各地で戦いが起こり、終わり、また次の戦いへ移行していく。
広大なアルバーナの町が安らぎを得ることはなく、いまだ戦争は続いている。
反乱軍が到着していないのにこの荒れよう。本隊は今頃動き出しているはずだ。必ずそう時間をかけずにこの町へ到達する。その時一体この国はどうなるのか。
壊れかけた家屋の屋根の上でしゃがみ、町並みを眺めるニックの顔には薄い笑みがあった。
「人の力ってのは恐ろしいもんだね。あんなにきれいな町並みがたった数時間でボロボロだ」
以前確かに見たはずの景色はもうない。多くが破壊されてしまっている。
かといって心は痛まない。彼にとってはさほど思い入れもない場所だ。
ニックは、旅をする賞金稼ぎである。
拠点を決めずグランドラインを流れに流れて、捕まえた賞金首を海軍に突き出し、金を手に入れて生活している。特に目的がある訳ではない。
それ故に壊れた町を見て、人々の悲鳴を聞いて、「そういうこともある」程度にしか思わない。
「これじゃどっちが勝っても復興が大変だねぇ。そういう意味じゃ、どっちに転んでも結果は同じってことか。ま、おれは最初からどっちでもよかったんだがな」
言いながらニックは右を向く。そこにはいつの間にか、静かにキリが立っていた。
「君はどうだ? 今はどっちについてるんだ?」
「関係あるのか」
「あるさ。仮に仲間だとしたら、戦う必要はない」
一人で来たキリは怪我の治療を受けており、所々に包帯を巻いている。だが怪我をしたのはつい先程の出来事。万全な状態であるはずがない。
それなのに自分の前へ立った彼を、ニックはイカレていると判断していた。
目を見ればわかる。彼は標的を仕留めるためにやってきたのだ。
「どっちだっていいさ。どっちにしろ、お前は逃がさない」
呆れた様子でニックが目を伏せる。
彼はゆっくりと立ち上がった。
キリは冷たい目で敵を見据えていて、隠す気も無く殺気を発していた。
あらかじめ話は聞いていたが予想以上。これほど冷たい空気を纏うとは思っていなかった。しかし強いと聞いていたのだから油断はしない。
結局のところ、ニックは初めからこれを求めていただけだ。
金、地位、名声より、欲しいのは心が躍る戦い。
ただ面白おかしく生きていられればいいという彼は、強い敵を探していただけ。
七武海の一人が認めた男ならばきっと楽しめるだろうと、改めてキリに対峙する。
「どんな理由であれ、自分から海賊の世界に首を突っ込んだんだ。これからどうなろうと覚悟はできてるんだろ?」
「嬉しいねぇ。どうにかしてくれるのかい?」
懐から刀身の太いナイフを取り出し、両手に持つ。
すでに臨戦態勢。回避する素振りはない。
余裕が窺える笑みを見せて、むしろ彼は嬉々とした様子すらあった。
「おれはただ刺激のある毎日を過ごせればそれでいいんだ。海賊を狩るのも味方するのもただそれだけのため。君がおれを満足させてくれるならそれでいい」
仁王立ちするニックを見て戦意は十分に伝わってきた。対するキリは彼が持つ物と同じサイズのナイフを手にする。逆手に、両方の手に握った。
それぞれ表情は違えども厳しく睨み合う。
張り詰めた空気。肌に刺さるプレッシャー。辺りの静けさが嫌でも気分を盛り上げた。
ニックは純粋に楽しめる戦いを欲し、キリは覚悟を決める。
如何なる手を使おうと、この男を始末する。
手の中でナイフを回して、唐突にニックが歩き出した。
物怖じせずに前へ進むとキリの目の前に立つ。そこはすでに攻撃が届く距離。腕を伸ばせば手に持ったナイフが肌を切ることができる近さだった。
二人は動きを止めて目を見つめ合う。だが少なくとも友好的な感情など微塵もない。
放出される殺気がぶつかり、二人の間で渦巻き、緊張感が漂った。
「じゃあ、やるか」
言った直後に静寂が数秒。
笑みが消え、目つきが変化した瞬間、ニックが素早く腕を突き出す。強く握りしめたナイフが首筋を狙って迫り、まるで動じずにキリがナイフで受け止める。
止められると無理には押さず、一旦引いて左腕を出した。
素早くキリも反応して右腕のナイフで受け流し、続けて互いに次の一手を繰り出す。
両手のナイフが絶えず振り回され、激突して金属が鳴き続ける。二人ともその場で一切足を動かすことなく、腕だけを動かし、わずかに体勢を変え、本気で相手の命を狙っていた。
それはまるで力量を確かめるかのよう。
刃同士が擦れ合って火花が散り、視界の中で大小様々な輝きが目に刺さる。
やがて二人は一際強く刃をぶつけて、互いの動きを止めた。
いつでも相手を殺せるように力を入れたまま、視線は目を捉えて離さない。
初手は同等。そう考えても良さそうな状況である。
「う~ん、いいねぇ。とりあえずはいい感じだ」
余裕を見せるニックは笑顔で話しかけるが、至近距離で睨むキリは険しい表情をしている。
「おれはよ、今まで倒した最高額が一億ベリーの賞金首なんだ。しかしまぁ、七武海に鍛えられた男が相手だっていうなら、それ以上の価値はあるよな」
「さあね。興味はないし、答える気もない」
「冷たいな。もう少し楽しもうぜ。せっかくの勝負だ」
キリが手首を返した。ギャリ、と音が鳴って刃が擦れ合い、角度が変わる。その挙動を見た後ですかさずニックが動き出し、咄嗟に両足で地面を蹴って跳ぶと同時、キリはしゃがみながら回り、伸ばした右脚で蹴りを、というより足払いを行った。
跳んで躱したニックは余裕を持って無事に着地。
反射的に自身が攻撃を行おうとするも、しゃがんだ状態でキリが腕を伸ばす瞬間を目撃した。
下から掬い上げるような追撃。背後に足を置いて下がりながら避ける。
立ち上がりながらさらにキリが攻撃を継続。
遠ざかるべく足を動かしながらもニックは楽しげだ。
「ハハッ、いいな。そうこなくちゃ――」
「別に楽しむつもりなんてないよ」
その言葉が聞こえた直後、気付けば眼前に振り上げられた脚があり、顔面に蹴りが直撃する。彼の体は紙のように軽々と吹き飛ばされ、屋根の上を何度か跳ねた。
辛うじて受け身を取って着地し、地面に膝を着く。
右手で顔に触れてみると鼻血が出ている。相当の痛みが顔全体を覆っていた。
確かに存在したはずの余裕も陰りを見せたか、顔から笑みが消える。
ニックが見つめる先に居るキリは、手に持っていたはずの紙のナイフを分解し、新たに能力を使用しようとしている。その証拠に、彼の周囲に紙が浮いていた。
普段の緩さが一切消えた、あまりにも冷たく、感情を見せない表情。
何も語らない瞳は対象を獲物と認識する。
何も言わずに立ち上がったニックは表情を引き締める。
一億ベリーの賞金首を倒した実績を持つ自分は、負けるはずがないと自負、或いは慢心していたことは否めない。流石に七武海に勝てるとは考えていなかったものの、その部下程度ならば負けるわけがないというのが彼の本音だ。
まさかそれが今、崩れようとしているのか。
たったの一撃を入れられただけ。それなのに思考は自分でも予期していない答えを導き出す。
恐怖を抱いたのか。
あり得るはずはないと彼はナイフを回す。
仕切り直して改めて勝負を。まだ自分を見失う様子はないようだ。
「お前程度じゃ楽しめない。たとえ百人居たってな」
「言ってくれるねぇ。自分で言うのもなんだが、まだ本気じゃないんだぜ?」
そう言って構えたニックが前傾姿勢になり、タイミングを見計らって、飛び掛かった。
己の得意な距離に身を置き、両腕を振ってナイフを突きつける。冷淡な目でそれを見るキリは慌てず冷静に回避。大きく動くことも無くその場で背を反らし、頭を動かして避け切った。
攻撃はたったの数度。それでも全て見切られ、つまらなそうな顔をしたキリが脚を振ると簡単にニックの体を蹴りつける。正面から腹を蹴られて息が詰まった。
大した痛みではないがほんの一瞬、衝撃で動きが止まる。
振り上げた左脚が顎を捉え、足元がふらついた。
直後には右脚で側頭部を撃ち抜かれており、ニックの体は屋根を転がる。
能力を使用した様子のない、至って普通の蹴り。本来なら避けられないはずがない。
地面に寝転がっている自分を顧みた時、ニックは血相を変える。
おかしい。なぜこんなことになっているのだと純粋に不思議だった。状況はどうあれ、一度は自分が倒した相手なのである。現に今、彼の体にはニックがつけた傷が残り、治療した包帯姿で確認できる。つまり大きな差がある方がおかしいのだ。
気付かぬ内に冷や汗が流れた。
キリはニックが立ち上がるのを待つ。敢えて手は出さずに見守った。
動揺を消すかのようにゆっくりと起き上がる。
目を見ればわかるが、敵が少なからず混乱しているのは間違いない。しかし感情は動かない。あくまでもキリは感情を見せずに立っていた。
「たかが賞金稼ぎ風情が、何の覚悟もなく首を突っ込むからそうなる。こうして向き合ってみるとお前のことを怖いとは思わない」
「よく言うぜ……お前らはたかが海賊風情だろう。自分は他の連中とは違うってか? 何も変わりゃしねぇよ、おれもお前も」
「同じじゃないさ」
辺りを漂っていた小さな紙が一か所に集まってくる。
大きな動作を見せる訳でもなくキリの一部となりつつあった。
「お前は本当の覚悟を知らないんだ」
「何……?」
顔をしかめるニックに、今度はキリが攻勢に出る。
策も使わず正面からただ素早く接近し、驚く彼が反応できない速度で、突き出した左の拳が鈍く腹を打った。思わず背を曲げる衝撃にニックが苦悶する瞬間、軽く跳んで振り上げられた右脚は、隙だらけの後頭部にかかと落としを叩き込んだ。
ニックは顔から地面に落ち、かつてない衝撃を受けるほど激しく激突した。
鼻血が飛び散り、硬い屋根にヒビが入っていたようだ。
倒れるニックの背後でキリが右腕を振り上げる。
無数の紙が巻き付いて集まり、鉄のように硬化された拳は大きく、彼の頭を再び殴りつける。
屋根の一部が破壊されて、粉塵が上がると共にニックの姿が消えた。轟音と共に瓦礫が室内へ落ちていくものの、キリは無言で屋根にできた大きな穴を見つめる。
人が一人通れそうな穴。そこからニックは下に落ちた。おそらくすぐ上がってくる。
敢えて離れず待とうと決め、彼はその場で敵の登場を待つ。
少しの間、物音一つなく気配を感じさせなかったが、予兆を感じさせず飛び出してくる。
粉塵を切って現れたニックは屋根に着地し、落としたのだろう帽子を被り直した。
頭から流血しており、少しだけ不満そうな表情。
激しい怒りを見せる訳でもないが先程と同じという訳でもないらしい。ニックは服についた汚れを払い、キリを見ずにぽつりと呟く。
「あぁ、くそ……痛ぇな」
改めてキリを視界に入れる。
すでに動揺は消えていた。冷静な面持ちで笑みもない。
その代わりようやく本気になったようで、真剣な表情は先程との違いを見せつける。
「まぁ、口であれこれ言うのは簡単だからな。それよりわかりやすいのはこっちだろ」
器用にナイフを回しながら彼は出方を伺っている。
キリは一切反応せずに黙り込んだままだ。
「覚悟がどうとか、カッコつけるなよ。所詮は生きるか死ぬかだけの世界。しっかり殺して生き残って、その繰り返しだけの世界で生きてるのさ。おれらは」
「ああ……そうだね」
反論はせずにあっさり受け入れた。
キリの手から独りでに紙が離れていき、再び宙に浮遊して、彼の周囲で待機する。
見ているだけで不思議な光景。それは悪魔の実の能力だった。だが悪魔の実を食べたのは何も相手だけではない。ニックもまた、ずいぶん昔に食べている。
なんの前触れもなく変化が始まる。
ざわざわと肌が動き出し、羽が生え、姿が鷲のようになっていく。
トリトリの実、モデル〝
身体能力、機動力、肉体の多くが人型を超えている。
正面から戦うのは決して良い選択ではなかった。
しかしキリは逃げも隠れもしようとしない。
策を弄することも無く、直立不動でニックの姿を見つめるのみ。
ちらりと、視線だけは屋根に開いた穴から室内を確認した。
「こっからがおれの本領だ。お前を殺すことにのみ集中しよう」
姿を変えたことでニックが笑みを見せる。
彼が言う通り本領発揮はこれから。
一度目の襲撃でキリを仕留めたのもこの状態だった。
ここからは状況が変わると確信を得て、翼をはためかせたニックは空を飛ぶ。
「覚悟はいいか? って、おれも軽々しく覚悟なんて言ってるよな」
徐々に上昇していった後で、どことなく楽しげにも見える様子で語り掛けてくる。
ニックは、自らの意思で落下を始めてキリの頭上から襲い掛かった。羽と一体化した腕が強くナイフを握りしめ、視線は絶えず彼の急所を狙っている。
ずっと眺めていたキリは冷静に行動し、咄嗟に穴の中へ飛び込む。続けてニックも飛び込んだ。天井から地面までそう高さはないが、二人は空中で急接近する。
振りかぶられたナイフが今まさに振り下ろされようとしていた。
それを見ながらキリは冷静に対処する。
彼に付き従うように宙を舞っていた紙が動き出し、ナイフを握る両手に数枚張り付いた。
手を覆うために素早く接触した勢いで両腕がぐいっと後ろへ流される。
必然的に胴体が隙だらけになって、すかさずキリの攻撃が飛ぶ。着地する前に横っ面を蹴りつけられて、吹き飛ばされて壁へ激突した。
ニックが地面へ落ちる頃、キリは逆立ちをするように手で着地し、軽やかに地面へ足を着けた。
「ガハッ……!? くそ、また痛ぇ……」
ひっくり返っていた彼が立ち上がろうとしている最中、視線を外したキリは室内を見回し、焼けずに残っていた本棚に目をつけた。そこには辛うじて無事だった本が残っている。
手を伸ばしただけでそれらが動いた。
バサバサと音を立てて無数の紙が本を離れて外へ出てくる。
数えきれないほどの紙が群れとなってキリの元に集まり、地面を這って移動する様は、悪寒や恐怖感すら与えるほど、不気味な様相を見せている。
目を離した時間はそう長くない。
だがニックが彼を見た時、その姿は変わっていた。
「なんだ……そりゃ」
見た目はまるで白いコート。集まった紙は服のように、そうとしか見えない状態になっている。
もはやそれが紙とは見えない。厚手の白い上着を羽織って、悠然と立ち尽くす。その姿のなんと美しく、残酷なことか。
能力の神髄。今まさにその姿を目にしていたらしい。
「これがボクの本領だ。紙が多ければ多いほど強くなる……紙鳴武装・白雷」
先程まで蠢いていた紙は、今はただの服として沈黙を保っている。
普通は見れないその光景と彼の言葉でニックは納得していた。
「なるほど。多ければ多いほどか……おれを見つけるまで時間がかかったのは紙を集めてたからってことか? ここで姿を見せたってのも偶然じゃなさそうだな」
「慎重な性質でね。ここから先は時間をかけるつもりはないんだ」
「嫌な性分だぜ」
ニックは改めて室内を見回す。所々が壊れて、荒れ果ててはいるが内部の物は比較的無事に済んでいる。何よりここは大きな家だ。
おそらく内部の状況まで想定して姿を現したのだろう。
怒りに燃えていようが冷静な判断は失っていなかったらしい。その結果が現状だ。
確かに様子は変わったとはいえ、まだ実力がどう違うのかはわからない。
少なくとも狭い室内では不利。最も得意とする空中戦、或いは高所からのヒット&アウェイができないと考えてニックは外への脱出を考慮していた。
幸い壁はひび割れて今にも壊れそうな状態。天井には穴もある。
おまけに装備も万全で、如何様にもできると彼は踏んでいた。
「確かに強そうだが、実力のほどは見てみないとな。それだけ集めて回ったのに負けちまったんじゃ同情もできねぇ」
言って、ニックは軽い調子で地面に何かを落とした。
導火線に火を点けた爆弾である。
丸いそれがコロコロ転がって、キリが興味なさげに見下ろした一瞬に翼を広げ、素早くニックが飛び立った。天井に開いた穴から外へ出る。
そして爆発。建物の内部が爆破され、大量の煙が穴から空へ立ち上った。
ニックは翼を動かしながら滞空して見下ろす。
まさかあれで死にはすまい。出てくるのを空中で待つ。
かくして、やはり時間をかけずに外へ出てきた。
無傷のキリが煙の中から屋根へ現れてニックを見る。動じている様子は皆無だった。
この程度は想定した範囲内。驚きもしない。問題はここからであることは気圧されかけているニックが誰よりも理解していることだ。
翼を動かしてさらに高度を上げる。
トリトリの実の強みは人間には不可能な空の飛行と機動力にある。室内で無ければそうそう負けはしない。自信と、これまで培った経験、技術があった。
遥か高くからキリを見下ろした後、ニックは急降下を始めた。
「さて、こっからだ」
真っすぐ地面に向かって落下し、さらに羽で空気を掴み、自ら加速する。
キリの頭上から真っすぐ。眼下には彼の姿があった。
微動だにしない彼の姿を改めて確認すると、ニックは勝機を得たと判断する。
敵の弱点はすでにわかっていた。水に触れると弱体化し、自らの意思で動くことが困難になってしまう。そしてその弱点を突くための装置は自身の服の下に隠している。
操作が簡単な、挙動一つで水を撃ち出す必殺の道具。
普通の人間には水鉄砲程度の威力しかなくても、相手が彼なら効果があることは確認済み。
キリが忘れているとは思わないが、この時の彼は功を急いでいた様子もあった。
勢いよく落下してくるニックを見て、キリは慌てず身構える。
脚を開いて立ち、右腕を横へピンと伸ばして、人差し指だけを伸ばした。
「さあ、どうする! 生半可な攻撃じゃおれの突進は止められねぇぞ!」
距離がみるみる近付いてくる。だが水を発射するまではまだ遠い。
そんな距離感で、突如キリが右腕を天に向かって振るった。当然腕が伸びるはずもなく、どういうつもりだとニックが眉を動かした瞬間、彼は凄まじい衝撃を受ける。
あまりにも速い攻撃が、彼の頬を殴りつけていた。
確かに見た。見えていた。ただ反応できなかった。
キリが腕を振り上げたその時、白いコートが不気味に動き、伸びた触手がニックを打った。
予想だにしていない速さである。気付いた時には攻撃が終わった後だったようだ。
視界が揺れて体勢が崩れる。空中でがくりと揺れた彼は隙だらけとなった。
もう一撃。左腕を振った際に伸びた太い触手がニックの片翼を打つ。
ドスンと響く衝撃。気が遠くなりそうな痛みが走る。鉄の硬度で攻撃範囲も広く、おまけに避けられないほど速い。尋常なダメージではなかった。
彼の蹴りが遊びに思えるほど全く違い過ぎる。
翼に攻撃を受けたことで姿勢は崩れ、立て直す暇もなく体が無様に回転してしまった。
「ぐあっ……!?」
錐揉みして落下するニックにキリは更なる攻撃を行う。
右手を振って触手を伸ばし、落下するニックの体を上から捕まえ、無理やり打ち下ろすと落下する速度を倍以上にまで速めた。
打撃のダメージに加えてあまりの速度に逃げられない。
ニックの体は落下の勢いを殺すことなく地面へ叩きつけられた。
粉塵が上がり、彼の姿が一瞬見えなくなる。
凄まじい激突をしたニックは倒れており、全身を痛めて呻いていた。
風が粉塵を運ぶと同時、屋根からキリが飛び降りてくる。
悠々とニックの前へ足を運び、倒れた彼を見下ろして手を出さなかった。
あまりにひどい侮辱。とどめを刺せる状況で、敢えて見逃しているのである。
「立て」
「てめぇ……」
震える体で必死に立ち上がろうとするニックを待ち、キリは静かに見守る。全くの無事という訳でもなかったが戦闘の継続は可能なようだ。
立ち上がり、落としたナイフを拾う。一方で帽子を拾う余裕はない。
武器を手にした直後に翼を広げた。まるで威嚇するように。
キリの様子は変わらない。身に纏ったコートは先程の攻撃が嘘のように静かで、紙とは思えぬ見た目の美麗さ。凛として立つ様は恐ろしさを感じる。
しかし今更退くことはできず、ニックは挑みかかる。
「うおおおおあああっ!!」
地面を蹴って、翼で風を掴んで高速で前進した。
次の瞬間、前進する自身を迎え撃って顔面に強い打撃が突き刺さる。
前へ進もうとしたニックはさっきの地点より後ろへ移動させられ、大の字になって倒れる。
「立て」
簡潔に告げてキリが歩み寄ってくる。目で見ずともその気配は感じていた。
そのため、ニックは勢いをつけて飛び起きるとすかさず攻撃に移る。
不意を打てば届くのでは。そんな彼の思考を嘲笑うかの如く、紙で出来た触手が激突し、キリの攻撃が彼の体を軽く吹き飛ばす。
またしても地面を転がったニックは血反吐を吐いて動きを止めた。今や頭を切っただけでは済まない。鼻の骨が折れて、体内でも数本は骨が折れているだろう。
拭いきれない強い痛みが体に染みついていた。
再びキリが歩み寄り、今度は目の前に立つ。
明らかに先程より距離が近い。誘っているのかとニックの顔が歪んだ。
「立て」
繰り返す言葉は同じ。明らかな優位に立っても逃がそうとはしない。
口の中にあった血を吐き捨てて、立ち上がったニックは彼と対峙した。
ここまで近付けば腕が届く。ナイフで十分。先に当てさえすれば勝ち目がない訳ではない。
視線がぶつかって、何も言わず睨み合う。
あまりにも彼を舐め過ぎていたようだ。だが現状をきちんと理解した結果、まだ負けた訳ではないと考えるニックは、どうやら冷静ではなかったらしい。
キリの目を見て逃げなかったのがその証拠である。
「大したもんだよ、お前は……流石あの男が執着してるだけはある」
彼の言葉には一切反応せず、キリはじっとニックの顔を見上げている。
今更何か言ったところで動揺することはなさそうだ。
ニックが人獣型のままでナイフを振るう。
唐突なタイミングを選んだつもりだったが、キリは即座に反応した。
彼の動きを見てから動き出したのに、右腕を振るい、コートから伸びる触手が先にニックの頬を打っていた。強烈な衝撃で彼の攻撃など中断され、無理やり視界が変えられる。
足元がふらついたその一瞬、左腕の動きと共に触手がニックの腹を殴打した。
体が一瞬浮かび上がり、倒れないよう必死に足へ力を入れる。しかし時間を与えず、次の一撃が彼の顎を下から打ち上げた。
フラフラと、見るからに体に力が入っていないのがわかる状態にある。気付けばニックは両手のナイフを落としてしまい、しゃがんで取る余裕さえない。
キリの目はまるで動じずにその様子を眺めている。
意図せず体が揺れるニックだが、諦めてはいないらしく、震えながら腰に手をやった。辛うじて掴むことができたのは事前に弾を込めておいたピストルである。
必死にピストルを抜いて、気合で構えてキリへ銃口を向けた。
しかし引き金を引くよりも早く肩を殴られ、体は飛び、ピストルは地面へ落とされる。
またしてもニックが倒れる。
冷静さを取り戻す暇さえ許さない冷酷無比な攻撃に、彼の肉体と精神はどんどん追い詰められていった。このままでは殺される、と思うのも無理はない。
疲弊した様子で立ち上がった時、またしてもキリが目の前で待っていた。
恐怖を抱くよりも早く、触手が胸を打ち、ニックの体が勢いよく吹き飛ばされた。だが彼はこれ幸いとその勢いを利用し、翼を広げて空へ逃れようとする。
生き残ることこそ最優先。だからこそ彼は今日まで死ななかった。
勝負の結果や過程よりも命が大事だ。故に彼は退却することにも躊躇いはない。
素早い動きで高く飛び上がり、脇目も振らずにその場を離れようとする。
(こりゃあ流石にだめだな……! 一旦距離を取って――)
しかし目標とする高度まで到達する前に後ろから強く引っ張られた。驚いたニックが振り返ると左脚に細い紙の触手が巻き付いており、その先を辿るとキリのコートに到達する。
伸ばした左腕を思い切り振った。
鷲の能力を抑えてニックの体が振り回される。
無理やり下へ引きずりおろされて、建物の屋根へ激突した。
そこから腕を横へ振るい、連動して動く触手はニックの体を引っ張り、一列に並ぶ建物の壁へぶつけながら移動し、壁が壊れる音がいくつも重なって瓦礫が落ちる。
キリが体を反転させる頃には、ニックの体は反対側の通りへ移動させられ、建物に激突。
大きな破壊音が聞こえた後にようやく脚から紙を離した。
壊れた家の中でニックが倒れている。
何度も壁に激突して引きずられた結果、もはや動けそうもない状態にあった。
石の破片や木材の切れ端が、所々肉を貫き、流れた血が地面に広がる。苦渋の表情は当然だ。
這いつくばったままで、自身が激突してできた穴から逃げようとしていた。彼にはもはやそんな程度の抵抗しかできない。圧倒的な力で打ち負かされ、心も折られた。
おそらく最初からこうできただろうに、敢えて時間をかけた拷問のような戦闘。
アレは、人間ではない。
数多くの賞金首を見てきたからこそニックは思い、戦おうという気力は消え失せている。
その時、背後で足音が聞こえた。振り返らずにニックは溜息をつく。
振り返ったまさにその瞬間に、姿を見ることさえ許されず、太い触手が胸を殴って、向こう側の壁をぶち抜いて吹き飛ばした。
ニックの体は受け身も取れず無様に地面を跳ね、力が入っていない様子はまるで人形のよう。
多量の血を吐き、揺らぐ視界の中へ距離を取ってすかさずキリが地面へ降り立った。
「ガフッ、ガハッ……! ハァ、待て……」
両腕をついて必死に体を起こして、彼の方へ顔を向ける。
実力の差は圧倒的。どう転んでも勝つことは不可能。
そこでニックは、彼に対して交渉をすることにしたようだ。
「見ての通り、おれは……ハァ、空を飛ぶ能力を持ってるんだ。世界中で見ても珍しい能力だ。そうだろう? こいつを使えば、いつどこであれお前に有利な状況を作れる」
道の真ん中に立ってキリはニックを見ていた。
冷たい目で表情はなく、少なくとも攻撃しようとしている様子はない。
「おれは、賞金稼ぎだしな……お前らじゃできないことも、あるだろう。一般市民の協力は、有難いものじゃないのか? おれなら、海軍にも、顔が利く」
「へぇ……」
「悪い話じゃねぇはずだ。自分で言うのもなんだが、おれは、使える奴だと思うぜ……」
息も絶え絶えに決死の想いで説得を試みる。遮らない様子を見ると余地はあるのだろうかと考えてしまい、ニックの心に余裕が生まれようとしていた。
彼は頭が切れると聞いている。決して可能性はゼロではないはず。
そう信じることしか、今の彼にできることはない。
「確かに使える人材は好きだよ。そういう連中を集めて上手く使えば、仲間を守る術にもなる。特に専門的な能力を持った希少な人材はそう手に入るものじゃないしね」
「そうか……それならっ」
「でもお前はだめだ」
キリは初めて笑みを見せた。
純粋な、まるで子供のような笑顔。それが余計に彼の異常性を垣間見せる。
血まみれで倒れている人間に向ける表情ではない。
「今までそうやって生きてきたんだろう? この先もきっと裏切る。お前は必ず、敵になるためにボクらの傍から離れる」
「ち、誓うよ。絶対にそんなことはしない」
「口先ならなんとでも言えるからね」
なぜか、ざわざわとキリのコートが蠢いていた。
紙の集合体であるそれが何かを始めようとしているかのように、一枚一枚が動き出し、触れ合うことで徐々に音が大きくなっていく。
血相を変えたニックには彼が鬼か悪魔にでも見えていただろう。
その口ぶりは確実に己の標的を仕留めようとしていた。
「何の覚悟もせずに首を突っ込むからそうなる。命を賭ける気のない奴が、中途半端な気持ちで海賊に手を出すな」
「あ、ああ……悪かったよ。反省してるんだ、今」
「一番いい利用方法は、トリトリの実の使用者を変えることかな」
笑顔でそう言ったキリは右腕を掲げ、指を一本だけ立てる。
白いコートが肥大化するように、無数の紙が一斉に動き出して、それだけで恐怖心を煽った。
もはやニックは生きた心地がしなかった。
今や表情は一転して。
顔を強張らせたニックを見据えて、笑顔を見せるキリは腕を振り下ろした。
「ひっ……!?」
「紙鳴――!」
怒声のような轟音を伴い、強風を纏って大量の紙の群れが宙を走った。
一瞬にしてニックの姿は呑み込まれ、その身を捕らえた上で運び、風のように過ぎ去っていく。遮る物が何もない大通りを駆けて、数百メートルを移動して尚も止まらない。
呑まれたニックは濁流の中に居るかのような感覚に陥っていた。
視界がなくなり、体の自由は利かず、どこへ行くかもわからず連れ去られる。
やがて行く先に大きな塔が見えた。
脇目も振らず高速で飛ぶ紙の群れが塔へ激突する。
次から次へ押し寄せる紙切れによって磔にされてしまい、ニックは呼吸すら困難になる。
ほんの数秒でも永遠にさえ感じる時間。ニックは耐えに耐えて必死に呼吸した。
そして押し寄せる紙が途切れた時、一気に視界が開ける。
耐え切った。まだ生きていた。彼は思わず笑みを浮かべる。
その眼前に巨大な紙の塊の中からキリが現れた。
「――
周囲を白い紙で包まれて、彼の姿は再び変化していた。
両手に剣。背には大きな輪を背負い、そこには等間隔で刃を持つ武器が八本、ずらりと並んで切っ先が全て標的に向けられている。
ニックは今度こそ覚悟した。
顔面蒼白になり、空から降るように近付いてくるキリの動きがひどく緩慢に見えた。
そうして接触する。
結果は一瞬にして目にできた。
キリが体を回転させた瞬間、二本の剣が、八つの刃が、一斉に標的へ襲い掛かり、身を斬り肉を抉り、空へ壁へ撒き散らす。
それはまるで、赤い花が咲いたかのようだった。
地面から数十メートル。重力に従って落下してきたキリが着地した時、赤い雨が降って、頭からかぶった彼の体を赤く染めていく。
ひとしきり降った後で頭上を見上げた。
壁には赤く染められた人影が磔にされており、落ちてくることもなく沈黙している。
ふーっと息を吐いて、いつも通りの雰囲気に戻って。
満足げな顔で微笑んだキリは軽やかな声を発した。
きっと聞こえてはいないだろう相手へ向けてどことなく親しげに言う。
「まぁ、気は晴れたし、命までは取らないでおいてあげるよ。どうせ世界のどこかで悪魔の実が復活しても手に入れるのはほぼ不可能だし」
体中がどす黒い赤で汚れた状態だが、彼の表情は晴れ晴れとしていた。
やりたいことだけをやって気は紛れたらしい。
とにかくこれで不安要素は消えた。実力はそこそこだが飛行能力を持つ厄介な相手は戦線離脱、誰かが助けたとしてももう戻ってこれない。これで他の敵に集中できる。
今度こそキリは普段通り、しかし真剣な表情で歩き出す。
「これに懲りたら転職するんだね。海賊舐めんなよ」
颯爽と歩き出して振り返ることはしない。
キリの目は次の目的を見ており、それは何としても自身がやり遂げると決めたものだった。