ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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《P.S. 12 years old》

 1

 

 朝靄が視界を覆う、なだらかな海。

 一隻の船が太陽が昇る方向へ船首を向けて停泊している。

 掲げられたのは黒い旗。海賊であった。

 

 船首のすぐ傍にある欄干へ腰かけている男が居る。大きな羽を差す古びた帽子をかぶり、煤が目立つような汚れたコートを身に纏い、長い髭を生やした中年だ。

 口髭を濡らしながら豪快に酒を飲み、零れて己の服を濡らしてもいる。

 見るからに不健康そうな男の様子をじっと、隣に座った少年が見つめていた。

 

 酒瓶から口を離して腕を下ろし、男が口を開く。

 

 「海賊は自由だ」

 

 唐突な発言に、何を今更、と思う。

 少年はわざとらしく溜息をついた。

 そんなこと、いつも彼をはじめとした仲間たちから聞いている言葉だ。改めて教えられずとも覚えているし、彼自身それを体現しようとしているほどである。

 また変な酔い方をしたのかと呆れてすらいたようだ。

 

 男は左手に持っていた物を口にする。

 桜餅、というそうだ。桃色の餅を葉っぱで包んで、本当は桜の葉を使うそうだが、滅多に手に入る物ではないらしく代用品を使っているのだという。

 料理などできない、不器用な男が唯一作れる物。船のコックすら作れない特殊な一品だ。

 

 それを食して、酒瓶を傾ける。

 租借を数度。酒と共に飲み込んで喉を通す。

 

 少年も手に持っていた桜餅をかじる。

 その味は彼も好むものだ。普段滅多に作らないだけに格別な味がする。

 美味いとは感じるのに、なぜか表情は嬉しそうではなくて、やけに真剣に海を眺めていた。

 

 「例えばだ。桜餅を食ってラムで喉を潤す」

 

 もう一度かじって、酒を飲む。

 口の中にある物を飲み込んだ後で彼は大きく息を吐いた。

 

 「これが絶妙に合わない」

 「ダメじゃん」

 「ダメじゃない。要するに選択するのは自分自身だ。食いてぇ物を食って飲みてぇ物を飲む。たとえそれが合わないとしてもだ」

 

 桜餅を食べてぐいっと酒瓶を傾けると、機嫌よく口元を歪めた。

 

 「絶妙に合わねぇ。これが最高だ」

 「よくわかんねぇや。うまい方がいいに決まってる」

 「決まっちゃいねぇさ。世の理を決めたやつってのは誰だ? どーせその辺でアホ面さげてる善人気取りどもだ。ルールなんざクソ食らえ。それがおれらの生き方よ」

 

 男が少年へ酒瓶を差し出す。

 右手で掴まれたそれをじっと見つめ、少し考える素振りを見せた後、少年は躊躇わず奪い取るように受け取る。

 

 仲間たちが飲むなと言っていた物を彼だけはあっさり渡してきた。

 そのことに少し驚きながらも、大人になるチャンスだ。

 少年は酒瓶を傾けて中身を飲む。

 

 「選ぶのはいつだってお前自身だ。攻めるも退くも、奪うも襲うも、桜餅にラムを合わせるかどうかさえな。選んで決めて、目にした現実は全て受け止める。それが自由ってもんだ」

 

 酒瓶から口を離して、飲み込んだものに対して少しも表情を変えなかった少年に、そちらを見ようとはせずに男が呟く。

 静かで、どこか恐ろしくて、仲間にとっては優しさを感じ取れる声色。

 世間から変わり者だと言われる彼だが、少年にとっては信頼できるとても大きな存在だった。

 

 「お前はガキだが海賊だ。てめぇの航路はてめぇで決めろよ。いつまでも他人のケツを追っかけてるだけの人生なんざ、つまんねぇもんさ」

 

 海を見つめてそう語る男の顔を見て、少年は何も言わずに目を逸らした。

 さっきの男の様子を思い出す。

 自身も桜餅を食べ、それからもう一度酒を飲み、一緒に飲み込む。表情はさほど変わらなかったとはいえ、どことなく嬉しそうな顔にも見えた。

 

 「うん。絶妙に合わねぇ」

 「それが自由だ」

 

 くつくつと低く笑う。どうやら男の機嫌はいいらしかった。

 

 朝日が徐々に昇ってくる。広大な海原を照らそうとしていた。

 何がかはわからないものの、その男に何かを教わった気がした朝。

 それはまだ、彼が海賊になったばかりの頃の記憶である。

 

 

 

 

 2

 

 深い霧が立ち込め、異様な雰囲気が漂う暗い海。

 空は厚い雲に覆われて、空気はどんよりと重く、青く見えるはずの海は辺り一帯黒く見える海域であった。海鳥も姿を消し、魚も現れない。生気を感じさせない不気味な場所。

 

 この海の名は、〝魔の三角地帯(フロリアン・トライアングル)”。

 迷い込んだ者は簡単には出られない怪奇の海。

 遥か昔から毎年百隻以上の船が行方不明になるという噂がある。

 そこに迷い込んでいたのは、一隻の海賊船だった。

 

 誰も居ない静かな甲板に一人の人物が立つ。

 その姿はおよそ普通とは呼べない外見だった。

 

 顔と言わずその全身、皮と肉がない骸骨なのである。白骨を剥き出しにして黒いスーツを着て、なぜか大きなアフロがあって、死人ではなく人間のように歩いていた。

 手に持っているのはバイオリン。こちらは何の変哲もないきれいな一品である。

 

 およそ人とは思えぬその人物。眼球のない目が沈黙している船を眺める。

 そしてバイオリンを構え、優雅に弾き始めた。

 最初は静かに。繊細で音の一つ一つを丁寧に選ぶような演奏を行う。しかし最初は人の心を癒すような音色だったはずが、徐々に激しさを増し、やがて弦が悲鳴を上げるかのような激しい演奏へ変貌していった。それは意図して騒音を起こそうとしている様子だった。

 

 「ヨホホホホ! みなさん朝ですよ~! 起きてくださ~い!」

 

 けたたましい音を奏でるバイオリンの音色は甲板から船内に響き渡り、眠っていた者たちを起こし始める。途端にドタバタと船内が騒がしくなった。

 下層に居た男たちが甲板へ上がってくる。

 扉を開けて飛び出した瞬間、楽しげに凶悪な曲を奏でる骸骨へ怒声を発した。

 

 「うるせぇえええ~っ!!」

 「おいブルック! 選曲考えろって言っただろ! 耳が壊れる!」

 「あ~さ~! アーサーで~す~よ~!」

 「もう起きたよッ!」

 

 騒々しい声を聞いて手を止めた骸骨、ブルックと呼ばれた彼は男たちに目を向けた。

 皮膚も表情筋もない骨の顔だが笑みを浮かべているように見える様子で、右手を上げて意気揚々と彼らへ挨拶した。耳を押さえている男たちとは対照的な姿である。

 

 「ヨホホホッ! みなさんおはようございます! 今日もいい朝ですね~!」

 「いい朝って、いつも通りじゃねぇか」

 「霧で視界は悪いし」

 「漂流中だぞ」

 「それでもみんなで居れば楽しいものです! いや~もう非常にいい一日の始まりですよ!」

 

 ブルックは見るからに上機嫌な様子で、弾む声色で言っている。

 寝起きで疲れた顔の男たちとは対照的だった。

 

 「それじゃ私はお手伝いに行ってきますから! ヨホホホホ!」

 

 そう言ってブルックは元気に走り出すと船内へ向かう。

 見送る男たちは呆れつつ、仕方ないという顔で苦笑していた。

 それは彼の身の上話を聞いたからに他ならない。

 

 「あいつは元気だな……」

 「そりゃ、ウン十年も一人で漂流してたんだ。楽しくて仕方ねぇのさ」

 「難儀な奴だなぁ。まぁ、おれたちに出会えてひとまずよかったってとこだが」

 

 彼らは、ビロード海賊団と名乗る海賊だった。

 船長を始めとしてほんの数名が賞金首として知られており、グランドラインにて存在を知られて以降数々の事件で名を広め、後半の海への進出も期待されている一味である。

 その中でブルックは、つい先日拾われる形で仲間入りを果たした男だ。

 

 船内へ入るとキッチンへ向かう。

 入った途端にコックの男が振り返り、同時に小さな少年が笑顔でブルックを見た。

 

 まず真っ先に薄い色の金髪の少年が手招きをする。

 彼の名はキリという。

 元来の好奇心の強さが故か、動く骸骨という不思議な存在の彼に懐いていたようだ。

 

 「ブルック! 早く早く!」

 「おはようございますキリさん。どうかしたんですか?」

 

 呼ばれるままにキッチンの中へ入る。

 キリはすぐにオーブンの前へ移動した。ブルックも興味を持ってそちらへ向かうが、別の作業をしていたコックに声をかけられ、そちらへ顔を向ける。

 

 「ようブルック。今日もずいぶんうるさかったな。もう少し別の曲はないのか?」

 「朝起きるにはこれが一番です。パッチリ目が覚めますからね。といっても私の場合、開く目がないんですけどー! ヨホホホホッ!」

 「やれやれ……」

 

 少し呆れた顔で苦笑し、コックは作業に戻る。

 従ってブルックはキリが見ているオーブンに目を向けて、腰を曲げて覗き込んだ。

 

 「もうすぐ焼きあがるぞ」

 「あっ。これは……」

 

 しっかりとオーブンミトンを手につけて、キリがオーブンを開ける。

 中で焼かれていたのは小麦色に光るパンだ。丸い形のパンがずらりと並んでいて、どうやら彼が作ったらしい。鼻もないのに一気に香った匂いに気分を良くする。

 ブルックは興味津々にその様子を見つめており、キリが運ぶパンに目を奪われていた。

 

 ミトンを外して素手になり、キリがパンを一つ取る。

 それをブルックの顔の前で持ち、悪戯をするように楽しげな笑顔を見せた。

 

 「見てろよ……」

 

 ぐっと指先に力を入れて、丸いパンを二つに割った。

 ほわっと広がる湯気と香り。柔らかそうな質感と断面が目に飛び込んでくる。

 間近で見ていたブルックは思わず仰け反り、頬を両手で挟んで驚きを表現していた。見た目は骸骨であっても食欲はあるようで涎すら垂らしそうな顔つきだ。

 そんな彼の様子にキリは嬉しそうに笑い、長身である彼を見上げる。

 

 「うわ~おいしそう! これキリさんが作ったんですか?」

 「そうだよ。これだけは一人前だって認めてもらったからね」

 「いや本当においしそうです。私我慢できなくなっちゃいますよ!」

 「そう? じゃあ半分だけな」

 「え? いいんですか?」

 

 そう言ってキリが二つに割った片方を差し出した。

 驚くブルックが咄嗟に受け取った時、呆れた顔でコックが振り返る。

 

 「おい、勝手に決めんなよ」

 「別にいいじゃん。一個だけ」

 「仕方ねぇな……他の連中にはバレんなよ」

 「やった」

 「ありがとうございますフラノさん。では早速」

 

 苦笑しながらではあったが認められて、顔を見合わせた二人は同時に大口を開ける。そして思い切り焼きたてのパンに噛みついた。

 ふわりとした感触。香しい匂い。

 ブルックは瞬間的にピンと背筋を伸ばして、キリは上出来だと口元を緩めた。

 

 「うんまぁ~い! これ、すごくおいしいですよキリさん!」

 「へへっ、そうだろ? これだけはフラノにだって負けないね」

 「何言ってやがる。教えてやったのはおれだろうが」

 

 コックの声も気にせず、二人はにこにこ笑いながらパンを食べ、その速度は速く、最初の一口からほど経たずに食べ終えてしまう。

 咀嚼している最中だったがタイミングを見計らってコックが声をかけた。

 

 「おら、つまみ食いが済んだら働け。スープ出来上がってんぞ。そろそろあいつら来るからな」

 「う~い」

 「ブルック、お前も手伝え。仕事なら山ほどあるぞ」

 「ヨホホ、もちろんです。拾ってもらった恩返しにしっかりお手伝いしますよ」

 

 コックに言われてキリとブルックが慌ただしく動き始めた。

 船の乗組員は多い。食事の準備はいつも大変で、いつもコックとキリだけでこなしているのだがまるで戦場のよう。よく食べ、よく騒ぐ仲間たちのため、あちらこちらを走りながらいくつもの料理を盛り付け、酒を出し、食事の準備を急ぐ。

 

 キリが完成したスープを皿に注いでいた時だ。

 思い出したように顔を上げたコックが彼へ目を向ける。

 

 「そういや船長を起こさねぇとな。キリ、行ってこい」

 「え~またおれ? 朝はいっつも機嫌悪いんだぞ」

 「お前しか部屋に入れねぇんだから仕方ねぇだろ。殺されねぇから大丈夫だ」

 「毎回毎回めんどくさいなぁ~。いい加減ビロードも自分で起きればいいのに」

 「そりゃ本人に直接言ってやれ」

 

 作業を離れてキリがキッチンを離れる。その顔は決して嬉しそうではなく、ぶつぶつと文句を言いながらではあったが、無視しようという考えはないようだ。

 廊下へ出るとすれ違うようにして仲間たちがやってきた。

 皆大人でキリより年上。一味で最も幼いキリを見ると表情は緩む。

 

 「ようキリ。お勤めご苦労さん」

 「またビロードのとこか?」

 「そ。なぁ、船長室の扉ぶっ壊しとくってのだめなのかな?」

 「あっはっは! そりゃいい考えだ!」

 「でもそれができるとすりゃお前だけだよ。おれたちじゃ本気で殺されかねねぇからな」

 「ちぇっ。いい考えだと思ったのに」

 

 へらへらと見送る仲間たちを置いてキリが移動する。

 一度甲板へ出て、一段高い場所にある船長室へ向かう。

 扉は固く閉ざされていて、いつも鍵までかけられている。日中ならばいざ知らず、夜間は常に閉ざされていた。それは船長の警戒心の高さが故と語られている。

 

 本来ならば鍵をかけられた扉を開けることはできず、中に入ることはできない。しかしこの船に居る乗組員でキリだけが鍵を開けずに室内へ侵入できる。

 一味に仲間入りしてからしばらくして手に入れた、悪魔の実の能力を使うのである。

 

 ペラペラの実の力で、全身が紙のように薄っぺらく変身した。

 その状態で器用に動き、扉の隙間から室内へ侵入する。これで大抵の狭い場所へ侵入できるのが彼の特技であり、仲間たちに認められている力であり、重宝される理由であった。

 部屋に入ると体の厚みが元に戻る。

 振り返って溜息をつく。扉の前には宝箱やテーブルといった重そうな物が山積みにされていた。

 

 これでは他の人間が入れる訳がない。

 当然、彼の寝首を搔こうという人間も入ってこれないわけだ。

 

 唯一我が物顔で侵入できるキリがベッドへ近付く。

 一人の男が眠っていた。いびきを搔かず静かに、死んだように動かない。

 脱ぎ捨てられたコートを拾って、眠りこける彼へ歩み寄る。

 

 その刹那、唐突に体が反転して腕が伸ばされる。

 気付けば銃を突きつけられていて、眉間に触れるか触れないかという位置に銃口がある。引き金にはすでに指がかけられており、いつでも発砲できる状態。

 光を灯さない瞳がキリに向けられたが、彼は呆れた顔で平然としていた。

 

 「朝だぞ、ビロード。早く起きろよ」

 

 一切動じることなくそう告げれば、ゆっくり瞬きを数度。やっと目が覚めたようで何も言わずに銃を下ろす。そして頭に手をやると乱暴に髪を搔いた。

 反射的な行動はいつものこと。もうすっかり慣れてしまった。

 こうしていつも彼を起こしているキリは、拾ったコートを彼の体へ投げつける。

 

 「あぁ……そうか」

 「いい加減何とかしてくれよなー。自分で起きるか、扉開けとくとかさー。いっつもおれが起こさなきゃなんないんだぜ?」

 「頭が痛ぇな……飲みすぎた」

 「聞けよ」

 

 頭を抱えて動こうとしない船長、ビロードに溜息をついて、キリは面倒そうにしながらも世話を焼き始めた。これが彼の仕事の一つなのである。

 船の上での雑用全般。何もかもを学習中の子供。

 子供でありながら一端の海賊であり、自身の役目が船の上にある。

 

 この海賊団の一船員であることが彼の誇りで、全てでもある。

 からかわれながらも生意気に仲間たちと肩を並べ、共に広い海を航海する。

 そんな日常が彼にとっての当たり前であった。

 

 

 

 

 3

 

 魔の三角地帯(フロリアン・トライアングル)に迷い込んで数日が経っていた。

 簡単に航海できる海域ではないと聞いていたが、不規則に変わる波と星を読ませない深い霧に阻まれて、外へ出られるか否かは運次第。彼らも航海が長引くだろうと判断していた。

 食料の問題もある。このままどこにも到達できなければ焦りが増していく一方だろう。

 

 そんな状況下で、唐突に気候が変わろうとしていた。

 波が荒れ出し、風が強くなり、雨が降り始める。

 どうやら嵐が来るようだ。

 

 「シケてきやがったな」

 「フロリアン・トライアングルは気候が安定してんじゃねぇのか?」

 「ここはグランドラインだぞ。これくらいのことは当たり前に起こる。どこに居たって不思議なことじゃねぇのさ。おいキリ、中に入ってろ。またへばんぞ」

 

 甲板で操船の手伝いをしていたキリは、仲間の一人に声をかけられて振り向いた。

 ペラペラの実を食べて全身紙人間となった彼が苦手とするのは水。雨は当然、風呂ですら一人で入れない。体が濡れると力が抜けてしまい、簡単に溺れてしまうからだ。

 最初はぽつぽつと降り始めた雨も、風に乗せられて徐々に勢いを増そうとしている。

 深い霧に包まれているとはいえ、空模様を見たキリは慌てて駆け出した。

 

 「あーもうっ、雨って嫌いだな~。おれ船の中に居るからあとよろしくっ」

 「おーそうしろ。邪魔にならなくて一安心だ。ブルック、お前あいつと一緒に居てやってくれ。一人にしとくとぶーたれて後がうるせーからな」

 「わかりました。では私も少し休ませてもらいましょうか」

 

 同じく操船を手伝っていたブルックが移動し、二人で船内へ入る。

 その間にも雨の勢いが増し、波が荒れ狂っていた。

 途端に船は大きく揺れ始めて、そんな状態でも霧は一切薄まることはなく、周囲の視界はさらに悪くなる一方。船上の海賊たちは顔をしかめた。

 

 この海域で敵に出くわすことなどないと思うが、普段ならば危険な状況だ。

 荒波を越えるために帆をたたみ、操船は先程以上に慌ただしくなる。

 

 嵐の中へ突入してから、しばらく経った頃だった。

 突然船長室から出てきたビロードが甲板へ立つ。

 強く吹き付ける風や雨も一切気にせず、酒瓶を傾けながら海を睨む彼に船員は首をかしげる。

 

 「ビロード、どうかしたか?」

 「確かに妙な霧は消えてねぇが、これくらいの嵐なら今まで何度も――」

 「気付かねぇか?」

 

 彼の真剣な声に近くに居た男が口を噤む。

 ビロードの目は何かを見ていた。

 

 「さっきからずっとおかしな感覚があった。この嵐が来てからそれが急に強まったんだよ。こいつが来るのを待ってやがったな」

 「どういう意味だ……?」

 「何かが近付いてるってのか? まさか敵襲――」

 「明かりが見えたぞ! 船だッ!」

 

 その時、メインマストの上から周囲を警戒していた一人の男が叫ぶ。

 海に一隻の船が見えた。

 一瞬にして緊張が甲板を駆け巡り、顔つきを変えた男たちがそちらの方向へ目を向ける。

 

 「数は? 旗を確認しろ!」

 「一つだけだが、あれは……小舟? いや、っていうよりイカダじゃないのか」

 「この嵐だぞ。何考えてやがるんだ……」

 「しかもフロリアン・トライアングルでだ。明らかに普通じゃねぇな」

 

 警戒は時間が経つにつれ増していき、自然とビロードへ注目が集まる。

 

 「船長!」

 「ビロード、どうする?」

 「戦闘準備だ。急げ」

 「戦闘? 襲うのか?」

 「バカ言え。襲われてんのはおれらだよ」

 

 ビロードの言葉は気になったが命令は出された。

 男たちは声を張り上げながら行動し始め、甲板の上が一層騒がしくなる。

 

 「戦闘準備だ! ありったけの武器を持ってこい!」

 「船長、砲撃は?」

 「まだ待て。とりあえず話を聞くとしよう」

 「砲撃は準備だけにしろ! 急げよ野郎どもォ!」

 

 雄々しい声が豪雨の中でも広く伝わる。それは船内にも聞こえたようだ。

 様子の変化に気付いたキリとブルックは甲板の方向へ目を向ける。しかしキッチンに居た彼らはその場所を確認することができず、首をかしげるばかりだった。

 

 「なんだ?」

 「何かあったんでしょうか」

 

 二人が知らぬ場所で、小さな船が接近した。

 一人の男がビロード海賊団の船へ乗り込んでくる。

 4mを超える巨体を持ち、筋肉が大きく隆起した強靭な肉体で、無手ではあるが醸し出される雰囲気は明らかに危険。戦闘のために乗り込んできたとしか思えない。

 その男、上着の前を開いて大きな筋肉を窺わせ、鉄仮面で顔を隠す奇妙な外見だった。

 

 警戒する男たちが武器を構える中、ビロードが先頭に立った。

 酒瓶を傾けながら冷徹な目を見せており、油断しているような風体とは裏腹に、相手へも伝わるほどの奇妙な迫力がある。しかし鉄仮面の男が怯えた様子はない。

 

 「挨拶もなしに乗り込んできた無礼な客人に質問しよう。何の用で来られたのかな?」

 

 穏やかな声で語り掛けるビロードに対して、鉄仮面の男は反応しない。

 

 「助けが必要だというのならば考えよう。だが仮に我々への攻撃を考えている場合、ただで帰すことはできないと考えてほしい――」

 

 言い終える前に鉄仮面の男が動いた。

 何も言わずビロードを殴りつけ、酒瓶が割れて、彼の体は吹き飛んだ。凄まじい勢いで船体に激突すると一部が壊れ、甲板に緊張が走る。

 あまりにも速い一撃。しかも突然の攻撃だ。

 咄嗟の判断で全員が身構え、敵に武器を向ける。

 それを止めたのがビロードの声だ。

 

 「待て」

 

 攻撃を受けたとは思えないほど冷静な声。

 壊れた壁の破片を蹴りつつ、ビロードが出てくる。

 様子はまるで変わらない。冷静で冷淡、つまらなそうな顔で鉄仮面の男を見ていた。

 

 「ふむ……なるほど。そのつもりで来たわけか」

 

 彼の言葉で仲間たちの顔つきが変わる。

 戦意はますます高まっていった。

 

 「では諸君。殺せ」

 

 待っていたと言わんばかりに男たちが一斉に動き出す。

 全員が武器を掲げて鉄仮面の男へ殺到し、同時に攻撃を行った。

 鉄仮面の男はその場を動かない。

 

 雄叫びと大きな物音を聞いて、キッチンに居たキリとブルックが不思議そうにしている。その奥で作業をしていたらしいコックは厳しい表情だ。

 外で何かが起こっているのは間違いない。

 気になる二人は確認せずにはいられない心境となっていたようだ。

 

 「やっぱり騒がしいな……」

 「この天候じゃ遊んでるわけじゃないでしょうしねー」

 「よし。見てくる」

 「おい待て、キリ!」

 

 思わず部屋を出ようとしたキリをコックが呼び止める。仕方なく足を止めて振り向いた。

 

 「外は雨が降ってる。何が起こってるにせよお前がどうにかできるもんじゃねぇだろ」

 「なんだよそれ。おれにだってできることはあるよ」

 「いいからここに居ろ」

 「いやだ。おれは海賊だ。自分が何をするかくらい自分で決める」

 

 コックの言葉に尚更その気になったのか、キリは飛び出すように部屋を出た。

 慌ててブルックが追いかけ、さらにコックが見逃せずに慌てる。

 

 「あ、ちょっとキリさん」

 「戻れキリ! 外には出るな!」

 

 甲板を目指して急いで走った。

 後ろから怒鳴るコックが追ってくるものの今更怯えはしない。反抗的な態度でキリは頑として足を止めず、一心不乱に外を目指す。

 そして扉を荒々しく開け、甲板へ到着した。

 

 真っ先に目に飛び込んだのは宙を飛ぶ仲間の姿だった。

 体が異様にでかい、鉄仮面の男に殴られ、体が歪んだ状態でキリのすぐ近くに落下する。

 思考が停止し、訳も分からずじっとその体を見つめていた。

 ピクリとも動かない。目は開かれたまま、瞬き一つさえしない。何も語らず、さっきまでいつも通り喋っていた男が奇妙に固まっている。

 

 まさか、と思う間に別の男が地面を転がった。

 大きな音を立てて床に激突して、途端に動かなくなる。

 外傷はおそらく殴られたそれ。ただ、素手で殴ったとは思えないほど人体がひしゃげていた。

 

 鉄仮面の男がでかい図体を振り回して暴れていた。

 なぜか体の一部だけが漆黒に染まり、振るわれる刃を受け止め、男たちを殴り飛ばす。

 

 人が木の葉のように空を舞い、脱力したせいでぞくりとするような様子で落下してくる。中にはあまりのパンチ力に皮膚を破かれ、頭や体の一部が潰れている者も居た。

 一人、また一人と動かなくなっていく。

 体の一部を破壊されて、治療する暇もなくこの世を去っていく。

 まるで理解できなかった。見ていて思考が停止していた。

 立ち尽くすキリはブルックやコックが追いつく頃になってようやく理解する。仲間を殺す敵が自分たちの船に居る。あれを殺さなければと判断した。

 

 「お前ッ……何やってんだァ!!」

 「待て! やめろキリ!」

 

 コックが慌てて彼を抱きとめた。ブルックも目の前の光景に動揺しており、立ち尽くしている。

 過激な事件を引き起こし、戦闘には定評のあるビロード海賊団が一方的にやられていた。

 異常事態だと咄嗟に察して、コックは血相を変える。

 

 状況が有利か不利か。どちらであれ、とにかくキリを行かせてはいけない。横殴りの雨がすでに彼の体を濡らしていた。ただでさえ弱いのに、体が濡れた状態では逃げることすらできなくなる。

 慌てたコックは必死にキリの体を押さえつける。

 暴れる彼は敵に向かおうとして、こちらも必死に腕の中から抜け出そうとしていた。

 

 「離せよフラノッ! あいつ、おれたちの仲間を殺しやがった……!」

 「バカ言え! お前にどうにかできる相手か!」

 「関係ねぇよ! あいつをぶっ殺してやる!!」

 「落ち着け! お前もおれたちの仲間なら冷静になれ! 真正面から戦って勝てる相手じゃねぇって見りゃわかるだろうが!」

 

 怒鳴り合いながらも必死に彼を止め、もがくキリは駆け出そうとする。

 戸惑うブルックはどうすればいいかわからず動けない。

 

 そうしているとビロードが現れた。

 ふらりと歩み寄ってきた彼は頭から血を流しており、五体満足だが様子がおかしい。

 少しとはいえ鉄仮面の男との戦闘を経験しただろうその姿を見て、三人はぞくりと走る悪寒に顔を歪めた。目を輝かせて笑うビロードは驚くほど恐ろしかったのである。

 

 彼は元々、過激な戦法を用いて名を上げた海賊だった。

 大砲や爆弾の扱いに長け、自作の火薬を用い、至る所を爆破して敵の動揺を生み出し、更なる爆発で全てを消し去る。そうして暴れ続けた結果グランドラインにもその名を広めた。

 今日のように雨が降る日は火薬が使えない。おまけにここが陸地ならともかく己の船。

 右手に持った剣も虚しいばかりで、本領を発揮できない状態で仲間たちが次々殺されていた。

 

 ビロードが笑う。普段は押し殺していた凶暴性を露わにした顔で。

 言葉を失った三人は動きを止めたまま。蛇に睨まれた蛙の如く動けない。

 その間にも仲間たちの悲鳴が聞こえてきて、ビロードの笑い声は大きくなった。

 

 「クククッ……こりゃあ止めきれんな。並外れた武装色の使い手だ。あの野郎硬くてちっとも切れやしねぇ。雨さえなきゃ何としてでも爆殺してやったんだがなぁ」

 「ビロード、なに笑ってんだよ……みんなが殺されてるんだぞ!?」

 「ああ。全員死ぬ。誰も助からん」

 

 平然と言ったビロードの一言にキリの顔色が変わった。血の気が引いて青くなっている。

 ビロードは変わらぬ声色で告げる。

 どうやら彼だけは先に覚悟を決めていたようだった。

 

 「なぁに、海賊なんてヤクザな生き方してんだ。いつどこで死のうと不思議じゃねぇ。ここに居るのはそういう覚悟ができてる奴だけよ」

 「だ、だけど……」

 「だがお前は違うなぁ、キリ。お前はまだガキ過ぎた」

 

 仲間たちの悲鳴が何度となく響く状況下、ビロードはキリの目を、彼だけを見据える。

 

 「命を捨てる覚悟ができてねぇ奴を連れていく気はねぇ。ブルック、こいつを連れて逃げろ」

 

 たった一言で心臓を握り潰されるような衝撃を受けた。

 目を見開いたキリは動揺し、コックが腕を離しても動けず、ビロードの前で立ち尽くす。

 

 「なっ、なんだよそれ!? おれだって覚悟くらいできてる! いつ死んだって惜しくねぇ!」

 「ビロード船長、それは……」

 「お前は客人だ。命張る理由なんかねぇだろう」

 「話聞けよ! おれだって海賊だ! ビロード海賊団の一人だ! なんでおれだけ逃げなきゃいけねぇんだよ! おれも最後まで戦う!」

 「船の後ろに小舟が吊ってある。使え」

 「ビロードッ!!」

 「いいか、キリ」

 

 落ち着いた声を聞いて我に返る。

 その瞬間、キリは自分でもわからない内に涙を流した。

 

 「お前は死ぬには早過ぎる。覚悟を決められるほど世界を知らねぇだろうよ」

 「海賊は自由だって言ったのはお前だろッ!!」

 「そうさ。だがこの船のクルーである限り、船長命令は絶対だ。おれの命令には従え」

 

 必死に叫ぶキリから目を離して、ビロードはブルックを見た。

 仲間たちの声は着実に減っている。悠長にしている暇はなさそうだ。

 静かに佇むブルックはとても寂しげで、言葉にできない何かを飲み込んでいたらしい。

 

 「こいつだけでいい。後は奇跡とやらを信じるわ」

 「いいんですか……そんなことをすれば、生き残れたとしても彼は」

 「なぁに、どうにかなるだろ。だから奇跡ってやつしか頼れるものがねぇ」

 

 言い終えるとすぐにビロードは背を向けた。

 敵意、或いは殺意が爆発的に増す。鉄仮面の男へ向けられるそれは彼の本来の攻撃性で、檻から解き放たれた獣のようにコントロールしようとはせずただぶつける。

 

 「クカカッ。こんなにおれの部下を殺しやがって。こいつをほったらかしておれたちだけ逃げようなんざ許されねぇよなぁ。心配するなよ。こいつはおれたちが連れてってやる」

 

 一歩目を踏み出した時、何も言わずにコックが後へ続いた。

 ここから先は道を違える。そう伝えるかのようにキリを置いて。

 

 「死出の旅路だ。ガキに背負わせるにゃまだ早ぇだろうよ」

 「……わかりました! 私の命に代えても、キリさんだけは必ず!」

 「待てよ! ビロード!!」

 

 覚悟を決めた様子のブルックがキリを抱きかかえた。そのまま勢いをつけて駆け出し、船の後部を目指して急ぐ。必死に手を伸ばすが、キリが誰かを止められることはなかった。

 笑うビロードの隣でコックが呟く。

 その顔には微塵の恐怖心も浮かんでいない。

 

 「船内には火薬が山ほどありますぜ」

 「クカカカカッ。燃やせィ」

 

 この雨では外で使うのは不可能だろう。

 頷いたコックは納得し、一人船内へ向かうため歩き出した。

 

 船の後部へ到達したブルックは目標の小舟を見つけ、素早くキリを放り込む。

 雨に濡れて体の力が抜けている。動作が緩慢だ。今なら彼の抵抗では逃げられず、このまま海へ逃がすことができるはず。ブルックは急いでロープで吊られた小舟を動かす。

 キリを乗せた小舟が海の真上へ移動した時、ブルックはまだ帆船に残っていた。

 

 「ブルック! やめてくれよ!? おれは死ぬのだって怖くねぇんだ! 覚悟だってできてる! あいつらと一緒に居させてくれ!」

 「いいえ……いいえ! ビロード船長の命令です! あなたは生きなければなりません!」

 「なんで……」

 「いいですかキリさんっ。生きることは戦いです!!」

 

 別れるその前に、ブルックが強くキリの肩を掴んだ。

 感情のままに顔を歪める彼を見つめて必死に言葉を伝えようとした。

 

 「彼らはあなたに全てを託した。あなたが生きてさえいればビロード海賊団は死んでいない。あなたが生き残ることに大きな意味があるんです! だから船長はあなたを選んだ!」

 「そんなの……一人で生き残ったって……」

 「ご心配なく。ビロード船長は私が死んでも守ります。再び出会った時、もう一度一緒に海賊をやりましょう。私も果たさねばならない約束がありますから」

 

 一瞬目を伏せたキリだが、投げかけられた言葉に違和感を覚えて目を開いた。

 その瞬間、船の真ん中で大爆発が起こり、船体が大きく揺れる。

 それをきっかけとしてブルックは杖に仕込んだ剣を抜き、ロープを切る。支えを失った小舟は大荒れの海へ落ちていき、そこに乗せられたキリは一瞬にして遠ざかった。

 

 「ご武運をッ!」

 「ブルック……!?」

 

 海面に着水。頭から水をかぶるが奇跡的に沈まなかったようだ。

 荒れる波の上を無理やり走らされる小舟は、いつ転覆してもおかしくない様子で動き回り、不思議と彼を逃がすかのようにみるみる船から遠ざけられていく。

 キリは必死に手を伸ばすが、やはり何も変わらず。

 彼らの名前を呼んでも返事は返ってこなかった。

 

 船が幾度となく爆発している。船内にあった大量の火薬が、自分もろとも敵を吹き飛ばそうと暴れており、度重なる巨大な爆発が一瞬にして船体を破壊していく。

 その姿がどうなるかを見届けたいのに、深い霧が邪魔をして最後まで見させようとしない。

 荒波と暴風に運ばれて、彼の乗る小舟はどんどん遠くへ離れていった。

 

 キリは叫んだ。もはや考えも何もなく本能が赴くままに。

 その声すらも嵐の中に飲み込まれ、誰に届くこともなく掻き消されていく。

 

 その後のことは覚えていない。

 様々な要因が重なり、動くことさえできなくなった彼の姿は小舟の上にあった。

 少なくとも、激しい嵐の中、何の変哲もない小舟が転覆することなく乗り切ったのは事実だ。

 

 

 

 

 4

 

 どれほどの時間が経ったのかはわからない。

 朝になった気もするし、夜は過ぎ去った気もする。正確に言えばどちらも正解なのだが、もはや彼にはそれを理解しようという気力も、理解した上で生きようという気もなかった。

 

 小舟の上で横たわったキリは、生気のない目を嫌味ったらしいほど青い空へ向けていた。

 感情を感じさせない姿は人形のようですらあった。

 

 彼らとの生活が全てだった。海賊として生きて、海賊として死ぬ。求めていたのはそれだけであって金銀財宝や名声にも興味がない。ただ海賊で在り続けられれば幸せだった。

 それがある日突然、奪われた。何が起きたかを理解することもできず、ただ一方的に。

 かつて両親を失った時か、或いはそれ以上の衝撃を受けて。

 ピクリとも動かない彼はすでに生きる意味を見失っていたようだ。

 

 元々のきっかけは両親の死だったように思う。

 ひょんなことから家族を失い、一人になってしまった。

 半ば自暴自棄になって海賊船へ潜り込み、故郷を離れたのが最初の航海で、それからあれよあれよという間に海賊に心を奪われ、船長ビロードに憧れを抱いて生きることになった。

 

 全てを失うのはこれで二度目だが、慣れはない。むしろ今回は前回よりもきつい。

 最後のビロードの決断には同意することができずに、なぜ死んではいけなかったのか。そればかりを考えては思考が消えていき、考えることすらやめてしまう。

 もういい。終わりにしようと脱力する。

 今更、必死に生きてまで欲しいものなどない。それはすでに手放してしまった。

 もう帰ってくることはないのだと彼は目を閉じる。

 

 彼は気付いていなかっただろうが、飲まず食わずですでに数日が経っていた。

 ここが魔の三角地帯(フロリアン・トライアングル)かどうかすらわからない。

 紙の体が大量の水分を吸い込んだためなのか、不思議といまだに死ぬことができず、流石に心身ともに弱り切っているとはいえまだ命を繋ぎとめている。

 それが本人の望みとは知らず、彼の体は生きようとしていたのかもしれない。

 

 絶望に打ちひしがれ、キリが目を閉じてどれほど経った後だろうか。

 ふと、彼が目を開ける時があった。

 

 現在地がどこなのかはわからず、少なくとも空が青いままだと判断した際。

 いつの間にか小舟の上に一人の男が立っていた。

 今にも死にそうな少年を前にして笑っているらしい。キリは霞む視界にその存在を捉えた。

 

 「ころして……くれ……」

 

 助けてくれと言う前に、無意識の内にそう言っていた。それはおそらく聞かされた人間に少なからず驚きを与えるものだっただろう。その誰かは一瞬、笑みを消した。

 その後にやりと口の端を上げて、やけに上機嫌な様子で呟く。

 

 「嫌だ」

 

 キリはすぐに目を閉じた。

 何も思わない。何も感じない。まだ死ねないのだという事実だけ受け入れることができた。

 意識は途切れて、しかし特徴的な笑い声は、意識を失った彼の耳にも届いていた。

 


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