漆黒の
「離して! お願いだから行かせて!」
「何をしている」
「もっモモン様!」
「イビルアイ、離すと逃げられる」
「あ、おい、待て!」
イビルアイがモモンに気を取られて拘束を緩め、その隙にラキュースは仲間を振りほどいた。魔剣を引き摺り、全力疾走の彼女には追いつけそうにない。イビルアイがモモンへ近寄ってくる。
「モモン様! 何が起きているのですか?」
「ヤトが憎悪で我を失った。彼を止める。ここからは死ぬ覚悟がある者だけ付いてこい! 行くぞ、ナーベ!」
「はい!」
「モモン様……」
モモンは目に妖しい光を宿していた。走り去る漆黒の影は心強い先導者に見えた。彼に見惚れているイビルアイを他所に、ラナー王女は別の算段を始めた。
「クライム、行きましょう」
「や、ら、ラナー王女様! ここは事態の把握を――」
「英雄様の戦いを邪魔してはなりません。私たちは避難していましょう」
「う……し、しかし」
「私を、守ってはくださらないのでしょうか……」
「……いえ……行きましょう、馬車へ」
「いいえ、衛兵を集めてください。主に死体の掃除をする方々を中心に」
クライムの判断は正しい。護衛であれば、役目を全うすべきだ。人知れずクライムを連れて、何かの準備を始めたラナーに誰も気づかず、ブレインと蒼の薔薇はモモンの後を追った。
◆
「ヤト!」
大きなドアを開け放ち、ラキュースは玉座の間へ到着する。
地獄絵図だった。
バラバラになった死体、人間なのか不明な死体、臓物、血、妙な液体。それだけではない。大よそ考え付く限り、人体から排出されるもの全てがそこにあった。とにかく部屋全体が生臭かった。
思わず鼻を抑え、ヤトを探して首を振る。
「うっ……惨い……ヤト! どこにいるの!」
眼鏡の美しいメイドが頭を下げていたが、それどころではなかった。
想い人の姿は見えず、大蛇が貴族の口から大鎌をゆっくり差し込んでいた。ソリュシャンとルプスレギナは、支配者の妃候補である彼女に気付き、殺戮の手を止めた。
「ヤトノカミ様、あの者はご寵愛を授ける方では?」
「ああ、来たのか」
遊んでいた人間をさっさと切断し、ラキュースに向き直る。
「ようこそ、地獄へ。アインドラのお嬢さん」
「……」
大蛇の声は彼女が聞きたかった声であり、今は最も聞きたくない声だった。
「どうした? 俺を探していたのではないのか?」
「お前が……お前がヤトである訳がない!」
「今、目の前にいる俺が、お前の知るヤトであり、ナザリック地下大墳墓のヤトノカミだ。真の姿を見た感想はいかがかな、お嬢さん」
血溜まりの中で両手を大きく広げた。
「嘘だっ!」
「二人で雑貨屋回ったのは楽しかったですねぇ……そういえば膝枕される二人の皿が売られていたらしいッスよー……生きていたら見に行ってくださいよー」
「……う……嘘……だ」
くだけた敬語で話す彼に人間のヤトが重なる。受け入れがたい絶望と、隠していた真実を恋する乙女に突きつけた。悪魔は口を歪めて嗤う。
「必死で守った王国のクズ共が惨殺され、絶望のどん底へ落ちた気分はどうだ?」
「……なぜこんな……惨い真似を」
「異形の蛇神である俺が、虫けらを潰すのに重大な理由が必要か?」
楽しく輝いていた日々に暗雲が立ち込め、全てが嘘のように感じた。それでも過去を否定したくはなかった。たとえ、人間でなかったとしても、ラキュースの想いは変わらない。
「私は……」
「これを機に知るといい。俺は身も心も化け物だ」
何かを言い出す彼女を遮った。泣き言や愛の睦言など聞く気分ではなかった。全部、壊してしまえばいいと、心の底からそう思った。
「で、逃げるなら追わないが、どうする。殺るか? 殺られるか?」
涙が目に溜まり始めていた。
「泣いてると死ぬぞ。泣かなくても死ぬか」
彼女は涙を堪え、返り血に染まる赤い蛇神を真っすぐ睨みつけた。
「ナザリックのヤトノカミ! 私はラキュース・アルベイン・デイル・アインドラ! 王国貴族としてお前を止める!」
ここまでの惨劇を目の当たりにして、それでも殺すとは言えなかった。戦いの中で元の彼に戻る可能性を、揺らめく微かな光として信じた。
他に選択肢はなかった。
双方、大きな武器を一本、構えた。
「ああ、かかってこい」
「いくぞおおお!」
憎しみの大鎌と哀しみの魔剣は、ラキュースの声を合図に、玉座の間で衝突した。
◆
第二王子相手に暴れていたエントマを探していたが、見つからないためナーベに託した。雑用の為にモモンの到着は大きく遅れた。
「モモン様、その……」
「後にしろ! 急がないとラキュースが死ぬぞ!」
「はっはい!」
モモンに怒られた小さな吸血鬼は、露骨に落ち込んでいる。
並走して走る他の面々は、大きなため息を吐いていた。
一行が玉座へ駆けつけた時、ラキュースが壁に叩きつけられていた。悔しそうに歯を食いしばる彼女は、魔剣を支えに辛うじて立っているが、それ以上は戦えそうにない。
「はぁ……はぁ……」
「なんだ、これは? ダメージがこちらの想定より低い……女性に対して……そうか、遊び人の《女好き》か。これでは力加減がわからんなぁ……もう、殺してしまおうかぁ……」
「ヤトノカミ! もう止めろ!」
「ちっ……モモンが来たか……プレアデスは巻き添えを食う前に全員撤退しろ。後は俺がやろう」
変わり果てた英雄の姿に“蒼の薔薇”とブレインは掠れた言葉しか出なかった。
「……おい、マジかよ」
「お前、ヤトなのか?」
「ぷれいやー……」
「……」
「皆、動揺するな! 貴族と国王を助けるんだ!」
モモンの声で皆が我に返る。
メイド達が一礼してから消えたのを機に、ブレインはガゼフに駆け寄り、蒼の薔薇は緊張が解けた貴族達を逃がし始めた。
「ヤト……貴方は……私が」
ラキュースはよろけながらも前に出て、再び刃を交えようとしていた。
「馬鹿! 動くな!」
イビルアイは彼女に飛びつき、横に倒して強引に止めた。
「彼女の治療を頼む。イビルアイ」
「はい!」
ヤトは鎌をくるくると回しながら気楽に待っている。モモンは大剣を両手に構え、戦闘態勢で向かい合った。
「お前が次の相手か」
「見損なったぞ、ヤトノカミ! 貴様は……大事な者を殺すのか!」
「大事な者はナザリックだけだ」
「目を背けるな! 楽しそうに彼女の話をしていた過去を無にするつもりか!」
治療されているラキュースは目を見開き上体を起こし、イビルアイに怒られていた。こんなことがなければ、飛び上がりたい程に嬉しかった。全てが血だまりで汚れ、冷血動物の心には、波紋一つ起きなかった。
「心は変わるものだ」
「ならば戦いの最中、人間の残滓を自覚させてやる。行くぞ、哀れな蛇神、ヤトノカミ!」
モモンは飛び出していった。
「下らんな。さっさと来い、漆黒の英雄」
大鎌で迎え撃つ準備も整っていた。
この時、ヤトは適当に戦って引くつもりだったが、モモンは命を差し出す覚悟があった。彼の憎悪を昇華しなければ、阿呆な友人は二度と帰らない。憎悪の黒炎を燃やし続ける、異形の蛇神となってしまうのだ。
レベル100の戦士と化し、全力でヤトを止められれば、まだ目がある。彼にスキルを封印させて、互いの武器でしのぎを削り合う
二振りの大剣と大鎌に小太刀は、玉座の間で刃を交わす。
開始早々、剣風が周囲を暴れまわっていた
「すげえ……モモンも人間なのか?」
「くそ! 俺は……俺はあいつを止める事も出来ないのか!」
ガゼフは涙を流しながら床を殴りつけた。
利き足が折れている中、五本の武器が縦横無尽にぶつかり合う場所へ飛び込めば、細切れにされて終わりだ。暴走する友を止めることが出来ず、見ているだけの弱い自分が許せなかった。
「弱くて苦しむのは俺の方が先輩だぜ、ガゼフ。モモンに任せて、今は国王を守るぞ」
「すまない……ブレイン」
ブレインの言葉は、消えそうなガゼフの心に暖かい火を灯し、二人は弱った王を守り始める。
◆
大小違う武器、それに加え頭部の突き出た刀、しなやかに舞い踊る戦いをするヤトは強かった。
彼は素早い動きと多い手数で、相手の体力を少しでも多く奪う戦法を好む。自らの命さえ大事にせず、先陣を切ることに全てを掛けていた。他の前衛の仲間と比較して、物理攻撃力が低いことが唯一の救いだ。それでも手塩にかけた大鎌の攻撃と、頭部の刀の切れ味が鋭く、戦士としての経験が短いモモンはダメージこそないが鎧が少しずつ削れていった。
「お前は母の言葉に縛られているだけだ!」
「知った口をきくな」
大鎌が肩の鎧を
「わかっている! 人に固執した馬鹿なお前の心中など!」
「そんなもの俺にはない」
「蛇の姿を忌避するのは、人として生きる事に拘ったからだろう!」
モモンは姿勢を低くして、相手に駆けだした。
「違う!」
鎌を一直線に投げた。大剣を交差して弾いたが、体の芯まで衝撃が残った。弾かれた鎌は別方向へ飛ぶが、移動力を強化しているヤトは瞬時に掴み取り、大きく振り下ろした。
剣を交差させて鎌を止め、鍔迫り合いで動きが止まり、モモンは言葉で畳みかけた。
強化スキルを使われたらモモンに勝ち目はない。彼が本気で殺意と素早さを向上させたら、モモンの目で動きを捉えることができない。少しでも多く冷静さを削り、肉弾戦に持ち込むためには心を抉るしかなかった。
「罪悪感に囚われるお前は、幸せになってはいけないと思いながらも、己の幸せを渇望している。アインズへの献身と、母の言葉に縛られながら!」
「……」
「お前は存在意義に疑問を抱きながらも彼女を愛し、この国の人間に期待を寄せただろう。お前が思っている以上に過度の期待を!」
「……黙れ」
「なぜ認めない! アインズとナザリックだけではない。ラキュースまで侮辱され、静かに過ごす期待を裏切られ、絶望したから荒れていると!」
「黙れというのが……わからねえのかぁ!」
剣を全力で弾かれ、モモンは後退する。
モモンの見解による彼の心情は、その場にいた全員に伝わった。
憎悪の化け物だった蛇神へ、慟哭する青年が重なった。特にラキュースの心的被害は甚大だ。あと一日ズレていればと、すぐにナザリックへ行かなかった自分を責めた。
対してモモンは分析に自信などなかった。ゲーム感覚で遊び続けていただけだと言われれば、それまでだ。情報分析能力の高い彼は、指摘されたくない箇所を正確に射抜き、冷静さを順当に奪っていた。それさえ、“モモンガ”の性格や過去に対して、冷静に言い返されたら何も出来なかった。
尤も、それをさせないために時間遅延のリスクを負いながら、言動を練ってこちらに来たのだ。ヤトがモモンと同様に思慮深かったら、抱える危険は今の比ではなく、対応も違ったものになった。
「苦悩を抱えたお前が、生き様に悩む理屈は分かる。ならば人ではなく、個として幸せになればいい」
刃が交わり、火花が起こる。
「人をやめた俺に、そんな真似ができるものか」
「違う! そんな事に囚われるな!」
「………さっきからチマチマとうるせえんだよ、モモンガ」
ヤトは動きを止めた。赤い目を光らせ、地の底から這い出すような低い声は、聞いた者を身震いさせた。
「はぁぁぁぁ……」
大口を開けて黒い吐息を漏らし、体から絶望のオーラが溢れ、彼の攻撃性が高まった。
自己分析が進んでいない彼は、不明瞭な薄暗い心の中をモモンの色で照らされる。内的にモモンの言葉を否定もできず、自分を見失った彼は冷静さを欠き、憎悪と殺意による攻撃性が限界まで高まった。
魂をぶつけ合う、壮絶な
「全員伏せろ!」
「
幸い誰にも被害はなかったが、手加減なく放たれた衝撃波は、玉座の壁に細長い穴を開ける。突き抜けた衝撃波は、遠くの雲を切り裂いていった。
「お前は何のために戦っている! 彼女と穏やかに暮らせればそれでよかっただろう!」
「……くだらねぇ」
黒い波動を立ち上らせ、ゆっくりとこちらに向かってくる。
「人として生きることを望むな! 異形は異形として愛せばいいだけだ!」
振られた単調な動きの大鎌は、二振りの大剣で止まり、静止した二人は顔を突き合わせる。ヤトの赤い瞳はぼんやりと光り、何も映していなかった。
「捨てた母親の言葉で、妄執に凝り固まる必要はない!」
モモンの口を塞ぐため、頭の刀を突き出すが、下に潜り込んで避けられた。
「アインズはお前の幸せを望んでいる! お前と同様にな!」
うねりながら叩きつけられた尾は、躱され床に穴をあける。
「あと一日ズレていれば、彼女への思慕は成就し、憎悪は暴発しなかった!」
「はぁぁぁぁ……」
応えずに再び黒い吐息を漏らし、体から黒い
「来い、哀れな友人、ヤトノカミよ! お前の苦悩、慟哭、絶望、激情、全て俺が受け止めてやる!」
モモンは二本の剣を上下に構え、迎撃態勢を取った。
「モモンガぁあああ!」
憎悪と殺意の塊になったヤトは、何もかも忘れ去るために、一個体として全てを賭けて飛び込んだ。
別方向から繰り出される大鎌、小太刀、刀を必死で捌いた。一瞬でも気を抜くと、何れかの刃が体を貫きそうだった。モモンの剣は二本だが、彼は頭部の刀を合わせ三本。数で不利なうえ、素早さはモモンの比ではない。
「くそっ!」
漆黒の鎧は見る間に崩れていくが、それでもモモンは友人を止めるため、立ち向かい続ける。
人間がどうこうできる戦いではなかった。
「はっ、憐れだな。お前に勝ち目はない」
「負けるものか !私は友を取り戻す!」
「御苦労なことだ……なら、死んじまえ!」
激しい剣風は周囲の壁に深い爪跡を刻み続けている。
荒れ狂う友を命懸けで救おうとするモモンの雄姿は、神話の一枚絵の如く荘厳だった。
皆が漆黒の救世主に見惚れる中、ラキュースの呟きは剣風に紛れる。
「私さえ……私は……彼の為に何ができるのだろう……」
頭が滅茶苦茶になったラキュースの呟きは、誰にも聞かれなかった。表情がナザリックの白い淫魔に似ていると、誰が気付くのだろうか。
横振りの大鎌を受け流し、頭部に蹴りを入れる。のけ反ったヤトはすぐに反転し、全力で小太刀を投げつけた。体勢が整っていないモモンには避けられない。
「ぐああ!」
右肩に小太刀が突き立ち、全身に電流が走ったような激痛。聖属性を帯びた小太刀は、アンデッドであるモモンの体力を大きく奪った。
大蛇は手を休めず、大鎌で切断しようと迫っており、怯む間は無い。
今日、何度目か、鎌と剣が拮抗した。
「思い出せ! 彼女を好きだと自覚した日のことを!」
「喋り過ぎだ」
「お前は……お前は私の親友だろ!」
「お前の友は死んだ」
「ふざけるな! 拗ねてないで帰ってこい! このクソガキ!」
それはモモンではなく、アインズとしての怒号だ。
片手の剣を急に離し、至近距離で拳を打ち込む。戦略も何もない、怒りの鉄拳だった。
「つっ……舐めるなよ」
一本では持ちこたえられず大鎌に押し込まれるが、反動を利用して上方から斬りかかる。簡単に止められ、頭部の刀がモモンの膝に突き刺さる。
「っ!」
急いで刀を引き抜き、落ちている剣を拾い、距離を取った。
「まだだ」
モモンを容赦なく寸断しようと迫る大鎌が、風を切って振られる。
《不動金剛盾の術》《不動金剛盾の術》
「オラァアア!」
ティアとティナの障壁が重なって立ちはだかり、僅かに勢いを殺された大鎌はガガーランを弾いた。ガガーランは壁まで飛ばされたが、勢いを少しだけ削られた大鎌は、容易にモモンに弾かれた。
「頑張れ、英雄」
「少しだけ役に立つ」
「モモン様! 《クリスタルランス/水晶騎士槍》!」
背後から飛び上がって放たれたイビルアイの魔法は無効化された。
「雑魚共がぁ! まとめて死んじまえよ!」
大蛇は目前まで迫っており、全員を寸断しようと、弾かれた鎌を掴み、横に振ろうとしている。
「おい! 馬鹿ヤト! こっち見ろ!」
ブレインが尻尾にしがみついていた。突き立てた剣は無効化されたが、バランスを崩してやろうと必死で尻尾を掴んでいた。
「邪魔くさい」
振られた尾は周囲の者をまとめて薙ぎ払い壁まで飛ばしたが、一足先にティアとティナを踏み台にして飛び上がった英雄の、二振りの剣が迫る。
大鎌と二本の剣は空中で拮抗し、火花が血だまりに落ちた。
「馬鹿が、
「このまま振り下ろさせてもらうぞ!」
衝撃波を放つため力が緩んだ隙を見逃さず、抑えつけている鎌をしなやかに躱し、頭部へ二本の剣を叩きこんだ。
一本は額の刀で弾かれたが、片方は彼の目を潰し、大きな角を一本切り落とした。反撃の大鎌を食らい、モモンの鎧腹部も大きく削れていた。
「つっ……角が、折られたか」
潰れた目に指をあてて、流れる血を確認する。損傷の激しいモモンの鎧にも、膝に刀の穴が空き、肩には小太刀が突き立っていた。どちらも、この世界に来てから初の大ダメージだった。
「……なんて不利な戦いなんだ」
肩の小太刀を引き抜き、壁へ放った。
「……引けばいいだろう」
「そうはいかん。私が引いたらお前は彼女達を殺すのだろう」
「……だろうな」
「もういい、ヤト。お前には心があり、憎悪があるなら愛情もある。お前にもわかっているだろう」
「……知った事か」
「それがお前の中に残された、人間としての残滓なのではないか。憎悪の深さは、愛情深さの表れだとなぜ理解しない」
「……違う」
「お前の心は壊れてなどいない。仲間や友人……そして愛する者を思いやれれば、人間と何の違いがあろうか」
「……」
憎悪が昇華されているのか会話で探るモモンに構わず、戦闘を再開しようと大鎌を構えた。
「俺は引かない。憎悪こそが俺の全て、殺戮こそが俺の生きる理由だ」
「いい加減に――」
話の途中でモモンは飛びかかる。
「いい加減にしろ! お前は優しくて阿呆な奴だろ! 楽しみながら仲間を探す目的はどこに消えた!」
「そんなもの……もういらん」
この世界に来てから初めて、かつての仲間を無下にする発言だった。
モモンは目の前が真っ白になる怒りを覚えた。
「この……」
鎌を踏み台に背後まで飛び上がり、モモンの魂を込めた剣は、大蛇の背中を切り裂く。
「大馬鹿野郎がぁ!!」
「―――!」
声なき悲鳴をあげ、大蛇が痛みでのたうち回り、全身を壁に激突させた。激しい振動で、天井から砂埃が落ちてくる。のたうち回るヤトを静かに見ながら、モモンは精神の沈静化を図っていた。
「超技・
モモンの隣に魔剣を構えたラキュースが立っていた。衝撃波は床すれすれを走っていったが、暴れまわるヤトに傷一つつけられなかった。
「ヤトノカミ! お前は私が止める!」
「よせ! ラキュース!」
ヤトは切り裂かれた背中の痛みを堪え、体勢を整えて立ち上がる。
「はぁぁ……いってぇ……あ、何だ、お前は。今さらなんの意味が――」
「立ち合いなさい!」
彼女の声は覚悟を決めていた。
「モモンさん。彼を止める役を……私から取らないで下さい! これだけは譲れません!」
「今のあいつは手加減しない!」
「構いません! 私は………では、私が危なくなったら助けて下さい、英雄様」
途中から茶化した明るい声だったが、全然楽しそうではなかった。
返事も聞かず、彼女は大蛇に向かって駆け出した。
魔剣は鎌で軽く弾かれる。
「……何の……意味がある」
「黙りなさい!」
刃を交え続けながら、いつしか涙が頬を伝う。泣きながら斬りかかるのを止めなかった。自らの魂をこめてぶつかり合った影響により、ヤトのどす黒い靄は雲間程度に晴れていた。
憎悪が晴れている自覚はなかったが、涙を流しながら戦う彼女の姿に、殺意と同時に戸惑いを覚える。モモンは周りに気付かれぬよう、《
戸惑うヤトは対応に困り、彼女を殺さなかった。肩で息をする彼女は、体が揺れるたびに涙が零れていた。
「はぁ……はぁ……」
「……もう止めろ……ラキュース」
彼女を殺してもいいのだろうかと迷う。
頭の中で、何かが必死に殺意を止めていた。夕刻になり日差しが赤みを帯び始め、楽しかった記憶が呼び起こされるも、すぐに黒く塗られていった。
「やっと名前で呼んでくれましたね、ヤト。貴方の心、今ならわかります」
「……何を言っている」
「私を慕ってくれた事、私の心も分かっていた事、そして苦しめてしまった事も……今ならわかります」
肩で息をして涙を流す彼女は、視界で滲むヤトを、真っすぐ見つめていた。号泣したい気分を抑え、人間を辞めたことに苦悩する恋人から目を背けられない。
「……下らん……思い込みだ」
対峙する異類の男女は、共に笑い合った日々を思い出す。
潰れた片目から流れる血は、悲しくて流れる血の涙に見えた。
ラキュースは駆け出し、魔剣を振り下ろしたが容易に止められる。
鎌を抑える魔剣を足場にして走り、ヤトに抱き着いた。ヤトの腕は彼女を受け止めなかったが、彼女は大蛇の体に手を回していた。
触れた所が赤黒く染まっていく。
時間が止まったように、ラキュース以外の者は全てが動きを止めた。割って入ろうとしていたモモンも、途中で止まった。世界が停止したように、二人を中心に緩やかな時間が流れた。
「……何の真似だ」
「もう……もういいのです、苦しくて、疲れたのでしょう」
黒い闇が蠢く。
前髪で目が隠れ表情は窺えないが、涙は頬を伝い続けている。
死を嘆く涙ではなかった。歪な心に苦しむ最愛の人を、心から思いやる純粋で美しい心だった。誰も動けぬ静寂の中、彼女の告白は続いた。
「ごめんなさい、私のせいです。互いに出会わなければ、こんな惨劇は起きなかったのに」
「……」
「貴方が優しい方だと、私だってよく知っていますわ。馬鹿で子供みたいな可愛らしい所も」
「自分の心に悲しまないで。辛くてもきっと大丈夫です。支えてくれる友人や仲間がいますもの」
「初めて会った時の求婚を受ければよかったです。最初しかして頂けませんでしたね。私からの求婚は受けてくれたのでしょうか」
「二人で雑貨屋に行った日は、楽しかったです。感情的に怒ってしまった事も、必死で私を守ってくれた事も、眠る貴方の頭を撫でていた事も」
「あなたの温もりを思い出す度に、私は短い間でしたが、とても幸せでした」
「共に過ごした全てが大切な時間です。本当はひと時も離れずに、ずっと一緒に居たかった」
「私は先に行って、貴方が来る日をいつまでも……いつまでも、お待ちしています。叶うなら、貴方を命懸けで……命懸けで愛した馬鹿な女を、忘れないで下さい」
剥き出しの想いが彼の心を掻き乱した。
憎悪と相反する奇妙な感情が二色の渦を巻き、思考が停止し、体が動かなくなった。
愛される喜びなど、彼は知らない。
「……黙れ……本当に……殺すぞ」
「はい、私を殺して下さい」
ラキュースは、相手を強く抱きしめる。ヤトは心臓が大きく脈打った気になる。今は自らの心臓を抉り出し、胸の鱗を書き毟ってやりたかった。
返り血で赤黒く染まる大蛇に、ラキュースの頭が近づき、そっと口付けをした。
ピンクの唇が赤黒く染まる。
その瞬間、ヤトの腕が震えたのは、抱き締めようとしたのか、振り払おうとしたのか、誰にも分らなかった。唇を離して向かい合う彼女は、初めて出会った時と同じように微笑んでいた。
涙は止まっていなかったが、明るく健やかな美しい微笑みだった。
「さようなら、大好きです」
「うああああああ!」
ヤトの慟哭。
それは、自らの命を含む全てを捨てようとする嘆きの咆哮。
「まずい! ヤトを止めろぉ!」
事態の重さを察し、モモンだけでなく、動けるものは全て走り出した。
「畜生! 畜生! 何なんだよ……畜生……もう、このまま死ね」
大鎌を高く掲げ、ラキュースの背中へ向けて切っ先を振る。
自分の体もろとも貫き、何もかも捨ててしまうつもりだった。
死を告げるギロチンように振られた大鎌は、不意に現れた二人の戦士に止められた。
「ヤトノカミ様、お迎えに上がりました」
「帰りましょう、皆がお待ちしています」
「邪魔するな! アルベド、シャルティア!」
妄執、絶望、特別な想いが
「ヤトノカミ、戯れはそこまでだ。ナザリックへ帰還せよ」
パンドラが扮したアインズは、片腕を挙げて指示を出す。
「ふざけるな!」
尚も暴れようとするが、大鎌は弾かれて壁に突き刺さる。
「畜生………もういい……全て終わりだ……何もかも……《人化の術》」
人の姿になったヤトは、すぐに目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。
もう何も考えたくなかった。
「ヤト……」
首にしがみついた彼女の悲痛な呼びかけは、眠りに吸い込まれた彼の意識に届かない。
パンドラはヤトの方を見ながら、打ちひしがれる玉座の国王を指さして言い放った。
「国王、ランポッサ三世。この借りは必ず返す。自らの無能をよく自覚しておくがいい。我々と総力を上げて戦争をすれば、今日積み上がった死体の数が児戯だったと知るだろう」
眠る青年へと歩み寄った。
静かに眠るヤトがラキュースから引き剥がされた。
パンドラの手に抱かれ、赤と黒の戦士を連れてこの場を去っていく。
必死に手を伸ばしたラキュースの悲鳴が響き、パンドラは振り返らずに動きを止めた。
「待って! 私も連れて行って下さい!」
「断る」
「お願いです! なんでもします! 一緒にいさせて下さい!」
「王国の人間など、今は顔も見たくない。帰るぞ、アルベド、シャルティア」
パンドラは低い声で無情に言い放ち、振り返らずに壁の穴から外へ出ていった。アルベドとシャルティアはモモンを一瞥し、武器を回収してからパンドラの後に続いた。
何も言い返せず、掴んでいたヤトを奪われ、彼女はその場にへたり込む。
二度と会えない気がした。
「ヤト……ヤト……うぅ……ヤト……うああああ!」
置き去りにされたラキュースは、最愛の名と共に大粒の涙を流し、少女のように泣き続けた。
薔薇色の夕日が玉座を照らしている。
大切な思い出と同様、美しい夕日だった。
19+19+19=57