本作に於ける岸波白野は、ムーンセルの彼女とは別人です。もし、冬木市で生まれ、育った平行世界の岸波白野がいたらというIF。いわば、最も近くて遠い他人です。
それでは、しばしお付き合い下さい。
本当に前兆は無かったのか、何も感じ取れなかったのかと問われれば、否と答えざるを得ない。ここ最近の冬木市には、明らかに不穏の気配が満ちていた。
歩き慣れた夜道の闇が、急に深みを増したような。
見知った筈の町並みを、全然知らない異郷の地と錯覚してしまうような。
言葉にしてしまうと途端に要領を得なくなる、皮膚感覚でしか理解不能な違和感。そんなものが絶えず上空を漂い、濃度を増し続ける不気味さを、多かれ少なかれ誰もが感じ取っていた。
漠然とした感覚ばかりではない。連続した猟奇的殺人事件、港湾倉庫街の連続爆破、ほとんど直後にハイアットホテルを襲ったテロリズム、行方不明になる子供達、他にも他にも―――数え上げればきりがない。
異常と言えた。
人口の密集する地方都市と雖も、これほどの凶事が連発するのはまず、有り得ない。たった一つだけでも十年に一度起こるか否かという事件が、精々十日かそこいら前後の極めて狭い期間の内に、かくも密集しているのである。
―――なにか、おかしいのではないか。
そんな囁きが、どの街角からでも聴こえて来るようになった。
さもありなん、これで胸騒ぎを覚えない輩は余程の楽天主義か、若しくは精神疾患の疑いがあろう。「工業排水の化学反応により幻覚作用のある有毒ガスが発生」? こんな報道を心の底から信じていた者が、果たして一人たりとていただろうか。
もし、これがもっと以前。
それこそ百年単位の昔、まだ人間が闇を畏れる純朴さを失っていない、過去の時代だったならば。
胸に渦巻く黒い霧のような不安を予兆と捉え、直ちに大八車に家財を積み込み、何処か遠くへ逃げ出していたかもしれない。
だが、今は現代。物質科学文明の横溢しきった御世である。
―――些細な不安を過大に評価し、一々土地を離れていては、それこそ生活が成り立たつまい。迷信に惑わされてなるものか。
ましてや此処は戦火と無縁な日本国、歴とした法治国家ではないか。
国民は平和に慣れきっていた。それこそこの期に及んでも、自分だけは大丈夫、何があっても死んだりしないと根拠のない迷妄に浸り、死の危険をリアルに実感できないほどに。
だから、彼らはついに、心の奥底、本能の深みから浮かび上がってくる警告を、泡の弾ける音色も同然と聞き流した。
が、しかし、だからと言って。
その代償がこれとするのは、いくらなんでもあんまりな、暴論という他ないだろう。
燃えていた。
世界の全てが燃えていた。
轟々と音を立て、冬木と名付けられた地方都市は一個の火の海に化していた。
二月の夜更けに発生した火災は、瞬く間に勢力を拡大。常軌を逸した進軍速度で突き進み、気付いた時には住宅街が丸々火の壁に閉ざされていた。
炎はいよいよ背を伸ばし、天をも焦がさんと猛っている。深山町の高台からこれを見下ろした老人は、すわ地獄の釜が開いたかと危うく腰を抜かしかけた。
が、「地獄」の只中に置かれた人間にとってはそれどころではない。
なにしろ、火の回りが早過ぎた。
逃げる暇など無きに等しく、ほとんどの住民がそのまま取り残されたのである。必然として、阿鼻叫喚の木霊する凄愴酸鼻な地獄絵巻が現出した。
―――この子だけは、と訴える母がいる。
―――置いてかないで、と泣く子がいる。
誰も彼もが傷を負い、自分より少しでも人間の形を保っている者を見付けては、どうか救けてと願うのだ。
肉体以上に、精神を抉られる情景であった。
―――その中にあって、ただひとり。
誰にも救けを求めず、誰からも救けを求められず、ただひとり黙々と進み続ける少女がいた。
岸波白野、その人である。
前者―――すなわち、何故彼女が他人に救けを求めないか―――の理由は、当人の心境に負うところが多く、説明は困難を極めるが、後者の解説ならば容易である。
何故誰も、彼女に向かって救けてくれと手を伸ばさないのか。単純である。落下してきた梁に潰され、圧死を待つばかりの者から見ても、白野の方がなお死に近く映ったから、それだけだ。
溺れる者は藁をも掴むとよく言うが、いくらなんでも自分より激しく、深刻に溺れる者にまで手を伸ばそうとする馬鹿はいまい。逆に距離を取る筈だ。下手に近付き、しがみ付かれでもしたならば、ただでさえ希薄な生還の見込みが更に薄れてしまうだろう。
この場に於ける岸波白野とは、つまりそういうモノだった。
白野の記憶は曖昧である。
この夜、彼女は微熱を発し、大事をとっていつもより早めに床に就いた。
で、ふと気がつけば瓦礫の下に埋もれている始末である。
必死の思いでコンクリートの塊をどかし、這い出た白野が一番先に目にしたものは、変わり果てた両親の姿だった。
頭蓋が割れ、脳漿がこぼれ落ちている。明らかに即死していた。娘に気の利いた言葉ひとつ残せず、二人は物体になってしまった。
輪をかけて悲惨だったのは、白野には悲しんでいる暇さえ与えられなかったことであろう。
火が、そこまで迫っていた。
赤い舌がちろちろと奔り、足元の遺体を嬲っては、異臭を発生させていた。
その惨況に耐えられなかったのか、生存本能に突き動かされたか、あるいはその両方か。
とまれ、白野は逃げ出した。父と母に背を向けて、脱兎の如く逃げたのだ。
その後のことはよく覚えていない。
どこをどう彷徨い、いつ火傷を負ったのかも定かではない。我に返ったときにはもう、歩行不能な重傷で、頬を地面に擦りつけ、土と鉄の苦味が口の中に充満していた。
(下半身の感覚がない)
そちらを見るのが恐ろしい。骨の髄まで炭に変じてしまっていたらどうしよう、あるいはいっそ、根元から
想像するだに恐ろしい。ましてや現に見てしまったら、その場で卒倒するかもしれなかった。
(いいさ、手は動く。這って進もう)
腹這いになり、手頃な瓦礫を掴み、それを軸として体を引き摺る。動くことは動くが、蝸牛よりも緩慢な動作だった。
おまけに、熱を失いきっていない瓦礫が所々に紛れている。まるで悪辣な罠だった。たちまち掌が焼け焦げて、その臭いが両親の死体の記憶をまざまざとよみがえらせ、危うく黄水を吐きそうになった。
(死んだほうがましではないか)
と、思わなかったと言えば嘘になる。白野は自殺を思った。死こそが唯一、この地獄からの脱出口ではあるまいか、と考えた。
(こんなことに、なんの意味があるのだろう)
見るがいい。視界の果てに聳え立つ、あの紅蓮の壁の凄まじさを。
こんな歩みとも呼べない歩みを重ねて、どうやってアレを越えるという。いやそもそも、あそこまで辿り着くことすら不可能だろう。その遥か手前で、命の滴が零れきるに相違ない。
―――この挑戦に価値はない。
―――その生存に意味はない。
諦めるべきであったろう。一秒永らえれば永らえた分だけ、苦痛が募るのみである。
勇気を出して、手放してしまうべきであった。呼吸を止めて、楽になるのが当然だった。
当人以上に、周囲の者共がそう思った。
年頃、十にも満たぬ小さな体が無惨に崩れ、皮下組織を丸出しにしている様は地獄に相応し過ぎてたまらない。
そんなものが、使い物にならなくなり、剥がれ落ちた組織片を残しながら這いずるのである。
(やめてくれ)
と、声なき声が木霊するのも無理はなかろう。
たまらず、誰もが目をそらした。
が、そんな彼らもやがては力尽き果てて、地面に斃れ伏す今際の際。
何故おれがこんな目に、という嘆きと、生ある全てに対する憎悪に駆られる中で、
―――視界の彼方、瓦礫の向こうで、何か蠢くものがある。
(知ったことか。どうせおれは死ぬのだ)
と思いつつも、どういうわけかそのことが、耳元で飛び回る蚊のように気になってしまって仕方ない。
やむなく残された力を振り絞り、眼にかかる霞を払って、それを視る。
誰もが驚愕した。
岸波白野である。
死人よりも死人らしい、何故死んでいないのか分からないと目をそらしたあの少女が、まだちっぽけな体を引き摺り生きていた。
(あんな遠くまで。……)
だが、それがどうしたというのだろう。状況は何も改善されていない。
炎はいよいよ逞しく、衰えの兆候も感じさせない有様で、ともすれば永遠に燃え続けるのでは、と空恐ろしくなってしまう。
白野の肉体からの体液の流出が止まったわけでもない。生存に不可欠な要素がみるみる減衰していくのが実感として分かる。精神論ではない、簡潔かつ明瞭な物理現象の帰結として、もうじき白野は動けなくなるだろう。
―――この道程に
―――その奮起に意義はない。
どうしたってこの赤い世界からは逃れられない。そんなことも分からないほど、岸波白野は愚かではない。
知っている。
知っているのだ。地獄に仏なんかいない。ここには絶望しかない。蜘蛛の糸が垂れたとしても、一度吊り上げ、高所から叩き落とす愉悦を貪らんと巧妙に偽装された悪意だろう。
岸波白野は愚者ではない。それら諸々、悉皆余さず理解して、
(うん、だからどうした)
一層の開き直りを見せる、筋金入りの馬鹿だった。
体を動かす度に、腹の肉が瓦礫の鋭角に擦れて痛い。
―――結構、痛みは生きている証拠である。この痛みが、わたしがまだ現世に繋がっていると証明してくれている。
歩みは遅々として進まない。このぶんでは、地獄を脱するのに果たして何日かかることやら。
―――なあに、どうせ向こうはまだまだ燃え盛っている。ゆっくり行こう。ゆっくり行けば、丁度鎮火する頃合に辿り着けるに違いない。
……強がりと呼ぶにさえ値しない、あまりにも夢想的な楽観。
むろん、本心からの声ではない。白野の心は泣き叫び、もう休ませてと絶叫している。
にも拘らず、どういうわけか、手が動いてしまうのだ。まるで腕そのものが、動ける内は動くのだ、と叱咤激励しているように。
やむなく、また腕を持ち上げる。
瓦礫を掴み、ずるずると体を引き寄せる。
―――限界だ。もうこの腕は動かない。
これで終わりと安堵したのも束の間、今度は反対側の腕がそろそろと延び行くことに気付いてしまい、絶望する。
こんなことを、もう何度繰り返しただろう。三十から先は数えるのを止めてしまった。
我が事ながら呆れてしまう。どうせ死ぬと理解しながら、全て無駄だと承知しながら、この足掻きはなんなのか。
(………いや、違う。本当は全部、分かってる)
ただ、直視する勇気がなかっただけだ。
(けど、いい加減、認めないと)
抗えない逆転現象。「主」たる脳の命に反し、「従」たる腕が勝手に動く。
……そんなことが、現実に起きたりするものか。もうやめてくれと涙訴しながら、その一方、心のどこかでふざけるなと激怒している自分がいる。それでいいのか、と問いかける声がする。
その声を、真正面から受け止めて。
(いいわけ、ないじゃないか)
わけの分からぬうちに全てが燃え落ち、奪われて、今や最後に残された命さえも尽きんとしている。こんな結末を莞爾と受け入れ、悔い無しと叫ぶのは蟲であろうと不可能だ。
無念でなくてどうする。
ここで怒り狂わずに、いったい何処で怒れというのだ。
(くやしい。終われない。終わりたくない。終わったりしてたまるものか)
我が身に降りかかった災禍の正体。
それを齎したなにものか。
事故か、故意か、故意だとすれば悪意の有無は、濃淡は。
何一つ、これっぽっちも理解せぬまま死んで逝く。そんなことは許されない。あっていい話ではないだろう。それではあまりに惨めじゃないか。あんまりにも、憐れじゃあないか。
そうだ、死にかけの体を引き摺って蛞蝓よろしく這いずるよりも。
このままここで諦めて、
(だから、さあ、いかないと)
爪という爪が剥がれ落ち、皮は破れ、血と泥が混ざって腕というより肉塊めいた有様の、その物体を前に出す。
どんなに微々たるものだろうと、どんなにみっともなかろうと、これだけが今の白野に可能な闘い方である。
ならば続けるしかないだろう。投降したところで、どうせ処刑されるのは目に見えている。ならば闘い、強く死んだほうが得なのは、子供にも分かる道理であった。
なけなしの矜持を抱き締めて、白野は前進を続行した。
その姿に、見る者は何を思ったのか。
気付けば、周囲一帯は無音と化していた。誰一人、
あれほど充満しきっていた怨嗟も、哀訴も、今はない。炎さえも場を憚って息を殺しているかのように、揺らめくのみで爆ぜる音がしなかった。
ややあって、死体が一つ、動き出す。
脇腹を木片が貫通し、白目を剥いて炎に焼かれるのを待つばかりだった男の体が、震えながら立ち上がる。
そのまま木片を握り締め、一気に引き抜く。
絶叫が静寂を引き裂いた。
鮮血溢れる傷口を圧迫し、ふらふらとおぼつかない足取りで、男は一歩ずつ歩いて行く。先を行く白野に追い付こうとするように、彼女の通った路をなぞって、蒼白な顔で、懸命に。
男だけではなかった。続々と死体が、死体になろうとしていた者達が動き出す。
歯を食いしばってもう一度だけ立ち上がり、亡者のような足取りで。立てない者は、芋虫よろしく這いずって。梁の下に敷かれた者は、肉を削ぎ、骨を砕いてでも脱出せんとのたうって。
誰もが、諦めを拒絶し、それを叩き返していた。
一人一人が自らの運命と正対し、己の闘いを貫こうとしていた。
そこに協力はない。誰も、他人を救けなどしない。誰も、他人に手を貸しなどしない。
そんな余裕は何処にもないのだ。皆が皆、自分の命を零さないだけで精一杯。人間とは所詮孤独なものだと、この時ほど骨身に染みて実感したことはないだろう。
畢竟、人は人を救えない。救われたければ、自分で自分を救うしかない。
ならば彼らの道行きにとって、他人の影や背中など、有っても無くても変わらない、風景の一種に過ぎないのだろうか。
―――否。そんなことはないだろう。
たとえ手を差し伸べてくれなくとも。たとえ隣の者を救う力を持たなくとも。
ただ、そこに、自分と同じ様に苦しみながら、それでも抗い、進む者がいるだけで。
わけもなく、まだやれると信じてしまう。
もう少しだけ、行けるんじゃないかと思ってしまう。
周囲に誰もいない寒々しさに比べれば、この暖かさはどうであろう。孤独な道を歩みながらも、何一つ言葉を交わさずとも、彼らはこのとき、真実一つのものだった。
冬木市を襲った大火は一日中燃え続け、やがて雨が降り出すにつれ消えた。
死者五百名以上、全焼した家屋は百三十四棟。
大惨事といっていい。新都に於ける住宅地は、ほぼ完全に焦土と化した。
後、調査と遺体収容の為に現地に入った人々は、ある箇所の死体群に奇妙な特徴を見出している。
仰向けになって死んでいる者が、極端に少ない。
子を抱えて共に灰となった親の遺体など、皆無であった。
代わりに、皆が皆、同じ方向に頭を向けて前のめりに果てていた。中には、炭化した指でなおも地面を掻いたと思しき痕まであったという。
この地区からの生還者は、記録を見る限りただひとり。
岸波白野という、僅か八歳の少女であった。