過去の記憶と今の記憶に折り合いを付けた、と彼は思いつつも。けれどどこか大事なことを忘れてしまい、ふとした拍子に狂おしい感情が胸に湧き起こるのだ。昏睡から病院で目覚めてはじめて見えるようになった妖精たちや、海兵学校で出会ったあのモニターで見てた一枚絵とは違うリアルな艦娘たちへの懐かしさ。
思い出せそうで思い出せない、霧がかかったようなもどかしさが今も残っている。
そして、知らないふりをして泣かせてしまった隣に座る彼女への、今まで感じたことのない罪悪感は今でも自分を責め立てる。
お酒に強く、非番であるならば日付が変わってもウイスキーなどを飲み続ける陸奥と同じペースで普通の男が飲んだ場合、あっという間に酔っ払ってしまうのは火を見るよりも明らかで。つまり提督はしばらくすると頭が重くなり、まっすぐ歩くのも困難だろうと第三者から見ても分かるくらいに酔っ払っていた。普段よりもハイペースだったのにはシラフで陸奥と会話をして平常心を保てないと思ったからというのもある。
「て~とく~、これ何本に見える?」
「二本」
「しれぇ、それ島風ちゃんの指じゃなくてカチューシャです」
少し離れたところで陸奥とサシで飲んでいる提督を見つけた駆逐艦は今ここにいる島風と雪風のように絡みに来ていた。先程は暁が「まったく司令官はお子様ね。暁を見てなさい!」と陸奥が持っていた焼酎をグラス一杯全てぐっと飲み、誰もが予想したとおりそのあと電に曳航されていった。
また千歳が「飲んでますか提督ー!」と突撃した直後に千代田に連れ戻されるなどもあり、パーティの中心とは少し離れたところに座っていたが、周囲は賑やかであった。
「お酌しようと思ったら、もうすっかり酔っ払っていらっしゃいますね」
「鳳翔さんだ!」
「はい島風ちゃん、メリークリスマスです。甘いお菓子はいかがですか?」
「雪風も欲しいです!」
小柄な軽空母「鳳翔」は提督が前後不覚に近い状態になっていることに少し残念がりながらも、厨房から持ってきたクッキーなどを島風たちに渡す。
「陸奥さんもどうです?」
「あら、私の分もあるの? ありがたくいただくわ」
「ほーしょーさん俺もー」
「はいはい、お待ち下さいね。もう陸奥さん、提督はお酒が貴女ほど強くないのですから加減して差し上げないと」
「はぁい」
あ、この人反省する気全く無いなと鳳翔は密かに思ったが言うだけ無駄だろうし口にしなかった。こうやって注意したのも何度目だろうか、小さくため息をつく。その姿は小さいこどものイタズラに手を焼いて困った若い母親のようで、いつもの提督であるなら脳内で『鳳翔ママー!!』と叫んだであろう。
ひとしきり騒いで飽きた駆逐艦を引き連れて鳳翔は別のテーブルへと移動していった。もうそろそろお開きの時間だ、お菓子を帰る前に持たせようと鳳翔は駆逐艦をまず呼び寄せた。
提督はそんな鳳翔に気付くこと無くグラスを口元に持っていく。
「酒! 飲まずには」
「一旦落ち着いて水を飲みましょ? もう、お姉さんに合わせようとするんだから」
「焼酎飲みたいよお姉ちゃん」
「そこ拾うの?」
まったくお酒に飲まれちゃ駄目よ、と言って陸奥は強引にお酒を取り上げた。どこかの悪党みたいに酒を煽ろうとしたのを阻止された提督は、ちょっと悲しげな表情になったあとケーキをフォークでつっついた。
イチゴのショートケーキ、パーティで出される食べ物の材料費をいくらか負担した提督の要望によって作られたそれは、正に提督がクリスマスに食べる理想のケーキと考えるものであり、酒と同じくハイペースで食していた。そんな彼の姿を眺めながら明日は大変だろうなと陸奥は心配するが、見てて面白いためにしばらく止めなかった。
しかし時間も時間、頃合いだろうときに制止する。
「もうお開きの時間よ、部屋に戻りましょ?」
「早いな、まだ始まったばかりのような気が……おっと」
立ち上がった拍子によろめく彼を支え、その温もりを感じてふと思い出す。
陸奥がここにやってきて提督から云われた言葉は「はじめまして。陸奥、でいいよな?」だった。昔の記憶、彼の若いころの姿と声でそう言われた瞬間に、頭が真っ白になるかのような衝撃を受けた。覚えていないフリをする彼からすれば当たり障りないような言葉だったのだろう。だが自分が愛して、そして自分を愛してくれた人間からそのようなことを言われるなど、到底言葉で表すことのできないものだった。彼が自分を本当に知らないのだと思ってしまった。
また生まれてこなければよかった、あの素晴らしい日々を胸に抱いたまま永遠に眠っていられればよかったのに。過去を思えば思うほど、戻りたくなる。どんどん思考の闇にとらわれていった。思い描くのは今の提督ではなく『前』の彼。提督との繋がりから本能では彼が『前』と同一人物であるとはわかっていつつも、記憶と理性がそれを否定しようとする。
着任して数日はそうふさぎ込み、陸奥は姉の長門に迷惑をかけてしまった。
『陸奥、この首に下げているものはただの飾りか?』
『違うわ!』
『どう違うというんだ。私は自分のことのように覚えているぞ、それに込められた想いと誓いを。まさか忘れたとは言わないよな?』
グッと、ネックレスにされた指輪を掴み長門は詰問する。
『死んでも必ずまた出会う、そう約束したのではないのか。どんな形でもいい、出会って欲しいと言ったのはお前だろうに』
同じように愛して欲しいなんて贅沢は言わない、ただ会ってくれるだけでいい。互いにそう誓ったことを思い出した時、永遠と闇に向かっていた気持ちにふと光が差した。
前向きになった気持ちで陸奥が観察してみれば、提督は陸奥や艦娘たちのことを覚えていながら知らないふりをしているように見受けられた。特に長門を筆頭とした自分よりかはかなり後ではあったがケッコンカッコカリを最初のほうでした艦娘への対応が顕著だった。どこか他の艦よりも一歩引いた態度を取っている。
どうして、と聞いてもはぐらかされるのは目に見えている。ならいいたくなるまで待とう、陸奥はそう意気込んでこのクリスマスに臨んだ。すでに彼女の戸惑いや悲しみは振り払われたのだ。過去は過去、これからは未来を作っていくのだから。
窓の外に雪が降る。明日の朝には世界は白く染まっているのだろうか、冷えた廊下で白い息を吐きながら陸奥は思いを馳せる。
ベッドに突っ込んだら一瞬で寝てしまいそうなくらいにフラフラな提督の腕を肩に回してゆっくりと歩く。艦娘の力をもって背負ったりしようかとも考えたものの、あとでそれを知った提督が「女の子に背負われるだなんて」と自己嫌悪で落ち込むのが目に見えているのでやめておいた。
「……陸奥さん」
「榛名、どうしたのかしら提督の部屋の前で」
「提督のために、彼から離れてください」
提督の部屋の前、扉を背に陸奥を睨みながら立つ金剛型三番艦の榛名は普段の柔和な顔からかけ離れた、目の前の存在を敵として見ているような表情をしていた。まともに歩けない提督を支えている陸奥は行く手を阻む榛名に眉を顰める。
榛名は陸奥が着任してからの提督の様子に胸を痛めていた。見るからに陸奥との接触を避けようとし、時折気まずそうな表情を出す彼。一人でいるときには悩ましそうに顔を歪めていることもだんだんと増えてきて、その全ての原因は陸奥にあると断定していた。
「苦しんでいるんです、辛そうなんです。どうかその人に関わるのをやめてください」
「そう言われても困るわ。私はこの人の戦艦だもの」
「ならば榛名が、二度と貴女がこの人の前に現れないようにして差し上げます!」
ガコン、と音を立てて砲を陸奥へと榛名は向けた。無論、撃つつもりはない。ここで撃ってしまえば提督も巻き添えになるし、大事になるのはわかっている。だが、これがただのポーズとは言えども至近距離で味方に砲を向けるという懲罰ものな行動から陸奥は榛名の本気度合いを悟る。
「それで私を排除したらどうするつもり? まさか後釜に居座ろうというつもりかしら」
「そんなこと……!」
「無いとは言わせないわよ、私は知っているの。あなただけじゃない、提督のプライベートに踏み入って覗きこんだりしていることを。そうでしょう?」
「榛名はただ提督を」
「好きなだけ? 普通の恋愛ってものは知らないけれど、普通そんなことをしないってことくらい私は知っているわ」
静まり返る廊下、おそらく見えないだけで隠れたところに何人かの艦娘がこの光景を見ているのだろう。好きな人間をずっと見ていたい、知らないことを一つでもなくしたい。なるほどそうだ、だけれどもそれを踏みとどまるということも大切だと陸奥は信じている。
むやみに詮索などしなくていい、相手が全てを見せてくれるまで待ち続けよう。
「それに前のことを何も言わないのには踏み入ってほしくない事情があるからでしょう? 今のあなたならこの人のことを考えずに、耐え切れないで突撃しそうね」
「榛名は……」
「近くにいればいるほど、前との差異や煮え切らない反応にやきもきするわ。それでも大丈夫と言うの?」
「榛名は、榛名は大丈夫です」
勇ましく陸奥を見上げていたはずの視線は床に向かい、いつのまにか握りこぶしになっていた手は震えている。榛名だって自分の性分は分かっていた、時に盲目的になって周囲が見えなくなることを。でも、だからといって陸奥が提督を苦しめているのが許せなかった、耐え切れなかった。
大丈夫、と言った言葉は震えていた。彼と積み上げてきた思い出は自分しか持っていない、小さな違いでも一緒に過ごしていくうちにそれが大きな疑心になる。本当に彼は自分の提督なのだろうかと、そう疑ってしまいそうだから。
「むつ……また喧嘩? いい年なんだからさ、年から年中喧嘩していないで仲良くしようよ。まったく、出会った当初はこうじゃなかっただろ」
呂律の回らない、そして聞き取るのも難しい大きさで呟かれたはずの提督の言葉はしっかりと二人の耳に入った。さっきまで糸の切れた操り人形のようにその頭をぐたっと垂らしていたのが、今はしっかりと二人を見据えるために上げられている。
「もう何年一緒にいるんだ……戦ってる時はそうでもないのにどうして陸の上だ、と……」
そして再びガクリと頭が下がる。急に抜けた力が、支えている陸奥にまで衝撃として伝わってきた。
「……提督に怒られちゃいましたね。いいです、今日は引きます。ですが」
ピシっと榛名は陸奥を指差す。
「提督を苦しませるような勝手な真似、絶対に許しません」
「あらあら、この私がそんなことをするわけないわ。安心してちょうだい」
数秒二人は見つめ合って、そして視線を逸らす。榛名が退いた先にあった扉を開けて陸奥は提督の部屋へと入った。すでに寝息を立てている提督の頬をつねり「歯くらい磨きましょ?」と起こす。喉を突くなどしたらあぶないために陸奥は膝の上に寝かせて彼の歯を磨く。そして寝支度をさせて就寝中の『万が一』が無いように共に布団を被った。
そして翌朝、頭痛と共に目が覚めた提督が視界に入れたのは陸奥の顔だった。心臓が跳ね上がるかのような驚愕と、落ち着く甘い香り、そして今までに感じた以上の既視感と愛おしさがこみ上げてきて、色々と限界を迎えた彼は再び意識を手放してしまった。
そんな彼を陸奥はクスリと笑った後に胸へと抱え込む。
「また愛して欲しいなんて言わないって、そう言ったけど訂正するわ」
提督の前髪を掻きあげて、陸奥はその唇を彼の額に落とした。
「私を永久にあなたの傍に。永遠にあなたと生き続けたい、だからまた愛して。お願いよ?」
そうささやき、そのままギリギリの時間までベッドの中で提督の暖かさを感じ続けた。
第二部へ続く