俺は猛烈にチョコが欲しかった。
いや、別に無性にチョコが食べたくなったわけではない。甘いものが嫌いというわけではないが、唐突にチョコを貪りたくなる衝動に駆られるほど甘党というわけでもない。
では何故唐突にこんなことを言い出したのかというと、今日という日付が関係していた。
今日は二月十四日。そう、現代日本に暮らしていれば一度は耳にするほど有名になった記念日、バレンタインデーである。各国以外では色々と違ってくるらしいが、少なくとも日本では『好きな相手にチョコレートを渡す日』という認識で間違いないだろう。
そんな日にチョコが欲しいと言い出すのだから、勿論それは額面通りの意味ではない。つまり
少々遠回りをしたが、要するに高垣さんからのチョコが欲しかった。
……自分でもかなり強欲なことを言っているとは分かっている。何せ相手はあの高垣楓だ。
346プロ芸能課モデル部門からアイドル部門に転向して早一年半。素晴らしい美貌とスタイル、そして皆が「こんな元モデルがいてたまるか!」と口を揃えるほど抜群の歌唱力で、わずか一年半であっという間にトップアイドルの仲間入り。
かなりのお酒好きという点は人によって欠点に見えるかもしれないが、それを差し引いたとしても、そんな彼女に人気がないわけがないのだ。
おかげで俳優仲間の間でも『高垣楓も誰かにチョコを渡すのだろうか』という話題で持ちきりだ。自分はその中でもそれなりに仲が良い部類に含まれているはずだという自負があるので、個人的な義理チョコぐらいは期待してもいいかもしれない。
……という話をポロッと零したたため、その俳優仲間から「それを期待できるだけで十分じゃねぇかよ!」「どうせこっちは貰えたとしても不特定多数に配られる内の一つだよ!」と総スカンを喰らったのだった。
ともあれ、高垣さんから貰えるのであれば義理チョコで十分である。彼女から「はい、いつもありがとうございます」なんて言われながらチョコを渡されようものならば、俺はその光景を糧にしばらく生きていくことが出来るだろう。
そんな期待を胸にしながら、俺は今日もいつも通り事務所の正門を潜るのだった。
「はぁ……」
自宅マンションの駐車場に車を停めながら、思わず大きなため息を吐く。
「……人生もチョコぐらい甘かったらなぁ……」
結論から言うと、俺は高垣さんからのチョコを貰うという俺の願望は叶わなかった。というか今日一日彼女と遭遇することが出来なかったのだ。
(そりゃあお互いに仕事がある身なんだから、そういうこともあるよな……)
その辺りに全く考えが回らなかった辺り、俺も高垣さんからのチョコを期待し過ぎて視野狭窄になっていたようだ。
結局今日の収穫は、撮影の現場で女性スタッフが出演者全員に配っていた義理チョコだけだった。その義理チョコも帰りの車中で全て食べ終えてしまったので、これにて今年の俺のバレンタインは終了である。
はぁ……と再びため息を吐きつつ、空き箱と包装紙をまとめてリュックの中に放り込んで車から降りた。そのまま駐車場から直接エントランスに入ってエレベーターで上がり、自室の前で鍵を探していると視界に白い何かがチラついた。
「っと、寒いと思ったら雪か……」
マンションの廊下から外へと顔を出すと、真っ黒な空に浮かぶように白い雪が宙を舞っていた。バレンタインの夜に雪が降るとは随分とロマンチックなシチュエーションではあるが、生憎それは恋人がいなければあまり意味をなさない。つまり今の俺にとっては明日の車での移動の妨げになるかもしれない厄介な存在以外の何ものでもなかった。
積もらないことを祈りつつ首を引っ込めようとして……そのまま下を覗いたのは偶然だった。
「……ん?」
マンションの入り口から少しだけ離れたところの自動販売機付近に人影があり、こんな寒空の下にそんなところに突っ立って一体何をしているのだろうと興味を持ったのも本当に偶然だった。
「……え」
遠すぎるので流石に顔は見えないが、街灯に照らされた
慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、電話帳を開いてその人物の番号へと通話をかける。
まさかそんな……と勘違いの可能性を考えた。しかしそれはその人物がポケットから携帯電話を取り出して耳元に当てたと同時に通話が繋がったことで、勘違いではないことが証明されてしまった。
『こんばんは、神谷さん』
「こ、こんばんは、
『え……?』
俺のその発言に、鶯色の髪の女性……俺がチョコを欲して止まなかった高垣楓さんがキョロキョロと辺りを見回していた。
『神谷さん、何処にいらっしゃるんですか?』
「上ですよ!」
『上……?』
そのまま頭上を見上げる高垣さん。その天然な仕草が大変可愛かったが、当然そんなところに俺はいない。
「もうちょっと下! 目の前のマンション!」
その言葉に従い下げられていく高垣さんの顔は、俺のいる階の高さで止まった。
『あれ、いつの間にお帰りになられていたんですか? 入り口は通ってないですよね?』
「ウチのマンションは駐車場から直接ロビーに入れるんですよ……ん?」
今の高垣さんの発言に引っかかった。
「え、まさか、その、高垣さん……お、俺のことを待ってたんですか……?」
頭の何処かでは「そんなわけない」「自惚れるな」と自分に忠告を入れる自分がいたが、そんな僅かな希望に縋りたい自分もいた。
『……はい。神谷さんのことを、待っていました。マンションの入り口の前で、貴方のことを待っていました』
「……えっと、それは、どうして……」
『……今日が何の日か……で、気付いてくれますか?』
瞬間、心臓が今までにないぐらいのスピードでドクドクと音を立て始めた。
『どうしても直接会って……神谷さんに、チョコレートを渡したかったんです』
「連絡を入れてくれればよかったのに」とか「アイドルがそんなところで物騒だ」とか色々言いたいこともあった。
しかしそれよりも、まずあんな寒空の下にいる高垣さんを何とかすることが先決だった。
「……そ、それなら」
高垣さんに聞かれないように、小さくゴクリと唾を飲み込む。
「……俺の部屋に、上がっていきませんか?」
『……それは、その』
「も、勿論、変なことはしません。ですがその、体も冷えてるでしょうから、少し温まってから帰っても……あっ、勿論帰りは車で送りますよ!」
我ながら焦って早口になってしまっていた。下心がないことをアピールしたかったが、残念ながら下心がないと言い切れなかった。
『……それじゃあ、お邪魔させていただきます』
「っ、今迎えに行きます! エントランスで待っててください!」
『はい、待ってます』
通話を終了し、携帯電話を手にしたまま俺は元来た道を全力で戻り始める。幸いエレベーターは先ほど俺が乗ってきたものが残っていてくれた。
一階へ向かいながら自室の状況を思い出す。大丈夫、普段から綺麗にしているので急な来客でも問題はなし、見られて困るようなものは全部寝室だ。
エレベーター内の壁にもたれかかりながら、すぅはぁと数度深呼吸。今からあの高垣楓が俺の部屋に来ると考えると、初めて映画に出演したとき以上の緊張感を覚えた。
「………………」
俺はこれを、チャンスだとかそういうのだと思っていない。
ただ純粋に。
……このバレンタインの夜に、彼女と会えることが、ただただ嬉しかった。
「……ってことがあったのも、二年前か」
「うふふっ、まだお付き合いする以前の話ね」
懐かしいわ……と、ブランデーで満たされたグラスを揺らしながら楓が笑う。
「あの頃はまだ、楓とこうなるとは全く思ってなかったよ」
「こうっていうのは……こーいうの?」
そう言いながら、ソファーの隣に腰かける楓がコテンと俺の肩に頭を預けてきた。ふんわりと香る楓の髪の匂いで、今飲んでいるお酒のアルコール以上にクラッとしてしまった。
「それにしても、ブランデーとチョコって合うんだな」
「意外だった?」
「純粋に甘いものにお酒が合うってこと自体があんまりイメージなかった」
バレンタインのチョコと共にブランデーのボトルを持ってきたときは何事かと思ったが、なるほどこれはいい組み合わせだった。やはりお酒に関しては楓の方が詳しいらしい。
「……そうだな、それじゃあ来年は俺がお酒を用意する。だから、その……」
「?」
「……えっと、来年も、期待していいか?」
恋人同士とはいえ、暗に「来年のバレンタインもチョコをください」というのは流石に恥ずかしかった。
「……うふふっ、それじゃあ、来年も頑張らなくちゃ」
クスクスと笑いながらクイッとブランデーを一口飲んだ楓は「だから」と言葉を続けた。
「私も旭君がどんなお酒を用意してくれるのか、
「……あぁ」
毎年。つまりそれは、これからずっと楓が俺にチョコをくれると捉えてもいいのだろうか。
「………………」
俺も楓もまだ二十歳を超えて数年しか経っていない。社会的には既に大人と呼ばれる存在になっているものの、まだまだお互いの人生に関わる話を簡単に出来るような年齢ではない。
でも、叶うのであれば。
俺は、楓と……。
「……ねぇ、旭君」
そんな俺の心の内を知ってか知らずか、楓はグラスをテーブルに置くと俺の顔を覗き込んできた。
「もう
「……ん?」
「失礼しまーす」
「え、ちょっ」
いつもの楓のダジャレに気を取られている内に、いつの間にか楓が膝の上に乗っていた。しかも横向きに座るような形ではなく、ソファーに両膝を付いて俺と真正面から向き合うような体勢である。
「か、楓さん? これは一体……」
いくら恋人だからとはいえ、ほぼ体験したことのない距離感にドキリとする。高さの関係上、目の前に楓の胸があることもそれに拍車をかける。
「ふふっ、こうするの」
そして俺の混乱を余所に、楓はチョコを一つ口に咥えると――。
「んー」
――目を瞑り、そっと唇を突き出して来た。
「………………」
それは思わずゴクリと生唾を飲むような光景だった。
既にキスや
その破壊力に俺は躊躇する自制心すら砕かれ、そのまま顔を寄せて……。
「ん……」
「ん、あむ……」
小さなチョコを、お互いの口の中で溶かすように舌を絡め合わせる。ただのミルクチョコレートにも関わらず、先ほどブランデーを飲んでいた時以上に頭がクラクラしてきた。
「はぁ、はぁ……」
「………………」
やがて口の中のチョコが無くなると、お互いにゆっくりと顔を離す。
そして楓は無言のまま、再びチョコに手を伸ばし――。
――どうやら、ブランデー以上にチョコに合うものを見付けてしまったらしい。
ふぅ(ミスったときはどうなるかと思った)
久しぶりに甘い感じに仕上がったと思います()