「………………」
「旭君、そろそろ」
「……ん、分かった」
ソファーに座る楓の前に膝まづき、お腹に当てていた耳をそっと離す。
既に妊娠五ヶ月となり、楓のお腹は大きくなり始めていた。元々スレンダーな楓故に、余計に大きく見えるそんなお腹にこうして耳を当てるのが、俺の習慣になっていた。ほんの一ヶ月前までは無かった胎動が、今ではしっかりと聞こえるようになってきたのだ。
「旭君は本当にこれが大好きね」
「なんて言ったって、愛する
「私も、愛する
本当に、幸せな時間だ。
もう一度、今度は楓自身をギュッと抱きしめた。
さて、今日は俺と楓がオフの日。といっても、妊娠五ヶ月となり産休に入る体勢になった楓には殆ど仕事が入っていないため、俺のオフの日が実質二人のオフの日だ。
そんな休日。今日は天気がよかったので、二人でお出かけすることとなった。要するにデートである。車で街中までやって来てから、パーキングに止めて歩いて散策。妊娠中の適度な運動だ。
「最近、少し暖かくなってきたわね」
「でもまだ風が冷たいな」
楓には薄手ではあるがちゃんとした上着を着てもらっている。身体を冷やすわけにはいかない。
街中は平日故に休日ほど人はいないものの、そろそろ高校や大学は春休みに入り始めているので学生のような若い人たちがそれなりに多かった。
「さて、何処に行くかね」
「んー、いつもだったら春物が欲しいところなんだけど……しばらくは着れそうにないわ」
見るだけでもいい? と尋ねられたので、勿論と頷く。確かに女性の買い物は長くて男にとっては暇なことが多いが、楓が楽しそうにしているのを見るのが楽しいし、楓がどんな服を着てくれるのかを考えるだけでも嬉しい。俺もまさかこんな考えが出来る人間になれるとは思っていなかった。
「ふふっ」
手を恋人繋ぎにした上で自身の腕を俺の腕に絡めてくる楓が、突然クスクスと笑いだした。
「どうかしたか?」
「ううん、付き合い始めてから初めて旭君とデートしたときのことを思い出しただけ」
「……うわ懐かしいな……もうそろそろ六年も前になるのか……」
確かあの日も、こうやって腕を組みながら街中を歩いてたっけ――。
「………………」
神谷旭、二十一歳。職業、俳優。高校入学と同時に俳優として活動し始め、芸歴で言えば五年となる。若手とはいえ、そこら辺の同い年の俳優と比べるとそれなりの場数を踏んでいる俺ではあるが――。
「……ポンポンいたい」
――現在、吐きそうなぐらい緊張していた。
「……大丈夫、だよな? 俺の妄想とかじゃないよな……?」
一週間経った今でもあの
いや、確かに食事を重ねて、付き合ってくださいと告白して、お願いしますと返事を貰ったことは覚えている。それは確かだ。
しかし、そこから恋人になったという事実を頭が受け入れようとしていなかった。
なにせ、あの高垣楓だ。346プロのモデル部門の中でも指折りの美人で、今や売れっ子人気モデル。そんな彼女が俺の恋人になったなんて、今まで恋人がいなかった自分にとっては本当に信じられないような奇跡だった。
いや、一時期は調子に乗って『俺は彼女と結婚する運命にある(キリッ)』みたいなことを考えたりもしたが、そんなわけないって! 何考えてんだよ俺!
ヤバい、考えれば考えるほど、ドンドン不安になってきた。
こうして恋人になって初めてのデートをするために、駅前のベンチに座って彼女を待っているのだが……く、来るよな? 本当に来るよな?
これで多少なりとも女性経験があれば多少はマシだっただろうが、残念ながら生まれてこのかた女性と交際をしたことはない。妹や舞台での恋人役を女性経験と換算するつもりもない。
結局、人生初の恋人にテンパっているだけなのだ。
本格的に胃がキリキリと痛み始めた辺りで、それは聞こえてきた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「っ!?」
思わずビクリと跳ねるように立ち上がる。
それは最近聞き慣れた……いや、今後一生忘れることのない女性の声。
「だ、大丈夫、お気になさらず」
そんな何処と無くぎこちない対応になりながらも振り返ると、そこにいたのは紛れもなく高垣楓だった。
ピンクのキャミソールに同色の上着を羽織り、下は生足が眩しいショートパンツである。彼女がこうして足を出している姿はよく目にするが、今日はそれがいつも以上にグラリときてしまった。
「えっと、今日も相変わらずお美しく……」
「ふふっ、ありがとうございます。神谷さんもカッコいいですよ」
お世辞だろうがなんだろうが、好きな女性にそんなことを言われて喜ばない男はいない。心の中で盛大にガッツポーズを決める。
「それじゃあ、行きましょうか」
「あ、はい」
お互いに向き合ったままここに立ち尽くしているのも時間が勿体無い。一先ず今日の最初の目的地である、昼食を取るためのパスタの店へ足を向けるのだった。
「………………」
勢いでパッと手を握ることが出来れば良かったのだが、如何せんタイミングを逃してしまった。それでも大分近い距離を保ちながら、俺と高垣さんは並んで歩く。
「……あの、もしかして私、何かしてしまいましたか……?」
「……えっ!?」
しばらく会話が無いまま歩いていると、突然高垣さんがそんなことを尋ねてきた。
「そ、そんなことありませんよ。どうしたんですか?」
「えっと、その……いつもと比べて、少しだけよそよそしい気がして……」
「ち、違います! その……高垣さんが自分の恋人になってくれたっていうことに実感が湧かなくて……緊張してるんです」
わりとカッコ悪いことこの上ないが、高垣さんを不快にさせるぐらいならばと正直に打ち明けることにした。
「……そ、そうだったんですね」
そんな情けない告白に笑われるかと思いきや、何故か高垣さんは視線を反らした。
「……高垣さん?」
「ご、ごめんなさい……そうですよね……私、神谷さんと恋人になれたんですよね……」
私も緊張してきちゃいました、と笑う高垣さん。
なんだこの可愛い人は……! と内心で身悶えする。
「でも、やっぱりお互いにこのままじゃ寂しいです」
「そうですよね……」
既に高垣さんに気を使わせてしまった以上、今度はこちらから行動すべきだ。
すぅはぁと深呼吸を何度か。まるで初めてテレビのドラマ出演で初セリフを言うときのような緊張感だった。
「……今日はよろしく、楓」
どもることも噛むことも無く言えたことに、内心で安堵する。確かに、これから恋人同士としてやっていくのに、よそよそしい態度で居続けるのも少し寂しいし悲しい。
だからまずは、俺から彼女へ歩み寄る。
「………………。っ!?」
一瞬キョトンとした高垣さん……もとい楓は、次の瞬間、カッと耳まで赤くなった。
「か、楓?」
「ご、ごめんなさい! ちょっと待って……!」
クルリと振り返り、こちらに背を向けながら両手で顔を押さえる楓。
もしかして、何かやらかした……?
「だ、大丈夫です、ビックリしただけだから……」
何度か深呼吸をしてから楓は再びこちらを向いた。まだ頬はわずかに赤かったが、それでも先ほどよりは落ち着いている様子だった。
「……今日
「っ! ……そうだな、今日
告白をしたのはついこの間になるが……今この瞬間から、確かに俺と楓は恋人同士になれたような気がした。
「それじゃあ、改めて」
先ほどは出せなかった左手が、今度はなんの躊躇いも無く差し出すことが出来た。
「……はい」
そんな俺の左手に、楓は雑誌でも決して見せてくれないようなとびっきりの笑顔を浮かべながら右手を乗せてくれた。
(――うわぁ)
当時のことを思い返しながら、内心で羞恥に悶える。
なんというか、あの頃は本当にまだ付き合いたてで、ただの知人から恋人になった女性に対してどのように接していけばいいのか全く分かっていなかったのだ。
二十一にもなった大の男が何やってるんだと思われるかもしれないが、本当にアレが初めてのことなので勘弁してもらいたい。
(……そーいえば)
ふと思い返していて思ったのだが、あのとき楓が後ろを振り返った理由は何だったのだろうか。流石に『恋人に名前を呼ばれたことが嬉しかったから』なんて少女漫画チックな理由でもないだろうし……。
「なぁ、楓、ちょっと聞きたいんだけど」
「なぁに?」
左腕に寄り添う楓に声をかけると、彼女はコチラの顔を覗き込むように首を傾けた。
「初めてのデートのときに、俺が初めて『楓』って呼んだら急に顔赤くして振り返ったけど……」
もし差し支えなければ理由を知りたいと正直に尋ねると、楓はポッと頬を赤くしながら困ったように笑った。
「もう、今さらそんなこと聞くの?」
「いや、今そのときのことを思い出しててふと思ったんだよ。だからなんとなく」
確かにもうそろそろ六年も前になるのだから、今さらと言えば今さらだ。ただ気になったので、単純にデート中の会話の種として話を振ってみたのだ。
「……その」
「うん」
「………………たから」
「うん?」
「……カッコよかったから」
「……うん!?」
「だ、だから……旭君が……凄くカッコよかったから……」
「………………」
両者沈黙。
(なんだこれは……!?)
付き合い始めてから六年、結婚してもうそろそろ二年になろうとしているというのに、どうして今さらこんなやり取りをしてお互いに恥ずかしい思いをせにゃならねばならんのだ……!?
「な、なんで旭君が恥ずかしがってるのよ!」
「それはお前が恥ずかしがりながら言うからだろ!? 最近は普段からそういうことお互いそれなりに言ってるんだから、慣れてるだろ!?」
「だ、だって、あの時の旭君、私がそのデート直前まで考えてた『理想のカッコイイ恋人』の想像通りだったから……!」
「はいヤメヤメ! もうヤメ!」
どうしてこんな往来のど真ん中で羞恥プレイをせにゃならんのだ!
結構周りからの注目を集めてしまったので、お互いに顔が赤いまま慌ててその場を後にするのだった。
「はぁ……」
「ようやく一息つけました……」
慌てて駆け込んだそこは、偶然にも初デートの際に昼食を取るために選んだパスタの店だった。
「ちょうどいいし、少し早めの昼にでもするか」
「そうね」
テーブルに備え付けられたメニューを「ランチにパスタは堪
「いらっしゃいませ……って、あら?」
「お久しぶりです」
「ご無沙汰してます」
俺たちのテーブルに水とおしぼりを持って来てくれたのは、知り合いの店員さんだった。この店は初デートのとき以来何度も贔屓にしている店なので、昔から働いている店員とは仲が良い。
「お久しぶりです~。遅ればせながら、妊娠おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
確か、最後にこの店に来たのが年末だったから……四ヵ月ぶりぐらいになるのか。
「お腹、少し大きくなってきました?」
「はい。もう五ヶ月になるので」
確か店員さんも二児の母と言っていたので、楓にとっては先輩になるだろう。
そんな彼女と話の花を咲かせている楓を見ながら、俺は自分の注文を決める。ここに来たらいつも頼んでいるメニューなので、選ぶのに時間はかからなかった。
「あっ、ごめんなさい、話しこんじゃって……ご注文は後の方がいい?」
「俺はいつものでいいけど」
「えっと、私もいつもので」
「いつもの二つね、分かりました。それじゃあ、ちょっと待っててね」
向こうも慣れたもので、メモを取ることすらせずに引き上げていった。
そしていつも通り、食前に飲み物が届けられるのだが……。
「……何ですかコレは」
「ふっふっふ~、妊娠祝いってことで、私から! 二人が初めてここに来て頼んだ奴よ!」
何故か自信満々に店員さんが持ってきたそれは、所謂カップルジュースだった。
いや、確かに昔は頼んだけどさ……! というか、あんなやり取りをした後でよくこんなの頼んだな当時の俺たち……って、ちげぇ!? 確かコレ、あのときもこの店員さんが「店からのサービスだ」って言って持ってきたやつだ!
「実は最近になってから『神谷旭と高垣楓が付き合い始めの頃に飲んでいた伝説のカップルジュース』っていう売り方し始めてから随分と注文が増えてねぇ」
「勝手に何やってんすか!?」
それが捏造ならともかく、事実だから余計にタチが悪い。
「ふふっ」
はぁと溜息を吐く俺に対し、楓はクスクスと笑っていた。
「それじゃあ折角だし……今日は、あの頃の気分で」
「……分かったよ」
全くいい年した二人が何やってるんだかと思いつつ、グラスに差されたストローの片方を咥える。楓も反対のストローを咥え、自然と二人の顔は近付くことになる。
すぐ目の前には、楓の綺麗な二色の瞳。
あのときは、こんなに近づいた楓の顔に緊張して味なんか全く分からなかったが。
二度目の初デートの味は、爽やかなレモンの味がした。
☆月☆日
今日は旭君がオフだったので、デートをした。
街中を歩きながら、何故か今日は初めて旭君とデートをしたときのことを思い出してしまった。
あの時は、本当に旭君が自分の恋人になったことで舞い上がっていた。おかげで旭君に初めて「楓」と名前で呼ばれた時は、それはもう恥ずかしいぐらい嬉しくて、思わず背中を向けてしまったぐらいである。この辺りのことは、きっと当時の日記にも残っているだろう。
その後、ランチは偶然にもその初デートの際に行ったパスタのお店になった。
久しぶりに会った店員さんに妊娠中や出産後のお話を聞くことが出来たのだが、その後店員さんにサービスとして出されたのが、初デートのときにも飲んだカップルジュースだった。
少しだけ恥ずかしかったが、それでもあのとき以上に大好きになった旭君と一緒に飲むカップルジュースは、思い出の中以上に美味しかった。
……子どもが生まれて、大きくなったらいつか、今度はその子とこのジュースを飲んでみたいと思った。
「へぇ、このパスタのお店、いい雰囲気だね……」
「……ん!? 奈緒、あそこ見て! 『神谷旭と高垣楓が付き合い始めの頃に飲んでいた伝説のカップルジュース』だって!」
「ぶっ!?」
久しぶりに甘く書けたと思うゾ(少なくとも作者はタヒんだ)
二十一や二十七同士のやり取りじゃねぇよ! と思われる方もいるかもしれませんが、これがお互いに初めての恋人同士だから問題ないです。……多分ないです。
さて、二周年まであと三回。まだまだ気合入れていきますよー!