レースが開始されて活気がある町の中、薄暗い一室に光が差していた。
比較的こじんまりとした一軒の宿である。
二階建ての二階にある大広間、中央に堂々椅子を置き、偉そうにふんぞり返った胴元はにやりと笑って部屋の入り口を見ていた。
「やはりそう来たか……例年そういう輩が出るもんさ。だから準備が必要になる」
現れたのは招かれざる客だ。しかしまるで動じてはいない。最初から誰かはそう来るだろうと予測して、事前に準備をしていたからであった。
入り口に立った人物はたった一人。恐れる相手ではないだろう。
部屋には大勢のボディガードが立っていた。
手には武器を携え、厳めしい顔で胴元を護衛している。
それなりの広さとはいえ室内の人数は三十名近い。
果たしてこの人数を相手に悪事を働ける者かと、余裕を持って笑みを向ける。胴元は自身が負けるとは微塵も思っていない様子で、全く動こうとはしなかった。
胴元はこの状況を待っていたようだ。
カポネ・“ギャング”・ベッジ。部下も連れずに来たらしい。
その愚かさを笑って、上機嫌な声で語り掛けた。
「レースをすりゃ必ず出て来るのさ、おまえみたいなバカがな。大方、おれが集めた金を分捕ろうって気なんだろうが……残念だったな。こっちには備えがある」
「ああ、そのようだ」
ポケットに手を突っ込み、葉巻を銜えて、ベッジは表情を変えない。
無表情のままでその場を動こうとしなかった。
攻撃のために現れたのは間違いない。
ただ、現状ではまだ動きは見れず、部下の姿がどこにもないことが違和感にも通じる。彼の一味は人数も多かったはずだがなぜ一人なのだろうか。
考えもするが心配はない。
なぜなら、金に物を言わせて雇ったのは腕に覚えのある海賊ばかりだ。
敵は一人。負けるはずがない。
伏兵が居たところで兵の練度を考えれば決してまずくないだろう。
胴元の余裕は尚も崩れる気配がなかった。
一方でベッジは一切動かず、攻撃の気配さえ感じさせない。
部下を連れていないところを見ても、何やら異質な状況に思えて仕方なかった。
ベッジの余裕は異質ではあるが、それでも胴元は席を立たずに、ふんぞり返ったまま。次第に護衛の男たちが彼へ武器を向け始めた。
「さぁて、どうする。今ならまだ帰ってもいいんだぜ」
「その必要はねぇ」
「ハハハッ、だったらどうする気だ? たった一人でこの人数に勝つつもりか?」
「いや。おれが動く必要はねぇな」
呆れるかの短い溜息。
「観念しろ。兵力が違う」
そして全く身じろぎしないままで、ベッジが周囲に居る男たちへ向けてそう言った。
不可解な言葉に胴元の眉が動く。
この状況下でその言葉はあまりにも似つかわしくないからだ。
「何言ってやがる。状況がわからねぇのか。これだけの兵士が見えねぇとは思わねぇが。それともおれの兵力には敵わねぇとでも言いたいのか?」
「逃げ出すなら今の内だ、ってのは、むしろおれの言葉だぜ」
「あ?」
まるで態度を変えようとしない言葉に怒りが表れる。
笑みさえ浮かんで、その自信の根拠が理解できずに胸の内側がざわつく。
「ここに来たからにはおれの要求を理解してるはずだ。何も言わずに出せば見逃してやろう。そうだな、あと十秒くらいは待ってやってもいいが」
「口の利き方には気をつけろ。てめぇ一人で何ができる」
「十……九……八――」
「馬鹿馬鹿しい」
苦々しく言った胴元だが攻撃を指示しようとはしなかった。せっかくだから待ってみる気になったのだろう。何が起こるのかを見てみたくなった。
そこに居るのはベッジ一人。
強がってはいるが大したことはない。そう決めつけて笑みを浮かべていた。
雇った男たちさえ居れば負けるはずがないと考えていた様子だ。
ベッジは尚も数を数える。
五秒を過ぎ、四秒を過ぎて、それでも胴元は動かない。
ついには残り三秒を切った。
ただのハッタリだ。そう信じて疑わない。
胴元が改めてにやりと笑った。
「ゼロ……終わりだ」
葉巻の煙を吐き、やれやれと首を振ると呆れた仕草。
「砲撃開始」
彼は静かにそう呟いた。
直後、ベッジの体に異変が起こる。胸の辺りでいくつもの扉が開き、そこから小さな大砲が顔を覗かせていて、人間の騒ぐ声も小さくだが聞こえてくる。
まるでミニチュアのような小さな大砲、そして人間だった。
ベッジの体内に大勢の人間が存在していた。
見ていた胴元たちは理解できずに首をかしげる。
なぜ人体に扉ができるのか。なぜ大砲があるのか、人間が入っているのか。
訳も分からず見ていると、ベッジの命令に従い、砲撃が始まる。
パンっと小さな物音。それが砲撃音だとはすぐには気付けなかった。
ベッジの胸から飛んだ砲弾はあまりにも小さ過ぎて、殺傷能力があるようには見えない。そのせいなのか、誰も避けようとはせずに見てしまっていた。
確かにそのままのサイズでは痛くない。だが、そうではないのだと直に理解する。
ある一定の範囲を越えた時、砲弾は元来の大きさまで急激に巨大化したのだ。
気付いた時にはもう遅く、避けられる速度と距離はなかった。
室内は一瞬で爆撃によって埋め尽くされた。
放たれた砲弾はおよそ二十発。爆発と同時にボディーガードごと壁を吹き飛ばし、ベッジを除いて室内の全てを爆炎に巻いて、部屋の悉くを破壊した。
一目瞭然。とても数秒前と同じ部屋とは思えない。
悠々と立つベッジだけがその室内を見回し、冷静に手で近寄ってくる煙を払う。
「ちっとばかしやり過ぎたか。まぁいい。現物は無事なようだしな」
もはや焼野原とも言うべき室内に、辛うじて残っていたのは大小様々な宝箱。
それを見たベッジは笑い、今度は腹を開いた。
砲門よりよほど大きい、吊り橋型の扉が開けられた。
そこからはスーツ姿の男たちが大勢駆けてきて、ベッジの腹から飛び出すと同時に元のサイズまで大きくなり、慣れた様子で室内へ立った。
即座にベッジが命令を下し、乱雑に置かれた宝箱へ目をやった。
「さて、思った以上に簡単に終わっちまった。とっとと運び出すとしよう」
「はっ」
「
「船に運べ。邪魔が入るようなら排除しろ」
「はっ」
動き出す部下たちが束になって宝箱を運び出す。
数が多いだけに人数も必要で、次々ベッジの腹から人員が出てきた。
運び出すのは胴元がレースの参加者から集めた金、一つの海賊団につき五十万ベリーであり、全て合わせればまるで違う額にまでなる。
それら全てを運び出すことが彼らの狙いだった。
金を手に入れることは決して難しくない。特にこのレースにおいては。
今まで何度か行われてきたデッドエンドであるが、こうして胴元となった人間が襲われるケースは決して少なくない。なぜなら、それが最も簡単に大金を手に入れる方法だからだ。わざわざレースに参加せずとも大金を手中にすることができる。
それを知っていたから護衛を雇っていたものの、敵わなければ意味は為さず。
所有者が変わった宝箱はファイアタンク海賊団の手によって外へ運び出されていた。
制圧した室内を見渡してベッジは静かに想う。
レースに参加するのも一つの手だった。それも悪くはない。
だがガスパーデが関わる以上、例年通りのレース展開となるはずもなく、その一部分を考慮した上での作戦であった。警戒はしていないが面倒にはなる。だから簡単な手を取っただけのこと。
そう思いながら別のことも考えようとしている。
今回の参加者の中に光る逸材。麦わらの一味、キッド海賊団、ハートの海賊団の姿もあった。彼らがどう動くのかだけは気になっている。
どちらにせよ荒れることは決まっていたに違いない。
ほくそ笑み、振り返った彼は部下が言うよりも先に入り口へ立った男を見た。
「で、おまえはおれと同類だったわけだ」
宝箱を運び出すファイアタンク海賊団を意に介さずに、
部下も連れずにただ一人。ベッジと同じ能力を持つはずもないため本当に一人なのだろう。武器を手にするでもなく警戒せずにベッジを見ていた。
冷たく厳しい視線が互いにかち合う。
ベッジの部下たちはその異様な雰囲気に思わず息を呑んだ。
敢えて戦う手段を取らず、何もせずに突っ立った姿は異質の一言。一体何をしに来たのだと動揺するのも仕方ない。ドレークは何もしようとはしなかった。
数秒の間を置いた後、ようやく口を開き出す。
戦う素振りは見せないのに視線だけは厳しいまま。
ベッジだけに向けて言葉が吐かれた。
「戦闘の意志はない。金も必要ない。おれが欲しいのは別の物だ」
「ほう。何を欲しがってるのか、興味があるな」
「胴元が持っているエターナルポース。それさえ受け取ればここを去ろう」
「エターナルポース?」
訝しげに眉を動かしたベッジが振り返る。
胴元は大の字になり、服も肌も黒焦げになって倒れていた。
「ウチが吹き飛ばしちまった後だからな。今頃割れちまってるかもしれねぇが」
「確認させてくれ。おまえたちの手は煩わせない」
「ふむ……おい、調べてやれ」
ドレークの言葉を無視する形で部下に指示を出した。ドレークは何も言わない。
部下の一人が胴元の服を確認し、確かに内側の胸ポケットにはエターナルポースがあって、幸いにも無事だったそれがベッジの下まで運ばれてきた。
彼は受け取ってすぐに指し示す島の名を確認する。
レースのゴール地点は“パルティア”。しかしそこに刻まれた名は違う場所。
どうやら目的はレースではないようだった。
「必要なのはこいつってわけだ。ここで何をしようってんだ?」
「語るつもりはない。何も言わずに渡してくれ」
「嫌だと言ったら戦いも辞さないってか。ま、仕方ねぇな」
渋る様子など一切見せず、右手に持ったエターナルポースを投げ渡す。
ドレークは確かに受け取った。
視線は厳しく、動き出す唇は感謝の言葉を紡ぐ。
「すまない。恩に着る」
「礼を言うほどのことじゃねぇよ。ただ取ってやっただけさ」
素っ気なく告げれば、ドレークはすぐに踵を返してその場を後にする。
愛想のない男だ。
海賊を相手に愛想など求めてはいないが拍子抜けする様相。本当に戦わずに行ってしまった。周囲には大金が入った宝箱を運ぶ部下たちが居るというのに。
鼻を鳴らして、忌々しそうに呟く。
「つまらねぇ野郎だ。麦わらの方が幾ばくかはマシだな」
「よろしいんですか、渡してしまって」
「ほっとけ。おれにとっちゃ用のねぇ指針だ。それに――」
部下の問いに言いかけた言葉を止め、ベッジはにやりと笑った。
その笑みは楽しそうな物で、胴元と対峙した時よりよほど上機嫌だ。
「ありゃあ……強いぞ」
去って行ったドレークの背に称賛を向ける。
戦わずともわかる。もし正面からぶつかっていれば、狭い一室など簡単に破壊され、互いに全身に怪我を負う羽目になっていただろう。その上で決着はどちらに転ぶかわからない。ただの予想とはいえおそらくベッジの部下たちも大勢が倒れるはずだ。
少なくとも今この場でぶつかっていい敵ではない。
決着をつけるのならまた後で。
然るべき場所で戦う相手だと判断しての見送りだったのである。
「さぁ、用は済んだ。とっとと金を運べ! 出航するぞ!」
「はっ!」
ベッジも歩き出して宿を後にする。
部下たちは大量にあった金を一つ残らず運び出し、その後へと続く。
海賊レースが一度始まれば、混沌とした状況などいつものこと。天下の往来を堂々と歩くファイアタンク海賊団を止められる者はおらず、挑みかかる者は一人残らず吹き飛ばされた。
その歩みは淀みなく、一心不乱な様子を隠さず。
ベッジの指揮の下、彼らは新たな航海へ漕ぎ出した。
*
海賊島とは異なる島で、事件は起こっていた。
一人の海兵が見上げるのは、巨人の物とも思える巨大な腕である。しかしその腕の異質さは想像もしなかったもので、数多の金属が集まり、腕の形となっていたのだ。
天を隠すように指を広げている。
そして何より、それは彼らの頭上にあった。
自らの死を幻視する。
思い切り振り下ろされたその手は重力を利用し、恐るべき迫力を持って彼らの上へ落とされた。
轟音。そして悲鳴だ。
多くの海兵がたった一撃で気を失い、気絶しない者も皮膚を食い破った刃に血相を変える。
あまつさえ巨大な軍艦さえも叩き潰され、甲板がへこみ、瞬く間に沈没させられた。
気付けば島は地獄のような有様だ。
一夜をかけて行われた攻撃によって町はほぼ廃墟の状態に変貌した。無事な建物を探す方が困難なほど破壊し尽くされ、辛うじて一軒か二軒だけ家が残っている状況になっている。
逃げ遅れた町民たちはその廃墟のそこかしこで倒れたまま。
焼け焦げた匂いが漂い、昨夜の活気が嘘のようであった。
それだけでなく、黒煙が上がる港の近くには今しがた沈んだ軍艦を含め、壊れた海軍の船が五つは残骸となって散乱している。
それでいて無事な船が一隻だけ。ジョリーロジャーを掲げていた。
全ての戦闘を終えてようやく一息つけるようになった頃。
港に戻って木箱の一つに腰を落ち着けたキャプテン・キッドは、つまらなそうに呟いた。
「くだらねぇ……結局は口だけでこのざまかよ」
死屍累々といった状況に動揺する様子は欠片もない。
それも当然だ。そこにある全ては彼の命令で、彼の一味によって引き起こされた惨劇であった。
町を攻撃し、呼ばれた海軍を滅ぼし、明確な勝者となった姿。
凶暴な力は海賊の中でも強烈な物だった。
キッドの傍らにはキラーが立つ。
腕を組んで背筋を伸ばし、仮面を着けているため表情はわからないが、どこか呆れているかのようにも感じる姿だった。
「少しやり過ぎたんじゃないのか。これでは海軍の増援がいつ来るかわからないぞ」
「その時はまた叩き潰してやるまでだ。他に手があるか?」
「あまり敵を増やし過ぎると、今後の航海が困難になるぞ」
「望むところさ。用があるならかかって来ればいい。障害になるような奴が居ればの話だがな」
キラーの忠告を受けて尚、好戦的に笑い、キッドが考えを改める様子はない。
彼の首にかけられた懸賞金が跳ねあがったのは、こうして民間人への攻撃を辞さないからだ。今回に限っては本当の意味での民間人ばかりではなかったとはいえ、一見平穏な町を攻撃し尽くした荒々しさはおよそ普通ではない。
攻撃を終えた今、目の奥にはまだ燻る炎が灯っており、その異常性は誰の目にも明らか。
言っても聞かない彼にはキラーもやれやれと溜息をつく。
これまで何度も忠告してやったが聞いた回数の方が少ないかもしれない。
それだけ彼を御するのは難しく、たとえ仲間であっても言うことを聞かない人物だった。
過程がどうあれ、ひとまず戦闘を終えて一息つくことができるのは確かであろう。
軍艦の残骸が浮かぶ海を眺め、キッドはキラーへ問いかけた。
「なぁキラー、こいつらをどう思う」
「こいつらとは? 今おまえが潰した海軍か、それとも民間人を装った海賊か?」
「両方さ。つまらねぇとは思わねぇか? おれはこいつらの思考に呆れて反吐が出そうだ」
キッドの足元にはアタッシュケースが三つ置かれている。
それをちらりと見た後、視線はキラーの顔へ。
どうやらキラーもそれを確認した様子だ。
「たかだか三億ベリーのために大の大人が不正だなんだと騒ぎ立て、しかもそう言ってる連中が海賊と来たもんだ。海の覇権を争う海賊が、仲良くお手て繋いでレースごっこで満足か? こんなくだらねぇ連中が伝説の海賊島の住民だと思うと、おれァ悲しくて泣けてくるよ」
「確かに、情けない話ではあるか」
「海賊ってのは勝つか負けるか、生きるか死ぬかだ。ルールなんざ必要ねぇ。勝った奴だけが栄光を手にすることができる。なら勝者であるおれが決めても間違いじゃねぇだろう」
立ち上がったキッドが好戦的に口元を歪め、狂気すら表し、海を睨んだ。
「レースの結果なんざ知ったこっちゃねぇさ。ここで改めて勝者を決める。賞金を手に入れるのは誰か、殴り合って決めりゃいいだけの話だ。オッズの通り“将軍”ガスパーデか、あのクソ生意気な“麦わら”か、それとも別の誰かか。辿り着いた奴から潰してやる」
現在、彼らが居るのはデッドエンドのゴール地点である“パルティア”という島だった。
レースに先んじて関係者が入っており、結果が決まる瞬間を見ようと訪れていた海賊も多く、それなりの賑わいを見せていた。しかし昨夜、突如強襲したキッド海賊団によって壊滅。見るも無残な姿となってもはや大会本部も機能していない。
反抗した者は悉く地べたを舐めることとなった。
賞金はすでにキッドの足元。言わばキッドがレースを乗っ取ったとも言える。
最初から海賊レースになど興味はない。やりたいことなど一つだ。
果たしてこの盛大な催し物にどれほどの猛者が集まるか。
やっと心が躍る展開になりそうで、キッドの上機嫌さは留まるところを知らなかった。
一方でキラーは物憂げに考えていた様子である。
果たしてそう上手くいくのか、と考える。
一癖も二癖もある海賊ばかりがこの島を目指しているのだろう。しかしその内の何割が島へ辿り着くことができて、何人の海賊が納得して戦うというのか。
下手をすれば、敢えて両手を上げてしまう敵が居るかもしれない。
好戦的なキッドはそんな人間が居るとは考えていないらしく、そこが引っ掛かる。
ともかく、激しいレースを生き残らなければゴールには辿り着けない。
今は何を考えようと無駄で、今の彼らにはひとまず待ってみることしかできなかった。
「さて、どうなるか……」
「なぁに、悲観的になる必要はない。時間が来れば結果は自ずとわかる。今はただ、ここで胡坐をかいて待ってりゃいいだけの話だ」
誰かが来るのを楽しみにしているのだろう。そう言ってキッドは笑みを消さぬまま、戦闘の余波で転がっていた酒瓶を持ち上げ、少量残っていた中身を煽る。
その様子にキラーは思わず無言で心配を募らせた。
今はまだ沖に誰の姿も見えない。
一番乗りは誰か。興味はない訳ではないが、やはりすっきりしない予感があった。