ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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ONE

 戦闘が終了した広場では状況を落ち着けようと慌ただしく動いていた。

 降伏したバロックワークス社員を捕縛し、傷ついた者たちの治療を急ぎ、残念ながら、物言わぬ体となってしまった者を運ぶ。

 戦いの傷跡はあまりにも大きく、やっと休める時が来ても心が落ち着かない者ばかりだ。

 

 先頭に立って指示するチャカはビビに休むよう進言していた。

 その結果、ビビは仲間たちと共に休息を取り、辺りに視線を向けている。

 

 親しい者の死に涙を流す人が居る。戦いが終わった今も動けずに、深い傷によって生死の境を彷徨っている者が居る。そして、この世を去ってしまった者が居た。

 彼女はきっとこの光景を忘れることがないだろう。

 

 数多くの感情が入り混じる戦場の中を、彼らは生き残ったのだ。

 途方もない怒りがあり、忘れられない悲しみがあり、確かに感じたはずの喜びがあった。

 確かに苦しい時間だった。それは否定できない。しかしだからこそ絶対に忘れてはならないのだと彼女は思うのである。

 アラバスタはここから新しく始まる。その瞬間を、ビビはしっかりと見つめていた。

 

 仲間たちは彼女の真剣な表情を見て、簡単に声をかけようとはしなかった。

 それからしばらくして、頭上に影を見たチョッパーが声を出した。

 

 「あっ。あれ」

 

 見上げると一羽の鷹が降下してくる。

 アラバスタに住む者たちは大きな反応を見せ、口々に彼の名を呼んだ。そしてペルが翼を広げて地面へ降り立った時、背中に乗っていた人物にさらに驚く。

 コブラが地面に立ち、広場に居る人間の視線を一身に集める。

 戸惑いと緊張。多くがそんな感情を宿した視線だった。

 

 ビビは、久しぶりに顔を見た父へ駆け寄っていいものか迷う。

 コーザもまた、反乱軍のリーダー。ばつが悪そうな顔をしている。

 直前の状況が状況だったためか、誰も彼に近付けず、チャカですら迷いを抱いていたほどだ。

 

 「皆、どうした? ずいぶん落ち込んでいるな」

 

 敢えて知らん顔で問いかけてみれば、多くの人間が視線を逸らしてしまう。

 言葉がない、といった様子だろう。責められている訳でもないのだが一体何を話せばいいのかわからない。伝えるべき言葉が思い浮かばない。

 

 コブラはぐるりとその場に居る人々の顔を見回す。

 国王軍の兵士、反乱軍だった市民、麦わらの一味に、バロックワークスの人間も居る。

 いちいち聞かなくてもわかっていた。

 どうやら彼自身、何から話すべきかと考えていたようだ。

 

 ひとまず歩を進める。

 最初に声をかけたのは疲弊した様子のチャカである。

 

 「チャカ。よく持ち堪えてくれた」

 「国王様……」

 「お前の尽力に感謝している。ありがとう」

 

 そう言うとコブラは深々と頭を下げた。

 国王に相応しくない突然の行動。途端にチャカの方が慌て始める。

 

 「お、おやめください! 何も国王様が頭をお下げになることでは……!」

 「いや、私の考えが至らなかった。もっと早くに気付いていればよかったのだ」

 「それを言うなら我々もです。奴の策謀に何一つ気付かず騙されていたのですから」

 「そうか。それではおあいこだな」

 

 にこりと笑ったコブラの表情に驚き、チャカはぽかんとしてしまう。

 どうやらそれが彼なりの励ましだったようだ。

 笑みを湛えたまま視線を切ると歩き出す。

 

 次に歩を進めたのはコーザのところである。

 どんな顔を見せればいいかわからない。悩むコーザに笑いかける。

 

 「久しぶりだな、コーザ。また少し痩せたか。だが精悍な男になった」

 「国王……おれは」

 「言うな。まだ終わったわけではないのだ」

 

 彼の言葉にコーザの顔がハッとする。それはおそらく、この状況を生んだ元凶が残っていることを伝えたかったのだろう。事情ならばウソップから聞いていた。

 表情の変化に気付いて頷く。

 その後はただの世間話をするように気安く声をかけた。

 

 「またこうして話をすることができて嬉しい。これが終われば、もっと語り合いたいものだな」

 「……ああ。そうだな。話したいことも、謝りたいこともたくさんある」

 「うむ。ではまた後程だ」

 

 また次の機会に話すことを約束した後、コブラは彼に背を向ける。

 そしてようやくビビの下へ赴いた。

 

 ある日突然姿を消した娘と会うのはいつぶりのことであろうか。

 表向きは王としての威厳を保つため、何も気にしていない顔をしてきた。しかし本心では毎日彼女を想うほど心配していたのだ。コブラの親バカぶりは国では有名なのである。

 国民は彼が心配していることにも気付いていたのだが、本人は隠し通したつもりである。

 

 コブラの顔には柔和な笑みがあった。

 対するビビはどこか戸惑いを残す、困ったような笑みがある。

 長く留守にして心配をかけた。その想いが表れていたのであろう。

 

 「ビビ」

 「お父様……」

 「ペルから聞いた。この国を守るために尽力していたそうだな。ありがとう」

 「いえ……心配させてごめんなさい」

 

 彼女の声を聞いてコブラは安堵した様子だ。肩の荷がようやく下りたとも言える。

 

 「何より元気そうでよかった。相変わらずお転婆は過ぎるようだがな」

 「あ……」

 

 包帯が巻かれた肩を見てビビが赤面する。子供の頃からお転婆で、女の子なのに危険なことをしてはよく怪我をしていた。その頃を思い出してしまう。

 今や成長し、すっかり女性らしくなり、精神的にも成長した。

 国を守るため奔走したことなどまさしくその証明だ。

 

 視線を動かして、近くに座っていた面々を見やる。

 仲が良さそうな姿からして友人、或いは仲間なのだろうと思う。彼らもまたボロボロで、治療はした姿だったがかなりの激戦を連想させる外見だった。

 

 「君たちが、ビビの仲間かね? 娘が世話になっている」

 「あんた国王か?」

 「おいっ!? 口の利き方に気をつけろアホ! このおっさんがビビの父ちゃんってことは国王なんだぞ! 処刑されたらどうする!」

 「お前もおっさんっつってんじゃねぇか」

 「ごめんなさいね。海賊だから礼儀がなってないの」

 「構わんよ。互いにこんなボロボロの服装では礼儀などクソ食らえだ」

 

 無礼な口を利くゾロの頭をウソップがはたき、そんな二人のやり取りをナミが苦笑して詫びる。

 コブラはそれだけで彼らの人となりを察し、警戒することなく彼らの存在を受け入れる。

 

 「今は少し慌ただしくてな。また話そう」

 「ええ、もちろん。言っとくけど、慈善事業じゃありませんから」

 「はっはっは。肝に銘じておこう」

 

 踵を返して広場に居る全員をぐるりと見回した時、彼の心は穏やかになっていた。

 適度な緊張とちょうどいい具合の余裕。今なら皆と話せるだろう。

 国民の顔を一人ずつ確認して、落ち着いた態度で言葉を紡いだ。

 

 「皆、どうしたのだ。そんなにしょぼくれた顔をして」

 

 国民が彼の言葉に耳を傾けている。或いは、縋りついている。

 心が壊れそうになるほどの戦闘を経て、心身ともに疲れ切った状態であり、誰かを頼らなければ息をすることさえ苦しい。今はもたれかかれる誰かが必要だった。

 それを知っているコブラは彼らに寄り添おうとしている。

 国王としてではなく、一人の人間として。彼自身がそれを望んでいた。

 

 「心を痛め、落ち込むのもわかる。立ち止まってしまいたくもなるだろう。それほどの体験をしたことは、この場に居なくてもわかることだ」

 

 ゆっくり歩を進めて静かに語る。誰もがその声に集中していた。

 

 「だがこの経験を忘れてはならない。皆のために命を散らした者が居た。国のために誇りを守り抜いた者たちが居た。彼らを忘れることが正道か? ……否。此度の戦いをなかったことにするのが正道か? これも違う。我々がすべきことは、今回の経験を決して忘れず次に生かし、そして後世へ伝えていくことにある」

 

 静まり返った広場にコブラの声が広がっていく。

 驚くほどするりと胸へ入っていくその言葉は徐々に彼らの表情を変えさせた。

 

 「君たちの友は、仲間は、家族は、この国と、そしてこの国で生きる人々のために勇敢に戦い、最後まで決して人への情を忘れなかった。失ったものは確かに多い。得られたものはない。だが守り抜けたものはそれ以上にもっと多かった。ここには皆が生きている!」

 

 皆が集中していて、コブラが腕を広げた、その時だった。

 

 「今日ここで起きたことは――!」

 「新しい国が始まるための予兆だった。そう言いたいんだろう?」

 

 広場を囲う建物の屋根の一つから、突然声が降ってくる。

 視線が集まった瞬間、彼は笑みを浮かべて大勢の国民を見下ろした。

 全員を驚かせたクロコダイルの登場は、この場でコブラが最も恐れていたことだった。

 

 「その国の王は、おれだ。古き王には消えてもらおうか。反乱を企てる国民どもと共にな」

 「クロコダイル……!」

 「お、おい、ルフィはどうしたんだ? あいつがぶっ飛ばすんじゃなかったのかよっ」

 

 ビビがその名を呼び、怯えたウソップがその名を口にした時、彼の目はそちらに向く。

 笑みを湛えたクロコダイルの一言は彼らの心を簡単に揺らした。

 

 「あいつは死んだよ。今しがたな」

 

 あっさりとした物言いに一味が思わず息を呑んだ。クロコダイルが現れた時点で何か問題が起こっていると想像できたが、はっきり言葉で告げられると衝撃を受ける。

 どうやら一瞬にしてその場の空気を我が物としてしまったようだ。

 恐怖に包まれるその中で、怒りを見せた人物が一人。コーザが前へ進み出る。

 クロコダイルは笑みを湛えて彼を見下ろす。

 

 「お前が裏で糸を引いていたのか……これまでの全部!」

 「そうさ。全ておれが仕組んだものだ。アルバーナに雨が降るのも、町がいくつも枯れたのも、カトレアに反乱軍が入ったことも、ユバが捨てられたのも。お前が出会った〝友達”さえおれの計画の一部に過ぎん」

 

 思い当たる節があったのか、コーザが言葉を呑む。

 先程、大まかな話をウソップに聞いたばかり。やはり嘘ではなかったらしい。

 そんな彼の様子に気付きつつ、クロコダイルは言う。

 

 「お前たちはおれの望む通りに動いてくれた。最後以外はな」

 

 反乱軍だっただろう者たちが国王軍と共に居る光景を目にして、彼は目つきを鋭くする。

 

 「面倒なことしやがって。おかげでおれが手を下す必要があるようだな」

 「ふざけるなよっ。誰がお前の好きにさせるか!」

 「クハハハハ。いいだろう……それなら守ってみろ」

 

 不敵に笑う彼は砂になってその場から消える。

 大勢の人間が驚愕した直後、クロコダイルの姿は空に現れ、眼下にはコブラの姿がある。見つけた時には彼の右手に異様な力を目にした。

 

 「守りてぇんなら力で示せ。砂嵐(サーブルス)――」

 「国王様ッ!」

 「(ペサード)!」

 

 咄嗟にペルが国王へ駆け寄って彼と共に伏せた。

 その直後、全てを押し潰すような暴風が頭上から落下してきた。

 伏せた二人だけではなく、広場に居た全員が影響を受ける。ある者は勢いよく転んで、ある者は壁に激突し、ある者は宙を飛んだ。

 

 クロコダイルは広場の混乱を見てすかさず行動する。

 一瞬にして地面へ伏せるコブラの前へ現れた彼は左腕のナイフを掲げた。

 

 普通ならば立ち上がることもできない暴風が吹き荒れていたが、彼の接近に気付いたペルが必死に飛び起きてコブラの前へ立つ。

 剣を抜く暇も与えられず、突き出される刃を自身の右腕で受け止め、貫かれながらも止めた。

 

 突然の事態に驚くコブラはいまだ倒れたまま。

 ペルは敵の刃を必死に捕まえ、彼へ叫ぶ。

 

 「ぐっ……国王様! お逃げください!」

 

 叫んだ直後に右腕が動き、砂の刃がペルの体を切り飛ばし、彼は勢いよく地面へ倒れた。

 クロコダイルは冷静に足を進める。

 ようやく立ち上がろうとしたコブラを見据え、ナイフで刺し殺そうとしていたようだ。

 

 一歩ずつ近付いている最中、背後から人獣型に変身したチャカが襲い掛かる。

 振り上げた剣で彼を頭から両断しようとしていた。だが気配を感じたクロコダイルが振り向き様に腕を振り、一方的にチャカの胴体が切られる。

 吐血して足元が揺れる。

 倒れかける挙動を見せながら踏ん張り、チャカは再び剣を握り直した。

 

 クロコダイルの注意は彼に向けられていた。それだけでも大きな意味がある。

 自らの命を捨てる覚悟で前へ踏み込んだ。

 

 「これ以上……貴様の好きには――!」

 「三日月形砂丘(バルハン)!」

 

 反応できないほど速く、三日月形の軌跡を宙に残す腕に襲われ、無防備だったチャカの体からは大量の水分が抜き取られた。急激にやせ細った彼は抵抗もできずその場へ倒れる。

 王国最強と呼ばれた兵士が二人とも戦闘不能になった。

 余裕を持ってコブラを見据え、歯噛みしながらも逃げようとしない彼に歩み寄る。

 

 「これがお前らの全力か?」

 「くっ……!」

 

 戦う術を持たない彼に逃げ場はない。

 そう思っていた矢先、麦わらの一味が全員同時に接近してくる。興味なさげにそちらへ目をやりながら、クロコダイルは右腕を勢いよく振るった。

 

 「てめぇ、いい加減にしとけよ!」

 「邪魔だ」

 

 無数の刃が地面を走り、一味へ襲い掛かる。

 速い上に正確で、回避できなかった彼らは一瞬にして弾き飛ばされる。戦い続けてもはや体力は残っていない。呆気なく宙を舞う様は風に吹かれた木の葉のようだ。

 その中でゾロとサンジだけは、軽症はあったが辛うじて回避し、さらに接近を試みた。

 先にサンジが勢いよく飛び掛かる。

 

 「オラァ!」

 

 脚を伸ばして飛び蹴りを行った。しかしクロコダイルは軽やかに躱して、彼の脚をナイフで切り裂く。大した傷ではないが体勢を崩したサンジは激突するように地面へ落ちた。

 クロコダイルの興味はその時点で失せ、すぐに視線が外される。

 

 次いでゾロが二刀流で挑む。

 鉄は斬った。砂も斬ると意気込み、両腕にある刀を振り上げる。

 その一瞬、素早い動作でクロコダイルが彼の脇を抜け、通り過ぎ様に胴を切った。全く反応できなかったゾロは走る勢いのまま転んで悔しげな顔を見せる。

 Mr.1との戦いで失血が多かったとはいえ、強過ぎる。まるで行動を読まれているかのようだ。

 

 彼らを倒したことで改めてコブラに目を向ける。

 一味はすでに疲弊しきった状態であり、一度倒れてしまえば立ち上がるまで時間を要した。

 

 再びクロコダイルがコブラを狙ったため、広場に居る人々がようやく武器を取る。

 暴風はすでに消えていて、今なら動き出せる。

 兵士も市民も関係なく立ち上がり、国王を守らんとクロコダイルへ一斉に殺到する。人が大きな波となる様は凄まじい勢いだったものの、彼の表情は一切変わらない。

 

 恐れるどころか表情一つ変えないクロコダイルの様子をコブラは見た。

 想像したのは、最悪の展開。

 咄嗟に殺到してくる人々へ叫ぶ。

 

 「国王様を守れェ!」

 「クロコダイルを倒すんだァ!」

 「よせっ!? 誰も来るな!」

 「うるせぇハエどもが居るな……」

 

 右手の中で砂が旋回する。それは確かな風となり、爆発的に急成長した。

 

 「消えろ! 砂嵐(サーブルス)!」

 「うわあああああっ!?」

 

 襲い掛かった数百人単位の人間が一斉に吹き飛ばされる。

 紙屑のように薙ぎ払われた中にはコブラの姿もあり、彼もまた為す術もなく宙を飛び、どちらが上か下かもわからぬ状態で地面に激突した。

 そして痛みに耐えながら顔を上げれば、目の前にはクロコダイルが立っていた。

 

 「無様だな。それが一国の王の姿か」

 

 冷たい瞳に見つめられたコブラは、不思議と冷静さを取り戻したようだ。

 痛む体で立ち上がると正面から彼の目を見据える。

 

 「確かに私は一国の王としてあまりにも浅はかだった。お前の暗躍を許し、これほどの犠牲が出ても何一つできることがない」

 「よくわかってるじゃねぇか。己の不甲斐なさをな」

 「だがこんな私でも王として国を見てきた自負があるっ。クロコダイル、お前がいくら私から玉座を奪おうとも、お前は王にはなれん!」

 「フン。見解の相違だろうが、一応聞いてやろう」

 

 激しい砂嵐が吹き荒れる中で二人は語り合う。

 コブラは厳しい目を向け、クロコダイルは笑みを崩さない。

 いつしか竜巻のような砂嵐の中心が彼らの居場所となり、お互いの声だけははっきり聞こえた。

 

 「国とは人なのだ。あらゆる策謀で他人を操るお前には誰もついてこないぞ」

 「そんな考えだからこの状況を生む。そもそもの生き方が違うのさ。忘れたか? 本来おれは海賊だ。暗躍、策謀、悪巧みこそ真骨頂」

 

 左腕を掲げ、ナイフを向けた。

 まだ届かない距離とはいえコブラは一切怯えず、クロコダイルの言葉に耳を傾ける。

 

 「国の乗っ取りは第一段階に過ぎん。おれはその先を見ているんでな」

 「やはりお前は……王の器ではない」

 「王如きに収まる器じゃねぇのさ。お前には理解できねぇだろう」

 

 いよいよ仕留めようかという頃、突如、クロコダイルの頭が消し飛んだ。

 背後から当てられた攻撃で頭だけが砂に変化して、辺りへ静かに砂が舞う。しかし体はそのまま残されており、舞っていた砂が集まるとまた元の姿に戻る。

 それからクロコダイルは背後を見た。

 

 肩で息をするビビが砂嵐を駆け抜けてきたようだ。

 コブラは彼女に気付くと明らかに動揺し、思わず身を乗り出す。

 

 「ビビッ!? 何をしている! 早く逃げろ!」

 「ハァ、ハァ……いいえお父様、どこへ逃げても一緒。この男がこの国に居る限り、安全な場所なんてどこにもない……」

 「娘の方がいくらか理解しているな。だがまさか、お前がおれに勝つ気か?」

 「お前さえ居なければ――」

 

 感情を露わにしたビビは、再び武器を振り上げて駆け出す。

 

 「お前さえ居なければ、この国はずっと平和だったんだ!」

 

 コブラの制止の声も聞かず攻撃を繰り出す。しかしその一撃は呆気なくクロコダイルに避けられてしまい、瞬く間に懐へ入られた。

 目の前でナイフが怪しく光る。

 最後かもしれないと思いながらもビビは決して目を閉じなかった。

 

 彼女を刺し殺して全てを終わらせようとした、その瞬間の出来事だった。

 突然目を見開いたクロコダイルがぴたりと動きを止めた。

 

 ビビを見つめたまま、完全に殺せるタイミングだったのに途中で中断して動かない。

 激しく動揺しながらも慌ててビビは彼の前から逃げ、視界から外れたところでへたり込む。

 地面に座り込んでしまい、その状態で後ろを振り返った時、その理由がわかった。

 

 「――あっ」

 

 思わず漏れ出た、弱弱しい声。

 クロコダイルの向こう側に、今にも倒れそうなルフィを見つけ、彼女の瞳に涙が浮かんだ。

 

 全身に血を浴びて、真っ赤になった危うい姿で、ルフィはそこに立っていた。

 ただ立っているだけでも足元がふらつき、普段の元気さなどまるで感じられず、生きているのがやっとという姿に見える。しかしそれでも彼の顔つきと目だけは力強さを感じさせ、ただ黙って諦める気などないことが明確に伝わってきた。

 

 一味の仲間も気付いたようだ。

 驚く仲間たち以上に、クロコダイルの方が驚愕している。

 サソリの毒を受けてここまで生きているはずはない。彼は死んでいなければならなかった。

 

 「てめぇは一体……なんなんだ」

 「おまえ……なんかじゃ……」

 

 絞り出すような声。弱弱しい様子は聞く者の表情を悲痛にさせる。

 一瞬、ふらりと倒れかけた。

 ルフィは左脚で強く地面を踏みしめ、その体を支え直す。

 

 「ハァ……おれには、勝てねぇ……」

 

 ただの虚勢とも取れる発言に、なぜかクロコダイルは大きな反応を見せた。

 

 「一体何度殺されりゃ気が済むんだ……! 串刺し! 干からび! 毒殺! 生き埋め! おれに三度殺されてなぜ立ち上がる! そんなにこの国が大事か!」

 

 息も絶え絶えで、声を出すのも辛い状態。

 ルフィはぐっと顔を上げて、生気に満ちた目でクロコダイルを捉えた。

 

 「おれは……海賊王になる男だ」

 

 その発言を聞いてクロコダイルの表情が変わる。

 如何なる状態であろうとそれだけは聞き捨てならない。彼の体からは激しい怒りが発され、凄まじい気迫は先程とはまるで別人のようだ。

 怒りが大きくなり過ぎて恐ろしい笑顔を見せ始める。

 

 「いいか小僧、この海をより深く知る者ほどそういう軽はずみな発言はしねぇもんだ」

 

 クロコダイルが駆け出し、今度こそとどめを刺すべく素早く接近する。

 

 「おれにも勝てねぇお前が海賊王だと? 笑わせるなッ!」

 

 全力で振るわれたナイフは屈んで避けられる。

 足元がふらつくものの、回避の一瞬だけは非常に素早い行動であった。

 

 「おれは、お前を……超える男だッ」

 

 苦しげな声で必死に呟いた後、二人は同時に攻撃を繰り出す。

 突き出されたパンチとナイフが互いの頬をかすった。

 視線が交わり、もはや思考も何もあったものではなく、疲れ切った体を動かすことに精いっぱいのようで、最後の力を振り絞って攻撃を行う。

 今や二人の視界には、向き合った敵の姿しか入っていなかった。

 

 自ら攻撃を繰り出すクロコダイルの腕を避け、ルフィはともすればふらつく体で右へ左へと動き続ける。そんな状態だからこそ攻撃を連続させるのだが当たらない。

 反対にルフィが拳を突き出せば、クロコダイルは最小限の動きでそれを避けた。

 

 二人は砂嵐の中心で、決められた動きを舞うかのように戦っていた。

 互いの攻撃が当たらず、一撃が結果を分けるほどの死闘を演じる。

 

 見ているだけで息を呑む戦い。

 一番近い場所に居たビビは動くことができずにいて、冷静さを取り戻したコブラが駆け寄った。

 ここは危険だ。一刻も早く離れなければならない。

 コブラはビビの肩を掴み、二人の戦いから離れようとする。

 

 「ビビ! 大丈夫か!?」

 「え、ええ……」

 「彼は一体……いや、それよりも。まずはここを離れるぞ!」

 

 コブラの手で立たされたビビだったが、吹き荒れる砂嵐の向こうに行くのかと考えた時、自らの意思で咄嗟に足を止めた。連れ出そうとするコブラが驚く。

 彼女の手がそっとコブラの手を下ろさせて、もう一度ルフィの方に体を向ける。

 ここまで来れば今更逃げる気にはなれなかった。

 

 「何を……」

 「彼が最後の希望なの。ルフィさんが勝てないなら、もうあいつに勝てる人は居ない……だけど彼は絶対に勝つわ。私はそう信じてる」

 

 そう言うとビビはスーッと深く息を吸い、声を張り上げた。

 

 「ルフィさんッ! がんばれーッ!!」

 

 コブラが呆然とした顔で立ち尽くした。すると砂嵐を突き抜け、傍に来る人間に気付く。

 彼らは、ビビの仲間だろうと思っていた人々だ。

 誰よりも早く駆けつけてビビの周囲に陣取り、すでに限界を超えた体で必死に叫び始める。熱心な様子でルフィの名を呼び始めたのだ。

 

 「ルフィ~! あとはお前だけだぞ!」

 「さっさとぶっ飛ばしちゃいなさい!」

 「これが最後だよ!」

 「ルフィ~! がんばれ~!」

 「気合入れろよルフィ! お前が勝てなきゃ誰が勝つんだ!」

 「ルフィ!」

 

 口々に叫ぶ声を聞き、コブラは彼らのことを少なからず理解する。

 全てをルフィへ託したのだ。長い戦いにより彼らもまたすでに限界を迎えており、それはつい先程クロコダイルに圧倒されたことからも推測できる。彼に勝てるのはルフィしか居ないと、自分たちにできることをするために声を張り上げて応援している。

 

 確かにルフィは見た目からして危険な状態だった。だが唯一クロコダイルの攻撃を避け、彼に己の攻撃を届かせた。その一瞬で信頼するのは、わからないでもない。

 とはいえ、きっと以前からの関係性も大きく影響しているのだろう。

 彼らの顔からはルフィへの信頼感が見えていた。今までもこうしてきたのだろう、ずっと彼を信頼してきたのだろうというのが目に見えて伝わった。

 

 コブラは、もう逃げようとは思わない。

 ビビの傍で彼らと一緒に、必死に声を張り上げてルフィの名を呼ぶ。

 

 長く、永遠にも感じる一瞬だった。

 クロコダイルが突き出したナイフを横に移動して避け、ルフィのパンチを右に避ける。

 呼吸をする暇さえない攻防がずっと続いていた。

 

 砂嵐に吹き飛ばされた後、クロコダイルの実力に怯えていた人々はその光景を目撃した。

 自分たちよりよっぽどひどい傷を受けた少年が、フラフラになりながら戦っている。

 彼が誰なのかなど誰も知らない。だが必死な様子のビビの声を、コブラの声を聴いて、実際に戦っている彼の姿を見れば黙ってはいられないだろうと考える。

 誰もが考え、緊張した状況下では決断が早かった。

 見ていた人々も叫び始めて、最初は少なかったその数も、その戦いを見て徐々に増えていく。

 

 いつの間にか多くの声が彼へ集められていた。

 思考を失うほどの疲労感の中、不思議とその声は聞こえてくる。最初はビビ。次に仲間たち。そして顔を知らない者たちまで自分の名を呼んでいる。

 ルフィは、一身に彼らの声を浴びていた。

 

 「麦わら帽子ィ! 頑張れ~!」

 「ルフィー! お前だけが頼りだ!」

 「行けェ! クロコダイルをぶっ飛ばせ~!!」

 

 ルフィ。ルフィ。ルフィと。

 数多くの声が重なって、彼の下へ届いていた。

 その声を聞いて、何かを想うほどの余裕はない。だがなぜか力が湧いてくる。

 

 煩わしそうに険しい顔を見せるクロコダイルが前へ踏み込む。左腕を横薙ぎに振るって胴体を狙うが、転がるようにしてルフィに避けられてしまう。

 立ち上がる際に少し体がぶれた。

 それを隙と見て即座にナイフを突き出した瞬間、ルフィの動きが素早くなり、頬をかする。

 

 なぜこんなに動けるのか。理解ができない。気分が落ち着かない。

 クロコダイルは右腕を砂に変え、砂の刃を地面へ走らせる。

 その場で軽く跳びあがったルフィは瞬く間に刃を飛び越えてしまい、回避する。

 ならば着地の瞬間に仕留めようと刃で狙うが、振るわれた腕を空中で蹴られ、軌道が変わり、触れることもできずに空を切る。そして焦ってしまったその一瞬が状況を変えた。

 

 強く地面を踏みしめ、ついにルフィの拳がクロコダイルを捉える。

 正面から顔面を殴り飛ばした瞬間、周囲の人々がわっと更なる大声を出した。

 

 たった一撃。だが今の体ではそのダメージが驚くほど重い。

 攻撃を受けて、体が想像以上に動かないことに気付き、ダメージが蓄積した結果、いつの間にか体の限界を超えていたらしいとわかる。

 

 「ガハッ……! フッ、クハハハハハ……」

 

 鼻血を垂らし、口から血を吐いて、不思議と笑えてくる。

 動きを止めた彼に倣ってルフィも一時動きを止める。

 互いの距離を見ながらじりじりと移動する二人を見て、周囲は応援の声を止めない。そんな環境の中で二人は視線を合わせ、思いのほか静かな様子で会話を始めた。

 

 「たかが一海賊が、まるで英雄だな。おかしな状況もあったもんだ」

 「ハァ、ハァ……おれは、お前をぶっ飛ばせれば、それでいい……」

 「フン。てめぇも相当なバカだ」

 

 クロコダイルが突進し、ルフィがわずかに退く。

 振るわれたナイフを避けようとした時、今度はわずかに腕を裂いた。

 周囲から悲鳴が上がって、本人は歯を食いしばって声を抑える。

 

 「てめぇのような夢見がちのルーキーはいくらでもいるぞ! 口先だけなら誰でも言える!」

 「ゲホッ……ゼェ……」

 「てめぇに一体何ができる!」

 

 眼前に迫るナイフを屈んで避け、ルフィはわずかに歯を鳴らした。

 

 「お前に、勝てるッ!」

 

 反射的に前へ出した拳が腹を打つ。

 クロコダイルの体がほんの少し浮かんで、地面に足が着いた瞬間頬を殴り抜く。流石に足元がふらついてクロコダイルが姿勢を崩し、さらにルフィが拳を振るう。

 今度は同時にヒットした。

 自身を狙って動く腕をナイフでガリガリと削り、その腕が届くとクロコダイルの胸を打つ。

 

 壮絶な一閃だった。

 短い時間だが二人の心身をひどく消耗させ、徐々に極限状態へ追い込んでいく。

 

 周囲では彼らの行動に一喜一憂する声があるものの、次第にその声さえ遠くなり、彼らは彼らだけの世界へ突入していった。

 考える必要がなくなったため、あとは体が動く通りにする。

 今すぐ倒れてもおかしくない体で、二人の攻撃はさらに速くなろうとしていた。

 

 クロコダイルが右腕に砂の刃を作って振り回す。

 ルフィは潜るように避け、懐へ飛び込んだ。

 互いの攻撃が相手の体を刺し、またしても二人の血が宙へ飛ぶ。

 

 「ゲホッ……!」

 「ガフッ……!」

 

 ルフィが思い切り腕を振り回した。クロコダイルが屈んでそれを避けて、瞬時にルフィが蹴りを繰り出すと、素足をナイフで貫いて体勢を崩させる。突き刺した左足を起点として、貫いたまま彼の体を無理やり持ち上げ、投げ飛ばすように地面へ叩きつけた。

 足から荒々しくナイフを抜くとすかさずルフィの首を狙う。

 息を詰まらせていた彼だが反撃は遅れなかった。

 

 腕を伸ばして繰り出したフックが、一撃で倒すほど強くクロコダイルの頬を打ち抜く。

 彼は勢いよく倒れて、その間にルフィが立ち上がった。

 

 再び仕切り直し。

 お互いにいつまで経っても倒れない。とうに倒れていてもおかしくないはずなのに、どれだけ攻撃を打ち込んでも必ず即座に立ち上がってくる。

 

 この時、クロコダイルの頭にはサソリの毒についてなど残っていなかった。

 本来なら死んでいるはず。そんな事実を捨て去り、実力で殺すことに集中している。

 ルーキーであるのは間違いないとはいえ、この男は別格だ。

 ようやくその実力を認めて、だからこそ全力で叩き潰そうとする。

 

 グランドラインのレベルを知らない人間にこの先の海は越えられない。上にはいくらでも上がいるのだ。それは彼が体験として知っていた。

 上を目指すべく、ここで負けてはいられない。それはお互いが思っていただろう。

 ルフィは海賊王になるため。クロコダイルも己の野望を果たすため。ここで負けてしまえば全てが終わるという気持ちで相手と向かい合っていた。

 

 先にクロコダイルが動き出す。

 ルフィは繰り出される攻撃を紙一重で回避し、自身も反撃した。

 砂になる時間も惜しいと彼は全てを見切って避け、退こうとはせずに前へ出ようとする。

 

 やがて二人の負けん気が前進する姿勢となって現れた時。

 急接近した二人は互いに渾身の頭突きを激突させた。

 

 額をぶつけた状態で、拳を強く握り、ナイフを掲げる。

 振り切った瞬間に相手の体へ届き、クロコダイルの顎を殴り、ルフィの胸を抉る。

 今度は二人が同時に倒れた。周囲はその迫力に気圧され、怯えながらも必死に応援する声を発し続けて、戦いの激しさに目を白黒させていた。

 

 すぐには立ち上がれず、時間をかけて、腕と足を震わせながら立ち上がった。

 どんどん凄惨さを増していく外見。それなのに戦意はむしろ増している。

 相手の目を見つめ合った瞬間、彼らは笑みを浮かべていた。

 

 「ハァ、ゼェ……ここまでやって中途半端は許さん。どちらが死ぬかだ……」

 「ハァ、ハァ……おう。勝つのは、おれだ」

 

 血まみれで笑う姿は傍から見ているとひどく恐ろしい。だがその二人は自分たちにしかわからないものを感じていたようで、死にかけた今になっても手を抜こうとはしていない。

 次は同時に動き出し、当たり前のように前へ走って激突した。

 

 その際の戦闘は、今までと違って少し奇妙なものだった。

 二人がダンッと強く地面を踏みしめた後、足を固定したかのようにその場を動かず、一瞬の静止で睨み合った後に攻撃を始めたのである。

 どうやら回避と防御を捨てたようだ。

 

 ルフィの拳がクロコダイルを殴る。クロコダイルのナイフがルフィの肌を裂く。

 激しい攻撃は全て相手の体へ叩き込まれて、凄惨さはさらに増す。

 

 本人たちだけでなく、周囲の者まで永遠に続くのではないかと感じていた。

 もはや二人の体は生きているのがおかしいという状態になっている。

 そんな頃に、ついに状況の変化が見えた。

 

 ルフィが不意に足元をふらつかせた時だ。

 好機と見たクロコダイルがとどめの一撃としてナイフを突き出す。

 

 「何も、知らねぇ、小僧が……このおれを誰だと思ってやがるッ!!」

 「お前がどこの誰だろうと!」

 

 大ぶりの一撃を、頭を下げたルフィが躱した。

 

 「おれはお前を超えていくッ!!」

 

 そして咄嗟に出た蹴りで彼の腹を蹴り上げ、クロコダイルは天高く吹き飛ばされる。

 ここで決着。二人は同時に決める。

 クロコダイルは空中で右手の中に砂嵐を作り出し、ルフィは腹が膨らむほど大きく息を吸う。

 

 「いい加減、くたばりやがれ……! 砂嵐(サーブルス)――!」

 

 人々が頭上を見上げる中、クロコダイルの攻撃は広範囲に及んだ。

 

 「(ペサード)!」

 

 再びの暴風。風の重しで押し潰されるかのような衝撃だった。

 観戦していた者たちが呆気なく吹き飛ばされ、辺りは悲鳴が飛び交う状況となる。その中で唯一ルフィだけはその場で踏ん張り、最後まで耐え切った。

 暴風が消えると砂嵐が吹き飛ばされており、周囲の視界は一気に広くなる。

 その時にはルフィが自分の膨らんだ体を捩っていて、地面へ向けて一気に息を吐き出す。

 

 自分が吐き出した息で高く飛び上がる。

 体を捩っていたことが影響して、彼の体は空中でぐるぐる回転していた。

 

 落下するクロコダイルと、空を目指すルフィが、空中で急接近する。

 ようやくこれが最後。

 ルフィは素早く両腕でパンチを伸ばし、クロコダイルは右腕に巨大な砂の刃を作った。

 

 「ゴムゴムの……!」

 「砂漠の(デザート)――」

 

 最後の一撃は、凄まじい迫力を伴って相手の体へ伸びた。

 

 「暴風雨(ストーム)!!」

 「金剛宝刀(ラスパーダ)!!」

 

 人々が見上げる中で勝負は一瞬にして決まる。

 ルフィの拳が砂の刃に触れた時。それは血で濡れていたせいか、はたまた何か別の力が作用していたのか。砂の刃は呆気なく散った。

 

 無数の拳がクロコダイルの全身を襲う。

 一度捕らわれれば逃げられない怒涛の攻撃。その拳は、今までで最も強かった。

 

 「うおおおおあああああっ――!」

 

 殴り、殴って、また殴る。

 一呼吸の隙も与えずに全身を殴って吹き飛ばす。

 クロコダイルの体はどんどん上昇していき、その分ルフィの腕が長く伸びた。

 

 「ああああああああっ!!」

 

 最後の一発が彼の体を高く突き上げて、さらに天高くまで吹き飛ばした。

 広場に居る者たちが皆、首を反らし、空を見上げて確認していた。

 頂点へ達した後、二人の体は真っ逆さまに落下してくる。

 その時、確かな変化があった。

 

 意識を失い、自然に目を閉じたクロコダイルが落下してくる。その際に落下する軌跡は、奇しくも少し前に空から落ちた彼と同じで。

 大の字になって落下してくる彼の顔へ、空から一滴の水滴が落ちた。

 

 落下してきた二人の体が地面に激突する。

 受け身も取れず、激しい音を立ててその動きが止まった。

 

 誰もが沈黙していた。広場にはのしかかるような重苦しい静寂が広がっている。

 落ちた二人をじっと見つめて、誰一人動けない。それは彼らが繰り広げた戦いが想像を絶するほど凄まじかったのもあるが、大きな理由がもう一つ。

 ぽつぽつと雨が降り始めていた。

 いつしか空を覆っていた厚い雲から、砂漠の国にとっては恵みと言える雨が降る。

 

 「雨……」

 「雨だ……」

 

 口々に言葉で確認する。そうするほどの衝撃がある。

 音を吸い込むように静かに、徐々に勢いを増していく雨を見つめ、ビビは呆然としていた。しかしハッとして、ルフィを助けなければと思う。

 

 彼は今動けない。しかも死にかけていた。

 助けなければ、と慌てて駆け出そうとした時、ちょうどそのタイミングでルフィが声を出す。

 

 呼吸はいまだ整わず、意識が途切れようとしている。

 それでも言いたいことがあった。

 せめて一つだけ。彼は小さな声で呟く。

 

 「ハァ……ハァ……勝ったぞ……」

 

 大勢の人間の気が、ぐっと動くのがわかった。

 ルフィは大きく息を吸い込み、今残る力全てを使って大声で叫ぶ。

 

 「勝ったぞォオオオオッ!!!」

 

 瞬間、これまでで一番の大歓声が上がった。

 それを聞くとルフィは笑顔で目を閉じ、今度こそ意識を手放す。彼が安らかな顔で眠りに就いてから仲間たちが一斉に駆け寄り、その中には、嬉しそうな笑顔で涙を流すビビが居た。

 この時をずっと待ち望み、涙を流すまいと我慢していた。しかしもう我慢は必要ない。

 ビビは戦いの勝利を心底喜び、感情が動くままに涙を流した。

 

 広場に居たアラバスタ王国の民は様々な感情を抱き、苦心もするが、今この時だけは大きな喜びを全身で表す。雄叫びを上げ、抱き合い、涙を流す者も居た。

 長い戦いがついに終わり、そしてその時を告げるように雨が降り始めた。

 この時を信じて頑張ってよかった。そう語る者ばかりであった。

 

 コブラはその様子を眺める。

 国の一大事を乗り越えた。これからまたこの国は変わる。

 

 静かに雨を降らす空を見上げて、彼は微笑む。

 ひとまず戦いが終わったことは喜ばしいことだった。

 辺りを見回したコブラは国民の笑顔に胸を撫で下ろし、何よりビビの喜ぶ様子に安堵していた。

 


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