モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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バトルはおまけです。





 

 

 健全な魂は健全な肉体に宿ると、古代ローマ帝国の詩人は謳った。

 

 しかし、彼の考えは違う。

 

 個々の魂に差異はなく、健全な眠りが魂を健全にするのだと考えていた。眠りとは、酷使された肉体が体力を回復させ、魂を最適化する行為。連日、頭蓋内部へ行進曲(マーチ)を流し、意識が汚泥のように変え、万年床へ倒れ込むように寝入れば、起きたときに擦り切れた魂は健全なものに補修(デバッグ)されている。

 

 タブラ・スマラグディナの愛した高名な作家は、創作のヒントを夢から得ていたと聞く。

 

 眠りとはそれほどまでに重要なのだ。

 

 故に、船出してから今に至るまで、睡眠不要の肉体設定を無視してまで彼が眠り続けているのも魂の補修作業の一環で、退屈しのぎにソリュシャン(いい女)へ身を委ねて惰眠を貪っているわけでは決してない。

 

 番外席次はくつろぐスライム種たちをあくび混じりに眺めた。もう少しだけ、とある分野における知識経験値が蓄積されていたのならば、彼女の手で船は転覆し、村へとんぼ返りしていた可能性もある。少女の外見をした年寄り(ロリババア)は大神殿の最奥に引き籠っていた期間が長く、耳は年を取っていなかった。

 

 番外席次の処女膜が残存しているのは蛇が好色な性格でなかったという運命の僥倖。美人なメイドに纏わりついて惰眠を貪る黒い粘液生物が招いた幸運と、金髪のNPCが少しでも長く満たされるようにと世界の配慮。

 

 そのような事実は存在せず、人に限らず生きとし生けるもの全て、世界の与り知らぬところで幸福を得る。そうした事実は、失ってから初めて知ることが多い。現に、アインズは世界の破滅に繋がるイベントの真っ最中で、ヤトはその渦中にいる。

 

 

 しかしながら真水の海は今日も穏やかで、海底の調査班は緩やかな時間を過ごしていた。唯一無二の大失敗は、昼食の弁当を忘れた。番外席次は口寂しさを誤魔化そうと、海路の先を眺めた。

 

 南に聖王国の港湾が小さく見えた。

 

 話す相手もおらず、取り留めのない二人を眺めても埒が明かないので、彼女は船出を見送った村人の笑顔を思い出し、意識は記憶の回廊へ潜った。

 

 

 

 

 酔っ払った番外席次が倒壊させた廃屋は、船の材料として再利用されていた。お椀型の奇怪な船は妙に安定感があり、この設計ならば多少の荒波にも耐えられる。

 

 村の貧しさに反して派手な装飾が施され、乗り込めば丼料理の材料になった気分が味わえた。蓋こそ無いが、白いご飯でも敷いてあれば気分が盛り上がったことだろう。少ない資金を投入してまでわざわざ製作した意図は不明だが、用意した村人の笑顔が眩しかった。

 

 村人への対応を番外席次に任せ、ヘロヘロはそそくさと乗り込んだ。フードの付いた法衣(ローブ)で全身を覆い、異形の姿を隠している。実は異形種でしたと今さら説明するのは億劫だし、昨晩、頑張ったので余力は残されていない。

 

 船内には(オール)が二つ置いてあり、一寸法師にでもなったようだ。幸い、中は広々としており、ヘロヘロが姿を隠すに十分な広さが残されていた。後から乗り込んできたソリュシャンは女の子座りをして、自分の太腿を叩いて彼を誘惑した。船から桃色のハートが天に上ったが、番外席次には見えなかった。

 

 吐き気がするほど甘ったるい船内を知らず、番外席次は村長と事務的な話を終えた。

 

「それじゃあ、首尾よく終わったら税金は払いなさいね。魚もたくさん獲れるようになるでしょうから」

「は、はぁ……ところで、あちらの美女はどなたなのでしょうか」

「あちらの美女?」

 

 既に姿は見えないがソリュシャンのことだ。この世界は老いた者を除いて美男美女が多いが、ソリュシャンは頭二つ以上も飛び出して美しく妖艶であった。込められたヘロヘロの精魂によって、男性の目を惹きつけてやまない妖艶な美女だ。

 

「ああ、あいつのメイドさん」

「ほぅ……これほどの美女がこの世に存在しようとは」

「ん、そうね。それじゃあ、行ってくるから」

「よろしくお願いします」

 

 破顔する老年の村長、その細い目が僅かに開き、光の映さない黒い瞳を覗かせた。手を振る彼らを眺めているうちに、お椀型の舟は離岸流に乗って沖まで流された。

 

 番外席次が回想から復帰したのは、肺を満たす生臭い臭気に当てられて()せたからだ。かつて漆黒聖典が壊滅しかけた魔の海域、その領海を侵犯していた。海は凪いでいたが、嫌な臭気を帯びた黒い風が吹いている。不快感に胃袋が痙攣し、番外席次はまたもや()せた。

 

「ケホッ」

 

 可愛らしい咳を合図に、暗黒色のスライムの体が局所的に大きくへこみ、緊張感のない大欠伸をした。小さな突起が二本生えて伸びをしている。前日と打って変わって安心しきっているように見えた。

 

「あ、おはよう、ソリュシャン、番外さん。もう沖に着きました?」

「もうちょっと緊張感はないわけ?」

「番外席次様、夕べはお楽しみだったのですわ」

「ソリュさーん……」

 

 ソリュシャンはニコニコと微笑んでいる。

 

「? ……よくわからないけど、なんかムカつく」

「あ、外の様子はどうかな」

「……私に見ろと?」

 

 法国で宝物殿を守護していた番外席次なら、その場で殴りかかっていたかもしれないこき使われようだ。渋い顔の膝立ちで周囲を眺めてくれた。辺り一面が静まり返り、波の音さえ聞こえない。周囲に生息する水棲種がいるかと思っていたが、生物の気配そのものがない。作られた箱庭のような無機質さが周囲に漂っている。立ち上がって遠くを見れば、遥か彼方にサルガッソーの海が見えた。

 

「地図がないからよくわからないけど、この辺がその沖合だと思うの」

「そうですか。それじゃあ、ちょっと潜ってきましょうか」

「潜るって、素潜りなの?」

「スライム種は呼吸の必要がないからね」

「便利な体ね」

 

 舟の床にだらしなく広がっていたヘロヘロは体を寄せ集めて立ち上がった。膝の上から黒い粘液が逃げていくのを、ソリュシャンは寂しそうに眺めていた。体を盛り上がらせて立ち上がったと思わしきヘロヘロを、番外席次はジロジロと足元から頭頂まで眺めた。

 

「あ、ソリュシャンは待ってていいよ。ちょっと海底を見てくるだけだから」

「いえ、御伴いたしますわ、ヘロヘロ様。それこそが私のお務めです」

「あ、うん……そう?」

 

 どことなくソリュシャンに遠慮がちなヘロヘロに、番外席次は首を傾げた。

 

「二人とも何かおかしくない? 昨日の夜、何かあった? お楽しみってなに?」

「えぇ!? え……いやだなぁ、別に何も変わってませんよ」

「番外席次様、ヤトノカミ様がお戻りになられたら教えていただけるかと」

「なによ、いじわるね」

「そういうのを野暮と呼ぶのですわよ」

 

 ソリュシャンは口元を隠して笑い、ヘロヘロは誤魔化して大声を出す。それ以上、追及される前にとヘロヘロは船のへりに手をかけた。

 

「さ、さあ、行ってこようかな!」

 

 ヘロヘロの動きが止まった。

 

 海面から顔を出す何かと絶妙なタイミングで目が合ってしまった。

 

 真水の海へ飛び込もうとしたヘロヘロの視野は、一本の潜望鏡を捉えている。にゅっと海面から突き出たそれにレンズらしきものは、奇妙な形の船を監視していた。ヘロヘロの左右に顔を突き出した二名も潜望鏡を発見する。海底から突き出た穴子のようなそれは、首を振って三名の顔を確認した。しばらく無言で睨み合った末、相手が海の底へ戻っていった。

 

 ヘロヘロは船の中へゆっくりと戻り、座り込んで悩む。

 

 腕を組んで悩みだしたと思わしきヘロヘロに、番外席次が声をかける。

 

「今の何かしら」

「敵……かな……。そういえば砲撃食らったのってこの辺りだったよね?」

「そうね、そちらのメイドさんも食らったら死んじゃうかもしれないわよ。同じくらいの強さだった連れが一撃で死んじゃったから。当たりどころが悪かったのかもしれないけど」

「ワールド・エネミー……とは思えないけど、可能性は考慮しておくか」

 

 世界級魔物(ワールド・エネミー)

 

 世界を破壊しうる最悪のバランスブレイカーと評されるモンスターの総称。他に類を見ないその強さや能力は、”なんでもあり”と称するに相応しい。運営とのPKと言うものもいた。並のプレイヤーでは束になっても勝てない、超級の魔物だ。

 

 ヘロヘロは拳を握り締めた。戦闘するつもりはないが、身を守る最低限の交戦は起きるかもしれない。相手が世界級であれば勝ち目はない。単身のヘロヘロは海の藻屑となり、死骸は遠くのサルガッソーに混ざることになる。

 

 モモンガやヤトと再会せずに死ぬつもりはないし、今の自分には守りたいものもある。ここで自分が殺されたら、残されたナザリックとソリュシャンはどうなる。自分は英雄でも神様でもない。最悪は世話になった村を見捨て、ナザリックに引き籠る選択肢を視野に入れるべきだ。

 

 単身で海に飛び込む暴挙に、一筋の冷や汗が頬を伝った。

 

「ソリュシャン、何か起きたらすぐに逃げろ」

「ヘロヘロ様、私はお側を離れませ――」

「君のレベルじゃ護衛にならないし、足手まといだ」

「………しかし」

「自己犠牲は嫌いだよ。犠牲になろうとするのは、自分に価値がないと思っているからだし、俺を信用していないということだ。君が犠牲になって、残された俺はどんな気分になる。君のことをどう考えているか、言わなくてもわかっているだろう?」

「……ぁぃ」

 

 2匹のスライムが粘り強い視線をねっとりと交差させて黙ること数分、ソリュシャンは頬を紅潮させて頷いた。番外席次は目を見開いて固まっていた。

 

(誰かのために何かを成そうとすることと、誰かのために犠牲になろうとするのは違うのかしら……なんか、羨ましいな)

 

「必ず戻るから」

「信じて、お待ち申し上げます。御主人様」

 

 互いに最も聞きたかった台詞を受け取り、ヘロヘロは飛び込んだ。

 

 ソリュシャンは海底へ沈んでいくヘロヘロを、身を乗り出して覗き込んでいた。両手を後頭部へ当て、番外席次は寝転がる。

 

「ご主人様ねぇ……よかったね、再会できて」

「……愛とは、かくも不安なものなのですね。どれほど愛を交わそうとも、姿が見えなくなるだけで不安に胸が張り裂けそうです」

「羨ましいな。私も相手が欲しいのに。話は変わるけど、スライム種って子供作れるのかしら」

「子供……」

 

 妄想が膨らんだのか、口元がだらしなく緩んでいた。すぐに復帰し、彼女なりの結論を教えてくれた。

 

「スライムは分裂という方が正しいでしょうね。複数のスライムの欠片が混じり合えばそこに核が形成され、無色透明な何の特徴もないスライムが生み出されるのではないでしょうか。私たちスライム種は人間のような交配方法ではありませんので」

「珍しいわね。コウノトリが子供を運んでくるんじゃないんだ」

「っ……」

 

 いくら宗教国家とはいえ、まさか本気でそう教え込まれたわけではないだろうが、ソリュシャンは小さく噴き出した。

 

「失礼ね。冗談よ。私もそこまで子供じゃないもの」

「申し訳ございません、宗教国家に洗脳されているのかと」

「強い人は洗脳されないわよ。はぁーあ、私もいつか報われるのかしら。私を最初に倒した蛇以外なんて考えられないけど」

 

 改めて彼女の心を考察する。空中に夢や願望を描いて呆けている今の彼女は、ビーストマン駐屯地付近で虚ろな目をして彷徨っている大蛇と雰囲気が似ている。番外席次とヤトが似ているのだとソリュシャンも気づく。

 

「焦りは禁物ですわ、番外席次様。蛇様のアインズ様への執着心が緩まれば付け入る隙はございます。殿方とは、自分に自信がないのです。常に最前線で肩を並べていれば必ず機会は訪れます」

「魔導国に来てから待つことが多くなったような気がするの。蛇の妾希望だからって、私も蛇みたいに執念深く待たなければ駄目なのかしら……」

「ただの蛇ならそうかもしれませんが、あの御方はナザリック地下大墳墓の一柱です。生半可な覚悟ではいけません。ラキュース様は命を賭してあの方を救われたとか」

 

 丼の形をした舟は女子会という具材で満たされた。

 

 さほど深くない沖合の海底、水底から呼び声を上げてプレイヤーを待っている。

 

 

 

 

 体が水の底へいつまでも沈んでいくのは、眠りに落ちる直前に似ていた。精神の沈静化を所有する数少ない種族、ヘロヘロは海水で朧になった太陽を眺めた。

 

 水中から見上げる太陽は朧気に揺れ、昨日の夜を思い出させる――

 

 昨晩、一仕事終えたヘロヘロは、事後の余韻に浸りながらソリュシャンを体の上に乗せ、睦言を交わした。会話の途中で体に水滴が落ち、ソリュシャンが泣いていた。

 

「どうした?」

「ぐずっ……こんな……こんなに、幸せでいいのでしょうか。ナザリックでは創造主の帰還を待っているものも多いのに、私だけ先に満たされるなどあってもいいのでしょうか……」

「ソリュ……」

 

 彼女が顔を上げた。彼女の美貌は涙ごときで崩れたりしない。ヘロヘロはそっと頭を撫でた。

 

「現実世界でこのまま死ぬと思ってたよ、俺は。誰も幸せにできず、誰にも求められず、仕事をして帰るだけの毎日で、いつか体を壊して死ぬ。俺たちの住む世界ってのはそんな世界なんだよ」

「悔しいです……私たちは何の手出しもできず、皆さまが死ぬとわかっていても何も出来ません。この身のすべてを犠牲に皆さまを呼び戻せれば――」

「誰かのために死ぬっていうのは気に入らない。犠牲になって満足するのはエゴイストだ。それで誰かが救われても、本当に相手が喜ぶのか? 喜ぶわけないだろ。想像力が足りない自己陶酔だよ、そんなの。犠牲になった相手の命を背負って生きるのは、重すぎる」

「私たち(NPC)は、皆様のお役に立つための道具です」

「今の君には明確な意思があるし、それはもう道具じゃない。役に立つというのは死ぬという意味じゃないし、生きてないと意味がない。だから、二度とそんなこと言うなよ。次、言ったら怒るからね」

「…………ヤトノカミ様は」

 

 言い淀んで口をつぐむ。言葉を選んでいる顔が美しかった。続きが紡がれることはなく、ソリュシャンは彼に身を委ねた。スライム種の夜は長く、再会するまでの期間が長かったせいで、一晩中、語り明かしても話し足りなかった。

 

 

 ――海底から立ち上る水泡で回想から復帰する。下を見ても、海の底は見えてこない。

 

(生きるの死ぬのと、ままならないもんだよな)

 

 現実世界では働けなくなるということは死と同義だ。どれほど無茶な働き方をしていたのか自覚はあるし、緩やかな自分の死を受け容れてもいた。遅かれ早かれ、体調を崩して死ぬ予定だったが、異世界に飛ばされて守りたいものができた。求められ、慕われ、愛され、尊敬され、自分が生きているだけで周りの誰かを幸せにできると知った。たった一晩で根本から変わってしまった。ソリュシャンやモモンガ、ヤト、ナザリックで待つメイドや配下を残して、永遠の死別(ログアウト)はできない。

 

 手塩にかけて育てた嫁は海面で自分の帰りを待っている。命の危険を冒すのは御免だ。敵が世界級であれば即時撤退し、二度とこの周辺には近寄るまい。現地人が何人死のうと知ったことではない。大事なのは仲間と嫁の命だ。

 

 ヘロヘロに強者としての思い上がりはない。元を辿れば、英雄でも神でもない一般人と自覚している。できることは精々、大切な人を守ることだ。現実世界はそれさえも許されない場所だが、その程度のことができる力は手に入れた。

 

(早く戻って安心させてやるか)

 

 途中、ヘロヘロを一飲みにできそうな巨大魚が泳いでいた。近寄ってくると予想して身構えたが、見向きもせずに立ち去った。水を伝って大量の何かが泳いでいる音がする。体を反転させてうつ伏せになれば、浮かんでくる半魚人の集団が見えた。

 

 彼らはヘロヘロを取り囲むが、危害を加えてくる様子はない。顔は同一の特徴があり、目玉が飛び出して、分厚い唇の開閉を繰り返し、首の皮膚がだぶついている。やや抑え気味の声量で、一匹が話し始めた。

 

《これ以上、潜るな。この先はあの方の縄張りだ》

 

 驚くべきは、水中でも通常通りに会話できたことだ。聞こえる声こそ通常よりもくぐもったものだったが、言葉の輪郭は把握できる。

 

《ごめん、悪いけど調査だけさせてくれるかな。駄目なら力ずくでやるけど》

《頼む。一切の物音を立てないと誓ってくれ。それなら何でも構わない。私たちはこの場を離れる》

 

 番外席次に同胞を大量虐殺された彼らに敵意はない。力の格付けは数日前に終わっていた。水中なので分かりにくいが、顔面蒼白で怯える彼らに危害を加えるつもりはない。元よりこの場所は彼らの住処だ。無駄な交戦をして体力を削るつもりはなく、彼らの平穏を乱すのも申し訳ない。

 

《約束する。一切の物音を立てない》

 

 返事もなく、半魚人の集団は方々に散った。彼らの対応で徐々に周辺の勢力図が見えてくる。なぜ物音を立ててはいけないのかは、彼らの恐れる何かが物音に敏感なのだろう。

 

 つまり――

 

(海底には何かがいることになるよな……勢力図(ヒエラルキー)の頂点にいる何かが。今さらながら怖くなってきたぞー)

 

 一般的に深度200mを超えれば太陽の光は届かない。しかし、この世界は薄明りで周囲が照らされ、宵闇と遜色ない。それでも深度を増せば、照明の明度は下がっていき、取り囲んでいる闇は濃くなっていく。魔物が跳梁跋扈し、魔法的な力が働いている世界では何が襲い掛かってきてもおかしくない。感情の抑制が無ければ、怖くなって引き返していた。

 

 そこから更に100メートルほど沈むと、海底に坐す海域の領主が見えた。

 

《げぇ……》

 

 沈黙を保とうとしたヘロヘロが、思わず声に出してしまった異形。

 

 口元に大量の触手を生やした、巨大な蛸の頭部が海底に置いてあった。

 

 海水の流れに揺られ、大量の触手は海藻類のように揺蕩う。その有様は優雅にして美麗でありながら、全体の容貌はおぞましく、冒涜的で醜悪だった。

 

 全ては全身を覆っている質感にある。精密機器の基盤、剥き出しの半導体と金属、血と肉が無秩序に接続されている。肉の割れ目に青と赤の血管が通り、時おり脈打つような動きをした。不規則に並べられた肉と回路基板が、巨大な蛸の頭部を気色の悪いオブジェたらしめていた。人体のグロテスクな画像と、機械のメタリックな質感の画像から、必要な部位をコピー、ペーストして強引に蛸の頭を造り出せばこうなるかもしれない。

 

 口から生えている無数の触手だけは全てが金属で構成されており、先端に砲身やアンテナ、ミサイルのようなものをセットしているものまである。こんな歪な魔物は見たことが無い。自然に発生したとは思えない気色の悪い怪物だった。

 

 幸いにも敵に察知されず、こちらを攻撃するような動きは見受けられない。海底へ緩やかに着地するまでの時間を観察に消費した。よく見ると、蛸の目に該当する部位は窓になっており、中身が透けていた。窓に目を凝らすと、膝を抱えてうずくまる者がいる。顔は見えないが、ゴシックロリータの服装から見るに少女だろう。

 

 知識をどれほど捲ろうと、世界級魔物の特徴に該当するものはない。32体いる全ての世界級に精通しているわけではないが、こんな歪な敵ならば話題に上がっていてもおかしくない。一度見たら二度と忘れられなそうな化け物だ。

 

(ワールドクラス……じゃないのかな。しかしまぁ、こんなものが海底にあるとはね。これが海を汚す原因だろうけど……話ができるかな)

 

 ヘロヘロが海底に到達すると、底にたまった海のごみが舞い上げられた。一本の触手がこちらを向き、急速に伸びて近寄ってくる。先端に黒くて丸い物体のついたそれは、マイクのように見えた。付属している小さなモニタに《21db》と書いてあった。

 

 警告音(アラート)が静寂の海底に鳴り響いた。機械的で無機質な音声が、水を伝わって聞こえてくる。

 

《警告。30db(デシベル)以上敵対と判断。予防線、《汚染物質散布(サイコ・スモーク)》発動》

 

 口から生える触手の一本が膨張し、青紫の液体を吐き出した。ステータス異常を引き起こす何らかの化学物質のようだが、ヘロヘロには通用しない。世界級は種族特性を貫通してステータス異常を起こす敵が多いが、毒に触れても異常は起きなかった。世界級でない可能性が濃くなり、ヘロヘロの警戒が僅かに緩められる。

 

 いずれにせよ、敵の強さに関する情報が皆無な現状で交戦は無謀だ。敵の習性は把握できたので逃げるしかないのだが、体は海底の柔らかい汚泥にべったりと体をくっつけてしまっている。足音で反応しないとも限らない。

 

 音を立てないように極限まで緩やかに、少しずつ体を動かす。

 

 未だ、騒音計は自分のすぐ前で物音の数値を計測している。僅かな油断も命取りとなりえた。そう考えて周囲に対する警戒が足りなかったことが、彼の犯した過ちと言えた。

 

 足が柔らかいものを踏みつけた。魚でも踏んだと思い視線を海底に落とすと、砂に潜って眠っていた半魚人の尾を踏みつけたらしい。精神が沈静化されるまでの短い時間だけ動揺し、体から酸が漏れた。先ほど放たれた化学物質と新たに生み出された酸をもろに浴び、魚人はこの世のものとは思えぬ雄たけびを上げて逃げていった。

 

 状況は最悪だ。

 

 集音マイクはすぐ近くで雄叫びを拾い上げ、再び警告音を発令する。今度は先ほどと意味が違う。

 

《騒音測定値47db、規定値超過。迎撃システム起動、待機時間5sec》

 

 無機質で機械的な音声案内で、敵と認識されたのだと知って血の気が引いていく。明後日の方角を見ていた蛸の頭はこちらを見ていた。触手は海水の流れに漂うのを止め、全てがこちらを向いている。いつ、大砲や電磁砲、ミサイルが発射されてもおかしくない。

 

「最悪だ……あのー、すみませんけど、すぐに消えるんで戦いは勘弁してくれませんか?」

 

《索敵戦力1。種族...エルダー・ブラック・ウーズ。《対象捕捉(ターゲッティング)》開始》

 

「ちょ、ちょっと! 戦う意思はありません! 武装を解除して!」

 

《エネルギー充鎮100%確認。セーフティロック解除。ショックアブソーバー起動確認》

 

 聞く耳持たないとはこのことだ。ヘロヘロは交渉を諦めるしかなかった。重要なのは敵を無力化することではない。逃亡し、五体満足でソリュシャンと再会することだ。海面が遥か遠くに思えた。

 

「……冗談じゃない。ここで死んで堪るか!」

 

 ヘロヘロは海水を吸い込んで水風船のように膨張し、一気に吐き出して海を泳いだ。放水の勢いで体の一部が離れていったが、酸を付与しているので地雷代わりになる。

 

《集中波動砲、エネルギー注入。電影クロスゲージ、明度20。水圧軌道誤差修正》

 

 アナウンスで全身に悪寒が走った。敵が世界級である前提で考えれば、波動砲はまともに当たれば体の半分以上を持っていかれる大技、最悪は即死級だ。もっとも忌むべきは、ここで命を落とすことだ。

 

(背中を見せて逃亡はガンナー相手に自殺行為。接近戦に切り替え――だめだ、体勢が悪すぎる。あの一撃さえ躱せれば……)

 

 精神の沈静化で凪いでいる心に怒りが湧く。波紋は徐々に広がり、黒い粘液体は理不尽な仕打ちに沸いた。こちらは何もしていないのに、騒々しいというだけで理不尽に殺されては堪ったものではない。自分の女に死体を突きつけて悲しませるような真似をするくらいなら、初めから何もせずに現実世界で死ねば良かった。

 

 死ねないという重圧が彼を動かす。

 

 自らを鼓舞するように水中で叫んだ。

 

「ソリュシャンを残してこんな水の底で死ねるか!」

 

 噴出する水の方向を変更し、ヘロヘロは敵に突っ込んでいく。

 

《波動砲、発射》

 

 

 視界で光が破裂した。

 

 

 

 

 初めこそ順調に大蛇の特性を教えてくれたソリュシャンも、徐々にヘロヘロの話へシフトしていった。

 

 彼女の話は創造主の自慢というより、最近できた彼氏の惚気話に近い。

 

「つまり、スライムとはいえど、成長先で全く違った特徴がございます。たとえば、桃色ならば防御力、青紫は攻撃力、濃緑で同種族の支配、虹色は入手アイテムの価値と個数上昇と、各々が個別に秀でた特徴を持っているのです」

「ふーん……黒は?」

「あの御方はスライム種族最強の酸性濃度を誇ります。たとえ世界級のアイテムであろうと、あの御方に触れられれば鉄くずも同然です。いつかあの御方の酸に触れられると思うと……嗚呼っ! 体の奥から――」

「さっきからあいつの話にずれてるんだけど……」

 

 当然、番外席次は退屈する。夫婦喧嘩と同様に、惚気話は野良犬もそっぽを向く。しかし、ソリュシャンは揺るがない。満たされている女は強かった。

 

「当然でございます。ヤトノカミ様に脈がなければ、番外席次様の次の対象はヘロヘロ様になるのでしょう? 今のうちにお勉強をしておいても損は致しませんわ」

「それは無いでしょ。いくらなんでも」

 

 番外席次の中で蛇と交戦し、片腕を寸断されたのは胸がポカポカと暖かくなる思い出だ。記憶を失ったりしない限り、そうなるとは考えにくい。

 

「この世界には三人も至高の御方がいらっしゃいます。長命種の番外席次様が次に狙うはヘロヘロ様かと。同じ前衛職ですし」

「だからー、そうじゃなくってさ、私は蛇を諦めないよ」

「そうですか? ヘロヘロ様も負けず劣らずに強くてカッコいいですわ。あぁ、どうして、あの方は黒く美しいのでございましょう……人知を超越したあの方々こそ神、アインズ・ウール・ゴウン41人の神々に名を連ねる御方……」

「王様と蛇は別にしても、部下のあなた達って仲間以外を認めないんじゃなかったの? どうしてここまで部外者の私に話してくれるわけ?」

「それは、番外席次様がヘロヘロ様を王都へお連れくださったからです。それに関しては尽きぬ感謝をしておりますの。加えて妾入りする可能性もあるとすれば、親睦を深めておこうと思うのも当然の――」

 

 海面が揺れた。波打ったという生易しいものではなく、水の入った洗面器を縦に揺らしたような衝撃。船に掴まってそれを堪えるも、直後に大爆発が起きた。海面の水は天まで舞い上げられ、彼女らも高く舞い上げられて海面に叩きつけられた。乗っていた船は粉々に砕け散り、残骸だけが周囲に浮いていた。

 

 番外席次が水を吐き出しながら浮上し、突き出た顔から水を吐き出した。すぐ隣でソリュシャンも顔を突き出す。

 

「ガボッ! ゴ、何事!?」

「ヘロヘロ様!」

「あ、ちょっと! 待ちなさいよ!」

 

 ソリュシャンは制止も聞かずに海底へ向かう。慌てて後を追った番外席次はすぐに追いついた。海面付近で止まるように泳ぎ、目を皿のようにして遠くの何かを見ていた。番外席次が視線を追えば、巨大な丸い何かが下の方を動いていた。

 

 二人が顔を見合わせて行動を躊躇っていると、機械的な音声案内が聞こえた。

 

《全羊水排出、浮上。全システム起動後、エルダー・ブラック・ウーズ殲滅戦へ移行》

 

 この場で最重要なのは、敵の正体ではなくヘロヘロの居場所だ。アナウンスを信じるのなら、それはヘロヘロを追っている。女性陣は正体不明の後を追った。

 

 

 

 

 浜辺に打ち上げられたヘロヘロは激痛で叫んだ。

 

「……っ! ――!」

 

 左肩の感触が無く、伸ばそうとしても体に変化が起きない。波動砲で大きく削られた体は黒い液体を垂れ流した。粘液ではなく液体だったので、これが血液なのだろう。出血から見るに長くは持たないかもしれないが、スライムが出血多量で死ぬとも考えにくい。

 

 沈静化で感情は抑えられても、痛みは消えない。

 

 激痛を緩和しようと波打ち際をのたうち回る。体を千切られる激痛を味わうのは生まれて初めてだ。苦悶の叫びはしばらく海岸に響いていた。

 

 唯一、判明した情報は、気色の悪いあの敵は世界級魔物ではない。世界級の一撃を食らって生きているのは不自然だ。プレイヤー風情が一対一で渡り合える存在ではない。少なくとも、敵は世界級よりも下位のモンスターで、それならばヘロヘロでも倒せる可能性がある。

 

 爆風でかなりの距離を引き離されたようで、未だ追手は現れていない。波動砲の直撃を覚悟した突進で、ヘロヘロは酸を飛ばした。硬直した敵には命中したが、センサーらしき触手の表面を溶かしただけだ。代わりにこちらは事前にばら撒かれた機雷に触れてしまい、黒い体の一部が爆散して激痛を味わった。

 

 機雷の誘導爆発によって生み出された海流は彼を攫った。激流に呑まれ、必死でもがいていると村付近の浜辺へ漂着した。

 

(多分、あいつは俺を追ってくる……俺は、ここで死ぬのか)

 

 自分で考えて腹が立った。人間ではないので出ているとは思えないが、アドレナリン全開で痛みが緩んだ。ヘロヘロが合流するまでの150日間で、モモンガとヤトが大変な目にあったのは聞いている。

 

 失われる人間性に苦しむヤトの大殺戮に、止めたモモンガとの殺し合い。詳細は不明だが、アルベドとヤトのモモンガを巡る殺し合い。巻き込まれたNPCたちがどれほどの悲しみに暮れたのか、ソリュシャンから聞いている。きっと、自分がそこにいればそんな惨事は起きなかったし、絶対に起こさせなかった。

 

 そんな自分が、こんなところで簡単に死んではいけない。どれほど他者を犠牲にしようと、どれほど惨めで情けなくても、自分は生きなければならない。再会する前に死んだとなれば、モモンガとヤトは寂しがる。何よりも、女の余生が哀しみ一色に染められるのを許してはいけない。

 

 ヘロヘロは黒い液体を垂れ流して立ち上がった。

 

「モモンガさんとヤトくんが苦しんだときに、俺は何も考えずに眠っていた。ソリュシャンはこんな俺でも優しく受け入れ、死ぬまで共にいると誓ってくれた。俺はソリュシャンと一緒に、モモンガさんやヤトくんと生きたい」

 

 海面が盛り上がり、肉と機械でできた蛸の頭が見えてくる。

 

「俺はこんなところで死ぬわけにはいかない。これから穴埋めしなきゃいけないことは山ほどある。死んで堪るか!」

 

《天敵発見、自動誘導システム腐食。使用不能。弾頭マニュアルセット。距離2,000》

 

「かかってこい! 俺はお前を倒す!」

 

 次の波動砲をやり過ごせば、硬直時間ができる。秒数は不明だが、その瞬間、隙ができる。二度と砲撃を撃てないほどに溶かすか、本体を引き摺り出してやればいい。問題は自己再生機能で、溶かした端から回復されては堪ったものではない。

 

「《気功循環(チャクラ)》、《ためる》」

 

 モンクのスキルはゲームと同様に使用ができた。少量の回復と、数ターンの静止と引き換えにする攻撃力の上昇スキル。回復したので腕の痛みが治まり、黒い液体も止まった。

 

 ヘロヘロは攻撃力を上げながら、静かに機を待つ。

 

 最も隙が多い瞬間へ己のすべてを叩き込むために。

 

(外せない……失敗したら俺は死ぬ。どこだ、どこを狙えばいい)

 

 波動砲そのものを破壊してもミサイルが残っている。触手のではなく、本体を引き摺り出すか、窓の中へ入り込んで内部破壊を起こすかの二択に絞った。どちらにせよ、狙う場所は蛸の目だ。ガラスを溶かして内部へ侵入し、敵の動きを止めるしかない。

 

 冷静な頭で戦略を練り終え、相手の動きを待った。

 

《エネルギーライン全段直結。ジェネレーター循環速度向上。エネルギー残量74%、拡散波動砲エネルギー注入。電影クロスゲージ調整不可。砲身気圧内空気誤差修正》

 

 敵は陸に乗り上げる気配がない。複数の触手が集約していき、一つの大きな砲身に変わった。直に波動砲が来る。

 

《拡散波動砲、発射》

 

「え、拡散?」

 

 砲身は上空へ一筋の光を放つ。放たれた光は空中高く舞い上がり、小さな太陽のように静止し、自らを小分けにして周囲に落とした。さながら、隕石の流星群だ。出鱈目に降り注ぐ無作為砲撃のどしゃ降りを、ヘロヘロは全力で走った。

 

 走っているヘロヘロの体は信じられぬ激痛と共に小さくなっていく。精神の沈静化が故、気が狂いそうな激痛の中を、敵を滅ぼすために走った。既に四肢の感覚は痛みしかない。体の各部位が千切れ、自分が小さくなっていくのがわかる。強行突破して蛸の目めがけて飛び込んだ。

 

 窓ガラスは驚くほど柔らかかった。無事に敵の内部へ侵入を果たし、青い照明に照らされた簡素な室内を見渡した。膝を抱えて眠る少女がいた。黒を基調とした洋服にはフリルやレースで装飾されている。頭には大きな黒いリボンをつけていた。近寄ると小さな寝息が聞こえてくる。あれだけの破壊行動を行なった要塞の本体にしては異質だった。

 

 小部屋に操縦桿やボタンの類は存在しない。自爆ボタンでもあればよかったが、そもそも何一つとして物が置いてない。ヘロヘロは内部を溶かそうと足元に酸を付与する。ぶよぶよした肉塊の床が異臭を放って溶解していく。底に穴が空いて海水が入ってきたころ、窓から外を眺めれば触手は動きを止めてだらしなく水面を漂っていた。

 

《自己修復機能停止、エラーコード00――ブレイクダウン》

 

 オペレーションの後、室内の灯りは消えた。機械の動作停止を確認し、窓から外を眺めると、遠くに炎が見えた。本体らしき少女を背負ったが、小さくなった体には重すぎた。

 

 力尽きて窓から仲良く垂直落下し、頭から波打ち際に落ちた。少女と黒い小さなスライムは波に揺られて空を眺めた。海月になった気分だ。

 

 少女の双眸はゆっくりと開いていく。彼女はゆっくりと立ち上がり、巨大な触手の一本に腰かける。足と腕を組み、きくらげのように漂う黒いスライムを上から眺めた。

 

「起こしたのはお前か?」

 

 痛みで口を利く余裕がなかった。

 

「おい、答えろよ」

 

 少量の回復スキルでも損傷が酷過ぎる。全身が激痛にくるまれているようだ。酷く寒かった。

 

「ヘロヘロ様ぁ!」

「なに! なにごと!? 村が燃えてるわよ!」

 

 バシャバシャと騒々しい水音がしてソリュシャンと番外席次が現れた。到着早々にソリュシャンは発狂する。

 

「ヘロヘロ様ぁ! 御無事ですか! この女にやられたのですか! 私が敵を討ちます! すぐにドロドロに溶かして首を献上して差し上げますわ! 女子供と言えど罪は罪。贖いきれぬ神罰は万物平等に下されるべきです!」

「……回復薬……ない?」

「あ……あぁ、私としたことが、報復よりも先に治療が先決でした! 申し訳ありません! 回復薬は持ってきていないので、スライムのコアを傷つけないように私の体内でお休みくださいませ!」

「え、ちょ――」

 

 体が小さくなったヘロヘロはソリュシャンに抱きしめられ、そのまま体内に吸い込まれた。不思議と彼女の体内は居心地がよく、母親の胎内とはこんな感じだったのだろうかと思った。頭を動かすと外気に触れた。場所を確認すると、ソリュシャンの胸の谷間から顔を出していた。瀕死の重体だが、ふざけているようにしか見えないだろう。

 

「あんたたち、ふざけてるの?」

 

 番外席次が呆れていた。

 

 ヘロヘロはばつの悪さから目をそらし、胸の谷間から突き出た頭部の目を光らせ、敵の本体を見た。目つきの悪い少女は腕と足を組んでこちらを見ていた。目が合うと小さな唾を吐いた。挨拶もなしに乱暴な男の口調で話し始めた。

 

「おまえ、フランケンシュタイン博士の怪物って知ってるか? あの怪物は博士を恨んでると思うか?」

 

 禅問答の唐突さに、答えを迷った。初めから回答を求めておらず、少女は勝手に続ける。

 

「俺は恨んでないと思う。どうして自分は生まれたんだろうかと悩み、苦しみ、憎悪の怪物になって生みの親を殺しながら、短い命を燃やし尽くした。自分じゃわからないが、幸せな人生だったろうぜ」

 

「憎悪の塊……」

 

 番外席次の脳裏に浮かんだのは大蛇だ。悩み、苦しみ、時に感情が暴走して暴れまわり、強き生を全力で謳歌している。会話の内容から察するに、彼女は作られた存在なのだろうと、ヘロヘロは問う。

 

「君はNPCか?」

「C」

 

 その名に心当たりはない。ユグドラシルに関連する知識に該当するものはないが、とある神話体系で、頭文字が「C」の神性には思い当たる節があった。

 

「C……キャラクター……プレイヤー……じゃないよな。まさか、Cthu――」

「ただのプログラムデータだ」

「……C言語」

 

 少女は片側の口角を吊り上げて笑った。

 

「俺を見て睡眠欲を満たしたい、創造主の代わりに眠る道具だ。そこのメイドも俺と似たようなもんだろ」

「あなたは道具なの? プレイヤーか何かじゃなくて?」

 

 ソリュシャンが報復のために突っかかると思っていたが、意外にも番外席次が混ざってきた。体力を温存しようと、ヘロヘロはしばらく成り行きに任せた。

 

 

「道具の姿形は関係ない。意思もない。俺は眠りへの欲求を抑えられない。なぜ普通に生きられないんだろうかと思い、疑問を抱きながらもそれを止められない。初めからそのために作られている。他にいくらでも生きる道があろうと、最初から設定された生き方しかできない」

 

 番外席次は自分の顔から表情が消えていくのを感じた。まるで言葉の刃を喉元に突きつけられているようだ。「お前は戦闘狂としてしか生きられない、幸せになろうと思うな」と言われた気分だ。

 

 口は勝手に呟いていた。

 

「……違う……私は道具なんかじゃない。作られたってことは生まれたってことでしょ? それなら好き勝手に生きればいい。勝手に諦めて勝手に死ななくていいじゃない!」

 

 番外席次が声を荒らげる。

 

 少女は返答の代わりに大欠伸をした。

 

「何とか言えよ!」

 

 番外席次が少女の胸倉を掴みあげる。

 

「お前、馬鹿じゃねえのか? 道具が作られた理由はあるが、生きる理由なんてないだろうが。使われなくなった道具はゴミと同じだ。役に立たない道具に何の価値もない」

「黙れよ!」

「微生物がごちゃごちゃうるせえ。さっさと手ぇ離せ、クソガキ」

「あんたもガキだろ!」

「お前さぁ、神様って信じてるか?」

「信じてるわよ! 神様はプレイヤーで――」

「人間だろ、それは。本物の神様はな、アイテムを作るような感覚で生命体を作り出して、運命を決めてんだよ。お前みたいなガキやプレイヤー風情がいくら喚こうと、神様が邪魔だと思った人間は消される。この世の全ては神の道具だ」

「じゃあなに? なにをして無駄ってことが言いたいの?」

「死んで意味がある生もある。微生物は神様の見えないところで少しだけ幸せになるしかないんだよ。中には、永遠を味わうだけに生まれた生もあるだろ」

 

 ギリリと歯を食いしばる音がして、番外席次の顔が怒りで歪む。埒が明かない口論に辟易し、ヘロヘロはソリュシャンに囁いた。

 

「ソリュシャン」

「はい」

 

 危惧すべきは、少女のレベルが1から2という点だ。番外席次の軽い拳骨で命の危機に晒される。ここで情報源を失うと困る。彼女はまだ何かを知っている素振りだ。

 

「あんたに何がわかる……私がどんな生き方をしてきたのか知らないくせに!」

「自分に違う生き方ができるかもと期待してんじゃねえぞ。自分に折り合いをつけられない馬鹿な餓鬼は、他人に何かを期待して依存するんだよ。典型的な例がお前だ」

「それ以上、言わない方がいいわよ」

「蛇はお前なんか見てない」

「っ!」

 

 振り上げた拳はソリュシャンとヘロヘロに留められた。ソリュシャンの液状化した腕が番外席次の手をぬるぬると濡らし、摩擦を失った手から少女は滑り落ちた。

 

「番外席次様、お止めください」

「なによ! あなたも同じようなものじゃない! 作られた道具でしょう!?」

「私は折り合いをつけています。ヘロヘロ様と再会できた今となっては、道具だろうと一つの生命体だろうと問題ではありません」

 

 「なによ……」そう呟いて番外席次は不貞腐れた。さりげなくヘロヘロは、ソリュシャンを忘れていた過去の思い出を抉られ、精神の沈静化を行っていた。彼女に気にした素振りはない。

 

「道具、で何が悪いのでしょうか。ヘロヘロ様、並びに至高の御方々の幸福に役に立つ道具でこそ、身に余る光栄。私には過ぎたお役目ですわ」

「……ふん」

 

 そこまで言われては何も言い返せないと、彼女の表情はわかりやすく物語っていた。打ち寄せる波が少女のスカートを濡らし、鬱陶しそうに足で払っていた。ヘロヘロは落ち着いて語りかける。

 

「さて、と……悪いけど、俺は……君を殺さなくてはならない」

「どうでもいいんだよ、ボケ。面倒くせえんだよ、生きるの死ぬのって」

「ああ……君もそう思うか? 本当にそうだよな、俺もそう思うよ。死ぬのは怖くないのか?」

「初めから生きてねえさ」

 

 身につまされる発言だった。ヘロヘロが確かな生を感じたのはソリュシャンと再会してからだ。現実世界で生きても死んでもいなかった自分に偉そうなことは言えない。そんな葛藤も次の発言で消し飛ばされる。

 

「だいたいお前ら、そんな下らないことを考える前に、他にやることがあんだろ。蛇のプレイヤー、このままだと死ぬぞ」

 

 ヘロヘロの全身へ鳥肌が立った。鳥肌の原因は蛇の危機によるものか、少女の感情を感じさせない酷薄な笑みを見たからか、沈静化された頭で考えても答えは出ない。確かなことは、目の前の少女からなんの感情も感じず、得体の知れない存在に作られた道具ということだ。NPCも作られたという意味では道具だが、ソリュシャンは感情が豊か過ぎる。

 

 少女からは何の欲求や感情も感じない。人の形をした何かだ。

 

「どういう――」

「ちょっと! どういう意味!?」

 

 番外席次は再び彼女の胸倉を掴み上げる。

 

「何か知ってるなら話せよ! 事と次第によっちゃ、ここで殺すから!」

「あー……うっぜえ。おい、こいつ何とかしろよ」

「番外さん、ちょっと引っ込んでて。話が進まないから」

「はあ?」

「自分だけが苦しんでるような顔するなよ」

 

 地の底から這いあがるようなヘロヘロの怒気に、番外席次は手を離すしかなかった。理はヘロヘロにある。何かが起きている手がかりを失えば、先の見えない迷路で地図を失うようなものだ。番外席次もそれはわかっていた。

 

「どういう意味かな、ヤトがどうかしたの?」

「嫌いなんだよね、あいつ」

「ヤトが? 知り合いなのか?」

「ああ、いや、そっちじゃなくて。黄色くて小賢しい方」

「?」

 

 言葉は断続的に放り投げられる。個別の意味はわからず、それ以上に詳しく説明するつもりもないらしい。こちらの疑問は無視され、話は勝手に押し進められていく。

 

「あいつがそろそろここに来る。ミサイルを起爆するから、お前らは逃げた方がいいぞ」

「だから、何の話をして――」

「大事なことは、活性化までの時間は一時間だ。それを逃すと誰の介入も許されない。楔は深く打ち込め」

「……もうわけわかんねえな、こりゃ」

「おら、時間切れだ、とっとと失せろ。ミサイルを起爆してから俺は永遠に寝る」

 

 野良犬でも追い払うように手を上下に払った。どれほど呼びかけても、それっきり彼女の顔はこちらを見ることなく、空を眺めていた。何かいるのかと思い見上げるも、何も見えなかった。遠くの空を黄色い布切れが飛んでいた。ソリュシャンは嫌なものを感じ、撤退を提案する。

 

 ヘロヘロを痛めつけてくれたお礼参りはしていないが、彼女は放っておいても死ぬだろう。恐らくミサイルは本当に起爆される。彼女の表情には死の恐怖も、生への渇望も浮かんでいない。

 

「ヘロヘロ様、帰還しましょう。御体の治療が先です」

「ん……そうだな」

「ちょっと、こいつは置いていくの? 蛇の手がかりでしょ?」

「駄目だよ。彼女はこちらに協力する気が無い。ナザリックに戻って治療してから、蛇の場所を総動員で探そう。モモンガさんに合流したほうがいいかもしれないし、戻ってから考えよう」

「そう……」

 

 彼女は素直に従ってくれた。番外席次にとってヤトは、未来の可能性そのものだ。ヘロヘロに駄々をこねるほど幼く愚かではない。三人は早々に戻り、何が起きているのか把握しなければならない。

 

 一同は転移役のシャドウ・デーモンが待つ、村外れに向かった。

 

「せいぜい頑張れよ、天敵さん」

 

 背中に声が掛けられたが、意味はわからなかった。

 

 小さな漁村は、波動砲の余波で壊滅し、歴史から消え去った。そちらよりも、今は蛇を探さなければならない。

 

 ヘロヘロがナザリックで治療するのに丸一日を要した。

 

 治療を終えた彼らは、他の僕、メイドに顔合わせすることなく、早々にカルネ(AOG)へ向かった。

 

 

 

 

 黄色い布切れが、自らの起こした風に乗ってくる。外套(ローブ)の付属するフードを深くかぶり、表情は窺えない。少女は布切れが目の前に降りてくるのを、動かなくなった触手に腰かけて睨んでいた。

 

 互いに余計な挨拶をせず、本題に入った。

 

《これは、どういうことだ》

 

「説明する義務はない」

 

《意味はある》

 

「ねえよ。理由があるとすれば、俺はお前が嫌いだ」

 

《邪魔をするな。これは王の意志》

 

「なあ、道具が色気づいて自分の欲を満たすなんて、創造主に失礼だと思わねえか? お前みたいに自分に折り合いがつけられない奴が、世界の形を歪めるんだろうな」

 

《彼女を救わなければならない》

 

「救われたいと言ったのか?」

 

 返答はない。少女は黄色い布切れを嘲笑う。

 

「哀れなおもちゃだな。視力検査のランドルト環みてえに一方向だけ向きやがって。結末は決まってんだろ。観測者はそんなシナリオ、望んじゃいねえぞ」

 

《王は望んでいる》

 

「望んでいるじゃなくて、望んでいてほしいんだろう。ただ消えるだけで済んだのに、お前のせいで全部ぶち壊しだよ。俺は本気でお前が嫌いだ」

 

《歪んだ運命は軌道修正を必要とする。何も考えず眠っているだけの貴様と一緒にすべきではない》

 

「小賢しく弱みに付け込む方が外道だと思うがね。知ってるぞ、お前が何をしているのか、夢で見たからな」

 

《何も間違っていない。全ては予定調和だ》

 

「試してやる。ここでお前がどれほどダメージを負って、お前の提供するシナリオにどう影響するのか。このフルアーマーはお前に渡さない」

 

 ミサイルの起爆装置が取り出され、躊躇いなくボタンが押された。

 

 魔導国と聖王国の境目にきのこ雲が発生し、港湾の形が変わった。

 

 誰もいなくなった焼け野原に、小さなアナウンスが鳴った。

 

 

《あと2日》

 

 





補足
小さな漁村は、波動砲の余波で壊滅しました。村長は鬼畜にも彼らを生贄にするつもりでしたが、番外席次が気付けなかったのでイベントが遠回りしています。謎の海洋人柱信仰、Dagon、Hydraについての言及はカットです。うつろ船の説明も、廃村の詳細描写もカットです。



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