※注意※
筆者は医療業界について全くの素人です。よってこの話に於けるその辺りの描写は、想像と偏見と話の都合に基いた、要するに妄想の産物以外の何物でもありません。
以上の点をご理解の上、しばしお付き合い下さいませ。
けたたましく鳴る時計の音で目を覚ます。
―――旧い夢を、見ていたようだ。
目覚ましを止めた後も、白野は暫く枕から頭を離さなかった。ぼんやりと、視線を天井の木目に染み込ませている。
(……起きたくない)
あの夢を見た後は、決まって
が、停滞をいつまでも停滞のまま放置できないのが岸波白野。はあ、と嘆息しながら身を起こす。ぱさり、と寝巻きが布団に落ちた。睦月の朝の冷たい空気が、全身に残る火傷の痕に痛かった。
白野は黒のサイハイソックスを好む。というより、通学時にはこれしか履かない。
夏であろうと冬であろうと、季節に左右されることなく、である。これを腿の上までしっかり上げて、穂群原学園指定のスカートを着用すれば、生足の露出はまず完璧に避けられる。
案の定というべきか、十年前に負った傷は、特に下半身に於いて深刻で。
ほぼ満遍なく焼き痕がついているために、ちらとでも見えてしまうと途端に空気が凍るのだ。
(別段、恥じているわけではないけれど)
だからといって、態々見せ付けるものでもあるまい。澱んだ雰囲気を好むような特殊性癖とも縁はなし。この程度は当然払うべき配慮だった。
朝の支度をはやばやと済まし、恩人の写真に手を合わせると、アパートから出て学校へ向かう。
空を仰げば叫び上げたくなるほどのいい天気で、多少は気分も回復した。
が、通学路を半分も行かない内に、脚の芯から痺れが伝わってきた。
(やはり、今日は早いな)
いつもなら校門をくぐるまでは
白野の脚は激しい運動に耐えられない。この痺れを無視して更に動かすと痙攣が始まり、その様は陸に打ち上げられた魚に似ていてとても立っていられない。ために、体育の授業は万年見学の身の上だ。
しかし、これでも随分とマシになった方なのである。病院のベッドに寝たきりで、体中に管を通し、喋れもせねば目も見えないというのが岸波白野の本来在るべき姿なのだから。
十年前。
ストレッチャーに乗せられ、担ぎ込まれた白野の姿を一目見るなり、その医者は、
―――遺体安置所はここじゃない!
と、スタッフ達を怒鳴りつけた。
本気であったろう。
なにぶん、白野の容態がひどすぎた。
焼かれて溶けて切り刻まれて―――抽象的な表現になるのを、どうか御寛恕願いたい。詳らかに記すのは、痛ましすぎてとてものこと叶わない―――ほとんど原型を留めていない。
どう好意的に解釈しても死んでいるのが自然であり、ここまで損壊した肉体に生命の息吹が残っていた例などは、長きに渡る医学の歴史を総覧しても絶無だろう。
岸波白野は生きている。こんなになっても生きている。それ自体がもう既に、生物学上に於ける一個の奇跡といっていい。
が、この「奇跡」。
居並ぶ医師達にとって、これほど迷惑な「奇跡」もなかったろう。
(どうしろというのだ)
呆然と突っ立つ彼らの心境は、等しくその九文字に集約される。
端的に言って、手の施しようがない。
白野の体内でどういう現象が発生し、何がどんな風に作用してこの結果が齎されているのやら、とんと見当が付かぬのだ。
彼らにとって、目の前の患者は死体でなくてはならなかった。科学の常識を飛び越えて脈を打ってしまっている心臓に、常識的な対応を施して、果たして常の通りの反応が返ってくるものだろうか。
(下手に手を加えれば、それを契機に均衡が崩れ、一気に死へと傾斜するやもしれない)
冗談ではなかった。それでは自分達が殺すも同然ではないか。
結局、医師達はこぞって匙を投げた。白野は放置された。
―――他にも我々の治療を待つ患者達が山のように居るのである。助かる見込みの極めて薄い彼女ひとりにいつまでもかかずらって、みすみす彼らを死なせてしまえばそれこそどうにもならんだろう。
暴言である。
が、真理でもある。
このとき、冬木に於ける病院という病院はどこも患者で溢れ返り、さながら野戦病院のごとき観を呈していた。
前夜来からの大火災による負傷者。その数は膨大という他なく、一朝明けた今に至れど総数のほどが把握出来ない。医師達が不眠不休で処置しても、それを上回る速度で患者が流れ込んで来るために、混迷は増すばかりであった。
どこの院内を眺めても、悲鳴と苦悶、惨痛による呻き声で満ちている。おまけに時間が経つにつれ、駆けつけた遺族の哀哭まで混ざり始めたのだからたまらない。
(煉獄とはこういうものか)
医師達の人間性に、深刻な磨耗が起きていた。
そんな疲弊しきった心に、九割九分九厘九毛失敗するであろう
(なに、今日我々が救った命の数を考えれば、たったひとつがなんであろうか。第一、女性がああまで顔を
水はより低きへと流れた。
如何にも耳ざわりのいい大義名分を盾にして、岸波白野を見捨てたのだ。
が、捨てる神あれば拾う神ありと言うべきか、世の中は上手く出来ていると驚くべきか。
医師達がここで白野を見捨てたればこそ、結果的に彼女の生還の道が拓けたし、冒頭の生活も有り得たというのだから面白い。
その顛末を語るには、先ずトワイス・H・ピースマンという男について触れておかねばならぬだろう。
―――戦争を憎むこと甚だしく、戦火を見るや身を投じずにはいられなくなり、我が身の危険も顧みず、弾丸の飛び交う最前線だろうと赴いて、人命救助に尽力する仁の人。
そういう前評判を仕入れていた者は、いざトワイスと対面するとこぞって当惑したという。
さしたる特徴のない面立ちには、しかし得体の知れぬ暗い影が差しており、見る者に人里離れた深い淵を覗き込むような不気味さを与えてしまう。纏っている雰囲気も問題だ。常に体の中を木枯らしが吹き抜けているようで、どうにも虚無的という印象が拭えない。
(有り得るのだろうか)
このような―――口さがない言い方を用いれば、極めて陰気な―――人間が、他人の命を救うべく、斯くも精力的に活動することが、である。
(俄かには信じ難い)
と、疑われるのも当然であろう。実際、トワイスとて純粋な赤誠に基づく熱情で行動していたわけではなかった。
彼が治療した如何なる傷者、病人よりも。
トワイス・ピースマンは、遥かに深刻な病苦に悩まされていた。
その病疾の内訳は、戦争に対し、異常な憎悪と殺意を覚えずにはいられない、というもの。これは目の前で起きた戦闘に限らず、写真や動画を介したとしても発症し、心臓を冷たい鉄の腕で握り締められたようになり、顔は蒼褪め、血は凍り、呼吸が上手く出来なくなった。
原因は不明。薬物を投与しても効果は薄く、戦場に頭から突っ込んで、硝煙の匂いを嗅ぎながら救命活動に勤しんでいるときだけが、トワイスにとって真実心安らぐ瞬間だった。
こんな人間が戦火とは本来程遠い日本に滞在していたという時点で、なんらかの巡りあわせを感じずにはいられない。
講演会を依頼されても、
「そんな暇があるのなら、一人でも多くの命を救う」
と、臆面もなくのたまって、突っ撥ねるような男なのである。
そんな彼がこの夜に限って、しかも冬木市のすぐそばに宿をとっていた。
新都を包んだ炎は物凄く、この宿からも赤く燃える空がありありと窺えた。
トワイスも、それを見た。途端に彼の「病」が発動した。
顔面蒼白の彼を気遣う周囲の声も、一切耳に入らない。トワイスは、飛ぶように駈けた。
あっという間に「現場」にまで到着すると、野次馬を掻き分け、何を思ったか頭から水をひっかぶった。で、迷わず炎の中に飛び込もうとしたものだから周囲が驚き、泡を喰って彼を止めるはめになった。
一人が飛びつき、二人目が押さえ、三人四人と、計五人もの人手を借りねば完全に止め切れなかったというから、トワイスの病の根深さが窺える。
彼があまりに必死なものだから、
(炎の中に、誰か知人の家でもあったのか)
と、的外れな同情を呼び、涙をこぼす者までいたという。
無念にも行動を掣肘されたトワイスは、ならばやむなしと近場の病院に協力したい旨を通達。病院側としても人手が必要となるのは目に見えていたし、世界的に有名なこの道の権威からの要請である。断れる筈がなかった。
このときトワイスが身を置いた病院。
死にかけの白野が搬送されたのが、正にこの場所なのである。
トワイスがちょっとした事で喧騒の中心から外れたことが、彼と彼女を引き合わせる、直接的な契機となった。
偶々白野を発見し、周囲に人気のないことを確認すると、その理由の詮索も放り投げ、トワイスは直ちに魔術を行使。
外科的な処置も平行して施すという、文字通り全能を傾けきることによって、今にも千切れ飛びそうな魂の緒を、どうにか繋ぎ合わせてみせた。
そう、魔術。
トワイス・ピースマンは魔術師であった。いや、より正確な物の言い方を期するなら、魔術使いという単語こそが相応しかろう。
彼がいつ、どのようにして魔術と出会い、この手ほどきを受けたかに関しては、話があまりに冗長になる上、物語の本筋を逸脱すること甚だしいため、ここでは省く。
重要なのは、彼が協会に認知されていない、所謂モグリの魔術使いであったこと。
かつ、彼の魔術回路が「治癒」に特化した性質だったこと、この二点である。
先に述べた、
―――医師達がここで白野を見捨てたればこそ、結果的に彼女の生還の道が拓けた
という一節は、正にここに由縁がある。
魔術とは原則、秘するもの。只人の目に触れぬよう、細心の注意を払うべし。
この掟からは、さしものトワイスとて逃れられない。むしろモグリである以上、並の魔術師よりも警戒して当然だった。
であるが以上、医師達が白野の救命を諦めてくれねば彼らの目があるために、トワイスは魔術の行使が出来ず、純粋な外科技能を以って当たる以外に術がなく。
また、魔術という反則手を用いねば、白野の生存確率は紙のように薄くなり、よしんば生き残ったとしても、五感の半分以上を喪失したままベッドの上に横たわり、膨大な時間を無為に過ごすだけだったろう。
(世の中、何が幸いするかわからぬものだ)
後々、トワイスの口から一部始終を伝えられた際、白野は妙な感心をしたらしい。
まったく、白野にとってトワイスは、幾ら感謝してもし足りない、徹頭徹尾恩人と呼ぶべき存在に他ならなかった。
白野の容態が安定―――少なくとも、ちょっと目を離した隙に臨終しているおそれのない状態にまで復帰―――すると、トワイスは即座に彼女をあの病院から連れ出した。
(これは所詮、応急処置程度だ)
白野にはまだまだ医学と魔術を織り交ぜた治療が不可欠であり、しかしそれを行うには、ここは人の目が多すぎた。
(急がねばならない。
そうでなくとも所詮外様の協力者に過ぎぬトワイスにとって、病院に留まり続ける限り立場の弱さはどうにもならない。担当医だのなんだのと、煩雑な命令系統が邪魔をして白野とは引き離されざるを得なくなろう。
(それでは、困る)
白野をして、ただ生かすのではなく再び起てるようにするのはトワイスにとって既に決定事項であった。異議を差し挟む余地のない、何を措いても果たすべき義務とさえ
それには先ず、前提として、彼女の治療に於ける権限を己一手に掌握する必要があろう。
他の医師の介在など、無用どころか魔術を使えなくなる分トワイスにとって有害であり、除去の対象に他ならなかった。
結局、白野を病院からかっぱらってしまうのが一番よい。それも、後腐れのないやり方で、だ。
「つまりは必要な事をするために、必要な手を、必要に応じて、必要なだけ打ったまでだ」
とでも本人は弁じ立てるのだろうが、その意気込みは一戦災孤児にかける限度を超えており、いっそ自分の心臓でも取り戻そうとするかのような鬼気迫った息遣いが感じられる。
脅し、賺し、金を渡し。世間に公表されれば立つ瀬を失うリスクを幾つも犯し、硬軟織り交ぜ、正邪善悪のべつなく、ありとあらゆる手段を用い、トワイスは白野を自家薬籠中のものとすべく奔走した。
一度見捨てた相手、という負い目も或いは効いていたのかもしれない。トワイスの挙は成功した。
そこから更に、一年間。
絶えず戦場を求めて世界中を駆けずり回っているようなこの男が、一年もの長きに渡り平和な街に留まり続け、しかもやることといえば縁もゆかりもない一人の少女の看護である。
異常といえた。
トワイスが戦災孤児に対して、こういう態度で臨んだことはかつてない。必要とあらば足でも腕でも切断するし、社会復帰を遂げるまで付き添ってやるのも稀である。彼の仕事は命を拾い上げるところまでで、後は大抵、支援団体の知人に押し付けてしまうのが常だった。
白野がただひとりの例外なのだ。先の正体不明な義務感といい、鬼気迫るほどの熱意といい、いちいちトワイスらしからぬこれら行為の裏側には、どうにも彼を蝕む病が変形して発動していたとしか思えない。後の彼の発言が、この推測を裏付けている。
ともあれ、このまめまめしさはどうであろう。歯を食いしばり、脂汗を額に滲ませ、いっそ自分の命を流し込むような勢いで回路を廻し、二目と見られなかった顔を元の通りに復元してやり。
容態の急変を警戒し、睡眠時間をなげうってまで少女の隣に控え続け。
膿が溢れ、包帯の隙間からこぼれ落ち、鼻をつく饐えた臭いが充満しても何ら苦にした様子を見せず、決して傍から離れずに。
それこそ排泄物の世話に至るまで、トワイスは淡々とやってのけた。
(感謝しかない)
これを恩に感じぬようでは、そいつは犬にさえも劣るだろう。
死んだ細胞と新しい細胞の入れ替わり。
それに伴う言語を絶した激痛と、夢と現の境目さえも朧になるほど混濁しきった意識の中で、確かに白野はトワイスの存在を感じていた。感じ、最大の拠り所としていた。
だから、
―――なぜ、わたしにこうまでしてくれるの。
この問いを発するのは、中々に勇気の要ることだった。
新調した声帯で、一番に出した言葉がこれである。血痰が混じり、ひどくかすれた聞くに堪えない音だったが、どうやらトワイスには伝わったらしい。暫く考え込んだあと、
「僕もそれを知りたい」
短く、そう答えるのみであった。
現在に至っても、その意味するところは分からない。
ただ、嘘や誤魔化しの類ではないと確信している。普段は古木が喋りでもしているかのように色褪せて、熱の伴わぬその声が、このときばかりは異様な重みを持っていたから。
白野はすんなりと彼の言葉を受け入れて、以降、二度と問おうとしなかった。
第一、理由が何であれ、トワイスが白野の恩人である事実は変化しない。
―――ありがとう。本当なら、こっちを先に言うべきだった。
と、丁重に謝意を述べた。
そのときにはもう、トワイスは例の水のような無表情を取り戻していた。
(まったく、妙な人だった)
伊達にこの体と長らく付き合ってはいないのだ。今日は疼きが酷そうだと察したならば、いつもより早めに家を出て、途中休憩を挟んでも充分間に合うように調整する程度の芸当は、お茶の子さいさいなのである。
(前提を嘆いてもどうにもならない。受け入れ、その上で為し得る最善を求めなくては)
ただ、それにしても今朝は家を出るのが早過ぎた。二年B組の教室にはまだ人影もまばらである。
強いてやるべき事もないので、机に頬の片側をつけ、腕を思い切って前の方へと伸ばしてしまい、脱力しきった姿勢になる。
ぐでー、という効果音が聞こえてきそうな格好だった。
授業中に眠らないよう、睡魔を先取りしておこうという企みである。
なあに、教室に生徒が満ちてくれば、教師が訪れる直前にでも誰か起こしてくれるだろう。その程度の親交は結んでいると、白野は自信を持っていた。不安要素は皆無である。
(………)
が、どういうわけか頭の隅の暗闇に、最早過去形でしか語ることの出来なくなった男の顔がチラついてしまって眠れない。
(……今朝方に見た、あの旧い夢といい)
なにやら妙に過去からの訪問を受ける日であった。この分だと昼飯時には、両親の幽霊が同席するのかもしれない。
(それはちょっと嬉しいかな、うん)
十年前の大火事で、白野の生家は灰になってしまっている。
両親の遺体も、家族で撮った写真の数々も、全ては塵だ。白野には自分を産み、育ててくれた人の顔が、もう碌に思い出せなくなっていた。
残っているのは茫漠とした雰囲気だけだ。輪郭も曖昧な、色の着いた気体ばかりが記憶の底で蠢いているに過ぎない。
だから、仮に幽霊でも化けて出てくれたのならば。
今度こそ自分はその姿を脳裏に焼き付け、二度と忘れぬようにするだろう―――。
(……むぅ)
やはり、過去に意識が引き摺られている。それを自覚し、白野は微かに眉を顰めた。
(忘れるな、とでも言いたいのだろうか)
だとすれば余計なお世話である。言われるまでもなく、彼らを忘却の淵に追いやる気などさらさらない。
(その程度、あなたなら分かっている筈だろう。―――)
と、先刻から居座り続けるトワイスの影に呼び掛ける。
彼は何を言うでもなく、いつものような静けさで、白野を見詰めるだけだった。
実のところ、トワイス・ピースマンが岸波白野のために為したことは、単になんだかよく分からない生焼け状態の肉塊を、膨大なカネと魔力と労力を費やしてヒトの形に戻しただけではないのである。
信じ難いことに、彼は白野の生活と、社会的身分の手当てまでやってのけた。書類上、白野の身元引受人は父方の遠縁ということになっており、彼からの仕送りまで受けている身なのだが、奇妙なことに白野はこの人物と直接会った
(本当に実在するのか、この人物)
むしろトワイスが周旋し、居もしない人物をでっち上げたと考えた方が自然だろう。しかもその工作が余程入念に行われたのか、役所等の公共機関が不審を覚え、白野の近辺を調査するといった事態も、今のところ起きていない。
トワイスは白野に、魔術の薫陶まで授けた。
白野の意識が戻ってからも治癒の魔術は必須であったし、それにばかり才能を尖らせて、記憶の改竄どころか暗示のひとつも使えないのがトワイス・ピースマンという魔術使いである以上、いっそのこと深く関わらせてしまうのは口止めの為にも間違いではない。
が、トワイスは聖杯戦争のことまで話した。
問われる以前に、自分から進んで話した。
それも薄く、外殻を羽毛でなぞる程度に、である。この冬木の地では過去何度かに渡ってある大規模な魔術儀式が行われており、それがあの大火に関わっているやもしれない。だが僕は生憎と、正規の魔術師ではないからね、詳しいことは分からない。―――
(なんということだ)
こんなことを聞かされて、岸波白野が黙っていられる道理がない。
彼女は熱烈に魔術の教授を請うた。のみならず、「過去何度かに渡って」というフレーズに着目し、歩けるようになるや否や図書館へ直行。冬木やその近辺の市町村史を片っ端から読み破り、古文書や口伝、碑石の類に至るまで、過去の記録を徹底的に洗い出しにかかったのである。
(お陰で随分と、古文や漢文に強くなってしまった)
努力―――というより執念は、果たして実を結んだといっていい。
(……おおよそ六十年周期で、怪異や不可解な事件・事故が激増している)
数年の時間を要したものの、白野はそれを突き止めた。
(ひょっとするとこれこそが、件の『大規模な魔術儀式』とやらが行われる間隔なのではなかろうか)
更に史料を掻き集めるにつれ、予感は確信へと変わる。
文章を読み込むことで浮かび挙がってくる当時の景況の不穏さが、丁度大火災前の冬木のそれとそっくりなのである。
(間違いない)
興奮に頬を紅潮させ、折りしも冬木を再訪していたトワイスに、「調査結果」を伝えに行った。
補足しておくと、この頃のトワイスはもう既に白野に付きっきりの生活を切り上げ、本来のライフワークに立ち戻り、世界を舞台に精力的に活動していた。
それでも年に一度や二度は冬木を訪れ、白野の経過を見舞うことを忘れなかったあたり、この男がどれだけ彼女に入れ込んでいたかを示している。
「驚いたな。よくここまで調べたものだ」
まずはそのように功を労い、しかしその後の台詞が、白野にとって意外であった。
「実は僕にとってもこの件はちょっと気懸かりでね。仕事の合間合間に、少し人を使って探ってみたんだ」
と言って開帳した情報の数々は、驚くほど白野の調べた内容と一致しており、曖昧だった部分を補強するものだった。儀式の名は聖杯戦争、大体六十年に一度のペースで、この冬木の地で開かれる。―――
(なんと)
これでは別に自分から調べたりせずとも、トワイスを待っていればそれでよかったのではあるまいか、私の努力は徒労だったか―――などと、岸波白野は考えない。
それよりも渡された資料を穴の開くほど凝視するのに忙しかった。名と周期は知れたものの、未だ聖杯戦争の全貌は見通せず、殆どが霧に隠れた状態である。その霧を晴らす為の取っ掛かりでもなかろうか、と期待を込めて何度も何度も読み返し、ついには本当に手がかりの欠片を見出してしまうのだから、思う一念岩をも通すという格言もあながち笑い飛ばせない。
こんなことが、以降何年にも渡って繰り返された。
トワイスの持ってきた情報から次の調査の方向性を見出して、全霊で以ってそれにあたり、自分なりの結論を得ると、
(つ、次こそは)
次こそはこの男の掴んでいない事実を見付け、あっと言わせてみせてやる―――と。
可憐な意気込みと共に、再びトワイスの寄越した資料に没頭する白野であったが―――今にして考えてみると、どうもトワイスは最初から知っていたとしか思えない。
むろん、全てを、である。
儀式の名が聖杯戦争であることも、それが凡そ六十年周期で開かれることも、その内容が聖杯なる願望機を巡っての、七人の魔術師と七騎のサーヴァントによる血で血を洗う殺し合いであることも、このサーヴァントとやらの正体が、過去に存在した英霊をそれぞれのクラスに当て嵌めて召喚したものであることも、その他細かいルールも含めて、何もかも。
知っていて、トワイスは情報を小出しにした。
白野にとって既知の情報群の中に、ほんの僅かな未知への足がかりとなる断片を紛れ込ませ、彼女の作業と情熱が途切れぬように計らった。恰も釣竿を以って馬の眼前に人参を垂らすかの如く。
白野が冬木大火災の真相解明に懸ける思いの丈、尋常ならざるその深さを理解して、必ず喰い付いてくるに違いないと期待した。事実として、そうなった。
(真実を求め、不便の多いこの体に鞭打って、必死に駆け回る私の姿。あなたが見たかったのはそれだろう)
トワイスにはそういう、人の奮起を見て喜ぶような、一種
(まぁ、お陰で随分と鍛えられはしたけれど)
主に情報の収集とその分析、加えて諜報員の雇い方や効率的な使い方など、色々と。
誰かが「真実」を与えてくれるのを、雛鳥よろしく口を開けて待っているだけでは一生身につかない技術であろう。
(けど、やっぱり釈然としないものがある)
だから、次に逢った暁には。
趣味の悪い真似をしてくれたなこのやろー、とでも言いながら、正拳突きのひとつやふたつ、かましてやる心算だったのだ。
その予定が、彼の訃報に接するに及んで、いっぺんにふいになってしまった。白野の怒りは不完全燃焼となり、毒に転じて、大いに彼女を苦しめた。
(……難民キャンプで支援活動中に攻撃に巻き込まれ、逝去とはね。覚悟は、していたつもりだったけど)
白野とて、トワイス・ピースマンがベッドの上で安楽に死ねるような、そんな男ではないとかねがね承知してはいた。
(命を後生大事に抱えるよりも、烈しく燃焼させることを、
それこそが岸波白野の見透した、トワイス・ピースマンという男の本質に他ならず。
彼の纏う空虚さの奥、当人さえも潜行不能な深奥には、梃子でも動かぬ巨大な情念―――人間、斯くあるべしという美観―――が横たわっていることを、彼女だけは見抜いていた。
だから、白野は一度たりとて、去りゆくトワイスの背中に向かい、
―――行かないで。
と、言ったことはない。
志を抱く男に対して平凡に生きろと強請るのは、鷲を鳥籠で飼おうとするようなものだろう。「鷲」を思ってしたことが、却って「鷲」を衰弱させ、その美しさを大いに損なう結果となる。
ゆえに、白野は止めなかった。トワイスは心の赴くまま、衝動の命ずるままに駆け抜け、果てた。
(本望だろう)
事実、その通りである。
白野の与り知らぬところだが、トワイスは最期、今際の際に、自らの原風景に立ち返り、己に巣食った「病」の根源を知った。
同時に、自分が何故あれほど岸波白野に執着したのか、その疑問も氷解した。
彼にとって理想の人間像。それを正しく体現した少女を、自覚せぬままこの手で支え、導き、未来に向かって撃ち出した。
―――その種子が、やがて。
無辺の荒土に大輪の花を咲かせるだろうと、瞼の裏に映し出された、あまりにも美しい夢の絵図を見つめながら。
トワイスはその、短くも濃密な生を終えたのだった。
悔いはない。
決して、彼に悔いはなかった。
(けれど、わたしは。―――ああ、くそ、さみしいなあ、やっぱり。置いて逝かれるのは辛い。何度経験しても慣れないよ)
さりとて、残された者の悲しみばかりはどうにもならない。白野は額をぐりぐりと、机の天板に押し付けた。木板に錐でもって穴を穿つ動作に似ていた。
なにしろ、トワイスの死からまだ半年足らずである。傷は生々しく、迂闊に触れるとすぐさま血を噴き出した。
しかも、彼を死に至らしめた「攻撃」が、過激派の無法者によるテロではなく、政府側の空爆による誤爆だと知れるにつれて、世論が蜂の巣を突いたように騒ぎ出したからたまらない。
存命時のトワイスは、政治に利用されることを厭い、努めてこれを避けてきたが、その死は強力な政治的電磁性を帯びて方々に利用される運びとなった。
人間世界の皮肉であろう。
これに対し、白野はどういう感想も漏らしていない。
ただ、自室に故人の写真を飾り、毎朝感謝と冥福の祈りを捧げるのみである。
結局放課後に至るまで、過去の影らは岸波白野に付き纏い続けた。
普段ならばなんのこともない、極めて些細な事象でも、彼女のあたまに白光を奔らせ旧い記憶を想起せしめるのである。当然、疲労は並ではない。
にも拘らず痩せ我慢を張り、周囲に異変を悟らせないあたり、白野の白野たる由縁だろう。代わりに、家に帰るや、即刻布団へ直行した。何をする気力も湧かなかった。
―――この奇妙な現象の原因が判るのは、明くる日の朝。彼女の手に、令呪の兆しが浮かび上がってからである。