モモンガさん、世界征服しないってよ   作:用具 操十雄

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憤怒編
day and night


朝陽が雀の声と共に部屋へ差し込み、空気中を漂う埃に反射して輝いていた。

 

「朝食をお持ちしましたぁー」

 

やる気の見えないメイドの声で、ドアが開かれる。

クレマンティーヌは光のない瞳で、小さめのベッドに膝を抱えて座っていた。

前日の朝食も食べておらず、料理は運ばれたままの状態で埃を被っている。

何ら変化が見られない彼女を見て、ため息を吐いたクリアーナは、止む無くお盆を入れ替えて退出した。

 

リビングでゼンベルと静かに酒を飲む家主に、眉をひそめて声を掛ける。

 

「ブレイン様、このまま自由にして差し上げてはいかがです?」

 

だが、真面目な申し出は不真面目な蜥蜴に遮られる。

 

「クリ! 魚の味付けが薄いぜ」

「ゼンベル、文句が多いぞ」

「体が固まってるんだよ、うまいもんでも食わないと、まともに動けないぜ」

「お前は固まってないだろ。リザードマンは床でも寝るって聞いたが」

「気持ちの問題なんだよ」

「……まぁ確かに、この家に四人は狭いな」

 

男と女が同室で寝るわけにもいかず、殺されかけた女性と殺そうとした女性を同室に寝かせることもできず、ブレインとゼンベルは自室を女性に明け渡し、リビングの安ソファーで寝泊まりをしていた。

ゼンベルの使っていたベッドで寝ろと指示されたクリアーナは、目を細めて口元を歪めながら露骨に顔をしかめ、安心する顔立ちを奇妙に歪めていた。

 

ブレインは彼女に掛ける言葉が見つからなかった。

 

その家主である彼も、毎朝目を覚ますと体がコキコキと音を鳴らし、日課になった柔軟運動にも限界を感じていた。

 

ゼンベルだけは、いつも朝から元気だった。

 

 

ロクシーが連れ去ろうとするクレマンティーヌは、話の流れで魔導国へ持ち帰られていた。

彼女に抵抗の意志はなく、打ち砕かれた心と自負(プライド)でも探すように、虚ろな目で地面を見ていた。

何とはなしに成り行きで雇われたメイドを、勝手に雇ったゼンベルを責めてやりたかったが、自分も特に理由も無くクレマンティーヌを持ち帰ってしまい、今さら何も言えなかった。

 

「…さま。ブレイン様! 聞いているんですか!?」

「え?」

「もうっ……困りますわ。あのままだと衰弱してしまいます。やはりこの国から放り出した方が」

「んー、殺されかけたやっかみもわかるが、あと数日間だけ様子を見させてくれないか。あの状態なら何もされないだろ?」

「それはそうですけどぉ」

 

小生意気な若いメイドは、唇を尖らせて口の中でごにょごにょと文句を言っていた。

雇用主が貴族なら解雇されかねない態度だったが、堅苦しいのが苦手なブレインは、これくらいの方が気兼ねなく暮らせてちょうど良かった。

 

「クリアーナ、俺たちは今日も休みだ。昼食まで好きに過ごしていい」

「そうですか? では、自室にいますので、何かあればお声を」

「昼飯も魚にしてくれや、クリ」

「……フン」

 

男性が安心するほのぼのした顔のメイドは、無礼なワニに答えなかった。

 

「無視されちまったぜ」

「お前の無神経なところ、実は知っててやってるんじゃないかと思う」

「何のことだ?」

「いや、何でもない」

 

適当に食事を終えた彼はソファーに横たわり、天井の染みを眺めながら彼女の苦痛を思い出す。

 

悪夢にうなされる声が、毎晩深夜になると聞こえてくる。

苦しむ喘ぎ声に脳を揺り起こされ、自殺しないか心配になって部屋を覗くと、男物の寝間着にびっしりと汗を掻き、胸を掻き毟るように衣服を掴んでいた。

猛攻を緩めない眠気を抑えながら、彼女の汗を拭き、乱れた衣服を正し、薄手の毛布を掛ける。

 

そこまですると多少は落ち着きを取り戻し、うなされる声は止まった。

静かになった彼女を起こさずに、ドアを静かに閉めるまでが、毎晩の恒例行事となっていた。

寝間着から覗いていた白く張りのある素肌に、健全な成人男性の彼は何も思わないでも無かったが、されるがままの鮪を愛でる趣味は無かった。

 

目に突き刺さる朝日に回想を終えたブレインは、誰に相談しようかと考えるが、自分の知らない知識を持つ者は二名しか該当しなかった。

 

「……面倒だな」

 

不思議と言葉ほどに悪い気分はしなかった。

 

 

 

 

アインズとヤトは、魔導国に帰還して早々に、デミウルゴスの制作したダンジョン攻略に取り掛かる。

人間にも攻略できるように難易度は大きく下げており、最も強い魔物でも魂食い(ソウルイーター)だった。

だが、洞窟を模したダンジョン内部の造りは、デミウルゴスの性格を大いに表し、攻略は遅々として進まなかった。

 

「地下4階もこれでクリアっと。先に進みましょうか」

「いや、ちょっとまて。いちいち確認しないと非常に危険だ」

 

ボスのスケルトンを薙ぎ払い、他にボスが出てこないのを確認したヤトは、無警戒に出口へと足を進める。

アインズが旅のしおりを開くと、《出口に地雷原あり》の文字が目に入る。

 

「ぎゃああ!」

 

既に手遅れだったらしい。

 

音だけ派手な爆発が起き、彼の叫び声が聞こえてくる。

爆風で巻き上げられた砂埃がアインズを襲い、着ている服は砂ぼこり色に染まった。

二人にダメージは無かった。

 

アインズは咳払いをして茶色い息を吐きだす。

 

「ゴホッ……白い服が茶色くなってしまった」

「いや、だって。普通、フロアのボス倒したら安全でしょうよ」

「文句はデミウルゴスに言え。次から無警戒に歩くなよ?」

 

だが、アインズの注意も虚しく、次の階層に降りて早々、ヤトは落とし穴に引っかかる。

 

「ちょっ……酷くない?」

 

肩まで埋まったヤトがもがいている最中、落とし穴の土台が浮上し、樽型の土台が現れる。

樽の頂上から頭だけ突き出し、黒ひげ危機一髪の海賊になった友人に、思わずアインズは手を叩いて大笑いする。

 

「あっはっは! なんだその間抜けな姿は。ユグドラシルだったらスクショ撮って保存しているぞ!」

 

精神の沈静化に邪魔されない喜怒哀楽の感情は、アインズを大袈裟に笑わせていた。

 

「絶好調だな、アインズさん。これどうすれば助かるんですか?」

「穴に剣を差し込め。一つが解除で、他はモンスターが出現する、と書いてあるが、試してもいいか?」

「冗談じゃない、人化の術解除っと」

 

細長い体になったヤトは、体を伸ばして造作もなく樽を這い出し、危機一髪を逃れた。

立場が逆であれば、喜々として剣を差し込んだろう。

 

 

デミウルゴスがパンドラと制作したダンジョンは、魔物の強度を考えると、難易度こそ難しくはなかった。

だが、嫌がらせの粋を集めた、美学ともいえる罠の数々を、警戒しながら進むアインズと、いちいち罠に引っかかるヤトにより、半日が経っても彼らは半分も踏破していなかった。

 

のんびりとダンジョンを楽しむ彼らが、十階層の最終エリアに辿り着いた頃には一晩が経過していた。

 

丸一日以上かけて、ようやく最下層の地下10階へ到達した彼らは、開けた場所でボスの登場を待つ。

 

「しかし、このダンジョンは、人間にもクリアできるのか。人間相手に作っているとはいえ、罠の意地悪がすぎる」

「途中のスケルトン召喚スイッチは厄介でしたね。三歩進んで十匹、二歩下がるとニ十匹と」

「レベルアップにはいいかもしれんが……スケリトル・ドラゴンはガゼフ達に倒せるのか?」

「うーん……あ、ラスボス来ましたよ。例によってソウルイーターが」

「さっさと倒して帰ろう。服に砂が入って気持ちが悪い」

 

だが、そう簡単にはいかなかった。

 

最終フロアに佇む骨の馬を倒し、出現(ドロップ)した宝箱を開くと、中から新たな魂食い(ソウルイーター)が飛び出し、マトリョーシカの如くこのやり取りを繰り返す。

 

落ちた宝箱は偽物(ダミー)で、奥に本物の報酬があるとアインズが気付くまで、ヤトは馬の骨を周囲に散らかし続けた。

 

「はぁ、はぁ……疲れたぁ」

「ご苦労さん、さっさと開けてくれ」

「はいはい……ごまだれー」

「なに、それ?」

「宝石ですかね? 持って帰ります?」

「いらない」

「だよねー」

 

宝箱の中には碧に輝くサファイヤの原石が入っていたが、特に興味もないのでそのまま戻し、二人はダンジョンを後にした。

王宮の中庭に戻った時には、すっかり日も高くなっていた。

 

肉体の疲労はさておき、意地悪な罠に疲れた二人は庭の縁石に腰かけ、ティラに忍術を教わるレイナースを眺めながら一息つく。

 

「はぁー、疲れたぁ……あのふざけた罠は、もうちょっと何とかならないスかね」

「ふむ、デミウルゴスとパンドラに多少の改善の必要ありと伝えよう」

「じゃ、俺は帰るッスわ。また明日」

「ああ、お疲れー………はぁ? 何を言っているのだ。今は昼だぞ、仕事に戻れ。書類を読め、内政をしろ、国益をだな」

「……服が」

「ん?」

 

大蛇に指さされ、アインズは自らの茶色くなった服を眺める。

 

「……そうだな、まずは着替えて……ちょっと待て、お前は蛇だから服を着てないだろう」

「バレました?」

 

 

庭から聞こえてくる喧騒の声に、アンデッドが蠢く地下洞窟から戻った二人を察知したイビルアイが、駆け足で近寄ってくる。

 

「お帰りなさ……サトル、折角の白いタキシードが茶色に」

「キーノ、アルベドの茶会は終わったのか?」

「はい、昨日のうちに」

「そうか、ダンジョンの中で一日過ごしていたのだな」

 

駆け寄ったイビルアイは、白いタキシードの砂埃を手で払い、アインズも自らの服の汚れを落とそうと一緒に払った。

 

「はい、そこーイチャイチャしないで下さい。周りの目もありますよー」

 

特に甘ったるい空気になってはいなかったが、ヤトに茶化されそんな気分になる。

遠目でティラとレイナースが稽古を止めて見ていた。

 

抑制されない恥ずかしさを感じ、精神の沈静化が少しだけ恋しくなる。

 

「ゴホン……それにしても、あのダンジョンは、人間にクリアできるだろうか」

「ガゼフとブレインにでもやってもらいましょうか」

「そういえばガゼフはどこにいるんだ?」

 

中庭には彼ら以外の姿は見えなかった。

 

 

 

 

 

 

王宮の裏庭にて、ガゼフは騎士団の副長とザリュースへ同時に稽古をつけていた。

 

「うおおおお!」

 

怒号と共に気合いを込めて放った一閃は、両名を壁まで跳ね飛ばす。

やけに強烈な一撃に頭を強く打った二人は、おぼつかない足取りでよろよろと歩いてくる。

 

「流石でございます、ガゼフ・ストロノーフ殿」

 

ザリュースが揺れる脳を鎮めるかのように頭に手を置き、おぼつかない足取りで歩いてくる。

 

「隊長、帝都からお戻りになって以来、技の切れが良くなっています。帝都で何かございましたか?」

「いや、特に何をしたわけでもないが」

 

思い当たるのはヤトに完全に放置され、ガガーランに夜這いを掛けられそうになった件だった。

 

「帝都で苦労なされたのですね。私とヤトノカミ様が別行動をとっている時に、何かございましたか?」

 

自分の強さを盗もうと真剣な眼差しで問うてくる彼らに、屈強な女戦士に違う意味で寝込みを襲われそうでしたとは言えなかった。

真面目なガゼフがどう誤魔化そうかと思案していると、視界の端に大蛇と見慣れぬ男性が入ってくる。

ヤトの人型に似ているその男性は、身に纏う雰囲気が誰かに似ていた。

 

「あ、いたいた。ガゼフ、稽古中、悪いが少しいいか?」

「ヤトか、ちょうど休憩しようと思っていたが、どうかしたのか?」

「ガゼフとザリュースは明日、中庭に作られた地下洞窟に付き合ってくれ。アンデッドが無限に湧き出てる洞窟なんだけど、実戦を兼ねた稽古をしにいこう」

「なるほど、それで騎士たちが自由行動だったのだな」

 

黒髪黒目の男が、落ち着いた口調で話を続ける。

 

「英雄級のガゼフがどの階層まで進めるのか楽しみにしている。私とヤトは最終フロアまで進み、先ほど戻ってきたところだ。一晩くらいは中で過ごすことになるだろう、食料の持参が必要になるだろう」

 

聞き覚えのある声を出す黒髪黒目の男に、ガゼフの脳裏に黒い男が浮かんだ。

 

「その声……思い出しだしたぞ。モモン殿か?」

「モモン様? モモン様は確か――」

「ザリュース! 明日はお前も同行してくれないか。進んだ階層に応じて報酬がでるそうだ」

 

そのままモモンとして押し通そうと決めたアインズは、モモンとアインズが同一人物だと知る蜥蜴人の話を遮った。

 

「もっとも、五階層までは敵も弱い。報酬が出るのはその先からだがな」

「畏まりました、楽しみにしております」

 

察しの良い彼は、それとなくアインズに調子を合わせる。

 

「ザリュースはモモン殿と面識があったのか?」

「ええと……」

 

返答に困ってモモンを盗み見ると、小さく頷いていたがその意図はわからなかった。

 

「モモン様はリザードマンの集落をアインズ様と共に救って下さったのです。食糧難を解決して頂き、縄張り争いの戦争を解決するきっかけとなったのです」

「流石は英雄だな。明日は一緒に来るのか?」

「ああ、私とヤトも付き合おう。魔導国の大切な戦士に、何かあっては困るからな。ブレインも呼ぼうと思ったのだが、彼を見かけたか?」

「帝都から数日前に帰還したと聞いている。明日にはここに来ると思うが」

「そうか、念のために連絡をしておこう。では、明日の朝に中庭で会おう」

「楽しみにしているぞ、救国の英雄殿」

 

モモンと軽く握手をして別れた。

後姿のモモンをしげしげと眺め、ガゼフは感心した口調で呟いた。

 

「漆黒に塗られた鎧の中身は、印象通り優しそうだったな」

「え、ええ。そうですね」

 

アインズに何が起きたのかは不明だが、ザリュースの心配事は間違えてアインズと呼ばないかという件だけだった。

副長は鎧を脱いだ救国の英雄に見惚れてしまい、これ以降は上の空で使い物にならず、稽古はここまでとなる。

 

「男が惚れる男って、ああいう人物なのでしょうか」

「ふ、副長……?」

 

ガゼフの所持する悩みの種は、尽きそうになかった。

 

 

 

 

裏庭を出た両名は、綺麗に掃除された廊下を、砂埃をばら撒きながら歩いていた。

すれ違いざまに頭を下げたメイドが、地面に散らばる砂粒をみて、ピクッと片眉をひそめた。

そんなメイドの苦労を顧みることなく、彼らは気楽に王宮の出口へ向かう。

 

「アインズさん、昼飯はどうしますか?」

「指輪の効果で疲労も空腹も無い。このまま明日の朝までも起きていられそうだ」

「そりゃ何よりで」

「お前もその姿なら腹は減らないだろう?」

「ん、まあ、満足感が、ね。口から物を入れるとなんとなく満足するんですよね」

「……なるほど、こんな機会は滅多にない。領内を気楽に歩き回るのも悪くないか」

 

アインズは好奇心に後押しされ、イビルアイに上着を預けて大蛇と共にその場を後にする。

なりゆきのまま二人は、新しい服の購入を口実に、王都内の散策に向かった。

 

治安の良くなった魔導国の王都は人で溢れ、活気と生気に満ち溢れていた。

往来する人々の顔に暗い陰は差しておらず、日々の糧を得ようと汗を流して働く人々の喧騒を、アインズは満足げな表情で眺めていた。

 

「賑やかでいいものだな。帝都には負けるが、遅かれ早かれ魔導国もそのように――」

「立ち止まってると邪魔ですよ」

「そ、そうだな。服を買いに行こう」

 

以前に服を買った店へと友人を案内する爬虫類は、表情だと非常にわかりにくいが、気が緩んでいた。

舌をチロチロと出し入れしている様子で、すれ違う国民にまでそれが伝わる。

アインズの前を這う魔導国の蛇に、珍しいものを見た国民は嬉しそうに道を開けた。

 

ヤトの後ろを歩く汚れた服の男性が誰かと探る好奇の視線に、アインズは恥ずかしそうに俯く。

 

王都中央の噴水広場で、肉の匂いに鼻をくすぐられたヤトが足を止める。

 

「そういえば、あそこの串焼き、味も値段も安くていいですよ」

「味も安いのか?」

「ナザリックと比べれば、ですけどね」

「……一本買っておくか」

「俺のも」

「わかったわかった」

 

財布を纏めて所持しているアインズは、串を二本購入するために露店へ向かった。

誰かに買わせている光景に、義理の叔父となったアダマンタイト級冒険者を思い出す。

 

「ほら、買ってきたぞ」

「ども。アズスのおじさんは何してんのかな」

「アズス……アズス……あぁ、アダマンタイト冒険者の?」

「ええ、俺の義理のおじさん。しかし、流石ですね。国民全部の名前が頭に入ってるんじゃないスか?」

「有名人だけだ。後で冒険者組合に指示を出し、有志でダンジョン踏破する者を募ろう」

「並の人間がどこまで進めるかわかりませんよ。死んだら蘇生するのも面倒だし」

「英雄級の人間が初見でどこまで進めるか、結果を見てからの話だ。ブレインにも今日中に話をしておきたいのだが」

「家の場所がわかりませんね。メッセージでも送りますか?」

「いや、そこまで急いでいない。ブレインを見かけたら伝えればいいだろう」

 

串焼きを丸呑みにした大蛇とは違い、アインズは固めに焼かれた肉を、味わうようにゆっくり食べていた。

満足げな表情をしていたので、旨いか不味いかは聞かなかった。

 

串を燃やした灰が、風に乗って大きな建物の屋根へ飛んでいった。

いつの間にか図書館の前に来ていたらしい。

 

「あ、アインズさん。図書館がありますよ」

「それがどうした?」

「寄り道してもいいスか?」

「お前が窃盗目的以外で、図書館に興味があると思わなかった」

「違いますよ。あ、出てきた」

 

図書館の前で立ち話をしていると、若い学生が本を読みながら出てくる。

 

「よぅ、ジエット」

「……ひっ」

 

気さくな異形の怪物に、片手をあげて声を掛けられた彼は、本から目を離して体が跳ねあがるほど驚いていた。

 

「いちいち怯えるなよ。俺だよ、ヤトノカミ」

「えぇ?」

 

怪訝な表情で眉をひそめていた。

 

「お前な、恩人の顔を忘れたのか」

「まさか……魔導国の蛇とは、本物の蛇だったのですか?」

「そこかよ」

「そこだな」

「はい、私のタレントでも、見破れなかったもので」

「それは違うぞ、ジエット」

 

アインズは自らの知識を披露する欲望に負け、自分が人間に戻っている事も忘れる。

 

「そのタレントは幻覚・幻術を見破る程度のものなのだろう? 姿形を原子レベルで変える術に対しては効果が無い。こいつはこちらが真の姿だが、人間の姿もまた本物なのだ」

「凄い術をお使いになるのですね。ご教授ありがとうございます……えーっと……ヤトノカミ様。この御方はどなたでしょうか」

「……モモンだ」

 

赤い瞳でそれとなく抗議すると、ついうっかり高説を垂れてしまったアインズが目で謝っていた。

 

「モモン様……ですか?」

「知らないのか? 魔導国のアダマンタイト級冒険者で、救国の英雄だぞ。今日は休日だから黒い鎧を脱いでいるんだ」

「申し訳ありません、知らぬこととはいえ失礼しました。お会いできて光栄です、英雄様。よろしくお願いします」

「いや、私も若者に知識を披露したかったのだ。ではまた会おう」

 

心に動揺という波紋を広げつつあるアインズは、ヤトの腕を引っ張って先を急いだ。

 

「凄いなぁ……魔導王様も凄い方だったけど、英雄が気楽に街を歩いているなんて……お嬢様の足を引っ張らないように、もっと勉強しよう」

 

小腹が空いたので一息吐こうと図書館を出ようとした彼は、そのまま館内へと引き返していった。

 

柄にもなく余計な事をしたアインズに、道を這う蛇は文句を垂れていた。

 

「もっと話したかったのに……」

「すまない、助かった」

「まったく、勘弁してくださいよ……あれ? なんで王宮に出るんだ?」

「まさかとは思うが、道を間違えたのか? 円形の街で何をどう間違えるというんだ。真っすぐ広場を通過してそのまま外周を半周したのか?」

「仕方ないから、服は明日で……あれ? お客さんがいますよ」

 

王宮の入り口に目を向けると、見覚えのない騎士が二人の従者に付き従われていた。

彼らは今まさに王宮の正門を叩こうとしている。

 

「お客さんか?」

 

ヤトの声で顔を向けた彼らの目には、恐ろしい蛇神が映り込む。

息を呑んで硬直した従者と、大蛇を値踏みする騎士に構わず、ヤトは言葉を続けた。

 

「見覚えのない騎士だな。どこの国の騎士だ?」

「これは失礼いたしました。私はバハルス帝国にて将軍をさせて頂いている、レイと申します。魔導国の蛇様でお間違いないでしょうか」

「見ての通りだ」

 

俺を見ろと言わんばかりに、両腕を広げた。

どこからどう見ても、蛇以外の何かには見えなかった。

 

「ありがとうございます。この度お伺いしたのは、アインズ・ウール・ゴウン魔導王閣下に、先日の首脳会談の続きを申し込みに参りました。本来であれば皇帝が自ら出向くのですが、所用で手が離せなくなってしまい無礼を承知で私がお伺いを。つきましては、私の方から皇帝の意向などをお話させて頂きたく――」

「あー……悪い、アインズさんも所用でしばらく席を外してる。済まないが明後日に出直してくれ。今日と明日はちと忙しい」

「そちらの御方は魔導王閣下では?」

 

野心家のレイ将軍は、魔導王がアンデッドという情報を素直に受け入れていたが、本来は人間で幻術を纏っている、あるいはアンデッドで人間に化けていると、両方の可能性を考慮していた。

あまりお目にかかれない純然たる南方の出身者をみて、アインズと判断するのも止むを得なかった。

 

いきなり言い当てられたアインズは、少なからず動揺をする。

 

「わ……私はモモンと申します。魔導国でアダマンタイト級の冒険者をさせて頂いています」

「かの有名な救国の英雄様ですか。お会いできて光栄です」

 

彼は身を乗り出して固い握手を求め、アインズが扮するモモンは、ぎこちない力の入らない手で応じた。

 

なかなか握手を離してくれない彼の事務的な話を最後まで聞き続け、帝国の使者は二日後に出直す運びとなる。

夕日が沈むまでそう時間も残されておらず、未だに服を買っていない現状で、彼らの相手をする気にならなかった。

 

ヤトは早く服を買いに行きたかった。

アインズは早く握手を離して欲しかった。

 

「ではこれにて失礼します。ありがとうございました」

「うむ、苦しゅうない」

「……何を言っている」

 

気さくな蛇は片手を振って彼らを見送った。

大蛇の姿が見えなくなってから、従者が上官へ率直な感想を述べる。

 

「レイ将軍、蛇殿は四騎士の方々が怯えるほどの、威圧的な方ではありませんでしたね」

「ああ、まるで人間と話していると、錯覚するほどにな」

「本当に王国の貴族を惨殺し、皇帝と四騎士を武力で脅したのでしょうか」

「私たちが知っているのは噂の域を出ない話だけだ。本当のところはわからないが、確実に分かったのは、あの二人は強い」

 

レイは夢幻程度にも隙を感じない蛇と、漆黒の英雄を思い出す。

仮に隙をついて奇襲を仕掛けても、傷一つ負わせる未来が想像できなかった。

 

「そうでしょうか。見た目では何も感じませんでしたが」

「いや、だからこそ我らは覚悟せねばならん。彼らの真の姿を知るということは、我らの命は終わりだ。だが……楽しみだな、魔導王閣下にお会いするのが」

「畏まりました、将軍」

 

魔導王が噂に違わぬ武力、知力、魅力を持つ人物であれば、帝国など明け渡してしまうつもりだったが、従者に心中は話せない。

 

「それにしても、メイドの多い街ですねえ」

 

所作の拙い見習いメイドが、眼鏡をかけてメイド服を着た黒髪の美女を、必死に追従していた。

頭に乗せられた水の入ったコップに、従者は首を傾げていた。

 

「不思議な国だな……」

 

 

 

 

「不思議なものだな。わざわざ使者まで寄越すとは。手紙でも送ってくればいいだろうに」

 

アインズは長い握手で掻いた汗を、手をこすり合わせて乾燥させていた。

 

「気になる事でもあったんじゃないスか。実は部下になりたいですぅ、とか言うかもしれないッスよ」

「そんな馬鹿な」

「それより服を買いに行きましょう、そろそろ店が閉まりますよ」

「ヤト、背中に乗せてくれ。あと数分で陽が沈む」

「はいはい、しっかりつかまって下さいよ。スキル発動《疾風迅雷》」

 

風のようにその場を後にしたが、体の素早さに小回りの利かなくなったヤトは余計な回り道をしてしまい、僅かな時間差で服屋は店じまいを迎えていた。

 

「おい……」

「困ったなぁ、俺も服が欲しかったのに」

「仕方がない……ナザリックに戻り、服を着替えて――」

「きゃあああ!」

 

突然、絹を裂くような女の悲鳴が、二人の耳に突き刺さる。

何事かと思い目をやると、見覚えのないメイドが両手を頬に当てていた。

 

小学校の教科書に載っていた、《叫び》という絵画を思い出す。

 

彼女の顔にはこれといった特徴がなく、誰に仕えるメイドかも思い当たらなかった。

 

余程驚いたのだろう、食材の入った紙袋を落とし、瓶が割れたのか紙袋の色を変えた。

足元に転がってきた林檎を拾い上げたアインズは、努めて優しくメイドに話しかけた。

 

「お嬢さん、どうかなさいましたか?」

「へ、へ、へ、へへ蛇が!」

「魔導国の蛇、ヤトノカミですよ。それより、拾うのを手伝いましょう。ヤト、驚かせたお前も手伝ってくれ」

「なんで俺が……」

「っ!」

 

前に出たヤトの背中に凶悪な武器を見つけ、食材を落としたブレイン邸宅のメイド、クリアーナは更に息を吸い込む。

蛇の機嫌を損ねた彼女は、大鎌で魚のように三枚に下ろされる、という妄想が脳に浮かび、体が恐怖で硬直する。

 

「心外だな。魔導国の住民なら、異形種くらいで驚くなよ」

「……あぁ、あぅあぅ……ブブ」

「ブブ?」

「ブレイン様ぁ……」

 

蛇と男性は互いの顔を気の抜けた顔で見つめ合わせた。

 

 

 

 

ブレインの邸宅では、安いソファーに寝転んだゼンベルと家主が、暇そうに天井の染みを数えていた。

 

「21…22…23…はぁー、ブレインよぅ、クリが戻ってこないぜ」

「夕方の市場は混んでるからな」

「それにしてもちょっと遅いんじゃねえか?」

「俺たちが何かしても夕食の時間は早まらないぜ」

「それもそうだけどよ、酒がねえんだよ」

「俺の金だろ」

「がっはっは! けちけちすんなってブレイン」

「ゼンベルと冒険者でもやれば、手っ取り早く稼げるかもしれん。クリアーナの給料もクレマンティーヌの治療も、全部俺持ちだからな。そろそろ俺たちの自由行動も終わるぞ、ゼンベル」

 

ブレインが増えた同居者の生活の糧に頭を悩ませていると、ドアが開く音と共に弱弱しい女性の声が聞こえる。

 

「ぶ、ブレイン様ぁ。御客様がおいでですぅ……」

 

メイドの縋るような声は、寝ている二人になんとか届いた。

どうやら何かあったらしいと、欠伸をしながら気怠そうに玄関に行くと、見覚えのある蛇と見覚えのない南方の男が目に入った。

 

「よう、ブレイン。メイドを雇ったんなら教えろよ、水臭い奴だな」

「ヤト、相変わらずだな。隣の男は誰だ?」

「モモンだ」

「モモンって……アイン――」

「待て待て! 今はそれ以上言うな」

「訳ありか? 汚い家だが入るか?」

「邪魔するぜ」

「失礼する」

 

蛇に怯えるメイドが一足先に、家の中へ逃げ出していった。

 

「ゼンベル、起きろ。客が来たぞ」

「おう、蛇の旦那。お久しぶりじゃねえですか」

「相変わらず敬語が滅茶苦茶だな」

「そっちのは誰だ?」

「モモンだそうだ」

「モモン……いや、モモンってアイ――」

「待て! それ以上言うな!」

 

ワニに似た蜥蜴人は、器用に解せぬ表情を浮かべる。

見た目通りに察しが悪かった。

 

心配そうに見つめるアインズにゼンベルを任せ、ヤトはソファーに座って気さくに話を続けた。

 

「ブレインも中々やるな」

「何のことだ?」

「帝都から女を二人も持ち帰ったんだろ?」

「……二人?」

「探知スキルが発動しっ放しだったんだよ。この家にいるのはブレイン、ゼンベル、さっきのメイドと、あと一人いるだろ。帝都から持ち帰ったメイドか? それとも嫁か?」

「相変わらず妙な武技を使うんだな。クリアーナ、さっき一緒にいたメイドは行き場がないから金で雇ったんだよ。もう一人だが……モモン、クレマンティーヌを覚えてるか?」

 

ゼンベルに理解できる説明が思いつかずに困っているアインズは、ブレインの方へ顔を向ける。

 

「クレマンティーヌ?」

「金髪の女戦士だ」

 

この日、クレマンティーヌを鯖折りに抱きしめてから70日以上が経過しており、あれから濃密な日々を過ごしたアインズの頭の中で、彼女の記憶は戸棚の奥底に追いやられていた。

 

濡れたコンピュータの記憶中枢では、彼女に関する情報をシナプス間を飛び交う小人たちが総動員で探していた。

明らかに忘れている彼を見て、ブレインはため息を吐く。

 

「忘れてるのか」

「……聞き覚えのある名だな。その女がどうかしたのか?」

「成り行きで俺と立ち合いをしたんだが、モモンに殺された記憶が蘇り、廃人になってしまったんだ。可哀想だからその場の流れで連れ帰ったんだが」

「ほう」

「へー」

「クリ! 酒を持ってきてくれ!」

「ウルセエ……」

 

そっぽを向く若いメイドは、ゼンベルに見えない角度で露骨に不快な表情を浮かべる。

 

「何か言ったか?」

「はいはい、ゼンベルさま、すぐに」

「ゼンベル、その呼び名は下品だから止めてやれ」

「ちゃん付けで呼んだらやば――」

 

無礼な大蛇の声はアインズの手刀で遮られ、とっさの攻撃を食らった蛇からは舌が飛び出した。

どことなく喜劇的(コミカル)な大蛇を見ても、いつ丸呑みに食べられてしまうかと、クリアーナは内心で怯えて距離を取る。

 

「そうか、それで機嫌が悪かったのか。すまねえな、クリ」

「……」

 

何も反省していない蜥蜴人と、それを心の底から不快に思うメイドは、それ以降も何かやり取りをしていた。

見かねたブレインは、彼女を自室へ下がらせる。

 

 

「随分と日が経っているのでな、記憶が曖昧なのだが。なぜ彼女が生きているのだ」

「詳しい話を聞く前に、会話も難しくなっていたんだが。一体あいつに何をしたんだ?」

「うーむ……我々がこの世界に来て間もない頃だろうか。あれは確か、ミスリルに昇格した時分だったか……ンフィーレアの救出に……思い出した!」

 

記憶の糸を手繰り寄せたアインズは、もやもやしていた気持ちが晴れた喜びに大きな声を出す。

シナプスの間を飛び交う電気信号(小人たち)は、両手を上げて万歳三唱しているだろう。

 

「ツアレの妹を殺した女だな」

「ほー、ツアレの妹を殺したねぇ……」

 

大蛇の赤い瞳が一瞬だけ輝いた。

 

「今思うと、あれは中々強かった。あの時はアンデッドの姿で抱きしめ、そのまま圧殺したのだったか」

「モモンも派手にやりますね」

「そりゃ廃人にもなりますね」

 

ブレインとヤトが同じ口調で返事をする。

 

「しかし、生きているとなればまずいな。私の正体が」

「いや、魔導国の人間なら、アンデッドだとみんな知ってますよ」

「それもそうか……違うぞ。モモンが私という点だ」

「心配ないでしょ、一部の奴は知ってるんだから」

「それよりも廃人を治せる魔法を知らないか? このまま死なれては寝覚めが悪くてな」

「そう都合よくはいかんよ。仮にあったところで、記憶に蝕まれているのであれば、すぐに元に戻ってしまうだろう」

 

それもそうだなとブレインは腕を組み、柄にもなく悩んで黙り込む。

 

「そのまま死なせてやれば? それなりに人を殺してきたんだから、それも報いだろ」

「いや、そうなんだが……寝覚めが悪いだろう」

「惚れたのか?」

「まさか。俺は金や女より強くなることを選ぶさ。ヤトは女の方がいいんだろ?」

「いや、俺はラキュースとレイナがいれば――」

「ほー、妾を連れ帰ったって聞いたが本当だったのか。薔薇の嫁さんはかんかんに怒っていただろ」

「えらい怒られた」

 

脱線した二人の話は、アインズの咳払いで我に返る。

 

「ゴホン、二人とも、話の続きをしよう」

「失礼」

「失礼」

「さて、ブレイン。廃人を治す魔法は、その状態の彼女には使えない。だが、記憶を操作する魔法はある」

「魔法ってのは、そんなことまでありなのか」

 

うなされて固いソファーで眠るブレインの、事態の深刻さを知らないヤトが混ぜ返す。

 

「なんで生き返らすんスか。放っておけばいいのに。ツアレの妹を殺したんでしょ」

「私もそう思ったのだが、彼女に興味が湧いた。正確には彼女の記憶に、だがな」

「その姿になってから好奇心が旺盛ですね」

「いつまでこの姿なのかわからんのだ、やれることをやろう。お前の好きないつも通りの寄り道、さ。記憶操作の魔法はまだ試していなかったからな」

「へいへい、そうですか。お優しいことで」

 

舌を出し入れした蛇の器官に、アルコールの匂いが届く。

退屈したゼンベルは、残り少ない酒を開けようとしていた。

 

「ゼンベル。俺にも酒くれ」

「大事に飲んでくれよ、旦那」

 

不満をいいながらもグラスへ酒を注ぐゼンベルに、アインズはラキュースがまとめた報告書を思い出す。

 

「ゼンベル。ラキュースの報告書に、経費を水のように使い、酒を水のように飲んだと記載してあったが?」

「あ、いや、その、少しだけ飲みました」

「モモンさん、普通に王様になって……まあいいか」

 

ゼンベルはいつもの勢いを殺され、多少だが大人しくなる。

 

「その件は水に流そう。明日はブレインと王宮に来るように」

「うへぇ……気楽な休日もこれまでか」

「ブレイン、彼女を見せてくれないか?」

「はいよ」

 

アインズとブレインは立ち上がり、奥の部屋へ向かっていった。

 

「ゼンベル、リザードマンは人間と結婚できるのか?」

「おいおい、勘弁してくれよ。そんな趣味はねえぜ」

「結婚はしてないんだろ?」

「メスは、やっぱこう鱗の柔らかいのが」

「鱗? 鱗が柔らかいと何がいいんだ?」

「抱き心地がいいんだぜ、旦那も試してみるか?」

「人間の方が抱き心地がいいと思うけどな。体も柔らかいぞ、何なら人間の娼館にでも行ってみるか?」

「いや、人間相手じゃ興奮しねえですぜ」

 

残り少ない酒を楽しく飲む大蛇と蜥蜴人は、メイドが下がったのをいい事に、どうでもいい話に興じていた。

二人を残して該当人物の部屋の開けると、クレマンティーヌは男物の寝間着に着替え、ベッドの上で膝を抱えて座り込んでいた。

瞳の光は消えており、呼吸による命の証明がなければ、死んでいると言われても納得しただろう。

 

「失敗したらどうなるかわからんが、試してもよいか?」

「任せるわ。このままでも死ぬだろうし、俺には何も出来ない」

 

アインズはクレマンティーヌの頭に手を当て、記憶操作の魔法を発動する。

急激な魔力の消費を感じ、一時的に魔法は解除された。

 

「こ……これは……凄いな……」

「やはり難しそうか?」

「いや、違うのだ。魔力の消費が激しくてな。ふぅ……よし、次は成功する」

 

改めて彼女の頭に手を置き、魔法を発動させて記憶の海へと潜っていく。

下手に弄って修正不能となるのを恐れ、記憶を眺めるに留めた。

目指す場所はアインズに絞め殺された記憶だ。

 

改めて見ると、我ながらえげつない事をしたなぁ……

 

アインズの腕に抱かれながら空中に血を吐き出し、絶命する彼女が見えた。

アルベドやイビルアイが見たら嫉妬しただろう。

 

 

 

記憶の海洋から帰還したアインズの顔を、ブレインが心配そうに覗き込む。

激しく魔力を消費したアインズの額には汗が滲んでおり、人間であるブレインの観点からは疲労困憊に見えた。

 

「無理を頼んで悪かったな」

「なに、構わないさ。私も魔法の実験ができた。しかし、何をどう直せばいいのかわからんな……済まないが保留にさせてもらう。記憶を書き換えて精神が崩壊すれば、それこそ困るだろうからな」

「ああ、そうしたいのもやまやまなんだが、食事を摂らないんだ」

「……そう、か」

 

か細くなっている生命の(ともしび)を消し去ろうとしている彼女に、自室へ閉じ籠っていたいつかの友人が思い起こされる。

 

「早期に対応する、それまで何とかしてくれ。無理矢理に食べ物を突っ込んでみてはどうだ?」

「考えておく……本当に申し訳ない。俺にできる事なら協力する」

「ブレイン、明日はゼンベルと王宮に頼む」

「ああ、朝から顔を出す。それと、もう一ついいか?」

「まだ何かあるのか?」

「家を引っ越したい。空き家でもボロ家でも構わない、部屋が四つある家が欲しいんだが」

「ふむ……八本指の幹部が使っていた屋敷に空きがあったな。メイドの掃除が大変になるが、それでも良いのか?」

「頼む、ソファーで寝ると体の関節が固まる」

腕をぐるぐると回すブレインに、気怠そうな黒髪黒目のヤトと、青い髪で無精ひげの彼が重なる。

ブレインとヤトは似ているらしい。

 

「わかった、明日になるが手配しておこう」

 

彼の引越し嘆願書は快く即時受諾され、ブレイン所帯は引っ越しが密かに決まった。

後日、大きな家に引越しと聞いて、クリアーナは深いため息を吐いた。

ゼンベルの顔を見なくて済むという喜びが半分と、もう半分は掃除が面倒になるという複雑な心境だった。

 

この日、彼らは深夜になり酒が底をつくまで、ダンジョン内部の底意地が悪い罠に関して語り合った。

途中でうなされるクレマンティーヌの声に、休憩を挟みながら。

 

先に寝入ったクリアーナは、翌日にアインズとヤトがまき散らした砂埃の掃除に頭を痛める。

 

 

当初の目的であった服の新調は後日に回され、人型に変わったヤトは服が汚れて居心地の悪いままに王宮のソファーで眠り、アインズは睡眠・飲食不要のイビルアイに新しい服を用意してもらう。

 

イビルアイのセンスの問題だが、代わりに持ってきたシャツは純白で、翌日も汚れるのが決まっていた。

 

前日から通して昼も夜も活動を続けたヤトは、翌日の夕方まで覚醒することは無かった。

 

本来の少年の姿に扮した漆黒聖典の隊長と、世界級アイテムを所持したカイレが、足元まで迫っていると知らずに。

 

 

 


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