花妖怪と青年と――   作:TKI

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青年と巫女 その1

山路を伸びる石段を登りながら、ある小説の冒頭を諳んじてみる。

 

『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい』

 

もうかれこれ何回、この冒頭を諳んじただろうか。この小説に出会い早、幾年。読み返した回数は足の指まで入れても尚、まったくもって足りないだろう。暇がれば読み返し、別の本を読んでいる間に読み返し、酒のつまみにも読み返す。冒頭の2,3ページであれば幾ら俺の海馬がポンコツであろうとも、鮮明に一言一句思い出せるまでになっていた。

 

そして、何度読み返しても、諳んじても思う。この冒頭の数ページこそ、この世の真理を流れるような文章で書いている、と。

 

この平成の世において、明治時代そのものを書いたかの小説をここまで溺愛しているのは平成の世では珍しいだろう。もしかしたら俺一人かも知れない。それなら、それでいいし。そうでないならそうでないでもいい。

 

冒頭こそ有名なこの小説だが、実際にその全てを呼んだ人が何人いるだろうか。きっと、少ないに違いない。平成の時代において、明治の小説を読もうなどという物好きは俺のような変わり者か、よっぽどの愛国心に満ちた博学者のどちらかだろう。

 

肩に掛かるカバンを一度座りのいい位置へと誘導する。その際に画架が少し揺れた。上を見上げれば山の斜面に沿うように真っ直ぐと伸びる石段。数は幾何だろうか。数えるのも億劫だ。

 

俺の後ろにもきっと同じような数の石段が伸びているに違いない。石段の終わりには赤い鳥居がポつんと見えた。この当てもない長い石段をせっせと上るのも単にそこに行くためだ。

 

俺が居候として住み着いている花妖怪の家の庭から見えるこの山には一つの神社がある。名は博麗神社。何でもこの幻想郷と外界との狭間に存在する神社であり、博麗の巫女という人間の巫女がいるらしい。いるらしい、と小耳に挟んだのは結構前の話だ。いつか行こう行こうと思う内にズルズルと今日まで時間を浪費してしまった。行こうと思いついたのは昨夜の事、酒の席にて鴉天狗と花妖怪から博麗神社の話を聞いた時だ。

 

そして今日。自分の仕事を早々と終わらすと鴉天狗に抱えられこの山の麓までやってきた。元来より天狗と言う生き物の飛ぶスピードは音速を超えると文献でも伝えられている。彼女も例にも漏れず、平生のヘラヘラした態度のまま、まるで瞬間移動をするかの如きスピードでここまで俺を送る。人の世においては自分が弾丸をも越えんばかりのスピードを体験することなど、ないだろうから、これも人でなしの国ならではの体験談だろう。非人情の旅はこうでないと面白くない。

 

帰りもまた迎えに来てくれるという鴉天狗を見送った後、視界を後ろへとやる。山に麓には木々と石段、そして所々でペンキの剥げた朱の鳥居しか見えない。これが禅宗の寺なら不許葷酒入山門なんて彫られた石でも何でもあるのだろうが、ここは神社だ。ならば、その鳥居だけでも十分だ。

 

そして、こうして石段をゆっくりと気ままに登り始めて数分。俺はちょうど中腹辺りで足を止めていた。よく見れば周りに生える木々は杉である。それもただの杉ではない。随分立派な杉だ。向日葵の華やかさも良いが、杉の落ち着いた感じもいい。ここ暫く黄金に囲まれる生活を送っていたため、何だか嬉しくなる。今の気分はまさしく気軽にピクニックでもしている心持である。

 

石段を登るにも骨を折って登ってはいけない。せっかく非人情の旅に出たのに疲れるようであれば事だ。骨が折れるくらいなら直ぐに引き返す。平生の人の世であればBreak a legも大切だろうが、ここは平生は平生でも人でなしの国だ。ならば、何が楽しくてBreak a leg と足を折らねばならないのか。そもそもBreak a legという言葉の語源自体がサーカスやら劇やらの商売から生まれたと聞く、ならば商売の時に言うのが適当だろう。今の適当な俺の生活にはとても当てはまらない。

 

いつの間にか、そんな考えは頭のどこかへ行っていた。

 

辺りからは包むように蝉の声が聞こえる。木々の陰にいると言えども歩けば暑い、暑ければ汗が滲む。

 

――あぁ、夏だ。

 

踏むは大地と知るが故に割けはしないかと杞憂は避けれぬ。頭上を覆うは宙と考えるからこそ、いつ雨が降るかと憂いになる。人と争わねば、良い飯が食えぬと浮世が催促するから、家宅の苦は免れぬ。利害の綱を渡る身には事実の恋は仇である。

 

目に見える富は毒である。金が増えれば嬉しかろう。だが、増えすぎると堅牢な金庫へ入れたとて減りはせぬかと心配になる。

 

名誉は麻薬だ。一たび味をしめてしまえば、もう後には戻れはせぬ。あるのは誉を奪われるまで他人を蹴落として自分が昇り詰めるまでだ。

 

所謂楽しみは物に名誉に執着するより起こるが故に、あらゆる苦しみを生む。ただ、芸術家と呼ばれる奴らは、飽くまでこの待対世界の精華を噛んで、徹骨徹髄の清きを知る。雨に打たれようとも、日照りに焼かれようとも、世間の業火にその骨まで溶かされようとも、彼らは己が信念を、己が召命を全うせんとする。故に着想を紙に落とさぬとも璆鏘の音は胸裏に起こり、丹青は画架に向かって塗抹せんとも五彩の絢爛は自ずから心眼に映るのだ。

 

彼らの楽しみは物に執着するのではない。その物に成りきるのだ。その物に成り済ました時、泥団を放下して、破笠裏に無限の青嵐を盛る。芸術家は住みにくい人の世を束の間の間でも住みよくするが故に貴い。

 

俺は何も考えていない。又は確かに何も見ていない。網膜の裏に映るは段々と大きくなる鳥居と、風に揺らめく緑だけだ。しかし、それは俺の意識の舞台には上がってこないから、俺は如何なる物事に同化したとも言えない。同化はしてないとて、それでも俺は動いている。無論、体が動いていると言う意味ではない。人の世にも動いていない、人の国にも動いていない、ただ何となく動いている。

 

向日葵に動くわけでも、杉の木に動くわけでも、鴉天狗に動くわけでも、花妖怪に動くわけでもない。ただ恍惚と、長閑に、のんびりと動いている。

 

飽くまでも説明しろと言われるのなら、俺の心は夏という一文字と共に動いていると言いたい。あらゆる夏の色、夏の風、夏の音、夏の物、夏の暑さ、夏の文字、そんなありとあらゆる夏と言うものを打って固めて、端正に丸めたのちに霊台方寸の心と言う箱に押し込めてそれをもって夏と一体化していると言いたい。

 

――あぁ、夏だ。

 

これこそが夏の楽しみ方である。非人情でなければ、このように夏を楽しめまい。

 

そんな時だった。俺はついに石段の頂上へとたどり着いた。さほど広くない境内の先には木造の本堂が見える。どこからどう見ても日本の神社そのものだ。

 

「誰かいますか!」

 

扉の前に立ち、声を掛けてみる。しかし、人の気配はない。と、いうよりも人どころか生き物の気配がない。朱色の鳥居を潜ったその瞬間より、不思議と蝉の声すら聞こえなくなった。どうしたものかと考えてみる。しかし、答えはでない。まぁ、そうであろう。人の世のなら兎も角人でなしの世で起こる事何て俺に検討がつくはずがない。

 

検討がつかないなら、考えるだけ無駄だ。不思議な国へと迷い込んだアリスの様に、ただ起こった現象をありのままに受け入れるのみ。そうすれば、この光景も画の題材にもなれば、句のモチーフにもなる。ただ、凄いものを凄いとみれば絵にも描かれるし、詩にも読まれるのだ。

 

「すみませーん!」

 

もう一度声を荒げてみる。結果は先ほどと同じく反応はない。なるほど、どうやら誰も何もいないようだ。ならば空き家で声を枯らす真似はしなくていい。直ぐに声を出すことを諦めて本堂の木造の段差に腰を掛ける。こんな時は、本でも読んで時間を潰すに限る。取り出したるは一冊の小説。適当にページを開いて流し読みを始める。

 

「あら、お客さん? 今日は珍しいわね」

 

幾何の時間が経っただろうか。適当なページを読み、また適当にページを開くことしばらく。静かな空間に音が生まれた。蝉の声も同時に聞こえるようになる。

 

顔を上げれば偉い美人がそこにいた。

 

美人。確かに美人だ。しかし、どこか風変わりな人間だった。

 

「私は博麗霊夢。お賽銭くれるなら歓迎するわよ」

 

これが俺と博麗の巫女との何とも言えぬ出会いだった。

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