1
じりじりと肌を焦がすような太陽の光に耐えるため、厚い服を身に着け、頭にも布をかぶって全身の肌を隠して、キリはF-ワニの背から降りた。
岩陰の向こうを見ればオアシス。ユバの町が見えていた。
少し休んでいるよう従順なF-ワニに告げ、歩き出した彼は自分の足でユバへ向かう。
背にはパンパンに膨らんだ大きなリュックを背負って、あらゆる品物が納められていた。
意識が切り替わって今やすっかり一人の行商人。
擬態するように自分自身の思考を塗り替え、一時任務のことを忘れるのも慣れている。今の彼は普段とは別人。誰が見ても純朴な少年に過ぎない。
誰が見ているかわからないから、一人であってもにこにこと微笑んでいた。
慣れた足取りで町へ入れば、町民が笑顔で手を上げながら迎え入れてくれる。
一年、何度となく通ったおかげで彼も身内の一人と認識されていた。
ここへ来るのはコーザという友達が居るため。
皆はそう思っている。
それでいい。彼自身もそう思うことに努めていた。
ユバへ来ればまず向かうのはコーザの家。キリの足取りは軽く、道行く人に挨拶しながら進む。
異変に気付いたのは目的地である家へ近付いた時だ。突然怒鳴り声が聞こえて、思わず足を止めたキリはコーザの家の前でしばし立ち止まる。
やがて扉を蹴破るようにして開き、中から荒々しい歩調でコーザが出てきた。
「もう十分待った! おれは行くぞ! アルバーナに!」
「待てコーザ! ダンスパウダーなど使ってはならん!」
「そうでもしなきゃ、ここも枯れるだけだろう!」
いつになく怒気を発する顔で、父親のトトへ叫んだ直後、前を見たコーザが足を止めた。
ぽかんとした顔のキリを見たことで冷静さを取り戻す。
舌打ちを一つ。表情を変えて再び歩き出したコーザは咄嗟にキリの腕を掴み、強引に引っ張ってその場から連れ出した。家の入口に立ったトトが叫ぶが足を止めない。
「おい、待つんだコーザ! 考え直せ! 雨は今に必ず降る!」
「そう言い続けてどれだけ経った! もうユバは限界だ!」
「コーザッ!」
引っ張られるままに歩くキリは抵抗せずについていく。
コーザは町の端、砂漠との境界線まで移動し、そこでようやく彼の手を離した。
怒りが溜まっているのか、荒い呼吸を続け、しかし友人が傍に居るからなんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。頭を抱えて、最後に大きく息を吐き、やっとコーザがキリを見た。
思えばこんな彼を見たのは初めてだろう。
落ち着かせようと笑みを絶やさず、優しく彼に語り掛ける。
「どうしたの? 何かあった?」
「ああ……ちょっとな」
「トトさん、怒ってたね。前来た時は仲良かったのに」
「色々状況が変わったんだ。お前が居ない間に」
コーザは建物の壁際に置かれた木箱を見つけ、そこへ腰かける。
まだ気持ちは落ち着かないようだ。相当の何かがあったのだろう。
知らぬ存ぜぬという顔をしていると砂漠を眺めながらコーザが語り出す。
「もうずいぶん雨が降ってないんだ。知ってるか? エルマルもやばいらしい。ここら一帯だけじゃなくてアラバスタに雨が降らなくなってんのさ」
「雨が……」
「だからおれは国王に直訴しようと思う。ほんの少しでいい、人の手で雨を降らすことができるダンスパウダーって物があるんだ。それを使えば、雨季まで耐えられる」
「聞いたことはあるよ。そういう物があるって。でも」
「リスクがあるって言うんだろ? わかってる。だが人の気持ちはそう簡単じゃねぇ」
そう言ってコーザは町を見回した。同じようにキリも辺りへ目を向ける。
言われてみれば確かに町民の元気がない。いつもと同じように過ごそうとして、それでも幾分気落ちした様子が窺える表情だった。キリには辛い顔を見せまいとしたのだろうが、少し離れた位置に居る彼らには気付かず、溜息をつく者も少なくない。
雨が降らない。砂漠の国ではそれが大きな苦痛になるのだ。
「雨が降らないことで町の人間は限界だ。ここで生きていこうってやつを繋ぎとめるにはどうしても雨が要る。だから、ほんの少しだけでいい……」
「そういえば、前より人が少なくなってるような」
「離れていっちまう奴も多いのさ。この町は見限られた」
コーザが俯いてしまう。少なからず傷ついていたに違いない。彼はこの町が、広大な砂漠の中で町と町を繋ぐ大切な場所になってほしいと努力していた。住人が離れてしまうことほど傷つく出来事はない。どうにかしたいと今でも思っている。
話を聞くキリはしかし、戸惑った顔だった。
ゆっくりと顔を上げ、決意した様子でコーザが呟く。
今はキリが居る。信頼する友達になら胸の内を明かすことができる。
彼の言葉は野心の如き自らの望みを明らかにした。
「この町はまだやり直せる。ユバはおれが絶対に死なせねぇ。何か一つ、小さくてもいい、何かきっかけがあれば立て直せるはずだ。そのきっかけがダンスパウダーだと思ってる」
「そうか……でも」
言い辛そうにするキリにようやく気付いて、コーザが彼を見た。
らしくない。いつもはぽわぽわした顔で気安く喋っているのに今は言葉を選んでいる。顔をしかめて視線を落とし、何かを隠そうとしているかのようだ。
おかしいと感じたコーザはすかさず尋ねる。
「どうした? 気になることでもあるのか」
「いや、そうなんだけど、さ」
「言ってみろよ。なんでもいい」
頷いた後、戸惑った顔でコーザの目を見てキリが言う。
「今回ボクがアルバーナに立ち寄った時は、雨が降ってたよ。ほんの数日前だ」
自信なさげな声で、だがはっきりと伝えられた。
その瞬間コーザは目を見開いて、言葉を失って沈黙する。
信じられない。何も考えられなくなって頭の中は真っ白になっていた。
「どういう、ことだ……? それは、本当なのか」
「うん……間違いないよ」
「どうしてアルバーナに雨が降るんだ。ユバには降っちゃいなかった。もう何日、何週間、何か月も雨なんて降っていないぞ。それがどうして、王族が住む場所にだけ……」
呆然とするコーザが、徐々に怒りを大きくしていく。
気まずげに目を逸らしたキリを見てふらりと立ち上がる。
「まさか、ダンスパウダーを使ったってことはないよな。リスクがあるって言ってたよな。そのせいでこの国に雨が降らなくなったってことはあり得るのか?」
キリの肩を強く掴んでコーザが顔を寄せた。必死の形相で彼に問いかける。
「お前なら知ってるだろ。おれに色んな物見せてくれたよな? お前にもらった物だってたくさんある。教えてくれ、ダンスパウダーのリスクって何なんだ」
「ダンスパウダーは……人工的に雲を成長させて、雨を降らすことができる。その代わり、他の場所で降るはずだった雨を奪うことになってしまう」
それを聞いてコーザの手が肩からするりと落ちた。
ふらつく足でなんとか木箱まで戻り、座った後、彼は愕然とした様子で俯いてしまう。それを見ていたキリは慌てた素振りで付け足すように言った。
「でも、あくまでも噂で、それが本当かどうかは――」
「いや……ありがとう。それだけわかってれば十分だ」
ふーっと深く息を吐いて顔を上げ、その時にはすでにコーザの目つきは変わっていた。
「あとは国王に聞く。一緒に行ってくれるか、アルバーナへ」
最小限に抑えながらも、怒りの念を感じてしまう声がキリへ問うた。
彼は笑みを消して、戸惑う表情で頷き、確認したコーザがきつく拳を握る。
ユバからアルバーナへはかなりの距離がある。移動の時間はかかってしまうだろう。キリが到着したばかりということもあって気を使ったが、彼は頷いてくれた。
真実を知りたい。国王に確かめよう。
幼少期に話したことがあるコブラの顔を思い浮かべながら、信じたいという想いの一方、ふつふつと湧き上がる怒りがある。今は考える余裕もなく、行動に移さねば気が済まなかった。
2
雨が降るアルバーナは昼間であろうと人気が少なくなっていた。
通りから人の姿が消え、いつしか慣れた様子で雨を避けようとしている光景がある。
そうなる程度にはこの町に雨が降っていたということなのだろう。他の町ではまず見られない、雨という存在が当たり前になっていた様子だった。
とある宿屋の二階の一室で、キリは窓辺に立って外に目を向けていた。
静かに降る雨が人気を減らして、悪巧みをするにはもってこいの環境である。
同じ部屋にもう一人居た。
椅子に座ったMr.2はつまらなそうな顔でキリの背を見ていて、どこか困ったような、複雑そうな顔をしている。少なくとも楽しそうではない。
「雨は嫌いだな……どうも心が落ち着かなくなる」
背を向けて喋るキリを見てふんすと鼻息を出す。
Mr.2は頬杖をついたまま、何も言わずにいるとキリが言い出した。
「重要な任務がある。国王コブラとコーザの顔をコピーしてほしい」
「ふ~ん……国王が重要なのはわかるけどゥ。どーしてあのガキんちょが要るわけ?」
「コーザは逸材だよ。腕っぷしが強いし、頭もいい。人を率いる力もある。いずれは反乱軍のリーダーとしてこの国を盛り上げてくれるはずだ」
「そんなもんかしらねぃ」
「期間は長めにとってあるよ。バレないように慎重にやってほしい。事故死や通り魔事件が多くなっても怪しまれるからね」
ようやくキリが振り返った。
顔にはいつもの笑み。それがあるせいで心が読めない。本音がわからない。
Mr.2が気になっているのはそこだったようだ。
「今日は妙に静かだね。何かあった?」
「そうねぃ……あったと言えばあったわ~ん。ところで今日のレッスンはないのう?」
「うん。雨が降ってるから」
再びキリが窓の外を見る。Mr.2はわざとらしく溜息をついた。
「本当にいいの? 今のこの状況って、自分の友達を裏切ってることになるんでしょ? ここで黙って見てるだけなんて胸が痛まない?」
「それは違うよボンちゃん。ボクは裏切るために友達になったんだ」
平然と語るその声が恐ろしくも感じてしまう。
だからこそ気になる。
Mr.2は迷いながら質問してみることにした。
「最近ちょっと気になってんのよねぃ~」
「何?」
「あんた、いつどこで何をしててもずうっとおんなじ顔。酔っ払いに殴られても誰に何言われてもずうっとにこにこ。それってなんか、生きてるっていう感じがあんまりしないのよね~……」
頬杖をやめて、少しだけ身を乗り出す。
不思議そうに振り返ったキリの目を見つめてMr.2は真剣に問いかける。
「紙ちゃん、あんた……人生楽しんでる?」
初めて、ぱちくりと目を大きくした表情を見た。しかしそれもほんの一瞬。すぐにキリはいつもと同じ笑みを浮かべてくすくす笑う。
本来ならば取っつき易そうな表情だが、なぜかMr.2の顔は晴れなかった。
「楽しい? なんだっけ、それ」
その言葉を聞くと寂しい気持ちになってしまった。
まだ子供の域を出ないだろう若さだというのに、それほど冷め切っている姿が悲しかった。特に全ての感情を素直に表す彼だからこその感想だろう。
組織に居る他の誰もが気にしないが、キリの表情は子供にあり得てはいけないものだと思った。
気配に気付いたのか、キリが窓の外を見て人影に気付く。
肩をすくめて、彼は部屋の扉を目指して歩き始めた。
「じゃ、よろしくね。方法は任せる。後始末が面倒だから失敗しないように」
「りょうか~い」
あっさりとキリが部屋を出て行った後、静かに扉が閉まった瞬間にMr.2が溜息をつく。
「ほんと難儀なもんよねい、あの子は……」
一階へ降りて、傘を開きながら外へ出る。
降りしきる雨が開いた傘にぶつかり始めると同時、キリは困った笑顔で彼の姿を見つめた。
傘も差さずに道の真ん中へ立って、睨むような目つきでキリを見るコーザ。どうやら話し合いは相当こじれたらしいことがわかる。
コーザは立ち尽くしたまま動かない。
心情を察してか、キリが前へ歩を進めた。
一瞬たりとも目を離さない彼を気遣い、目の前に立って傘の中へ入れてやった。彼にとっては久方ぶりとなる雨を浴びるのはむしろ喜びかもしれないが、心配でもある。
コーザの目を見つめ返し、微笑んだままで優しく声をかける。
「そのままじゃ、風邪ひくよ」
「キリ……おれは」
ぽつりと呟いた。
その時、目の色が変わって、危険な輝きを放つのをキリは確かに見た。
「おれは雨を奪い返すぞ」
力強い呟きを聞いたのはキリだけだった。
一つの傘の下で、激しい思想が渦巻く。それを受け止めてなおキリが表情を変えなかったのは、これまで友人を見続けてきた親愛があってのものか、それとも別の理由か。
今となっては本人にもわからなくなっていた。
3
コトッ、という音と共に黒の駒が置かれた。
盤上を見るMr.3は眉を動かす。
あらゆる可能性を加味し、先を読んで行動していたはずだが、流石の腕前。一手のみで盤上の戦況を変えてしまった。その可能性も読んでいたとはいえ、眉の動きでわずかな動揺が伝わる。
対面に座ったキリは得意げに口の橋を上げた。
「組織の拡大? また人数を増やすのカネ」
「むしろ今までが少な過ぎた。行く行くは四つの海にも構成員を送り込みたい」
「スカウトか……使えない奴が増えるのも困りものだガネ。この間のパートナーも結局は使い物にならなかった。危うく組織の存在がバレるところだったのだよ」
「そんなこともあるさ。大丈夫。新しいパートナーを用意したよ」
白のポーンを進めたMr.3が顔を上げる。
キリに促されて部屋の入口を見れば、一人の少女が立っていた。
「彼女か?」
「直接的な戦闘能力はない。その代わり君とは相性がいい。芸術家だよ」
「フン……私のセンスについてこれるかは疑問だガネ」
ミス・ゴールデンウィークは何も言わずに部屋の隅へ移動する。
持っていたトランクを開けて、シートを床に敷き、その上に座ると茶を飲みながら煎餅をかじり始めた。まるで自分の部屋のように寛ぐ様はMr.3を驚愕させる。
現在地はアラバスタとは別の島。Mr.3が利用している何の変哲もない家の一室である。
つぶらな瞳でチェスに興じる二人を見ながら、彼女は煎餅を食べていた。
「……腹が据わっているのはわかったガネ」
「おすすめの物件だよ。さぼりたがる癖はあるけどね」
「まぁいい。それより指令の話だ」
盤上に向き直ってMr.3が息をつく。
「具体的にはどれくらいの規模が必要になるのカネ」
「例の話があったでしょ? ウィスキーピークの件。あそこは頂こうと思ってる」
「まさか奪う気カネ? 荒事になると足がつくぞ」
「力ずくじゃないさ。そこは上手くやれる」
「どちらにしても問題はありそうな気がするが……まぁ、君がやるのなら別にいいガネ」
互いに一手ずつ駒を動かしながら、盤上の展開は進む。
接戦ではあったが一瞬の油断のツケはあった。Mr.3が押されているらしい。
「ウィスキーピークを丸ごと我が社のものにするということか」
「グランドラインの入口に一つ置いときたかったんだ。中でもあそこが一番取りやすい」
「しかし町人全員を社員で賄うとなるとかなりの人数になるガネ。今から新たに集めるのか? 慎重に動くなら時間はそれなりにかかってしまうガネ」
「面子はこっちで集めてるよ。大体揃ってる」
「なんとも手の早い……」
呆れたMr.3が駒を動かした後、すぐにキリが動かした。
表情が一瞬にして変わる。
どうやら決着がついたようだった。
「チェックメイト」
「フン……これで二十二勝、二十三敗か」
「いやぁ、流石は頭脳派。毎回毎回苦労するよ」
背もたれに体重を預けたキリが子供っぽく笑う。Mr.3はそんな様子に顔をしかめた。
「しばらくボクの方が忙しくなりそうだから、諸々のことは任せるよ」
「反乱軍とやらカネ。上手くいきそうカネ」
「火を点ければあとは勝手に大きくなるさ。ボクがやるのは微調整くらいだね」
そう言うとキリは席を立ち、両腕を上げると体を伸ばす。
いつもと全く変わらない笑顔でMr.3を見て、まるで友達のように、それでいて距離感を掴ませない話し方で言った。
「本番はまだまだ遠いけど、準備はしっかりしなくちゃ。というわけであとよろしく」
「わかっている。失敗すれば命はない」
「よくご存じで。それじゃ」
踵を返すキリが部屋を出ようとすると、静かにミス・ゴールデンウィークが右手を上げた。
煎餅が入った袋を差し出していて、キリは笑顔で一枚受け取る。
「仕事、大変そうね」
「まぁね。でももう慣れたよ」
受け取った煎餅をかじりながらキリが外へ出ていく。
扉が閉まる音を聞いて、しばらくしてからMr.3が目線を動かす。
こちらを見ながら煎餅を食べるミス・ゴールデンウィークへ初めて声をかけた。
「で、君は一体何カネ?」
「ミス・ゴールデンウィーク。芸術家、だよ」
パリッと煎餅をかじって、彼女は無表情でピースをした。