突き出された左腕を足で捉え、踏みつけるように体重をかけた。
厄介な毒針を地面に打ち付けてへし折ることに成功して、瞬間的にクロコダイルが歯噛みする。少なくともこれで毒を注入されることはなくなった。
咄嗟に右腕で砂の刃を作った彼から逃れ、ルフィは地面を蹴って宙返りをする。
着地と同時に、辛そうにしていたルフィの顔つきが変わった。
突然がくりと膝をつき、ルフィの体が大きく震えた。
本人の意思によるものではない。クロコダイルの毒針から送り込まれたサソリの毒が、彼の肉体に異常を生んでいた。見るからに顔色が悪くなり、体から力が抜けていって、立つことはおろか声を出すことすら難しくなっている。
彼はそのまま、立ち上がろうとする動きすら見せずに倒れてしまった。
「クックック……クッハッハッハッハ」
クロコダイルは笑う。
厄介な敵だったがそれもここまで。ようやく決着がついた。
「言ったはずだぞ、麦わらのルフィ。このおれに……勝てるか、どうかだ」
倒れた彼へ笑顔を向ける。
明らかに呼吸の音がおかしく、がくがくと震えが止まっていなかった。
動けないルフィは必死にクロコダイルへ目を向けているが、見えているかどうかすら怪しい状態であり、重い瞼を持ち上げるのが精いっぱいの抵抗だった。
サソリの毒を受けてよく動いていた方だろう。だが彼が激しい動きをすればするほど、毒が体を回る速度は速くなっていたはずだ。従ってこの状況は当然のもの。
冷静にルフィを見るクロコダイルは十分に彼を認めてもいた。
「おれにここまで血を流させたことは褒めてやろう。ルーキーにしちゃ上出来過ぎる結果だ」
語る声は勝ち誇り、いまだ余裕を失わず、格の違いを感じさせる。
「だがここまでだ。結果を見りゃ、今までと何も変わらなかったな」
「ガフッ……ゲホッ……!」
咳き込むだけで血を吐き出し、限界を迎えたルフィの姿はあまりに痛々しかった。
そのまま毒で死ぬのを見届けてもいいが、彼の生命力は末恐ろしいものがある。今後のためには確実に息の根を止めておくべきだろうと彼は考えた。
七武海の一角にそう思わせたことは確かな功績だろう。
しかし今や指一本動かせず、ルフィは声を発することもできない。
「このままでも死ぬが、念のためだ。せめて最後はおれの手で始末してやろう」
そういうと毒針を折られたその場所から、残骸を跳ね飛ばしてナイフの刀身が現れる。
クロコダイルは歩き出すと一歩も動けないルフィへ近付いた。
果たしてそれは、ダメ押しだったか、それとも救いか。
崩れる天井から巨大な岩が落下してくる。
突如それはルフィの真上へ現れ、その体を呑み込むように押し潰す。クロコダイルの目の前で大きな音を伴い、片腕だけしか見えなくなってしまった。
とどめを刺す気になっていたのに、気分が削がれてしまった。
つまらなそうな顔を見せた彼は静かに反転する。
ルフィに背を向け、その場を去るようだ。
「フン……まぁいい。どのみちその体では動けん。せいぜい最後の時を楽しむんだな」
地下聖殿の崩落を恐れもせず歩き出し、数歩進むとやがて全身を砂に変え、この空間から消えてしまう。今頃はどこへ向かったかわかりもしなかった。
落下する岩石が聖殿を埋め尽くそうとする。
崩壊は着実に進んでいた。
能力を使って移動し、壁に背を預けて座っていたミス・オールサンデーは一部始終を見ていた。
いつもの笑みは消えて、何かを真剣に考えているらしい。
時に人は、思いがけない行動を取ることもあるものだ。
彼女の場合はそれが今で、胸の前で腕を交差すると能力を使用する。
地面から無数に生えた腕は、特別大きな岩を動かそうとしており、辛うじて見える片腕を強く引っ張ってもいる。彼女はルフィを助けようとしていた。
なぜそうするかは自分でもわからぬまま、彼を助けるために行動する。
もう諦めた命。拾いたくなった訳ではない。
それなのになぜか他人を助けるという無駄な行為を行おうとしている。
自分自身でも不思議に思いながら、ミス・オールサンデーは能力の使用をやめなかった。
中々苦戦をして時間はかかったものの、なんとかルフィを引っ張り出すことに成功した。地面に整列した手が彼の体を次々受け渡して運び、ミス・オールサンデーの下へ連れてくる。
自身の隣へ彼を寝かせ、状態を見た。
目を閉じていたが呼吸はしている。まだ生きている。生きようという力を強く感じて、七武海が警戒するのもおかしくはない生命力だと納得した。
懐へ手を突っ込み、取り出したのは小さな瓶。中には液体が入っている。
もしもの時のために。そう思ってクロコダイルが持つ毒の解毒剤を持っておいた。結局彼女自身が使う必要はなかったとはいえ、だからこそ彼には使えそうだ。
体を引き寄せ、膝の上に頭を乗せ、蓋を外すと瓶の中身を彼の口へ注ぎ込む。
生きようとする力か、ルフィは口に入ってきた液体を自ら飲み込んだ。
もう少し時間を置けば彼なら動けるようになるだろう。ふと血塗れで赤くなった髪を撫でる。
背丈はミス・オールサンデーより低い。小さな体で、あのクロコダイルを追い詰めたのか。
感慨に耽っていると辛そうにしながらルフィが目を開く。
すぐ頭上に彼女の顔を見つけて、助けてもらったと認識したのだろう。麻痺していてまだ上手く動かせない口をなんとか動かし、ミス・オールサンデーへ礼を言う。
死にかけている状態というのは思った以上に人の心を動かすものだ。
彼と視線を合わせたミス・オールサンデーは不思議な気分に浸っていた。
「ハァ、ゲホッ……ありが、とう……!」
「いいのよ。ただの興味本位だから」
彼女も胸を貫かれて無事という状態ではないのだ。しかし彼に比べればよっぽど軽症なため、自然に主導権を握るような形になっていた。
次々に地面へ岩がぶつかり、大きな音を奏でている。
ポーネグリフも、誰にも見られることなく静かに眠るのだろう。そう思えば少し寂しさもある。
持ち運ぶことなどできないとはいえ、誰にも見つからずに埋もれてしまうのをなぜか嫌だと考えていて、そんな自分に気付いた時、ミス・オールサンデーは違和感を覚える。
なぜ柱の一部を抜いて崩落させたのか。
それは、自らの死体をそこに埋めるためだと思っていた。
刺し傷で死のうが、岩に潰されて死のうが、自分の体はここに埋める。ポーネグリフと共に。さっきまでそう考えていたはずなのに、今は何かが少しおかしい。
ポーネグリフが埋もれるのを寂しいと考えていた。
それではまるで、自分だけがこの広大な穴から抜け出ようとしているようではないか。
一緒にと考えていたはずなのに。
自分の死を何とも思っていなかった彼女は、自分の思考の変化に気付き、困惑している。今にして思えばわざわざルフィを助けたのもおかしなことだった。
咳き込んでいる音を聞いてルフィの様子に気付く。上を向かせて横たわっていたため、上がってきた血が吐き出せずに唇の辺りで泡となって停滞している。
ミス・オールサンデーは考えようともせずに、そこへ自身の唇を触れさせる。
血を吸い出してやり、近くの地面へ吐く。
何度か繰り返すとルフィの様子は落ち着き、再びうっすらと目を開いた。
自分の唇に指を触れて、付着した血を眺めてみる。
おかしなことをするものだ。なぜ彼を助けようとしているのだろう。
理由がわからない。だが今更見捨てるのもなぜかできなかった。
できればこの穴の中から出てほしいとすら思っていて、それを告げずに彼へ声をかける。
「聞いてもいいかしら」
「ハァ……ゲホッ。ハァ……」
「なぜ戦うの? Dの名を持つ、あなたたちよ」
目を覗き込んで尋ねてみれば、彼は弱り切った姿で不思議そうな顔をしていた。
「D……?」
絞り出した声を聴いて知らないのだろうと結論付ける。
その後、その件についてはもう聞こうとしなかった。
「あなたなら、クロコダイルに勝てる?」
「エホッ……次は、負けねぇ……!」
「そう」
すぐ傍に岩が落下してきたのを見た時、ミス・オールサンデーは決断する。
「あなたを見ていなければよかった。そうすればこんな気持ちになることもなかったのに」
ミス・オールサンデーは立ち上がり、ルフィを背負った。
馬鹿げた行動だと思っている。しかし自らの直感に従って、未来を見てみたいと思った。それは自分が生きることを肯定した瞬間でもある。
歩き出した彼女は探し求めていたポーネグリフに背を向けて、ルフィを連れて去っていく。
この先どうなるかはわからない。だが、いつの間にか柔らかい笑顔が存在していたのだ。
*
地下聖殿を出たクロコダイルはまず高い場所に上り、王宮前広場を確認することから始めた。
吹き飛んでいないことを確認すると神妙な面持ちになる。それは誰にも見せることのない表情だが一人になった今は露わになってしまう。
本来の作戦では今頃消し飛んでいるはずだった。確かに地下に居た時、爆発の衝撃をほとんど感じなかったため、そうだとは思っていたが喜ぶ様子はない。
予想していた通り、彼が止めたのだろう。
険しい表情は緩められることはない。
予想はできていた事態だ。意識を切り替えるのも思いのほか早かった。
目つきは変わり、即座に普段の彼へ戻る。
「バカな奴だ……影響されやがって」
呟くと自ら飛び降りて、重力に従って落下していき、空中で砂になることで無事に着地する。
歩き出した彼は広場へと向かっていた。
完璧に仕上げたはずだった。変わるきっかけがあったとすれば一つ。
思考から切り捨てようと考えたはずの彼は気付けばそんなことを思っていたらしい。
視界は、在りし日の風景を幻視する。
古代兵器を手に入れ、国家を我が物とした時、それだけで終わる訳ではない。その先に更なる野望を見据えていた。それを踏まえて最初から準備を進めていた。
最高傑作とはつまりそこを目指す上での代物だ。
いずれはアラバスタなど比ではない脅威に対抗するための戦力となる。その時には〝覚醒”も〝覇気”も完璧なものに仕上がっていたことであろう。
詰まる所、水の弱点を残したのも、彼が〝覇気”を知らなかったのも離脱を想定してのこと。
再び戻ってきた時こそ完成する。そのつもりだった。
「決着をつけよう。これが最後だ」
計画が破綻したのか、それともそう見えるだけなのか、今はまだ答えは出ない。
どちらにしても国の乗っ取りは成し遂げる。それだけは決定していて揺らぐものではない。
クロコダイルは広場へ急ぎ、自らの手で終わらせようと力を入れる。その目はいつしかただの海賊であった頃の鋭さを取り戻し、尋常ではない迫力を纏って前進していた。