モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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鼓膜を貫く赤鶏冠

 

 人生は絶え間なく連続した問題集と同じ。揃って複雑、選択肢は極小、加えて時間制限がある。

 

 最悪なのは、夢のような解決法を待って何一つ選ばないことだ。

 

                             ―――『TRIGUN』より

 

 

 アインズは失い過ぎた。

 

 

 抵抗力を失い、親を失い、友を失い、肉体を失い、人間性まで失いかけている。損失の補填は未だに成されない。開かれた異世界へ通じる箱の底には、生者を死人へ変えようとする”諦め”と、夢のように小さな希望だけが残されていた。得たものは精々、支配者としての成長だが、友人1人にも劣るし、役割演技(ロールプレイ)で埋め合わせができる。

 

(まぁ……妻を得たと言えないこともないけどな……)

 

 イビルアイの顔を真っ先に思い出した。

 

「はぁ……」

 

 溜め息混じりに見上げれば蒼天、鳥でなくても飛びたくなるような美しい青空が見下ろしている。

 

 彼からあらゆるものを奪い去った神とやらがいるのなら、殺害することに躊躇いはない。しかし、たった一つの希望さえ叶えてくれるなら、これまでの全てを許せる気がした。

 

「渇望者……か」

 

 NPCたちへの演説で語ったものの、それに最も相応しきはアインズ自身だ。

 

(希望を持たせるのは、悪かったかもしれないな)

 

 ヘロヘロ帰還という事実を目の当たりに、居並ぶNPCたちの瞳は過剰な期待で輝いていた。本当は、誰も戻ってこないと知りながら、世界中を捜索させていいのだろうか。

 

(……いや、私が希望を捨てられないのだ)

 

「アインズさん?」

 

 俯いたアインズへ、ただ一つだけ実った希望、ヘロヘロの声が聞こえた。

 

「あぁ、ヘロヘロさん。どうしました?」

「いや、どうしましたって……それはこっちの台詞ですよ。空を見上げて急に黙り込むから。なんか落ち込んでますか?」

「いや、これまでの全て、実は夢だったんじゃないかなって」

「夢って……頬でもつねってみます?」

「頬に肉はありませんよ」

 

 軽口だったが、支配者の口調はとにかく暗い。

 

 命は平等ではなく、世界が困難で構築されていると考える人間は、目の前に放り投げられた都合の良い事実を信じようとしない。そういった人間は、自分に都合の良すぎる事実へ直面すると、かえって疑いを持つ。

 

 ヘロヘロの帰還さえも夢ではないかと疑う彼は、他の仲間が帰還したと思しき事実を聞いても、素直にそれを信じない。不思議なことに、敵プレイヤーの出現という不都合な情報は、いとも簡単に信じてしまう。

 

 それはアインズ(鈴木悟)に限った話である。

 

「ヘロヘロさん、法国で何が起きたと思いますか?」

「仲間が現れたんじゃないんですかね」

 

 ヘロヘロの声は明るかった。今度はペロロンチーノあたりが戻ってくれないかと思っているのだ。

 

「それは無いと思いますが……」

「この世界では、異変といえばプレイヤーなんでしょ? 今度は誰が返ってくるかなー」

「あり得ませんよ……仲間の可能性は一考すべきですが、敵だった場合の警戒を優先しなければ」

「重症だなぁ、こりゃ」

 

 鋼鉄を砕くには、灼熱と凍結を繰り返さなければならない。感情の抑制という瞬間冷却材を持つヘロヘロも、心を熱くさせる焦熱に心当たりがない。

 

(モモさんと仲良しだったあの人が帰ってきてくれればなぁ……)

 

 妄想の域を出ない話であったが、それは一つの結論でもある。

 

 会話にきりがついたところで、武装したアルベドが書類を持って駆け寄るのが見えた。

 

「アインズ様、出発前にお時間を取らせて申し訳ございません」

「構わん。これは息抜きを兼ねた異変の確認作業に過ぎん」

「改め、数日前に起きた異変について簡単にご報告を」

 

 アルベドは書類を読み上げた。

 

「三つの隕石?」

「南方上空より飛来し、一つは評議国方面、もう一つは竜王国方面へ向かいました。そちらはどうなろうと我らに影響ありません。しかし、問題なのは最後の1つです」

「うむ?」

「カルネ村住民の話によると、トブの大森林へ落ちていくのが見えたそうです。支配区域のリザードマン集落が壊滅するのは痛手ですが、そんなことよりもナザリックが近く、敵対者だと危険です」

「隕石の正体は把握しているか?」

「不明です。現在、捨て駒の使者を送り込み、森の蛇たちを動かして捜索中です。カルネ村の人間は隕石という存在を初めて見たらしく、魔法が発達した世界であっても珍しい出来事なのだと」

 

 アインズは押し黙った。ただでさえスレイン法国が不穏だというのに、これ以上のトラブルは御免被りたいところだ。せっかくヘロヘロが戻ってきたというのに、親交を深める時間が少なすぎる。諸国へ彼を自慢する予定も滞っている。

 

 しかし、重複するイベントにヘロヘロは浮かれていた。

 

「でも、隕石が落ちたにしては衝撃が無かったよね?」

「仮説の域を出ませんが、一つは、この世界では隕石による物理衝撃が無効化される可能性です。魔法という新たな法則によって物理現象が軽減されたとしても不思議ではありません。もう一つは、それが隕石ではなく、大気圏内から発生した何らかの魔物であるという可能性と、誰かがファイヤボールに似た系統の魔法練習を行った可能性です。しかし、魔法練習にしては、発生した高度が高すぎます。恐らく、人間では存在できない高さから発生している点を考慮すれば、魔物が超高高度で発生した可能性が高いかと」

「魔物……か」

「評議国、竜王国がどうなろうとナザリックに損害が出ないので問題ありませんが、トブの大森林はナザリックからも近く、被害が及ぶ可能性がございます」

 

 ナザリック地下大墳墓は土で埋め立てられ、今は小高い丘に変わっている。土を掘り進めないと墳墓内には侵入ができない。しかし、そうかといって破壊には強いとは限らない。

 

 丘の頂上で超位魔法でも使えば、整地してさほどの時間が経っていない土くれなど消し飛び、ナザリックの入り口が剥き出しになる。

 

「リザードマンさんたちに連絡はしたの?」

「しておりません。仮に本物の隕石だった場合、彼らは壊滅しているでしょう」

「冷たくないですか、奥さん。支配したなら助けてあげないと。評議国や竜王国だって同盟国なら助けてあげればどう?」

「ナザリックに被害が出ないのであれば、他国の事変など統括国に解決させればいいのではありませんか?」

「いや……まぁ、そうだけど。もしかしたらそっちも仲間かもしれないよ? リザードマンさんたちだって困っているかも」

「今は防衛を固めるべきかと思われますわ」

「そうかなぁ……」

 

 ヘロヘロは腕を組んで思い悩む。ナザリックの風潮、人間を含む現地生物蔑視にはまだ慣れていない。この世界で新たにできた友人・知人を見捨てるような対応に違和感を覚えた。

 

「モモさんはどう思う?」

「正直なところ、ナザリックに危険がないなら関知すべきではありませんよ。我々の目的は、魔導国という道具を使い、ナザリックの維持費を賄う事です。被害が出ていない現状、それ以外は二の次でいいでしょう」

「リザードマンさんたちが壊滅したら困らないかな」

「特に困りませんよ。壊滅的打撃を受けたとしても、生き残った者が復興するでしょう」

「……そうですか」

 

 ヘロヘロの落胆は、新たなイベントを見過ごすという結論に対してではない。五か月ぶりに再開したモモンガに、人間らしからぬ冷たさを感じたからだ。支配者として成長する過程で、人間的な甘さをどこかに置き去りにしてしまったのかもしれない。自分に対しては以前と変わらぬ振る舞いだが、これまでの過程で外面に差が出ているようだ。

 

 とても寂しいことに思えた。

 

「急ぎ、ナザリックの警戒レベルを上げ、コキュートスを第一階層で待機させております」

「シャルティアとマーレを帰還させるか」

 

 遠くでシャルティア、アウラ、マーレが談笑している。そちらへ目を向けると、視線に気づいた彼女らは嬉しそうに手を振ってくれた。

 

「それはなりません」

 

 アルベドの声が後頭部から投げかけられる。振り向いて表情を窺うも、甲冑に包まれているのでわからない。口調は妙に頑なだった。

 

「実力で言えば総合力はシャルティアだ。マーレは魔法最強。攻撃力最強のコキュートスと共に戦ってこそより、盤石なのではないのか?」

「なりません」

「だから、なぜなのだ。お前が頑なに拘るには、何らかの根拠があるのだろう?」

「そ、それは……その……」

 

 アインズの意見を拒否するアルベドは、誰の目から見ても困っていた。隣で首を傾げるヘロヘロの援護射撃が飛ぶ。

 

「ねぇ、アルベド。シャルティアとマーレを返した方が明らかに現実的だよね。法国に行く護衛も必要だけど、あっちはナザリックが近いんでしょ? こっちはナザリックから遠いから何かあればすぐに逃げれば済むんじゃないかな」

「それはそうですが……こ、こちら、法国の異変は我らの使者を屠るような出来事だったからです」

「しかし、それも所詮はレベル50、漆黒聖典の隊員級だ。それこそ、何らかの魔物の可能性もある。法国がどうなろうと彼らの問題だが、隕石の落下地点はナザリックから近い。直接的な被害は避けなければならない」

「んー……まぁ、法国の人たちが困ってるなら助けてもいいですけどね、番外さんの故郷ですから。でも、急いで法国に行く必要ないかもしれませんね。ナザリックの安全を確保してから、探知魔法で状況を確認してからでも」

「それもそうですね。一旦、法国へ行くのを白紙に戻して――」

「なりません!」

 

 アルベドはひときわ大声で叫んだ。

 

 遠くで談笑している守護者たちが双眼を見開いてこちらを見るほどの大声だ。その気迫に押され、アインズとヘロヘロは戸惑いながらも黙るしかない。

 

「今回、法国へ向かうのはこの国を改めて制定するためです。後顧の憂いを解き、法国を一まとめにしてからでも遅くはありません。50レベル以上の実力者がこの地へいることは明白な事実! なればこそ、何者かが法国を掌握し、我らに反旗を翻す前に、過剰な戦力をもって事実を確認し、敵対者を叩き潰すのです!」

「お、おう……」

「……」

 

 根拠の分からぬアルベドの気迫に押され、二柱は渋々ながら彼女の提案を呑まざるを得ない。彼女がアインズに対して、ここまで抵抗したのは初めてだったかもしれない。

 

 感情を抑制した頭で考えれば、彼女の説にも一理ある。顕現した何者かが人間種のプレイヤーであれば、間違いなく、法国はそれらを新たな神だと祀り上げる。宗教絡みの人間対人間の戦争など起きれば、せっかく築き上げたナザリック維持費稼ぎの農場が荒野になってしまう。

 

 この時、アルベドは運命を選択すべき解答の兆候(ヒント)を見逃し、出された問題の解答を誤ってしまった。彼女がそれに気付くことはない。

 

 守護者達の談笑する声が澄んだ空気を伝わって聞こえてくる。

 

「楽しいね、お姉ちゃん!」

「あん?」

「だって、アインズ様とヘロヘロ様にくっついてみんなでお出かけなんて」

「わくわくするでありんす!」

「うーん……そうだよね! あたしも実は楽しみ!」

 

 無邪気に笑い合う彼女たちは明るい。親にくっついてピクニックに向かう子供のような彼女たちに、予定変更して帰還という水を差すのも気が引けた。

 

「アルベド、お前の言うことにも一理ある。私はそれに従おう。法国の状況を把握しておくのは、人間社会の調和を保つのに必要だからな」

「寛大なる対応、感謝いたします。私の愛するアインズ様」

「う、うむ……」

「ぷっ……」

 

 ヘロヘロが空気を良くしようと吹き出した。違和感はアインズの肋骨に燻っているが、おかげで空気は元に戻った。

 

「シャルティアが武装を終えてから出発いたしましょう」

「わかったよ、モモさんの奥さん」

「くふふ……お戯れを」

「そういえばヘロヘロさん。ソリュシャンはどうしました?」

「うーん……ソリュだけ連れ回し過ぎて他のみんなが怒っちゃって」

「お留守番ですか」

「いやぁー、宥めるのが大変でしたよ。それに、肉体の休息日も必要かなぁー……って」

 

 メイドの三割がクーデターを起こす未来が浮かんだ。

 

「確かに、それは正しい判断ですね」

「てへへ」

 

 見た目に反して可愛い声で照れ笑いを浮かべた、ように見えた。人間が見たら正気を失いかねない姿だ。

 

「ところで、話しは変わるのだが。あそこに積み上がっている獣の死体は何だ?」

 

 アインズはスレイン法国の領地外れに積み重なる獣の死体を指さした。五重、六重に積み重なった獣の塔は、野良の魔獣に食い荒らされて損壊が激しかった。それらは全て同一種の死骸に見えた。

 

「あの巻き角は山羊ですかね」

「ここ最近の話ですが、スレイン法国では山羊の畜産が全面禁止になされたそうです」

「……そうか」

 

 武装したアルベドを見ると、両眼を光らせながら静かに佇んでいた。

 

(……俺のせいか?)

 

 

 いつものことである。

 

 

 

 

 太陽が天頂に坐し、法国全土を慈愛の光で照らした頃、アインズとヘロヘロは精神の沈静化によって回想の回廊より現実へ呼び戻される。

 

 互いの初動は一致しており、顔を見合わせて頷くことだった。

 

 彼らここで選択を誤った。感情抑制が発動するまでのたった数秒で、回答記入の制限時間は過ぎていた。

 

「ぶく――」

 

 アインズが片手を上げて呼びかけた声は、扉が蹴破られる音に阻まれる。別室への扉から、顔に”ペ”と書かれた紙を張り付けた鳥人が入室した。

 

「うおああ!?」

「!?」

 

 激しい動揺は再び訪れ、ようやく閉じたアインズの顎が再度、急降下した。黒いスライムは大口を開いたように一部がへこんでいた。

 

 アインズの叫び声は、羽毛を逆立てて怒っている彼には聞こえなかったようだ。

 

「身内の恥をさらすなよ、馬鹿姉!」

「ああ!? なんか文句あんのか、弟のくせに!」

 

 ぶくぶく茶釜は、新たな入室者、アインズを筆頭とするナザリック勢の存在に気付いていない。視界を失うまで怒っていないにせよ、スライム的視覚には無機物も有機物も大差ない。扉付近で佇んでいる人らしき何かは、神官長の部下かメイドだと思っていた。

 

 同様に、顔に張り付けた紙で視野の大半を塞がれているペロロンチーノも、アインズの入室に気付いていない。人間たちへ挨拶するよりも、異世界でハイになって黒歴史を拵えようとしている姉への対応が先だ。それには足元の視野だけあればいい。

 

 冷静に室内を見渡せず、とにかく視界が悪い。

 

「どこの世界に弟にアッパーカット決める姉がいんだよ!」

「ちょっと黙ってろって! 今はベニー婆ちゃんを助けるのが先だぃ!」

「姉ちゃんがそうやって暴れれば婆ちゃんの立場が危うくなんだって気付けよ! この馬鹿女!」

「んだとコラァ! じゃあ、あんたはこのまま放っておけってのか! ベニー婆ちゃんが死ねとか言われて黙ってんのか!」

「異世界に来てハイになって黒歴史を作ってる姉ちゃんを助けてやってんだろうが!」

 

 力加減を間違え、老女が大切に管理していたらしき花畑を焼き払った一件がある。黒歴史に関しては、弟に一日の長がある。

 

「この人たちは真面目に仕事してんだから、部外者のニートが口を出すな!」

「余計なお世話だ、チキン童貞が!」

 

 幾分か冷静な鳥頭も、公の場で急所を突かれ、鳥人の体から英雄の波動が漏れた。その場に居合わせた全員、体が抑えつけられる特異な波動を感じた。

 

「姉弟でも言っていい事と悪い事があんだろ……お、表出ろ!」

「上等だぁ!」

 

 ペロロンチーノの体がふわりと浮き上がり、鳥の両脚で茶釜を掴みあげた。精神の沈静化を図っているアインズ・ヘロヘロ、可哀想なほど動揺して半泣きになっているシャルティア、アウラ、マーレの隣を何事もなく通過した。

 

 ペロロンチーノの性格上、窓ガラスをぶちやぶる野蛮な真似はしない。ご丁寧に入口から出て、去り際にお辞儀と挨拶までしていった。

 

「皆さんお騒がせしてすみませんでした。姉を締めてからまた後で来ます。お邪魔しました」

「ベニー婆ちゃんを苛めたら許さないかんね!」

「もう黙れって、後で恥ずかしくなっても知らないぞ」

「このヘタレが!」

 

 この度、晴れてがちょうの仲間入りをしたアインズ一行は、収まらぬ動揺によって声を掛けられずにいた。ペロロンチーノとぶくぶく茶釜の残り香が、一同の鼻をくすぐった。

 

 守護者達を完封するのに言葉はいらない。本物の41人が垂れ流している至高の気配さえあれば、彼らは物言わぬ木偶人形と変わらない。

 

「ちゃ……茶釜……様?」

 

 真っ先に復帰したアウラの、カラカラに乾いた喉から絞り出すような声。彼女は油の切れたブリキのごとく、ようやっと首を動かして振り向いたが、そこには誰もいない。無音の会議室へ聞こえた唯一の声は、彼女を中心とした波紋のように広がっていった。

 

 間髪入れず、隣のマーレが崩れ落ちた。

 

「茶釜様ぁ……茶釜様だよぅ……帰ってきてくれたよぅ……」

「ん……うん……」

 

 アウラは幾度も白い手袋で涙を擦っている。

 

「お姉……ちゃん?」

「うん……うぅ……ふぇぇぇ」

 

 辛うじて応じたアウラの声は、すぐに嗚咽に変わった。零れた涙を白い手袋でどれほど拭おうと、決壊した涙腺は止まらない。いつも弟の態度へ苦言を呈す彼女が、まるで平静を装えていない。

 

「お姉ちゃん……」

 

 二本足で立ってこそいるが、子供のように泣きじゃくる姉の姿に当てられ、マーレも涙を堪えきれなかった。

 

「うぁぁぁん!」

 

 力なくその場へ座り込み、声を上げて泣いた。

 

 号泣を始めた双子のダークエルフを、本来ならここで赤い全身鎧の友人が慰めるのが恒例だ。しかし、この場で最も深刻な被害を受けているのは彼女だった。

 

 カランと槍が倒れる音が鳴り、身に纏う真紅の甲冑が掻き消えた。後に残されたのは力なくその場に座り込み、呆然と中空を見つめる少女だ。

 

「シャルティア?」

 

 アルベドの問いかけに一切の反応はない。常日頃からお頭が足りず、欲望の虜となってアインズとアルベドの間に割って入ろうとした彼女は見る影もない。造物主の波動に当てられ、眼前を通過していくペロロンチーノの残り香りに鼻をくすぐられた。

 

 たったそれだけで、魂の抜けた人形のようであった。

 

 アルベドは自らの軽率な人選を悔やみ、唇を噛みしめた。

 

(これでは逆効果だ。あの珍妙な紙きれのせいで、彼らは我らに気付かなかったとでも? それとも、これも定められた一幕か?)

 

 アルベドは甲冑の中で歯ぎしりをした。彼女に残された手段は、アインズとヘロヘロの精神の沈静化を待つしかない。こちら側にアインズがいれば、その剛腕で全てを丸く収めてくれる。

 

 彼女が見守る中、復帰したアインズはテーブルを叩いて立ち上がった。

 

 よほど強く叩いたらしく、彼の一撃で円卓にひびが入った。スレイン法国、大神殿の会議室では頻繁に物が壊れる。

 

「なんだ、一体、何だというのだ! 何が起きているのか説明しろ!」

 

 アインズの怒号が会議室へ轟く。人間は一人残らず体を跳ね上げ、心臓を口から吐き出さんばかりだった。

 

 彼らからの返事はなく、即答を求めたアインズは苛立ったが、すぐにヘロヘロが声を荒げる。

 

「アインズさん、追いましょう!」

「事態の把握が先でしょう!」

「追うのが先!」

 

 アインズは拳を振り上げ、テーブルに叩きつけた。

 

「これは罠だ!」

 

 アインズの警戒は、揺るがないどころか締め付けを増していた。

 

 現時点で、仲間の捜索という大義名分の下、ヘロヘロとアインズを除いた39人の情報は一部の諸国へ回っている。アインズがこの世で最も渇求する情報だが、言い換えればそっくりそのまま付け入る隙となる。

 

 ナザリックを打ち倒して世界の支配者に収まろうとする者は、その情報を元に容姿を偽って近づこうとするだろう。恐らく二度と会えないであろう他の仲間、しかもよりによってアインズと親交の厚かったペロロンチーノがいるなど、迂闊に信じるには都合が良すぎた。

 

 よりによってここは反異形種を謳っていた法国。この地へ顕現したプレイヤーないし、何らかの異邦人が、彼らの姿形を模倣する術が使えるのかもしれない。これ見よがしに彼らの入室に合わせて出現したのも、いかにも胡散臭い。

 

 世の中が困難で形成されていると考えている、アインズの処世術は未だ健在だ。地盤を揺るがせた気配すらない。

 

 なぜ素直に受け入れられないのかと、苛立ったヘロヘロはテーブルに置かれたアインズの拳のすぐ隣を強く叩いた。

 

「彼女たちを見ればわかるでしょう!」

 

 彼らしからぬ激昂だが、それはアインズも分かっている。

 

 守護者は容姿だけで本物だと騙されるほど簡単ではない。

 

 至高の41人だけに所有を許された独特の存在感、それを肌で感じたからこそ本物だと思ったのだ。その手で創造された者ならなおのこと。今なお、アウラとマーレは泣き崩れ、シャルティアは魂でも奪われたように表情無く呆けている。

 

 しかし、久方ぶりに見た創造主の姿に動揺しているだけの可能性も考えられるし、あるいは何らかの魔道具の効果かもしれない。他者が信じる条件をいくら満たそうとも、支配者として成長し過ぎたアインズが信じるには根拠が乏しい。

 

「後を追うんだ! すぐに!」

「駄目だ、ヘロヘロさん!」

「どうしてだよ!」

「状況の確認もせず、本物だと断定はできない!」

「アウラとマーレが泣いているんだ!」

「だからこそ先に調べるんだ!」

 

 アインズとヘロヘロは、ユグドラシル時代にも見せなかった険悪さで向かい合った。両者、一歩も譲らず、視線の火花を飛ばしている。二人が喧嘩すれば大神殿が倒壊すると懸念したアルベドは、アインズの眼前に跪くベレニスに目配せをした。その射殺すような視線を受け、ベレニスが過剰なほど老人臭く、間延びした呑気な声をかけた。

 

「まー……魔導王陛下ぁ、並びに配下の皆様。私は火の神官長、ベレニス・ナグア・サンティニと申します」

 

 髑髏に宿る赤い光と、スライムの点滅する両眼が彼女を捉えた。

 

「貴様か。貴様が此度の首謀者か。死ぬ覚悟はできているのだろうな」

 

 アインズは彼女が仕組んだことだと断定し、容赦の無い絶望の波動を垂れ流した。その場に居合わせた人間は身震いし、睨まれているベレニスの膝が笑った。それでも今だけは引けない。これから話すのは未来を選ぶ振り子のようなもの。ここからの数分で、法国の未来が大きく左右されるのだ。

 

 命を捨てる覚悟はできているが、無為な死は望むところではない。老年の彼女は若き日を思い出すかのように恐怖を堪えて立ち上がり、アインズの赤い光点に正面から立ち向かった。

 

「あれらは間違いなく、本物のペロロンチーノとぶくぶく茶釜でございます。私の首を刎ねるのは、話を聞いてからでも遅くはないのではありませんか」

「火の神官長、発言を許可します。時系列を並べて話しなさい」

 

 ここでようやく、沈黙を保持していたアルベドが舵を取る。アインズの肋骨内で急激に違和感が膨張したが、今は状況の把握が先だ。

 

「どうして先に追わないんだ。どこに行ったか分からなくなったらどうするんですか!」

「ヘロヘロ様、彼らが本物であるのなら、行き先はすぐに把握できますわ」

 

 アルベドの優しく諭すような声は、反論を許さないとでも言いたげに冷ややかだった。

 

「……しかし」

 

 彼らが本物だと分かればいい。

 

 ペロロンチーノが戻れば、アインズの猜疑心は解ける。アインズが人間らしさを取り戻すのに、彼よりも効果的かつ有用な存在はない。高圧的かつ非人道的な態度も消え、一人のビジネスマン、あるいはお節介な異世界人として現地生物へ望めるはずだ。

 

「話せば本人ってわかるはずでしょう。彼らがどこかへ行ってしまわない保証はないんだぞ!」

「先ほど、私の姉に指示を出しておきました。探知は自動追尾が可能です」

「む……だけど」

「ヘロヘロ様、今はこの国の状況を把握するほうが先決です。ここで国家対応をおざなりにしてしまえば、後々、またこの地を訪れる羽目になりましょう」

「……」

 

 ヘロヘロは反論ができなかった。この地を訪れたのは異常事態の確認と、ついでに法国の問題を解決しようという名分もある。黒い粘液体は体の一部をへこませ、納得していないながらも小さなため息を吐いた。

 

「……神官長さん、急いでお願いします」

「包み隠さず、全てを話せ。速やかにだ」

 

 アインズの殺気は収まっておらず、ベレニスは間延びした声で言った。

 

「畏まりました。順を追ってお話いたしましょう。あれは、1週間ほど前のことでございましょうか――」

 

 

 

 

 時たま、顔の前面を覆う紙切れを持ち上げ、大神殿の地理を確認する。そうしてペロロンチーノとぶくぶく茶釜は、大神殿の裏庭へ到着した。天井にへばりつくように飛行した結果、どうにか人目に触れる事態は回避できた。

 

 日陰に覆われる裏庭なら、人気もないので多少騒いでも問題ない。何より、自分たちの立ち位置は説明が難しい。

 

 太陽の加護を振り払う日陰で、ぶくぶく茶釜は裏庭へ放り投げられた。

 

「いたっ、何すんだ! レディーは丁重に扱え!」

「いい加減落ち着けって、姉ちゃんよ」

 

 ペロロンチーノの声は冷ややかなものだ。

 

 ぶくぶく茶釜には精神の沈静化が無く、依然として頭から湯気を出している。地団駄を踏み、赤い血管を走らせる彼女の卑猥さは未だに抜けていなかった。ひとしきり地面を叩き終えてから、小さなため息を吐いた。

 

「はぁ、あんたって薄情だな。よくもまあ黙ってられんね。ヘタレもここまで来ると職業だわ」

「いや、だからな、そうじゃなくて」

 

 強者として異世界に来たのなら、黒歴史の一つや二つは付いて回る。自らの経験に基づいて話すペロロンチーノの言い分は、一見して正しいように思える。そんな自称正論で矛を収められるかとばかり、ぶくぶく茶釜は感情論の刃を振り回していた。

 

「むぅかつくぅ、あんた生意気言ってんじゃないよ。ベニー婆ちゃんが死ねとまで言われて黙ってられっか!」

 

 先ほどの怒りを思い出したらしく、先の丸くなった触手でシャドウボクシングが再開した。シュッシュッと空気を切る音が裏庭に流れる。

 

「だから、それが黒歴史になるってんだよなぁ……せっかく止めてやったのに、後で自分の行動を後悔して床を転げ回っても知らねえからな」

「それとこれとは別でぃ! 何となぁく、その場のノリで花畑を焼き払ったあんたと一緒にすんな!」

「同じだろ!」

「違ぇし! 私はね、べにー婆ちゃんのために怒ってんの、わかる? あんたのはその場のノリ、私のは怒り、ドゥーユーアンダスタン? Fuc―」

「流石にそれは止めろ!」

 

 思わず打ち込んだペロロンチーノの光の矢が、ぶくぶく茶釜の頭部に命中した。スコンと鉱物に小石が当たったような音が鳴り、桃色の姉は頭から倒れていった。

 

「あ……」

 

 ついうっかりやらかしてしまった弟が硬直している間に、姉は無言で立ち上がって頭をさすっていた。スライムのくせに硬そうな頭は、少しだけ擦れて赤くなっていた。

 

「いったぁー……」

「……ごめん」

「……」

 

 それ以上、何も言ってくれなかった。

 

 後に残るは気まずい沈黙。

 

 やがて彼女が悠然とした動作で真正面からペロロンチーノを捉えると、場の雰囲気が変わっていく。彼女から漏れている波動に込められているのは純粋な憤怒だ。

 

 そよ風が裏庭を通過し、滅びを予見した芝生がサァァッと泣いた。

 

「女に手を上げやがったな、この下衆野郎がぁ!」

 

 叫ぶと同時、どこかで鳥が逃げ出す音が聞こえた。

 

「わ、姉ちゃん、ごめんって」

「死ねぇ!」

 

 彼女らしからぬ俊敏な動きで駆け寄り、硬質化した拳で横っ面をぶん殴られた。顔に貼ってあった紙が剥がれ、ペロロンチーノが後ろへ倒れる。

 

「お父さんとお母さんはね! あんたがそんなクズ野郎になったことを泣いてるよ!」

「いってぇぇ……だから、ごめんって」

「ゴメンで済むかヴォケぇ!」

 

 仰向けになった弟の腹部へ飛び乗り、幾度となく飛び跳ねた。ダメージ量こそ大したことないが、不愉快な怒りがこみあげてくる。元を正せば暴走する姉の行動を止めるためにこうなったのであり、彼女さえ大人しくしていればこんなことにはならなかった。

 

「どけよ!」

 

 乱暴に振り払った手は彼女を突き飛ばし、スライムは形を崩しながらころころと転がっていく。

 

「いい加減にしろよ! 元を正せば姉ちゃんが怒ってるのを宥めるためで――」

「だから女に手を上げたのか! あぁ!?」

「そ、そんなに怒るなよ。わざとじゃな――」

「あんたみたいに自分を正当化すんのが一番ムカつくわ! お前みたいな男がいるからぁ! あんちゃんが変な男に引っかかるんだよ!」

「え? そうなの?」

「あ、やべ……」

 

 会話に間ができ、二人はしばし見つめ合った。両者、ここで矛を収めておけば万事丸く収まった。

 

「うるさい! 馬鹿!」

 

 自らの失言まで怒りの鉄拳に乗せ、今度のボディブローは虚を突かれたペロロンチーノの腹部へ会心の一撃を見舞った。しばらく彼は、飛んで逃げることも忘れて地面をのた打ち回っていた。

 

「ぐあああああ!」

 

 モンクの職業は取得していないが、最硬の拳はそれなりに痛かった。

 

 ひとしきり悶絶し、ペロロンチーノは英雄の波動を発して起き上がる。それ以上の追撃を避けようと、四枚羽を広げて浮き上がった。

 

「ブチ切れて熱くなってんじゃねえよ、クソ姉」

「うるさい、馬鹿弟」

「ちょっとさぁ、ギルド最硬ってのがどれくらいなのか試すわ」

「降りてこーい! 汚いぞ!」

 

 そうやってペロロンチーノは技の構えに入った。明らかにぶくぶく茶釜に狙いを定めている。態度に反して、彼の声は呑気なものだった。

 

「こうやって姉弟喧嘩すんのは何年ぶりかなー」

「子供んとき以来だよねぇ」

「本気で防御しないと知らねーよ、卑猥な肉棒め」

「あんた、それ打ったら降りてこいや! まだ殴り足りんわ!」

「駄目だね。なぜなら、ずっと俺のターンだからだ!」

「殺す気か!」

「ナチュラル・ハイな行き遅れはいっぺん死ね! シューティング・ジャ――」

 

「《上位転移(グレーター・テレポーテーション)》!」

 

「ッジメントォォォ!?」

 

 あれほど疑っていたアインズと、再会を焦っていたヘロヘロは、ベレニスの話の冒頭だけ聞いてから、堪えきれずに急いで転移した。絶妙なタイミングで転移したかと思われたが、ほんの数コンマほど遅かった。ペロロンチーノの技は途中で止められないほど言い切られており、更にモモンガとヘロヘロを見た驚きでうっかり最後まで言い切ってしまった。

 

 姉を断罪しようとした矢の豪雨が、法国の裏庭へ降り注ぐ。範囲攻撃を選んだのは、多少、命中してもそれで死にはしないと高を括っての行動選択だ。その結果、裏庭付近の建造物は壊滅的な打撃を受けた。

 

「わああああ! やっちまったー! モモンガさーん!」

 

 まさか誰かが割って入ってくるとは思いもよらず、鳥人は砂埃の上をオロオロと飛び回った。

 

「わーどうしよう。どうしよう」

 

 飛び回る鳥の腰あたりに、何か小さいものがアメリカンフットボールのタックルよろしく全力でぶつかった。

 

「へぶっ!」

 

 予期せぬ衝突に変な声を出し、翼のバランスを崩して瓦礫の山へ突っ込んでいった。

 

 ドカドカと体を埋め立てようと落ちてくる瓦礫の音に混じって、誰かの声が聞こえた。

 

 

「お帰りなさい」

 

 


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