還らざる宙の海   作:阿月

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檻の中と暗殺者

 

耳元で気泡が、ごぼりと音を立てた。

 

水底。全てが0と1に還元されていく、果てしない電子の海。自分が分解されていく。少しずつ、少しずつ身体が水のような膨大な情報に攫われて消えていく。

そして岸波白野という存在が消えてしまわないうちにと、急いで願いを打ち込んだ。たった一つの、一番大切な願いだけを。

そして消滅の時を、再び記録の波に委ねて待つべく目を伏せた。

 

 

 

「やれやれ、話が違うな。…こんな事なら私が来る必要はなかったか」

 

 

 

相棒の声。

岸波白野の消滅を遅らせようと、いつの間にかムーンセルの中に侵入してきていたのだ。薄青の光の中に映り込む見慣れた鈍い赤。

 

 

 

「マスターが消えればこの身もじきに消える。どうせなら最後まで手を貸そうと思ったのだが、要らぬ気遣いだったらしい。このまま大人しく君を見送る事にするよ」

 

 

 

穏やかに笑うアーチャーに頷く。

 

ふと、ムーンセルに接続された意識が回りだす。そうして見つけ出したのは、彼が英霊になるまでの人生の全て。既に摩耗したと言っていた彼の、その全てが記された彼という存在の、文章化された記録。

 

 

ああ、そうだったのか。

本当の、彼の名前は─────

 

 

 

 

 

 

 

彼の、名前は?

 

 

 

「!?、おい待て、いきなり身体を起こすな!」

 

 

 

勢い良く跳ね起きると、何故か驚いた顔のユリウスが部屋にいた。

それだけ認識したかと思うと、不意にぐわんと世界が揺れる。やれやれとため息をつく音がして、背中を支えられながらまたベッドへと寝かされた。

 

…そういえば、なんだか身体が怠いような。

 

 

 

「そら見たことか…熱があるんだ、大人しく寝ていろ。欠席の連絡はレオが入れておくと言っていた」

 

 

 

な、なんだって?

 

今日はあの教室大破事件から一夜明けたその翌日。壁掛けの時計を見ると、既に登校時間を過ぎていた。思わず絶句する。

岸波白野の額に問答無用で熱を冷ます例のシートを貼り付けたユリウスは、午前中いっぱいは看病をしてくれるらしい。汗で首筋に張り付いた鬱陶しい髪を退けて、丁寧に胸元まで布団を掛け直してくれた。

 

 

 

「最近のお前は疲れていると思っていた。休むには丁度いい機会だろう。食欲はあるか?」

 

 

 

首を横に振る。とりあえず喉が渇いている旨を伝えると、飲み物を取りに行ってくれた。

 

その間に天井を見ながら思い出すのは、さっきまで見ていたムーンセルでの記憶…を映した夢。確かにあれは熾天の檻の中の、月での最後の記憶で間違いない。ムーンセルに打ち込んだ願いも間違いなく岸波白野の望みそのものだった。

問題は目覚める最後の出来事だ。岸波白野はアーチャーの過去を情報の文字列として覗いた事があった、らしい。今の今まで忘れていたけれど。加えて言えば不躾に覗き見たにも関わらず、彼の根源の存在の名前すら忘れている。思い出せない。…いや、思い出したところで何が変わるわけではないが。

ノイズといい、この夢といい、欠けている記憶が多すぎる。さあ、どうやって取り戻したものだろう。

 

と、その時ドアが開いて、ユリウスが戻ってきた。目が合うと呆れたように肩をすくめられる。

 

 

 

「…変な顔をして、考え事か?普通の熱に知恵熱が加わっていよいよ下がらなくなるぞ。やめておけ。ほら、スポーツドリンクだ」

 

 

 

差し出されたペットボトルには長めのストローが挿さっており、寝たままでも飲めるように配慮されていた。念願の水分に礼を言って飲む。水分が沁みてズキズキする喉に、思わず顔をしかめた。

それでも満足するまで飲んでひと息をつけば、おもむろにユリウスが布団から出ていた手を握ってくれる。自分の体温よりずっとひんやりしていた。記憶の中で消える最後に握手をしたユリウスの手のひらよりも固くない。ユリウスを見ると、気恥ずかしそうに顔をそらす。

 

 

 

「レオが風邪を引くといつもこうしてやっていたんだ。離れたら寂しいとごねるもんでな」

 

 

 

───わたしはごねないぞ。

 

 

 

「だろうな。…余計な世話なら今すぐ離そう」

 

 

 

───そういうわけじゃないです。このままでいいです。

 

反射的に返せば、そうか、とだけ言ってまた少し手を握り直した。熱のせいで手汗も酷いだろうに、気にした様子もなくユリウスは手を繋ぎ続けてくれている。きっと岸波白野が熱に浮かされて眠るまで、そうしているつもりなのだろう。

目を閉じる。知らないはずの記憶が目蓋の裏に浮かんだ。

 

 

ベッドに横になった幼いレオの手を、ユリウスが優しい表情で握ってやっている。熱に浮かされ、うわごとで名前を呼ぶ小さな弟に、大丈夫だと言い聞かせてやりながら。

使用人が止めるのも聞かず、手を握ったままベッドに突っ伏して眠り、そのまま夜を過ごす。

目覚めた時には、すっかり良くなったレオが寝ぼけた笑顔でありがとうとおはようを言ってくれる。そんな弟の頭を優しく撫でるのだ。

 

 

…この世界でのユリウスはきっと暗殺者にはならなかった。

あの悲しい末路を辿る事なく、少しだけお金持ちな家の長男としてレオとごく普通の兄弟らしく暮らしてきて、ここにいる。それがどうしようもなく嬉しかった。違う世界の、自分の知っていたユリウスじゃなかったとしても。

もう一度目を開けて、ユリウスを見る。どうかしたのかと首を傾げる彼に口を開いた。

 

 

───ありがとう。

 

 

 

「…どういたしまして」

 

 

 

優しい声に今度こそ眠ろうと目を閉じる。考えなくてはならない事は、起きたまた後でにしよう。

そう身体の力をふっと抜けば、すぐに睡魔が訪れた。

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