落ちていく、落ちていく。
空の底。海の底。
耳元でざらつくのは、仮初めの青。
昇っていく、昇っていく。
見上げた水面から光が透ける。
その淡い水色が不意に陰った。
浮かんでいたのは一つの人影。それはとてもよく見知った人物の。
必死に手を伸ばしたけれど、その身体は少しずつ泡になっていく。
待て、待ってくれ、どうか───
刹那、耳元でかたかたと何かが動く音がした。
かねてから。
近くを通る度に、とても既視感を覚える建物がある。
足を止めたのは自分の身の丈よりずっと大きい、鉄製の門と塀に囲まれた教会だ。
道端に改めて見かけた標識にあった名前は、確か"言峰教会"だった。浮かんでくるのはあの意地悪い笑みをたたえた皮肉製造機の神父の顔。もしかしたら、凛や慎二のように記憶はなくともここにはいるかもしれない。いや、あの神父はむしろ教会にいる方が少なかったような…ともあれ、通り過ぎる度にそんなことばかりを考えていた。中がどうなっているか、気になるか気にならないかで言えばそれは勿論気になるというもので。
おもむろに門へ手をかけてみると、ぎぃと軋むような音がして開いてしまった。施錠がされていない、だと?…わたしのせいじゃない。教会の人が不用心なのだ。
そう言い聞かせながら、恐る恐る門の内側を覗きこもうとしたその時だった。
「邪魔だぞ、そこな雑種。いつまでそうして道を塞いでいる気だ?」
吐き捨てるような、不遜な男の声色。足音もなかったのにまさか後ろに誰かがいるとは思っていなかったもので、必然的に肩が跳ねた。
誰だ、その言い方は何様なんだ、なんて考える余裕は吹き飛び、道を、とりあえず道を開けなければ、と妙に焦った思考が先走り、手をかけていた門を大きく押し開けさせた。ぎぃ、と大きく音が鳴る。
「ほう、我の手を煩わせぬ気概はあったか。ならば先の無礼は不問にしてやる。王の慈悲に咽ぶが良い、雑種」
少しだけ機嫌が良くなったその声の主からは変わらず圧を感じた。お陰で岸波白野は顔を見ることさえ叶わず、下を向きながら目の前を通過していく黒いズボンと黒い靴を見て息を呑むしかできなかった。
この男の気配は普通の人間のそれではない。脳が警鐘を鳴らしている。強大な敵と対峙した時のような、抗うことすら許されない絶対的な存在に出会った時のような。それは一つ間違えば首を刎ねられかねない、まさしく王の───
「ほう…借り物の器か」
───え?
去り際に零された一言に顔を上げた。そして男の後ろ姿を見送る。金色の髪に黒いジャケット。それだけしか分からない。分からないが、あの男は、この一瞬で"岸波白野"の何を読み取った?
不意に背筋が寒気立つ。
いつの間にか握り込んでいた手が震えている。ざり、と砂粒を踏み込んだ足は既に数歩後退っていた。このまま、帰ろう。中に入るのはやめた方がいい。あの男──おそらくサーヴァント──とはきっと関わってはいけない。
心の中で頷く。そうして踵を返すと
「おや、入っていかないのかね?」
背後に立っていたのはまさしく、月の聖杯戦争で監督役をしていた言峰綺礼であった。
耳に慣れた低音と悪人っぽい笑み。黒装束、首からさがるクロス。先ほどの金髪の男よりもずっと見知った顔に、知らず知らずの内に安堵していた。この世界において彼がどういう存在かも分からないが、ついぞ恐怖体験をしたばかりなせいか知った顔だというだけで安心出来た。そうして、少なくとも月では味方ではないが敵でもなかったので、戦いでない限りはひとまず信用出来るという結論まで至る。
問いには頷いておいた。あの金髪の男と遭遇したくない。それに加えて言峰神父に会ったことで目的は完遂している。
「そうか。だが教会はいつでも君を歓迎しよう。主はどんな人間にも慈悲を与えてくださる」
胡散臭い。その笑顔で言われると堪らなく胡散臭い。…とはまさか本人を前に言えるわけもなく、もう一度頷いておいて、一礼してから大人しくその場を立ち去った。
教会と聖杯戦争。
この時代の聖杯戦争の監督役こそ、あのNPCの言峰神父のモデルなのではないだろうか。だとするなら、この聖杯戦争は先程出会った本物の言峰神父によってちゃんと管理されているものである可能性が高い。いくらバトルロワイアル形式だとしても、無差別に人が巻き込まれるような無法地帯になることはないはずだ。
唇を引き結ぶ。
いや、まだそうだと決まったわけではない。第一に、月の聖杯戦争とはもっと大きくルールが違うのかもしれない。勝利者の一人を除いて、マスター全員の死亡を確認する必要があるだとか、そういうことがない限り凛達は助かる可能性がある。
岸波白野に何が出来るわけではないけれど、まだ圧倒的に情報が足りないことは確かだ。拾えることなら、少しずつ集めていきたいところだけれど。何せ岸波白野には戦える力がないのだ。それに、この命は絶対に投げ出すことが出来ない。今までも投げ出していたつもりはないが、それにしても今まで以上に無茶は出来ない。この身体は───
「うぎゃっ!?」
「!?」
すると、ばらけていた思考が災いして誰かにぶつかった。相手の肩が胸に直撃して、思わず後ろに倒れこむ。大きく尻餅をついてから原因を探るべく顔を上げると、ぼさぼさの髪と黒縁メガネが見えた。
「あわわわわ…!やってしまった、完全にやっちまったッス…!これもしかしなくとも慰謝料請求されるヤツッスよね!?」
大慌てで頭を抱える、その女性。岸波白野より少し背の低い彼女はふくよかな身体つきをしていた。だからぶつかったのに此方が尻餅をついたのか、なんてつい失礼なことを考えてしまう。
でも何故か、不思議と懐かしい感覚を覚える。まるで欠けてしまった何かを、目の当たりにしているかのような。
そう思ってまじまじと見つめていれば、こちらを見てギクリとした彼女が顔を真っ青にする。そして
「な、泣いっ!?…ええとその、ごめんなさーーーーーーい!!」
そんな事を叫んで、止める間もなくあっという間に走り去ってしまった。背中を見送りながら、どうしたんだろう、と首を傾げていると、頬に滑る何かに気付いた。
触ったそこは、涙で濡れていた。