モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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「アルシェ in NIGHTMARE 後編」

 何も解決しませんし、何も分からずに終わります。
 次章に絡んでくるので読み飛ばしは推奨しません。すみません。
 ★は描写が怪しくなるので、それは飛ばしても問題ありません。




我がよすがとなれ、郭公鳥

 

 

 ガガーランの容姿で人の数十倍もがっかりしたペロロンチーノは、三つ子の前で格好良い姿を見せようと張り切った。三つ子各々の性的傾向は隠匿され続け、忍者の口は堅牢な金庫のようだ。ガガーランは既に、ペロロンチーノの攻略圏外へ弾き飛ばされている。残った三人の内、二人に脈がないと知ればどんな暴走するかわからない。

 

「オラオラァ! 食らえぇ!」

 

 八つ当たりで爆散する魔物はこれで四体目だ。現在、超高速(ハイペース)で依頼がこなされている。大鷲に似た魔獣は、光の矢で蜂の巣にされ、血を吐いて草原に落ちた。

 

「すげえな……」

「素材、回収してくる」

「はい! 次の依頼は!?」

「税金農場の見回り。魔獣が出たのが北と南と……」

「西と東」

「全部かい!」

 

 面倒な遠方の魔獣討伐がここまで増えたのは、偏に冒険者をサボっているアインズのせいだ。組合長から愚痴を聞かされたイビルアイだけが知っている。

 

「本当はチームを分けるか、日程を調整して――」

「さっさと行こう!」

「ちょっと、ペロロンチーノさん、休憩しませんか。彼女たちは人間ですし、もうすぐ夜になりますよ」

「退屈だなー……」

「いて、何だこれ……破片……溶かしちゃお」

 

 動きの不穏なヘロヘロはさておき、姉は地面に伸びていた。遠く離れた場所で、アインズとイビルアイは大岩に腰かけている。折角の機会なので共闘したいところだが、イビルアイといちゃつくのを強制された。敵のレベルが低くて共闘する必要性を感じないが、それはそれで寂しいものだ。

 

「サトル、エ・ランテルの組合が悲鳴を上げていたぞ」

「なぜだ?」

「アダマンタイト級がいなくなっては、あちらも大変だろう……」

 

 彼女の言う通り、久しく城塞都市には顔を出していない。せっかく誕生した強者が王都に奪われたのだから、彼らの不満は半端なものではない。

 

「……美姫ナーベに動いてもらうか」

 

 本来、アインズはそんな暴挙に出るタイプではない。人間蔑視側のナーベラルを動かし、単身で依頼をこなさせるとどうなるか、想像する力はある。

 

 大切な仲間との時間を優先するあまり、誰にでもわかりそうな問題を読み飛ばした。今しばらく、アインズ・ウール・ゴウン魔導王凡人(ポンコツ)化計画は進行を続ける。

 

 

 しばらく先の結果だけみれば、剛運な凡人の失敗は、不出来な神の政策を凌駕した。

 

 

 

 

「お姉さまぁ?」

「クーデリカ! もう止めて!」

「一人で頑張ればなんとかなると思った? 思ったよねぇ? その結果がこれだ!」

「いやああああ!」

 

 クーデリカは、ウレイリカの変わり果てた姿を突きつけた。目玉は空洞、鼻はそがれ、唇が剥ぎ取られている。むしり取られた頭髪は頭皮まで引き剥がし、赤く濡れた頭蓋が覗いていた。

 

「うぶっ! おええええ」

「きゃっははは。親殺しぃ! 親殺しが吐いたぁ!」

 

 そうしてベッドから飛び起きた。暗い部屋は静まり返っており、それが悪夢だったと理解するのに随分と時間がかかった。

 

「…………最低」

 

 彼女の悪夢は、妹たちへ触手を伸ばしたのだ。

 

 その夜から配役(キャスティング)が変更され、両親は降板(リストラ)された。そうして悪夢は悪意を増大させ、毎晩のように繰り返し、惨殺され、壊れていく妹たちを見せつけられた。

 

 配役が変更されただけの悪夢ではあったが、彼女の正気は限界まで苛まれた。変化があるとすれば、被害者と加害者の交代だ。

 

 膨張する悪意の悪夢は、現実に具現化を始める。

 

 片方がもう片方を食している場面では、夢で嘔吐してから目覚めると現実でも嘔吐していた。彼女は貴重な睡眠時間を削り、ベッド付近の清掃から取り掛からなければならなかった。

 

 別の日、縄で拘束されて転がるアルシェを、クーデリカが頭を掴んで持ち上げる。視界の先で、ウレイリカが生きながら大量の蛆に体を食い荒らされていた。のた打ち回り、絶叫する彼女を助けるため暴れると、掴まれていた頭髪が千切れた。目を覚ますと、引き千切られた金髪が自分の手の中に残されていた。

 

 また別の日、無表情のウレイリカがクーデリカの体を解体し、頭皮を剥ぎ取って頭蓋の冠状縫合と後頭骨から前頭骨へ伸びる矢状縫合の接点に当たる部分に、全力でハンマーを叩きつけた。勢いで脳漿と頭蓋の欠片が散らばり、アルシェは口に飛び込んできた妹の脳みそを味あわされ、気が狂いそうな状況で顔を掻き毟った。

 

 目が覚めてから鏡を見ると、顔に引っかき傷ができていた。指と爪のささやかな隙間に、自分の血と肉片が挟まっていた。

 

 限界まですり減らされた精神は、千切れる寸前まで追い込まれた。

 

 今夜もまた、天井から逆さ吊りにされたウレイリカを、クーデリカが魔法で焼き殺そうとしている。加害者は歪んだ笑みで姉を眺め、被害者は目をひん剥いて絶叫する。

 

「助けてぇ! お姉さまぁぁ!」

「妹は二人も要らないよ!」

 

 加害者の掌へ炎の玉が浮かんだ。

 

「ウレイリカ! 私にやって! 私だったらどうなってもかま――」

「暗黒に沈んでしまえ! 《火球(ファイヤーボール)》!」

 

 クーデリカの放った火球は、小さな幼女をこんがりと燃やした。肉の燃える臭いが辺りに立ち込める。

 

 妹が妹を焼き殺す匂い。

 

 幼児が燃える臭い。

 

 家族が死ぬ香り。

 

 目が覚めたとき、夢の中の死臭が現実に漂っているように思えた。窓を開いて換気をしても、鼻の奥にこびりつく匂いが取れない。

 

 地獄の残り香。

 

 彼女はその匂いを引き摺りながら、王宮へと向かった。

 

(誰か……いっそ殺して)

 

 

 

 

 アルシェにとって、睡眠は恐怖の対象になった。ワーカーとして第一線で働いていたときだって、ここまで怖気(おぞけ)づいたことはない。次に目が覚めたとき自分がどうなっているのか、皆目見当がつかない。

 

 睡魔を払おうと昼食に激辛パスタを、それも唐辛子大盛りで食べたせいで唇がヒリヒリと痛む。触れると熱を帯びているほどだが、その程度で睡魔の猛攻は阻止できない。睡眠不足で、目の前に座っている人間の言葉は半分も理解できない。

 

「……さま?」

 

 声が聞こえて初めて、自分が目を閉じていたと気付いた。

 

 慌てて開いた瞳には、帝国魔法学院から引き抜かれたジエットとネメルが心配――を通り越して恐怖の顔で見ていた。

 

「……ごめん。何?」

「……アルシェ、人間牧場の話とか、犯罪者を牧場送りにする円滑な流通方法の起案とか、考えると気が滅入るから眠れないのもわかるけど、もっと私たちに仕事を回してくれない? って、話をしていたけど、どこから聞いてなかった? あなた酷い顔してるわ」

「ネメル…そんな言い方はないだろ」

 

 窘めてはいるが、ジエットも同感だ。仕事を独占している件についても然り、何より気になるのはアルシェの顔だ。濃い隈、顔のひっかき傷、蒼白な顔色、乱れた髪、朦朧とした意識、どこからどう見てもさ迷う死体(リビング・デッド)だ。たらこの様に赤く腫れた唇は、愛嬌さえ感じさせる。

 

 アインズに憧れているとは知っていたが、疑似アンデッド化しなくてもいいだろうに。

 

「ジエット、私はね、フルト家の使用人じゃないから、そんなに顔色を窺った対応はできないの。だいたい、アルシェだってもう貴族じゃないわ」

「でも、もうちょっと優しい言い方はできるだろ……」

「あのねぇ、いつまでもそんな使用人根性じゃあ、仕事の連携も取れないよ。ここは魔導国の王宮だよ? 意味わかる?」

 

 魔導国の宮廷勤務とは即ち、世界を統べる最強の主神、アインズ・ウール・ゴウン魔導王直属の部下だ。高給は保証され、借金額(ローン)も青天井、業務に必要であれば独自の采配で人材の引き抜きが可能だ。帝国・法国・竜王国はフリーパスで入国できるし、メイドを雇う費用も安い。

 

「ジエット、私、あのランゴバルトの糞野郎を引き抜きたいわ」

「……なに言ってんだよ。だってあいつは――」

「あの野郎、在学中、私の体を上から下まで舐め回すように見てくれた報復をしてやるわ。あいつは私たち直属の部下という体裁で引き抜いて、奴隷のようにこき使ってやりましょう。魔導国で貴族という言葉が何の意味もないってことを体に教えてやるの。舐めた態度は鉄拳制裁で礼をしてやる」

「……どうした?」

 

 在学中、自分の影に隠れ、小動物の様に怯えていた彼女はどこへ消えたのだろうか。

 

「だって、ここは魔導国の宮廷だよ? ジエットには欲がないの? なんならフリ姉さんでも引き抜いてみる?」

「……いや、人数は間に合ってるが」

 

 ジエットがアルシェ以上に大切だと思う人材はない。そのため、母親がアルシェ宅で働けるように進言したし、彼女の給金も低めに申し出てある。母子が食っていくには、ジエット一人の稼ぎで足りる。

 

 会話の切れ目に、アルシェの両瞼は落ちていた。

 

「はぁ……アルシェ、さん。今日は帰って休んでください」

 

 寝惚けた彼女は慌てて目を擦り、椅子に座り直した。

 

「アルシェ、今日は私たちで話を進めるから大丈夫。頑張ってくれたおかげで、私たちでもなんとかなるから」

「平気、話を先にすす――」

「帰ってよ!」

 

 ネメルは机を叩いて立ち上がった。今のアルシェには、どうして彼女が怒っているのかさえ理解できない。

 

「お願いだから帰って! はい、起立! お次は、回れ右! そして帰宅! お疲れ様でしたー!」

「あの、だから、私はだい――」

「アルシェさん、わからなくなったらフールーダ先生に聞きますから、安心して休んでください」

「……」

 

 もう用済みだと言われた気分だった。

 

 ネメルは彼女の背中を押し、そのまま王宮の入り口まで押していった。そうやって放り出されても、帰って眠る気分にならない。ふと、酒浸りの生活を送る番外席次が浮かんだ。泥酔して自宅へ帰れば、少しは違うだろうか。

 

 王宮付近の高級レストランは、昼間から酒を取り扱っている。これまで自分にお金をかけることを徹底的に避けてきた。依頼達成の打ち上げは不参加だったし、仲間が酒を飲んでいても余計な浪費はせず、必要経費の装備品さえ貧相なままだ。がむしゃらに足掻いてきたのだから、たまの贅沢くらいは許されるだろう。

 

 初めての経験に心を躍らせながら単身、レストランのカウンターへ座った。

 

「や、安いカクテルはいくらですか?」

 

 初体験の緊張で声が震えていた。グラスを磨いていたバーテン見習いは手を止め、微笑んだ。

 

「金貨一枚から取り扱っております。何か指定がございましたら伺います」

「あ……と、お酒はよくわからない」

「左様でございますか。それでは、味の好みを教えていただけますか?」

「う、ん……安くて、美味しいもの」

「畏まりました」

 

 全然、求められた回答になっていないが、彼は微笑んだ。しばし、シェイカーを振る音に身を委ねていると、鮮やかな紅で満ちたショットグラスが差し出された。

 

「キール、食前酒として嗜まれます。つまり――手習い、でございます」

「ありがとうございます」

 

 アルコール度数は抑えられていた。ここはアインズの作ったレストランで、品質は保証されている。ペースを抑えながら飲んだつもりが、美味しかったので数分と持たずにグラスは空になった。

 

 お金で苦労をした彼女の貧乏性は簡単に解消できない。口寂しいが、酒の金額に尻込みしていると、バーテンが次の酒を出してくれた。

 

「あの……頼んでない」

「こちらは私からのサービスです。アルシェ様、失礼ですが、酷いお顔をなさっています。それを飲み、ゆっくり休まれてください」

「名前、知っているの?」

「王宮で働く方々の顔と名前は大概、憶えております」

「そう……ありがとう。これは?」

「スネーク・アイ、常連は赤目と呼んでいます。泡沫の夢まぼろしです」

 

 一杯目はともかく、善意の二杯目は寝不足の体に費用対効果が良かった。ほろ酔いの状態異常を起こしながら、千鳥足気味に帰宅した。扉を開くと、姉の帰宅を察して妹たちの声が聞こえた。

 

「お姉様だぁ!」

「本当にぃ?」

 

 姉たる彼女の宝物、双子の妹たちは天使のように可愛い。

 

 そう、ここは自分と妹たちが暮らす家だ。何を悩み、苦しんでいたのだろう。アインズが自分の悩み相談を受けてくれなかったのは、その程度で解消する悩みだと知っていたからに違いない。何物にも代えがたい大切な妹がいるのだから、夢見が悪いなど大した問題ではない。底なし沼から這い出るような地獄、帝都の生活に比べればここは天国だ。

 

 ウレイリカが駆け寄った瞬間、浮かれていた気分は奈落へ落ちた。

 

 鼻をくすぐる香ばしい匂い。肉の焼ける匂い。人の燃える臭い。昼食で唐辛子を噛み砕くまでの間、彼女を苦しめ続けた地獄の残り香。悪夢の残滓はこの機を待っていた。

 

 無駄に浮かれていた分、落下するふり幅も尋常ではない。

 

 体が拒否反応を示した。

 

「触らないで!」

 

 伸ばされた妹の手を払ってしまった。

 

 直後、自分では抱えきれないほどの後悔が襲う。妹は黙り込み、服の裾を掴んで俯いていた。涙を堪えているのは明らかだ。悪夢は既に、現実を侵食している。

 

「私は……なんてことを……」

 

 アルシェはそのまま家を飛び出た。

 

(馬鹿だ! 馬鹿だ私は! 本当に馬鹿だ!)

 

 後悔とは、弱者に許された特権でもある。お酒を飲んだ自分を、思わず拒絶した自分を、愛する妹を傷つけた自分を、悪夢に苛まれる弱い自分を、あらゆる自分を殺してやりたかった。

 

 そして彼女は逃げ出した。

 

 消えた姉に代わり、メイドが妹を優しく抱きしめる。テスタニア夫人は、かつての雇い主だった娘たちの母に代わり、子供たちを健やかに育てなければならない。

 

「ウレイリカお嬢様、お姉様は疲れているのですよ。心配いりません、どんなに困難でもお姉様は必ず乗り越えてくれます。今は信じて待ちま――」

「ねえ、テスタニアー」

「はい、なんですか、ウレイリカお嬢さま」

「私たちがいなければお姉様は幸せ?」

 

 絶句した。

 

 自分を卑下する幼女の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。後ろから小さな足音が近寄ってくる。振り返ればクーデリカが、やはり無表情で棒立ちしていた。

 

「ねえ、テスタニアー」

「な、なんですか、クーデリカお嬢さま」

「私たち、生まれてきちゃいけなかった?」

 

 二人の妹は、自分たちが大好きな姉の足枷でしかないと知っている。そんな彼女たちを見て、涙を堪えきれなかった。

 

 双子は寸分狂わぬ声で言う。

 

「私たちは」「邪魔だよね」

 

 言葉の慰めは気休め程度の価値しかない。何も言わず、黙って抱きしめるしかなかった。

 

 この年齢でここまで悟るに、どれほどのものを捨てなければならなかったのか。テスタニア夫人が二人を引き取って育てるとしても、アルシェはそれをよしとしない。彼女は一人で全てを抱え込んだ挙句、押し潰されようとしている。

 

 両腕に抱きしめられる双子の少女は、親指に刻印された髑髏の印を無表情で眺めていた。

 

(アルシェ様の……ばか。こんなに……こんなに――)

 

 

 こんなに金糸雀(カナリア)が、「危ない」と鳴いているのに。

 

 

 

 

 アルシェが逃げだした先は海だった。

 

 潮騒に混じって聞こえるカモメの声。すぐ近くの波打ち際で、彼らは打ち上げられた魚を奪い合っている。厳しい生存競争の世界にいながら、どこまでも自由だ。怪我をして飛べなくなれば、海へ飛び込んで死ぬ自由さえある。

 

 今のアルシェには、そんな権利さえも無い。死んでしまいたくても、妹たちを残しては死ねない。何があろうと守らなければならない妹を捨てて、どの面下げて冥界の両親に会えばいい。

 

 目の前にいるカモメが、彼女には遠すぎる。

 

「じゃあ……どうすれば……どうすればよかった!」

 

 問いは波の飛沫に掻き消えた。

 

「教えてよ! 誰か教えてよっ! 私たちは幸せになれないの!? どうして幸せになっちゃいけないの! うわあああああ!」

 

 両手を出鱈目に振り回し、打ち寄せる波を何度も振り払った。霧状に舞い上げられた水しぶきに垣間見た夢まぼろし、朗らかな両親、嬉しそうな妹たち、そして微笑む自分、食卓を囲む彼らは仲の良い家族だ。

 

 現実は、アルシェに捨てられた両親は地獄のような最期を迎え、妹たちの心まで傷つけた。

 

 零れる感情が唇を震わせるので、痛む唇を噛みしめた。

 

(おかあさん……おとうさん……)

 

 小さい頃は楽しかった。家も裕福で、父はそこまで馬鹿じゃなかった。母親に抱き着けば良い匂いがしたし、使用人も沢山いた。とても賑やかな家で、双子の妹が生まれた時など、沢山の祝い品が届けられた。

 

 そんな可愛い妹の手を、彼女は振り払った。妹は傷つき、更に闇を深くして歪んだ成長を遂げる。アルシェがどれほど苦労しても、彼女たちの健やかな成長は望めない。悪夢に苛まれた姉は、その手で妹の未来を破壊しようとしている。

 

 ここは夢の終着点、帝都さえ出て妹たちを養えば全てが丸く収まると、少女が見た夢が潰える場所。

 

 地獄から逃げた少女が行きついたのは、やはり地獄だった。

 

 自分は妹たちの心を砕くために王都へ来たのだ。

 

「嫌だ……そんなの嫌だよぅ……」

 

 自らを抱きしめて膝をついた。もう、自力で立ち上がれそうにない。このまま満ち潮になれば、この場所は海に呑まれる。自分で殺せぬなら、誰かに壊してほしかった。妹たちを苦しめる姉など、波に呑まれて消え失せればいい。

 

 煙草の煙が鼻孔をくすぐった。

 

「ったく、無我夢中で走り過ぎた……何やってんだ、俺は」

 

 それは、彼女の存在に気付いていないようだ。全身を黒いローブで包んだそれは、人間か異形かさえ判断がつかない。煙草を持つ左手は妙につるつるとしていたが、顔はフード状に覆われて見えない。

 

 性別不明なそれは、アルシェの視線に気が付いた。

 

「……」

 

 無言で見つめ合うこと数秒。

 

 アルシェは唇を震わせ、掠れた声で叫んだ。

 

「……けて」

「?」

「助けて……助けて!」

 

 視界は涙で水没し、悲鳴のような嗚咽が漏れた。

 

 自らを抱えて跪き、幼子のように号泣する。波に沈んでいこうとする彼女の頭を、それはそっと優しく撫でた。

 

「……風邪ひくぞ」

 

 煙草の香りに混じり、母親の匂いがした。

 

 

 

 

 ずぶ濡れアルシェは、得体の知れない輩を伴って帰宅した。テスタニア夫人の堪えていた怒りが爆発したのは、双子が寝静まってからだ。予定の勤務時間は過ぎているが、帰る素振りはない。

 

「どういうおつもりですか!」

 

 寝間着に着替えたアルシェは、顔を拭いているタオルから顔を上げた。

 

「……そんなに怒らないでも聞こえている」

「ウレイリカさまとクーデリカさまがどれほど苦しんでいるか、酷だと思いますが知ってくださいまし! このままだとあの二人は――」

「どうなるんだ?」

「はぁ!?」

「だから、どうなるんだ?」

「あなたは黙っていなさい!」

 

 テスタニア夫人の血管がはち切れんばかりに膨らんだ。雇用主に対し、出過ぎた言い分だが、今回は見過ごせない。あれから二人は、一切の表情を取り戻すことなく夕食を終え、体を拭いてから眠った。見た目で分からないからこそ、内側から病んでいるのだ。

 

「お姉様……」

「ごめんなさい……」

 

 幼子の寝言はそれを立証している。

 

 こんな幼子に重荷を背負わせるアルシェに物申してやろうと待機していたが、彼女は得体の知れないモノを連れて、ずぶ濡れになって帰った。黒のローブで全身を覆ったそれは、性別以前に種族さえ不明だ。

 

 黙々と食事をする彼女と、さも当然とばかり料理を食べる何かに、堪忍袋は許容量を越え、緒がはち切れた。

 

「聞いているんですかっ!」

「あ、うん……ごめんなさい」

「だいたい、これは一体、誰なんですか!」

「……わからない」

 

 辛うじて声で、男性ではないかと思われる。何回、尋ねようと、彼は自分のことを語らない。口数が少なく、口も堅く、おまけにアルシェの側を離れようとしない。

 

 知性を持った異形種が自分を食らおうと企んでいるのだと不安になるも、先に釘を刺されている。泣き止んだアルシェへ、何よりも真っ先にこう言った。

 

「俺は人間を食わない」

「……そう」

 

 はぐれても構わないと思い、《飛行(フライ)》の魔法で宙を駆けるも、振り払うことはできなかった。彼女も彼女で、煙草に混じる母親の匂いで肉の焼ける匂いが薄れ、ついてくるなら構わないというのが本音だ。

 

「済まないが、お前たちの事情がわからない。説明してほしい」

「だから、あなたは黙っていなさい! まだ話が済んでいません!」

「ごめんなさい、今日は疲れたから眠らせて」

「だから話は終わってな――」

「なあ、あんた。そんなに怒っても意味ないぞ。疲れてる相手に無駄な話はやめとけよ」

「っ!」

 

 渾身の力を込めた平手打ちは、簡単に受け止められた。フードの中で二つの光が瞬いている。

 

「だから、やめとけって」

「今の御二人にはアルシェ様の愛情が必要なんです! アルシェ様が、お母様の代わりなんです! どうして……どうしてわからないのですか!」

「お母様……ね」

「何がおかしいのです!」

「いや……別に」

 

 フードの中の闇から聞こえた声で判断するのなら、冷笑だ。

 

「ごめんなさい……もう……無理」

 

 アルシェの眠気は限界だ。倒れるように寝入れば悪夢を見ずに済む。安心して頭を机に落とすと、ゴンと音が鳴って頭蓋が揺れたが、目が覚めることはない。

 

「母親は……俺が殺したよ」

 

 底なし沼へ落ちていく微睡に聞こえたのはきっと、悪夢の中に入っていたからだろう。

 

 

 

 

 目が覚めると、ベッドの中だった。ここ最近で一番、目覚めが良い朝、こんなに眠ったのは久しぶりだ。

 

 ダイニングへ向かうと、家が賑やかになっていた。

 

「ぎゃー!」

「わー!」

 

 いつもは午前中遅くになって目を覚ますはずの二人は、何かを感じて目を覚ましていた。当然ながら、彼を見て阿鼻叫喚としていた。その彼も、怯える二人に困惑しているようだった。

 

 ローブを脱ぐよう指摘したが、意地でも脱ごうとせず、煙草に火をつけた時に手が覗いた。どうやらローブの中身は空っぽではないらしい。幽霊(ゴースト)ではないようだが、それ以外はわからない。

 

 アルシェが妹たちを抱きしめ、昨日の件を謝罪しながらあやしていると、いつもは午前中遅めに出勤するテスタニア夫人がやってきた。

 

「おはようござ……禁煙!」

 

 彼女は挨拶の途中で走り寄り、彼の手から煙草を奪い取った。朝から怒り心頭だ。

 

「厳しい時代だな」

「小さい子供がいるのがわからないんですか!」

「……悪かった」

 

 おっとりしたテスタニア夫人が、ここまで怒るのは初めて見た。

 

 誰でも譲れぬものがある。アルシェにとっての妹であれば、彼女にとっては自分も含めた三姉妹なのだろう。

 

(それでは、彼にとっては何?)

 

 一晩明けると、テスタニア夫人は彼を追い出そうとしなくなった。

 

「アルシェ、出掛けるなら同じ煙草を買ってきてくれ」

 

 出掛ける前のアルシェに煙草の箱が放り投げられた。

 

「んまぁ、何て横柄な」

「金は後で払う」

「お金、持ってるの?」

「どうにかする」

「そう……この銘柄が無かったら他のものでいい?」

「できれば同じものを探してくれ。同じでないと意味がない」

 

 そう言って、文字通りどこかへ消えた。残像さえ残さず消えるのだから、彼を覆う謎のヴェールは濃さを増した。姿が見えなくなった途端、テスタニア夫人はおっとりとした口調に戻った。

 

「アルシェさま、経済的に一人増えても問題はありません。もう少しだけ様子を見ましょうか」

 

 彼の口ぶりから察するに、しばらく居座るつもりのようだ。金を払ってくれるなら構わないが、それよりも気になるのはテスタニア夫人の変化だ

 

「ところで、私が寝た後、彼と何かあった?」

「……いえ、何もありません」

「本当に?」

「私は洗濯物が溜まっていますので、これで」

 

 やはり、アルシェの知らないところで何らかのやり取りがあったようだ。好意的になっていないあたり、良い話ではなかったのだろう。

 

 そうして夜、早めに帰宅したアルシェは、夕食ができるまで妹たちと遊んでいた。どうやって嗅ぎ付けたのか知らないが、きっかり夕食が出来上がる時間に彼は戻ってきた。

 

「これ、俺の生活費だ」

 

 彼は片手一杯の金貨をテーブルへ置いた。子どもの前で生々しいと思ったが、存外、妹たちは食卓を囲むものが増えたことを喜んでいた。子供らしい単純さに感謝した。

 

「ねー、名前はー?」

「俺の名前はどうでもいい」

「なんて呼べばいいのー?」

「呼ばなくていい。銅像かなんかだと思うといい」

「今日から一緒に住むのー?」

「……多分な」

「どこに住んでたのー?」

「……遠くだ」

「どうしてお母様の匂いがするのー?」

「それは気のせいだ」

「お母様はどこにいるのー?」

「……俺は知らん」

 

 質問攻めの全てをはぐらかし、一つたりとも答えなかった。

 

 口を割らせるのは骨が折れそうだ。

 

 その癖、妹たちが寝静まり、テスタニア夫人が帰宅してから、知ったようなことを言い始めるのだ。ごそごそとローブから取り出した酒と、アルシェが買ってきた煙草を呑みながら説教する姿は、まるで駄目親父だ。

 

「アルシェ、お前くらいの歳で働くのは珍しいことじゃない。俺もお前くらいの歳にはもう働いてた。だが、転職はそうそうしない。食い扶持を稼ぐ場所はそんな簡単にありつけないからな」

「……何が言いたいの?」

「環境が変わんのは大変ってことだ。お前、この国に来て何か変わった?」

「変わった? 私が?」

「……そうか」

 

 彼ははっきりとした物言いを避けた。

 

 この日の会話はこれで終わり、彼は掻き消えた。

 

 ぼんやりと天井を見上げ、彼の正体を考察する。働いていたということは人間なのだろうか。それにしても、顔を見せられないのは怪しい。犯罪者――よりは亜人種という線が濃厚だが、それなら尚更、あらぬ疑いを避けるために顔を晒すべきだ。

 

(もしかすると、人食いの獣人(ビーストマン)系……?)

 

 それならば人間国家で顔を隠すのは仕方がない。アインズが竜王国を救ったとき、彼らは凄惨な皆殺しにあったと聞いている。つるつるとした肌の手は、特殊なガントレットでも装備しているのだ。彼に対する新たな接触方法(アプローチ)を考えていると、意識は夢に落ちた。

 

 夢の中で、テスタニア夫人が彼を追いかけ回していた。声を聞く限り、女性側が男性側を口説いているようだ。獣を口説く彼女も、逃げ回る彼もどうなのかと思われた。

 

 いつ猟奇的な方向へ向かうのかと戦々恐々としていると、朝になっていた。テーブルで眠ったはずが、ベッドの中で目を覚ました。寝間着には着替えていなかった。

 

 前日と同じく朝食を終えてから、妹たちは目覚めてからそう経っていないのに、アルシェの腕の中で居眠りをしていた。母親に甘える子供のようで、自然と笑みがこぼれる。

 

「困った……」

「休めばいい」

「……そんな簡単に」

「妹より仕事が大事なら勝手にしろ」

 

 言い捨てて彼は消えた。

 

 どの道、もう出勤時間に間に合わない。ジエットに連絡すると、今日は休んでいいと言われた。それはそれで用済みと言われた気分だが、今は生活を落ち着けるべきだ。不思議なことに、妹たちと一緒になって昼寝をしていると、何の夢も見なかった。

 

 恒例となった彼の嫌味は、テスタニア夫人が帰ってから開始する。

 

「早く寝ろ。明日も仕事だろ」

「……夢見が悪い」

「お前は弱すぎる。悪夢は、過去を乗り越えらない証拠だ。そんな弱い奴に守られる子供たちが可哀想だと思わないのか。ガキがガキを育てていいのか」

「……あなたは私の悪夢なの?」

「お前の枕、新しいものに変えておいた。訳の分からんこと言ってないでさっさと寝ろ。目の下の隈を先に何とかしろ」

 

 彼は消えなかった。アルシェは羽虫を追い払う動作で自室へ追いやられた。恐る恐るベッドへ入ると、枕は随分と固くなっていた。

 

 案の定、悪夢は見たが、内容はぬるま湯だった。

 

 

 

 

 得体の知れない人物が家にいるもので、アルシェは帰宅時間を早めようと抱え込んでいた仕事をあちこちへ割り振った。初めこそ引き継ぎに時間を取られたが、家に帰るのは日に日に早まっていく。ジエットやネメル、フールーダ老、あるいは評議員の仕事量は少しずつ増えたが、誰一人として文句を言わなかった。

 

 アインズへの忠誠を態度で示すならアルシェのように仕事を抱え込むべきだというのが彼らの総意だ。

 

 夜、妹たちが眠ると、掛け合いは開始する(ゴングを鳴らす)

 

「今のお前はどうなりたいと考えてる?」

「どうなりたい……とは?」

「この先、何を望むかだ」

「妹たちを幸せにしたい」

「お前自身はどうなるんだ?」

「死んでも構わない」

 

 海で出会った日、全力で泣いたのは子供の時以来だった。涙と一緒に日々の疲れも流れたような気分で、今のアルシェは帝都を逃げ出した時と同様に、決意を新たにしている。しかし、彼の反応は鈍く、アルシェが気に入らないようだ。

 

「……どんな人間でも、夢を見るってのは哀しいもんだな」

「妹よりも大事なものはない」

 

 アルシェの悪夢は更に形を変えているが、睡眠不足は解消された。

 

 あれほど彼女を苛んでいた夢魔は、すっかり牙を抜かれた。アルシェと大喧嘩した妹たちがアインズの大墳墓へ家出したり、テスタニア夫人が彼をぼこぼこに殴っていたり、アルシェがなぜかジエットに失恋したりする。猟奇的かつ冒涜的な夢から比べれば、ぬるま湯でほのぼのとしている。

 

 ただ、恒例行事となった彼の夜語りは好きになれそうにない。彼の言っている内容も悪夢をなぞるかのようで、具現化した悪夢に思えてきた。

 

「あなたはビーストマンなの?」

「何言ってんだ、おまえ」

「違うの? だから正体を明かせないのかと」

「ビーストマンは人を食うんだろ。俺は人を食わないと前に行ったはずだが、余裕のない頭で忘れたのか?」

「やはり……あなたは私の悪夢なの?」

 

 彼のとげとげしい態度は好きに慣れそうにない。意思を持った悪夢なら自由なのだから、さっさ出て行ってもらいたい。

 

「アルシェ、正直なところ、自称・頑張っているお前に同情するつもりはない。親を見殺しにしたお前は、それ相応の報いを受けるだろう。あるいは、もう受けているかもな」

「……」

「言いたいことがあるならはっきり言え」

「むかつく」

 

 自分がどんな思いで、帝都で暮らしていたか知らない癖に、彼の態度は尊大で傲慢だ。そう言った彼女に対し、尚も辛らつな言葉を投げてくる。

 

「弱いやつはそうやって自分を誤魔化すんだよ。仕方なかった、自分には何も出来なかった、悪いのは自分じゃない、他の誰かが悪い。そう言い聞かせて折り合いをつける。お前は両親を捨てたんだろ。彼らがこの先、どんな人生を歩むかなんて考え――」

「あなたに何がわかる!」

 

 自分の素性さえ明かせぬ者の言葉に、立ち上がって激昂した。

 

「どうすればよかった! あのままだと私は娼婦になるしかなかった! いつも家には借金があって、母と姉が娼婦をやって生計を立てる家で、妹たちがまともに育つわけない! 私たちは幸せになっちゃいけないの!?」

「……いや」

 

 彼の嫌味は集束し、アルシェも肩透かしを食らって椅子に座った。

 

「私は……間違っていない」

「本当にそうか? 方法は全部試したか? 父親をぶん殴って従わせれば良かったんじゃないのか? 母親と真剣に話をしたか? あらゆる方法を試したうえ、本当にそう言えるのか?」

「そんなこと……わからない」

「お前は、誤魔化しているな。現実逃避して逃げた先で、また現実と向き合うことを求められてる。戦わなきゃいけない戦場は帝都だったんだ」

「あなたは何? 知ったような顔で私たちに何が言いたいの?」

「妹たちへの愛があれば、自分さえ頑張ってどうにかなると思ってる餓鬼に、現実を突きつけてんだよ」

「っ!」

 

 アルシェはダイニングテーブルのコップを掴み、水を掛けた。

 

 それでも彼は揺るがない。水は彼のローブの中に飛び込んでいるが、気にかける様子も、拭く素振りさえも見せない。忍び耐えることに慣れているようだ。

 

「最後に愛は勝つとでも思ったか?」

「……私は妹たちを愛している」

「そんなものは所詮、弱者のまやかしだ。そうやって理由をつけて誤魔化している。”自分さえ頑張ればいい”じゃなくて、”自分一人だけ苦しめばいい”、だ。だから悪夢にうなされるんだよ」

「誤魔化してない! 私は本当に――」

「今は俺が入って場が混乱しているが、落ち着いてからまた必ずガタがくる。お前一人だけにな。現に、そうなったからお前は海で泣いてたんだろ? 無自覚は罪だ。弱いお前はそうやって無理ばかりしている」

「……だって、もう……親はいないもん」

「もっと素直に、餓鬼は餓鬼らしくぶつかるべきだ。幸い、今は俺がいるけどな」

 

 気が付くと、唇を噛みしめていた。

 

「っ……」

「?」

「今日は、この辺にしておく」

 

 そういって彼は消えた。いつも彼は、言いたい事を言い終えた後、風に吹かれた霧のように消失する。小さく息を吸い込んだ音に混じって感じたのは、得体の知れない彼の感情。

 

 しっくりくるのは、動揺に思えた。

 

 それでも翌朝、ちゃっかり朝食の時間には戻ってくる。

 

 眠っている姿を見たことないが、どこで何をしているのだろうか。金を払っているので仕方ないが、アルシェには腹立たしい。かなり睨んでいたらしく、彼は食事の手を止めてこちらを見た。

 

「……何だ?」

「……別に」

 

 機会があれば、自分が平手打ちをかましてやろうと思った。

 

「テスタニア、卵は半熟にしてくれ」

「お断りします」

「パンが固いんだ」

「子供たちは固い方が好きなんです。ミルクにでも付けてください」

「……そうか」

 

 彼の扱いにも慣れたものだと、パンをかじりながら二人の掛け合いを眺めた。子供を中心に置きながらすれ違う、仲の悪い夫婦のようだ。しかし、そうなると自分は彼らの子供的な立ち位置になってしまう。

 

 隣の妹たちは寝起きが良く、小さなフォークで卵を八つ裂きにして食べていた。

 

 今の家長は自分だ。なればこそ、誰よりもアルシェ自身がしっかりしなければならない。この家で残された問題は、妹たちの成長だ。

 

 未だ、人形はバラバラに解体され続けている。

 

「アルシェ、ウレイリカとクーデリカの親指に髑髏が書いてあるが、あれは何だ?」

「アインズ様……魔導王、つまり王様の家に招かれたとき、ねいる? というものをやった」

「ほー……余程、大事なんだな」

「将来、アインズ様のお嫁さんになると言っていた」

「……それは駄目だ」

「余計なお世話」

「駄目だと言ったら駄目だ。ウレイリカ、クーデリカ、魔導王のお嫁さんになんか、何があろうと絶対に俺が許さん。そんなことが許されるわけがないだろう。だいたい、お前たちは小さすぎるし、これから――」

「食事中はお静かに!」

 

 テスタニア夫人はお玉でフライパンを叩いた。双子は不思議そうに彼を見上げてから、無表情で食事を再会した。

 

 しばらく戸惑っていた彼は、諦めたように椅子へ腰かけた。

 

「アルシェ、俺がここにいるのは絶対に、何があっても誰にも言うな。まだやることがあるからな」

「何を言っ……逃げられた」

 

 彼の皿を見ると、綺麗に完食していた。

 

 それからしばらく、彼と出くわさなかった。

 

 

 

 

 目の下の隈の色が薄れ、顔の引っかき傷も癒えた頃、夕食時にふらっと彼が現れた。

 

 彼が来てからアルシェの悪夢は収まったものの、妹たちの歪みは加速したように思える。

 

「最近、見なかったけど」

「ずっと家にいたぞ。家、宮廷、自室しか行かないから、俺を見逃すんだよ」

「ずっと見逃していたい」

「……悪かったな」

「いつも気になってる。昼間は何をしてるの?」

「ウレイリカとクーデリカに勉強を教えている」

「庭のあれもそう?」

 

 庭に突き立てられた数本の杭に、洋風人形が(はりつけ)にされていた。人形に突き立てられたナイフが数本、周辺に散らばっている刃物、投てきの練習でもしているようだ。

 

「妹たちに変なことを吹き込まないで……お願いだから」

「お前はまだ、自分を取り巻く環境がわかっていない。余裕のないからオツムも足りないんだろうな」

「お願い、妹を――」

「お前に従うつもりはない。妹たちをちゃんと理解しろ」

「あなたのそうい…………消えた」

 

 彼の皿を見ると、やはり綺麗に完食していた。食べ終わったからこちらの事情を聞かずに消える、実に不遜な態度だ。

 

(何様のつもり?)

 

 アルシェの我慢にも限界がある。妹たちの知らない顔など無いと信じているし、そんなことをどこの馬の骨とも知れぬ輩に言われたくない。

 

 次の夜、アルシェの聞きたいことは聞けた。

 

「いつ出て行くの? そろそろ出て行って欲しい。お金が必要なら返す」

「もうすぐ……そう、もうすぐだ」

「だから、いつ?」

「巣立ちは近い」

 

 そうして掻き消えた。

 

 彼にとっては自分の話など聞く価値がないらしい。

 

 昼間、これまでのやり取りを思い出すと、腸が煮えくり返るときもある。

 

 そんな顔を弟分に見られたらしく、ジエットが不安な顔でこちらを見ていた。

 

「……なに?」

「いえ……怖い顔をしていましたよ」

「……そう」

 

 羞恥で顔が熱くなった。

 

「今夜、アルベド様が一時的にここへ寄るそうです。ご機嫌が芳しくないようで、人間は早めに帰宅するよう伝達がありました」

「……そう」

 

 他に話すことがなかったらしく、沈黙が訪れた。

 

「か、顔色、良くなりましたね、あ、アルシェ」

「そう? ありがとう」

 

 その場を立ち去る頃合いだ。

 

 今日は早く帰れそうなので、安いお酒でも飲んでから勢いをつけて帰ろう。家にいる馬鹿野郎に、いつもより激しく言い返せるように。初めからこちらが強気になれば、いつもと立場を逆転できるかもしれない。

 

 そう意気込んで帰宅した彼女を待っていたのは、文句のつけようがない肩透かしだった。

 

「あ、アルシェ様ぁ! あの人がいません!」

「いつもいない」

「そうではありません! 出て行くと言っていたんですよ!」

「よかった……」

 

 自分で拾っておきながら酷いと思うが、夢魔は出て行ってくれた。これから本格的に、妹たちの性格矯正に移れる。安堵の消費期限は数秒間だった。

 

「ウレイリカ様とクーデリカ様もいません!」

「……嘘」

「ほ、本当にいません! かくれんぼをしているのかと思い、家じゅうを探しましたが、どこにも見当たりません!」

 

 慌てて向かったのは妹たちの寝室だ。いつもは散らかっている室内が、妙にがらんどうとしている。人形はおもちゃ箱へ片づけられているし、ベッドメイクもされている。

 

 ベッドの上に手紙が落ちていた。

 

「これは?」

「……読めないんです。何かの暗号文書でしょうか」

 

 手紙を開くと、文字はアルシェの知っているどの言語とも一致しなかった。

 

 類似する形は以前に見たことがある。

 

「これは確か、大墳墓で……」

 

 

 

 

 一度は帰宅した彼女が王宮の執務室へ飛び込むと、アルベドが書類の束を転移ゲートへ放り込んでいた。ジエットの情報通り、彼女の機嫌は最高に悪かった。

 

「アルベド様!」

「騒々しい。この忙しい時に虫けら風情が。先に言っておく、下らない用事だったら殺す」

 

 窓に移り込む月を背景に、暗い部屋で金色の両眼を光らせるアルベドは、ぞっとするほど美しく、恐ろしかった。自然と膝ががくがくと笑い、体の芯から徐々に力が抜けていく。それでも妹たちのため、ここで引けない。

 

「妹たちが攫われました! こ、この手紙を読めますか?」

 

 むしり取るように奪い去られた。魔女の目線が手紙に落ちると、即座に動きは止まった。

 

「……どこでこれを……いや、違う。これは誰からもらった」

「その、話せば長くなるのですが」

「簡潔に、そして手短に話せ」

 

 アルシェは海で拾った得体の知れない怪人物のことを、掻い摘んで話した。話が進んでいくにつれて、部屋を満たしている殺気は存在感を濃くしていく。恐怖で体が震えても、それ以上の不安がアルシェを急き立て、震える唇を動かした。

 

「次から次へと……本当にあの糞野郎は碌な事をしない」

「は、はい?」

「結論から言うと、この手紙には行き先だけが書いてある」

「どこですか!」

「五月蠅い!」

 

 不機嫌な魔女は些細なことにも容赦せず、机の上に会った鋏を放り投げた。剛力で投げられたそれはアルシェの耳あたりを通過し、壁にめり込んでいた。あと数センチずれていたら、アルシェの耳たぶが裂けていた。

 

「ああ、糞! 次から次へとぉ! あの糞野郎がぁぁぁ!」

 

 アインズの妃は、髪を掻きむしって吠えた。まるで手負いの野獣だ。美と野性が一つの体に混在できるとは知らなかった。

 

「お前! この件は口外無用。私からアインズ様へ進言し、全勢力を挙げて捜索に当たる。あなたの妹たちの命は保証する。小さな花が踏みにじられるような結末にはならない。あとひと月ほど、犬の様に待っていなさい」

「ありがとうございます……」

「精々、アインズ様を信じることね。そして待てばいい。無力な人間風情に出来るのはそれしかない」

 

 アルベドは部下に指示を出し、転移ゲートを開かせた。

 

「あの……アルベド様」

「はぁ?」

「……最後に愛は勝ちますか?」

「勝つわけがないでしょう。女はいつだって利用され、泣きながら、それでも待つしかない」

「……」

「糞が……シャルティアだって、大森林だって大変なことになっているのに……本当にプレイヤーは何を考え、何をしでかすか分からない。いっそ片っ端からこの手でぶっ殺してやれば、どれほど清々するか。この分だと、”奴”が来るのはそう先の話ではない。早々に暗殺する手段の模索を――」

 

 物騒なことを言いながら、アルベドは転移ゲートを潜った。

 

 緊張の糸が途切れてしまい、執務室でへたり込んだ。アインズとアルベドの残り香が彼女の前身を覆ってくれる。

 

 妹たちを奪われた彼女に訪れたのは、解放感だった。

 

 

 

 

 昨晩から今朝にかけてテスタニア夫人は一緒にいてくれたが、彼女は何も言わなかった。

 

「何か知ってる?」

「……信じましょう」

「何か知ってるんだ……」

「あ、いえ、何も知りません」

「怪しい……」

 

 ジト目で疑うアルシェから逃げるように、メイドは料理に取り掛かった。

 

 何となく、二人が笑っているような予感がした。

 

 妹たちの件は心配ではあるが、アルベドに命の保証をされ、アインズを信じろとまで言われた現状、自分があたふたするのは失礼だ。自分の気持ちを誤魔化すことなく、アルシェはアインズの剛力を信じた。

 

 そうして再び仕事に没頭し、書類を読みふけっていると、ジエットとネメルが青い顔で駆け寄った。

 

「お嬢様! ウレイリカさまとクーデリカさまがいなくなったって!」

「あ、うん……いなくなっちゃった」

「いや、アルシェ、あんた、心配じゃないの?」

「アインズ様を信じている」

 

 昨晩の自分と同じく、両名は肩透かしを食らって座り込んだ。

 

「どうしたの?」

「薄情だね……心配で探しに行ったりとか――」

「私が動くと、アインズ様の邪魔になる」

「そうですか……」

「そうでしたか……」

 

 血を分けた身内を心配するのは当たり前だ。たまにはアインズに委ねてみようと考える自分はどこかおかしくなっているのかもしれない。そう考えると、口角が上がるのが分かった。

 

「ジエット、フールーダ先生に魔法学院から人材引き抜き、それも在学中の生徒から選定するよう検討をしてもらって。生徒会長あたりが来てくれると、私は冒険者組合と闘技場建設に手が付けられる。ネメル、他に誰かいるなら雇ってもいい」

「あ、はぁ……」

「今日中にまとめたい資料がある。二人は遅くまで残って」

「また無理するんじゃないでしょうね……」

「大丈夫。たまにはレストランでお酒が飲みたいから、残業のお小遣い稼ぎ」

 

 唖然としたジエットに反し、ネメルは笑った。

 

「早くフールーダ先生へ報告を」

「は、はい!」

 

 消えた彼は、アルシェが呼び込んだ悪夢だったのだろう。

 

 自分一人で全て抱え込み、全て壊してしまいそうな少女を叱るため、夢の世界からこちらへ遣わされた夢魔。彼から香る母親に似た匂いに、妹たちは懐柔させられ、喜んでついていったのだ。現に、あれから悪夢は見なくなった。

 

 根拠はないが、彼は妹たちを大切に扱ってくれる確信がある。あと一ヶ月、アインズを信じて、働きながら、妹たちの帰りを待てばいい。

 

 帝国では失敗した。魔導国で一回目も駄目だった。次はもっと上手くやる。今度こそ上手くやって見せる。

 

 優しい姉になれるように。

 

「アルシェ、少し痩せた? 違うな……少し前が太ってたんだ」

「あまり動いてなかった。たまには冒険に出てみる」

「それより、いつ飲みに行くの? フリ姉さんも呼んで、みんなで行こうよ」

「悪くない……が、美味しい酒は高い」

 

 今日も魔導国は平和だ。

 

 

 






続「アルシェ out of NIGHTMARE」

カッコウ→歌の通り


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