モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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――猿の手の補足――

 おとぎ話で頻繁に徴用される、複数の願いを叶える道具の一種だが、その歴史はまだ浅い。イギリスの小説家が1902年に短編小説として発表した同タイトルに登場したのが初出とされ、以後、多数の怪奇小説に登場し、怪奇短編、アンソロジーなどに登場してきた。おとぎ話と大きな差がある点として、代償が非常に重く、趣味の悪い冗談(ブラックユーモア)や皮肉も混じる。使用者の大多数が幸せになれない魔法の道具。

魔導国編「骸骨の重婚可決宣言」参照




泣いた赤蛇

 

 

 ヤトが効果も知らずに三人で使い回した猿の手も、今となっては偶然を騙った必然である。ヘロヘロがヤトの妻と顔を合わせていれば、番外席次の蛇への執着心が愛情に変換されていれば、宝物殿からヘロヘロの装備品を持ち出すソリュシャンを見てシズ・デルタが何かを察知していれば、あるいはこんな展開にならなかったかもしれない。

 

 運命は大蛇の思惑に則って動き始める。

 

 この広い世界で、誰よりも早く異変に気付いたのはセバスだった。

 

 ラキュースとレイナースの談笑する声が寝室から聞こえてくる夕刻。警護役のセバスは扉の前で佇む。室内から物音が聞こえなくなってから異変に気付く。ついさっきまで聞こえていた声だけでなく、足音さえ聞こえてこない。セバスが入室を躊躇っていると、窓ガラスが割れる音が聞こえた。

 

 事を荒立てるのを嫌う彼も、流石にここで動いた。扉を開いて入室すると、二人の女性は糸が切れた人形のごとく力を失って倒れていた。レイナースは床に横たわり、ラキュースはベッドから這い出すように絶命していた。ラキュースに駆け寄って抱き起こすと、顔は驚愕の表情で固まっていた。死後硬直は始まっておらず、体は柔らかかったがぞっとするほど冷たかった。

 

 セバスの心臓が激しく波打つ。瞬時に脂汗が吹き出したが、それを拭う余裕はない。彼女らを警護せよと命じられた自分が責務を果たせないなどあってはならない。これから生まれてくる新たな命まで失ったとあれば、自分の首を献上したとしても償えるものではない。

 

 彼の怒号は屋敷を震わせ、近隣の家屋にまで届いていた。

 

「だっ誰かあ! 誰か早く!」

 

 エイトエッジ・アサシンが背後に降りた。

 

「ナザリックに転移ゲートを! お腹の子も、ラキュース様、レイナース様も一人も死なせはしません! 絶対に救わなければ!」

「御意」

 

 ナザリックは運び込まれた二つの死体で、蜂の巣をつついたように忙しくなった。

 

 最後の舞台の幕開けは、大蛇の与り知らぬ場所で始まった。

 

 

 

 

 霧で覆われたカッツェ平野の外で、アインズの叫びが轟いた。

 

「まだヤトは見つけられないのか」

 

 声こそ平静であったが、身に纏う空気がささくれ立っていた。髑髏の眼窩に宿った赤い光が、デミウルゴスの背に突き刺さっていた。

 

 アインズと参謀三名は予定通りに2日後、カッツェ平野を訪れた。霧の中を必死で捜索しても、濃霧に身を隠した大蛇は発見できなかった。時間の経過とともにアインズは焦る。逢魔が刻も過ぎ去って、黒い夜が赤い空を覆いはじめ、星辰が配置を始めた頃、平野をドーム状に覆う霧に変化が起きた。

 

「アインズ様、霧が――」

 

  霧は静かに渦を巻き、中心部へ向かって吸い込まれていく。そう遠くない場所で獣の咆哮が聞こえた。およそ人間の言語で表現不能な、外敵に向ける魔獣の雄叫び。霧が何かに吸い込まれて領域を後退させ、雄叫びの主が見えてくる。中心部にそびえ立つ銀色の門は霧を飲み込み、薄くなった霧に浮き上がる影は大蛇のそれだ。

 

 アインズは友人へ駆け寄った。

 

「ヤ……」

 

 すぐに足が止まる。変わり果てた姿にヤトか確信が持てず、呼ぼうとした名前さえ躊躇した。霧の晴れた平野、そびえる銀色の門を背景に、大蛇はそこに立っていた。

 

 黄金に輝くマントをたなびかせ、顔の左半分に白仮面をつけた大蛇。逞しい両腕は大鎌を掴んでいる。致命的に違うのは、マントの下から這い出ている大量の触手。それぞれが無秩序かつ縦横無尽に地面を殴りつけ、出鱈目に蠢いていた。右目が赤く光っていたが、虚ろな目はアインズなど見ていなかった。

 

 ――邪神。

 

 姿を目撃した全員がその言葉を思い浮かべた。

 

「ヤト……?」

 

 アインズの動きが止まったのは誰の目から見ても正しい判断だった。それは敵の想定通りで、大蛇はその隙を逃してくれなかった。

 

「アインズ様!」

 

 アルベドの声で朦朧とした意識が覚醒する。時すでに遅く、邪神は走り出している。走る大蛇よりも速く、全ての触手が大きく伸び、アインズに巻き付いて拘束した。魔法を詠唱しようとしたアインズ目がけて、大鎌が放り投げられる。空気を切り裂く音を上げる大鎌を、体を捩って杖で弾いた。黄金の杖と大鎌が衝突し、頭蓋の中まで重たく響いた。

 

「っ……」

 

 気がつけば、顔の半分に白仮面をつけた大蛇が目前にいた。攻撃を予想して白骨に鳥肌が立つ。大蛇は武器を使わず、ただ両手を合わせた。

 

「《次元隔絶(ロックドイン・0ディメンション)》」

 

 ぱんと合掌の乾いた音が鳴り、得体の知れない魔法詠唱が聞こえた。触手に絡め捕られた自分の左右から緑色に透き通ったガラスが現れ、素早い動きでアインズを挟んだ。ガラスとガラスの間に薄っぺらい空間が発生し、アインズは身動き一つできない空間に囚われた。無事に捕獲したのを確認して、邪悪なものが嗤った。

 

「げっははははあぁぁぁ! 捕らえた。敵、アインズ・ウール・ゴウン、つかまえた!」

 

 蛇は体がへし折れるほど頭を後ろへ下げ、大口を裂けるほど開いて嗤った。自分を拘束していた触手はいつの間にか消えていた。アインズがどれほど身動きをしようと、異空間に囚われた彼に指先一つ動かせない。大蛇の装備していたマントがふわりと風に舞い、蛇から離れていった。白い仮面が剥がれ落ち、いつものヤトが立っていた。興味がなさそうにアインズを一瞥し、首を振って周囲を窺う。

 

「……なんだ、もう終わったのか」

「ヤト? お前はなにをしているんだ」

 

 幸い、アインズの口だけは動いた。

 

 ヤトは答えず、暗い声で誰かに言った。

 

「さっさと始めろ」

 

 アインズの視界が黄色に覆われ、黄色いマントに体を包まれたと気付いた。意識はどこかへ飛ばされた。しばらく、何も見えない闇が続いた。

 

 放り込まれた闇の中、自分の体の奥から大切な何かが失われていくのを感じる。魔法は顕現せず、どれほど抵抗しても何もできなかった。諦めて闇に目を凝らせば、暗闇の奥から淡い光が見えてくる。

 

「ヤト?」

 

 人間形態のヤトが、跪いて涙を流していた。

 

「違う……ヤトであってヤトじゃない」

 

 顔面の片方が爛れ、白濁した隻眼の青年は、どこから見てもヤトであったが、全体を纏う気配が違っていた。並行世界のヤトという回答が浮かんだ。

 

「アインズさん……俺はっ……ぅぅっ……うああああああ! 俺だけが救えたのに! 俺だけがあの人を幸せにできたはずなのに!」

 

 誰が誰のために泣いているのか、泣き声を聞くだけで十分に把握できた。彼の前にある鏡の中に何が映っているのかは見えない。ヤトらしき青年は自分の顔を書き毟っていた。左の傷痕から出血し、白濁した目が赤く染まった。左目から血の涙を、右目から透明な涙を流し、号泣していた。

 

「あぁ……あああ! 俺だげが! 俺に‟じがでぎながっだのにいい!」

「ヤト……どうしてお前が泣いているんだ」

 

 青年は上空に向かって叫び、聞いたことない呪文を詠唱した。

 

「モモンガさんの未来を変えたい。世界をやり直したい。仲間を呼び戻し、世界のイベント全部をやり直したい! 最後に敵のいない世界が欲しい。モモンガさんが永遠に幸せな世界が欲しい!」

「……」

 

 言葉に詰まっていると、意識が暗転した。

 

 

 

 

 私は何を見た。

 

 僅か数秒、アインズ様は妙なマントを装備したヤトノカミに囚われた。薄いガラスに挟まれて身動きできない御方の全身を黄色いマントが覆い隠した。ヤトノカミはそれを監視している。背後でデミウルゴスとパンドラが騒いでいる。アインズ様とヤトノカミが敵対しているが、この場合はどちらに付くべきかを議論しているのだ。

 

 

 私にはわかる。

 

 

 大蛇はアインズ様と敵対はしない。彼の歪んだ考えと独特な思考は、プレイヤーを通り越してNPC寄りの友愛だ。私は彼の意思を確かめようと、背後で制止する声に構うことなく、ヤトノカミに近寄っていった。《真なる無(ギンヌンガガプ)》を携え、すぐに行使できるように強く握った。

 

 すぐに彼は私に気が付き、口を歪めて私を見た。その表情に敵意はなく、古い友人を見るようだった。

 

「アルベド、俺は選んだよ。アインズさんの未来を」

「詳しくお聞かせ願います」

「結局、アインズさんが一番幸せなのは、大多数の仲間が戻ることだよ」

 

 その通りだ。

 

 この問題は、ヤトノカミと交戦し、アインズ様と情交を重ねてもなお、私の胸の奥深くで燃えていた。アインズ様の望んだ未来とは、至高の41人の帰還。それも一人や二人ではない。ナザリック制作より以前から時間を共有していた仲間を含め、大多数が帰還しなければならない。

 

 それと相対し、自分でも執拗だと自覚しながら、私は仲間など戻って来なければいいと考えている。アインズ様がNPCに心を許し、我々を家族と認めて共に歩んでいただけるのなら、この命を犠牲にしても構わない。

 

 そうなれば、全てのNPCが幸福に統治され――

 

 

 ――全てのNPCの幸福とは何だ?

 

 

 アインズ様に尽くすだけで満足とは、アインズ様だけしかナザリックに残っていない前提の発言だ。ナザリックにおいて、私を除いた全てのNPCは自身の創造主に再会し、忠誠を尽くしたいと思うはずだ。現に、シャルティアはペロロンチーノがいつか帰ってくると信じて疑わない。創造主に会いたくないという発言は、アインズ様へ気を使った建前に過ぎない。ナザリックの全てが幸福になるためには、至高の41人の全てが帰還しなければならない。それはアインズ様の願いと直結している。

 

 ヤトノカミはどちらを望んだのか、考えるまでもない。知性の低い彼がそこまで私の思考を見越したとは思えないが、タイミングよく大蛇は声をかけた。

 

「お前は俺に協力するか、俺と敵対するか選べる。できれば、お前と戦いたくないんだが……」

 

 私が敵対する可能性が高いと考えている。それも当然だ。同じ問題で以前に殺し合いをしているのだから。十中八九、私もそうなると思っている。

 

 ――何かが引っかかっている。

 

 私は迷いを口にしていた。

 

「私はまだ迷っています」

「あと一時間足らずで俺はこの世界から消える。せめて、お前と戦わないように願うよ」

「ヤトノカミ様、あなたは何を願ったのですか」

「俺は後悔しない選択だ」

「自分を犠牲にする意味はあるのですか?」

 

 彼は少しだけ考え込んだ。それは自分を犠牲にすることを肯定していると同義だ。やはり彼は、自分を犠牲にして至高の41人を呼び戻そうとしている。私の知らない、未知なる手段を用いて。霧の晴れたカッツェ平野の中心部にそびえ立つ、銀色に輝く門がその手段なのだろう。

 

「……未来を変えたい。自分を犠牲にする方法がもっとも確実だと信じただけさ」

「皆さまを確実に呼び戻せるのですか?」

「ああっと……多分ね。これが一番、確率が高い。何しろ、世界の創造主の力を借りるんだから」

「……そんな不確かな手段を信じたのですか? 相手が何者かもわからずに」

「俺は、俺が後悔しない選択をしただけだ」

 

 彼の顔はこれまで見たどの表情よりも明るく見えた。死の恐怖さえ撥ね退ける決意に満ちたものの顔は、なんと眩しいのだ。プレイヤーの彼にしかできない殉死が、少しだけ羨ましくなった。

 

「まだ……私の答えは出ていません」

「未来は、一つしか選べないからな」

 

 そう。

 

 未来と敵は一つしか選べない。あのとき、彼女のメッセージは私だけに向けられていた。つまり私だけが、未来と敵を一つだけ選ばなければならない。敵対する必要がなくても、敵と定めた誰かと戦わなければならない。

 

 この場合はどうなのだろうか。

 

 明確にヤトノカミはアインズ様へ攻撃した。アインズ様の希望を叶えるとするなら、この場でヤトノカミに攻撃を加え、アインズ様を救い出すべきだ。《真なる無(ギンヌンガガプ)》を握る手に力が入る。

 

 誰かの手が、そっと優しく肩に置かれた気がして振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 

「アルベド?」

「……今はまだ、成り行きを静観いたします」

 

 私は大蛇に背を向けた。

 

「デミウルゴスとパンドラはお任せください。決して邪魔はさせません」

「俺が消えたあと、アインズさんと俺の家族を頼む」

「……それはご自分でなさってください」

「そうか……そうだな」

 

 懐かしいものでも見たように、穏やかに笑った。蛇のくせに穏やかに笑うとは、私が思ったよりも器用なのかもしれない。

 

「アルベド、俺とお前は、ここに来る前から同じ場所で生まれたような気がするよ。配役が違ってこうしているだけで」

「種族に関係しているのかもしれませんね……アインズ様の身に何かあれば、あなたの物語の幕は私が引きましょう」

「幕引きは自分でやるよ」

 

 見上げれば、いつの間にか星々が瞬いていた。今宵は星辰が振るう夜、何が起きても不思議ではないと思わせる、星々が帰還する晩。蛇神ヤトノカミの終焉の刻、世界に新たな神々の到来を予期させる夜。そこにありながら姿の見えない暗黒の新月が、心の狂気を助長させる。

 

 生まれて初めて、私は心の底から湧き上がる穏やかな感情に身を委ね、優しく微笑んだ。つい浮かれてしまい、歌を口ずさむ。

 

Death to the world(ようこそ、死の世界へ). Cthulhu's come(異形の神々がやってきた).」

 

 ヤトノカミが私に合わせて歌おうと口を開いたが、歌詞が分からないようだ。聖歌(キャロル)でも歌うとでも思ったのか。

 

「すまんがその歌は知らん」

 

 歌を止めるのが嫌だったので答えなかった。彼らしさは最後まで変わらなかった。場にそぐわないが、私の胸が暖かくなった。アインズ様はまだ黄色い布切れに覆われて、身動き一つせずに亜空間に囚われている。何ら動揺することなく、鼻歌交じりで大騒ぎしているデミウルゴスとパンドラへ、此度の異変を報告しに行った。

 

 私の鼻歌で議論を繰り広げていた両名は動きを止めてくれた。

 

「アルベド! 鼻歌を歌っている場合ですか! アインズ様とヤトノカミ様が――」

「らしくないわね、デミウルゴス。智将ならば落ち着きなさい。これから私の言うことをよく聞いて、あなたの行動を選びなさい」

「ほう……親愛なる同志でありながら唯一無二の御友人、ヤトノカミ様が――」

 

 パンドラは言葉を切った。その場で一回転し、長い指を私の鼻先に突きつけてくる。

 

「アインズ様と何ゆえ敵対せしめたるかを!」

 

 屹度(きっと)、パンドラを味方に引き入れてヤトノカミと交戦していれば私が勝っていた。この派手な動きに耐えながら真剣な話ができればの話だが……それは難しい。

 

 努めて微笑みを崩さずに続けた。

 

「よく聞きなさい、ヤトノカミ様の誓いと英断を」

 

 私は彼らへ説明を始めた。

 

 

 

 

 ラキュースとレイナースの死で俄かに騒がしくなったナザリック地下大墳墓。どういうわけか、魂がこの世界に初めから存在していなかったかのように蘇生魔法が通用せず、急場しのぎとして腹の中の胎児を帝王切開で取り出す準備に沸いていた。

 

 早産による未熟児へ保育器の作成、清潔な道具の準備、一般メイドが大騒ぎしながら方々を走り回っていた。陣頭指揮を執るニューロニストの怒号が9階層へ轟いた。

 

 埃の落ちていない掃除の行き渡ったヘロヘロの自室。美しい床は光を反射して眩しい。豪勢なベッドが部屋の中央にあるが、そこには誰もいない。

 

「聞こえた?」

「いえ、まだ何も」

「しいっ!」

 

 三名は状況を把握しようと分厚い扉に体を寄せ、廊下の喧騒に聞き耳を立てていた。番外席次の脳にだけ複数のキーワードが引っかかる。

 

「よくわからないけれど、ラキとレイナに何かあったみたい。これは非常にまずいわね」

「ほんとに?」

「どうして蘇生ができないんだって騒いでいるわよ」

 

 親交が厚かった二人の死に、番外席次が動揺しなかったのは彼女からしてみれば至極自然な流れだった。ヤトに何らかの異変が起きて焦ってはいたが、ラキュースとレイナースの死亡は彼女にとって事態の好転ともいえる。ソリュシャンの言葉を借りるのなら、”付け入る隙”だ。

 

「ヤトくんの奥さんかな」

「そうよ。子供はどうなったのかしら」

「子供!? ヤトくんって子供できてたの!?」

 

 ヘロヘロは精神が沈静化されるまでの数秒、激しく動揺した。現実ではどこにでもいる歯車の一つ、一般企業に勤めるしがない三十路のプログラマーだ。女性経験もない自分があっさりと先を越されていた。動揺は沈静化ですぐに収まる。女性経験なら自分も既に済ませているし、冷静に考えたら競う意味がないことくらいわかる。本気で後宮(ハーレム)を作ろうと思えば、自分が制作した一般メイドの三分の一を集めればいい。

 

 振り返ってソリュシャンを見れば、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。しばらくは彼女一人で事足りそうだ。誤魔化すように腕を組んでその場に丸くなり、これからの行動を考えた。番外席次は不思議そうな目で見ていた。

 

「どうして隠密行動しているの?」

「たとえばね――」

 

 ヘロヘロは指を立てて高説を始めた。自慢げに彼の両目がぴかぴかと輝いていた。

 

「この出来事が神、あるいは世界級の魔物の仕業で、彼らが敵だと仮定するよね。敵の正体が分からず、どこで敵に察知されるかわからない現状で、人目を避けて事態の把握をするのは必然だよ」

「ふーん……?」

 

 番外席次の理解は置き去りにされていた。

 

「それに、Cの言い残した言葉、天敵というのも気になる」

 

 丸一日かけて体の修復を行う傍ら、自爆した少女の意図を紐解いていた。結論として、自分は何らかの重要な位置に立たされており、自分だけができる何かがある。表立って派手に動き回るのは愚行に思えた。

 

「とはいえ……俺たちもそろそろ動こう。モモンガさんとヤトくんはどこにいるのかな」

「カッツェ平野だって」

「できれば少し離れた場所で状況把握したい。もし敵と交戦中であれば、俺たちは完璧な不意打ちを仕掛けられるから」

「すぐに手配を致しますわ、少々お待ちくださいませ」

 

 彼らはすぐにカッツェ平野に向かった。

 

 霧に紛れて門の反対側へ到着したとき、事態は混迷へ動き出す。

 

 

 

 

 黄色い布切れが、腕を組んで佇む大蛇の側に降り立った。アインズはいまだ隔絶された次元の狭間に捕らえられている。記憶改変の準備を施された彼は、中空を見上げて呆けていた。ヤトは帰還した相棒、白仮面の黄色いローブに問う。

 

「無事に終わったか? 固まってるけど、本当に記憶だけしか弄ってないだろうな」

 

 仮面でくぐもった声で応じた。

 

《首尾は上々。門が閉じれば望み通りに。施術直後だが、すぐに意識を取り戻す》

 

「あと何分だ?」

 

《50分だ》

 

 ぼけっと間抜けな顔をして待つには長かった。見上げれば夜空に星が並び、月が出ていなくても眩しすぎるくらいだ。これが世界で見る最後の光景なのだと考えると、何の変哲もない、星が綺麗な夜空でさえも感慨深い。新月が闇に覆われているのが残念だ。

 

 アインズが意識を取り戻した。

 

 身動き一つできないガラスに挟まれたアインズは、平野に立つ一枚の絵画に等しい。唯一の自由は話すことだ。

 

「ヤト……お前は……どうして泣いていた」

 

 大蛇は彼に答えない。首を傾げて後ろの黄色いローブを眺めた。なぜ、彼が泣いているヤトを知っているのか。

 

「おい、黄色。アインズさんに何か見せたか?」

 

《不明だ。私は記憶を弄ったに過ぎない。可能性があるとすれば、魔法を行使したお前の意識にでも触れたのだろう》

 

「……おかしいな。今だけは予定通りに進んで貰わないと困るんだが」

 

 アインズの声は叫びとなってヤトへ届く。

 

「質問に答えろよ。誰のために――」

「フン、やかましいわい」

 

 ヤトは一枚の絵画のように零次元へ貼り付けられているアインズへ近寄っていく。それが最悪手とは知らず、黄色い鍵アイテムをその場に放置した。両手を上げて万歳をしているアインズの片手に、鱗が生えた手が重ねられた。大蛇の紳士な瞳で見つめられ、アインズは口を噤んだ。

 

「これで全部、アインズさんの願った通りになる。今は俺に従ってよ、アインズさん」

「お前は、何を」

「世界に髑髏の紋章旗を、ってね」

 

 それ以上、大蛇は語らなかった。アインズは蛇の思惑を必死で探るが、彼の意図は掴めない。右手を離し、腕を組んでアインズをしげしげと眺めた。彼が追い詰められているのは珍しく、追い込んだのは自分だというのだから更に珍しい。しかし、これまで大蛇の想定通りに事が進んだことはない。

 

《ギャアアアア! かか、体がぁぁ……崩れ……て……》

 

 黄色いアイテムの断末魔の悲鳴が聞こえた。

 

 事の大小に関係なく、状況ごとに起きてはならない事象が存在する。往々にして大蛇の間は悪く、最悪のタイミングでそのような事態が起きる。大蛇にしては最悪の誤算、アインズにしては最良の功名。

 

 黄色いローブは緩やかに風に乗って大蛇へ向かった。黄色い布は足元から徐々に風化していき、灰となって風に舞う。ヤトへ辿り着くころには頭部しか残されておらず、その頭部の黄色い布も風に消えた。残された白仮面が、ヤトの足元へぽとりと落ちた。

 

 ヤトとアインズの視線は彼を破壊した者に釘付けだった。

 

「はぁ、ヘロヘロさん……ヘロヘロさん!? うおぇ!?」

「げへぇぇ……マジでぇ?」

 

 黒い波動を身に纏い、眼球代わりのアイテムを光らせ、こちらを見ている黒い粘液生物。なめくじが這うような動作がゆえ、緩やかな足取りで歩いていた。

 

「説明してもらおうか、ヤトくん」

 

 努めて冷静な声だったが、怒っているのがわかった。ヤトはヘロヘロから視線を切り、足元に落ちた白仮面を拾った。

 

「おい、生きてるか、黄色いの」

 

 呼びかけても答えはない。彼は世界級アイテムの性質を持っている。簡単には壊されないと思っていたが、よりによってヘロヘロが相手では分が悪い。何者かに受けた攻撃で耐久力も落ちていた。

 

 やがて仮面も光の粒子となってどこかへ飛んでいった。風神の象徴に相応しき最期だった。

 

「……困った」

 

 腕を組んでどうしたものかと悩む。よりによってヘロヘロがこの世界にいたことに意味があるとすれば何か。自分はこの世界に残って生きるべきかと、一度は捨てた妄想が蘇る。

 

 今なら、謝れば許してくれるかもしれない。

 

『すんません。仲間全員を呼び戻そうと思って、俺は世界から消えようとしました』

『なーんだ、そっか。よかったよー。せっかく俺が帰ってきたんだから勘弁してくれよ、ヤトくん』

『この馬鹿野郎! 俺がお前を犠牲にして喜ぶとでも思ったのか!』

『いてて、アインズさん、痛いッス。ちょっと、苦しいって』

 

(……馬鹿馬鹿しい)

 

 あまりに下らないので、妄想は勝手に途絶えた。そうやって天寿を迎えるまで楽しもうとしても、ヤトは必ず後悔して生きる。それは夢で立証されているし、自分でもわかっていた。

 

「黄色もいないし、ヘロヘロさんは俺より強い……メンドクセ。逃げるか」

 

 (にわ)かに駆け出したヤトに、ヘロヘロが叫んだ。

 

「逃がすな!」

 

 尻尾に十字槍が貫通し、蛇をその場に釘付けにした。他者に急停止させられた大蛇は、顔面をしこたま強く地面に打ち付けた。やや埋もれた顔を引き抜いて、汚れた顔を擦って顔を上げると番外席次が目の前で仁王立ちしていた。彼女は鬼神のように怒っていた。

 

「げ、番外だ」

 

 番外席次の拳が、顔面の右斜め下からめり込んだ。右フックを食らい、蛇の赤目から火花が出た。黄色いアイテムが壊れたことでアインズの拘束魔法がほどけていた。絶望のオーラを垂れ流す二人の異形種は、再会の挨拶を交わさずに片手を叩き合った。今はそれだけで十分だった。三人は三方向からヤトを取り囲む。この状況で逃げるのは現実的ではない。未だに十字槍は尾を貫通して地面に突き刺さっている。

 

 ヤトは両手を上げて降参のポーズを取った。

 

「ヤト、お前は何をしようとしている。お前が泣くのは誰のためだ」

「説明してもらうよ、ヤトくん」

「……私も聞きたいわ。話の内容によってはここで私が殺してあげる」

 

 優位の状況があっけなく覆され、絶体絶命の状況に追い込まれた。

 

「あーあ……どうしていつもこうなるのかなぁ……」

 

 話をするというのであれば、時間を稼ぎたいヤトにとっては好都合だ。申し訳程度に困った演技をしてから、夢の話を長々と始めた。大蛇の話はその体躯通りに細長かった。

 

 ただ一人、精神の沈静化が使えない番外席次だけが、震える拳を隠して怒りを押し殺していた。

 

 

 

 

 私たち三人は、何の前触れもなく出現したヘロヘロに硬直した。大よそ知性の高い者とは思えぬ行為であったが、いったい誰が咎められるというのだ。彼はこの世界のどこに潜んでいて、どうやってこれを知った。恐るべきは、アインズ様の強運。他人の事情など知ったことではないとする、御方の揺るがぬ優位。

 

 我らは身動き一つ取れず、つらつらと大蛇の牙から滴る毒液のような長話を聞いた。脈絡なく彼女の言葉を思い出した。

 

《あんたは、愛のために愛を捨てられる?》

 

 わからない。

 

 彼女の問いかけに解答は出ていない。しかし、時間の猶予は消えた。我らは取捨選択を迫られている。すぐ隣でデミウルゴスが眼鏡を正した。その表情にニヒルな笑いはなかった。

 

「まるでカルネアデスの板ですね」

「デミウルゴス、これは愛のジレンマよ」

「相手の幸福こそ自身の幸福……ですか。ジレンマはパラドックスを呼びます。蛇様は結論へ辿り着いたのですね。アインズ様の悲しむ選択と知りながら、最大多数の最大幸福を選ばれた」

「いいえ、ヤトノカミ様からすれば、NPCなんて眼中にないわ。蛇神が望むのはアインズ様ただ一人だけ、単一限定の最小幸福。それが偶然、ナザリック地下大墳墓の幸福と合致していただけのこと」

「恐ろしい……これが運命さえ変えてしまうアインズ様とヤトノカミ様の最終決戦(ラグナロク)……」

「NPCの叡智など軽く凌駕する、運命の修正……ですね」

 

 現状、敵の候補は番外席次を除いた三名。

 

 アインズ様、ヤトノカミ、ヘロヘロの誰を敵と認定するかによって、選べる未来も変わる。

 

 ヤトノカミは愛の葛藤(ジレンマ)に直面して、アインズ様がもっとも望まない未来、自身を消し去る逆説(パラドックス)を選択した。自分が消えたとしても、自分以外の仲間が戻ってアインズ様が幸せになるならそれで構わないと、いかにも彼らしい自己満足で独善的な選択肢だ。アインズ様はそれを良しとせず、ヘロヘロをこの場へ呼び込んだ。互いの運命まで操作し、蛇とアインズ様は運命を押し付け合っている。

 

 守護者統括としても、一人の女としても、作られた道具(NPC)としても、選ぶべきは最大多数の最大幸福。

 

 ヤトノカミの消失だ。

 

 アインズ様の望む未来は、ヤトノカミの生存。

 

 即ち、単一(アインズ様)限定の最小幸福。

 

 ヤトノカミが世界へ残留すれば、NPCは永遠に創造主と再会できない。しかし、それは結果としてヤトノカミの死後、アインズ様の寂しさを際立たせる選択だ。遅かれ早かれ、アンデッドのアインズ様は転移した仲間と死別する。

 

「……こんな、こんな選択、どうしろというのだ!」

 

 デミウルゴスが怒鳴った。

 

「なぜ! 我らはこうも無力なのだ! プレイヤーとNPC(しもべ)にはそこまで力の格差があるのか!」

「……アインズ様がお喜びになる選択肢は、至高の御方々の帰還。その未来を選ぶためには、ヘロヘロ様とアインズ様、番外席次殿を同時に相手にしなければなりませんね」

 

 本当にそうか?

 

 敵と未来は一つしか選ばない。

 

 私の敵は誰だ?

 

「確かに! ヤトノカミ様はアインズ様だけに忠誠を誓えと申しつけくださった。だからといって、ヤトノカミ様を切り捨てろと!?」

「デミウルゴス殿」

 

 パンドラがデミウルゴスの手に肩を置き、至近距離で顔を覗き込んでいた。デミウルゴスの肩は震えていた。

 

「デミウルゴス殿、アインズ様の望む未来はおわかりですね。それは、ナザリックに属するもの全てが望んだ未来でもあると」

「わかっている!」

 

 デミウルゴスはパンドラの手を振り払い、軍服の胸倉を掴み上げた。金剛石の目が剥き出しになり、泣いているように美しく輝いた。

 

「見殺しにしろというのか! これまでアインズ様のことだけを考え、それに尽力してきたヤトノカミ様を、自分の創造主が帰るなら仕方ないと軽く切り捨てろと!」

「それこそが、ヤトノカミ様の御意思」

「ふざけるなっ! 我らは何なのだ! 何の役にも立たず、尊い犠牲になろうとするヤトノカミ様に、何もして差し上げられず、ただ見ていろというのか!」

「あなたも心のどこかでわかっているはずだ! どれほどアインズ様お一人へ忠誠を口にしようと、創造された我らは造物主への愛情を捨てられないと!」

「ぐっ……うぅ、ああああああ!」

 

 デミウルゴスは頭を押さえて膝をついた。(あつら)えたオーダーメイドの赤スーツのスラックスが平野の砂で汚れた。三人の中で、彼だけは他のNPCと同様に至高の41人へ等しい忠誠を誓っている。苦悩は三人の誰よりも苦しい。

 

「できることなら代わって差し上げたい……かつての仲間である41人が揃うため、ヤトノカミ様が犠牲になるしかないなどと……私は――」

「ご安心ください。我らの苦悩など、アインズ様の幸せそうな顔を見れば吹き飛ぶ些末。さあ、アインズ様とヘロヘロ様の動きを止めましょう。きっと、あなたも満たされる。ウルベルト・アレイン・オードル様が御帰還し、世界に悪の猛威を振るい、その傍らで創造主に付き従えばいい」

「ウルベルト様が……」

 

 悪魔がドッペルゲンガーに唆されている。ナザリックで最も悪魔らしいはずの彼の心は禁忌(パンドラ)に揺さぶられている。立場が逆転した、世にも珍しい光景だ。このままだとデミウルゴスは籠絡され、蛇と共闘する。

 

 パンドラは底なしの双眼を私に向けた。

 

「アルベド殿、あなたもそうでしょう。アインズ様が満たされなければ、御方の愛情は正妃に向けられない。41人に向けられるアインズ様の愛に嫉妬し、歯がゆい思いをなさるでしょうが、一人の女としてアインズ様を愛するのはあなたとイビルアイ嬢です。夜を共にしただけではなく、対外的に妻と紹介することができる御二人こそ、アインズ様が羽を休める止まり木、疲れた御方の心が逃げ込む安らぎの地、終の棲家はあなたがたと共にある」

 

 パンドラは落ち着いた声で私も唆す。いつもの派手な動きは存在せず、静かな淡々とした声だ。すぐにいつもの彼に戻り、片手を胸に当て、もう片方の手を私に差し出した。

 

「さあ! お聞かせください! 正妃であるアルベド殿の選択を!」

「そうね……この場に置いてアインズ様のためを思うのなら、ヤトノカミ様を守るべきよ」

 

 嘘だ。

 

 私はまだ迷っている。

 

 アインズ様の理想は、ヤトノカミをこの世界に残して他の仲間が帰還すること。仮にそうなったとして、上手くいくだろうか。至高の41人、特にアインズ様と共に過ごした時間の長い上位者が集まれば、必ず分裂する。正義と悪は同じ場所で長く過ごせないし、功績に格差が生じれば悪感情と亀裂が生み出される。争いを楽しみ、苦痛や絶望に愉悦を感じる者もいるだろう。私の創造主のように。

 

 尊い誰かの犠牲が(かすがい)となって致命的な亀裂を繋ぎとめるのだ。それはNPCではなく、対等な存在でなくてはならない。重要なNPCを作成せず、41人の中で若年層の、知性が低い馬鹿な蛇。酷い言い方をすれば、彼ほど生贄に最適な者はいない。だからこそ、永遠に侵せぬ存在となる彼が羨ましい。

 

 握り締めた《真なる無(ギンヌンガガプ)》が、敵を殺せと妖しく光った。誰かの手が肩に置かれたような気がした。先ほどと同じく、振り返っても誰もいない。

 

 どうやら私は捨てなければならない。

 

 私は、未来と敵を一つだけ選んだ。

 

 愛情に比べれば、命、忠誠、大義など何の価値もない。

 

 私はもう、自分を押し殺さない。

 

「ごめんなさい、パンドラ、デミウルゴス」

 

 私が微笑むと、大爆発が起きた。

 

 

 

 

 ヤトノカミは説明を終えた。目的と手段は話したが、残り時間が30分くらいしか無いとは教えなかった。

 

 ヘロヘロの黒い粘液はぶくぶくと沸騰した液体のように泡立ち、アインズの体からは黒いオーラが垂れ流されていた。大蛇は見ていないが、後方の番外席次は今にも殴りかからんばかりにこぶしを握り締めている。

 

「ふざけるなっ! お前は、そんなことのために自分で犠牲になろうとしたのか!」

「そんなこと? それをあんたが言うかね、アインズさん。いつまでも過去の仲間に執着してんのは誰だ」

「過去を懐かしんで何が悪――」

「だって、みんな来なかったじゃないですか! ユグドラシル最後の日に!」

 

 ヤトの叫びでアインズが押し黙った。

 

「だから呼ぶんですよ、無理矢理に! 俺にしかできないから、俺がここにいちゃ駄目なんだ!」

「お前は……私のためだけに……」

「俺は後悔して苦しみながら生きたくない。人生の最後に泣き喚く生き方なんてしたくない」

 

 眼球を明滅させるヘロヘロが前に出た。

 

「俺は来たよ、ユグドラシル最後の日に」

「ええ、まったく、驚きましたよ。よりによってヘロヘロさんがこの世界にいるとは……あーあ! どうしてこう、俺ん時だけ上手くいかねえのかなあ!」

「ヤトくん、俺が怒っているのがわかるかな。自分が犠牲になればいいなんて、自分に価値が無いと思っている馬鹿のやることだし、残されたものはどんな気分になるのかわからないのか。君は想像力が足りないよ」

「そッスね」

「真面目に答えろよ!」

 

 ヘロヘロは精神が沈静化される前に大蛇へ詰め寄り、太い首を掴んだ。首輪の要領で黒い粘液の手が鱗に覆われた首を一周し、大蛇の頭部を持ち上げた。掴まれた首より、未だに引き抜いてくれない十字槍の方が痛かった。

 

「いてて、尻尾が切れるってば……」

「残された美人の奥さんはどうなる! これから子供が生まれるのに、お前がそんな死に方をしたと知ったら、子供はどう思う! そんなのただのエゴイストじゃないか! 押しつけがましく独善的な利己主義者、リアルの企業と何も変わらないだろう!」

 

 遥か遠方で、涙を流してこちらを見守っているソリュシャンが見えた。ヤトは自分が死んだらラキュースとレイナースもそうして涙を流すとわかっていた。

 

 時として半端な発言は逆効果となり、安易な同情は怒りを誘い、聞こえの良い慰めは悲しみを際立たせ、知った風な口は復讐者の行動を加速させる。憎悪や愛情より大事なこともある。

 

 ヤトは赤い目を光らせて叫んだ。

 

「エゴイストで何が悪いんだ!」

 

 ヘロヘロの手が振り払われた。

 

「何もかも、もう遅いんだよ! 全部、知っちまった俺が……俺が今さら生き延びて子供に、お前のためにアインズさんを見捨てたんだよと、どの面下げて言えっていうんだ!」

「……君は本当に馬鹿だな。自分の幸せだけ追い求めればいいのに」

「これしかないんだよ。俺が友で、夫で、父であるために、俺は俺が望んだままに生きなきゃだめなんだ。俺が幸せになった先に、アインズさんの絶望が待っていると知った俺が、全てを犠牲にして未来を変えるのは当然じゃないか」

 

 ヤトは大鎌を掲げて叫んだ。

 

「俺の敵はぁ! 俺の未来を守る奴だ!」

「君は若いじゃないか……すぐ近くに君を必要とする人がいる。それじゃだめなのか」

「ヘロヘロさん。俺たちに大事なのは死に方だよ」

「……」

「異形種になった俺たちは、アイテムで睡眠・飲食の必要がない。働かなくても気楽に暮らせるなら、大事なのは死に方だろ、ヘロヘロさん」

 

 ヘロヘロの精神が沈静化された。今は、美人な二人の妻に囲まれて子供が生まれてくる明るい未来を、いともたやすく捨てるような生き方しかできない彼が悲しかった。

 

「他に幸せになる選択肢が、この世界にいくらでもあるのに……」

「はっ、夢の中で娘にも同じこと言われましたぜ」

「馬鹿っ!」

 

 大蛇の後頭部に番外席次の飛び蹴りがぶち当たった。おおよそこれまで食らったことのない、頭蓋が砕けても構わない全力の不意打ちが、無防備な後頭部に当たって蛇の小さな脳が激しく揺れた。

 

 視界がどろどろに溶けて三半規管が使用不能になったヤトは頭から崩れ落ちた。すぐに腕を立てて体を起こすが、頭が少しだけ上がっただけだった。胃袋が痙攣して胃酸がこみ上げ、口の中に酸っぱい臭いが充満した。目前に立った背の小さい番外席次からすれば、サンドバッグに最適だ。すぐに追撃の右フックがヤトの顔にぶち当たった。

 

「嘘つきっ!」

「がっ……かはっ……」

 

 蛇の吐き出した胃液が顔にかかったが、彼女は構わなかった。手を止めず、ヤトの顔面を殴打し続けた。

 

「嘘つき!」

「かっ…………」

「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!」

「……」

「いつか私も愛してくれるって約束したじゃない! 嘘づぎ!」

 

 抵抗しようとしたヤトの目に、番外席次の涙が落ちた。ヤトは力を抜き、されるがままになった。

 

「悪い……」

 

 動かした口からごぼごぼと泡立った血が漏れた。

 

「私は本気だったのに……うそづぎぃ……わあああああ!」

「お前の中にある、俺の記憶を消してやるよ」

 

 大蛇の手が、胸に顔を埋めようとした番外席次の頭を鷲掴みにした。

 

「その魔法だけは、黄色いのが俺に残してくれたから。これでお前も俺に執着しなくて生きられるよ」

 

 番外席次は何をされるか察し、両手両足を激しく動かして抵抗した。それでも彼女は軽かった。

 

「やめて! 私の大切なものを奪わないでっ!」

 

 記憶の貯蔵庫から引き出される大切な記憶。それが蜃気楼のように揺らぎ、徐々に薄くなっていくのを感じた。

 

「いやああああ! お願い! 私から大事な記憶を奪わないで!」

「……もう、終わったよ」

「ああぁ……」

「悪いな。約束、守ってやれなくて」

 

 番外席次が力を失って地面に落下したと同時、ヤトの左目が白く濁っていった。

 

 黄色から授けられた力は、彼を装備していない状況で使えば、力の大きさに比例して代償を要求する。白濁した目から溶けた眼球の残骸が流れだし、流れる体液はすぐに赤くなった。左目のあった場所にぽっかりと穴が空いていた。赤い涙に見えた。

 

「ヤトくん、その左目は……」

「ヤト」

 

 アインズが緩慢な動作で大蛇へ近寄っていく。母親が見つからなくて荒れる幼子へするように、迷って警戒心を剥き出しにする子猫にするように、アインズは両手を広げて穏やかな声で言った。

 

「私を置いて行くなよ。せっかくヘロヘロさんも帰ってきたんだ。これからも私と遊んでほしい。我々の国を豊かにしよう。冒険の旅に出掛けよう。一緒に酒を飲んで下らない話で盛り上がり、互いの粗を探して小馬鹿にしながら笑い合おう。頼む、もっと私と一緒にいてくれないか」

「……」

「なあ、ヤト。私なんかのために犠牲にならなくてもいい。だからもう、私のために泣かなくてもいいんだ。お前が消える方が辛いんだよ」

 

 隻眼の大蛇は空を見上げた。美しい配置の星々と暗黒の新月がこちらを眺めていた。まるで、彼がどうするかと行動を観察しているように。

 

「どうして……だろう」

 

 大蛇は自分が世界から消えると知っている。そのために必要な決意は固めていた。心と体を歪められた自分が何のためにここにいるのかと悩み、苦しみ、友と敵対する愚かな選択を選んで命を燃やし尽くそうとしている。全てを捨ててでも未来を変えようと思う人間は死を恐れない。それでも、大蛇の心は揺れて掻き乱された。

 

「アインズさんと生きる未来は……どうして、こんなに楽しそうなんだろう」

「楽しいさ、異世界を好き勝手に冒険できるんだ。それにはお前がいないと駄目なんだよ。リアルで俺は何一つとして手に入れられなかったけど、今は友がいて、部下がいて、家族がいる。私はこんなに幸せだったんだ」

 

 邪神の決意が揺らぐ、彼女はその機を待っていた。

 

 ヤトとアインズの間に誰かが飛び込んだ。

 

「《真なる無(ギンヌンガガプ)》よ!」

 

 詠唱が聞こえた直後、全てを巻き込む無の大爆発が起きた。ヘロヘロは呆然自失となっている番外席次を遠くへ放り投げて爆発に巻き込まれる。世界級アイテムを装備しているアインズは、状況把握のために後方に飛んだ。大蛇はその場に立ち尽くし、甘んじて痛みを受け容れた。揺らいだ自分を誰かにぶん殴ってほしかった。

 

 かつて彼女から食らった懐かしい無の焦熱が体を焦がしていく。これで絶命しないように耐久スキルを発動させながら、彼女の背中を眺めた。揺らいでいた決意が元の場所へ戻るのを感じた。

 

「ありがとう、アルベド」

 

 当然、邪魔されたアインズが激昂した。すぐに反転して中心部へ飛び込み、杖で殴りかかった。魔法を使っていないのは激しい怒りを物語っていた。

 

「アァルベドォォォォ!」

 

 アルベドは長柄斧へ持ち替え、杖を弾き飛ばした。

 

「貴様ァァア!」

「まだわからないのですか!」

「黙れ! 反逆者が! 貴様は絶対に許さな――」

「どうしてヤトノカミ様がこうしたか、まだわからないのですか!」

 

 わからない。

 

 アルベドがどうしてこの選択をしたのか、ヤトが人柱になろうとしているのか、蛇と同様に自己評価の低いアインズに推し量ることはできない。半身を焦がされたヘロヘロは、回復しながら成り行きを見守った。

 

「《超斬撃衝撃波(ギガスラッシュ)》」

「くっ……」

 

 放たれた衝撃波がアインズを吹き飛ばす。地に臥したアインズが体を起こす前に、長柄斧(バルディッシュ)の刃がアインズの頸骨に当てられた。首だけを動かしてアルベドを睨んだ髑髏の眼窩に赤い光が宿る。

 

「アルベド……よくも私を、ヤトを裏切ったな」

「アインズ様を傷つけるような真似ができるのは、初めから歪んで作られた私だけです。ヤトノカミ様が消える支援を行い、その(のち)に私も処断されましょう。それこそが、アインズ様の望んだ未来だからです」

「これのどこが望んだ未来だ!」

「至高の41人の皆様の御帰還を誰よりも願っていたのはアインズ様です」

「……それとこれとは」

「何も違いません。ヤトノカミ様は、それしか手段がないと知っているのですよ。あの方は誰のために消えようとしているかおわかりでしょう」

 

 ヤトが絶望のオーラを放てば、黒く焦げた皮膚が根こそぎ剥がれていった。剥き出しの肉から赤い血が流れ、大蛇の全身を赤く染めた。激痛が頭の先から尾まで走り、いつまでもその場に居座った。決意が鈍りそうな今の状況には相応しいと、ヤトは一種の自己陶酔をしていた。

 

 赤い蛇は大鎌を構え、ヘロヘロに向かって宣戦布告する。

 

「俺は曲げないよ。何があろうと、俺の全てを捨てようと、自分で決めたことは変えない。さあ、かかってこいよ、ヘロヘロさん」

「認めない……俺は認めない。残されたものはどうなる」

「誰にでも理解できるような生き方なんてできないさ。初めからきっと、こうするために生まれたんだ。それだけが俺の救いだよ」

「そんなわけないだろ!」

 

 ヘロヘロは走った。

 

 アルベドはそれを見ながら話し続ける。

 

「アインズ様、私も主神へ牙を剥くためにここにいるのです。アインズ様が最初にイビルアイを娶り、彼女を第一妃にした。内務に関しても、後任のラナーは私と同じ仕事がこなせる。私の生もヤトノカミ様と同様、この瞬間へ向けて紡がれたもの。私の後任は全て揃っています。これが終わってから、私の首を刎ねてください」

 

 アルベドに魔法を行使されてダメージを負ったデミウルゴスとパンドラが、ふらふらと浮浪者のようにこちらへ歩いてくる。辿り着いた彼らは口々に叫んだ。

 

「アァルベドォ! あなたは何をしているかわかっているのですか!」

「アルベド殿、なぜアインズ様へ武器を向けるような真似を」

「手を出さないで! アインズ様へ刃を向けるのは一人だけで十分でしょう。処断されるのも私だけ。私の選んだ未来はアインズ様の絶対幸福、そのために打ち倒す敵はアインズ様のみ!」

 

 パンドラとデミウルゴスが止まった。彼女の決意に気圧されたのもあるが、それよりも彼女の微笑みは美しかった。長柄斧の下で、アインズが嘆いていた。

 

「どうして……みんな、私なんかのために……」

「アインズ様がアインズ様だからこそ、犠牲になってもいいと思えるのです」

「どういう意味だ」

「アインズ様だけは、誰よりも幸せになってほしいと願う、友と女からの無償の好意。それ以上のものはなく、それ以下の意味はありません」

「………お前も……馬鹿だな」

 

 アルベドは微笑んでいた。

 

「最後までお付き合いくださいませ。ヤトノカミ様の願いを叶えて差し上げるために」

 

 アインズは答えなかった。

 

 

 

 

 ヤトは神に仇なす悪鬼羅刹でありながら、大義に殉じる崇高な戦士でもあり、不器用で意地っぱりな青年でもあった。

 

 ヘロヘロ相手に武器と拳を躱すのは危険だ。彼は装備を溶かすことに関して他者に引けを取らない。迂闊に鎌を突き込めば、すぐに溶かされてしまう。そうしてヤトは戦っている振りだけ行い、多量の出血を平野にばら撒きながら銀の門に辿り着いた。ヘロヘロも走り、互いに門の前で対峙する。じっくりと時間をかけて閉じていく門の内側に、渦巻く亜空間が見えた。

 

 銀の門を越えさせまいとするヘロヘロが、蛇の前に立ちはだかる。

 

「行かせないよ。お前はこの世界で幸せに生きるんだ」

「ふん……アルベド、アインズさんを何があってもこちらに来させるな」

 

 アルベドが頷いたのを見て、蛇は口を歪めて笑った。すぐに顔は門へ向き、立ちはだかる最後の敵、ヘロヘロを真っすぐに捉えた。

 

「人生最後のPVPだ。互いに俺の未来を賭けて戦おう。俺に一定以上のダメージを与えて意識を奪えば、門は消えるよ、ヘロヘロさん」

 

 駆け出したヘロヘロに合わせ、大鎌が叩き込まれた。それこそヘロヘロの望む攻撃だったが、叩き込まれた一撃はスライムの全身に重たく響いた。

 

「重い……」

「未来を背負って今日を捨てた俺の今は、誰よりも重いんです」

「番外さんは君が大好きだったよ」

「……」

 

 ヤトの動きが止まった。大鎌はヘロヘロの体内で溶けていく。ヤトは黒い粘液の拳を躱して後ずさった。溶けた大鎌の代わりに、頭部の刀を引っこ抜いて構えた。斬撃を予測し、ヘロヘロはその場を飛び退く。

 

「《超斬撃衝撃波(ギガスラッシュ)》!」

「知ってたよ!」

 

 ヘロヘロは体を薄く延ばして斬撃を躱し、ヤトの左腕に掴まった。ぶら下がったヘロヘロが叫ぶ。

 

「行くな! 俺とも一緒に遊んでくれよ、ヤト公!」

 

 辛うじて腕だけに留めたヘロヘロはうっかり熱くなってしまい、酸が分泌されてヤトの腕が熱くなった。ヤトは自身のダメージを躊躇わない。自らの腕を根元から切断し、ヘロヘロを切り離した。

 

「いってえぇぇ……」

 

 切断した腕を放り投げ、ヘロヘロと距離を置いた。

 

「《自己再生》」

 

 ヤトの右目が溶けて流れ、血の涙は両眼から流れた。ヤトの赤い肉は緑の鱗で覆われていき、切断した左腕から複数の触手が生えた。

 

 ヘロヘロはすぐに反転し、大蛇の尻尾へ掴みかかった。

 

「もう止めろ! 代償の重い術を使うんじゃない!」

「うるさいなぁ」

 

 大蛇は自らの命さえ重視していない。目の見えないヤトはヘロヘロを躱せない。尻尾に掴まったヘロヘロを尻尾ごと切断し、遠くへ放り投げた。

 

「《自己再生》」

 

 ヤトに目立った変化はない。つまり、目には見えないものを代償に差し出したということだ。ヘロヘロの背筋が寒くなった。このまま自分が戦えば、彼は失い続ける。

 

 尾が短くなり、視力を失い、片腕さえ切り落とし、大蛇としての姿さえ失いながら、ヤトはそこに立っていた。ヤトを捕まえようとしたヘロヘロの動きが徐々に鈍くなっていく。

 

 目の前に立つヤトに組みかかったが、彼は自分の肉ごとヘロヘロを切った。長い太刀は溶かせたが、すぐにヤトのダメージは回復する。

 

「《自己再生》」

 

 ヤトは視力、嗅覚、そして他人の中の自分の記憶さえも犠牲にした。他に使える代償は経験値と聴覚、ラキュースとレイナースと自分の子供しかない。大蛇は血の涙を流して立っている。自分のやっていることはヤトを壊しているに過ぎないと、ヘロヘロの心がへし折れた。

 

「どうしてだよ……もう俺がどこにいるのかさえわからないはずだ」

「何にも見えないッスね。痛くはないから平気ッス」

「そんなになってまで、君がしないといけないことなのかよ……」

「俺はこの戦いでなら、何もかも失くしたって構わないんです。ここで倒れたら何の意味もないから」

「……畜生」

 

 盲目となった赤蛇はそこに立ち、舌を出して空を見上げた。視力はないのに、星が瞬いているのを見たような気がした。ヘロヘロは馬鹿なゲーム仲間の考えを変えられなかった無力な自分を嘆いた。黒い拳を地面に叩きつけて叫んだ。

 

「畜生ォォォォ!」

 

 残り時間は10分を切っていた。

 

 ヤトの歪んだ歌声が平野に流れた。

 

They will return: mankind will learn.(帰還した神々に) New kinds of fear when they are here.(新たなる恐怖を知る)

 

 

 それは、世界から消える自分への鎮魂歌(レクイエム)に思えた。

 

 

 

 

 アインズはヤトがもう助からないと悟った。それがナザリックに所属する多くの(しもべ)、そして現実世界に残された仲間、異形種に脅かされているこの世界の人間たち、最大多数の幸福に繋がる。アルベドを振り切ってヤトへ到達したとしてどうなる。

 

 ヤトは満身創痍だが、確かに彼は生きていた。1週間前、酒場で別れた彼は世界のどこにもいない。今の彼とPVPをすれば、負ける可能性が高い。いかなる代償もたやすく差し出すような相手を守りながら戦う手段は持ち合わせていない。唯一、彼を気絶させる手段が浮かぶ。

 

「アインズ様、《心臓掌握(グラスプ・ハート)》は効きませんのでご注意ください」

「そうか……」

 

 先に釘を刺されてしまった。

 

「畜生ォォォォ!」

 

 ヘロヘロが叫んでいる。

 

 それは、敗北を認めたと同義だ。

 

 ヤトは考えを改めることなく、直にこの世界から消える。アインズは長柄斧を頸骨から外し、悠然と立ちあがった。

 

「行かなくては……」

「お待ちください!」

「私は……友の最期を見届けなくてはならない……頼む、行かせてくれ」

 

 アルベドは震える白骨の腕を掴まなかった。彼女の視界は水で潤い、歪んでいる。大地を殴るヘロヘロの傍ら、放浪者のように体を揺らしたアインズがヤトと対峙する。大蛇は歌の詠唱を止めた。

 

「ヤト……」

「どうか、全て忘れてください。俺が勝手にしたことだから」

「忘れられるわけないだろう……ヤト」

 

 ヤトは何も答えなかった。何も見えない孤独な闇の中、感じるのは痛みだけなのに、強くそこに立っていた。弱かった彼はたった7日間で別人のように強くなった。それが、避けられない致命的な別れを悟らせた。

 

「本当に……楽しかったな。お前は王宮で暴れて、私が戦士として止めたのを覚えてるか」

「ええ、魔法で俺を止めてたら国がぶっ壊れてましたね」

 

 全身を赤く染めた大蛇は、穏やかな声で答えた。

 

「まったく、お前が弱くて助かったよ。相手がたっちさんだったら、返り討ちだった。結婚式を終えたお前は、新婚ほやほやのくせに帝国へ行って妾を持ち帰ったよな。知ってるか? あのときの私は、アンデッドの自分が妻を娶る意味が分からずに困っていたんだぞ」

「知ってます。奥手な童貞さんはなかなか女に手を付けなくて」

「今ならお前の気持ちがわかるよ。自分と同じように世界を楽しんでほしかったのだろう?」

「そッスね……」

 

 アルベドは両眼から涙が流れた。ヘロヘロは幾度も精神の沈静化を行いながら、穏やかな永遠の別れを見守った。デミウルゴスとパンドラが、痛ましい二人から目を逸らし、濡れた双眸を拭いた。

 

「私が留守中、お前がアルベドと大喧嘩したよな。あのときは本当に大変だったんだぞ」

「あれはヤバかったッスね。俺、死にかけてましたし」

「半分は抑止力としてだが、私はアルベドを第二夫人に迎えた。イビルアイも可愛らしいが、アルベドも美人で困ったよ」

「そりゃ贅沢な悩みで」

 

 遂にアルベドは顔を背けて涙を拭いた。いつもと変わらないアインズの髑髏から、見えない涙が流れているとわかった。それでも、アインズのために消えようとするヤトの姿を忘れまいと、唇を噛みしめて濡れた目を見開いた。

 

「法国攻略戦のとき、レイナースを誤って殺してしまい、本当に悪かった。今さらながら許してくれるか?」

「別に、いいスよ、もう。済んだことだし。俺もぶん殴ってすいませんです」

「別にいいさ。しかし、今となれば、エルフ王は生かしておけばよかったかもしれん」

「いや、魔導国に暮らす女が貞操の危機なんでダメでしょ」

「そうか、それもそうだな……」

 

 アインズは会話を途切れさせまいと、慌てて会話の種を探した。

 

「ところで、お前は竜王国の女王に手を付けたのか?」

「いや、つけてねえッスよ。女はラキュースとレイナースだけで十分で」

「そうか、贅沢な悩みだな。虹色は曾孫に子を孕ませてほしいようだったが」

「子供は一人できてるんで、それだけでいいッスよ……」

「そうだな……」

「夢で見たんですけど、俺の子供は女の子です。名前はシャルロッティ・ラヴクラフト・アインドラだそうです」

「わかった……お前の代わりに命名しておく」

 

 会話が止まった。

 

「生きたい……」

「ヤト……」

「生きたい……どんなに辛くても、生きていたい……」

 

 ヤトの両目から流れる血が勢いを増した。

 

「ごめん、アインズさん……俺、こんなやり方しかできなくて――」

「もういい……泣くな、馬鹿蛇」

「子供……抱きたかったな……」

 

 それがヤトの最後の言葉となった。

 

 最後に抱擁しようと歩み寄ったアインズの手は空を切る。大きな金属の衝突音が鳴り、銀色の輝く門が閉じていく。ヤトの体は扉が閉まる寸前、僅か数秒で黒い大きな手に掴まれて門の内側に消えた。

 

 切なさと、確かに消えてしまった事実だけが平野に残された。

 

「ヤト……」

 

 銀の門が支柱から光の粒子となって風に舞った。消えてしまった友を想い、アインズはその場に伏せ、両手で地面を殴りつけた。

 

「俺は……馬鹿だ! どこで狂ってしまったんだ! お前がいなければ、この先、何も楽しくないというのに……うあああああ!」

 

 アインズの嘆きと地面を殴る音だけが流れた。

 

 消えていく門から強い風が吹いた。

 

 生きとし生けるもの全てを慈しむように、全ての生物に届けられた一陣の風。

 

 黄砂を巻き上げ、黄色い風は世界中へ届けられ、人々から記憶を奪い去る。

 

 

 この日、世界から取るに足らない大切なものが消えた。

 

 

 

 

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