※影響を受けるのはNPCだけで、種族の固有設定だけ影響します。
アインズがカルネ
「アインズ様ぁ……今夜もお泊りになられますかぁ?」
「……ブリタ、毎日のようにお誘い頂けるのは光栄だが、返答は変わらない」
手足となって周辺の調査をする冒険者にブリタを選んだのは、彼らしい人選ミスと言えた。夕刻になると夕陽に染められたという理屈では到底、納得ができないほど顔を紅潮させたブリタが、夜のお誘いをするのには辟易していた。
胃が痛いのは、知り合いの老人が殺されたという点ではなく、プレイヤー勢らしき何かが存在しているという可能性だ。最悪は作り上げた国家、部下や
「ブリタ、昨日と同様、周辺の空き家でも間借りして休め。得体の知れない殺人犯が、都市内をうろついているかもしれん」
「釣った金魚にも餌をくださいませんか」
「……。明日も調査を頼むぞ。それ込みの報酬は支払う」
「……報酬よりも愛が欲しいです」
「早く行け」
今日も彼女は追い返された。妾を公言してからこの日に至るまで、彼女はよく追い返されている。金魚が空腹を訴えんばかりに口をパクパクさせ、ブツブツと文句を言いながら要塞を出ていった。
「やれやれ……しかし、今日も目新しい情報は無しか。いったい、何が起きているというんだ」
彼を掴んで離さない大きな設問は、薬師の老女リィジー・バレアレが殺害された事件だ。
「……仕方がない。もう一度、順を追って整理していこう」
事前の調査報告書を取り出した。
次期都市長候補のエンリ・エモットと、薬師ンフィーレア・バレアレが交際を始めたのは一週間前。エンリとンフィーレアはすぐに同棲を始め、リィジーは自宅兼工房に一人で寝泊まりをしていた。ただでさえ先方の父親に構われている孫のンフィーレアが、夜くらいは二人きりで過ごせるよう配慮だ。
前日の作業を終えたンフィーレアは愛の巣へ帰宅し、翌朝、工房を訪れて祖母の変わり果てた姿を発見する。遺体の異様さに激しく取り乱し、心身消耗した彼はエンリの介護が必要なほどに衰弱した。
当初、調査に赴いた中位冒険者たちから事件の関与を疑われたンフィーレアだったが、すぐに彼を含む人間種族は容疑者から外された。
被害者のリィジーの首は凄まじい力で絞められており、彼女の頸椎は潰れて砕けていた。支えを失った彼女の首は嚙み過ぎてくたびれたガムのように長く伸びていた。途中で絶命しても力を緩めぬ執拗な手法と、頸椎を砕くほどの剛力から、すぐに人間種は容疑者から外された。首に残された手型から、一切の凶器を使わずに両手で絞めたと推測され、手形の一致しない体躯のオーガ、体躯の小さいゴブリンも外される。
ここまで念の入った殺し方だ。動機に怨恨が無いと不自然で、早期解決が望まれたが、リィジーに関する悪評、誹謗中傷は見つからなかった。それどころか、持て余した大量の試作品ポーションを怪我人・病人へ無料奉仕し、彼女へ感謝する情報も多く集まっている。お礼に野菜や作物を届ければ、逆に銀貨や金貨を貰って暮らしが豊かになり、彼女への感謝は魔導王に次いで大きい。彼女の死を聞いたオーガはトブの大森林へ向かい、怒りの雄叫びを上げて大木をなぎ倒す姿が複数、目撃されている。
彼女の死を悼む参列者は多く、ンフィーレアが心神喪失状態だったため、エンリ主導の下にしめやかな葬儀が行われ、冷たい土の下へ送られる棺は花で溢れていた。エンリにだけ話をしようと思ったが、葬儀の準備、来客の対応、ンフィーレアの介護に追われ、朝から晩まで走り回る彼女に声をかけそびれてしまう。
監視を兼ねて飛ばした情報収集の僕によれば、現在、周辺に人間と同サイズの異形種は確認できていない。容疑者を絞ろうにも現場に荒らされた痕跡はなく、金品・貯蔵の回復薬が盗まれた痕跡もない。未だ、動機が不明なのが不気味だ。
アプローチを変えようと近隣住民から話を聞けば、隣家に住むネムの友人が「昨日は静かな夜でした」と証言し、尚も道は断たれる。余所者、不審者、旅人が目撃されたのはひと月前にポーションを買いにきた冒険者だけで、それ以後、異形種を含む村人以外を見た者はいない。リィジーが金をよく回してくれたことも手伝って村は以前よりも大きくなっていたがまだまだ発展途上の域を出ない。余所者、流れ者がいれば目立つ。
動機も不明、容疑者も不明、物的証拠・目撃者もいない。事件を推理しようにも糸口が見当たらず、行き詰ったアインズが草木も眠る深夜に徘徊し、リィジーを蘇生しようと試みるも蘇生は拒否され、立ち尽くす彼には丑三つ時の風が妙に生温く感じられた。
アインズの推理が壁にぶち当たって砕け散るまで、そう時間はかからなかった。
(さっぱりわからん……誰が、何のために……)
唯一の気になる情報は、エンリの妹のネムが心神喪失状態だという。リィジー殺害日と同時期、彼女はベッドに横たわって虚ろな目で天井を見上げる人形になった。食事は流動食を辛うじて飲み込む程度で、原因も分からず回復の見込みもない。
関連性の調査の一環として、魔法で記憶を読む必要があったが、その線で追うのはすぐに諦めた。記憶を読む魔法は本人がうろ覚えの場面に関して映像が不鮮明だ。ネムは心神喪失状態で、誰の呼びかけにも答えずに眠り続けている。記憶が読めたとしても、曇りガラス越しの映像では意味がない。
「……やはり、無理を言って虹色を呼ぶべきだったな」
ヤトが退室した会員制レストランにて、虹色は非協力的だった。既にひとしきり話し終えた彼は満足したようで、新たな案件へ手を伸ばすつもりはなかった。ヤトにつまみ食いされて数が減った茶菓子には手が伸びていた。
茶菓子を齧りながら、虹色は偉そうに忠告する。
「魔導王、その事件、犯人が誰であるかはさして重要ではない。人間とは常に争い合う生物だ。我ら異形種から見れば些事でも、彼らには血で血を洗う抗争の原因となる。このような小競り合いは竜王国でも起きていた」
「ん……うむ」
「だが、問題はそこではない。犯人が異形種だった場合、事件の意味合いが変わる。ありとあらゆる異形種が混在する新興国家で、異形種が人間を殺した事件を人間愛主義の法国に悟られでもすれば、こちらの
「……肝に免じておこう。虹色、一緒にカルネ村へ行かないか?」
世界の終焉を匂わすタイミングで起きた事件だ。まさか断りはしないだろうと踏んでいたが、彼は即答した。
「断る。今は蛇の身体と精神構造について考察に足る資料を漁らねばならん」
友人を大事にしてくれるのはいいが、どうせ本を読んでいるのなら付き合ってほしかった。
「忠告するが、推理において思い込みは禁物だ。特に君は思い込みや先入観に囚われる傾向にある。ありとあらゆる可能性を考慮したまえ。破滅とは、得てして誰にも気にされないような場所から始まる。魔導王という立場は、君が考えているよりも遥かに重いのだ。要所での行動を誤れば、この国は戦禍に呑まれることになろう」
(そこまで言うなら手伝ってくれよ……)
それを口に出すほど親交が深まっていなかった。
回想から復帰した。
再び書類に目を落とし、がらんどうの頭蓋を回転させても妙案は転がってこない。閃きは顕現してほしいときに限って無視を決め込む。突拍子もない意見を言い出す馬鹿がいれば少しは変わっただろうか。
「いや、あいつも休みなしで働いて疲れている。今は休養が必要だろう」
ともすれば、呼び出す相手は決まっている。
アインズは早くも先入観に囚われていた。
◆
翌朝、アインズが自分より知恵が高いと認めるもの五名より、ナザリックの参謀三名が呼び出された。要塞の大広間で、小さな円卓に四人の異形が腰を掛けていた。
「守護者統括、アルベド、御身の前に」
「第八階層守護者、デミウルゴス、御身の前に」
「宝物殿守護者、パンドラズ・アクター。創造主たるアインズ様のご用命により、馳せ参じました」
違和感があった。
パンドラの挨拶は短かったし、いつもより静かだ。アルベドの顔は嬉しさで緩んでいない。デミウルゴスはいつも通りだったが、心なしか眼鏡から反射する光の輝きがいつもより眩しい。
「三人とも、公務で多忙の中、済まなかったな」
「我らはアインズ様の御役に立つべくあるもの。呼び出されたことに感謝こそすれ、不満を抱くものがあろうはずもございません」
「ん……うむ」
余計な発言は時間を掛けるだけだと判断し、単刀直入に事件の概要を説明した。自分より知恵の高い三名も揃えば、ややこしい事件も解決する。その結果、プレイヤーの影が見つからねば良し、発見したら早急に対策を練らねばならない。現状で、事件の解決は避けて通れない。
「今回は私も参ってしまったのだ」
「……ふむ」
「三人にはそれぞれ個別に考え、別の視点からの意見を――」
話の途中でデミウルゴスが挙手をした。
「いくつか確認したことがございますが、よろしいでしょうか」
「む、構わん。申せ」
いつもは最後まで話を聞いてくれるデミウルゴスが、アインズの話を断ち切るような真似をした。動揺する内心を知ってか知らずか、デミウルゴスは不敵な笑みで眼鏡を正した。
「ここに記述されている、被害者の首に残されていた手形。大きさはどのくらいでしょうか」
「私は目視で確認していない。形は人間の手と同じく五本指だと、冒険者の調査により明らかになっている」
「冒険者……ですか。アインズ様は遺体の確認をしていらっしゃらないのですね」
「私はしていない」
「左様でございますか……」
アインズはデミウルゴスの顔に失望が浮かんだのを見逃さなかった。
失望だ。
直後に発言したアルベドによって、アインズの予想は立証された。
「デミウルゴス、その反応はアインズ様に手落ちがあるように感じられるわ。言い方を変える必要があります」
「失敬。アインズ様、プレイヤーを警戒して御身が表を出歩かないのはこちらとしても望むところではあります。プレイヤーが敵対行動をとるのであれば、危害を被る可能性を考慮するのは必然でしょう」
「うむ……」
「それならば、こちらが雇う冒険者は中位ではなく上位にすべきです。いくらアインズ様の妾とはいえ、中級の実力者ではプレイヤー相手に逃亡すら難しいでしょう。調査能力も上位と中位には大きな差があります。人間の知性は我らの足元にも及びませんが、この資料は手落ちが多すぎますね」
(ごめんなさい……)
素直に心の中で謝った。
彼が謝る必要はないのだが、なぜか悪いことをしたような気分になる。すぐにアルベドがデミウルゴスを咎めると思い、彼女を諫める言葉をいくつか考えたが、彼女は微笑んで動かない。黄金の双眸は真っすぐにアインズを見ていた。
(……あれ?)
「この件は我々に委ねていただけませんか。プレイヤーを炙り出しましょう」
「流石はデミウルゴス殿! 我ら三名、知性を高く創造されし、ナザリック地下大墳墓の三将! アインズ様の足元に及ばずとも、細心の注意を余儀なくされるアインズ様より、我々であれば人間に紛れることができましょう。ともすれば、我々がカルネAOGの内外をくまなく調査するに最適だと仰りたいのですね」
意図が掴めずに反応が出遅れ、パンドラの介入を許した。彼が動き回るたび、アインズは精神の沈静化を必要とする。なるべく口を開いてほしくなかったが、それを面と向かって言えるほど非情にもなれない。自分で作ったからこそ、ずけずけと物を言うのが難しい。
デミウルゴスの意図はパンドラが説明してくれたが、彼らしからぬ態度の説明はされない。僅かながらいつもと違う態度に、違和感は続いていた。デミウルゴスの眼鏡が光を反射させ、アインズの眼窩へ差し込む。
「アインズ様、目をかけていた
「我々の力で、必ずやアインズ様の御前にアインズ・ウール・ゴウンと名誉と栄光に、足で砂をかけたものの首を献上すると保証いたします」
「……首は必要ない。犯人を特定し、プレイヤーでなければ村人に任せよ」
「畏まりました。鉄槌は我らが下さず、汚辱は削ぐべしと」
「いや、そうではなく――」
「お任せください。我らの手を下さずとも、彼女の死に憤りを隠しきれない異形種は多いのです。我らの領地で悪行を成した外道に、神罰の味を知らしめてみせましょう」
(あーれー……なんか物騒な流れに……)
どういうわけか、彼らはアインズの言葉が聞こえなくなったようだ。これまでは顔色を窺っている節があったが、この場に置いて話は勝手に飛んでいく。彼らの中でアインズの知性は最上位に置かれ、余計な説明はしなくても把握しているだろうと逆に不敬な態度を招いていた。
「こちらの腹など御見通しですよね?」とでも言いたげで、実に嬉しそうだ。
「アインズ様、このネムという少女が心神喪失状態ということでしたが、何者かに操られた可能性はございませんか?」
「操った……か……そう……だな」
(操ったのなら脳のブレーキが外れ、どんな人間でも殺せるかもしれん。ネムは冒険者志望で剣の稽古もしていたな)
空っぽの頭蓋にデミウルゴスの指摘はよく響いた。
「人間を操って誰かを殺害させることは可能だ。魔法の《
アインズは顎に指をあてて悩んだ。皆がアインズの行動に注目している。彼らの動向よりも、今は浮かんだ仮説の立証が先決だ。
「ナザリックへ帰還するのは、気になる項目を確認してからでも遅くはない。各々、好きな部屋を使って此度の事件を精査せよ。私も今日は自室で考え事をする」
「畏まりました。それでは明朝、この場でそれぞれの仮説を持ち寄りましょう」
「では、そのように」
「然るべくっ!」
「それでは明朝、ここでまた会おう」
アインズはさっさと逃げ出した。
締まりの悪さを残す会議だった。彼らが何を考えているのかわからない。”あの”アルベドでさえ、寝室で一緒に寝ると言い出さなかったし、パンドラも想定以上に静かだ。デミウルゴスは不敬ともとれる物言いをし、しかもアルベドは彼を咎めていない。
水面下で謀反が進んでいる不安があった。
自室に戻ったアインズは机の丸椅子に腰かけ、仮に謀反が起きたら自分はどうするだろうかと考えた。
(どうせ俺なんかただの人間だ。仲間の残した子が独り立ちするようなものだから、祝福してやりたいが)
彼の大きな勘違いは誰にも訂正されない。本来なら、「考え過ぎでしょ!」「思い込みが激しいッスね!」と喜び勇んで茶々を入れる大蛇もこの場に存在しない。大蛇がアインズを小馬鹿にする機会は二度と訪れない。
大広間では勘違いを立証する会話のキャッチボールが成されていたが、アインズは聞き耳を立てなかったし、分厚い扉に阻まれた。アルベドは円卓に紅茶を並べてから嬉しそうに席に着く。優雅にして可憐に紅茶を啜り、デミウルゴスを冷やかす。
「先ほどの物言いの感想はいかがかしら。演技派とは知らなかったわ。ナザリックでミュージカルでもやってみる? 失望した演技、なかなか上手だったわ」
「皮肉もほどほどにしなさい、アルベド。自分で言っておきながら、不愉快極まる。アインズ様をないがしろにするだけではなく、私自らが失望を表すなどと……二度と御免ですね」
「ふふ……そう、残念ね。パンドラも静かだったわね」
「欲求不満とでも言いましょうか。やはり私は体がついてこないと、話をしている気になりませんね」
「あなたは、少し話を短くするべきだわ」
アルベドはティーカップを置いた。
「我々は決して間違っていない。いつまでも御方の後ろをついていくだけのがらくたであってはならない。私たちは御方の役に立つために作られ、アインズ様を称えるだけの外野であってはならない。己が創造主と戦うことになろうと、絶対の忠誠と栄光の未来はアインズ様に捧げられる供物」
デミウルゴスは眼鏡を正し、不穏な表情で問う。
「アルベド、好奇心で尋ねるのですが、あなたにはその覚悟があるのですか。タブラ・スマラグディナ様が目の前に現れ、アインズ様と敵対行動を取った際、躊躇いなく創造主の首を切り落とす覚悟が。あなたはいつからそのようにお考えで」
「初めからよ」
笑顔の魔女は即答した。彼女は悩んでさえもいない。デミウルゴスの眉間に皺が寄った。
「あら、あなたにはその覚悟が無いのかしら。ナザリック地下大墳墓の忠臣と名高い、智将デミウルゴス」
うすら寒い笑顔でデミウルゴスを眺めた。口元は笑っているが、デミウルゴスの両目に埋め込まれた
「露骨な挑発ですね。私は頭から敵対するつもりはありませんよ。どこかの守護者統括殿と違ってね。共存共栄は望むべきもの。かつてのナザリック地下大墳墓の黄金時代を取り戻せるのなら、それに越したことはない。選択肢を残さず頭から敵対はナザリックを揺るがしますのでね」
声こそ穏やかであったが、目はそう言っていない。視線が激しくぶつかり、火花がバチバチと音を立てている。パンドラは紅茶を啜りながら、空洞の両目で二人の衝突を見ていた。どちらも、アインズの願いや幸福は41人の帰還以外にない前提で話をしていた。
「あら、そんなこと言ったかしら。私だって共存共栄は望むところなのよ?」
「目は雄弁に語りますよ。愛情という大義名分のおかげで、あなたの嘘はすぐにわかります」
「憶測でものを言うべきではないわ」
「その台詞、そっくりそのままお返しします。此度の事件、至高の41人が関わっている可能性が高いと、あなたは判断していますね?」
パンドラが辛抱堪らんとばかりに立ち上がった。
「補足をするとすればぁ……7割がたプレイヤー勢が関わっている! あわよくば至高のぅ御方がたの一人であれば、亡き者にして闇から闇へ葬り、らぁぶらぁぶハネムーンを満喫しようと想定していらっしゃいますね。おぉ、まさにこれぞ淫魔の本懐! 夜のうちに武装を終え、索敵行動に移る腹積もりではございませんか?」
「……」
「……」
派手な動きでぐるぐると動き回るパンドラに、二人は掛ける言葉を持たない。当然、返事はされず、否定も肯定もされなかった。沈黙は突然に割って入ったパンドラへの抵抗だ。反応してしまえば、動作の荒々しさが上乗せされて返ってくる。発言の内容もさることながら、声量が大きすぎた。要塞が石造りではなく木造であればアインズの部屋へ筒抜けだ。
「パンドラ……あなたの創造主はアインズ様だから何も遠慮する必要はないのだけれど……」
「君はなぜそうも騒々しいのかな……アインズ様に気付かれたらどうする。我々が自らの設定を振り切って成長しようと必死に努力していると」
「アインズ様からそのように作られたからでございます」
事も無げに言った。どことなく投げやりで太々しく思える。
「アインズ様が?」
「然り!」
「派手な動きをしろと?」
「然るべく!」
今日一番の大声はアインズの部屋にまで届いている。東西冷戦の様相を呈していたアルベドとデミウルゴスは、同時に深い溜息を吐いて冷戦の終結を告げた。
「……私も大立ち回りの勉強しようかな」
「……およしなさい、アルベド。皆が不安がります」
「……ま……そうね。今日は個別に部屋へ籠り、明朝の
三名は各々の部屋に消えていった。
一方で、アインズは毛の生えていない頭部を両手で書き毟り、まだ思い悩んでいた。
(あぁ、どうしよう! 謀反なんて……いや、それはそれで成長しているってわかるからいいけどさぁ! 恥ずかしい思いをしてアルベドを嫁にするなんて真似をしちゃったから、
彼の悩みなど可愛らしいものだ。
結局、アインズは存在しない謀反計画のことを夜通し考え続け、リィジーのことなど頭の片隅にもない。一晩を無駄に使ったと知るのは、忌々しく照り輝く太陽が顔を出してからだった。
◆
そして朝の打ち合わせを終え、各々が行動に移る。
アルベドは周辺の聞き込み。デミウルゴスは墓を掘り起こして遺体の再検分。パンドラは森の異形種へ聞き込み。アインズは透明化してエモット家へ向かい、心神喪失状態にあるネムへ会いに行くと決まった。
(ここでネムが都合よく復帰してくれていれば、記憶を読んで解決に……ならないよなぁ。はぁ………それにしても――)
不思議なもので、知性に大きな差が無いものの、三人が提示した仮説はまるで違う。
アルベドは犯人が人間と断定し、人間の妾を含めた冒険者を帰還させ、逢魔が刻に自ら聞き込み調査を行うという。表向きはナザリックの役に立とうとする人間の献身を利用し、どんな細やかな情報も見落とさないという意図だ。裏には
デミウルゴスは犯人について言及するのを避け、遺体の検分を優先した。墓荒らしをしてリィジーの死体を掘り起こすのだ。行動は人目を忍ぶ必要があり、彼だけが夜に行動を開始する。周辺を散策する僕や配下を手配しなければと、嬉しそうに笑った。
パンドラは何らかの異形種が潜伏していると仮定し、自らが単身でトブの大森林森の調査を行う。異形種が潜むとすれば、都市内ではなく真っ先に大森林へ向かう。自然と森林内の戦力図は乱れ、異変の裏付けとなる。
「明朝にここへ集まろう。行動に制限はないが、人間を勝手に殺さないように。敵プレイヤーとの接触は避け、監視を付けて即時撤退だ。異論はないな?」
「ございません。そのように致します」
謀反の気配に怯えながらも、アインズは各々の自由行動を承認した。今は一人になりたかった。特に、いつアルベドが夫婦生活について言及を始めるか、内心は穏やかでない。夜の秘め事を事細かに暴露されてしまえば、羞恥心で死んでしまいそうだ。人間性に訴えるという新たな殺し方を思いつき、レベルが上がった気分だ。
「それでは、行動開始!」
揺らぐ心を厳しく律するため、余計な大声を出した。サバイバルゲームでも始めんとする号令を出し、直後に全員が散っていった。アインズも足早にエモット家へ向かった。
エモット家の両親は朝から畑に出掛けていた。現在、この家には部屋のベッドで横たわる生者ネムと、魔法で透明化した死者アインズしかいない。ネムはエンリの使用していた部屋を与えられ、彼女の体にはやや大きめのベッドで横になっていた。
「ネム」
応答がない。
彼女は天井を見上げているが、虚ろな瞳に天井の染みさえ映り込んでいない。
ネムの頬を指で撫でれば、ふにふにとした子供特有な柔肌の感触が骨を伝わる。アインズは透明化を解除し、彼女の視界へ顔を突っ込んだ。瞳は何も映さず、虚ろな闇がずっと奥まで広がっていた。それからも数度に渡って優しく呼びかけ、手を握り、背中を撫で、頭髪をかき回し、脱力した体を抱き上げ、考え付くありとあらゆる手段を試した。
彼女から何らかの反応を引き出すことはついに叶わなかった。
(いったい、何を目撃、あるいは経験すればこうなるというのだ。まさか、小児愛好家でも混ざり込んだか)
女性として開花していない
(都市の周囲数10キロに渡って捜索班を出すべきか)
突然、大きな音で家屋の扉が開かれ、アインズは飛び上がるほど驚いた。
「ネムー! 元気ぃー?」
「立ち上がれー! 気高く舞えー! 定めを受けぇたぁぁ農民よー!」
「うるさいよ!」
ネムの友人らしき、複数の子供の声が聞こえた。無邪気な彼らの声は底抜けに明るい。友人が廃人になりかけているというのに、明るすぎる。
「早く元気になるといいね!」
「ボクも休みたいなー」
「もう少し時間がかかるかな」
「ネムー! 入るよー?」
ネムの部屋の扉が開かれ、子供たちは扉の影から室内の様子を窺っている。間一髪で透明化が間に合い、アインズは音を立てずに壁際へ移動した。見えていないはずだが、数名はアインズと目が合った。彼らは誰もいないのを確認してベッド脇を囲み、しばらく談笑に興じた。これ幸いと、注意深く彼らの情報を探る。
「ネム、今ね、王様が来てるんだよ」
「あの家、凄いよね! 貴族の家みたいだった!」
「でも、私、御付きの人たち怖い」
「そう?」
「だって、ゴブリンさんやオーガのおじさんみたいに、遊んでくれないし、なんとなく怖い」
「食べられちゃいそうだもんね!」
子どもたちの会話は微笑ましいものだ。彼らの不安はもっともだと、アインズは頷いた。自分も何を考えているか分からない彼らに不安はある。平穏な心情が誰かの発言で凍結した。
「御付きの人がリィジーお婆ちゃん殺したんだよ!」
「どうして?」
「前に蛇様がね、部下のみんなは王様の味方だけど、人間の味方じゃないって言ってたの。邪魔になったらすぐに殺しちゃうって」
「えー……それって、お婆ちゃんが邪魔になったの?」
無垢な少年少女たちの会話は、アインズの耳をそばだたせる。取るに足らない妄想の可能性が高かった“謀反”という言葉が、見聞きしたことを率直に受け入れる子供たちの認識により具現化してくる。それは謀反とは呼べないが、確実にアインズの理想とは外れた行動だ。胸の中に居座っているもやもやとした実体のない不安が膨らんでいく。
「ほら、お婆ちゃん、お金持ちで人気者でしょ。王様の部下の人たちは気に入らなかったのよ」
「わたし、怖い……」
「そんなことないよぉ……蛇様だって――」
「結構、当たってると思うけどなー、私の名推理。探偵になろうかな! 一緒にやんない!?」
「やだ」
「振られちった!」
少女は口の端から下を出し、片目を閉じて笑った。どこで覚えてきたのか、「てへぺろ」と言った。
「でもね、蛇様が、御付きの人たちの考えていることが、王様の望んだことじゃないって言ってのは本当だよ」
「どういうこと?」
「うーん……王様のために人間を殺しちゃうとか、蛇様を倒しちゃうとか」
「どうしてえっ!? だって、王様と蛇様はお友達でしょ! そんなの嘘だよ!」
「えぇー? だってぇ、喧嘩ばかりしてるって冒険者のお姉ちゃんたちが言ってたし」
「私、わかる! お父さんも私のことが一番大事って言ってるくせに、悪戯するとお尻叩くの!」
「僕もお尻、叩かれた!」
「全然、遊んでくれないもん!」
子どもたちの話は脱線したが、アインズの胸の奥深く、自力では抜けない楔がぶち込まれた。少年少女たちは真実を語っていると想定し、今回の事態を紐解いていくと、危険な仮説が見えてくる。見えたこと、それ自体が危険なほどに見えてくる。
(まさか、彼らは――)
三名は初めから共謀し、数日前にリィジーを殺害。彼らほどの知性があれば、近隣に気付かれず物音を立てずに殺害するのはお手のものだ。殺す対象は誰でもいいが、アインズと交流のある人間でなければならない。騒ぎになってから三名は各々の違う仮説を持ち寄り、ヤトを都合のいい敵へ仕上げる工作を行う。ここで直接的にヤトが犯人と言ってはいけない。アインズは与えられたものを素直に信用しない。それとなく悟らせなければいけない。
彼らに共通する目的は、アインズと敵対する可能性のある蛇を排除し、アインズだけを唯一神として祀り上げることだ。デミウルゴスが手形を記入した書類を作成し、その大きさはヤトの掌とぴたりと一致する。アルベドは黒髪の男が事件前後で目撃されたと情報を捏造する。パンドラはトブの大森林の蛇に反乱の疑いありと言う。
複数の無関係な事実で浮き彫りにされるのは、ヤトがリィジーを殺害した仮説だ。
ここまで根回しを終え、アインズを誘導してしまえば、王としてヤトを厳しく尋問するしかない。彼らの忠誠は、設定の具現化という名の
アルベドはタブラ・スマラグディナが手塩にかけて性格を歪めた、彼にとっての最高傑作だ。
事実、彼は某神話体系について熱く語った。
「モモンガさん、クトゥルフ神話の生みの親なのに、なんでラブクラフトって名前なんでしょうかね」
「はあ」
「世界の全てを冒涜し、破滅に導く神話の原作者とあろう御大が、
彼がここまで興奮しているのも珍しかった。聞けば、裏ルートで手に入れた古い書籍に、大そうな感銘を受けたらしい。
「ああ、もうっ、どうしてこんなに凄いのが書けるんだ! 私も神話を作ってやりたいですよ! 得体の知れない悪意に粘着されながら、グロとエゴに翻弄されて発狂する者の、皮肉で邪悪な
「あぁ、そういうことですか。NPCの作成案、やっと纏まったんですね。容量は決まってますから、あまり独占しないでくださいよ?」
アインズは猟奇的な容姿のNPCか、妖艶で淫靡なNPCでも作るのかと受け取った。結果は、どちらも作成し、しかもギルド内のデータ容量を大きく占有した。
「ギャップ萌えー」
予想に反し、言い残した台詞は緩かった。
彼はそうしてアインズの正妻、アルベドの作成に入った。
ここに至るまで、アインズはアルベドの設定を読むまでは至らなかった。改めて考えると、設定を書き換えたのは最後の一文だけだ。
考えれば考えるほど、思考の迷宮は行き詰る。
あるいは、ここがゴールなのかもしれない。
アインズはアルベドと結婚した。しかし、それはアルベドを純粋に愛していたとは言い難い。彼女の美しさ、一途な愛情は認めるが、知性の高さと立派な歪みはアインズの手に負えるようなものではない。タブラ・スマラグディナの闇と付き合っているようなものだ。
気楽で可愛い
迷宮の放浪者たる思考が飛躍したところで、子どもたちの笑い声が室内に響き、アインズが耽っていた物思いから呼び戻す。幸いにも、ミノタウロスには遭遇しなかった。声変わりのしていない少年の嘲笑、無垢でありながら酷薄な少女の哄笑は室内を飛び交う。
(何を馬鹿な……NPCがヤトを暗殺するなんて)
そんなことはあり得ないと断言できる。
NPCの99%以上が、至高の41人の立場だけで絶対の忠誠を誓っている。各々41人の誰に特別な感情を抱いているかは違えど、41人の誰かに刃を向けるように設定されたのは、レベル1の
万が一、設定に異常をきたしてヤトを亡き者にしようとするのであれば、別行動を取っている今こそ好機。手を下すべく彼の邸宅を訪れればいい。参謀の三名が、どこかの馬鹿蛇のように要領の悪い選択肢を選ぶとは思えない。
かぶりを振って思考の流れを断ち切った。
子どもたちの嘲笑は続いている。
幾重に重なった嘲笑。
愚かな誰かを蔑む嘲笑。
忌まわしき、無垢なる邪悪の嘲笑。
脳裏に妙な仮説が浮かび、何か酷く恐ろしいものを見たように体が硬直した。
ほどなくして、彼らは眠れる少女へ挨拶をしてからその場を立ち去った。
アインズはしばらく動けず、息を潜めていた。何かとても酷いものを目撃したようで、背骨に寒気が走る。長すぎる嘲笑をしていた、狂気じみた子供たちに感じた名状しがたき違和感は、病的にして倫理を冒涜する仮説を提示する。
(子供たちは、プレイヤーに洗脳されている……のか?)
隣家の子供が静かだったと証言しているのなら、その子が犯人とは考慮していなかった。しかし、動機が分からない。浮かんだ仮説が事実であれば、カルネAOGは魔導国に反旗を翻すはずだ。そうでなくては、ポーション開発を担っているリィジーを殺す必要が無い。何らかの痕跡を探しに村内をくまなく調査したかったが、単独行動は禁止されている。
ともあれ現状でこれ以上の身動きが取れず、アインズは要塞に帰還する。アルベド、デミウルゴス、パンドラが持ち帰る情報によっては、アインズの行動は天と地ほどの差がある。謀反の可能性という未来の懸案事項は、空っぽの頭蓋内で小さな火種となった。あり得ないと知りながら、完全に掻き消すこともできずにいた。
(謀反……か。私や待遇への不満で裏切るというのであれば納得できるし、まだ受け入れられるのだが……はぁー)
先入観と思い込みに囚われた悩める強王に悩みの種は尽きない。
◆
夜半、アインズが引き籠っている扉がノックされた。
「アインズ様、紅茶の支度をしましたので応接間へ出てこられてはいかがでしょう。気分転換に休憩は必要でございますわ」
「アルベドか。悪いが手が離せない。そちらでくつろいでいてよい」
「せめて、お顔を……お見せていただけないでしょうか。一目だけでも」
「無理だ。大事な情報を精査している」
「…………畏まりました」
寂しそうな声のあと、足音が去っていった。泣きそうな顔をしているのが想像できる。それが演技の可能性もあるが、涙で警戒心の門が開け放たれてしまいそうだった。
(悪いな……)
今は彼女の顔を見たくなかった。
悩める王は事件の推理ではなくアルベドと自分の関係について熟考を始めた。墓の下の冷たい土で眠るリィジーがこの光景を知ったら、ないがしろにされたことに腹を立てて地団駄を踏んだに違いない。
アインズは彼女を美しいと思っている。正確な種族名は覚えていないが、容姿は端麗、淫魔に相応しき艶やかで色気のある肉体も持っている。夜を共にした数日で、肉欲という底なしの谷へ急転直下するところだった。人間だった二週間余りを振り返れば、自分でもよく踏み止まったと思う。
アルベドに愛され、幾度となく求められるのは心の奥から満たされたが、彼女を心から愛しているかと問われれば、わからないと答えた。幼い時分、早々に両親へ先立たれた彼は、無償の愛そのものに懐疑的だ。両親の記憶は、霞がかかって顔さえも思い出せない。
何よりも、彼女はナザリック地下大墳墓が誇る甘美な毒の果実だ。
アインズのためになると判断すれば、彼女は手段を択ばない。たとえそれが、アインズの望まぬ手段であっても。その点は重々承知していた。後にも先にも、至高の41人に殺意の刃を向けたのは彼女だけだろう。
デミウルゴスとパンドラ抜きにしても、謀反の危険性は彼女一人でも十分に考えられた。ヤトと交戦した事実は消えることはない。過去は何をしても消えはせず、報いは必ず過去から訪れる。それでは、アルベドの謀反が真実だとして、彼女を処断できるのか。
(無理だ……)
超位魔法で懲罰を与えることはできる。
しかし、処刑となれば話が別だ。
アルベドを大事に思う心は確かに存在するが、それを軽々と凌ぐ仲間への思い入れ。
彼女が死ねば、タブラ・スマラグディナを想起させるものを一つ失う。
彼女が死ねば、ナザリックの責務は自分だけが背負う。
彼女が死ねば、自分を愛してくれる存在が一つ消える。
(本当に……自分のことばかりだな、私は)
つくづく支配者として生まれたわけではなく、ちょっと
《お前さえ帰ってこなければ、私は今でもあの方の隣で微笑んでいられたのに!》
ヤトと刃を交えたアルベドの慟哭が思い出される。胸の辺りに小さな痛みが走った。
(アルベド……ヤトがいなかったら、俺たちは結婚してないんだよ)
そうやって、アインズは思考の迷宮に囚われ続けた。
再び扉がノックされたのは、部下を引き連れて
◆
要塞の広間に朝陽が差し込んでいた。幸い、アインズの背中から朝陽が差し込んでおり、逆光となって三人から顔色は窺えない。髑髏に顔色も表情もないが、僅かな機微で内心を悟られかねない。彼らの知性は高く評価していた。
「それでは、持ち寄った情報の開示、及びリィジー殺害事件について意見を聞こう」
各々が丸一日を消費して持ち寄った情報の開示は、アインズの想定通りに進んだ。
アルベドは黒髪を持つ何者かの目撃情報、デミウルゴスは手形について新たに分かったこと、パンドラは森の蛇に異変が起きていると言った。
嫌な汗が背骨を伝うのを感じた。
(落ち着け……今は落ち着かねば。まだ謀反と決まったわけではない。アルベドも一度、ヤトと戦って懲りただろう。なんなら添い寝くらいしてやれば、彼女の機嫌も――)
「アインズさま?」
第二妃の声で我に返った。金色の双眸は不安に染めて心配してくれた。やはり彼女は美しいと、素直にそう思ったところで感情は抑制された。
「ああ、済まない。誇大妄想に囚われていた」
「誇大妄想……ですか?」
「いや、いい、忘れるんだ。さあ、話の続きを」
「はい」
アルベドの話によれば、目撃された黒髪の人間は女性。扇子で口元を隠していたが、絶世の美女だったという。小さな鎌を腰から五本ほどぶら下げ、纏っている衣服はチャイナドレスという、いかにもプレイヤー級が着こなしそうな服装だ。
一先ずヤトを犯人に仕立て上げるような内容ではなく、背骨を伝った汗が即座に乾いた。
「何か思い当たることはあるか?」
「見当もつきません。彼女は数名に目撃された日以降、誰にも目撃されていません。カルネ村内には一歩も立ち入らなかったと」
「アルベド、お前の見解を教えてほしい」
「プレイヤー、NPCの類と仮定し、異形種による村内、大森林内の捜索を行うべきです。ここは封鎖されたナザリックに最も近い都市。不穏分子は徹底的に取り締まりましょう」
「ふむ……」
アインズは一通り悩むだけの時間を空け、デミウルゴスへ顔を向けた。
「行動を決める前に、デミウルゴスにも話を聞こう」
「申し訳ありません、次はパンドラにお願いします。少々、考えたいことがあるもので」
「そうか」
顔を向けられたパンドラは、待ってましたとばかりに促される前から立ち上がった。佇む姿勢は背骨が一直線に伸びて、美しい立ち居振る舞いだ。それがアインズに羞恥心を覚えさせる。
「お任せください、アインズ様。このパンドラズ・アクター! 御身のご指示ど――」
「本題に入れ」
「……はい」
出鼻をへし折られたパンドラの話によると、森の植林管理を行っている蛇たちの長、リュラリュースが次世代の縄張りを管理する後継者として育てていた若いナーガとラミアが、細切れに切り裂かれて死んだという。それ以外にも、森の最深部付近に住むフェアリーが騒いでいる。小さな悪戯妖精たちは得体の知れない何かに怯え、普段は決して近寄らない蛇たちに助けを求めてきた。そうかといって蛇たちは繁殖と植林の仕事がある。彼らの面倒を見るゆとりは無い。
パンドラが訪れたのは渡りに船で、フェアリーたちは引き取られ、纏めてエンリに預けられた。
エンリは顔を引きつらせながらも快く承諾してくれた。
「パンドラ……フェアリーをまとめてエンリに預けるのはやり過ぎだろう……」
「ポーション開発者が死亡した穴埋めに最適ではございませんか? 森の妖精だからこそ、調達し得る素材もございます。何より素晴らしいのは、彼らは小さく、食料を圧迫しません」
「む……それもそうだな。しかし、ナーガが殺されたというのは解せんな。連中のレベルはさほど低くない。ゴブリンなら一飲みにできるはずだ。やはりプレイヤーか」
「奇怪にも目撃情報がありません。プレイヤーであれば、隠れて暗殺する意味もありません。一般的にプレイヤーであればどこにいても目立つもの。細心の注意を払って隠れているのであれば、やはり敵対者の可能性が高いか、あるいは疑い深く慎重な性格です」
「首を絞められて殺害されたナーガはいるのか?」
「おりません。彼らは体を切れ味の良い刃物で切断されていました。死体には抵抗した痕跡もなく、凶器も見つかっておりません。被害者の悲鳴を聞いた者も見つからず、不可解な点が多すぎます」
「ふーむ……」
ここまでの報告を掻い摘んで纏めれば、トブの大森林の黒髪の女性が潜んでおり、それがプレイヤーという説が濃厚だ。しかし、何を目的に動いているのか想像ができない。行動理念、目的がわからず、領内で殺戮を行う得体の知れない存在が、ただただ不気味だった。
「プレイヤーか、そのNPCが我らと同時期に転移した可能性がある。それらが子供たちを操って……いや、操らなくても人目が無い場所で殺せばいい」
「子供……アインズ様、既にそこまでお考えでございましたか。つくづく実感致しますのは、御身の叡智、我らが足下に及ばない考察、お見事でございます」
唐突にデミウルゴスが立ち上がり、パンドラ並みの身振り手振りでアインズを称えた。
「ん……うむ」
相槌に意味はない。
(えぇ? 俺、何か言った?)
密かに精神の沈静化を終え、アインズは悩む。微細に残っている謀反の可能性を考慮すると下手な発言はできないが、ここで何も言わないのもばつが悪い。どこで彼の地雷を踏んだのか。
「デミウルゴスは何かを掴んだようだな」
「はい。私の推理は御身と同じでございます」
「そうか。お前もそう思うか」
「はい、少なくとも状況証拠はそのように物語っております」
「そうか……」
(何が!?)
上手く彼の考えを引き出す言葉が思いつかない。支配者らしくなったとはいえ、所詮は張子の虎。張りぼては子供の力でも軽く叩けば窪んでしまう。不敵な笑みでアインズを推し量っているデミウルゴスと、危機感に束縛されながらも身動きが取れない両者の拮抗は長かった。
沈黙は知性の低いものが破るが世の常で、法に逸れることなくアインズは顎を開く。
「デミウルゴス。アルベドとパンドラは知っているのか?」
「いえ、説明はこれからです。しかし、私の仮説より以前に、我ら三名はアインズ様の御考えが聞きたいのです」
「ぐっ……」
デミウルゴスに抜かりはない。気が付けば、袋小路に追い詰められた鼠だ。すぐ背後に猫が迫っている。期待に瞳を輝かせた彼らの期待に応えるには、何らかの名案を提示するしかない。打つ手はなく、時間稼ぎの沈黙が継続する。想像力は、行き詰ってから助けてくれる。
どうせ仮説だから好きに言えばいいと、開き直った彼の口は動き始めた。
「それでは、私の考えを言う。くれぐれも先に言っておくが、これは仮説の域を出ない。お前たちの知性には及ばない、愚者の考えの前提で聞くといい」
「滅相もございません。アインズ様の力の本質は――」
「良い! その話は後で聞く。先に私の話を聞け」
「……申し訳ございません。出過ぎた真似を」
デミウルゴスの称賛を強引に押し込めた。どうにか現状より追い込まれるのは阻止できた。あとは想像力の働き次第だ。
「私は、今回の事件はプレイヤーが関わっていると考えている。目的は不明だが、ネムはリィジーの殺害を目撃したから心身消耗状態にあるのだろう。昨日、ネムの邸宅を訪れたこど……」
背筋の悪寒が言葉を止めた。
言い淀んだ仮説の不気味さで白磁の骨に鳥肌が立ったと同時、はるか遠くから爆発音が聞こえた。アルベドはすぐに立ち上がって外を眺め、魔導国領地の外れらしき場所にきのこ雲を見つけた。
「アインズ様、やはり何かが起きています。茸雲が上がるほど破壊力のある何かが爆発したようです」
「なんだと……?」
「アルベド、私の配下を差し向けましょう。君はアインズ様をナザリックへ」
「アインズ様! 我々がこうして雁首揃えて話し合いをしている間にも、敵対者は搦め手を進めています。リィジーの死は早期発見という点において、敵の失策という可能性が高く、敵が本格的に我らへの敵対行動を開始する前にこちらも策を練らねばなりません」
「い、いや、アルべド、ちょっと待――」
「ぅアインズ様ぁ!」
「うわぁ!」
予期せぬパンドラの大声で体がびくっと跳ねた。驚いた声は自分でも驚くほど情けなかった。
「妃の仰る通り! 敵の目撃情報があるカルネAOGで打ち合わせは危険です! ここは撤退し、機を窺うのです! ナザリックが封鎖された今、大墳墓の最下層こそもっとも安全な場所ではございませんか!」
参謀と命じられた誇りがあり、彼らは引かない。優先すべきはアインズの身であり、ナザリックの栄光、僕やNPCの命などは優先度で足元にも及ばない。アインズはため息を吐いて彼らの提案を受け入れざるを得なかった。両手を上げ、猛った牛でも宥めるように穏やかな声で言う。
「仕方がない、ここはお前たちに従おう。私も得体の知れない敵が徘徊する場所で、無防備に歩き回るのは避けたい。会議の続きはナザリックでするとしよう」
「我らのわがままを聞いていただき、ありがとうございます」
身支度を整え、内側から要塞を収納しようとしたが、扉のノッカーが来客を知らせた。
全員に緊張が走り、空気がささくれだった。互いに無言で目配せを行い、デミウルゴスが扉をすきま程度に開いた。
「アインズ様、次期都市長のエンリ・エモットです」
「じっ……次期都市長? なんだそれは」
「この都市で最も統率力のある人間だそうですわ、アインズ様」
「そうなのか……」
そんな気配はこれまで微塵もなかった。どこにでもいる村娘で、ンフィーレアと幼馴染でなければ彼女も妾候補へ押し込められていた可能性が高い。そんな彼女が統率力に優れているとは初耳だ。この世界にきてから初めて、エンリという個人に興味が湧く。
「ゴブリン、オーガは彼女が毒で懐柔したと聞いております。遭遇する回数に応じて徐々に回っていく、親しみという名の猛毒は彼らに浸透し、今ではいかなる種族であろうと仕事の指示は彼女からしか受けないと評判です。直近の功績で、大森林の蛇を懐柔し、リザードマンの集落から一直線にカルネ村へ迎える道を建設させたとか。森の最奥に住む意地悪な双子の魔女でさえ、繁殖を続ける蛇たちには多勢に無勢。フェアリーの王国まで引っ越しさせて、誰にも手が届かぬ存在と名高い彼女で――」
「……もうよい。黙れ」
パンドラの長話は再開してしまった。もって回った言い方と激しい動作を観賞するごとに蓄積していく羞恥心で、精神の沈静化を要した。
「ぁぁあアインズ様ぁ! ここからが面白いところで――」
「やかましい! 自宅謹慎にさせるぞ」
「あーのー……あ! アインズ様! お久しぶりです!」
「……失礼しました」
嬉しそうに駆け寄るエンリに、パンドラは引いていった。アインズの眼前に跪き、顔を上げて破顔した。心の底から嬉しそうな笑みだった。
「エンリ、よく私がここにいるとわかったな」
自分で村の中央に要塞を立てておきながら随分と白々しい。誰が見てもここに魔導王がいると考え付く。真面目な彼女は真剣に応対してくれた。
「以前にこの村へお泊りになった際、建ててらっしゃったものと同じでした。村の全員が知っています」
「そうか……そうだろうな………。それで、今日は何用だ。我々はこの場を引き払い、付近の調査に出るのだが」
「はい、あの……ネムが意識を取り戻し、この手紙をアインズ様へと」
「ネムは何をしている」
「着替えて外に出ました。畑を手伝いに行ったのではないでしょうか」
「……そうか。アルベド、私は野暮用ができた。お前たちは先にナザリックへ帰還せよ。私もすぐに行く」
「いけません。御供をつけなければ」
「必要ない。子供たちと親睦会だ。たまには国民と交友を深めるのも悪くない、そうだろう?」
アルベドは言いようのない不安に囚われる。隣のエンリは村人だ。アインズに危害を加えることはないと信用しているが、正妻とは視点が違う。
「畏まりました。アインズ様、我らは先に戻っております」
「あ、アルベド?」
態度と発言がかみ合っておらず、デミウルゴスが眼鏡をずり下げて動揺した。
「私も子供たちと話してからすぐに行く。この手紙は元気になったネムから、話がしたいという申し出だ。この村を統べる支配者として会わないわけにはいかないからな。次期都市長の妹なら尚更だ。そうだろう、エンリ」
「あ、あのぅ、私はまだ、都市長なんて……ただの田舎娘ですし、政治とかはわかりません。貴族様みたいに頭もよくないですし、身分だって」
「これからは身分に囚われず確実な実績を上げられるようなものが上に立つべきだ。村人みんなでサポートすればなんとかなるだろう」
「で、ですがっ!」
「済まない、我々は急いでいる。泣き言は今度、ゆっくり聞かせてもらうぞ、エンリ・エモット都市長殿」
「あぅぅ……」
強引な魔導王の勅命を受け、気が付けば都市長に就任させられた。今さら辞退すると言えない雰囲気だ。いつしかアインズがすぐに帰還しないという選択も参謀たちは吞まされていた。
「要塞を片付けておいてくれ。それでは皆、ナザリックで会おう」
アインズが退室し、無駄な抵抗をするエンリも後を追った。残されたアルベドはしばらく腕を組んで考えていた。デミウルゴスが彼女に近寄った。
「アルベド、あなたにしては珍しいですね。御方の妻であるあなたが、この場へ残るというのも」
「デミウルゴス、謎の爆発でアインズ様の仮説は最後まで語られなかったけれど、あなたはどう思う?」
「アインズ様の叡智は、私ごときに窺えません。いえ、何者にも窺い知れぬ知性の深淵は、私のダイヤの両目では暗すぎて見通せません」
「我らは参謀として命じられた存在。アインズ様に貢献すべく、自立しようとした我らが、御方の深い考えに思慮を巡らせないなどあってはならない。そうでしょう? 忠臣のあなたが何も考えていないなんて、そんなことを信じろと?」
「……やれやれ、困ったお妃だ」
アルベドはパンドラを眺めた。彼は視線を受けて最敬礼していた。
「あなたもよ、パンドラ。息子を自称するあなたが、アインズ様に与えられるだけの存在では済まないでしょう」
「然り! 想像力で補完したアインズ様の仮説は、三名とも同じものではありませんか」
「そう……かもしれないわね。ならば、先に帰還するなどもってのほか。この場を治める詭弁に過ぎない」
デミウルゴスが円卓の上にそっと差し出した書類には、リィジーの死体から採取した犯人の手形が刻印されていた。その手形はどうみても大人のものには見えず、かといってゴブリンの手にしては指が短すぎた。小さく、幼いその手形は人間の子供のものだ。
三名は顔を見合わせてから頷く。
「やはり犯人はネムの線が濃厚ね。それでは、彼女を洗脳したのは何者かしら」
「ネムとは限りません。この村に子供は多い。リィジーの隣家にも子供がいましたね」
「昨晩、棺を埋め戻しているときのことだが、森の方角から何者かの咆哮を聞いた。プレイヤーは間違いなく森にいる。アインズ様の監視はつけていますか?」
「エイトエッジ・アサシンが密命で尾行中よ。抜かりはないわ。私たちも後を追いましょう」
「
三人が武装して隠密行動に出た同時刻、遥か上空を薄汚れたぼろぼろの黄色い布切れが風に舞っていた。
全員が視界の端に映したが、それが何かはわからなかったし、興味もなかった。
◆
カルネAOGの北入口から一直線に進めば、トブの大森林が見えてくる。鬱蒼とした大森林は人間に危害を加える魔物も多数、生息しており、150メートルも進めば何が起きても不思議ではない暗がりだ。かつて、この森での薬草採取は森の入口から浅瀬にかけて行われるだけだった。開発が進んだ今では、リザードマン集落へ一直線に延びる道が作られている。森林を縦断する道路周辺は蛇たちの縄張りで、彼らは人間に危害を加えない。
人間に化けられ、人間と契りを結び、神に近しい力を持つ自分たちの上位種、蛇神ヤトノカミに心酔しているからだ。しかし、彼らがどれほど数を増やそうとも、広大な森の全てを支配するに至らない。トロール、ハムスター、ドライアードの縄張りは彼らの所有物も同然だったが、支配領域を拡大するには蛇の数が少なすぎた。事実、縄張り内の道路から大きく逸れてしまえば、そこは何が起きても不思議ではない闇だ。他所から流れ着いた異形種に支配領域を奪われないよう、蛇たちは繁殖を急いでいた。
アインズは呼び出された場所へ向かう。大森林を突っ切る道路を大きく逸れ、人と蛇の手が入っていない大自然を進めば、そこは獣道だ。骨の脚が木片を踏み、ぱきぱきと小気味よい音を出した。乾燥が十分でないと、こんな音は出せない。
更に先へ進むと、人類未踏破の領域には濃密な霧が出ていた。つい数メートル前は十分に乾燥していたので奇妙な光景だ。霧に体を湿らされ、白い骨に水滴が浮かんだ。傍から見れば冷や汗に見えた。やがて無名の霧は晴れ、樹齢数百年の大樹が周辺に濃い影を落とした。
そこで彼女が待っていた。
倒木に腰かけたネムは横を向き、長い煙管から紫煙を昇らせていた。服装、顔色、髪の色など、アインズの記憶と寸分狂わない彼女は、扇子で口元を隠していた。時おり煙管の吸い込み口が扇子の内側に消え、ふーという吐息に煙が吐き出される。
「ネム、いつから煙草を吸うようになった。健康に悪いからやめた方がいい」
十中八九、彼女はネムではない。何者かに洗脳、あるいは憑依された少女だ。アインズは考える時間を稼いでいるに過ぎない。こうして呼びかけているあいだにも、どこから攻撃が飛んでくるともわからないのだ。
「ネム、返事をしなさい」
「よくもやってくれたな、このオーバーロード野郎」
ネムの顔がゆっくりとこちらを向く。鋭い刃のよう目つきで睨んでいた。
「見事な手腕だよ、本当に。クリア不可能なイベントをクリアする方法は、フラグが立つ前にへし折ればいい。ものの見事にバッキバキにへし折られちゃって、してやられたって感じぃー」
「貴様は誰だ。プレイヤーか? ネムはどうした」
「質問、多くない?」 アクセントが最後にくっつき、語尾が上がっていた。
「少なくとも、我らに敵対する存在であるのは明白だ。ネムの体を乗っ取ってリィジーを殺し、貴様は何を企んでいる」
「殺してでも聞き出せばぁ?」
それができたら苦労しない。
魔導国の領内にある発展途上の都市、それもアインズが最初に支配したことになっている村。その外れの森で、次期都市長の妹をアインズが殺したとなれば大騒ぎになる。
アインズへの罵詈雑言、誹謗中傷だけではなく、人間と異形種の新たな対立構造を形作る要因となってもおかしくない。そうなれば、ナザリックの僕たちの活動を著しく阻害することになる。
外交国家の顔色を窺う官僚にも似た葛藤が起きていた。
掛け合いで情報を引き出すしかない。
「お前の目的は何だ。この村を破壊したいのか? それとも、お前の標的は……私か?」
返答の代わりに煙管を吸い、肺の奥まで長く吸い込んだ。
「んーと……まあ、オーバーロードが嫌いなのは認めるよ。でも、ネムを殺したのは私じゃないかんね」
そう言って腰かけていた大木から飛び降りた。
「私の目的は魔王を召喚し、この世界を破壊することだ!」
得意満面に煙管を掲げた。
たっち・みーが好んで使用していた四文字の漢字を背後に浮き出させる演出。あれと同様に、ネムの背中へ日本語の文字が浮かんでいた。「まさに外道!」と書いてあったそれは、数秒してから宙に消えた。
ふざけきっているが、彼女から感じる明確な悪意がアインズを苛立たせる。ネムらしきものは懐をごそごそとまさぐり、小さな小箱を取り出した。
「あ、これ、輝くトラペゾヘドロン、いる?」
「ふざけるなっ! 魔王とは何だ! 答えろ!」
詰め寄ろうとしたが、彼女の煙管アインズの眉間を指していた。
「へいへい! 気安く近寄るんじゃねえ! アザトォォォス様が降臨するぜ!」
アザトースに関する情報は持ち合わせがない。アインズは最悪の未来を想定し、周囲への警戒を強める。
いざとなれば《
「……お前は全てを破壊するつもりか。プレイヤーではないのか」
「プレイヤーじゃない。あたしゃぁね、ただの道具ですよ。魔王猊下を召喚するための呼び水。それでも、あんたを殺すくらいなら造作もなくできるぜぇぇ」
常に口元を隠したネムの体から、暗黒色の波動が昇る。アインズは交戦を予想した。最悪は相打ちに持ち込めれば、ヤトとその家族は無事に済む。彼は子供を育てる未来がある。自分が犠牲になって彼やその家族が幸せになるのであればと、嫌な選択が脳裏をよぎった。
「魔王とは、アザトースの名で慈悲深くも隠された破壊現象。平等に訪れる死という退廃的な概念に与えられた、混沌と絶望の力。プログラマーが破壊するためだけに作った外なる神の力の結晶。この世界は一日で荒野になる」
「お前は……」
「私は魔王を召喚するためだけに作られたNPC。創造主の願いを叶えるために、魔王を召喚する……みたいなー」
ネムは火の消えた煙管を先端に持ち替え、指先に火を灯してから数回、吹かした。紫煙が扇子の向こうから立ち上る。扇子は常に口元から離れず、器用に片手だけで煙管を自在に操った。
「ふー……うめえ」
「魔王とは――」
「マジ、どーでもいーわ」
ネムがスライムになったようだ。それまでに垂れ流された彼女の悪意、場をこう着させていた雰囲気が緩み、そのまま溶けて消えた。
「……は?」
「あ、騙された? 魔王なんて召喚できるわけないじゃん。つーか、不要な遊びプログラムは削除されてるし、他の連中だって大半がユグドラシル稼働前に消されてる。私なんてまじエグいよ。力の大半を奪われて、意識だけがここにいる。私たちだけここにいるのはなんでだろうね。奇跡みたいなもん……かな。もしかしたら、これもあの人が決めた運命なのかな……」
寂し気に目を伏せた。
アインズは右目に手を当て、もう片方を突き出した。彼女の目的、性質が未だに掴めない。ここまでの会話は何の意味があったのか。意図が掴めないのが彼女の不気味さを際立たせた。
頭が痛くなってきた。
「……待て、状況を整理させてほしい」
「さては綺麗好きだな?」
「コレクターは綺麗好きが必須だ。……そうではない、まず魔王とは何だ」
相手のペースに巻き込まれていた。
「知らねっ」
呆れてものが言えないとは、こういう感情なのだろう。アインズは不死の肉体でも人間に近い感情があるのだと知る。まともに会話するつもりのない相手から、どうやって情報を引き出せばいいのか。
「ネムは死んだよ。彼女の魂は初めからここに無かった。今ごろは天に還ってるよ」
「……貴様が、ネムを殺したのか」
「私は何もしてないよ、失敬な! あ、でも、遺言は聞いたよ。生まれ変わったらお姉ちゃんの子供がいい、だってさ。子供は無邪気なもんだよな」
そういって彼女は空を見上げた。
「ねえ……」
「何だ」
「殺しちゃおうよ、蛇を。そうすれば、彼はどこにもいかず、永遠にあなたの仲間でいられる」
「そうか……お前か」
「あん?」
「お前がぁ! ヤトを壊したのかぁあ!」
アインズから止めどなく漏れ出した殺気を、小さな少女は歪んだ笑みで受け止めた。動揺は欠片も見られず、目だけでアインズを蔑んで嗤う。幾重に重なる哄笑だけが、森の片隅で轟いた。扇子の内側に複数の口を持たなければ、笑い声は重ならない。
「お前、馬鹿じゃん! 別に壊れてねっから。なんでも運営のせいにすんなよな、ったく」
「なら、なぜ奴の心だけあんなに歪なのだ! 一度、壊されて再構築されたからだろう!」
「あほらしい。イグについて調べろよ。あのアバターは執着と報復の神だからな」
ネムは嘘偽りなく真実を語っていたが、アインズの殺気は収まらない。場を治めるには言葉と態度が足りなかった。空気を震わせる彼の怒号が、森の奥まで轟いた。
「私の仲間に手を出すな!」
「きひっ……ひっひひ……あひゃひゃひゃ!」
「何がおかしい!」
「傑作だよ、あんた。笑わせてくれるなよ、腹が捩れちゃうわ。だって……ぷっ……くくっ……その執着心のせいで、蛇は消えるんだからさぁ!」
ネムに乗り移った何かは狂ったように嗤い、アインズは沈黙する。返答の代わりに彼の体から絶望のオーラが漏れ、骨が黒く染め上げられていく。殺意は心に残った人間性を侵食し、止められない憎悪がアインズの色を変えていく。元より表情は窺えない種族だが、暗黒面に呑まれたような彼は赤い瞳以外に何も見えない。
「教えてやろうかあ! あんたは仲間が大事なんじゃない! 楽しかった過去にだけ執着しているから、本当は仲間なんてどうでもいいんだ。こういうのを何ていうか知ってっか?
彼女は哄笑する。
力を得た以外、そこら辺に転がっている浮浪者や社会の屑と本質はなんら変わらないと、魔導国を統べる王を嘲笑う。高笑いは反響し、幾重にも重なって邪悪さを増した。背骨がへし折れるほど体を折り曲げながら、顔の下半分を隠したネムは笑い続けた。目が限界まで細められ、扇子越しに大口を開けているのがわかる。
「ん? どうしたぁ? なんとか言えよ、魔導王様」
「何をした」
「あん?」
「あいつに何をした」
「ふふんっ、別にぃ、何もしてないしぃー。………私はな!」
扇子が傾き、見開いた両目でアインズの心を覗いた。
「私以外が奴を唆して、人柱にしようとしてんのかもしれないけど」
「………殺してやる」
「はぁ!? もっと大きな声でえ! はい、オーバーロードの、発狂するとこ見たーい! 見たぁぁいぃぃぃ!」
「殺してやる! 貴様が何者かなどどうでもよい! そんなに死にたいのならお望み通り、殺してやる!」
「そんなに大事なものなら簡単に放り出すんじゃない!」
「放りだしてない!」
「放りだしただろーよ、今日は帰れって。あいつの家に連絡してみろよ。もういないから!」
「っ!」
アインズは怒りに任せて杖を振った。しかし、身軽な動きでネムは跳び、何事もなかったかのように遠くへ着地し、煙管をふかした。
「ふー……」
やりきれない後悔は、ヤトを一人で家に帰してしまったこと。二度と会えない事実が、アインズの心を一撃でいともたやすくへし折った。地に伏し、アインズは首を垂れる。持っていた杖が木片に当たって乾いた音を立てた。
絶望に打ちひしがれるとはこういう状況なのだ。
「頼む、私はともかく、あいつには何もしないでくれ。これから子供が生まれるんだ。やっと暖かい家庭が手に入るんだよ。リアルに捨ててきた家庭が……だから」
「だから?」
「助けてやってくれ。何でもする」
「ふー、やれやれ、仕方が無いなぁ、もう世話が焼けるぅ」
ネムはゆっくりと距離を詰め、屈んでアインズの肩に手を置いた。
「じゃあ、これから言うことをすぐにやって。本当は私がしようと思ったことなんだけど、あとは私が何とかしてあげるから」
「……」
「カルネ村に住んでいる生き物全部、皆殺しにしてきてよ。そうすれば蛇は帰ってくるよ。あなたは魔導王じゃなくて魔王って呼ばれるけど、大蛇は帰ってきて今まで通りって感じになるから」
「……」
「ね? この村があんたを崇めているうちに殺せば、敵対する前に幸せに死ねるんだよ。人間なんて、所詮は猿と変わんないんだから。どうしょうもない馬鹿で、屑で、下衆なんだよ。あんたの友達が友達じゃなくなっちゃう前に、皆殺しにして蛇を呼ぼうよ」
「俺の……友達じゃ……なくなる?」
「そうそう。銀の門を開く人柱の魔法が動き出したら手遅れだよ。でもね……先に忠告するけど、子供が生まれたら、あんたなんかどうでもよくなっちゃうけど、いいの? だって、蛇さんはかつての仲間なんかどうでもいいと思ってる。あなたがここまで執着してるのに、彼の本心ではどうでもいいと思っている。だから、ね? 殺しちゃおうよ、今のうちに」
「だめだっ!」
徐々に殺す対象が村人から蛇に移っていく。アインズは大袈裟に首を振った。彼女の囁きは耳から入って心の一番深い場所、純粋にして原始の感情が仕舞われている場所へ浸透していく。それでも仲間への執着心は凄まじいもので、生者への殺意を仲間への執着心に変えた不死者の心は簡単に懐柔されない。
「しょうがないなぁ、じゃあこうしよう。蛇の家族を皆殺しにしよう。だって、蛇神イグって人間への愛情なんかないんだよ。執着心で家族を持ってるんだから。本当は妻を愛してないなんて知ったら、今度こそ本当に壊れちゃうよ。今まで愛している振りだけして、それっぽく振る舞っていたなんて、22才の若者には耐えられないってば。彼が真実を知ってしまう前に、殺しちゃおう。あなたが悪者になって、彼の心を守ればいいんだよ」
「俺が……ヤトを守る?」
「これまでだって、あなたはそうしてきたでしょう。かけがえのない友達を守るために、かけがえのない彼の家族を殺すの。大丈夫だって、外から入り込んだ異形種の犯行に見せかけちゃえば。どうせ蛇は蘇生魔法が使えないから、蘇生が拒否されたってことにすればいいじゃない。あなたが彼の家族になるの。ただの友達から、本当の家族に」
「家族……」
その言葉はアインズの奥に埋め立てられた何かを掘り起こす。徐々にアインズの思考は他者の意志を以て揺らいでいく。
「あなたの家族は、NPCなんかじゃないでしょう? 同じプレイヤーでなければならない。肉欲を満たす妻は別にして、彼こそがあなたと同じ境遇の家族。現実世界であなたが手に入れられなかった家族。繋がり合う、かけがえのない心の欠片、己の半身」
「心の……欠片」
「私は間違ったこと言ってないよ? あなたにとって、大切な人を一人だけ選ぶとしたら誰? 誰があなたのために命を懸けてくれるの? 誰があなたの幸せを作ってくれたの?」
「ヤトが……結婚し、仲間への執着を止めろと……」
「そうでしょ? 彼は苦しんでいる。二度と仲間は帰ってこないと知りながら、それでも執着を止められないあなたが悲しいと思っている。もう、どうでもいいじゃない。あなたや、NPCを、ユグドラシルという過去そのものを捨てた仲間なんて、友達でも何でもないよ。みんなで作り上げたナザリックなのに、簡単に捨てちゃった裏切り者なんて放っておこうよ、ねえ?」
「違う……みんなは……俺のなか――」
「だって、誰も来なかったじゃない。ユグドラシル最後の日に」
「……そうだ、誰も来てくれなかった。しかし……みんな生活が――」
「あなたも同じだよ。蛇も同じ。生きているから生活がある。それなのに、大変な生活をしているのに、蛇だけはあなたに会うために来てくれた。あなたが必死で守ったギルドに、蛇だけは最後の日に来てくれた。彼だけがあなたの仲間で、本当の家族だよ」
「……」
アインズの心の砂漠に建設された楼閣。地盤を山崩しゲームのように削られ、基礎が揺らいでいき、塔が傾いていく。過去への執着心が壊れ、別のものに書き換えられていくのがわかった。彼女の声は心の奥へ浸透し、作為的に心の方向性が定められるのを止められなかった。
彼女の言うことは出鱈目ではないのだ。
「ねえ、蛇の家族を殺しちゃおうよ」
「蛇の妻を……殺す」
「彼はあなただけを大事にしていればいい。永遠に、あなたの仲間であり続ければいい。それこそが彼の命題なんだよ」
「永遠に俺の仲間になるために……」
「だから、殺そう? 彼が王都にいない今じゃないと機会はないよ。執事を退室させて、あなたが行けばいい」
「……っ!」
回避は間に合わず、ネムの首は空中高く舞い上がり、胴体と永遠に別離した。どさっと軽い音でネムの頭部が落下する。アルベドを初めとし、デミウルゴス、パンドラが殺気立って木陰から現れた。
「御方をたぶらかす忌々しい異形が……死では生温い」
歯を食いしばって恨みつらみを漏らすアルベドに対し、ネムは忌々しそうに首だけで文句を言った。
「あーあ、暇潰しに全部ぶっ壊そうと思ったのに。邪魔しちゃだめよ! だめだめえ!」
デミウルゴスの腕が膨らみ、喋り続ける彼女の頭部を粉砕した。肉片が周囲に散らばり、アインズの脚にかかった。それで彼は復帰する。
「……私は……何を」
「アインズ様。騙されてはいけません。下等な人間であろうと、御方の妻であらせられる人間を殺してはいけません。たとえ愛情がなく、執着心だけであろうと、それが何なのでしょう。蛇様にはラキュース、レイナース、そして御身が必要なのです。私だってそうです。アインズ様のコレクションとして愛でられ、そこに愛情がなかったとしても、私は一向に構いません」
「アルベド………そうか……そうだな……そうだったな。私は何をしようと、いや、こいつは私に何をさせようとしたのだ」
「アインズ様とヤトノカミ様の対立でしょう。それも、致命的な決別を狙ったのかと。プレイヤーの全力衝突は世界の危機です。全ての種族を巻き込んだ世界戦争が始まります」
「私としたことが……」
「アインズ様……」
(それでも私は……仲間など帰ってこなければいいと思っています)
アルベドの囁きはアインズの耳に拾えない。復帰したばかりで五感の反応が鈍かった。
「アルベド、ネムに乗り移った何かが正体を現しますよ」
大木の
「あーあ、異形種が人間の少女を殺しちゃったね。これは第一次魔導戦争かな? 結構、気に入ってたんだけどなぁ」
「黙れっ! 発言は許可していない!」
「よくも私を騙してくれたな」
アインズとアルベドは憎悪を持って対峙する。しかし、彼女の悪意は揺るがない。涼しい顔をして煙管を拾って吹かした。
「ふー……騙そうとしてない。真実だよ、お馬鹿ちゃん。あんたはさほど仲良くないゲーム仲間に執着してる。他人の心を顧みない、どうしようもない屑でしょ」
「口の利き方に気を付けてください」
珍しくパンドラが激昂していた。軍服の上着を風に揺らし、女性の喉元へ細剣を突きつけた。
「アインズ様の幸を願うは我らの役目。あなたのような外道に、アインズ様を誑かせたりはしない。我らは栄光あるナザリック地下大墳墓の参謀。あなたにとっては取るに足らないものだとしても、私たちはその役目を全うするのみ!」
「道具じゃん、あんたらNPCは」
「だから何だというのです! アインズ様から顧みられることなく捨てられようと、我らはナザリックの栄光を守り、大墳墓を守護する墓守! 作られた理由! 成すべき命題! そんなもの、我々には関係ない! 敵対者を撃滅し、栄光あるナザリック地下大墳墓の繁栄に身を尽くすのみ! 我らを慈悲深く見守ってくださったアインズ様への無礼、これ以上は見過ごせない!」
「パンドラ……」
アインズは自分で作っておきながら、パンドラの内心を初めて聞いた。動き回るたびに精神の沈静化を必要とする彼を、親身に理解しようとする心遣いはなかった。恐らく、隣で眉間に青筋を立てているデミウルゴスも同じなのだろう。設定を覚えていた自負で、真剣に彼らと向き合っていなかった自分を悔いた。
デミウルゴスは敵を滅ぼそうと魔法詠唱を始めた。アルベドが制さなければ、黒い淑女の頭上に隕石が落ちていた。
「アルベド! なぜ止めるのですか!」
「落ち着きなさい、デミウルゴス。こいつは情報を全て吐き出していないわ」
「さっさと殺してしまえばよろしい。何かが起きているのであれば、僕を総動員して世界を調べ尽くせばいい。アインズ様こそ絶対にして唯一の神。我らは鋼鉄の意思を以ってアインズ様へ忠誠を誓う僕。創造主と敵対することになろうとナザリックの敵は滅ぼすのみ! 害意を以て対峙するこいつを、生かしておく理由は存在しない」
「結論を出すには早急すぎる。こいつは、プレイヤーかそれに準ずる存在。聞かなければならない情報をまだ持っている。それに、彼女は敵対するのを止めている」
「その保証がどこにあるっ!」
デミウルゴスは怒りを露わに両目を剥き、
「デミウルゴス。創造主よりも私を優先するとはどういうことだ」
「アインズ様。私はヤトノカミ様より、維持すべきは創造主への敬愛ではなく、アインズ様の幸福とナザリックの栄光だとご教授いただきました。至高の41人に名を連ねる御方がそうおっしゃったのであれば、我らはそれに準ずるが宿命」
「……ウルベルトさんと戦うことになってもか?」
「我らの
「……」
忠臣の彼は、ウルベルトと再会したら否応なしに彼の専属従者になると思っていた。それを振り払うまでの覚悟は、きっと彼を苛み、苦しめただろう。
アインズは感情を抑制した。
「茶番だね。あんたもそう思わない?」
顔を向けられたアルベドから殺意が漏れた。
「気安く声をかけるな、外道が」
「まぁ、そう言うなよぉ。ねえ、あんたはどう思う? かつてのゲーム仲間なんてどうでもいいと思ってない?」
「……私は、アインズ様だけいてくだされば、他の帰還など二の次でいい」
「アルベド……皆はナザリックを捨てたわけでは――」
「わかっています!」
アルベドの大声で全員が止まった。前髪が垂れて彼女の目は見えない。歯を食いしばっている表情が、彼女の苦悩を教えた。
「捨てられたのではないにしても、アインズ様に寂しい思いをさせたのは事実。どれほど苦しんだのか、私は玉座の隣という至近距離で見続けてきたのです。アインズ様が真に幸福になるために、至高の41人が必要だと誰よりも私がわかっているのです! しかし、その心に付け入り、アインズ様を悪意で利用しようとするこいつは、我らが滅ぼします!」
「あーらら、随分と嫌われちったねぇ」
アインズは胸がすくような気分だった。
彼らがどれほど苦悩し、この結論に至ったのか想像に難くない。NPCが自由意志を得て、プレイヤーと対等の立場に立とうと思ったらどこかで最後の一線を越えなければならない。
(これもヤトのおかげかもしれないな……)
国を早期建国したのも、アルベドとイビルアイを娶ったのも、自分の
それがわかったところで、遅すぎる。
「さあ、知っている情報を話しなさい。無為に時間を消費したくはないの」
「わかったわかった」
彼女は片手だけで
「なぜ扇子で口元を隠している」
「口元を扇子で隠さないとこの美貌が崩れんだよね。私の創造主はひでーひねくれもんでさ。口元を隠さないと、体重600キロの肉塊になるよ? とんでもなく臭いけど平気?」
「遠慮する……」
「だよねー」
突きつけられたパンドラの剣を躱し、彼女はアルベドの前へ歩み出た。霧が揺らぐような所作と未だ得体の知れない彼女の正体に、全員が身体を固くした。
「あんたとサシで話がしたい。受けてくれるかしら、オホホホ。怖いならいいのよ?」
「デミウルゴス、パンドラ、アインズ様を連れてナザリックへ。こいつは、私が相手をするわ」
当然、誰も賛同しない。
「……アルベド、やめろ」
「アルベド! なぜそのような話を受けるのですか! こいつが悪意ある存在だと、既に立証されているでしょう!」
「ここは全員で確実に彼女を詰問し、確実に存在を抹消すべきです!」
アルベドは冷静に諭した。
「安心して。彼女は全てを話すつもりでいるわ」
「あんたにだけなら、話してあげる。なんか感じるところがあるから。種族でも、女としても、ね」
「アインズ様、ナザリックに御帰還を。監視はお願いしますわ。たまには、正妻にも働かせてくださいませ」
「………交戦は認めない。それでもいいか?」
扇子は小馬鹿にして笑った。
「安心しな、あんたの大事な、大事な、コレクションには指一本触れないよ。今の私には話をするだけの力しかないからね」
「アルベド、必ず帰還しろ。そして報告をするのだ。デミウルゴス、パンドラ、ナザリックへ帰還する。両名、何も言わずに付き従え」
早急にアインズは転移ゲートを開き、二人を連れて潜った。
「それで、どういったことをお話しくださるのかしら」
彼女の両目が歪んだ。
◆
彼女は話を始めない。
どういう理屈でやっているのか不明だが、アインズが監視を始めるまで待っている。それを悟ったアルベドは、
「さて、頃合いだ。私が何者か、私の目的は何か、それはあまり重要じゃない」
「そう」
「納得するんかい」
「ええ、私もそう思うの。あなたの最終目的は不明だけれど、リィジー・バレアレを殺害した理由は、私たちをおびき出すこと。アインズ様と蛇様を戦わせ、世界を破壊することでしょう?」
彼女は素直に受け入れ、嬉しそうに目を細めた。
「暇潰しも兼ねたプレイヤーの呼び出しだよ。魔王なんかいない。私にはわかる。デバッグの裏に隠されたアバターは全て消されたのに、私たち三人だけがここにいる」
「他の二人は何をしている」
「一人は死んだよ」
「復讐というわけね」
「違う違うってば! 別に仲間意識とかないから! 自殺みたいなもんだし」
「わからないわね……あなたは何がしたいの?」
「……」
沈黙。
それまで産業廃棄物のように垂れ流された悪意は露と消え、寂しそうな女性がそこにいた。目に浮かんでいる感情は、喪失。それが何を意味するのか、アルベドは把握した。
「あなたも、設定された愛情が満たされずに苦しんだ、というわけね。あなたの愛する誰かはどこ?」
物憂げに空を見上げ、何かを目で追っていた。
視線を空へ固定したまま、彼女は話を続けた。
「シンデレラ・コンプレックスって知ってる?」
「全ての女性は、白馬の王子様を夢見る傾向にある。いつか王子様か、それに準ずる男性が現れると、理想が際限なく高まっていく心理」
「あんたの旦那は灰かぶり姫だよ。決して会えないと知りながら、執着心を捨てられない。
言われなくてもわかっていた。
「
「
互いに笑みが漏れた。
「やるじゃん。オペラ座の怪人を引用し、同じ引用で返したね」
「知性が高くあれと作られた女を舐めないでほしいわね」
「はは……。ねえ、愛せよと作られたのに、愛する対象が消えたらどうする?」
「……探すわ」
「どこにもいないとわかったら?」
「それでも探す」
「じゃあ、探しつくして、自分なりに無理だとわかったら?」
「……」
「それが今の私」
アルベドは掛ける言葉を失った。自分がそんな状況に陥ってしまったら、死を選ぶか、あるいは憎悪の怪物となって世界の全てを羨み、妬みながら破壊するだろう。
「本来、消されるはずの私が自由意志でここにいる。だけど、果たすべき役目はない。その対象が世界のどこにもいない。創造主のために果たしたい役目、代理愛は叶わない。これって、存在意義の崩壊よね」
彼女の姿が揺らいだ。霧のように緩慢な動作で、気が付けば至近距離に迫っていた。アルベドのドレスの胸倉を片手で掴み、引き寄せて顔を突き合わせた。
「私を見ろ! 私はあんたか、あんたの旦那が行きつく未来だ! 男の灰かぶりはありもしない理想にこだわって愛を捨て、平然と女を利用する! あいつらにとって愛なんて夢と理想の寄り道だ。女はいつでもそうやって希望の残骸に埋もれ、イカれてきたんだ!」
「っ……放しなさい!」
あっけなく彼女の手は離れた。手に力は込められていなかった。アルベドは乱れたドレスを正し、目を伏せている彼女を眺めた。捨てられたNPCというよりは、利用されて捨てられた女性に見えた。
「馬鹿だね、男って……本っ当に……馬鹿。私の最終目的は、蛇を人柱にして門を開くこと。門にして鍵、一にして全、全ての次元に存在できるあの人は、この世界が始まる前からきっと、全てに繋がり、どこにも繋がっていない場所にいる。それが叶わなければ、今度こそ世界を壊してやる」
「あの人?」
「私は黄色い阿呆が何を考えてんのか知らない。門さえ開ければ、私は何だって構わない。ここを死都にしておびき寄せ、門を開かそうと思ったのに、あいつは馬鹿なりに悪巧みをして動いてる」
「黄色……? あなたたちはいったい、何者?」
「自分を押し殺すということは、答えを他人任せにする。何を犠牲にして何を得るのか、その時がくるまでよく考えなさい。未来と敵は一つしか選べない」
「質問に答えなさい!」
「あんたは、愛のために愛を捨てられる?」
「もう、わけがわからないわね……」
アルベドの問いかけには答えてくれないが、なんとなく重要であるような情報が与えられる。彼女の言葉はアルベドの心で妙に引っかかった。
言葉を咀嚼していると、彼女の足元が黒い霧になって消えていく。
「待ちなさい。まだ話は済んでいない」
「ネムの友達は、無垢な悪に染めておいたから、殺しといた方がいいよ。彼らは世界平和のために人を殺す
「待ちなさいと、言ってるでしょう!」
伸ばした手は空を切った。彼女の胴体は霧になって闇に紛れていった。
「愛とはかくも痛く、貪欲なものですね。存在しない方を愛し続けるのは……辛いですよ……きぐないい……すふるくーんぐは……きぶすーく……にゃるら……とほ……てぷ……よ……ぐそ……とうす……ほうとふ……」
理解できない言語体系の呪文の意味は分からない。しかし、今わの際ははっきりと聞き取れた。
「2日後……カッツェ平野で……」
彼女は消え去った。恐らく、言いたいことを言いきったのですっきりしたのだろう。死というよりは、隣の世界へずれたような消え方だ。言いたい放題、やりたい放題して何の報いを受けることなく消えた。アルベドの心に怒りや憎しみ、不快感はない。どことなく感じた僅かな共振は、女としての理想への渇望だ。
魂を歪める囁きで、アルベドの魂の形が変わっていく。それを知りながら、アルベドは甘んじて受け入れた。元から歪んでいる自分が歪んだら、どうなるというのか。
「……馬鹿な女」
言葉ほど蔑む色はない。アルベドはもし自分の愛が報われぬまま、アインズがどこかに消え失せたら、自分も彼女のように世界を破壊しようとしたのだろうかと、あらぬ想像をする。アインズが背後から歩いてくるのさえ、想像に没頭して肩に手が置かれるまで気が付かなかった。
「アルベド」
彼女の体が跳ねあがった。
「あ、アインズ様、忍び寄って私になにを」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……その」
アインズは人差し指で頬をぽりぽりと掻き、アルベドの頭を撫でた。
「アインズ……さま?」
「よく頑張ったな」
これが普段の出来事であれば、そのまま素直に抱き着いていた。アインズもそれを想定して身構えている。しかし、それを素直に受け入れられるような思考にはない。未だ、ヤトが巻き込まれた何らかの事象は歯車を動かしている。
「ありがとうございます」
「あ……ああ、いや」
素直に頭を下げたアルベドに、アインズは特大の疑問符と拍子抜けした態度を表す。アルベドは夫の可愛げのある態度に笑った。
「アインズ様、どうしてこちらに」
「……気になったから来たまでだ」
「しかし、御身に危険が」
「お前も私の妻だろう」
「ありがとうございます。どこからお聞きになっていらっしゃいましたか?」
アインズは幸いにもオペラ座の怪人の下りからしか聞いていなかった。
「ナザリックに帰還する余裕はない。2日後にカッツェ平野に行くが、その前にネムの死亡、子供たちの記憶を消さなければ。今日中に終わらせ、MPの回復に努めよう。記憶の魔法は燃費が悪いからな」
「パンドラとデミウルゴスはどちらへ?」
「カッツェ平野を探らせ、ヤトの邸宅へ使者を放った。万が一、奴を見つけたら張り付かせるためにな。カッツェ平野は霧が濃く、探索は手こずるそうだ」
「そうですか。カルネAOGを守護した方が良いかもしれません。彼女の言った“門”が何を表すのか不明ですが、失敗したら再びこの地へ現れるでしょう」
「エンリにワールド・アイテムを貸し与えた。魔導国に反乱、戦禍を招くのであれば、この地は避けて通れんからな」
それは流石にやり過ぎだと思った。用心深さが却って仇になることもあるが、アルベドは指摘しなかった。エンリなら価値の高いアイテムを崇めることはあっても、むやみやたらに使用するとは考えにくい。
「参りましょう、アインズ様」
「ああ、ヤトを助けなければ」
話を聞いたエモット家の人間は、ネムの死を聞いてもさほど取り乱さなかった。突然の心身喪失、同時期にリィジーが殺害され、アインズが村を訪れるなど何か起きない方がおかしい。
泣き崩れる母親とエンリの号泣を背に、父親は血が出るほど歯を食いしばって涙を堪えた。何もできずに済まないと謝るアインズに、彼らは何も答えなかった。リィジーの隣家に住んでいた少女の手は犯人の手形と一致し、彼女とその友人数名はここ数か月の記憶を抹消された。早急にネムの葬儀に取り掛かり、村は静かに平穏を取り戻すだろう。
この国では、翌日も必ず朝日が昇る。
数年後、エンリとンフィーレアはめでたく結婚し、間に生まれた子供はネムと名付けられた。彼女が冒険者になるのは、まだまだ先の未来だ。
カッツェ平野の霧が晴れるころ、アインズの不安は現実のものとなる。
ヤトは霧の中、長い夢を見ていた。
補足
アインズさんの剛運とは、全てを都合よく運びます。私たちのいる世界にも影響を及ぼし、ダイスの目を彼の都合の良いものに変えてしまいます。彼のお陰で、この章の根底が変わってしまいました。彼女の言う通り、真実が何かは重要でなく、何を捨てて何を選ぶかの取捨選択こそ重要なのです
次回予告
哀歌に儚く揺蕩い消える、あなたの
アインズが回避した最悪の未来は、新たな逢魔と約束の刻限、蛇の宿命、未だ回避できず
重要なのは解答ではなく、そこに至るまでの過程と決意、叶わぬなら死もまた止む無し
今は遠く、手が届かぬ平和とは、目を背けたくなる必然で悲しい未来
誰が為に
次回、「旧支配者のレクイエム」
第7話、「嘘吐きハスターと夢見るイグ」
「問う。友、夫、父、どれを望む」
あなたなら、どうする。