還らざる宙の海   作:阿月

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運命の夜に出会う

夜も遅いので公衆電話で自宅に電話をし、ユリウスに迎えを頼んでから学校に向かった。

そうして辿り着いた日も暮れきった夜の学校は酷く不気味な雰囲気を醸し出していた。普段人気の多い場所なだけに、それが更に際立つようだ。

 

敷地内に入り、生徒用玄関が開いていたのでそこから入らせてもらう。…最初から鍵は開いていたし、この学校の生徒なのだからこれは不法侵入には当たらないはずだと言い聞かせる。

校舎内は当然静まり返っていて、当たり前だが生き物の気配がしない。省エネのために校舎に使われているリソースを落とし、NPC達が休眠状態になった時もこんな───

 

 

────────────!

 

 

再度走るノイズ。

…おかしい。やはり岸波白野には、まだ欠けている記憶がある。慎二達と別れる時に感じたこのノイズが、記憶にない記憶(データ)が存在している事を証明していた。

 

疑問と不穏を抱えたまま、2年C組の教室に入る。自分の机の中を漁れば、目的のプリントを見つけた。折れないようにファイルに入れてから鞄の中にしまう。これで補習は免れる。

用事は済んだのでそのまま教室を出る。その時、ふと何の気なしに隣の教室に目を向けた。

 

───2年B組。

 

かつて月の聖杯戦争で、自分とサーヴァントが自室として使っていた教室。月海原学園は穂群原学園をベースに作られているはずだから、どうしても似ているのは仕方のないことで。

見えない何かに引き寄せられるようにして、ドアに手をかける。認証コードは必要ない。そのドアはゆっくりと開いた。

 

 

………。

 

ごく普通の、机の並んだ教室。

しかし岸波白野にはあるはずのない、無造作に椅子と机の積み上がった、用意された一番初めの頃の自室の姿に映っていた。こまめに鍵を閉めたか確認するサーヴァントの声を脳内で再生しながら、後ろ手にドアを閉める。そうだ、彼は寝る時もいつも座りにくそうな椅子と机の間に腰を下ろして───

 

 

────────────!

 

 

三度目のノイズ。

今度は思い出せないのではなく、記憶が混在していた。自分がこの冬木で暮らしているあの部屋は、確かにサーヴァントと過ごした場所と同じ造りだと認識している。しかし、2年B組(このばしょ)で過ごした部屋ではない。聖杯戦争で使っていた自室は入った瞬間によぎった想像通り、無造作に積み上がった椅子と机ばかりで、そこに辛うじて何かインテリアをと、不釣り合いな金魚鉢やアロマポットやらを置いた、雑多な部屋ではなかったか。

 

また忘れている。/覚えていない。

 

何度目か分からない、自分が分からない浮ついた感覚。岸波白野は、何度忘れて、何度失って、何度取り戻せばいいのだろう。壁を背にして額を押さえる。

 

 

…ずっと考えていた可能性の一つが、何故かこの瞬間に脳裏に浮かびあがる。

この冬木の土地で"NPCの岸波白野"がこうして過去に存在している、記憶のない聖杯戦争参加者が存在しているこの世界は、あの熾天の檻(アンジェリカケージ)の中で打ち込んだ願いがある種反映された世界なのではないかという事。

 

 

月の勝利者となった岸波白野の願いとは、聖杯戦争の終結であり、結果的にムーンセル・オートマトンの地上との接触を断絶するものだった。

 

 

つまりこの世界は、ムーンセルが地球との接触を拒み、月の聖杯戦争が起こらなかったという事実を正しい人類史とした、新しく生まれた世界なのではないか。ムーンセルが過去も現在も未来も並列に処理するほどの演算機ならば、過去を書き換える事くらい容易なはずだ。

岸波白野の願いが、この状況を生み出したその形で叶えられているのだとしたら──元よりその願いが叶えられた世界に岸波白野が存在している事がまず理解出来ないのだが──願いが叶えられた代償として、もしかして何かを失っているのかもしれないと、そう思った。きっとその全ては間違いではないはずだ。

 

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!!」

「!」

 

 

 

その時、階段を駆け上がってくる足音と息遣いが聞こえた。自然と身体が強張り、口元に手を当てて気配を押し殺す。不規則で荒々しいそれは、まるで何かから逃げているような───そしてその音が岸波白野のいる教室の廊下に差し掛かった瞬間だった。

 

 

 

「…悪ぃが、運がなかったな」

 

 

 

地の底を這うような冷めた低い声。

鈍い呻き声と倒れる音。

そして充満する、血の匂い────

 

 

ぞくりと肌が粟立つ。そこにあったのは紛れもない死。壁一枚隔てた後ろにある/いるのは、逃れ得ない圧倒的な死を運ぶ"何か"だ。そして誰かが、その"何か"によって死んだ。

この殺気と気配は、はっきりと身に覚えがある。月の聖杯戦争の五回戦、姿の見えないアサシンにアリーナで襲われたあの時の感覚によく似ている。だとすれば背後にいるのは恐らくサーヴァント…という事は───この冬木ではまだ聖杯戦争が行われている?

 

図書室でのレオの説明を思い出す。冬木の聖杯戦争は七騎のサーヴァントで行うバトルロワイアル。となると当然、戦闘区域は市街地だろうと冬木市の全てが該当する。

では万が一、不本意であろうとその戦闘を目撃してしまった一般人はどうなる?───答えはたった今、身を以て知った。

身体をコンクリート造りの壁に押し付け、必死に息を殺しながら、その脅威が遠ざかるのを待つ。凍りつきそうなほど冷たい汗がじわりと背中に染みていく。アーチャーがいないこの世界で、岸波白野には彼らと戦う力などはない。赤子の手を捻るより簡単に命を摘み取られてしまう事だろう。

 

 

 

「…このザマで英雄とはお笑い種だぜ。ったく、嫌な仕事ばかりさせやがるマスターだ」

 

 

 

苛立ちを含んだ言葉を最後に、その気配は掻き消えた。

 

次いで聞こえたのは足音と、呆然とした凛の声だった。どうしてこんなところに凛が──?そう思っていれば、廊下から強く赤い光が漏れる。それが収まると、しばらくして二回に分けて立ち去る足音がした。

ドアのガラス戸から外を窺うと、凛も死体も、あれだけ強く匂った血の跡すらも何も残っていなかった。

 

脅威はどうやら消え去ったらしい。身体中の緊張が解けて、全身が脱力しかかったその時だった。

 

 

 

 

チャキリ

 

 

 

 

神経が焼き切られそうなほど、間近に当てられた新たな強い殺気。そして刃渡りの短い白い剣が、眉間を貫くまであと数ミリという所で止められていた。

 

どくりと耳元で心臓が躍動する音が聞こえる。息を飲めば、からからに渇いた喉が細く甲高い音を立てた。目の前の現実に、瞬きが出来ない。

刃は近すぎて焦点が合わないが、剣の持ち手の部分は辛うじて見えた。中国の陰陽の刻印。随分と見慣れたすぎたそれを持つ指、手、腕、肩と伝って視線を巡らせていけば、予想通りの人物が、そこに立っていた。

 

褐色の肌、白銀の髪、赤い礼装。

見間違えるはずがない。

 

 

 

 

────アーチャー。

 

 

 

 

かつて岸波白野が誰よりも信頼を寄せ、全てを預けた無銘の英雄が、そこにいた。

 

辛うじて音にしたその名前に、目の前のサーヴァントはピクリと眉を動かす。

 

 

 

「…この得物を前にしてクラスを言い当てるとは、どんな魔術を使った?貴様もマスター候補者か?」

 

 

 

鼓膜を震わせた低音は、かつてないほどの冷めた鋭さを持って身体を突き刺した。依然として向けられている剣…確か、干将と莫耶と言っていたか。それを持つ手も、心なしか強くなっている。

 

硬質で冷静な灰色の目と視線がかち合う。永遠のような一瞬。だがしかし、全てを理解するにはそれだけで充分だった。

ぎりぎりと肺がねじれて呼吸が出来なくなるような閉塞感。首の後ろをガツガツと削り取られていくような、悲鳴を上げてしまいたくなるような感覚。まだ心臓の音は耳元で五月蝿く鳴っている。たとえ記憶になくても、何故か身体が覚えている。ああ、これはきっと───忘れられた痛みだ。

 

 

それでも目を逸らすことなく見つめていれば、先に視線を切ったのは相手の方だった。不意にどこか遠くを見つめたかと思うと、剣を下ろして虚空へと消し去る。もう一度こちらを向いて、

 

 

 

「……次はないぞ。名も知らん魔術師(ウィザード)

 

 

 

そう吐き捨てると光の靄に撒かれるようにして姿を消した。霊体化したのだろう。気配がどこにあるのかももう分からない。

今度こそ緊張の糸が切れて、ずるずるとその場に座り込む。立てた膝に顔を埋めれば、肩が震えた。

 

最初から分かっていたのだ。レオ達が月での記憶を持たないと知った時点で、もしも奇跡的にあの英霊と再会出来たとして、彼が岸波白野という存在を覚えていない可能性が高い事。聖杯戦争が無かったことになるのなら、共に戦って勝ち得たその絆や記憶が、全て無に帰されるだろう事も。

苦しみと切なさから、心がじくじくと痛みを灯す。けれどこれも岸波白野が願った世界を叶えたその代償なのであるのなら、それは受け入れなければならない痛みだ。目を閉じて唇を噛み締めて堪える。

 

 

しかし人間というものは頭で理解は出来ていても、こころが納得出来ないものくらいあるのだ。

 

 

その後、自分がどんな様子で家まで帰ってきたのかは覚えていない。けれど何も知らずバイクで迎えに来てくれたユリウスが、黙りきりだった自分の頭をぎこちなく撫でてくれた事だけは、なんとなく覚えていた。

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