知らない人のためのクトゥルフ神話体系 - 予備知識
副王 ヨグ=ソトース
鮮やかな光彩を纏った球体の集合体。全ての次元に隣接し、全ての世界の知識、記憶、歴史を持っている。ヨグ=ソトースこそが全情報を最大漏らさず記録している「アカシャ年代記(アカシック・レコード)」といわれる。過去・現在・未来はヨグ=ソトースの中で一つであり、全ての存在(「外なる神」や旧支配者すらも)がヨグ=ソトースに含まれている。全にして一、一にして全なるもの、門にして鍵。別次元へ移動するとき、彼を門として潜らなければならないが、だいたい発狂する。
アルベドの種族→ガグ
幻夢境の地下へ住む大口ゴリラ。地球の神々によって地底へ追放された。肉食系。彼女は何があっても真の姿にならない。醜いと自覚しているから。
ヤトの種族→イグ
あらゆる蛇族の父と言われる蛇神。非常に執念深い性格で、イグ自身を裏切ったものや、イグ自身やその身内、加護を与えたものを害したものに必ず報復をする。その反面、自分を崇めるものへ加護を惜しまないが、生贄を要求する。
太古の昔に地球へ飛来し、故郷を懐かしむために蛇を同行、または作成した。生命原理の象徴であり、尾を打ちならして覚醒と睡眠の周期が決定される。一説によれば、ヨグ=ソトースとシェブ=ニグラスの間にできた子供。
ソリュシャンの種族→ショゴスと他
ソリュ談「とある神話にて、《テケリ・リ!》と叫ぶ、不定形の生命体です。スライムのようなものです」。非常に高い可塑性と延性を持ち、必要に応じて自在に形態を変化させ、さまざまな器官を発生させる。
――人の主観は当てにならないが、客観を無条件で信用する理由にはなりえない。
竜王国の宮廷、玉座の間。露出の多い格好をした幼い女王は、気怠い顔で宰相の報告を受けていた。魔導国の属国となって以来、
「よって、魔導国から異形種の受け入れを指示されております」
国内の冒険者組合の強化改造に加え、アインズ配下の異形種の受け入れなど、物騒な指示内容に女王の顔色は浮かない。正確には、浮かないというよりやる気さえを失っているようであった。
「しかしな……簡単に今までのやり方を変えろと言っても難しいぞ。だいたいな、あ奴はどうした。奴が窓口になるはずだろう、魔導国と竜王国の橋渡しとして」
「……女王陛下、魔導王陛下を”あ奴”などというのはやめていただけませんか?」
「いや、そうじゃなくて、もう一人の……あの……」
「誰のことでしょうか?」
「ほれ、ビーストマンと泣きながら戦った……のは誰だ?」
「ビーストマンは魔導王の使役するドラゴンたちが屠っていたではありませんか」
「んん? 言われてみればそうだな……私は何を言っている」
「知りません。お疲れのようですので、今日はお休みになってはいかがですか?」
「……疲れているのかもしれん。おかしいな、何か……とても大事なことを忘れているような」
「気のせいでしょうね。いくら人間より長生きしているからと言って、ボケられては困ります。国の未来に影響が――」
「うるさいわい! うぅーん……おかしいなぁ」
彼女はぶつぶつと呟きながら寝室へ向かった。取るに足らない私的なことでありながら、それなりに重要なことを忘れているような感覚に囚われていた。ベッドの中でどれほど寝返りを打とうと、その記憶が修繕されることはなかった。
奪われた記憶は永遠に回復しない。
このような光景は人間種国家のあちらこちらで見られていると、偵察に出したシャドウ・デーモンは言った。
「そう、竜王国の女王はそう言ったのね?」
「一語一句、その通りに」
「ありがとう。下がっていいわ」
影は扉の隙間から退室していった。
大蛇が消えた夜、
「アインズ様……次は私が処罰される番です。どうぞ、御身の手で首を刎ねてくださいませ」
彼は一切の反応を見せなかった。初めは私の反逆行為に怒って無視しているのかと思ったが、反応がないのは彼だけではなかった。ヘロヘロ、デミウルゴス、パンドラ、ソリュシャン、番外席次、遠くを羽ばたいている下級悪魔までが意識を失っているようだった。先ほど、消えていく銀の門から吹いた風の影響だろう。
「アインズ様?」
「ん? ああ、アルベドか」
まるで今、私がここにいることに気付いたような態度で立ち上がった。衣服と膝に付着した砂を手で払い、こともなげな明るいで言った。
「アルベドも大変だったな。おかげで敵を殲滅できた」
「……はい?」
「モモンガさん!」
同様に意識を取り戻したヘロヘロが這い寄ってくる。デミウルゴスとパンドラも停止した時間を解除したかのように、ダメージの残る体を揺らせてこちらへ歩いてきた。
「後回しにしちゃったけど、遅れてごめんなさい。俺も異世界にきましたよ」
「お帰りなさい、ヘロヘロさん……本当によかった。俺一人だけかと思いましたよ」
「この世界に一人じゃ寂しいですよね。ナザリックへ帰って再会を祝いましょうよ。メイドたちにも会いたいですし」
「むしろそちらが重要なんじゃないんですか?」
「はは、かもしれませんね。みんな美人ばかりですから」
アインズ様とヘロヘロは骨と粘液の手で握手を交わした。つい数分前、慟哭とともに地を殴りつけて悲観していたのが嘘のようだ。悲しみを押し殺す演技をしているのかと思ったが、どうやら本気で再会を祝っている。何を失ったことさえ気づいていないようだ。私はパンドラとデミウルゴスを見た。
両名は私に手傷を負わされたことなど忘れているように素通りし、アインズ様たちの前に跪いた。
「アインズ様、敵の殲滅、見事な手腕でございました」
「ありがとう、デミウルゴス。これで世界も平和になるな」
「ゥアインズ様! ヘロヘロ様が御帰還され、敵の殲滅にご尽力なさいましたが、これこそがアインズ様の剛運。恐るべきは運命まで変えてしまう御身の剛力!」
「ああ……そうだな」
「ぷっ……くく」
パンドラの明るい声と芝居がかった動きにアインズ様の声は暗くなり、ヘロヘロは控えめに笑った。
おかしい。
蛇の存在そのものがなかったことになっている。私は確かに泣いた赤蛇を覚えている。
「アルベド、お前も敵の攻撃から私を守ってくれてありがとう」
私はそんなことしていない。
「モモンガさん、アルベドと結婚したんですって?」
「え? ……ええ、まあ」
「ええ、まあ、じゃないでしょう。そこんとこ詳しく聞きたいなぁ」
「まぁ……それはナザリックに帰ってからということで……」
ちらりと私の顔色を窺った。今はそれよりも確かめなければならないことがある。いつもの私ならばここで盛り上がってアインズ様を押し倒すべきだろうが、今はそんな状況ではない。
「アインズ様!」
私の声は自分で思うよりも大きかった。二人は不思議そうな目でこちらを見ている。
「どうしたというのだ、アルベド」
「あ、ヤ……蛇は……」
「蛇? 何の話だ?」
「……あ」
ヘロヘロが両手を合わせて何かを閃いた。
「蛇と言えば、ヤトくんはどうしたんですか? 最後のログアウトしたとき一緒にいたと思いましたけど」
「いやぁ……彼はヘロヘロさんの後に帰りましたよ」
「そっか……一緒じゃないんだ。残念だな……」
「もしかしたら世界のどこかにいるかもしれません。幸い、時間はたくさんありますので、一緒に探しに行きましょう」
その会話だけで十分だ。アインズ様のために世界から消えるというのは、人々の記憶から消えるという意味だったのだ。
では、なぜ私だけが彼を覚えている。
可能性があるとすれば、私の携えている
「ヘロヘロ様ぁ、よくぞ御無事でぇ!」
離れて待機していたソリュシャンが、黒い粘液に頭から飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと、ソリュシャン! モモさんが見てるって」
「私は一向に構いません!」
「そんな、中国拳法家みたいなこと言うない! 俺が恥ずかしい!」
「自分だってちゃっかり手を付けてるじゃないですか……人のこと言えませんよ、ヘロヘロさん」
これが大蛇の望んだ未来だ。
私が唇を噛みしめていると、セバスから緊急
《誰? 今は取り込み中で――》
《アルベド様! 大変です、ラキュース様とレイナース様がお亡くなりになりました!》
《……詳しく話しなさい》
《何者かにラキュース様とレイナース様の命が奪われました。外傷はありませんが、蘇生が拒否されています。ニューロニスト様のお陰でお腹の子は一命を取り留めましたが……誰の御子なのでしょう》
私はナザリックに帰還を余儀なくされた。
「アインズ様、私は一足先にナザリックへ帰還します。ヘロヘロ様を歓迎する準備を」
「アルベド……あまり派手にしないでね」
「創造なさった一般メイドはお会いするのを楽しみにしているでしょう。ごゆっくりとお戻りくださいませ」
「あ、はい」
「よろしく頼むぞ、アルベド」
転移ゲートを潜ろうと足を踏み入れたとき、別の者から連絡が入った。
《今度は誰?》
《あ、アルベド? ちょっとどうなってんのよ!》
《シャルティア、騒々しいわよ。なにごと?》
《どうして誰もヤトノカミ様のことを覚えてないわけ! 何が起きたか知ってる!?》
《……》
大蛇は最後に妙な混迷だけ残していた。彼女はドワーフ国遠征の際、奪取した世界級アイテムを貸し与えられていたのを忘れていた。これで蛇を覚えているのは世界に三人だ。アインズ様はヘロヘロと話に夢中で、彼らの帰還まで今しばらくの時間が残されている。
誰よりも先にシャルティアへ口止めを行い、大蛇の子をナザリック外へ連れ出さなければならない。彼女の知性は蛇並みに低い。蛇の子は蛇神の落とし子、魔導国の未来の女王となる後継者だ。人間世界で暮らし、ナザリックと魔導国の橋渡しになってもらわなければならない。きっと彼はそう望むはずだ。今は疑問よりも先に赤子をラキュースの父母へ届けなくては。
私はナザリックの廊下を全速力で走った。
「やれやれ……後始末は結局、こちらに丸投げなのね……」
◆
誰かに何かを言われたような気がして、俺は瞼を開いた。体は人間形態になっていた。大蛇に戻ろうかと思ったが、体に変化が起きない。
「……どこだよ、ここ」
改めて周囲を見渡すと、誰かの書斎のようだ。木製の簡素な机の上に脳へ直結しない旧式のデスクトップパソコンが一台。無造作に転がる4面から100面のダイス。それぞれはよく使い込まれていた。机の隣に流し台があり、洗い終えたティーカップが水けをきる場所へ置いてある。
ついさっきまで誰かがいたような生活感が漂っている。
部屋の真ん中には小さな丸机に、小さな椅子が三つ。寝るための家具はどこにも存在しない。
「寝るなということか……」
背後からドサッと音がしたので体が固まった。確認しない方が怖いので、ギギギと首をならして怯えながらゆっくりと振り返れば、布団が三組落ちていた。ほしいとは思ったが、なぜ三組も落ちてくる。種族として冷気に弱かったが、そんなに俺は寒がりではない。だいたい、蛇に戻れない。
誰が落としたのかと周囲を探ったが、小さな部屋には俺しかいない。見渡して気付いたが、この部屋には窓がない。家具も流し台、コンロ、空っぽの小さな本棚、机といすにティーカップと受け皿が4人分とやかん。トイレと思わしき扉が一つだけ。コンロとやかんなど技術に進歩した現実では天然記念物もので、俺は生まれて初めて見る旧時代の家具を面白そうに弄った。炎に近寄り過ぎた俺の前髪が焦げ、嫌な臭いがしたので離れた。
机に座って人体と直接接続する必要のない前時代的なパソコンに、おっかなびっくりと触れた。マウスをクリックするとスクリーンセーバーが止まり、デスクトップが表示された。アイコンは一つだけで、プログラム名はデバッグモードと書いてあった。ダブルクリックして立ち上げると、数字と英語を入力するだけの青い画面が立ち上がった。使い方が分からず、俺はパソコンの電源を切った。
「おーい! 誰かー!」
声をかけても返答が無く、自分の声が狭い書斎を反響した。俺はパソコンの反対側に設置してある、トイレと思わしき扉を開いた。そこはトイレなどではなく、別室への出口だった。
扉の向こうには果てしない本棚の列が続いていた。伸びていく一本の通路の左右は、本棚で埋め尽くされている。一番手前の本棚の項目名に、《オーバーロード》とあった。気になったので本棚を物色する。抜き出した手近な本のタイトルは《オーバーロード 20巻》だった。気になった俺は、1巻から5巻までまとめて抜き出し、部屋に布団を敷いて寝転がって読み始めた。
◆
あれから一週間が過ぎた。
ナザリックに戻った私はまず、シャルティアを私室へ呼び出した。
「――というわけなの。ヤトノカミ様は消えたけれど、あなたの記憶は失われていない。考えられるとしたら、それね」
彼女の背中で回転する光輪を指さした。法国の脅威、洗脳アイテムの《傾城傾国》を没収してからというもの、守護者に貸し与えられた世界級アイテムは回収されている。彼女が世界級アイテムを装備しているのは、戦利品だとアインズ様から所持を許されているからに過ぎない。しかし、用もないのにどうして装備しているのかは不明だ。知性の低そうな彼女も、私の話を真剣に聞いてくれた。
「それで、いつお帰りになるでありんす?」
どこまで理解できているのかは定かではない。私は彼女に顔を近づけた。少しでも危機的状況を理解してもらいたい。
「絶対に、ヤトノカミ様の話題を口にしてはいけないの。それはあの方の意志に反し、アインズ様を悲しませる背任行為なのよ」
「あ、うん……わかった」
彼女にしては珍しく私に気圧されたようだ。頭に詰め込み過ぎるのも不味いと思い、それ以上の説明を止めて打ち合わせに入った。
「私たちはこれからカルネ村を経由して王都へ行き、赤子を届けなくてはならないの。準備はいいかしら」
「すぐに行けるでありんす」
最高のタイミングで扉がノックされた。
「アルベド様、赤子を連れて参りました」
「入りなさい」
セバスは戸惑った顔で入室し、清潔なタオルに包まれた生後間もない赤子を抱えていた。早産してまだ一週間だけど、この世界の子供の成長は早い。命の危機は去り、赤子は私の顔を見て笑っていた。にへらと笑う顔が大蛇に似ており、金髪の癖毛は母親によく似ている。
「あの……この子はまさか、アルベド様の私生児では……」
「えぇっ!? アインズ様が人間だった時に孕んだの!?」
シャルティアの脳に記憶の滞在時間が短すぎる。先ほど説明したのに、目を満月状に広げてセバス以上に驚いていた。
「違うわよ。この子は正真正銘、ラキュースの娘。未来の魔導国を背負って立つもの。魔導国とナザリックの橋渡し。そのために宿命を受けた、邪神の落とし子」
「はぁ」
「はー」
「ありがとう、セバス。下がっていいわよ」
「その子をどうなさるのですか?」
彼の目線は鋭い。恐らく、私が人体実験にでも使うのかと懸念しているのだ。安心させようと私は微笑んだ。
「この子は人間に育てさせるわ。もしかして、奥方との養子にでもしたいの?」
「い、いえ、失礼します」
セバスは慌てて立ち去った。シャルティアが赤子に顔を近づけてお腹を指でつつくと、嬉しそうにケラケラと笑った。
「私もお世継ぎが欲しいでありんす」
「誰のよ」
「決まっているでしょう、アイン――」
「……ぶっ殺すわよ」
私の目が黄金に輝いて見開かれたが、彼女はまだ文句を続けている。
「だって、アルベドだけお慈悲をいただいてずるいでありんす! 私だってニャンニャンしたいでありんすぅぅ!」
「そ、そうなの? ……そうねぇ、そうかもしれないわねぇ。これから御帰還なさるペロロンチーノ様に、シャルティアがビッチで我慢できずに処女膜はアインズ様へ捧げてしまいましたと、私から説明しておくわね」
「なっ、はぁ!? どういうことよ!」
「さあ」
私はシャルティアを置いて部屋を出た。慌てて私を追いかけるシャルティアは、二度とアインズ様に手を出そうと思わないだろう。彼女がどうなるのかは、この世界に存在しないヤトノカミにかかっている。
廊下の辻でアウラと出くわした。
「あ、アルベド! アインズ様が探してたよ!」
「公務の打ち合わせかしら……これから出かけなければならないのだけど」
「あれ、シャルティア。あんたどこいくの?」
「ペロロンチーノ様を探しに行くでありんす」
私とアウラは抽象画並みの奇妙さで顔を歪めた。誰がペロロンチーノを探しに行くと言った。
「何を言っているのやら、この馬鹿は……」
「はぁ!? あんただってお
「ねえ、アウラ。蛇についてどう思う?」
「蛇って、ヤ……」
「ヤ……?」
「あれ、誰だっけ。蛇の姿をした人がいたような……誰だっけ?」
「ヤトノ――」
私はシャルティアのよく滑る口を塞いだ。
「アウラ、どうかしたの?」
「蛇が近くにいたような気が……でも、どうしてそんなことを……おかしいなぁ……」
「アインズ様には夕刻までに行くとお伝えしてね。私はカルネAOGと王都で所用を片付けてくるから」
「う、うん……わかったよー」
アウラは首を傾げながら廊下を歩いて行った。予想通り、いや、それ以上に記憶を奪う黄色い風は地下深くまで届いている。この世界で彼のことを覚えているのは私とシャルティア、そしてもう一人だ。足早にカルネAOGへ向かった。
◆
カルネAOGは今日も平和だ。デスナイトは特注の鍬を使って畑の面積を広げ、ゴブリンたちは人間と一緒に作物の虫取りや水やりを行なっている。オーガが城壁を引っこ抜き、新たな形に埋め直している。この村はすぐに町へ発展し、大都市となるのに数年とかからないだろう。
私たちを見て村人が駆け寄った。彼の話によると、ネムを失ったエモット家は火が消えたように静かなようだ。彼女の父と母は付近の村と交易に出掛けているらしく、家には彼女しかいない。さぞや暗い顔をしているだろうと思ったが、予想に反して彼女は元気そうだった。
「いつまでも悲しんではいられませんから」
エンリはそう言って気丈に笑った。
「何か変わったことはない?」
「あ、あります! どうしてかわかりませんが、蛇様のことをみんなが忘れています!」
「蛇とは誰のこと?」
「え……いえ、ですからヤトノカミ様ですよ! アインズ様の御友人の!」
人間で覚えているのは彼女だけだ。
エンリに貸し与えた世界級アイテムは回収した。やはり、アインズ様を例外として世界級アイテムを装備していたものに効果は出ていない。アインズ様の記憶は、黄色いマントで覆われたときに奪われたのだ。私はエンリへ口止めをした。
「――というわけよ。ヤトノカミ様のことは誰一人として覚えていないわ。決して口に出してはいけない。できるのなら、あなたも蛇のことは忘れなさい」
「……そんな。蛇様もこの村を救ってくれた御方の一人なのに……忘れなければいけないのでしょうか」
「それがアインズ様のために世界から消えた大蛇の意思」
彼女は悲しそうな顔をしていた。
「……蛇様は、今どこにいるのですか?」
「私たちでは与り知れぬ、存在するかわからない神とやらだけが立ち入れる場所よ」
「……凄いです。アインズ様だけが神様じゃなく、蛇様も神様だったんですね」
「どのみち、これから世界は慌ただしくなる。頑張りなさいね、エンリ都市長」
「?」
「?」
彼女は首を傾げ、それ以上に赤子を抱えるシャルティアが首を傾げていた。シャルティアが一言も話さなかったのは、口に罰点マークの絆創膏を貼りつけたからだ。
効果は抜群だった。
「あなたと薬師の間に子供が生まれたらアインズ様が祝福を授けに訪れる。決して蛇様のことは口にしないように」
「はい、お婆ちゃんも応援してくれているので」
「……は?」
「あ、お婆ちゃんっていうのはリィジー・バレアレさんのことで、私のお婆ちゃんではないんですけど」
「そこじゃないわよ。リィジー・バレアレは首を絞められて殺されたでしょう」
「へ? い、いつですか!? 今朝、ンフィーレアにお弁当を届けた時は元気でしたよ!」
今朝……?
どういうことだ。
それでは、頸骨が砕かれてくたびれたゴムのように伸びていたリィジーの死体は、夢だったとでもいうのか。百歩譲ってそれが夢だったとして、ネムはどうして死んでいる。
「ええと……ネムはどうして死んだのだったかしら」
「森を散策中にはぐれて、腐った大木が倒れて下敷きに……森の蛇さんたちと協力して必死に掘り起こしたんですが、空気のない地中で窒息してしまって」
やや支離滅裂だ。大木の下敷きになって地中に埋まったと言いたいのだろうか。破滅の助言をした彼女の存在も、あの日に遠くで大爆発を起こした何かも、もしかすると大蛇が装備していた黄色い何かの存在も、全てが夢だったとでもいうのか。私はカッツェ平野に消えた蛇の苦痛と慟哭を覚えている。初めから蛇の存在がなかったとは思えない。
シャルティアとエンリと私だけが蛇の幻を見たと考えるより、蛇が記憶ごと世界から消えたと考える方が真実味がある。
「私……蛇神……そうか、ソリュシャン。信用できない語り手が――」
「あ、あの、アルベド様?」
「何でもないわ、エンリ。改めて村が発展してからまた会いましょう。都市長の就任式で」
「えぇっ! そんな、私なんかが」
私はぶつぶつと言い始めたエンリに構っていられる余裕がなくなった。急遽、確かめなければならないことができた。私は絆創膏を張って口を閉ざしているシャルティアと、急ぎ足で王都へ飛んだ。
◆
俺はオーバーロードを13巻まで読み進めた。
「なんだよ、この聖王国って。頭の悪い国だなぁ……もう宗教家はお腹いっぱいだよ」
ちょっとだけ読み進めるつもりが、13巻まで一気に読み進めてしまった。宗教家に辟易したので、包っていた布団から立ち上がって体をほぐした。昼と夜の感覚がないので時間の経過はわからないが、かなりの時間を読書に浪費したはずだ。途中、心地よい布団の感覚に居眠りまでしている。
とはいえ、モモンガさんが単独転移して世界征服をする並行世界の話ばかりでは飽きてしまう。俺は気分転換にとある分類の書物を探すべく、うきうきしながら本棚の山を徘徊した。廊下には果てが無く、本棚がどこまで続いているのかわからない。一本道なので帰り道には迷うことがなさそうだ。
道端に一冊の本が落ちていた。《
「……ご丁寧にどーも」
俺の声は広すぎる図書館に虚しく響いた。読書している最中は何の物音も聞こえなかった。もしかすると、俺には知覚できない何かがいるのかもしれない。一人はつまらないので、誰かがいるくらいでいい。
「おお、あったあった」
成人向け書物が性的な嗜好別に並んでいる棚こそ、俺の目的地だ。先ほど拾った本に加え、数冊の本を吟味の末に厳選し、足取りも軽く部屋へと戻った。机に本を並べ、最初に拾った本から読み進めていく。
昔から勉強が大嫌いで、要領よく考えるのも苦手だ。当然、集中力は長続きせず、早々にいかがわしい書物を開いた。いざこれからというときに、頭上からとても重たく騒がしいものが落ちてきた。
俺の脳は激しく揺れ、重度の脳震盪を起こしたらしく意識が途切れた。
成人向け書籍の艶めかしいイラストページを閉じる間もなく。
◆
次に私は、シャルティアを引き連れて赤子を王国貴族へ届けた。
王国貴族のアインドラ家は、廃墟のように静かだった。実の娘だけでなく養子にした娘まで失ったのだ、無理もない。夫人は私たちを笑顔で出迎えてくれた。気丈に堪えていたが、お茶を運ぶ手が震えていた。領主の老人は一回りほど老け込んだようで、日がな一日、日向ぼっこをして過ごしているという。
領主の兄夫婦を心配して帰宅していたアダマンタイト級冒険者、”朱の雫”のアズスが応接間に現れた。
「その、失礼ですがアルベド様。なぜ一介の貴族であるここをお尋ねに。今、兄夫婦は娘たちを失っていますので……」
「この子は、ラキュースの子よ」
「な……何ですって!? ラキュースとヤ……」
アズスとラキュースの母は口を開いたまま停止した。私が手を叩くと、乾いた音で二人の意識は復帰した。
「もう一度だけ言うわね。この子はラキュースの実の娘よ」
「あの、その子……ラキュースの相手はどなたなのでしょうか……覚えがないのですが」
「神……と呼んでも相違ない御方よ。我らの同胞にして、大義のために世界から消えた支配者の一柱。人柱となって異次元に消えた蛇神」
「まぁ……」
彼女は何かを理解したようだ。そう振る舞っているだけかもしれないが、この場の話を円滑に進めるにあたって必要だ。
「あの娘たちは幸せだったのでしょうか」
「幸せだったでしょうね」
「そうですか」
それっきり、両名は疑問を投げてこなかった。私には時間がない。夕刻にはナザリックへ戻らなければならないが、それ以外にもやることは山積みだ。渦巻く彼らの悲しみに巻き込まれ、時間を取られるわけにいかない。私はシャルティアから赤子を預かって本題へと入った。
「この子の名前は、シャルロッティ・ラヴクラフト・アインドラ。魔導国の次期女王候補にして、神の血を引く正統な後継者。アインドラ家の娘の血を引く孫よ。自分たちで後継者を育てなさい」
「しかし……突然にそんな」
「私たちも年老いてしまいましたわ」
「アインズ様の祝福は授けられている。養育費の心配もいらない。他に何か不安があるの?」
「しかし……兄者にはもうそんな気力が」
アインドラ家の当主、ラキュースの父は娘たちの死で生きる気力を失っている。男性とは女性よりも精神面で脆くてか弱い面がある。しかし、それに甘んじて倒れるのなら、魔導国に属する貴族に相応しくない。直々に当主へ存亡の意思を確認しようと立ち上がったが、先に応接間の扉が開け放たれた。当主はよろよろとおぼつかない足取りで、私から赤子を受け取った。扉の向こうで話を聞いていたらしく、彼の目は赤子を凝視し、赤子もまた目を覚まして彼を凝視していた。
「アインドラ家の当主、この子の名前は、シャルロッティ・ラヴクラフト・アインドラ。あなたたちの跡取り娘よ」
「……ぉ……おぉ、この子は」
彼は唇を震わせて涙を流した。皺だらけの手が頭髪と大福のような頬を撫でた。
「似ている……ラキュースに良く似ている……この金髪のくせっ毛……ふてぶてしい顔もあの子の子供の頃に瓜二つじゃないか……」
「兄者……」
「まるで、あの子が……ぐじゅ……生まれ変わった……ようだ」
嗚咽を押し殺し、彼は赤子の頬をつついた。子は嬉しそうに皺だらけの人差し指をつまみ、にへらと笑った。笑顔は父親によく似ていた。夫人が心配して駆け寄っていくが、彼は助けを必要としていなかった。
「あなた……」
「この子は我々にお任せください。愛情を目一杯に注いで育てます。アインドラ家の娘として、どこへ出しても恥ずかしくないように」
ラキュースが羨ましくなった。世界から消えた彼らの生命は、彼女を根として大きな大樹となって広がっていくだろう。蛇は生命力の象徴だ。
「当面の養育費は置いて行きます。有効に活用しなさい。神の力を引く彼女は、誰にも手に負えないほど強くなる。あなたたちの手に余るようなら、誰よりも先に私に連絡しなさい」
当主は何も言わず、涙を流してお辞儀をした。隣のシャルティアがえっへんと言って鼻息を吐き出したのが聞こえたので、私は無視を決め込んだ。白金貨の入った小さな袋を机に置き、シャルティアを伴って屋敷を出た。
外に出ると夕刻も半ば、すぐに夜が訪れる。想定よりも時間が経過していた。
「さあ、帰りましょう、ナザリックへ転移ゲートを開いて
「帰って何をするでありんす?」
「小説でも書こうと思っているの」
「そ、それは! 《あーるしてい》なるものでありんすか!?」
「ペロロンチーノ様と再会するまでにピンクの脳みその色を変えた方がいいわよ……」
「脳の色は変えられないでしょう!」
「そうじゃなくて……馬鹿ね」
彼女の馬鹿さが、在りし日の蛇を思い起こして和んだ。
◆
闇の中、穏やかな声が聞こえた。
《問う。友、夫、父、どれを望む》
俺は問いを与えられた。答えは随分と昔に出ていた気がする。俺の口は自然に動いていた。
「友…………とでも答えると思ったか! 全部だ、俺は俺の全てを捨てて全部、選んでやるよ! 友人として仲間を多く呼び戻して、夫として飽きるまであの二人を抱き、父親として子供の成長を見守り続けてやる! 糞ったれの思い通りになると思ったら大間違いだ。やれるもんならやってみろ、俺の願いを叶えて見せろ! ざまあみろ、ばぁぁぁぁか!」
俺は上空からこちらを見ている何かへ向け、中指を立てて怒鳴った。強引に作り出されたアインズさんの悲しい未来など信用しない。俺の鬱憤は少しだけ晴れたので、俺は歪んだ笑みを浮かべた。
視界に蜘蛛の巣状のひびが入り、ガラスが割れるように視界が砕けた。
《馬鹿が》
俺の夢は唐突に終わった。
意識が覚醒したのでゆっくりと目を開くと、書斎でラキュースとレイナースが覗き込んでいた。俺はまだ夢を見ているのだと思った。二段構えの夢とは珍しい趣向だ。
「あ、起きたわね。よかった」
「黒いミイラのような手に攫われたのだが、ここはどこだ」
「……だれ?」
「誰じゃないでしょう。愛する妻の顔を忘れたの?」
「酷い奴だな……この」
「ぎゃああああ!」
腕の裏側、柔らかい場所に激痛が走って俺の意識は一気に覚醒した。どうやらレイナースにつねられたらしい。俺は激痛に身もだえし、部屋中を転げ回った。痛みに喘ぐ俺よりも、つねったレイナースの方が驚いていた。
「ふーっ、ふーっ」
息を吹きかけても痛みは緩和されないが、気は紛れた。俺は寝そべったまま、顔を向けて二人を見た。
「ああ、痛かった。んなことより、どうしてお前らがここにいんだよ」
ラキュースとレイナースは代償に使っていない。選択肢はあったが、そこまで鬼畜ではない。夫として、支配者としても相応しき振る舞いとして、俺は自分だけを犠牲にした。自分の家族は子供を産んで平和に暮らせばいいんだ。
「あー!」
いつの間にかレイナースが立ち上がり、机に並べられたいかがわしい書物を見て叫んだ。よりによって見せ場で開かれた本は、内容が一目でわかる。俺の顔から血の気が引き、顔に感じる空気が生温かく感じられた。俺の人生において困ったことや失敗したことは多い。ラキュースまで机に近寄り、レイナースが手を伸ばして本を取ろうとしたところで俺は絶叫した。
「待てぇ! それに触るな!」
「こ、この浮気者め!」
レイナースは山猫並みの素早さで俺の前に飛び出し、俺の頬をつねった。
「く……くく……ぎゃー!」
少しは堪えたが、やはり耐え難い。軽くつねられただけで激痛が走った。涙を以て余りある痛みに二度目の悶絶をして、芋虫のように床を転がった。椅子だの壁だの、方々へ体を打ち付け、激痛が加算されていく。遂に力尽きて身動き一つとれなくなった。
「はぁ……はぁ……死ぬ……もうだめ……死ぬ」
「レイナ、あなた、強くなったのねえ。ヤトに立ち向かえるくらいに」
「……どういうことだ?」
ラキュースは俺への心配の前にレイナースの強さを称賛した。無効化されない激痛を俺に与えるのは凄いが、虫の息の俺も少しは心配して貰いたい。
「ところでこの本はなに?」
「この、この、答えるのだ」
「ぎゃあああ! だからいってえんだよぉぉ!」
なぜ無効化できないのかわからず、俺は痛みを堪えるだけで精いっぱいだ。痛みに対する精神的な抵抗も消え失せ、最後の戦いで左腕まで切り落とし、涼しい顔で全身の皮膚を剥いだ俺は、レイナースにつねられただけの痛みが耐えがたかった。今の俺なら拷問されただけでショック死する。
「いい加減にしろよこの糞アマ!」
「あ、ごめんなさい……だって、いつもやられてばかりだから」
「だってじゃねえだろう! 面白半分に人を痛めつけて何が楽しいんだ! ぶっ殺すぞ!」
「それをあなたが言うの?」
ラキュースがじとじとした横目で見ていた。レイナースは俺に怒鳴られながら嬉しそうに笑った。
「あなたと距離が近くなった気がして嬉しい」
「冗談じゃねえわ! 離れたいくらいだ」
「もう、馬鹿……」
「ぎゃああああ!」
嬉しそうな笑顔は可愛らしかったが、その容姿から想像ができない剛力でつねられるのでたまったものではない。俺は芋虫のように転がって本棚にぶつかり、棚から落ちた本が頭に当たった。そちらもなかなかに痛かった。不思議とどれほどの痛みを感じても痣や内出血は起きなかった。痛みの感覚があるだけだが、それがやたらに辛い。涙目になって不貞腐れ、布団に包ってカタツムリのように籠った。
「それで?」
ラキュースがカタツムリの俺の横に座り、頭の部分をぽんぽんと叩いた。やはり正妻は優しくて落ち着く。粗暴な妾とは違う。
「この本は何に使おうとしていたの?」
前言撤回。
「実は、俺はアインズさんのために未来を変えようとして――」
「その話は後でいいわよ。先にこの本の説明をしなさいな」
頭だけ出してラキュースの顔を見ると、いつもの恐ろしい笑みを浮かべていた。弱体化した現状で、彼女を怒らせるわけにいかない。かといって、この場をやり過ごす言い訳も思いつかない。
「無理」
「……あ?」
足の指をつねられた。耐えられない痛みに、骨が砕けたと思った。
「ぐあああ! 折れた! 絶対折れたよ!」
指を見ても折れてなどいない。ただ俺がとても痛かったので騒いでいるだけだ。
「あら……あなた、本当に弱くなったのね。なんかとても楽しいわ」
「女性が強くあってこそ家庭が平和になると思う」
「思わねえよっ! この馬鹿女どもが!」
「うるさいわね、生意気な! えいっ!」
「く、くく……無理だ! 痛い! 止めろよ馬鹿女ども! えいっじゃねえよ馬鹿! マジで痛いんだぞぉ……」
日頃の恨みとばかりに、二人は俺に暴行を加え続けた。ちょっとつねっている程度の感覚なのだろうが、俺にはショック死の危機だ。心臓が生きるのを止めたいと叫んでいる気がした。力尽きた俺は、涙目で布団の中の要塞へ引きこもった。
「あら? お腹の膨らみがない……」
「うそ……噓でしょ? 子供は!?」
「ねえ、あなた。子供はどうなったのかしら」
膨らみかけていた腹部はへこみ、女性らしい線を描いている。子宮は空席で、何も入っていないように見えた。俺は慌てて要塞から飛び出したが、お腹に耳を当てても何にも聞こえてこなかった。スキルを発動させようとしたが、何も起こらなかった。
「そもそもここはどこなんだ?」
「わからない……」
「子供は……?」
「わからない……」
俺の知っていることは、ここは俺たちのいた世界ではない。俺たちの元いた世界でもない。それをそのまま説明したが、ラキュースは取り乱し、レイナースも慌てふためき、俺も動揺した。
「私たちの子供はどうしたの? あっちの世界へ置いてきたの!?」
「た、多分……」
「ここがどこかもわからないのか?」
「わからない……」
「なんとかしなさいよ!」
「どうしろって言うんだよ! お前たちをここへ置き去りにして俺だけ帰れっていうのか!」
「そうよ! 子供のために命を張りなさい!」
「そのやり方も知らないんだぞ! 俺にはやることがあるし……俺だってどうしようもないんだよ」
「私たちがやるから、あなたは子供のために――」
「馬鹿なこと言うな、馬鹿レイナ!」
「馬鹿……だと?」
レイナースがいつにない衝撃を受け、口を開いて震えていた。そんなに怒ることか。
「レイナの言う通りにしなさい! ばか!」
「うるせえ! お前らを置いて行けるか、ばか!」
「ばーか! ……馬鹿……子供には何の罪もないのに……馬鹿」
ラキュースの堪えていた涙が流れ出す。
「……わかってる。わかってるよ……あの子が平和に暮らせるような未来を作ろう」
「親の愛情を知らないで育つのよ……暖かい太陽のように惜しみなく注がれる愛情を知らないままで……一度でも、この手で抱きたかった」
「俺もだ……」
「ばかぁ……」
「本当に馬鹿だな……」
「わかってる」
俺は父親にはなれなかった。
願いは聞き入れてもらえなかったのかよ……糞ったれが。
俺は神を殺してやりたくなった。
◆
知性の低さをオイルに変換して口に塗りたくっているシャルティアに、私は改めて口止めを万力のような力で締め上げた。円卓の間へ向かう道すがら、デミウルゴスと遭遇した。
「ねえ、デミウルゴス。カルネAOGで何があったか覚えてる?」
「当たり前でしょう。我々はアインズ様と親交のあるエンリ・エモットの妹がなくなったので、弔いに立ち寄ったのではありませんか。もう忘れたのですか?」
「……は?」
「人間とはいえ、エンリは次世代の都市長、その恋人のンフィーレアはナザリックに貢献する薬師。表立って参列していませんが、エンリとンフィーレアを呼び出して彼らへ祝福の魔法をお授けに。そこで我々は世界の異変を知ったのです」
「彼女と出会ったのよね……?」
「彼女? 誰のことですか?」
「いま、世界の異変と」
デミウルゴスは露骨に不振がっている。私はそれ以上の追及を辞めた。
「……? 世界に魔王が降臨すると子供たちが空を見上げて口々に叫びましたのでね。あの日、我らは武装してカッツェ平野を訪れたのです。彼女……という言葉に該当する人物はいませんでしたが、どなたですか?」
「そう……そうだったわね……ごめんなさい」
「?」
「あなたは確か、竜王国の属国化に関わっていたわよね?」
「ええ、私がヤ……ヤ? 私は今、何と言いましたか?」
私は答えを知りながら黙っていた。
「確かあの時は……そうだ、私はあの日、あの時、あの場所で……アインズ様へ忠誠を誓うべきだとパンドラに諭されましたね。たとえどなたが御帰還なさろうとも、NPCの忠誠はアインズ様だけのもの。世界の全てに髑髏の紋章旗を突き立てろと、部下とプレアデス、マーレ、コキュートスを前に話しました」
「そう……」
嘘だ。
それは食い違う記憶が折り合いをつけた過去で、真実は違う。とはいえ、聞きたいことは聞けた。私はぼろが出ないように歩き始めた。
「私は野暮用を思い出したから行くわね。呼びとめてごめんなさい」
「あなたのお連れしたラナー王女、あれは素晴らしい逸材だ。人間にしておくには惜しいくらいですよ」
「そう、ありがとう。人間を辞めないかと進めてみるといいわ」
「ほう、これはいいことを聞いた。早速、提案してみましょう」
悪魔のように笑った彼に構わず、その場を離れた。仮説を立証するため、円卓の間を避けて宝物殿へ向かった。宝物殿の領域守護者は、私の創造主に化けていた。
「パンドラズ・アクター、戯れは止めなさい。あなたに聞きたいことがあります」
タブラ・スマラグディナの偽物は首を傾げてから、パンドラへと戻った。本物であれば首を刎ねてやりたいところだ。軍靴のかかとを叩き合わせ、仰々しい敬礼を行なった。長ったらしい挨拶はいつも通りだ。
「ようこそ、ご機嫌麗しゅう、ナザリック地下大墳墓が主神の第ニ皇后陛下! 今日は何用で我が宝物殿へ?」
「相変わらず挨拶が長いわ」
「そのように作られているもので。ところで、最近は”ネコ”なる哺乳類に化け、王都にて諜報活動をしようかと思ってい――」
「あなたの話はラナーにでもなさい。時間がないので単刀直入に聞くけど、カルネAOGで何があったか覚えている?」
パンドラは顎に指をあてて溜め、その場で回った。溜め過ぎた勢いで二回転もしていた。
「無論! わぁれら参謀三名はぁ、エンリ・エモットの妹、ネム・エモットの弔いへ花束を持っていったのでございます。花でいっぱいの棺に参列者は涙を堪えきれず、種族問わずに嗚咽を漏らしていたではあぁりませんか。あれこそ、愛が見送る冠婚葬祭。祝福の土葬です」
パンドラは両手を広げて演説するかのように叫んだ。私の記憶と大きく食い違っている。我々は要塞から一歩も出ておらず、ネムの葬儀に参列していない。デミウルゴスの話とも食い違っている。
私が黙っていると突然、アインズ様の姿に化けて大演説を始めた。動きは御方よりも大袈裟だった。
「久遠を貫く生命の原理、命の
名状しがたい間が発生した。
「……なんなの」
「……妙ですね。第二夫人のアルベド殿ともあろう御方が、アインズ様の演説を覚えておられないのですか? 演説によって泣き声は喝采へと変わり、ネム・エモット嬢の棺は土の中へ入っていったではありませんか」
パンドラは帽子を正し、片目で私を窺っている。彼の纏う雰囲気は懐疑的になり、私に何らかの疑惑を持ったようだ。これ以上の滞在はまずいと判断し、早々に引き上げた。
「……疲れているのかもしれないわ。ありがとう、聞きたいことは聞けた。私はアインズ様に呼び出されているので行くわね」
「またのお越しをお待ちしております、お妃殿!」
パンドラは敬礼して私を見送った。
やはり、初めから仕組まれていたのかもしれない。これらが一連の出来事が何らかの意思による事象なのだとしたら、どこから仕組まれていた。
我々がカルネ村に向かってからか。
大蛇が王都から消えた夜か。
竜王国の戦いからか。
あるいは、この世界へ転移してからか?
走ったので息が乱れてしまい、円卓の間の扉前で何回も深呼吸をした。乱れた呼吸を悟られてはならない。アインズ様の剛運は知っている。疑惑の糸口でも悟られれば、どんな手法で運命を歪められるかわかったものではない。
落ち着いて扉を開いたが、うっかりノックを忘れていた。室内にはヘロヘロとアインズ様しかいなかった。
「あ、アルベドだ。奥さんと呼んだ方がいいかな」
「ヘロヘロさん……」
この二人は再会してからというもの、円卓の間で長々と話をしている。至高の41人の中で種族として睡眠・飲食の必要がない二人の話は長い。放っておけば不眠不休で話し続ける。種族として必要がないので構わないのだが。
「お呼びでございますか、アインズ様」
「う、うん……」
私の件で口が鈍くなり、咳払いで仕切り直した。すぐにいつものアインズ様へ戻った。
「この度、ヘロヘロさんが帰還した。
「いつになさいますか」
「なるべく早い方がいい。とはいえ、アルベドも忙しいだろう。都合のいい時を教えてくれれば、我々がそれに合わせよう。それから、彼の帰還を周辺国へも知らしめたい。祝賀のパーティーでも開こうと思うのだが」
「……」
「アルベド?」
普段の私ならば、両手放しでその話を受けた。しかし、蛇が生きているのなら、すぐに他の41人も帰ってくる。その都度、周辺国を集めていてはきりがないが、大蛇の存在を忘却した彼らに断る理由がない。どうしたものかと考えていると、ヘロヘロが片手を上げて提案した。スライムが椅子に腰かけると妙に小さい。
「えーと……アルベドさん? 王妃様?」
「ヘロヘロさん……」
「アルベドで構いませんわ、ヘロヘロ様」
「そう? ありがとう。それで、別に周辺国はいいと思うんだ。別に俺が政治に加わるわけじゃないし、遠くから馬車で呼ぶのも悪いから」
「それはほら、転移ゲートを使えば簡単ですよ」
「でも、なんか悪いなぁ。そんなに目立ちたいわけじゃないし、周辺国の王様も集まってくるんでしょう? そんなパーティなんて経験ないしなぁ」
「そうですか? すぐ慣れると思いますよ」
ヘロヘロは及び腰だがアインズ様は不満そうだ。
大切な
「いいえ! 至高の41人に名を連ねるヘロヘロ様が御帰還なさったとなれば、我らの国家はより一層の繁栄をすることでしょう。是非、盛大に祝いましょう。すぐに帝国、法国、評議国、竜王国へ使者を飛ばします。ヘロヘロ様御帰還祝賀会は一週間後、場所は魔導国の宮廷でいかがでしょう」
「すぐに準備を始めるとしよう」
「手配は全て私のほうでしておきます。料理長、僕、メイドの手配など、諸々の打ち合わせまでお任せください。詳細は後日、私が説明を」
「忙しいと思うが、済まないな」
「ねえ、アルベド。モモさんのどこが好きになったの?」
「はい?」
「だって、結婚したんでしょ?」
「ヘ……ヘロヘロさん……」
ヘロヘロが楽しそうに世間話を投げかけてきた。
「全てです。あぁ、いと貴き至高の41人の総括であるアインズ様は、どうしてかくも愛おしいのでしょう。死ねと言われれば命を絶つことに一縷の躊躇いもなく、無情の幸福として笑いながら死にましょう。私の夫などとおこがましいですが、女としては幸福の極みですわ!」
ついうっかりいつもの調子で話してしまった。どうもこの手の話には弱い。
「凄い惚れようだね。モモさん、アルベドに何かしました?」
「……設定を」
「ほう?」
「設定がちょっと……」
「それは違いますわ、アインズ様。私は設定を変える前から、至高の41人の総括であり、このナザリック地下大墳墓を心から愛し、慈愛の心で私たちを見守ってくれたアインズ様だからこそ、自然と心から愛したのでございます」
「あ、はい……すみません」
どうして謝られたのだろう。
「凄いね。いやー、そんなに惚れてるなら夫婦も円満だね! モモンガさんと殴り合いの喧嘩をしてまで苦労を乗り越えてるだからね」
殴り合いとは、大蛇と私の大喧嘩のことだろう。大蛇がモモンガ様にすり替わったのだ。個人個人で記憶の改変が違うのは困りものだ。その都度、折り合いをつけた過去を把握しなければならない。そこを掘り返すことはせず、話題をすり替えた。
「時に、ヘロヘロ様」
黒い粘液が体を波立たせてこちらを見た。眼球代わりのスライム種に視覚を与えるアイテムが、電球のように光った。
「先日、我らは協力して敵を打ち倒しました。得体の知れない敵でしたが、なんとか早期発見して奇跡的にも犠牲者は出ませんでした。しかしながら、今後、そういった情報をより早く収集すべきだと思うのです。我々の与り知らぬ場所で転移なさったヘロヘロ様に、ここまで何が起きたのか教えていただけますか」
「いいけど、長いよ?」
「構いません」
「じゃあまず、俺が洞窟で眠りこけてたところからね」
眠り?
アインズ様と同様、種族としてステータス異常がないのに眠ったのか?
「魔導国とセーオーコクの境目に村があるでしょう? そこから離れた入り江に、ちょうどいい洞穴があってね」
そんなところに村など存在しない。あのあたりは不漁が続き、数十年前に村は移動している。今では廃墟さえも残っていない。
こいつは本当にヘロヘロか?
アインズ様は長話をするヘロヘロを満足げに眺めている。やはり、これはヘロへロなのだ。私は金色の目をで黒い粘液体に懐疑的な眼差しを送りながら、両耳から入って脳内で反響するヘロヘロの言葉を必死で記憶した。
◆
俺は机に向かって勉強している振りをしていた。《うんざり》という言葉をノートの1ページにびっしりと書き込んだあたりで、俺の手は完全に止まった。遂にそれさえも飽きてしまった。
体は荒縄で椅子に縛り付けられて、立ち上がることさえ許されない。どういうわけか生理現象が起きないので問題はないが、拘束されているのは気分がいいもんじゃない。
二人の監視者は湯を沸かして紅茶を煎れ、ティータイムを満喫している。初めはガスコンロに驚いた二人も、俺と同じように前髪を焦がしてから順応した。不思議なことに、お菓子をねだると何もない空中から落っこちてきた。得体の知れない場所だが、福利厚生は行き届いている。
「みて、ラキュース。この本はどうかな」
「《メルキオールの惨劇》……あらすじ読んでもよくわからないけど」
「面白かったよ。ホラー小説だったけど」
「そうなんだ。《狂戦士》を読み終わったら読むわね」
「ダークファンタジーが面白いと思う」
彼女たちはこの図書館を満喫している。俺たちの世界の文字も、今の彼女たちは翻訳眼鏡が無くても読めるらしい。中二病と無限に広がる図書館の相性が良すぎる。レイナースまで中二病を発症しかけている。
「俺にも紅茶……」
「異世界転移系はどうかな」
「うーん……自分たちの生まれがいわゆる異世界でしょう? 正直、あまり面白くないわね。次に読むのは”りある”の本がいいかな」
「あ、そういえば《簡易食堂》、先に読んじゃった」
「うん、わかった。私も《王立国教騎士団》を先に読まないといけないから」
ラキュースとレイナースは次に何を読むかの議論で忙しそうだ。俺の言葉は黙殺された。レイナースが横目でちらりと窺ったが、それだけだった。
「おーい……話を聞いてくれー。俺も喉渇いたー、お腹減ったー」
「うるさいわね、お尻つねられたいの?」
「終わったのか?」
「いや、なにも」
「じゃあ、駄目」
子供の動向を知るという宿題を与えられ、疑問を解消するまで俺は席を立つことを許されていない。子供を置き去りにした罰だと言われては何も言い返せなかった。少し前なら造作もなく千切れた荒縄も、鉄でできてるように動かなかった。どれほどの怪力で絞めつけたのやら。
「なぁ、頼むよ……もう飽きたんだよ。適度な休憩で気分転換をさせてくれ。できればおっぱいでも触らせてくれ」
「渡した本を読み終わったら教えてね。次の資料を探してくるから」
下品な冗談さえ相手にされなかった。彼女は本から視線を移さなかった。子供の件で彼女の怒りは深い。
「お前、マンガ読みたいだけだろ。俺だって読みたいのに」
「お黙りなさい。さっさと調べてね、馬鹿親父さん」
「……」
ラキュースとレイナースがあちこちから資料になりそうな本を集めてくれたのは最初だけ。それっきり、彼女らは自分たちの趣味の本に没頭している。読まなければならない本が机の両側に積み上がり、まるで虹色の部屋だ。恨みがましい目で本の塔を眺めたが、減ることはなかった。
異空間ではどれほど長時間、本を読み続けても肉体は疲れなかった。体ではなく魂としてここにいる可能性が高い。説明書のお陰である程度、自分たちの置かれた状況は把握していた。しかし、それを裏付ける何かが無いと二人は納得しない。ラキュースとレイナースがここにいる理由だって、いまだにわからない。
ずっと一緒にいたいと思っていたが、これでは奴隷だ。鵜飼の鵜だってもう少し好待遇に違いない。
「もうやだ。頼むから俺にも気分転換をさせてくれよ」
「うるさいわね、真面目に勉強しなさい。私たちの子供が犠牲になったのかもしれないのよ」
「大丈夫だよ。あいつは強いから」
「はぁー……この馬鹿。仕方ないわね……レイナ、拘束を解いてあげて。また別の本を探しに行きましょう」
「ん、わかった」
アホの妾はわかっていなかった。こいつは呪われていたほうが賢かった気がする。別世界の文学にドはまりして螺子がすっかり緩んでいる。犬の散歩よろしく首に荒縄を撒きつけられ、遠くまで行かないように図書館へ連れ出された。少しでも妙な動きをすると縄が引っ張られて死にかける。
子どものことで殺気立つのはわかるが、これはやり過ぎだ。
「あら? 本棚の配置が換わっているわ。前はオーバーロード関係の棚だったのに」
部屋を出てすぐの本棚にラキュースが手を触れる。《世界線分岐》と書いてあった。
他の棚も少しずつ配置が換わっている。いくらか先の本棚は青年向けだったが、学術書に変わっていた。配置の変わった本棚を物色しながら廊下を進むと、廊下中央に本屋の新刊案内とでも言いたげに低いテーブルが設置されていた。タイトルの無い、白いハードカバーの真新しい本が一冊だけ置かれていた。
まだ新しい本を手に取り、作者の名前を見て俺たちは顔を見合わせた。
《著・アルベド》
「アルベド?」
◆
誰かに呼ばれた気がして振り返ったが、書類の積み重なった机があるばかりだ。椅子に腰かけた私の前に、ソリュシャンが跪いている。私は彼女を呼び出し、ヘロヘロの話と整合性を確認していたのだ。
「以上が、ヘロヘロ様と私、番外席次の遭遇した異形種です」
「そう……Cと名乗ったのね?」
「はい」
姿形からして、CはCthulhuのCだ。本物でないにせよ、そうでないはずがない。動き回るプレイヤー三名の傍らに必ず、一貫してとある神話体系の種族が関わっていたのだから。
「ありがとう、下がっていいわ。帰りなさい、あなたの主の元へ」
「はい」
彼女が笑顔で退室したのを確認し、私は机に向き直った。ヘロヘロとソリュシャンは同じものを見ている。それは、同じ幻影を見ている証明となる。なぜなら、私を含めた参謀の三名の記憶は食い違っている。
翻ることなき真実として、ネムの死、ヘロヘロの帰還、ヤトノカミの消失が挙げられる。
それ以外は全てがあやふやな主観。冒涜的な種族を傍らに置く、信用できない語り手たちの物語。
ヘロヘロが人間化して眠ったということだが、蛇じゃあるまいし、人間化したくらいで種族特性を越えられるほど甘くはない。そこから既に疑惑は始まっている。
私は筆を取り、これまで起きた150日の記録を書き始めた。時系列に出来事を並べれば、新たな何かが見えてくるかもしれない。
それは私にだけ許された行為。彼と殺し合いを行い、同神話系統に属する種族であり、蛇の記憶を海馬中枢へ残す私だけがこれを実行できる。イビルアイ、シャルティア、エンリにはできない、私だけに示された道だ。ヤトノカミが世界にいたときの彼の行動は報告書にまとめているし、資料が足りなければ彼の護衛をしていたシャドウ・デーモンでも呼び出せばいい。記憶に違和感のある場所が、彼のいた場所だ。
ヘロヘロ帰還の招集は後回しにせざるを得ない。どのみち彼らは、朝から晩まで過去の話で盛り上がっている。そちらを急ぐ必要はない。睡眠・飲食の不要なアイテムのおかげで、物語の執筆に没頭できた。
小説はすぐに完成した。
彼らの150日に及ぶ、150万字の物語。
「ふー……」
本としての形成された物語のページを開いた。
◆
俺たちは本を読み終えた。
「つまり、どういうことだ?」
「全員が見たものが違うということ?」
「あなたはどう思う?」
「ん……俺は初めからいなかったとか」
「でも馬鹿はここにいるじゃないか」
「……悪かったな、馬鹿で」
「ごめんなさい……」
「フン」
話の腰をへし折っておきながら申し訳なさそうに謝っていたが、素直に許す気になれない。これまでの恨みとばかりに頬を摘んだが、恐ろしく硬かったのでやめた。いつから俺の嫁はゴリラになった……。
「私たちが死んだ理由は……」
「死んだと決まってないだろ」
「いいえ、死んでいるわ。ここにいる私たちは魂だけ。黒いミイラの手に魂を抜かれて」
「黒い手って、猿の手か?」
つまり、魂を引っこ抜かれて俺と一緒にいるわけだ。俺はそんなことを願った覚えはない。
「そういえば……あなたがファラオみたいになっているとき、黒いミイラの手を触ったわよね?」
「ファラオいうな」
そうだ、願ったのはこの二人だ。俺は該当ページを開いた。アルベドと戦った直後、俺の部屋で猿の手が使用されている。
「ラキュースは俺とずっと一緒と願って、レイナは三人でずっと一緒って願ってるな……」
「……」
「……」
「おい」
二人とも、悪戯が見つかって困る子供の顔だ。義理の姉妹とはいえ、表情はよく似ていた。少なくとも、子供を置き去りにしたのは猿の手の影響で、俺が何かをしたわけじゃない。怪物のような恐妻家と立場を入れ替えるなら今しかない。
「子供は俺のせいじゃねえだろ! お前たちが勝手にやったんだぞ! 反省しろ、反省を」
「でも、そうなっていたらあなたが寂しがるでしょう?」
「フン………三人で一緒って願ったから子供は弾かれたんだろ。なんてひどい女だ」
「……どうしよう、私はなんてことを」
「反省しろ、猿のように。そして俺の言うことに従うのだ」
「レイナ、馬鹿の言うことを真に受けないように。立場を入れ替えようとしているのよ、騙されないで、レイナ」
「この……まるでダメ男が」
「ぎゃあああ!」
ゴリラ並みの力で尻をつねられ、俺は再び悶絶した。痛みに対する精神耐性はなく、素直にとても痛い。痛みが治まってから瀕死の思いで椅子によじ登る。腰かけてページを見直すと、新たな文章が書き加えられていた。現在進行形で物語は加えられていき、今この瞬間もリアルタイムでアルベドが書いている。
アルベドに構成された文章はとても読みやすく、そこからは簡単だった。
◆
アインズ様は以前、魔法を使用すると大きな力の存在を感じると言った。それを無色透明なる力の塊だと教えてくれた。もちろん、実際に神がいても驚くべきことでは無いと笑いながら。宗教家の法国民はそれについて熟考せず、思考を放棄して神だと言い張っていた。
それでは、力の塊が無色透明でなく、何らかの指向性があったらどうなる。
ソリュシャンを操ってヘロヘロと交戦させ、全く別の幻を見せることなど容易いのではないのか?
世界を覆いつくすほどの幻術を使い、この世の全てを欺く。
全てを実行し、またその全てをなかったことにしてしまう。
魔法ではなく心理現象として、種族を越えて世界の全てを眠らせる。
自由意志の黄色いアイテムも、私に意見した彼女も、ヘロヘロと交戦したCでさえも、全ては夢まぼろし。
失った記憶さえ残さず、世界を逆回転させて夢から覚ます。
たとえ一つでも真実だとしたら狂っている。
私は紅茶を煎れて椅子に腰かけた。ダージリンに黄金の蜂蜜を垂らすと、くどさのない甘い匂いが部屋に満ちる。口にすれば、蜂蜜の芳醇な甘さの後に繊細な紅茶の味が残る。
私は、世界の理さえ変えてしまう神、並行世界を造作もなく作成する邪神に心当たりがある。
世界に初めから存在したのは副王、白痴の主神から生み出された最高級の邪神Yog=Sothoth。彼は
思えば予兆はあった。
竜王国とドワーフ国へ御方々がそれぞれ向かわれた日、芸術家に分類されるものが全て死亡し、数日後に漆黒聖典が真水の海にて部隊半壊の憂き目にあっている。それがヘロヘロの遭遇したCだとするならば、そこから夢の世界へ足を踏み入れている。大蛇が描いたシナリオという夢の世界へ。
◆
そうだ、俺は竜王国に出向いたとき、誰かの視線を感じていた。
焚火を見ながら俺は、アインズさんの楽しそうな姿を見たがっていた。俺の全てを犠牲に現実世界の仲間を呼べるアイテムが手に入ったら俺は使う。それが俺の人生の最後に相応しいと思った。あの時からずっと、このためだけに操作されていた。
ラキュースが紅茶を煎れてくれた。眉間にしわを寄せて難しい顔をしている俺を心配そうにのぞき込んだ。
「でもそれって……別にアインズさんのためじゃなくね?」
◆
「本当は、アインズ様のことなどどうでもいいのでしょうね……あなたの望んだのは人生の幕を引くための舞台だから」
人間を止めて心が歪んだ彼は、アインズ様のために死んだのではない。初めから死に場所を求めていたのだ。恐らく、本人さえ自覚ないままに。敵対者を許せず、虐殺を止められない自分が嫌いだったのだろう。脆弱性を残す彼ならではの思考だ。この世界へ転移した際、彼だけが別の門を潜ったのかもしれない。
まともな精神で潜ることのできない、銀色に輝く門を越えて。
仲間を呼び戻したいという彼の想いは本心だが、アインズ様への純然たる愛情ではない。自分の望んだ理想の自分像で、呪われた生を終えたかったのだ。やはり、私と彼は同じではない。
彼は邪神を召喚し、死に場所、生き様、未来を叶える力を得た。
彼はいまどこにいる。
◆
俺のいるここは、副王の胎内に作られた《アカシック・レコード》の図書館だ。
俺の蛇アバターは代償に奪われ、人間の身体が残された。姿形が無いとパソコンは弄れない。改めて考えると、心も普通の人間に戻っている。経験値と蛇の肉体を失って魂だけとなった俺のレベルは退化して0に戻った。レベルとは魂に付属するステータスの一部で、ラキュースとレイナースのレベルは高いままだ。俺が1と仮定すれば、二人のレベルは30~50。夫の50倍強い嫁だから、ちょっとつねられただけで、痛みで心が折れそうになるのも仕方がない。
おかげで尻に敷かれっぱなしだ。
俺はこれから世界の創造主となり、ここから仲間を呼び戻す。俺が参加している物語ではなく、俺が見たかった物語を作るために。誰かに与えられる運命ではなく、自分で作り出す未来。最後に残るのは信仰と愛じゃなく、生きた結果がもたらす未来だ。
俺がアルベドに感じていた親近感は、アインズさんを巡る共通の意志に加え、種族が同神話から出展されたものだからだ。顕現する神々は会話もまともに通じない存在ばかりで、俺とアルベドは共存できずに殺し合った。
今となれば、それさえも仕組まれた運命だったのかもしれない。
「まさに、うつし世は夢、夜の夢こそ
「何それ?」
「ランポよ。最近、少年ものにハマっているの」
中二病が熟しきって腐りはじめてんじゃねえのか……。
◆
違う。
確かに私と彼は殺し合ったが、単純な意見の不一致が故。心があるものはその程度のことで簡単に殺し合う。
大蛇が消えた夜が真実であろうと、立証はできない。皆に話したとして、蛇の存在そのものが私の妄想の産物であったと言われれば反論ができない。それを証明するに足る材料は世界から消え失せている。
蛇が世界へ遺してくれたのは、私、シャルティア、エンリの中の記憶と、邪神の落とし子だけ。それが何を意味するのか、私にはわからない。誰にもわかりはしない。もしかしたら意味など無いのかもしれない。
神話体系に描かれている
違う、ヘロヘロは確かにヤトノカミの存在を把握していた。世界は夢から覚め、ヤトノカミの存在が消えた。我等と同じ神話の種族、ソリュシャンが蛇を覚えていないので、鍵は世界級アイテムだ。
記憶を奪う力はヤトノカミが最後に行使した世界級アイテム……ヤトノカミは世界級アイテム? 世界級アイテム扱いの力を行使したというのか? 世界級アイテムの力を持つ者を眠らせておきながら、記憶を奪う力は
支離滅裂だ……。
この世界に顕現した邪神。あるいは顕現ではなく魔力の根源として宇宙の深淵に坐している副王。自分の代わりに幻夢境を動き回る世界級アイテムとして、ヤトノカミを創った……いや、造り替えた。すると彼は、初めから世界から消えるために存在したということになる。
考え方を変えてみよう。北欧神話の観点からすれば、主神はアインズ様、副神はヤトノカミ。それはオーディンとロキの図式に換算できる。
ロキ――主神、オーディンの義兄弟にして副神でありながら悪神の
ヤトノカミは初めから二人いたというのはどうだろう。人間形態と蛇の形態は別人格で、記憶だけ共有している。銀の門を潜ったときに分離してしまい、ラキュースとレイナースだけが彼の理性を繋ぎ止める鍵、蛇と人間の二人には、妻も二人必要だった。彼は主神モモンガ様と敵対するためだけにこの世界へ顕現し、徐々に薄れていく人間性とモモンガ様への攻撃意思に苛まれ、世界を閉ざすための死に方を模索していたと考えれば――
……発想が飛躍している。
理論は単純だからこそ応用が利く。
世界が夢を見ていたと考える方がわかりやすい。
◆
夢じゃない。
確かに、
だが、俺だったら夢オチにはしない。
まず、ヘロヘロさんは、俺をここへ導く舞台に最適な人物だった。
ヘロヘロさんと番外席次がソリュシャンに飲み込まれて夢を見ていた可能性もあるし、戦っていたのはソリュシャンという可能性もある。アルベドを媒介にしてカルネAOGに幻術を仕掛けた可能性もある。黄色といた俺も、独り言を言い続けて眠り続けていたのかもしれない。
ただ、それよりも全てが実際に起きていた可能性の方が、副王であれば現実的だ。
セーブポイントは竜王国の攻略直後だ。俺だったら、きりの良いタイミングのあそこでセーブする。本格的に始まったのは、竜王国を攻略した俺たちが聖王国に移動してから。俺は宿屋でイベント始まるよと業務連絡のアナウンスを聞いている。
選択はそれよりも前、画家が自殺した時にフラグが立っている。どの邪神に未来を願うのかと。俺は未来を決めた結果、竜王国民のために獣を虐殺した。モモンガさんの紋章旗を世界へ突き立てるため。そのまま副王へ直結するとも知らずに。
「というのはどうかな」
「相変わらずのろくでなしだな……せめて、何かを予感しながらやれ」
「だって、知らなかったんだもんよ」
◆
「まったく、本当に……不細工な男だ」
彼は何がしたいのか不明な点があった。
意図不明な行為こそ、蛇という運命の探査針による世界の岐路だったのだ。
思い返せば、彼は出会ったものの執着心を強める性質があった気がする。種族としてではなく、一人の人間として。初めの戦いで、プレイヤーのくせに《
馬鹿な子ほどかわいいという理論通りだ。同様に方法でラキュース、レイナース、番外席次、竜王国の女王を籠絡し、デミウルゴス、パンドラ、そして私は彼によって個別の執着心を強められている。固執しないように努めるあまり、かえって固執してしまうのは悪い傾向だが、自覚したときには手遅れだ。ここまで何も知らぬうちに実行していたのだ。
彼自身が一つの物事に執着してしまう性格だったのだから。
「馬鹿は偉大だ……それにしても、まるで彼は今の状況を作るために初めから行動していたような気が……あ」
私の脳が光った。閃きの光は脳を覆い、最も濃厚に香る可能性をはじき出す。それは、私しか導き出せない、世界の存在そのものを揺るがす冒涜的な仮説だ。
「わかった……」
◆
「あ……私、わかったかも」
レイナースが挙手にて意見を求めた。
「却下」
「はぁ?」
「うん、私もわかったかも」
「却下」
正直、事実を追求することに意味が見いだせなかった。却下されたラキュースは唇を尖らせ、俺の頭を叩いた。むち打ちになりそうなほど急激に頭が下がり、首の骨がギリギリと軋んだ。その力はまさに鬼神だ。頭が外れなくて本当に良かった。
「いいから聞きなさい、馬鹿。あなたは知らなければいけないの」
「……メンドクセ」
「いい? 副王の中で過去、現在、未来は混在している。つまり、幾つもの並行する世界がまとめられたのよ。つまり――」
初めに未来があり、それに向けた過去が作られたと言った。
◆
副王は体内にある未来の選択を知ることができた。全ての次元に隣接する王に、過去・現在・未来という概念は存在しない。ヤトノカミがなんと答えるか把握し、そのためだけに世界を構築、過去を修正した。
並行する世界はかき集められて統合され、ヘロヘロがいる世界。アインズ様だけの世界。魔王と戦った世界。猿の手がなかった世界。ネムが生き残る世界……と、無限に並行する少し違うだけの世界が副王の胎内で1つにされた。大蛇がそう願うと知っていた副王によって。
世界は集束し、一つの世界が残される。各々の過去が食い違うのは記憶の修正ではなく、本当に彼らはその世界を生きてきたからだ。
パンドラはネムの葬儀に出席したパンドラで、デミウルゴスはネムの葬儀に出席しなかったデミウルゴス、私は彼女と話をした私だ。ヘロヘロとソリュシャンの記憶が一致するのは、彼らの世界軸が同じだったから。
それならば、全てに説明がつく。ヤトノカミが人間のくせにあんなに弱いのも、性格と感情が歪んでいるのも、滅茶苦茶な理屈でアインズ様を優先していたのも、全ては未来の選択に合わせて過去が作られていた。
◆
ネムの死と猿の手は、やむを得なかったんだ。この二つを採用しなければ、この状況を作ることができなかったから。俺は嫁を何度でも抱くと啖呵を切ったから、理由が必要だった。
デバッガーチームは存在し、黄色いのも俺の記憶に存在している。どちらも俺がここに来るために必要な過程だ。
それにしても、それだけのためにどれほどの修正をしているんだ。
「イカれてるよ……本当に」
◆
「まったく……本当に、狂っているわね……逆に言えば、未来を変えることだってできたでしょうに」
幾つもの世界は弛んだ線として同じ一本の時間軸に重ねられ、それを一まとめに引っ張ってねじれば一本のねじり線が残される。そうやって世界は纏められたが、他の世界が消滅したわけではない。大蛇の記憶は消滅したが、「ヤ」と言いかけるということは記憶の糸口が残っている。
つまり、世界は今の世界へ融合したのだ。
◆
「つまり、俺のせいで別世界のみんなが消えたのか?」
「消えたのではなく一つに溶けあったのよ。これからの未来に必要な世界軸の記憶だけ残して。世界の消滅を嘆くのは間違っているわ。もしかしてアレがこうなっていたら、とか。自分があのときにこうしていれば、とか。私が頭でそう考えるだけで、世界は無限大に並行して作られていく。一つの世界が消えてもすぐに別の世界が増えていく。そうしてパラレル・ワールドというものは成り立っていくの。私たちでは観測不可能なほどに」
中二病を発症し、図書館で知識をつけた彼女は優秀だ。この二人がいなかったら、俺は今ごろ布団に入って寝ていた可能性が高い。というより、疲れたので布団で休みたい。
ともあれ何となくだが、頭の回る嫁のお陰で俺は理解した。
「でも、なんで未来を変えてくれなかったんだ? おかしいじゃないか。俺が消えると未来で言ったから過去が変わったんなら、未来そのものを変えればよかったのに」
「……馬鹿ね」
「……脳みそ入っているのか?」
「なんだよ!」
「あなたが主役だからでしょう」
「主役の願いがかなえられるのは当然だろう」
そうか、俺が主役だったのか。
だから、妙にすんなりと世界から消えられたと思った。ヘロヘロさんは黄色を壊したが、今となっては代償を払う大義名分だ。誰も俺の邪魔をせず、俺はすんなりと世界から消えた。
◆
「主役の彼がそう望んだから……か。溺愛も甚だしいわね。イグは副王と黒山羊の息子っていう説、本当なのかしら」
先ほどからうすら寒い視線を背後から感じる。
これより先の詮索は、世界を変えてしまうような存在の逆鱗に触れるのかもしれない。
結局のところ、それが真実である保証もなく、確かめる術もまた存在しない。なんとなくその可能性が高い仮説の1つに過ぎない。
重力、引力、宇宙の理、運命、次空、体を縛る鎖を断ち切った彼が、副王の胎内で生きているのかさえわからない。外なる神々にそんな慈悲があるとは到底、思えないが、どうも副王は蛇に甘い節がある。
もしかすると、あるべき虚無に還ったのかもしれないし、副王の胎内で元気に生きているのかもしれない。
愛の代わりに執着していた、二人の妻を連れて。
◆
「執着って……悪かったな。どうせ俺の心は歪められてるよーだ」
「ねえ、あなたは、私たちのこと愛していたの?」
「はっきりと言ってほしい」
「どっちでもいいわい」
この手のロールプレイは苦手だが、俺は二人を指さした。
「お前らは俺のもんだ。勝手に逃げたら殺してでも俺のものにしてやるからな。蛇の執着心を舐めんなよ」
「素直じゃないなぁ……人間なら素直になるべきだぞ。
「今のあなたは蛇じゃないでしょう。弱い人間に戻ったくせに、まだ偉そうな演技を続けるの? 念を押しておくけど、私たちの方が強いんだからね」
「……フン、うっせーわい」
「あなたはもう一人じゃないんだからね」
「私たちと離れたくても離れられないな、残念だったな、お馬鹿さん」
「……ありがとよ」
俺はここでちゃんと生きている。
二人の美人な嫁と一緒に、誰にも邪魔されないこの場所で生きていく。
子供の幸せな未来と、俺の見たかった物語は俺が好き勝手に作る。俺の考えていた形とは違うが、奴は俺の願いを叶えてくれた。唯一の不満は、嫁の尻に敷かれざるを得ない力関係となってしまったことだ。
もしかして、それも副王の仕業か?
◆
私は改めて本を開いた。
これは副神の物語。アインズ様のために世界から消えるべく、副王に世界を構築させた心の歪んだ大蛇。ナザリック地下大墳墓が異世界に転移して、150日間だけの副神でいた大蛇の物語だ。
名前のない物語を名付けよう。
彼の言葉で印象深いものを記憶から漁った。
◆
「さて……真面目にやるとするか」
続きのページは更に増え続けているが、俺は本をいったん閉じた。残った紅茶を飲み干して、立ち上がって首を左右に振り、指をゴキゴキと鳴らして準備運動をした。そろそろ誰かを呼び戻してやらないと、アルベドの考察が行き過ぎて暴走されても困る。
「初めから真面目にやれ、馬鹿夫」
「……黙レイナ」
「何でもかんでもその変な呼び名で呼ぶな」
彼女は口喧嘩をしたそうだったので、空気の読めない振りで乗り切った。
「ねえ、誰を初めに呼ぶの?」
「まあ、初めに呼ぶ相手だけは決まってんだよ。これだけは何が何でも実行しないと……まずナザリックの序列番号を調べなきゃ」
俺は椅子に腰かけてパソコンのデバッグモードを開き、説明書と照らし合わせて読み進めた。分厚いベーコン並みのそれは読むだけで辟易した。早くしないとアルベドがヘロヘロさんを殺しかねないので、俺は焦っていた。
「そんなに心配ならアルベド様へお手紙でも出したらどう?」
「えぇ? うーん……出せるかな」
「解説によると、この番号がアルベド様の所在地だな。ナザリックの私室じゃないのか? そこへ数式を入力すればどうだろう」
「文面を考えましょうよ。手紙は頭語の挨拶が無いといけないわ。親しき間柄でも、最低限の礼儀は必要よ」
「あぁもう、うるさい! いらねえだろそんなもん。あいつぁ頭いいんだから本文だけでわかるって」
「この礼儀知らず!」
「物語の続きが読みたいんだから早くしなさい!」
「お前らピーピー鳴いてないでさっさと資料を集めてこいよ、雀ども! 駆け足! ほら、ダッシュ!」
「先に方法を調べるのが先でしょ! あなた一人じゃサボるかもしれないじゃない」
確かに、俺一人ではサボるかもしれない。監視者の二人は本当に優秀だ。お陰で手紙の数式は早々に入力され、あちらの世界に手紙が顕現しているはずだった。
手紙が彼女に届いたのか、本に変化があればわかる。
◆
紅茶を飲み終えて水分補給を終えた私の目から涙が流れた。
彼を憐れんではいない。彼は自分がそうしたいというだけの理由で勝手に決めて、勝手に消えたのだ。モモンガ様を優先するのは当然の行動だが、彼の消え方はNPCなら誰もが望む結果と言える。貢献し、惜しまれながら、己の全てを犠牲にした彼が羨ましい。
私はきっと、モモンガ様の最たるものにはなれない。私が消えるべきだったのかもしれない。御方の未来が、栄光と繁栄で満たされるように。
白いハンカチで涙を拭くと、机の上に白い封筒が置いてあった。つい今しがた、涙を拭く前はなかった。見渡すまでもなく、私室には誰もいない。私は封筒を眺めた。舌を伸ばした蛇の形で封蝋された手紙。差出人の名前はないが、封蝋の形状で知れている。ペーパーナイフで丁寧に開くと、簡素な文章が一行だけ書いてあった。
《向かうなら南西。きっと待ち人に会えるから》
それだけで十分だ。
どうやら彼は生きている。この世界へ干渉できる場所で生きている。今ごろ彼は、自分の好き放題に運命を弄れるので楽しんでいることだろう。二人の妻が一緒にいて彼を監視、教育するなら、運命の暴走と失敗を抑え込んでくれる。
この世界に我々を害するものはおらず、これから至高の41人が戻ってくる。ヤトノカミを除いた41人で、新たな神話となるために。彼ならそう望むだろう。
「ふふっ……相変わらずですね。お元気そうで何よりですわ」
誰かに見られて記憶を揺るがせることはできないので、手紙はすぐに燃やしてしまった。
◆
俺は愛する妻も抱けず、厳しい監視下で仕事を始めた。狭い部屋で大騒ぎしながらあれこれ試行錯誤するのは非常に窮屈だったが、それはそれで楽しかった。
箱庭に駒を設置するだけの簡単な作業かと思っていたが、16進法のプログラムだったとは知らなかった。ただ、世界のどこに仲間が転移するのか選べないのが難点だが、それくらいは我慢してもらいたい。何が起きるか分からないこそ人生は面白いと、他人事だからそう思う。
どうせアインズさんの剛運でどうにでもしてくれる。
今日も起きてからぐったりして布団に入るまで、監視者は俺に茶々をいれる。
「だから、ここの数字がアインズ様よ。すぐ隣にあるのがアルベド様で……あら、イビルアイ、数値まで小さいのね……」
「数値はデリケートなんだから邪魔すんなっつってんだろ! 誤入力して世界を滅ぼしたらどうすんだ! あと、さっきから密着し過ぎて胸が当たってんだよ、このビッチがぁ!」
「なによ! もう触らせてあげないわよ?」
「うぅ……」
「そうか……そうだったのか……蛇ではなく蟲をアバターに選択していれば、私が正妻になるはずだったのか……その物語を探しに行かないと……別世界の私は幸せになれたのか」
レイナースは独り言を呟きながら、怪しい足取りで出ていった。
「おいおい……大丈夫か?」
「自由にさせてあげましょう。私も別世界の自分がどうなったのか知りたいもの……念のためついて行こうかしら」
ラキュースも後を追い、俺は数字の羅列を読み解く作業に戻った。一つの間違いで何が起きるのかわからず、俺に失敗は許されない。10分とせずに騒々しい二人が戻ってくる。
「ヤト、この本に私たちのレベル制限の解除方法が書いてあったわ! この場所でレベルを上げられるみたいなの!」
「ヤト、この本に娘の成長した姿があったぞ! 鼻が丸くて低いのはお前の血なのか? 鼻の低い民族だったのか?」
「うるっせえな……」
知識の貯蔵庫と中二病の相性が良すぎる。俺はアルベドに手紙を出してから、盛り上がり過ぎてろくでなしとなった妻たちへ文句を言ってやろうと立ち上がった。
嗚呼、メンドクセェ。
◆
《モモンガさん、世界征服しないってよ》と名付け、物語は私の部屋の本棚に並べられている。
これから、大蛇が
栄光ある
絶対の支配者は知らない。自分だけのために全てを犠牲にした、馬鹿で、泣き虫で、不器用で、自己中心的な目立ちたがり屋の友人を。私はこれより、大蛇の意思を継ぐ。至高の41人が帰還し、決別してナザリックを危機に陥れたのなら、この物語を見せてやろう。
彼の消滅を知っても変わらない愚か者の集まりなら、いっそ全員が滅びてしまえばいい。
世界はモモンガ様と共にあらなければならないと、彼ならそう望む。私は本棚の本を一瞥し、純白のドレスを翻して部屋を出た。
彼は永遠にそこにいる。
執筆した書物の中で、誰の手も届かぬ平行線に坐す
モモンガさんの未来を変えようともがき苦しんだ旧支配者、NPCのように不器用な選択をした泣き虫の馬鹿蛇は、ここへ確かに息づいている。
本を開けば、あの日の思い出が蘇る。
―― 一か月後、エイヴァージャー大森林の北東にて ――
「進め! 我が相棒、飛空艇ファルコン! ぶるぁぁああ!」
「誰がファルコンだ! ハイになって暴れんなよ、姉ちゃん! 落っこちても助けねえからな!」
「うむ、まさにスカイ・ハイと言いたいのだな、弟よ」
「違ぇよ!」