キリとゾロの会話は続いていた。
もっぱらキリが話しかけ、ゾロが悪態をつきながら返答するのが通例となっているのだが、これが不思議と途切れることはない。外見からはゾロの機嫌がすこぶる悪そうに見えるというのに、笑顔のキリと合わせて傍から見れば、ひどく仲が良さそうに見えるのだから不思議なものである。
彼らはわずかな時間で軽口を叩き合う関係を築いていたようだ。
不思議なのは何もルフィだけではない。キリのこういった姿は船長にも匹敵する何かを感じる。
苦笑するシルクは少し離れた場所に立ち、子供のような彼らをやさしく見守っていた。
ある時、妙な音が聞こえたのでふと塀の方を見る。
いつの間にか外側から梯子が立てかけられていたらしく、見ればコビーが地面に転んでいた。飛び降りて着地に失敗したのだろう。痛そうに顔を歪めて頭を擦っている。
流石にキリやゾロも気付いたようだがその場から動かず。
外で何かあったのだろうかと気にしたシルクが彼の下へ駆けつけた。
「どうしたのコビー? なんで基地の中にまで。用があったら外から叫んでくれればいいのに」
「いてて……い、いえ。ぼくもみなさんの傍に居ようと思って」
「え? 何かあった?」
「その、リカちゃんと約束したんです。ちゃんとみんなで帰ってくるって。ぼくは戦えるほど強くありませんし、何もできませんけど、みなさんの傍に居ることはできますから。ただのお邪魔虫になる可能性高いですけど……友達ですから、最後まで見守りたいんです」
照れたように笑いながら、コビーはそう言った。
話しているだけでわかったがやはり根っからの善人だ。彼の気遣いに嬉しくなったシルクは転んだ彼に手を貸してやり、引っ張って立たせた。
転んだことに恥ずかしそうだったがそれを笑ったりはしない。
コビーのやさしさは大切な物で、誇るべき物。海兵になりたいという夢を応援したくなる。
些細な言葉で胸の内が温かくなり、シルクは穏やかに問う。
「リカちゃんはどうしてる?」
「家に帰りました。おいしいごはんを作って待ってるって」
「そっか。じゃあ絶対無事に帰らないとね」
「はい。……って、どうしてまだゾロさんは縛られたままなんですか?」
「ちょっとね。キリがそうしておいた方がいいって言うから」
「はぁ」
理解できないといった風情でコビーがゾロを見れば、彼は彼で顔をしかめている。また厄介な奴が増えたと思っているのだろう。
シルクとコビーは歩き出し、二人の近くまで赴く。
新たにやってきたコビーに対する視線は厳しい物で、ゾロはぽつりと尋ねる。
「誰だこいつは。またおまえらの仲間か?」
「だってさコビー。ボクらの仲間になる?」
「な、なりませんよ。ぼくは海兵になるって決めたんですから」
「そういうことだから違うよ。ただの友達」
「友達ねぇ。おまえ、つるむ奴は選んだ方がいいぜ。こいつらと一緒に居たら疲れるだろ」
「それって褒めてる?」
「褒めてねぇよ。どう聞いたらそうなるんだ」
軽快なやり取りに驚き、コビーが苦笑する。
キリと話すゾロは全く怖くない。それどころか、風貌と違って悪人にも見えなかった。
やはりリカから聞いた話に間違いはないのだろう。彼は人助けをして捕まった。それも責任を取ろうとしないヘルメッポの、或いはその父親の権力によって。
正義であるべき海軍の無残な姿に唇をきゅっと結ぶ。表情は悔しげだった。
そんなコビーには注視せず、相変わらずの会話は続く。
「大体おまえら、何しに来たんだ。人を脅迫するくれぇなら金持ちを狙えよ」
「お金には困ってないよ。今のところはね。それより必要なのは仲間だ」
「他を当たれ。おれはやることがあるっつったろ」
「海賊になってもできることなんじゃないの? それなら船はあるし、お金もあるし、迷子にならなくても済む。ボクらと一緒に来た方がいいんじゃないかな」
「結構だ。間に合ってる」
「迷子になって賞金稼ぎになったくせに」
「おまえは人をイラつかせる天才か? 迷子じゃねぇって言ったろうが」
「でも村に帰れなかったんでしょ」
「帰らなかったんだよ。野望を果たすまでは甘っちょろいこと言ってる場合じゃねぇからな」
「さっきと言ってること違うと思うけどなぁ。まぁいいや。そんなことより仲間にならない?」
「自由になったらまずおまえを斬ってやる……」
ああ言えばこう言い、人の話を聞こうとしないキリにゾロは凶悪な笑みを見せていた。思いのほか肩を並べてみたら息は合うのではないかとシルクは思う。
ただその時、今来たばかりのコビーはゾロの言葉に違和感を覚えた。
仲間にはならない。だが自由になる時を待っている。
これは一体どういうことだろうか。
事情がわからずに彼らをやり取りを見守るしかなかった。
「大体、おれはおまえらに助けてもらう必要なんざねぇんだ。ここに一ヵ月突っ立ってりゃ釈放するとあのバカ息子が約束した。もう九日耐えた。あとはそう長くねぇ――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
話を聞くだけだったコビーが叫ぶ。
今の話に更なる違和感を覚えた。おそらく予想は間違っていない。
ゾロの言葉を止めさせてキリを見る。今や必死で、ゾロの機嫌を伺っている場合ではなかった。
「キリさんっ、まさか話してないんですか?」
「あぁ、そういえば言ってなかったね」
「どうして! 一番大事なことじゃないですか!」
「まぁまぁそう怒らずに。どっちにしたってルフィは助け出すだろうしさ、今更大した問題じゃないよ。どの道やることは同じだ」
「そ、そんな理由で……」
「おい、何の話だ」
疑問を持ったゾロがコビーを見て尋ねる。キリに聞いたところで無駄だと判断した様子。そう思われたキリも大して気分を害した様子もなく笑っていた。
言っていいものかどうか。確かに無駄な不安を煽るだけかもしれない。
そう考えた直後にそんな柔な人間ではなさそうだと判断した。
意を決してゾロと目を合わせたコビーは真実を伝える。噂を聞いた後、道を行く町民に尋ねて、改めて真実味を得たその話を。
「ゾロさん、あなたは解放されません。明日になったら処刑されるからです」
「あ? 急に何言い出しやがる」
「嘘じゃありません。あなたがバカ息子って言ったあの人が、町中を歩きながら言いふらしてたらしいんです。何人も目撃者が居ました。偽物じゃなくて本人だって」
「なんだと……」
「あなたを落ち込ませた後で処刑するつもりだったんです。あの人ならそれもやりかねない……だからルフィさんは助けに来たんです。リカちゃんと約束したから」
コビーの必死な様子に嘘だとは断じない。本当なのだろうと思った。
不意に視線を動かしたゾロは目の前に座るキリを見る。
今も変わらず笑顔のまま。地面に手をついて姿勢を崩し、妙にリラックスした状態だ。
「知ってたのか?」
「噂程度にはね。本人に聞いたわけじゃないよ」
「チッ。そういうことか」
納得がいったように舌を鳴らす。なぜ彼らが来たのかようやくわかった。
初めから結果はわかっていたのだ。助かる術はなかった。言わば九日間自分を奮い立たせて耐えていたのは全て無駄。どう転んでも死ぬことは決まっているのだ。
やりきれない想いを抱いて何も言えなくなってしまう。
覚悟は無駄だったということか。急激に脱力感が増していた。
思わずゾロは自嘲して笑う。
「怖い顔」
「うるせぇ。結局、全部無駄だったってことだな」
茶化してくるキリの一言をばっさり切り、小さく溜息をつく。
「心配いりませんよ。きっとルフィさんが助けてくれますから」
「それも納得いかねぇんだよ。何が嬉しくて海賊なんぞにならなきゃならねぇんだ」
助け舟を出すように見えたコビーにも彼は冷たく。
彼らに助けられることその物に対して良い印象を抱いていない。自分が死ぬかもしれない危機的状況で、何やらこだわりを見せていたようだ。
おそらくそれ以上話しても理解は得られそうにない。
大人しくコビーは引き下がり、ゾロが見つめる相手はキリとなった。
いつの間にか笑みは薄まって少し真剣な表情。数秒、無言で視線がぶつかる。
「先に言っとくが、おれにはやらなきゃならねぇことがある。ここでくたばるわけにはいかねぇし、死ぬわけにもいかねぇ。悪いが海賊にはならねぇぞ」
「でもこのままじゃ死ぬよ。縄を解く条件は海賊になることだ」
「なんでそこまでおれに拘る。他所の人間じゃいけねぇ理由があるのか? それとも、あのガキに絆されちまっただけか」
「理由ならルフィに聞くといい。すべての決定権は船長が持ってるから」
「おまえは命令に従うだけってか」
「そういうわけでもないけど、今回は同じ気持ちだね。君を仲間にしたいと思ってる」
「理由は?」
「野心を持ってる人が好きなんだ。特に簡単には折れないような強さの方がいい」
佇まいを直し、キリは静かに立ち上がった。
目線はほとんど変わらない。身長はゾロの方が高いが体勢のせいか正面から目が合った。
「別に脅迫しなくてもいいくらいだけどね。野望を果たすためなら海賊になるのも悪くないと思うよ。探し物があるんでしょ? どの道航海はするんだから」
「わざわざ悪名を高めたい奴はいねぇだろ」
「じゃあどんな野望を持ってるのさ。ここに一ヵ月突っ立ってなきゃできないこと?」
「いや……」
「言いたくないなら聞かないけど、ここから逃げたら海軍に追われることになる。そうなったらどっちみち海賊になるのと変わらないよ。ただ一人で逃げるか、みんなで逃げるかだけの違い。権力に逆らうならそれ相応の覚悟をしておかないと」
ゾロは何かを思案するように視線を落とした。ひどく真剣な表情で、茶化すようなキリの言葉にも反応しない。しばらく黙った後で顔を上げて再び視線を交える。
「おまえはなんで海賊になったんだ。夢でもあんのか?」
「あるよ。ルフィを海賊王にすることだ」
「海賊王……そういや言ってたな。真面目に聞いちゃいなかったが」
「グランドラインを制覇する旅路だ。ひょっとしたら探し物も見つかるかもよ」
「フン」
頭では理解できていた。このままでは海軍に殺されて終わりだ。
生き残るためには海軍と戦わなければならない。そしてその先にあるのは海賊と同じく、犯罪者として扱われる道。生き残れば海軍に狙われるようになるだけだ。
こうなってしまった以上もはや選択の余地はない。
それでもすぐ頷くには材料が足りず、仲間となる彼らを知らな過ぎる。
平静を取り戻したゾロが静かに言った。
「あいつが戻ってきたら、話がしたい。答えはその後だ」
「うん。それでいい」
話が通じないという訳ではないらしい。
可能性を見出したキリは敢えて多くを言わず、答えを彼に任せた。
脅迫などきっと必要ないだろう。すでに答えは持っていると見える。
二人の会話が一段落したと見てシルクがキリの背へ声をかけた。
先程からずっと思っていたことがある。基地の外観を眺めつつ、心配する口調で呟かれた。
「ねぇキリ。ルフィ、大丈夫かな。ちょっと時間かかってるような気がする」
「そう? 心配ないと思うよ。ゾロと同じで方向音痴は間違いないけど」
「おい」
「私もそう思うけどさ。あんまりずっとここに居ると、海兵が――」
そう言っている最中、シルクが瞬時に剣の柄を掴んだ。
様子の変化に気付いて全員が同じ方向を眺め、気付いた。
危惧していた通り海兵の姿を目にする。しかもずいぶんと大勢、数えきれないほどの男たちが武器を手に演習場へ駆け込んできた。
足音は重なり、騒がしくなる。
あっという間に一方向に展開した複数の部隊に、一斉に銃口を向けられた。
一見すれば絶体絶命。四者四様の表情が浮かべられた。
「全員、大人しく手を上げて降伏しろ!」
鋭い声で怒鳴られてコビーの悲鳴が響いた。他の者たちは声を漏らすことさえしない。
キリは微笑んで彼らを眺め、シルクは油断のない様子で剣を抜く準備をしている。また、ゾロは殺気を感じさせる凶悪な目つきでその場に居る者を敵と認識していた。
総勢で二百名は軽々と超え、銃を構えている者だけでも五十名はくだらない。
たった四人を相手に大した戦力を投入したものだ。
整列する海兵をぐるりと眺めて、後からゆっくり歩いて来る大男を見つける。全員が気付いていただろうが一際キリが楽しそうにしていて、ふと彼らの方へ数歩近寄った。
隊列を掻き分けて前へやってきたのは、斧手を持つモーガンだ。
一見すれば善良な市民に見えなくもない侵入者三名を目にし、怯むどころか怒りの形相。
今すぐ発砲命令を出してもおかしくない顔つきをしている。目に見えそうな危険な雰囲気を纏っていた。それは一種の狂気であり、強烈な妄信でもある。
目の前の少年少女を見たモーガンは忌々しげに口を開いた。
「こいつらか。おれの決定に従わねぇ奴らは」
「大佐、彼らはまだ何も――」
「基地の中への侵入はおれが決めた取り決めに従わなかったことになる。おれが下した命令に従わなかった、つまり反逆罪だ」
冷淡な声で端的に告げ、ゆっくり左手が上げられた。
命令が下される瞬間を待つ海兵たちは気を引き締めて引き金に指をかける。その手が振り下ろされた瞬間、即座に発砲しなければならない。でなければ危なくなるのは自分の身だ。
分かり合うどころか話し合おうともせず、すぐさま攻撃が始められようとしている。これに待ったをかけたのは狙われる者たちではなく海兵の一人だった。他の者よりも階級が上であるだろう男は慌ててモーガンを呼び止め、その手が降りる直前で場を止めた。
当然、怒りの形相は彼に向けられることとなる。
「お、お待ちください大佐! 彼らは確かに罪を犯したかもしれませんが、いくらなんでも銃殺はやりすぎなのでは。ただの一度くらい見逃してやっても――」
「おまえはおれより偉いのか」
「え?」
左手が下ろされるより先に、素早く右腕が振るわれる。
一瞬の出来事だった。モーガンに駆け寄った海兵は高速で振り抜かれた斧によって腹を抉られ、大量の血を噴き出す。そのまま声すら出せずに力なく地面を転がった。
誰も悲鳴すら上げられずにその光景を見ており、バチャバチャと音を立てて落ちる血液の量に驚愕する。どう見ても致死量、同時に簡単には塞がらないだろう傷の大きさだ。
その場では耐え切れずにコビーだけが絶叫していた。
声こそ出さないものの、海兵たちの間に拭い切れない不安が走り、覚悟をしていたシルクまでわずかに手を震わせる。まさかこんな光景を見ようとは想像すらしていない。
キリとゾロは冷静さを保ったままだが、その男の危険性は理解できる。
殺伐とした空気が流れ始めた演習場は一気に混沌とした現場と変貌していた。
「他に異論がある者は言え」
モーガンの言葉に反応する者はない。誰もが口を噤んでいた。
それを良しとしたのか、目標をじっと見据え、声色を変えずに言い放たれる。
「ならおれの命令に従え。逆らう者は全員、処刑だ」
再び左腕が掲げられた。
息を呑みながら銃を構え、一斉に発砲準備を整える。
倒れた男を助けていいのか、悪いのか。そんなことさえわからず、判断する間も与えられずに戦闘が始められようとしている。しかし誰もが表情を硬くしていた。
統率はしっかりとれているが全て恐怖によるものだ。決して絶対の様子ではない。
発砲の瞬間、キリは前へ歩き出した。
「撃てェ!」
銃声を聞きながら、銃弾が放たれる光景より、傍に居た人間の唐突な行動に驚いたゾロやシルクがあっと声を出した。名を呼んで止めようとするもすでに遅く、背は離れていく。
銃弾がやってくる。
迷う時間すら与えてくれない突然の攻撃に、走馬灯のように過去の情景が脳裏へ浮かんだ。
しかしそれを理解するより先に目の前の行動に驚く。
勢いよく両腕を振るったキリは、袖から懐から、大量の紙を宙へ放った。バサバサと大きな音を立てるそれはまるで群れのようで、意思を持つかのよう。宙へ飛んだ無数の紙は能力によって操られて動き、硬化し、壁のように連なって四人と海兵とを隔てる。
いくつもの硬質な音。銃弾は紙切れを貫けず、全て受け止められていた。
誰一人傷つけることなく硬化された紙に銃弾がめり込み、丸い形が潰れている。勢いを失くしたそれらは地面へと落ち、同じく紙も連結を外して、ただの紙片としてひらひら落ちた。
異様な光景に海兵たちはどよめきを生んで動揺していた。
キリの後方では同じくコビーが気絶しかねない形相に変化している。
誰もが驚愕する中、シルクだけはほっと息をつき、持ち上げかけた剣を下ろした。ただしその後ろではゾロも血相を変えて驚いており、この瞬間だけは平静を失っている。
奇妙な沈黙。
全ての紙が地に落ちた頃、前を向いたままでキリが背後へと声をかける。
「シルク、二人は頼むよ。もしもの時は守ってやって」
「あ、うん。わかった」
「悪いけどこの人たちもらうね。しばらく能力使ってなかったから、腕が鈍っちゃってしょうがない。ここらで一回リハビリしとかなきゃって思ってたんだ」
無手にも見えるが武器とするのは辺りに散らばったただの紙切れ。
余裕を感じさせるキリは両手を広げ、たった一人で全ての海兵に立ちはだかった。
見れば見るほど生意気な人物だ。
勝算があるのか、顔には笑みが浮かべられていて、緩い態度には緊張感など欠片も無い。
額に青筋を立てて怒りを発するモーガンは周囲の海兵に次なる命令を下す。こうなれば殺さなければ気が済まない。少なくともその生意気なガキだけは自らの手で殺すと決めた。
「チィ、次だ。さっさと構えろ!」
「は、はっ!」
先程銃弾を放った者たちが下がり、すでに弾の装填を終えた部隊が前へ出る。即座に構えて命令を待ち、腕を振り下ろしたモーガンの号令で引き金を引く。
「撃てェ!」
再びの一斉掃射。キリは両腕を振り上げた。
地面に落ちたはずの紙がズズッと異様な音を立てて持ち上がり、壁となって立ちはだかってキリたちの姿を隠してしまい、再び無数の銃弾を受け止める。やはり鳴り響くのは金属にぶち当たったにも等しい音だ。紙を突っ切ることは失敗し、回転する弾は衝撃で潰れてしまう。
発砲が終われば紙はまたひらひら地に落ちた。受け止めた銃弾と共に地面へ広がる。
一歩も動かずに無傷のキリは外見以上の脅威に思え、多くの海兵たちが戦慄していた。
殊更、モーガンが驚きと共に怒りを膨れ上がらせていたようだ。
「無駄だよ。鉛紙って呼んでるんだけどね、紙を硬化させて金属レベルまで硬くしてるんだ。銃弾でも剣でもこれは破けない。少なくとも普通の人間にはね」
「お、おまえ、一体――」
背後からゾロの声が聞こえたことで首だけ振り向き、にこりと笑いかける。
ひらりと舞ってきた一枚の紙片を指に挟み、それを見せながら教える。
「ボクはペラペラの実を食べた紙人間。悪魔の実の能力者だよ」
「能力者……あれが噂の」
彼が呟く間にもキリは右腕を振って指に挟んだ紙を投げる。
能力で硬化された紙片は銃弾のように飛来し、真っ直ぐにモーガンへ迫った。確かに速いが見切れないほどではない。おもむろに腕を振って斧を使い、叩き落す。
固い音を発して地面へ紙が突き刺さる。だが次の瞬間にはへにゃりと力が無くなった。
これが悪魔の実の能力。たかが紙でも立派な凶器だ。
怯え始めた海兵たちを叱咤し、またもモーガンは攻撃を始める。
「銃弾が効かねぇならサーベルに持ち替えろ! 悪魔の実の能力者といっても所詮は一人だ! 四方から一斉に襲って殺せェ!」
雄々しく応えて海兵たちが一斉に動き出す。
サーベルを持つ者が前へ出て走り出し、キリを目掛けて一直線に向かう。
数十名による一斉攻撃だ。常人ならば怯える光景にもキリは表情を変えない。
気楽な様子で右腕を振り上げれば辺りに落ちていた大量の紙が一斉に舞い上がり、円を描いて旋回する。その光景には皆の足が止まった。思わず見上げて見惚れてしまう。
自らの能力で奇妙な光景を作り出し、準備しようとキリが軽く数度ジャンプを繰り返す。
「よし、じゃあ始めようか。できるだけ動いとかないとな」
大口を開けて放心しているコビーや、安堵した表情で見守っているシルクとは違い、じっとその背を見つめるゾロは不可解な点に気付く。
軽く跳んでいるだけなのに妙な動きに見える。
キリの動きは軽過ぎるのだ。
脚力が優れているという訳ではない。遠目に見ている限りでは特別筋力が発達しているという意味ではなく、単純に体重が軽過ぎると思える。彼の背丈はルフィとそう変わらず、シルクより少し高い。しかし身のこなしを見る限りでは彼女よりも軽いのではないだろうか。
悪魔の実の能力者だと言っていた。自分は紙人間だ、とも。
いまだ不可解なことが多数あり、ただ彼の強さはすでに理解できたようで、ゾロは密かに小さく舌を鳴らす。様々な点からやはり厄介そうな奴だった。
「来ないんならこっちから行くよ」
身動きが取れない海兵たちに告げて先にキリが動き出す。
人差し指を伸ばして腕を振り下ろし、宙を舞う紙は一斉に海兵たちの頭上から降り注ぐ。慌てふためき身を強張らせ、中には目を閉じてしまう者も居たが、降り注ぐそれはただの紙。硬化されておらず誰一人として怪我を負った者はいない。だが目くらましには十分過ぎた。
素早く駆け出していたキリはあっという間に混乱する集団へ入り込む。
敵の懐へ入り込み、一人の男が思い切り腹を蹴られた。
細身ながら外見以上の力を見せた攻撃は男の体を軽々飛ばし、他の海兵へ激突する。流石にもう悲鳴を堪えることは不可能で、舞い落ちる紙によって視界も悪い中、すでに攻撃が始まっていると知った海兵たちは怯えずにはいられなかった。
至るところに紙があった。そして全ての紙はキリの支配下にある。
近くにあった無数の紙を手元に引き寄せ、剣の形を作り出した。さらに硬化させて金属のそれと遜色ない様相となり、紙の集合体であって、切れ味鋭い刃を持つ武器となる。
鉄製のサーベルへ向けて紙の剣を振り、当てて、高い金属音を響かせながら弾き飛ばす。
たったそれだけでも再び空気が変わっていた。
彼は敵の武器の狙いを逸らさせ、態勢を崩した敵を左手で殴るか蹴り飛ばした。
慣れが伺える動きは軽快で素早い。
見る見るうちに海兵が倒され、混乱はますます大きくなっていった。
「全員で囲め! 速いぞ!」
「誰か捕まえろォ! 相手は一人だけなんだぞ!」
混乱する状況の中で怒号が飛び交う。だがキリを捕まえることはできなかった。
振り下ろされるサーベルを避け、金属音は鳴り止まず、鈍い打撃の音まで聞こえる。
人数の差がありながら猛攻は一方的だ。
圧倒的な強さでキリが敵を退けて、縦横無尽に駆ける。
その動きのなんと軽いことか。
一度地面を蹴れば数メートルは跳び上がり、ふわりと宙に滞空する時間が常人より長く、空から敵の立ち位置や混乱ぶりを確認できる。どこが弱点で、どこが強いか。的確に見抜いて次々襲い掛かっていく。ほんの一瞬の出来事ながらその判断は誰にも真似できないような代物だった。
落下してきて一瞬で数名の海兵を吹き飛ばし、また舞い上がる。
ただそれだけの動きでさえも止められない。動きは素早く、身軽さに秀でている。
周囲に海兵が居ない地点へ着地した時、気付けば紙の剣が両手に持たれていた。
四方八方から襲われるが逃げもしなければ慌てもしない。
軸足を一本、その場でぐるりと回転し、向かってくる相手に対して激烈な斬撃を与えた。
初めて血が舞う。
ただ硬いだけの剣ではなく切れ味を持つ刃だと、証明された瞬間だった。
傷は浅いが腹を斬られて痛みに支配されてしまった様子。数名が一斉に倒れて呻き声を上げた。
部隊の士気はさらに削がれて統率が乱れていた。海兵の様子は明らかに変化しており、たった一人の敵にかき乱されて冷静さを保てなくなっている。
空気を変えるべきだと判断したのはモーガンだった。
斧手を振って暴風を起こし、地面にすっぱりと凄まじい亀裂が入った。
その時になってキリの動きは止まり、海兵たちも一斉に後退する。もはや平静で居られる者などおらず、キリの体に注がれる視線は恐怖のみ。言葉を失い沈黙が生まれる。
キリとモーガンの視線が絡み合い、一方は余裕を見せつけ、一方は激怒を表した。
「役立たずどもめ……もう十分だ。おまえらは向こうのガキどもを始末しろ」
「あれ? もう大ボスの登場? まだ調整中だったんだけど」
「クソガキ。貴様はおれが直々に殺してやる」
コートを脱ぎ捨て、身軽になったモーガンが前へ歩き出す。
逃げるように海兵たちが道を開け、キリの周囲から人の姿が無くなった。
二人は必然的に一対一で向かい合う状況となる。
両手には紙の剣。足元には無数の紙片がばら撒かれている。
戦闘の準備は十分だった。
キリは敢えて動かずに待ち構え、モーガンが距離を詰めてくる様を見守っている。
「小僧、無知なおまえに教えてやろう。この世は偉い奴こそ正しい。そしてこの斧手のモーガンはこの町において最も偉い。つまりおれには貴様を処刑する権利がある」
「別にそれでいいよ。正義にも悪にも興味ないし。ただ、問題は力があるかどうかだよね」
「なに?」
「この首、そう簡単に落ちないよ」
紙の剣で首筋を撫で、キリはしたり顔でそう言った。
途端にモーガンは我慢できなくなり、荒々しく駆け出そうとする。
「大口を叩けるのもここまでだ――」
強く地面を踏みつけて走り出し、斧手を振り上げながらモーガンが走る。
大柄だというのに素早い動きを見据えてキリは剣を構えて待った。
「おれを誰だと思ってやがる! おれは斧手のモーガンだ!」
「知ってるよ。名前だけは有名だからね」
距離は一気に詰まった。
全力で振り下ろされた斧手を二本の剣で受け止める。凄まじい衝撃が周囲まで届きそうなほどで、激突する二人に目が釘付けになり、全員が動きを止めていた。
キリがモーガンの攻撃を受け止めたのだ。
今日まで多くの人間を始末してきたその強烈な一撃を、真下から受け止めている。
交差した二本の紙の剣は重厚な斧を受け止めても壊れない。そればかりかキリの表情から余裕が消えている訳でもなくて、体格差を物ともせず、互いの獲物は拮抗していた。
「こいつ……!」
「ぐっ、流石に結構すごいけど……やっぱり落とせなかったね」
「ぬかせッ!」
モーガンが腕を振ったことでキリは自ら後ろへ跳び、二人の距離が開く。
仕切り直しで武器を構え直して向かい合った。
両者の表情に違いはあるが、どちらも明らかな強者であることに間違いはない。海兵やコビーは格の違いに背筋を凍らせ、呆然と眺めるシルクも冷や汗を掻いている。
その中でゾロだけは面白いとばかりに笑みを浮かべていた。