神谷旭は既婚者である。
今さら改めて言うことでもないと思うし、つい先日の速水や十時たちとの会話でもそれはしっかりと認識してもらえていると思う。
ただしかし……そんな俺でも、例外はあるのだ。いや、例外という表現はきっと間違っている。
現に、今俺は目の前の女性を深く愛そうとしている。
ドンッと音を立てて壁に右手を付くと、俺はそのまま壁に背を預ける楓の目を覗き込んだ。
「……何度見ても、綺麗な目だ」
「………………」
誉め言葉なんて聞き慣れているくせに、楓は頬を朱に染めて顔を逸らした。それが少し気に入らず、左手を彼女の顎に添えて少々乱暴にこちらを向かせる。
真正面から、そして至近距離で向き合う俺と楓。楓の瞳は僅かだが涙に揺れていて、両腕で俺の体を押して距離を取ろうとしている。しかしその表情は嫌悪ではなく、俺を押し返す力も弱々しい。
「……期待してる?」
「そ、そんなこと……それに、私には夫が……んっ」
「だから何?」
楓の股下に膝を差し込み、そのまま彼女を持ち上げるようにグッと踵を上げると、彼女はビクリと体を震わせた。
「そ、それに、貴方にも奥さんが……」
「だから何? って言ってるじゃないか」
「あっ……や、やめ……!」
ユサユサと膝を揺する。先ほどまで距離を取ろうとしていた楓の腕は、今ではしがみつくように俺の服を強く握りしめていた。
「……ちゅっ」
「ぁん……!」
首筋に顔を寄せて襟元から覗く首筋に舌を這わせると、楓の口から甘い声が漏れた。
「俺は昨日までのアイツよりも、今目の前にいるお前が欲しい」
「……わ、私は……」
「……お前も、昨日までの旦那よりも、今の俺の虜にしてやるよ」
「………………」
コクリと小さく頷いた楓は、もう抵抗していなかった。
ならば、まずは彼女は自分のものだと示すために、その薄く儚い唇を奪い――。
「……はっ!? す、ストオオオォォォップ!」
「そこまでやれとは言ってなあああぁぁぁい!」
「は、はわわわっ……!?」
――しかし、突如と飛来してきたテレビのリモコンが俺のこめかみに直撃したことでそれは中断されることとなった。
「バッカじゃないの!? 普通人前であそこまでするっ!?」
「見なさい美優ちゃんを! 刺激が強すぎて目を回してるじゃない!」
「は、はわわわっ……!?」
並んで正座をする俺と楓の目の前で仁王立ちをする片桐さんと川島さん。そんな二人の後ろには、真っ赤になって目を回す三船さんの姿もあった。
「アンタらがやれって言ったんじゃないですか……」
いやまぁ確かに酔った勢いでやりすぎた感は否めないが、そもそも『俺様系鬼畜風に全力で楓に迫る』というお題を出したのは片桐さんだったはずなのだが。
さてさて、どうしてこんな状況に陥ったのかを説明するために、時間を四時間ぐらい前に遡ることにしよう。
「えっと、何かあったかしら……?」
「楓、○○テレビのプロデューサーさんからお中元に貰ったハムがあったぞ」
「えー、それ今度個人的な肴にしようとしてたのにー」
「どうせお前も飲むんだから変わらんだろ」
これはとあるオフの日の昼下がりのキッチンでの俺と楓の会話である。
というのも、楓と二人で一日オフを堪能していたところに、同じく一日オフの片桐さんから突然『今から遊びに行くわ! お酒持ってくからねー!』という連絡があったのだ。それだけでも唐突なのだが、何の因果か同じく一日オフの川島さんや三船さんも一緒だというのだから驚く暇も無かった。
真昼間から酒かよ……と個人的には若干遠慮したかったところだが、楓の方が乗り気になってしまったのでどうしようもない。仕方がないので、急いで酒の肴になりそうなものを準備している次第である。
「全く、いきなり『遊びに行くわよー!』って、
「まぁまぁ、いいじゃない。みんなでお酒を飲めるのはやっぱり楽しいわ」
「その『楽しい』って『みんなで』ってところじゃなくて『お酒を飲める』ってところだろ」
てへぺろっと可愛く舌を出す楓。それで全て許してしまうのだから、これも惚れた弱みの一つなのだろう。
とりあえず肴になりそうなものをいくらか見繕い、ただそれを出すだけっていうのも味気ないので何品か料理も作ることに。はぁ、折角午前中買い物に行って食料品を買い足してきたっていうのに……。
「それで旭君、お酒は早苗さんたちが持って来てくれるって言ってたけど、やっぱり私たちの方でもお酒は用意しておいた方がいいと思うの。だから……」
「わざわざ買いに行かなくてもいいぞ」
「えぇっ!?」
「そこまで驚かんでも……」
そもそも我が家においては酒を切らすということはほぼありえない。自慢するようなことでもないが、寧ろ肴よりもアルコールの方が確実にあるぐらいだ。
勿論、五人で飲めばすぐになくなってしまうぐらいの量ではあるが、片桐さんたちが持って来てくれるものを含めれば十分だろう。
「ほら、料理は俺が作っておいてやるから、楓は軽くリビングの片づけを……」
「ちゅっ」
「……一本だけな」
「わーい」
いやホント、我ながら甘いなぁ……色々な意味で。
ピンポーン
「ん? もう来たのか」
楓がアルコールの追加購入に行って十数分経った頃に呼び鈴が鳴った。壁に設置されたドアホンのモニターを覗き込むと、両手に袋を携えた片桐さんと川島さん、そしてその後ろには三船さんの姿もあった。オートロックのマンションなので、三人がいるのは一階のロビーである。
『もしもーし、楓ちゃーん、旭くーん』
『遊びに来てあげたわよー!』
「お早い到着ですね。今開けます」
ドアホンを操作し、ロビーの自動ドアを開けた。
しかし、まだ料理途中なんだが……まぁいいか。
数分の後、再び呼び鈴が鳴る。今度は部屋の前で直接鳴らされた呼び鈴だ。
「はーい」
聞こえていないだろうとは思いつつもそう返事をし、エプロンで濡れた手を拭いながら玄関に向かう。
一応覗き窓から外にいるのが川島さんたちだと確認してから、ドアを開けた。
「はぁい!」
「お邪魔しまーす!」
「す、すみません、突然押しかけてしまって……」
ニッコリ笑顔の川島さんと片桐さん、その後ろで申し訳なさそうな表情をしている三船さん、三人のご来訪である。
「いえいえ、ようこそ三人とも。今スリッパを……」
「「「………………」」」
「……なんですか?」
来客用のスリッパを用意していると、何故か三人から凝視されていることに気が付いた。
「別に旭君のことをどーこー思ってるわけじゃないだけど……なんかこう、エプロン姿の男の人に出迎えられるっていいわねっ!」
「わかるわっ! 別に旭君のことをどうこう思っているわけじゃないけど、このシチュエーション地味に憧れるのよねっ!」
枕詞みたいに人の事を地味にディスらないでもらいたい。
「ねっ、ねっ、美優ちゃんもそう思うわよね?」
「え、わ、私ですか……!? その……は、はい……」
川島さんに話を振られ、少々恥ずかしそうに頷く美優さん。何というか、年上なのに年下感が溢れていた。
いつまでも玄関で話しているのもアレなので、とりあえず上がってもらうことに。
「あれ? そういえば楓ちゃんは?」
「追加で酒を買いに行きました」
「あら、沢山買ってきたから別に良かったのに」
そうい言いつつ手にした袋を掲げてみせる川島さんと片桐さん。もしかして、それ全部酒ですか……!?
「料理の途中なんで、とりあえずくつろいでてください。お酒開けるのは楓が帰って来てからにしてくださいね。先に開けると、アイツ拗ねるので」
「分かってるわよー」
そう言いつつ、今何でカシュっていうプルタブを開ける音が聞こえたんですかね?
「あの、旭さん……お料理、お手伝いします……」
全くあの人は……と内心で嘆息しつつ再びキッチンへと戻ろうとすると、上着を一枚脱いだ三船さんがそんなことを申し出てきた。
「あぁいや、別に大丈夫ですよ? ここが俺と楓の部屋である以上、三船さんたちはお客様なわけですから。寧ろ片桐さんが今から飲みすぎないか見ててもらいたいです」
「瑞樹さんもいらっしゃいますし……大丈夫ですよ、きっと」
あと少しだから本当に大丈夫なんだけど……まぁ、これ以上断わっても多分堂々巡りだな。
「それじゃあ、少しだけお願いします」
「はい……」
流石にそのままの恰好で水場に立たせるわけにはいかないので、とりあえず俺のエプロンを……。
「……浮気ですか?」
「「浮気っ!?」」
いつの間にか帰って来ていた楓が、何故かジト目で俺と三船さんのことを見ていた。その両手には一升瓶が抱えられており……。
「って一升瓶かよ……」
「だって旭君が一本だけだって」
ワインとか洋酒とか、そういう大人しい感じのやつを買ってくるものだとばかり思っていた俺が間違っていた。なんだろう、子供に「お菓子を一つだけ買ってあげる」と言ったら業務用の大袋を持ってこられたような感覚。いや子供いないけど。
「って今はそれはいいんです」
「よくはないよ。川島さんたちが持って来てくれた分も合わせてどれだけ飲むつもりだよ」
「ほら、江戸っ子は『宵越しの酒は持たない』って言いますし」
「そんな言葉聞いたことないし、そもそも今この場に江戸っ子は一人もいないぞ」
千葉と和歌山と大阪と新潟と岩手しかいないっての。
「って、またはぐらかされました。だから浮気はダメです。奥さんがいない間に、自宅のキッチンに女性を連れ込むなんて、旭君は一体何を考えているんですか?」
「寧ろお前が何を言っているんだ……」
え、もしかしてもう酔ってるとかじゃないよな?
とりあえず、楓は俺が三船さんと一緒にキッチンに立つことが嫌らしい。
「もう……あとは私が美優さんと一緒にやるから、旭君は先にリビングに行ってて」
「はいはい」
別に意固地になるようなことでもないので、そのままエプロンを楓に渡して俺はキッチンから離脱することとなった。
「あら旭君」
「お先にいただいてるわよー」
リビングでは案の定、片桐さんがカーペットの上で胡座をかきながらビールの缶を開けていた。何も手を付けていないどころか、買ってきたものを出して色々と準備をしている川島さんを少しぐらい見倣ってもらいたい。
「キッチンは?」
「なんか三船さんと並んでキッチンに立ってる絵面に嫉妬したらしい楓に追い出されました」
「んー……」
「川島さん、判定は?」
「……わかるわ!」
わかっちゃったかー。
「いくらそれなりに交際期間が長いからって、貴方たちは新婚だってことを忘れちゃダメよ」
その新婚家庭にアポ無しで転がり込んできたのは一体誰なんだという言葉を寸でのところで飲み込む。
「それにしても、今日はこの三人なんですね」
いつものメンバーという点で言えば、柊さんとか、最近だと佐藤さんだとかが一緒なのだが。
「他のみんなはお仕事よ。私たちがオフだったのは本当にたまたま」
まぁクール酒飲み四天王が揃った日には、我が家が地獄絵図になることは確定だ。そんな悲惨な未来が来なくて本当に良かった。
そうこうしている内に残りの料理を完成させた楓と三船さんがリビングに戻って来た。
「それじゃあ、始めましょうか!」
そう言いつつ二本目の缶ビールを開ける片桐さん。
はぁ……こんな昼間っから飲み会か……と若干辟易していると三船さんと目が合った。どうやら同じことを考えていたようで、二人揃って苦笑する。
「旭君……今度は奥さんの目の前でアイコンタクトでのラブコールとはいい度胸ですね」
「してないっつーの」
はいはいこれ飲んで機嫌を直しなさい、と楓の手にもプルタブを開けた缶ビールを持たせる。片桐さんたちが持ってきたものだが、第三の雑酒ではなくちゃんとしたビールだ。
同じく川島さんと俺もビールの缶を、三船さんは酎ハイの缶を手にする。
「それじゃあ、カンパーイッ!」
「「「「カンパーイッ!」」」」
……とまぁ、ここまでは良かったんだ。基本的に楓の隣に座ってお酒を飲み、俺のグラスが空いていることに気付くと楓が甲斐甲斐しくお酌してくれる。何より高垣楓・川島瑞樹・片桐早苗・三船美優といった美人アイドルと一緒にお酒を飲んでいるこの状況は、ファンからしてみれば大金を積んででも叶えたい夢のような状況なのだろう。
……問題があるとすれば、片桐さんが悪ノリし始めたことでも、川島さんがそれに便乗し始めたことでも、三船さんがそれを止めきれなかったことでもなく……
――ちょっと旭くーん! 俺様系男子で楓ちゃんに迫ってみてよー! 鬼畜っぽくお願い!
――成程、了解しました。
――……えっ!?
話の流れはハッキリと覚えていないが、確か少女漫画や昼ドラでのシチュエーションの話になって……っていう流れだったはず。それで確か「別の人に迫るならともかく、楓に迫るのなら夫婦だし別にいいか」みたいなノリで始めた結果が、冒頭のアレというわけだ。
「しかし、人に見られてる状況でよくあんなこと出来るわね……」
「これでも一応俳優やってますので、演技中は羞恥心を捨てるようにしてます」
「何その今ここで発揮する必要が皆無なプロ根性」
じゃなきゃやってられないって。
「楓ちゃんもなんであんなにノリノリだったのよ」
「あぁいうプレイは初めてだったもので……」
「プレイっていうなっ!」
ポッと頬を赤く染める楓に、片桐さんの叱責が飛ぶ。
「正直あのままおっぱじめるかと思ったわ……」
「そんな人前でするわけないじゃないですか。何言ってるんですか片桐さん」
当然のことを言っただけなのに、何故か頭を叩かれた。わからないわ。
「酷いです早苗さん、旭君に乱暴しないでください」
そんな俺の頭を、楓が胸に抱くように引き寄せる。やわっこい胸に顔を埋め、頭を撫でられるとあらゆることがどうでもよくなっていくような感覚にすらなった。
「楓ー」
「旭くーん」
ギューッとお互いの身体を抱きしめる。
「ど、どういうことでしょうか……お二人とも、ここまでお酒に弱かったとは思わないのですが……?」
「……もしかしてなんだけど」
「どうかしたの? 瑞樹ちゃん」
「……普段この二人と飲むときって外のお店で、人目があるじゃない? だからそういう時は自重してるけど、こうして人目を気にする必要がない家飲みだからその辺のタガが外れちゃった……とか?」
「……成程、つまり
「で、でも、今は私たちもいますけど……」
「私たちは二人の知り合いだから、人目としてカウントしてないんじゃないかしら」
「それか既に私たちのことが見えてないか」
「恋は盲目ってやつね。わかるわ」
「多分違うと思います……」
何やら外野三人があーだこーだ話しているが、今そんなことはどうでもよかった。
ふわふわした気分の中、すぐ傍には楓という愛する女性がいる。胸に顔を埋めたまま大きく息を吸い込むと、鼻孔一杯に楓の匂いが広がっていく。
「はぁ……幸せ」
「私も幸せ……ねぇ、旭君」
「んー?」
「これからもお互いに一番
「……当たり前だろ、そんなこと」
そのまま楓を優しくカーペットの上に押し倒し――。
「おっとこいつら本当におっぱじめる雰囲気になってきたわよ」
「はぁ……とりあえず旭君の方を
「オッケー」
「さ、早苗さん……! さ、流石に一升瓶は……!」
「せーの!」
――ゴッという鈍い音と共に視界がブラックアウトしたため、今回のお話はここまで。
▽月▽日
今日は旭君と一緒に一日オフの予定だったのだが、急遽同じくオフだった早苗さん、瑞樹さん、美優さんの三人が遊びに来た。
いつものお酒を飲むメンバーではあるが、よくよく考えたら自宅に招いて一緒にお酒を飲んだことはなかった。正確には私の部屋ではあるのだが、こうして旭君の部屋で暮らすようになってからは初めてだった。
始まる前に旭君と美優さんが一緒にキッチンに立っている後姿が、まるで夫婦に見えてしまい嫉妬してしまったことを除けば、とても楽しい家飲みだったのだが……途中からあまり記憶がない。気が付いたら私はソファーで寝ていて、旭君はカーペットの上に倒れるように寝ていて、三人は『色々とごちそうさまでした』というメモを残して帰った後だった。
何やら旭君にすごくドキドキさせられたことだけは覚えているのだが……忘れてしまったのは大変もったいない気がするので、また今度同じことをしてもらうようにお願いしておこう。
あとついでに、三人にも何があったのかを教えてもらうことにしよう。
「ぐおぉ……頭が割れるように痛い……!?」
「二日酔い? 旭君にしては珍しいわね」
「いや、なんかこれ、本当に物理的に痛い気がするんだけど……!?」
この状況までいっておっぱじめないとか、全くなんて健全な小説だ(熱い自画自賛)
前書きでも触れたように、ツイッターで『瑞樹・早苗・美優の年上組』or『奈緒・凛・加蓮の年下組』というアンケートの結果を元に、今回は年上組です。その内年下組とのお話も書きます。
そーいえば関係ないですが、『白南風の淑女』フィギュア発売日延長してたんですね……待ち遠しいなぁ。