予定通りに航海を進め、そろそろ追い上げるかと船が進む速度を増した頃だった。
時間は進み、早くも夜が近付いている。
曇天のため辺りはすでに暗くなっていて、どこか空気の重みも変わってきたように感じる。なぜかを考えていると、前方に奇妙な物を見つけて気付いた。
何かがおかしい。
メインマストの天辺に居たウソップは望遠鏡を覗き、ようやくそのことを知ったのだ。
「お、おいナミ! 前方に島がある!」
「何言ってんのよウソップ。予定よりまだ早いわ。そんなはずが――」
「しかも、なんか海賊船が山ほど沈んでるぞ! 一体どうなってんだこりゃ!?」
甲板でウソップの報告を聞いていたナミは表情を歪ませる。
理解ができない。今回の航海はミシェールに協力を仰ぎ、計算ずくの航路だ。これまで大きなミスもなく順調に進んできた。予定では朝を待たずに一位を奪えるはず。
つまりウソップの報告は彼女の計画を完全に狂わせる物だった。
そもそも、まだ到着する時間ではない。距離はそれなりにあるはずだ。
その一言だけで異常事態を理解する。
咄嗟に船の前部まで駆け寄ったナミは自身が持つ双眼鏡を覗いた。
前方、確かに島がある。だが島の形は聞いていた物とは違っている。明らかに違った目的地を目指して進んでいたらしい。
ではナミが指針を見間違えたかと言えば、そうではない。
ここまで彼女は指針の通りに進み、一度のミスもしなかったのである。確認できるのは航海士のナミしか居ないものの、自慢でも自惚れでもなく、間違えていない自信があった。
まさか、と今になって気付く。
この状況下で思いつくミスは一つだけだった。
そもそも最初から間違ったエターナルポースを握っていたのだとしたら、その指針の通りに進んでパルティアに辿り着けるはずもない。異なる島を見つけるのも当然だ。
ナミは懐から取り出したエターナルポースをじっと見つめだした。
「このエターナルポース、まさか……」
「ナミ、ひょっとしてまずい状況? どうなってるの?」
「シルク、ナイフ持ってない?」
「あ、今は持ってないけど、取ってこようか?」
「お願い。もしかしたらまずいかもしれない……」
声をかけてきたシルクに頼み、一旦離れた彼女はすぐに船の中へ入って、ナイフを持って戻ってきた。慌てた歩調でナミへ駆け寄り、それを渡す。
受け取ったナミはそのナイフで目的地が書かれた板金を剥がそうとする。
さほど苦労せずに板金は剥がされた。
そして彼女たちは驚愕する。
“パルティア”と書かれた板金の下から現れた真の目的地は、“ナバロン”。あまりの鉄壁から“ハリネズミ”の異名を持つ海軍要塞である。
渡されたその時からすでに細工がしてあったのだ。
今になって気付いたことでナミは悔しげに歯を食いしばって、自らの愚かさに苛立つ。
「やられた……! 何か変だと思ってたのはこれだったのね。まさか偽物掴まされるなんてっ」
「これ、どういうこと? 確か主催者から直接受け取ったんだよね。それじゃあ私たちを陥れたのは、レース関係者の人間ってこと?」
「違うな、ガスパーデだ」
唐突にシュライヤが声を出し、全員がそちらに注目を向けた。
彼は怒りを滲ませる顔で静かに語り出す。
「まさかこんな手に出るとは思わなかったが、あいつの仕業に間違いない」
「ガスパーデがこれを? だって私たちは胴元から受け取ったのよ。一体どうやって」
「つまり、その胴元がグルだったってことだろう。さしずめ金を握らせて協力体制だったってとこか。そこまでして勝ちを取りに来るとは予想していなかった」
「そんな――」
「これが、ガスパーデが名を上げた理由だ。勝つためならなんでもやる」
事情を知っているかのようにそう語り、シュライヤは忌々しげに表情を歪めていた。
噂の通りだと納得する。
本物のガスパーデに接したのは初めてだったため、まさかレースの概念その物を覆してくるとは予想できなかったが、こうなったところでおかしくはないと考えていた。
ただ、やはりしてやられたという想いが強い。
遺憾に思うのは誰もが同じだったようだ。
重苦しい空気が漂う。
予想外の事態に沈黙が続き、どうすべきか逡巡する。
船上にはかつてない雰囲気があった。
帽子を深くかぶったシュライヤが口火を切る。なんとかこの状況を変えなければならないと焦る心があるようで、声色は厳しい物に変わりつつあった。
「偽のエターナルポースが配られたか。これでゴールには迎えなくなったってことだ」
「なんで?」
「グランドラインの航海には普通のコンパスが使えねぇ。目的地に到達するにはログポースか、エターナルポースが絶対不可欠だ」
ルフィの問いに答えた後、シュライヤの言葉に反応したのはナミである。
「でも、ハンナバルはログが溜まらないし、この船には他のエターナルポースもない……」
「そ、それじゃ、ガスパーデを追っかけることも」
「できねぇってわけだな」
煙草から口を離したサンジが後を告げる。
今のメリー号には、ナバロン以外の島を目指す方法がない。
改めて現状を理解してから、冷や汗を流す者も少なくなかった。
「どうしよう……このままじゃ要塞に突っ込んじゃう。他に行く当てなんてないし」
「指針を無視すればっ。別に真っ直ぐ進む必要もねぇだろ」
「ルートを外れたところで、その後どこにも行く場所がないわ。適当に進んだって島へ辿り着ける保証なんてない。指針を見失うことは、グランドラインじゃ死を意味するのよ」
「それじゃ――」
呆然としたウソップが呟く。
ナミはこくりと頷いた。
「私たちは指針を見失った。奇跡に頼らない限り、もうどこにも辿り着けない」
船上の空気がより一層重くなる。
航海に関する知識は誰よりもナミが長けていた。そのナミが言う以上、もはや異論を唱えられる者は一人としておらず、ただそうなのだろうと理解することしかできない。
だが、それでは納得できないのも事実で。
狼狽する声はそこかしこから上がった。
「どうにかできねぇのかよっ。このまま終わるなんておれは嫌だぞ」
「それに、どっちにしろ要塞に突っ込むってのは無しだろ。難しいにしても針路を変えねぇと、おれたち死んじまうだけじゃねぇか!」
「ねぇナミ、針路を変えよう。あそこにだけは向かえないよ」
「わかってる……けど、今の私じゃ、ここからどっちに行けばいいのかさえ」
ルフィが、ウソップが、ナミが自分を頼っている。何とかしてやりたいと思う。だがどうにもできない自分に苛立ち、ひどく後悔する声で返答が出された。
どうやらナミも平静さを掻いているらしく、それを見た仲間たちはさらに混乱してしまった。
この状況を打開するにはどうすればいいのか。
判断できる者がおらず、空気が停滞する。
その時を感じ取って、いつの間にか甲板へ来ていたアナグマが言った。
「ガスパーデがやったのは間違いないよ。あいつの船で、大量のエターナルポースが積まれてるのを見た。多分それだろ」
「アナグマ。あんた、ガスパーデの船に?」
「望んで乗ったわけじゃない……たまたま助けてくれたじいちゃんが、あいつらの下で働かされてただけだ。あんな奴ら、仲間じゃない。じいちゃんが苦しんでるのに、あいつら……」
ぎゅっと拳が握られる様を目撃した。
気になったビビが一歩近付き、顔を覗き込むようにして問いかけた。
「おじいさん、体が悪いの?」
「治らない病気じゃないんだ。でもあいつら、仲間じゃないからって薬も買ってくれない」
「それでこの船に……」
「もう遅いよ、すべてが遅いんだ! 今からじゃガスパーデにも追いつけない! もう何もかも遅すぎる……どうしようもないんだよ」
俯いてしまうアナグマに視線が集まり、何と声をかければいいかもわからず。
そんな時、ルフィは前方に見える島へ目を向けた。
航海の細かな知識は持っていない。全てナミに任せてきたからだ。それでもまだ負けたくない、終わりにしたくないという想いがあって、何をすべきかを必死に考える。
こんな時、キリが傍に居ればどうしただろう。
居ないことを悔いても仕方がないが、彼ならばなんとかできただろうか。
そう考えて思い出す。
出航の前に交わした彼の言葉があった。
ルフィは慌ててズボンのポケットに手を突っ込み、それを取り出す。
エターナルポース。困った時に使えと言われていた。
唐突に取り出されたそれを見て、表情に驚きを表したナミがすぐに尋ねる。
「ルフィ、それエターナルポースじゃない」
「ああ。島を出る前にキリからもらったんだ。困った時に使えって」
「あいつ……まさか気付いてたの? だったらなんで言わないのよっ」
「ちょっとそれ見せてみろ」
動揺しているのはナミだけではない。この状況においてはこれ以上ない助け船であったが、だからこそ違和感も付き纏い、どういうことだと皆が不安を抱く。
思わず歩み寄ったサンジがエターナルポースを受け取った。
台座に刻まれた目的地の名は、彼らが本来目指すはずの場所だった。
「パルティア……これがゴールまでの道筋か」
「やっぱり、あいつ」
「最初から気付いてた?」
「どういうことだよ。そういやキリの奴、昨日ほとんど居なかったよな」
パルティアと刻まれた台座に視線が集められ、動揺する声が疑念の言葉を生む。
なぜ知っていたのか、と言うよりもなぜ教えなかったのか、こちらの方が気になる。その時間と機会はあったはずだ。わざわざエターナルポースを用意する時間があったのなら確実に彼らをゴールへ導くこともできたはず。今この場に居ないことも改めて疑問だ。
キリへの不信感が募っていくかのようであった。
不穏な空気が漂いつつある甲板を見回し、唐突にゾロが口を開く。
「この際理由はどうでもいいだろ」
腕を組んで厳しい表情。しかしキリを非難する様子はない。
一身に集めた視線に対して、彼はきっぱりと言った。
「なぜ言わなかったかより、今はこれからどうするかだ。ゴールまでの指針はある。ルフィ、このまま見逃す気はねぇんだろ?」
「当たり前だ。ガスパーデを追うぞ」
「なら今はそっちに集中しろ。今回は相手が相手なんだ。油断すればやられるのはこっちだぞ」
毅然とした口調で告げられたせいか、仲間たちの表情が変わる。それと同時に、仲間を疑う揺らいだ気持ちが薄れて、この状況をどうすべきかを優先して考え始めた。
そのエターナルポースは希望だ。
今はこれに頼るしかなく、事情はどうあれキリに救われた気がする。
エターナルポースはサンジの手からナミへ渡った。
直後にルフィが強い眼差しで彼女を見つめる。
「ナミ、追えるか?」
「うん。これさえあれば大丈夫」
「それじゃあ出航だ! ガスパーデをぶっ飛ばしに行くぞ!」
ルフィが雄々しく叫んだことで、仲間たちは大声で応え、針路を変えるため操船へ動き出す。一気に船上がドタバタと騒がしくなり、あちこちで指示を飛ばす声が聞こえる。
その中で唯一、ルフィだけは動いていなかった。
顔の向きを変えて視界に入れるのは小さな影。
俯いたまま突っ立っていたアナグマに目をやって、ひどく静かな表情だった。
歩き出す彼はゆっくり近付いていく。
気付いたアナグマが顔を上げ、やっと彼の顔を見た。
約一メートルほどの距離を置いて向かい合い、視線がかち合って、騒がしい甲板で彼らだけが妙に静かな空気に包まれている。
やがてルフィがアナグマへ言った。
「おまえどうすんだ?」
「え? どうするって……」
「欲しいんなら小舟やるよ。あそこは海軍の基地らしいから、助けてくれって言ったら助けてもらえる。もう海賊にこき使われなくてもいいぞ」
「うっ……」
歯を食いしばってアナグマが呻いた。
思わず顔を伏せてしまいそうになるが、必死に耐えてルフィから目を離さない。
尚も彼の追及は続く。
「半端な覚悟で向き合えるもんじゃねぇぞ、海賊は。死ぬことは恩返しじゃねぇんだ」
「そんなことわかってるよ! でも、おれはガキだし、大人には勝てねぇから、死ぬ気でやらなきゃじいちゃんは助けられないと思って……!」
「だったら生き抜いてみせろよ。そんくらいの覚悟があるなら、薬がどうとか言う前に船から助け出すくらいのことしてみろ。やりもしねぇのに口だけで命賭けるなんて言うな」
「おまえなんかに、言われなくたって……!」
痛いほどに拳を握って、心底悔しげに、アナグマは瞳を潤ませて唸った。
その表情を見てルフィはふっと笑う。
「おれはガスパーデをぶっ飛ばしに行くぞ。来るか?」
「行く! 連れてけ!」
今度こそ子供っぽく笑ったルフィはその叫びを受け取った。
これなら船から降ろす必要はない。たった一言でそう判断したのだろう。
アナグマへ背を向け、彼もまた操船の作業を行うため歩き出した。
そんなルフィへ声をかけて、シュライヤが近付いてくる。
不思議と苛立っているらしい様子の彼は以前とは別人のようになっている。一目でわかるほど身に纏う雰囲気が違うのだ。そうと知りながらルフィの表情は変わらず。
足を止めて向き直れば、シュライヤの声は厳しい物に変わっていた。
「追いつけるのか、あいつに」
「なんとかするよ。おれの仲間に任せとけ」
「今の内に言っておく。おれの目的は最初からガスパーデだ」
帽子の下から覗く双眸は危うげな感情を灯していて。
「おまえが一番可能性が高そうだと判断したから話を持ち掛けたんだ。だからその首を取らねぇで放置してやった。もしこれで取り逃がすようなことがあれば……」
「いいぞ。そん時はおれも負けねぇさ」
「フン」
視線を切り、そっと歩み出すシュライヤの背を見送って、しばし口を紡いだ。
ルフィの目にはシュライヤの中にある激しい感情が映ったらしく、それを見て思い出すのは自らの右腕。今は船に居ない副船長。
復讐。
おそらく目的はそれなのだろう。
推測はしたが多くを語らず、彼もまたシュライヤに背を向けて歩き出した。
目的の人物を理解したならば理由も納得できる。彼らの船に乗ることを望んだのも、今まで戦闘を行おうともしなかったのも、自らの目的を果たすため。仄暗い感情に支配されて、それだけが彼を突き動かしているに違いない。
ただ、ルフィの脳裏にはその道を選ばなかった人物の顔があって。
何も言うことができないのか、はたまたその気がないだけか。敢えてこの場では声をかけることはせず、ルフィもまた船を動かす作業を手伝う。
一方でそちらとは別の位置。
船首の向きを変え、メリー号が進む方向を変える途中、作業の手を止めずにサンジがゾロへと声をかけていた。やけに真剣な顔にも見えて、彼の方を見ようとはせず声だけが向けられている。対するゾロも普段とは違って喧嘩を吹っ掛ける様子ではない。
「正直意外だったな。キリのことは責めねぇのか」
「あ?」
「おまえは船長を立てる性質だろ。何かしら事情があるにしても、ルフィを船長として扱う奴なんじゃねぇかとは思ってたが、副船長には甘いらしいな」
「そんなつもりはねぇ。だが」
珍しく言い淀み、一瞬口がきつく結ばれる。
それを気取られまいとすぐに口を開いて、ゾロもまた言い返した。
「ああいう奴だ。誰かは理解してやらねぇと間違いが起きかねねぇだろ」
「へぇ。そういうもんかい」
足早に、面倒だと言わんばかりの様子で遠ざかるゾロの背を見て一言。
本心であるか誤魔化しであるかは本人にしかわからない。
それでもサンジは煙草の煙を吐き出し、暗くなった空に呟いた。
「それが甘いって思ったんだが、てめぇはそう思ってないのかねぇ」
浮かぶ笑みは何を意味してか。
どちらにしても彼の行動を否定しなかったのは事実だ。
メリー号は確かに針路を変えた。知らず知らずの内に差し伸べられていた救いの手によって。
しかしその一手を皆に隠していたのも事実。
混乱が収まった船上には、一方で動揺も走っており、万事解決という風でもない。
今、一味には不明瞭な、しかし確かな火種が生まれようとしていたようだ。
*
ガスパーデが駆るサラマンダー号は蒸気船であり、船内の下部には船を動かすエネルギーを生むボイラー室がある。明かりもほとんどなく、薄暗い一室で、ボイラーにある大きな火だけが辺りを照らすような寂しげな空間。
そこを管理する人間は“モグラ”と呼ばれる老人だった。
モグラ、そのあだ名をつけられたのはビエラという小柄な男である。
薄汚れたツナギとシャツを身に着け、手袋や靴まで所々が煤けており、禿げあがった頭には普段帽子を被っているものの、今は傍へ置いているだけ。
ひどく顔色が悪くて、血色の悪さが身の危険を感じさせた。
毛布に包まって動けない彼は今、病に苦しんでいたのだ。
以前から兆候はあった。自身も気付いていた。それでも治せなかったのは金がなかったからだ。
病を治す薬を買うことができずに、死を受け入れたくはないがどうすることもできない。
その結果が、苦しみに耐えて尚も生き続けるという愚かな方法。
根性だけでどうにかできる物ではないが、金のない彼にはそうすることしかできず、また金を稼ぐ術を持っていないため贅沢も言っていられなかった。
朦朧とする意識の中、自分はもうだめなのだろうかと考える。
その時心配するのは自身が死ぬことに関してではない。まだ幼い子供を、血が繋がっていないとはいえ、今日まで育ててきたアナグマはどうなるのだろうと案じていたようだ。自分がこのまま死ぬことはまだ許せる。だがあの子だけは死んで欲しくないと、胸の苦しみに耐えて思った。
この船に居たのではきっと未来はない。一人だけでも逃げてくれれば。
そう考えながら昨日から姿を見せないアナグマを案じ、逃げたのだとすれば安堵もできて、ただひたすらに状況を知りたかった。
寝転がったまま大きく咳き込む。
轟々と火が焚かれる音があるものの、ボイラー室は静かだ。
咳き込む音さえ妙に耳へ残り、嫌でも悪い想像ばかりを掻き立ててしまう。
休む間もなく思い悩むビエラが眠れずにいると、何か奇妙な音が聞こえてきた。火の音だけではない、石炭をシャベルで掬い上げる独特の音。長年ボイラーで働いているビエラが聞き間違えるはずもなかった。誰かが燃料を投じている。
たとえ海賊の船にされたとしても、ボイラーは彼の宝。血を分けた子供と言ってもいい。
誰が勝手に触れているのだと、そう考えるだけで怒りが沸き上がった。
「誰じゃ……わしのボイラーに、勝手に触れおって」
震える手で体を支え、よろけながらなんとか立ち上がった。
危なげな足取りで歩き出す彼は壁に手をつきつつ、ボイラーを目指して広大な部屋を進み、隅にあった居住スペースから部屋の中央へ赴く。
やはりボイラーに石炭を放り込む輩が居た。
数は三人。ガスパーデの船なのだから、彼の部下であることは間違いない。
咳き込みながらも必死に声を出し、ビエラは三人へ怒りの声を向けた。
「やめろ! 素人が迂闊に手を出すもんじゃない。わしのボイラーに触るな」
「なんだじいさん、まだ生きてたのか。てっきり死んだかと思ってたが」
三人はすぐに振り返った。
死にかけているビエラを見ても表情を変えず、冷静に返事をする。そこには感情などない。目の前の小さな老人に何の感想も持っていない証だった。
普段滅多に人が降りてこない場所へ三人も。
何が起こったのかわからず、ビエラは彼らへ問いかける。
「一体、どういうつもりじゃ」
「ガスパーデ様の命令だよ。もうゲームには飽きたからゴールへ向かうとさ」
「ゲーム?」
「ああ、おまえは知らねぇのか。今日海賊レースが始まったんだよ。しばらくはゆったり進んで追いついてくる船を待ってたんだが、そんな連中は居なかった。戦闘がないんでつまらねぇとよ」
「フン、くだらんことを……うぅ」
「まぁモグラのジジイにゃ理解できねぇか、海賊の遊びは」
「動けねぇんならそこで寝てな。要するにこいつを放り込めば加速すんだろ」
男の一人がそう言う。
地面に散乱していた石炭をシャベルで拾って、乱暴にボイラーへ投げ込むのだ。
その様を見たビエラは血相を変えて叫ぶ。
「やめろっ!? 手荒に扱うなと言ったじゃろうが!」
「うるせぇな。こっちも命令で動いてんだよ。やらなきゃ船長に殺されんだろうが」
「それなら、わしがやる。おまえたちは手を出すな。上へ行っておれ」
「おっ、話がわかるな。そう言ってくれりゃ早いんだよ」
「じゃあなじいさん。せいぜい死なねぇようにおれらの代わり果たしてくれや」
代わりを務めると言えば、男たちはあっさりシャベルを放り投げてしまった。最初からやる気などなかったらしい。にやけた笑みを浮かべて一切の迷いがなかった。
それでいい。素人が居ても邪魔なだけだ。
ビエラは自らの誇りにかけて、大事なボイラーへ向き合おうとする。
痛む腰を曲げ、シャベルを拾い上げようとした時、ふと思った。
アナグマはどこへ行ったのか。
心配から彼らへ問いかけていて、三人も声に気付いて足を止めると平然と答えた。
「待て。アナグマは……ここに居た子供を知らんか? 昨日からずっと戻っていない」
「あ? あぁ、あのガキか。あいつなら出てったよ」
「出ていった? なぜ」
「海賊の首を取りに行ったのさ」
「なんじゃと……!?」
驚愕して一瞬胸の苦しみを忘れる。
背を伸ばしたビエラは自身の不調の一切を忘れ、目を大きく見開いた。
「海賊のところに行ったのか!? 一体なぜそんなことに!」
「ガスパーデ様の言うゲームだよ。あいつが賞金首を捕まえたらおまえの薬を買ってやるとよ。ついでにあのガキを仲間にするらしいぜ、海賊のな」
「なんてことを……アナグマ、今どこに」
「知るかよ。ま、戻ってくるわけねぇがな。ガキが賞金首に勝てるはずねぇ」
「あのガキはもう終わりだ。残念だったなじいさん、薬は届かねぇってよ」
大きな笑い声を響かせながら三人はボイラー室を後にする。
嘲笑であろうそんな声すら届かず、ビエラは呆然とその場に座り込んでしまった。
彼らの言う通りだろう。特別鍛えられた訳でもない、悪魔の実も食べていない、どこにでも居る普通の子供でしかないアナグマが海賊に勝つことなど不可能。もし本当に賞金首に直面してしまったのならば生きて帰れるはずがなかった。
そう考えて、目の前が真っ暗になった。
何のための人生だったのか。
あの子を拾ってやって、何をしてやれたというのか。
汚い手袋を付けた右手で目元を覆い、彼はしきりに後悔の言葉を吐く。
「くぅっ、すまん。わしが病になどならなければ、こんなことには……!」
目頭が熱くなり、胸の苦しみが増していた。
後悔したところで遅く、今からでは何をしても間に合わないだろう。
最悪な想像ばかりが頭の中に広がって、尚更彼の心を苛んだ。もうだめなのか、アナグマの顔を思い浮かべてそればかりを考えている。
顔から手を離した時、不意に地面のシャベルが目に入った。
その時、ふと考えつく。
ビエラとサラマンダー号は、ガスパーデがある町を襲った時、たまたまそこにあったから力尽くで奪われただけだ。ビエラ自身はガスパーデに対する忠誠心など持っておらず、自らが世話をしていたボイラーが心配だから船を降りなかっただけである。
自分が海賊に抗えるはずもなく、今日まで命令に逆らったことはない。
しかし病に侵され、アナグマを失ったと思い込む今、その限りではなかった。
ガスパーデへの報復の方法が一つだけある。
それは彼にとっても苦しい道だが、ガスパーデを道連れにできるなら本望。
いつしか決意は固まっており、ビエラの手がシャベルを持ち上げた。
「アナグマ、すまんかった。ボイラーに拘ったわしがここを離れなかったせいじゃ。本当ならおまえが命を賭ける必要などなかったのに。全てわしの責任……ならばせめて、わしはガスパーデを連れて地獄へ行こう。天国のおまえとは会えんかもしれんが」
石炭を持ち上げ、ボイラーへ放り込む。
次から次に投入していき、許容量を気にしない様は本来のプロの手腕ではない。
彼は敢えて許容量を超えようとしているらしかった。
ガスパーデの命令通りに加速して、しかしその後はきっと、タダでは済まないだろう。それでいいと判断していて、もはや決意は揺らがなかった。
ボイラーと死ねるなら本望。
もしもボイラーが暴走して爆発してしまうと、船上に居る海賊たちも無事ではない。
これは戦いだ。ビエラにとって人生初の、彼流の戦いを始めていた。
「これで最期……わしと一緒に、死んでくれ」
そう呟くビエラは火によって照らされ、笑っていた。
応じるように炎が大きく燃え上がり、辺りへ強い熱風が走る。