも……それも元になった人間の性格が影響を及ぼすようだが」

「あら、そんなことはありませんわ。全てのぷれいやーは、何らかの役割を与えられてこの世界に転移させられたのです。最初に転移された六大神だって、アインズ様が支配するスレイン法国を建国して人間を守るために来たのかもしれません」

「神から授けられ魂の課題、生に課せられた命題……か」

 

 少年の思考は急速にラナーから離れて彼方を浮遊した。自然と会話に一区切りがつき、メイドがお茶を運んでくる。メイドがその場に滞在しているあいだ、両者は沈黙を続けた。妙な空気を読み、彼女は逃げるように退室した。メイドが立ち去ってからもしばらく口は開かれず、立ち上る湯気が見えなくなってからラナーが口を開いた。

 

「どうぞ、お代わりを召し上がりください。竜王様のお口に王都の紅茶が合えばいいのですが」

「心遣い痛み入る。人間の食物や飲料は久しぶりでな」

 

 気が付けば、ラナーの口は元に戻っていた。裂けた口は元に戻り、麗しい唇は紅茶を吸い込んだ。虹色の口はまだ乾いておらず、カップから立ち上る香りを楽しんだ。ナザリック産の紅茶の香りは芳醇で、虹色を満たすに足りるものだった。

 

「先ほどの命題と関連するのだが、彼らの部下で黄色い外套(ローブ)を身に纏い、他者の行動を制限し、記憶を奪うものに心当たりはないかね」

「いえ、心当たりはありません。何かございましたか」

 

 虹色は考え込んだ。何を話そうか悩んだのではない。全て揃っているパズルのピース、自身の内なる世界で人知を超越した速度で組み立て、現れた絵を眺めていた。

 

 少年は茜色に染まる紅茶を口にした。話題の転換にはちょうど良かった。

 

「蛇神がビーストマンに感情移入し、自らの存在意義に苦悩していたときのことだ。彼をより近くで観賞しようと翼を広げた私の背後に、これまで感じたことのない気配を纏う何かがいた。然るのち、それは私の行動を何らかの方法で制限し、去り際に記憶の一部を持ち去った。気が付くと丸一日が経過し、私は敵対する白金の竜王と大蛇に割って入るのが精一杯であった」

「……見当もつきません。竜王様の背後を取って記憶を奪うとは」

 

 虹色のこめかみに冷や汗が滲んだ。その緊張が伝わったのか、ラナーの表情も無表情になっていた。

 

「私が事前に白金の竜王を抑える準備をしておけば、手柄を立てていたのは魔導王ではなく大蛇で、竜王国は蛇王国となっていただろう。君たちの策は遅延か変更を余儀なくされていた」

「それの意志は、蛇様の手柄を邪魔することでしょうか」

「私の考えは違う。いかなる種族であろうと上位種は存在する。プレイヤーの上位種に相応しきは神、そして私の出会ったなにかはそれに近しい力を持っていた。君は神を肯定するかね」

「私は無神論者です」

 

 「そうだろうな」と、竜王は笑った。

 

「ラナー王女、私は思うのだがこの世界は一つの箱庭なのだ。私にとって竜王国がそうであるようにね。箱庭は鑑賞者を満たすために存在し、箱庭の所有者か天災によって破壊される。薄氷を進むが如き脆弱な世界、神がいたずらに設けられた小さな楽園。神、創造主、あるいは上位鑑賞者は、自らが作り出した箱庭を至近距離で観賞する。私の遭遇したなにかは何者かに操作されている探知系アイテム、あるいは上位者の化身そのもの。世界へ干渉し、望んだ結果へ向けて軌道修正する」

 

 竜王の言葉は彼女の中で高速で噛み砕かれる。その有様を満足げに眺め、虹色はゆっくりと続けた。

 

「思考の羅針盤、数ある方位計の一つに過ぎない。物証なき現状で、仮説は無数に存在する。私は何かと直接的に邂逅したことで、神を肯定する説を唱えているだけなのだ」

 

 ラナーが聞いた虹色の仮説は興味深いものであったが、それは表裏一体、存在すると同時に裏へ別の仮説を作り上げている。それを見越して、議論は次の段階へ移行していく。

 

「私はこの説を“無限大論”と勝手に称している。しかし、表があれば裏もある。一つの仮説の根拠が提示されていない現状において、膨張を続ける思考はもう一つの仮説、“暗在論”と呼ぶ説を生み出した。いずれも神を肯定するものだ」

「神……」

「閃きは即座に口にしなければ氷のように融解する。荒唐無稽な仮説こそが、予期せず真実を導くこともある。遠慮せず話したまえ」

 

 このとき、ラナーは初めて躊躇った。此度の会談は仕組まれたもの、彼の言う観測者の予定調和ではないだろうか、と。事実がどうあれ、今は答えを求められている。彼女は短時間で話の流れを再構成した。

 

「間違っていたらご指摘ください。“無限大論”はアインズ様に世界征服をさせ、箱庭を無限に拡大し続ける一説です。それに対し、“ 暗在論”は箱庭を破壊する邪神の存在の肯定。大きな差は、結末が永遠の繁栄か、破壊される絶望ということ」

 

 虹色は手を差し出し、話の続きを促した。

 

「竜王様の遭遇したなにか……運命を軌道修正する何かと仮定すれば、観測者の探知アイテム……ヤトノカミ様こそ、運命の羅針盤……でしょうか」

「正確には、そう造り替えられた、と言うべきだ。私も彼の話を聞くまでは考え付かなかった。元人間にしては、彼の身体構造、心の在り方が(いびつ)すぎる。そこには、邪悪なる意思と何らかの意図を感じた。“暗在論”は、一つの結末が必ず訪れる」

「……消滅」

「然り、既に魔導王は王となった。魔導国は周辺国家を全てのみ込み、王都へ選りすぐりの猛者を集め、使役不可能な最強種族、竜王を三体も掌握した。強さも推し量れない強大な敵と戦争でもするかのように。役目を終えた方位磁針は破棄され、新たな目的地、観測者の望む結末へ向けて別の羅針盤に取って代わられる。全ては観測者の胸中、箱庭の駒に観測不能な宝石箱の中にある。世界が滅亡へ向かうのなら、既にその兆候がどこかに現れているだろう」

 

 ラナーの背中に鳥肌が立つ。それは、何らかの視線を意識した物か、作り上げて破壊する無邪気な悪意に怯えたか。

 

 自らが物語の登場人物、あるいは作られた箱庭の中の儚い生であっても、それはさしたる問題ではない。人間としての生を最後まで謳歌すればよい。問題は、結末が“滅”か“栄” 、あるいは“続”のどれなのかだ。

 

「……ままならないものです。ヤトノカミ様が消失したら、アインズ様はどれほど心を痛められるのでしょう」

「後者が採用されていたら、蛇神はそのためだけにここにいることになる。種族を超えた友人の最大にして最悪の差はそこだ」

「神、死、真実、どれも無慈悲なものですね」

 

 ラナーは額に手を当て、束の間、何かを考えた。虹色の少年は構わずに話を続ける。

 

「種族に関係なく、死後、魂は再利用され、別の肉体へと受肉する。魂の総数は決められており、それを超えて繁栄はできない。なぜ魂は再利用されている。そうせざるを得なかったのだ。この世界は、新たな魂が増えることなき閉鎖された亜空間。ユグドラシルを起点に置く偶発的な異世界」

「存在することが奇跡、と仰りたいのですね」

 

 少年は頷いた。

 

「世界はプレイヤーの世界から滴った濃密に香る雫、北欧神話・ユグドラシルの世界規定(ルール)・ユグドラシル製作者の意識などが挙げられる。それを根源として魔力と世界規定を造り出したもの。彼らの世界を原著とし、その世界に並行して進む異世界だ。ユグドラシルの元となった神話、北欧神話に世界を紐解く情報があるかもしれん」

「観測者が何者か、竜王様の意見をお聞かせください」

「私は上位世界が存在すると仮定し、観測者はそこにいると考えている。だが、知ったところで我々に打つ手はない。偶然に産み落とされ、閉鎖空間に囚われた箱庭の駒にできるのは、彼らが望む未来が破滅や絶望でないことを願うばかりだ」

「どれほど真実とは無慈悲であり続けようと、ヤトノカミ様が消失しない“継続”を願っていただきたいものです。我々の未来のためにも」

 

 紅茶はすっかり冷めていた。ラナーは扉の向こうで待機しているメイドを呼び、新しいものを頼んだ。

 

「感謝する、少々、饒舌になってしまった。隠居生活はいささか長すぎた。自分と知性の釣り合うものに会うのも久しぶりなのでな」

「知性が釣り合うなど、不相応な褒め言葉です。私は竜王様に遥かに劣ります」

 

 ラナーの美しい瞳が竜王を咎めた。虹色の少年は真顔でそれを受け、今度は苦笑いした。

 

「しかし、“暗在論”が正しいと仮定すれば、蛇神は……」

 

 ラナーは人差し指を立て、唇に当てた。

 

「ふむ……口は災いを呼ぶ、か」

「余計なことを口にすれば、世界の因果はそちらへ流れてしまいます。観測者がいれば、それに気付いた私たちを必ず見ています。無慈悲な真実が正しいとは限りません。駒の私たちは起きた事象を受け容れればいいのです」

「被観測者に運命を読み解くことはできん。種族に関わらず魂が同じであれば、我等とて運命の奴隷、因果の参列者、輪廻の歯車でしかない。プレイヤーとは、その螺旋回廊から外れ、閉鎖空間に放り投げられたもの。上等な料理に混じる蛆、生者に溶け込むアンデッド。敢えて意味を見出すとすれば、世界の維持かもしれんな」

「この世界の観測者たちが、世界の滅びを願わないよう祈りましょう。私の場合は、子犬のようなクライムに見つめられ、そこで生きているだけで満足なのです。人の願いは、いつだって細やかなことで満たされます」

 

 彼女の微笑みは黄金に輝いていた。竜王は思わず苦笑いする。

 

「人間らしく慎ましいな。君の言を借りるとすれば、“醜く長き生”だが、吸血鬼化して悠久を生き永らえ、天より与えられた魂の命題、世界の真理を、君ほどの知性があれば容易に探れよう」

「それこそ、人間ごときが世界に与えられた命題を探すなどおこがましいです。悠久の生の先に何が待つのか、聡明な竜王様はご存知でありませんか?」

 

 竜王の瞳が見開かれ、先だった妻の台詞とラナーの言葉が(だぶ)る。

 

(馬鹿馬鹿しい……彼女は別人だ)

 

 目を閉じて首を振り、苦笑いで紅茶を飲み干した。そこで死んだ妻の魂がラナーに転生していると短絡的に直結するほど、彼の知能は低くない、そして若くもない。彼は十分な歳月を()んでいる。

 

(妻とは、いつ出会えるのだろうか……)

 

 (はなは)だ小さくなった彼女への執着心が、胸の奥で少しだけ燃えた。

 

「竜王様、いつまでこちらにいらっしゃるのですか?」

「私の目的は、知識欲を満たし続けること、彼女……私の妻の転生体と出会うことだ。彼らの拠点の蔵書を読みたい、しばらくは滞在する予定だ」

「それはよかった。客間は余っておりますのでごゆっくり観光くださいませ。学校建設、闘技場で武闘大会の開催、異種族の都市建設と、この国はどれほどの人員がいても足りません。蔵書と引き換えに彼らに協力なさってはいかがですか?」

「さすれば、君の手間も省ける、というわけだな」

「あら、うふふ……そうかもしれません」

 

 悪戯が見つかった子供のように、黄金の王女は無邪気な笑みを浮かべた。

 

 会話が止まった応接間に、遠くで誰かが廊下を走る音が聞こえた。

 

 徐々に大きくなり、足音が部屋の前を通過しようとする。両者の視線はそちらへ向けられた。応接間の扉が乱暴に開かれ、誰かが飛び込んできた。扉が開いてこそわかるが、何やら城内が騒がしい。

 

「ら、ラナー! 大変だ! 大蛇殿が酒に火をつけて飲もうとしたらむせ返り、零れた酒に引火して火だるまになって暴れている! 食堂が火事に!」

 

 老齢の貴族は、見た目よりも元気にまくし立てた。年齢にそぐわず、ここまで駆け上がってきたのであれば彼はまだまだ長生きすると思われる。ラナーは短くも深いため息を吐いた。

 

「お父様。何をしていらっしゃいますの。私はこちらの七彩の竜王(ブライトネス・ドラゴンロード)様とお茶会をしていましたのに」

「なぁにぃ! 神話に出てくる竜王様か! これは失礼いたしました。私はランポッサ三世、先代のリ・エスティーゼ王国の国王でございます。竜王国の始祖、竜王の名を冠する御方にお会いでき、誠に光栄」

「引退したとはいえ、元を正せばここは君の城だ。流儀を曲げる必要はない。非常事態が起きているのだろう? そちらの対応を急がなくてもいいのかね」

「そ、そうでした! ラナー! このままでは竜王国の女王陛下まで火だるまに!」

「……それは困る」

「本当に騒々しいですわね……お父様、裏庭に戦士長とブレイン様がいらっしゃいますので、ご助力はそちらへ。私もすぐに下へ降ります」

「うむ、心得た!」

 

 ランポッサ三世は老いを感じさせない体で走り去っていった。引退して心を苛む公務から解放され、彼はますます(みなぎ)るようであった。最近では剣の腕を磨き始めていると、風の噂で聞いた。下手に冒険者などになられて尻ぬぐいは御免である。黄金の魔女からすれば、誰よりも厄介な存在だ。

 

「ふむ、話と違うな。すっかりと衰え、死を待つだけかと思ったが」

「困ったものです。それよりも、また蛇様が何かやらかしたようです」

「まったく、せわしない男だ……大陸の辺境を統べる支配者階級、魔導王を導く羅針盤とは思えん。奴はいつもこうなのかね」

「いつもこうです。だからこそアインズ様が必要なのです。我々も行きましょう、王宮を燃やされては困りますので」

「私の曾孫が燃えていなければよいが。彼女は私の箱庭を管理してもらわねばならん」

 

 

 虹色の心配通り、煌々と燃焼する酒は竜王国女王の衣服へ燃え移り、薄い生地がたちまちに燃えて火だるまになった。彼女は全身に水をぶっかけられ、駆けつけたメイドからタオルに(くる)れて抱きしめられていた。幼女の姿で体の表面積が小さく、人間生春巻きにしか見えない。それを指摘した大蛇は緑の鱗を黒く染め、咳き込んでまっくろくろすけを召喚した。

 

 

 食堂の天井が(すす)で黒く塗り潰され、跳ねまわった大蛇にテーブルとイスは大部分が破壊された。食堂は惨憺たるありさまである。

 

 

 誰も彼もが、憤激せしゼウスの雷霆(アインズの説教)が王宮へ被雷し、大蛇を黒焦げに焼き尽くす未来予想図を見た。

 

 

 

 

 

 七彩の竜王(ブライトネス・ドラゴンロード)の言葉を借りるのであれば、大蛇は自分で思うほど愚かしい結果を残していない。

 

 運命とは往々にして理解に苦しむもの。虹色の想定通り、この世界を創造した者がいるとするならば、それは神で相違ない。しかし、いつの世も神とは万能者とほど遠い。聖書によれば悪魔は10人の人間を殺害し、極めて稀に慈善事業へ手を染めた。神は気分で人間を殺害し、無慈悲にも悪魔の20万倍の人間を殺害している。およそ全能者に相応しいとは言えない。

 

 故に、彼女がそこにいるのは運命の誤作動に過ぎない。

 

 

 番外席次は依頼された通り、村を急襲する半魚人の群れを討伐した。魚の生臭いが立ち込める小さくて暗い漁村。半魚人を討伐して村人の顔は明るくなった。しかし、敵の目的は不明なまま、被害は痛ましく残されている。そこかしこにカジキマグロらしき魚が建物に突き刺さり、各々の家屋は好き勝手な方向へ傾いていた。地盤はぬかるんで緩み、彼女が地団駄を踏めば倒壊のドミノ倒しが始まりそうだ。

 

 仕事をこなした彼女は村に興味を示さず、退屈しのぎに聖王国との国境付近へ足をのばす。こうして自由に出歩けるのも、以前なら考えられなかった。鼻歌で法国の讃美歌を奏でながら呑気に散歩していると、村から数百メートル進んだ入り江の片隅に小さな洞穴を見つけた。

 

 怖いもの知らずの彼女は、ごく自然に退屈を興味に変えた。何も考えずに飛び込めば、入口から進むにつれて光が届かない暗闇の比率が増す。磯の香りに混じって刺激臭がした。洞穴は奥へ進むにつれて広がっていく。拍子抜けするほど弱かった半魚人に親玉(ボス)がいれば、それはこんなところに住んでいるのではないだろうか。

 

 少しだけ期待して足を早めた。

 

 不意に、誰かの声がする。

 

「止まってください。そこから入らないでください」

 

 奥に目を凝らしても、深い闇は見通すことができなかった。

 

「だれ?」

「僕はここに住んでいるものです。そこからこちらに来ないでください」

 

 彼女は戦いを予期し、蛇から貰った新しい武器、十字槍を構えた。

 

「あなた、強いの?」

「強くありません。むしろ弱いです。怖いから近寄らないでください」

「そう……つまんないの」

 

 彼の言葉は本当だろう。声に恐怖や不安が顕著に表れている。到底、強者の出すものではなく、がっかりした彼女は休憩しようと腰を下ろした。

 

「はーあ……つまんないの」

「どうして腰かけるんですか?」

「だって、暇なんだもの。急いで帰ってもやることないから。さっきまで弱い半魚人の討伐で……って、あなたもしかしてあいつらの親玉?」

「僕は半魚人じゃありません」

「まあ、そうだよね。いつからここにいるの?」

「わかりません。ここは昼も夜もないから時間の感覚が変なんですよね。今は何時ですか?」

「お昼くらいかな。太陽は真上にあるよ」

「今は昼間だったんだ。駄目ですね、ここにいると昼も夜もわからなくて。あなたはどこから来たのですか?」

「魔導国だよ。ここは魔導国と聖王国の国境付近。ルルイエ村っていったかしら、その村はずれの洞穴」

「マドーコク……セイオーコク……やっぱり聞いたことないなぁ」

 

 流れの旅人は諸国の事情に疎いこともある。強者を求めるが故、彼女は細かいことを詳しく追及しなかった。

 

「どこから来たの?」

「わかりません。気が付いたら海に浮かんでいました。驚いて暴れていたら海底から大砲みたいなもので撃たれて、命からがらに泳いでここに逃げ込んだんです」

「それ、砲撃! 私も食らったわ!」

 

 盛り上がる彼女の声で、奥の気配が動揺したのが分かった。

 

「なに、どうかしたの?」

「あ、いえ、別に……」

「そう、でもさ、痛いよね、あれ」

「死ぬかと思いましたよ」

「海底に何かあるのかしらね」

「どうですかね。この辺りに詳しくないので」

「ずっとここにいるって、何を食べて生きてるの?」

「満ち潮で流れ込んでくる海藻とか食べてます。眠ってばかりいるせいか、それでも足りるみたいです。とても美味しいですよ」

「美味しいんだ……」

 

 よほど食べ物の不味い場所から来たのだろうか。波打ち際で戦っているとき、足に纏わりついている海藻は変な臭いがした。真水とはいえ、海水は美味しいものではない。常時、それに浸っている海藻類を生で食べる彼の胆力は、それはそれで凄いのかもしれない。

 

「凄いわね……私には無理だわ。ねえ、あなた、名前は?」

「ヘ……へえ、僕の名前に興味あるんですか?」

「何て呼べばいいかわからないでしょ」

 

 たっぷりと間を空け、引きこもりの彼は答えた。

 

「……ノワール……かな?」

「ノワールね。ところで、あなたは人間? 長命種?」

「な、なんでですか? 人間ですよ。長生きしそうですけど」

「ふーん……今度、何か食べ物持ってきてあげるよ。海藻より美味しいもの」

「え、あ、はい。ありがとうございます。でも、なんで僕なんかに」

「今の上司が、誰かのために何かをするのは愛だって。今の私の仕事は世界平和だし、暇な時に寄ってあげる」

「そうですか……いい上司ですね」

「それじゃ、またね」

 

 番外席次は洞穴を飛び出して帰路につく。洞穴で誰かの声が反響した。

 

「しまった。あの子の名前、聞けばよかったな………またね、か。本当に来てくれるかな……」

 

 それから三日後、彼女は王都へ帰還した。

 

 表情は少しだけ明るくなっていた。

 

 

 


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