紫の光が消えていく。
自分を救った男と生きたいというただの一人の女の願いと共に、宙空へと霧散する。
その女の願いを叶えるために、男は一人立ち向かい、散っていった。キャスター陣営の敗北、そして
「セイバー!無事か!」
「ええ…すみません、士郎。それから、凛とアーチャー。あなた方には感謝してもしきれない」
「ならその分、これから衛宮くんと一緒に働いてちょうだい。それでチャラにしてあげる」
キャスターに囚われていたセイバーの救出を果たした。凛が肉弾戦でキャスターを弱らせ、アーチャーが仕留めるという作戦が功を奏した形である。士郎は投影の行使によって痛めていた魔力回路の調整をアーチャーから受けて以来、秘密裏に特訓していた投影魔術で、マスターの葛木を足止めをしていた。葛木が脅威たり得るのはキャスターによる筋力の強化があるからだと判断し、先にキャスターを倒す、という算段だったのだ。
これでいよいよ凛と士郎は今後共闘する義理はどこにもなくなったわけだが、二人とも協力関係を破棄するという考えはなかった。特に凛は私情を抜きにしても、士郎の魔術師としての成長を鑑みて共闘し続けた方がメリットが大きいと感じ始めていた。
しかしその心中に当然のごとく疑問を抱いたのは、アーチャーだった。
「衛宮士郎」
束の間の時間に、一滴、落とされた低い声音。その色がどうにも勝利を、セイバーの無事を喜ぶそれではなかったことで、空気が一瞬で冷え込んだ。
「お前は、ご大層な理想があると言っていたな。全ての人間が幸せになれるような世界を作るだとか、どうとか」
「…それがどうした」
「今のお前自身を見てみろ。私が言いたい事は、それで理解出来るだろう」
アーチャーの言葉に士郎は押し黙った。
「その未熟さでお前は何を語る?セイバーひとり救出も出来ない、凛と私の力を借りなければ何も出来ない。それが現実で、お前の限界だ。衛宮士郎」
「ちょっとアーチャー、」
「いいんだ遠坂。アーチャーの言う通り、まだ俺は一人で戦う事が出来ない。こうして遠坂達の手を借りなきゃ、何も出来ない。それが現実だよ。…けど」
俺の限界はお前が決める事じゃない。
そう告げた強い目。
その光にアーチャーは言いようのない黒い何かが渦巻くのを感じ、ため息をついた。しかしその次の瞬間、
「!、っ」
「───二回目だ。これで私は貴様を二度殺した」
干将・莫耶を投影して肉薄し、その首筋にピタリと刃を当てた。士郎が息を飲む。細く鋭い刃先には、たしかに殺気が込められていたからだ。セイバーも凛も、突然の出来事に動けずにいる。
一度目は、同じこの柳洞寺でキャスターに魔術によって攫われた時。そしてこれが二度目。一度目の時、アーチャーは何も言わなかった。その意味がようやく分かった。お前は生かされている、いつでも殺されてしまうような弱い存在なのだと、アーチャーは士郎に現実を突きつけていたのだ。
刃を引いて消し去ると、アーチャーは士郎から背を向ける。
「オレは、貴様が己の弱さに見合わぬ理想を抱く様が気に入らない。綺麗事ばかりで力を持たない、過ぎた理想を追いかける無様な姿が、どこまでも気に入らん。その理想も紛い物の癖をして、ただ美しいと思ったそれだけで志す愚直さもな」
「なんだと…!?」
「事実だ。貴様は何も分かっていない。何も見えていない。正義の味方というものの本質と、そういった存在がどういう末路を迎えるのかを」
その言葉に士郎は目を見開いた。
アーチャーは、知っているのだ。衛宮士郎の、衛宮切嗣の抱く理想の末路を。そしてそれは、アーチャー自身がその理想を追い求めた末に答えを得なければ口に出来ないことだ。
つまり彼は、士郎と同じ理想を抱いたその末に英霊になった人物───正義の味方という、具現。
急速に思考が巡り始める。胸中を見透かした言動、熟知していた魔術の特性、時折露見する衛宮士郎という人物に対する嫌悪と懐古の情。思えば、不自然なことが多すぎた。何故彼は出会い頭に正確に士郎の本質を引きずり出し、痛烈に皮肉を叩けたのか。キャスターのマスターを突き止め、最初にマスターを狙うといった段階で投影魔術の実践をしようと胸中で決めたことを、誰にも話していなかったというのに"まだ投影を使うな"と助言したのは、アーチャーだ。
ともすれば、つまり彼は、彼の本当の正体は。
「アーチャー、お前まさか」
「…流石、我ながら鈍いな。マスターであることを抜きにしても、凛はほぼ気付いていたようだが」
「っ、」
肩を竦める見慣れたその仕草に、凛が顔を背ける。それが答えだった。
「剣を取れ、衛宮士郎。貴様がその理想をどれだけ貫けるのか見せてみろ」
「アーチャー!?何を馬鹿な事を、」
「馬鹿なこと?人生全てを賭けて叶えようとする理想への覚悟を測るのが馬鹿なことか?セイバー。私はその道を既に辿った。その上でこいつに問うているんだ」
セイバーが苦々しい顔で押し黙る。
「それにしたって、生身の人間がサーヴァントに勝てるわけないじゃない!」
「ではハンデをくれてやれば良いのだろう?」
そう言ってアーチャーの手のひらに投影されたのは───キャスターの宝具であった"
禍々しいナイフの姿を見て凛は目を見開いた。駄目。そう制止の声を上げる間もなく、アーチャーは刃を自らの腕に振り下ろした。
赤黒い光が周囲を覆い尽くす。その光に引きずられるようにして、凛の手の甲から令呪が消えた。契約の強制破棄。士郎とセイバーを苦しめたその行為を、アーチャーは自分と凛に施してしまったのだ。凛は何もなくなった自分の手の甲と、アーチャーを交互に見つめて、力なく膝を折った。その姿に、アーチャーは目を伏せて謝罪をする。
「…すまない、凛。私は君のマスターとしての手腕に呆れたわけでも、嫌気が差したわけでもない。それだけは分かってくれ」
そう呟くと、士郎の方に向き直った。
「アーチャークラスは通常、マスターとのパスがない状態でも、すぐに消滅はしない。単独行動出来る程度の魔力を保有している。保って明日明後日の身ならば、貴様には十分なハンデになるだろう」
「っ、」
「新都郊外の森にあるアインツベルン城…そこで決着をつけるとしよう」
「アインツベルン…って、あの化け物マスターの根城!?どうしてそんな場所、」
「簡単な話だ。バーサーカーが既に脱落しているからだよ」
***
「気分はいかがですか、イリヤ」
「…うん、少しは良いわ」
「結論から言うと、網膜、眼球の損傷が激しいので今後如何なる高等魔術を行使したとしても視力の回復は望めません。それこそ、魔法や奇跡が起きない限りは」
「命あっての物種ってヤツかしら。どうせそのうち慣れるわ。何にせよありがとう、ラニ。ごめんなさいね、遊びに来てくれたのに情けないところ見せて」
「気にしないでください。…アイリスフィールが僅かでもアトラスの技術を用いていなかったら、あなたは死んでいたでしょう」
アインツベルン城と呼ばれる屋敷、その一室のベッドに横たわる半ホムンクルスの少女、イリヤスフィールはかつて緋色をしていた双眸を閉じたまま、ベッドの傍らに立つ少女に礼を述べた。
ホムンクルスである褐色の少女──ラニ・Ⅷは、丸眼鏡を押し上げてイリヤを痛ましげに見つめると口を結んだ。
イリヤが聖杯戦争に参加したとの報らせを聞き、ラニは日本に渡った。
アインツベルンとアトラスは古くから交流があった。ホムンクルスの生成方法が異なるとはいえ、根源へ至るという目的の合致からお互いが許せうる限り技術の公開と譲渡を行っている仲なのである。利害関係であるために双方の仲が特別親しいというわけではないが、ラニとアイリスフィールに関してはその例外で、そしてその娘であるイリヤもまた例外であった。アイリスフィールの死後、セラとリーゼリットよりも先に交流をしていた唯一の人物なのである。
そんなラニの来日中、思わぬ来客がアインツベルン城を訪れた。
「英雄王ギルガメッシュ…その人物はイリヤから聖杯のみを取り出して一体何をするつもりなのでしょうか」
英雄王、ギルガメッシュ。
金髪に血の色の瞳をした世界最古の王がアインツベルンへ降り立った。彼は屋上の庭園にいたセラとリーゼリットを殺し、更にイリヤのバーサーカー…ヘラクレス、そしてその宝具"
城内が静まり返ったのを見計らったラニが広間で倒れているイリヤを発見し、聖杯が抜き取られている事に気付くと、傷周りの細胞が死滅する前に宝石を核として心臓を錬成、なんとか一命を取り留めて今に至る。
ラニが日本へ来ていなければ、もしアイリスフィールがアトラスの技術を一部でも取り入れて作られていなければ、イリヤは間違いなく死んでいただろう。
ラニの問いに首を振るイリヤは、顎を手に当てて考え込む。
「分からないわ。ただ、あいつは前回の聖杯戦争にもアーチャーの枠で参加していた。でも今回のアーチャー枠は凛のサーヴァントで既に埋まってるはずなのよ」
「だとすれば彼には何か明確な目的がある…そして聖杯が破壊された後も現界していられた事実から考えられる事は一つしかない」
「ええ。あいつは受肉してる。サーヴァントを受肉させるなんて芸当が出来るのは、聖杯だけ」
そこから必然的に導き出されるのは。
前回の聖杯戦争の勝利者はアーチャー、ギルガメッシュの陣営。マスターは遠坂時臣ではなく、彼を殺して成り代わった言峰綺礼。
聖杯の叶える願いがサーヴァントとマスターの二人分であるなら、一つがギルガメッシュの受肉だったのだろう。では叶えられたマスターの方の願いとは?きっとその一端が、冬木の大火災として街を焼いた事に違いはない。
そしてその火災は恐らく、イリヤの父である衛宮切嗣を壊したのだ。
白い手を強く握りしめる。
切嗣はアインツベルンを裏切ってなどいない事を、イリヤは信じていた。
自分の中に潜む聖杯が黒く深い恨みの言葉を囁きかけても、アハト翁やセラからどれだけ悪者にされようとも。そしてその信頼を、切嗣は守ってくれていた。
イリヤは知っていた。聖杯戦争が終わった後、アインツベルンの総本山まで聖杯に呪われた身体を引きずりながら、何度もイリヤを取り返しに来てくれた事を。アインツベルン史上最高のマスターは、魔術に関しての造詣が誰よりも深く、幼くとも使い魔を飛ばすことぐらい訳はなかった。それでも追い返される姿を黙って見ているしかなかったのだ。
切嗣がイリヤを連れて逃げる事になれば、衰弱し続ける身体に鞭を打ってアインツベルンを敵に回さなければならなくなる。きっと切嗣ならそれで構わないと言うかもしれない。イリヤもいつかそれで殺されたとしても構わないとさえ思えた。しかし過ったのは、セラの話に出てきた、切嗣の養子となった少年の事──衛宮士郎の事である。その少年まで連れて逃げる事は、出来ない。そしてこうも思った。
"わたしが自由にならなければ"。
切嗣は残りわずかな余生を、養子の少年と穏やかに暮らす事が出来るのではないかと。
そうしたら、いつの間にか城から出ようという考えはなくなっていた。
何があろうと切嗣の手を取らないというイリヤの決意は、何よりも切嗣を傷付けた事だろう。本当は沢山頭を撫でて欲しかった。抱き上げて欲しかった。名前を呼んで欲しかった。母親の分までずっと、そばにいて欲しかった。養子の少年が、士郎が羨ましかった。
けれどそれを全て押し殺し、イリヤは一人で城に残り続けた。拷問のような教育と洗脳を加えられ、最強のマスターとして成長する事を強制されながら。この苦痛は、切嗣の幸せな時間に変わる。看取る事はできないけれど、大切な父親の、優しすぎて弱虫な父親の、緩やかな最期の時間に変わる。そう言い聞かせて。
とても愚かしく、美しいほど真っ直ぐに、イリヤは衛宮切嗣という父を愛していたのだ。母親のアイリスフィールと同じように、ただ、幼い頃の自分を抱き上げてくれただけのその父親の事を。
彼は幸せに逝けただろうか。考えるのはその事だけだ。
「…イリヤ?まさかどこか不備が」
「あ…ううん、何でもないの。大丈夫よ。ちょっとぼーっとしてただけ」
「そうですか。それで、今後はどうするつもりなのですか?」
「そうね…」
ふと考え込む。サーヴァントが消え、アインツベルンにとってのアドバンテージでもあった──皮肉にもイリヤが聖杯戦争が終わった後も生き残る事が出来る救いとなったが──小聖杯が奪われた。視覚は使えない。魔力回路も新しい心臓に馴染むまでは時間がかかる。ラニもいるとはいえ、この状況で今後の聖杯戦争への介入はほぼ不可能だ。
それでも、出来ることはある。
「ラニ、お願いがあるの」
イリヤは顔を上げた。
「わたしを、シロウの家まで連れて行ってほしい」