さらさらと風で葉が揺れる音がする。
辺りは緑の匂いが充満していて、自然の中に居るのだと実感する。
目を閉じ、些細な音を聞いて、匂いを嗅いでいるとまるで自分が大自然の一部になったかのような感覚さえ生まれつつあった。それは周囲の環境がそうさせたのだろう。
瞼が重く、思考がはっきりしない。まだ眠気に負けているのだ。しかし意識は徐々に覚醒しつつあってゆっくり浮上するかのよう。
ふとした瞬間、シルクは目を開いた。
背の高い草むらが周囲を覆い隠して、さらにその上から樹が見下ろしている。
彼女は自分でも気付かぬ間に大の字で眠っていて、自分自身でも不思議に思った。
一体なぜこんなところで寝ているのか?
起きたと同時に疑問を抱き、またいくつかの違和感を覚える。しかし何がおかしいのかを明確に判断することはできず、眠そうな目は物事を考えられそうにない。
上半身を起こしてその場に座る。シルクは辺りを見回した。
自分が居るのは静かな森の中。
手元には抜き身の剣と鞘が落ちていて、それに気付いた彼女は手に取ってみる。
「これ……私の?」
右手で剣の柄を握り、左手で恐る恐る刀身に触れてみて、目には不安が浮かんでいた。
ひとまず剣を鞘に納めて、それから再び森の風景を眺める。
「ここ……どこなんだろう」
美しい緑で溢れる静かな森の中だ。いつ自分がここに来たのだろうとは思うが、不思議と焦ってはいなかった。おそらくその風景を見たことで気持ちが穏やかになっているからだろう。
まだ思考がはっきりしていないのか、シルクはしばし呆然と辺りを見る。
しばらく座ったままぼんやりしていると遠くの方から声が聞こえてきた。大勢の人間の声だ。
何かあったのだろうかと考え、そちらへ向かおうとする。すると近くの草むらが揺れた。彼女は少し不安に思いながらもその地点を見る。
がさりと草むらを掻き分けて飛び出してきたのは四足歩行のトナカイだった。
「シルク! ここに居たのか!」
「喋った!?」
勢いよく現れたチョッパーが声を発すると、シルクは驚愕して身をのけ反らせた。自然界ではあり得ないだろう、ピンク色の帽子を被ってズボンを履いたトナカイが人語を操っていた。彼のことを知らなければ驚くのは当然である。
彼女の反応を見たチョッパーは狼狽していた。
シルクは仲間だ。彼が加入するより早く一味に参加していた。助けられたこと、教えられたことも多く、信頼する一人であることは間違いない。
そんな彼女がまるで初めて会ったかのような反応を見せていることに驚かずにはいられない。
遠くで大勢の人間の声が聞こえる。
それを聞いてハッとした様子のチョッパーが人獣型になり、シルクの手を掴んだ。
「とにかく一旦ここを離れよう。みんなにも伝えなきゃ」
「わっ。小さくなった」
「え? シルク?」
「ねぇ君、どうして喋れるの? それに体が変わった。あ、そっか。悪魔の実の能力者?」
「どうしたんだシルク? 何言ってるんだよ」
「えっと、一つ聞きたいんだけど。私の名前、シルクっていうのかな?」
信じられないという顔になってチョッパーは思わず彼女の手を離した。
改めてじっくり顔を見つめてみれば、シルクは興味津々という笑顔でチョッパーを覗き込み、初めて会った時のような素振りを見せている。明らかに普段の彼女ではない。
チョッパーはすでに記憶喪失になったキリたちの話を聞いていた。
まさかと思って恐る恐る質問してみると、予想は最悪の形で当たってしまう。
「シルク、ひょっとして……記憶喪失になったのか?」
「記憶喪失? うん、そうかもしれない……自分のことも覚えてなくて。私、なんでここに居るんだろうって思ってた」
「そ、そんなっ……!?」
愕然としたチョッパーは思わず足をよろけさせる。
船を飛び出していったルフィを探しに船から出てきたはずだが、まさかシルクが記憶喪失になるとは予想していなかった。
突然の事態に激しく動転し、彼はその場をちょこまかと駆け回る。
「たたっ、大変だぁ~!? シルクが記憶喪失になったぁ~!? どうしよう、どうしよう!?」
「落ち着いて。ねぇ、君の名前を教えてくれる?」
「う、うん。おれはトニー・トニー・チョッパー」
「チョッパーっていうんだ。よろしくね」
柔和な笑みで優しく言うのはいつもの彼女だが、残念ながら今のシルクにはチョッパーと過ごした思い出が残っていない。それを感じて寂しくなった。
悲しそうな顔をするチョッパーを見てシルクも事情を察し、苦笑してしまう。
「ごめんね。多分、私と君は友達だったんだよね」
「う、うん……おれたち、海賊の仲間だった……いや、今もそうなんだ」
「海賊? 私が?」
「そうだよ。ルフィの船に乗ってて、一緒に冒険してるんだ」
「海賊、か……」
シルクは思案して神妙な顔つきになり、小さく呟く。
思い出そうとするが霞がかったように肝心の情報が出てこない。チョッパー、ルフィ、或いは自分が海賊だという事実。そんな日々の光景は一つも思い出せなかった。
表情を見て察したらしいチョッパーは落ち込んでしまう。
肩を落とす姿に申し訳なくなって、シルクは彼の肩に手を置いた。
「忘れちゃってごめん。でも、チョッパーと仲良くしたいって思ってるんだ」
「シルク……うん。記憶が無くなってもやっぱりシルクは優しいんだな」
「私、シルクっていう名前なんだよね?」
「そうだよ。おれたちの仲間なんだ」
状況は受け入れ難く、チョッパーは自分の感情を理解できないほど複雑な胸中だったが、彼女の性格が劇的に変わる訳ではなかったことだけが唯一の救いだった。
全てを忘れ、初めて出会った時のような態度になっている以外は普段のまま。
少なくともキリやゾロよりも話が通じそうで助かる。
背の高い草むらに囲まれた場所で向き合っていると、遠かった声が徐々に近付いて来ていた。
シルクは何も思わなかったが、それに気付いてチョッパーが焦りを覗かせる。
「こっちから声が聞こえたぞ!」
「しまった……!? とりあえずここから離れよう!」
改めてチョッパーはシルクの手を掴み、慌てて駆け出す。
声を聞いた途端、或いは姿を見せた時からチョッパーは焦りを見せていた。まるで何かに怯えるようだったことを今の表情を見て思い出す。
走りながらもシルクは気になって彼に質問をした。
「どうしたの?」
「町の人たちが、みんなが記憶を失ったのはおれたちのせいだって追いかけてきたんだ。逃げてる途中でシルクとはぐれちゃって……」
「記憶を失ったって、私だけじゃなくて? みんなも?」
「そうなんだ。キリとゾロも記憶喪失になったみたいで、なんとかしなくちゃいけないんだ」
立ち塞がるような草むらを掻き分けながら二人は声の主から遠ざかろうと足を動かす。
そんな最中に新しい名前を耳にして再びシルクが問いかけた。
「キリとゾロっていうのも、私たちの仲間かな」
「うん。二人共すごく強いんだけど、記憶喪失になったらしくて……」
「たくさん居るんだね。私たちの仲間」
「もっと居るよ。みんなルフィが集めたんだ。今はみんなと合流しよう」
「うん。わかった」
シルクはまだ見ぬ仲間に会えることを想像して笑みを浮かべる。
記憶を失ったことを自覚し、不安もあったが、チョッパーが頼りになるおかげで彼女は不安に押し潰される心配を失くしたようだ。
記憶が無くても旅を通して培った冒険好きは今もなお失われていないらしい。
草むらを抜けて視界が開けた。周囲は森であったが地面を覆う草が極端に短くなっている。
人の気配を感じなくなったことで一度足を止める。
お互いの顔を見合わせた二人は呼吸を整えて一息つく。
「シルク、大丈夫か? 記憶喪失以外に痛いところとかないか?」
「うん。大丈夫だよ」
チョッパーは周囲を見回して現在地を確認しようとしていたが、残念ながらそこは彼の知る場所ではなく、どちらへ進めば船に戻れるのかわからない。
いつまでもここには居られない、という唯一確かな気持ちが彼を焦らせる。
「とにかくみんなと合流しないと……でもどっちに行けばいいんだ?」
「ごめんね。私は全部忘れちゃってるし……」
「いいんだ。シルクは悪くない。おれが覚えてなきゃいけなかったのに」
焦るチョッパーは苦悩し、いっそのことがむしゃらに歩き出そうかと考え始める。
そんな折、高い草むらの向こうから草が揺れる音が決めた。
咄嗟に二人、特にチョッパーが警戒して身構え、そちらに振り返る。がさがさという大きな音は確実に誰かがこちらへ向かっている証明だった。
頼むから野生動物であってくれ。
そう願いながら戦闘になるかもしれないという心積もりで居て注視する。すると草むらを掻き分けて勢いよく人が飛び出してきた。
顔を見れば瞬時に二人がサンジとウソップであることに気付いた。
チョッパーはすぐさま笑顔になり、シルクは不思議そうに彼らを見つめる。
「サンジ! ウソップ~!」
「シルクちゃ~ん! こんなところに居たんだね~!」
「え? だ、誰?」
シルクが思わず呟いた一言にサンジが石になったかの如く固まる。
少し遅れて彼の隣に並んだウソップは気付いていなかったのか、二人を見つけたことに安堵して笑顔だった。困惑しているシルクとチョッパーにいつも通り話しかける。
「お前ら無事だったのか! しかし何したんだよ。町の連中が追いかけてきたんだぞ」
「あの、ウソップ……実はさ」
「こっちはルフィを見つけたぞ。でもよ、実を言うと問題が起こってて……いやわかってる。驚くのはわかるが落ち着いて聞いてほしい」
「実は、シルクが……シルクが記憶喪失になっちゃったんだ」
「そう、ルフィが記憶喪失になったんだ――なっ、なにぃ!?」
お互いの発言に、ウソップとチョッパーにサンジも加えた三人が驚愕した。
誰もが相手の言葉を待つ余裕を失くして我先にと話し始めてしまう。そうなってしまう程度には受け入れ難い状況だったようだ。
「シルクが記憶喪失になったぁ!? ほ、本気で言ってんのかそれ!?」
「ルフィが記憶喪失!? なんでそんなことになってんだ!?」
「シルクちゃ~ん!? ひょっとしておれのこと忘れちゃったの!? 他の奴らならいざ知らず! そんなぁ~!?」
「そりゃそうだろ! おれたちのこと忘れてお前のことだけ覚えてるわけねぇだろ!」
次から次に仲間たちが記憶喪失になっていくという、今まであり得たはずがない、そしてあり得てほしくない状況である。
ウソップは頭を抱えて唸り、チョッパーは狼狽し、サンジはシルクを見つめて大粒の涙を流す。
シルクだけは彼らの感情についていけず、何を言っていいかもわからず困り果てていた。
「と、とにかく、これは……どうすりゃいいんだ!? キリとゾロと、ルフィとシルクも記憶喪失になっちまったってことだよな!? 一体どうなってんだよ……!」
「それがわからないんだ。ちょっとはぐれただけなのに、シルクがおれのことわからないって」
「ルフィも同じようなこと言ってたし、何が起こってんのかさっぱりだ。シルク、本当におれたちのこと忘れたのか?」
ウソップが縋るように見つめると、彼女は悪いと思いながらも恐る恐る頷く。
「うん……ごめん。君たちが誰なのか、わからないや」
「そ、そうか……」
「シルク、この二人もおれたちの仲間だよ。こっちがウソップで、こっちがサンジ」
同じく取り乱していた様子のサンジだが、新たな煙草に火を点けて煙を吸い、大きく息を吐き出して自分を落ちつけようとする。その顔は真剣そのものだ。
この状況がどれほどまずいか、彼だって理解している。
ついに女性にまで危害が及んだことで、今では犯人に対する怒りすら感じられた。
「少なくともこれではっきりした。あのガキがおれたち一味を狙ってることは間違いない。アホの順に狙ってるのかと思ったがシルクちゃんが狙われたならそうじゃないようだな」
「いや単純に戦闘力がある奴からだと思うけど」
「となれば、今ここに居ないナミさんやロビンちゃんが心配だ。ルフィなら記憶喪失になっても死ぬことはねぇだろうが、レディを危険に晒すわけにはいかねぇ。船に戻るぞ」
真剣な眼差しで言ったサンジはシルクの前へ移動し、地面に膝をついて手を差し出した。
「お手をどうぞ、シルクちゃん。あなたのナイトです」
「おい、やめろ。お前がどんな奴か覚えてねぇんだぞ。仲間にただの変質者だと思われる」
「え? 変質者じゃなかったのか?」
「変わった人なんだね」
サンジの行動を見ただけならば紳士的で済んだかもしれないが、ウソップとチョッパーの反応を見てシルクは苦笑し、手を差し出すのを躊躇った。
結局はウソップがサンジを小突いてやめさせたため、一同は普通に歩き出すことになる。
ウソップが記憶している限り、現在地は海岸からそう遠くないらしい。
ひとまず海岸まで出れば船に戻るのは簡単だろうと彼らは前へ進み始めた。
傍に居るだけでわかる。シルクは同行しながらひどく緊張していた。
それは海賊だと語る初対面の男たちを相手にする態度だ。決して仲間に対するそれではなく、彼女が記憶を失っているのを肌で感じる。
キリやゾロ、ルフィの時にも感じたが、喪失感は大きい。
何もしていなくても不思議と彼らまで緊張してしまい、耐え切れずにウソップが溜息をついた。
「はぁ……キリやゾロがどこ行ったかだけでも頭が痛ぇのに、その上ルフィとシルクまで。これからどうなっちまうんだ? おれたち……」
「考えても仕方ねぇだろ。あの口振りからすりゃあのガキが犯人なんだ。とっ捕まえて奪った記憶を取り戻す。それでいい」
「そりゃそうだけどよ。あいつ、金獅子の手下なんだろ?」
「関係あるか。おれたちの仲間に手を出したんだ。ガキだろうが許されやしねぇよ」
そう語るサンジの表情がより一層険しくなったのをウソップは見た。
「特にシルクちゃんの記憶からおれの存在を消しやがったのは許せねぇ。今までの時間の積み重ねが全て無駄になったってことだぞ? レディの記憶を奪ったこと、後悔させてやる」
「やっぱりそっちがメインか。わかってるとは思うけどルフィたちもだからな」
「男は知らん。いや、むしろ好都合じゃねぇか? あいつらを教育してやりゃ前より扱いやすくなるかもしれねぇ」
「そりゃ無理じゃねぇか? 記憶を失っても、あいつらそのままだったぞ。ルフィなんか絶対おれたちの言うこと聞きゃしねぇって」
先頭をサンジとウソップに任せて、二人の後ろを歩くシルクは、彼らの会話を聞いていて少しでも状況を理解しようと頭を働かせていた。
彼らの一味にはルフィという人物が居て、彼も記憶を失ったということはわかった。
それについて二人は、チョッパーも動揺しており、おそらく精神的な支柱になっていたのだろうと想像して、シルクは麦わらの一味への理解を深める。
自分も彼らの仲間だったらしいが、一体どんな冒険をしていたのだろうか。
名前、経歴、過去の一切を忘れた彼女が興味を持ったのはそこだった。
いつの間にか不安は薄れていて、かつての自分についてより、一味の航路が気になってしまう。状況が状況なら彼らに聞いただろうが、今はまずいだろうとそれはやめた。
隣を歩くチョッパーを見下ろす。
表情は優れず、地面を見つめながら何かを思案しているらしい。
彼を心配する気持ちもあって、シルクは彼に声をかけた。
「ねぇ、ルフィってどんな人?」
「ルフィ? ルフィは……すごい奴だよ。勝手にどっか行っちゃうし、すぐ怪我するし、人の分のメシまで食べちゃうけど。強くて、大きくて、本当の海賊なんだ」
「そうなんだ。本当の海賊か」
「でもルフィまで記憶喪失になるなんて……今回の敵はそんなに強い奴なのかな」
抑えきれずにチョッパーが溜息をついた。
顔色も優れず、彼自身が他人の心配をできる状態には見えない。
それくらい影響力のある人なのだろう。まだ見ぬルフィを想像してシルクは納得した。
少し歩くだけで海岸沿いへ出ることができた。どうやら道は間違っていなかったようだ。
船がある方角もわかるらしいウソップへ続いてそちらへ向かっていく。しかし少し進んだだけで森の奥から声が聞こえてきた。彼らを探しているという町の住民たちだろう。
咄嗟に警戒心を露わにした二人が姿勢を変えた。
「お、おい、またさっきの奴らだぞ。チョッパー、お前ら何かしたのか?」
「おれたちじゃないよ。でも、町のみんなが記憶喪失になったのがおれたちのせいだって言われたんだ。多分さっきの子供が言ったんじゃないかな」
「なんだそりゃ! おれたちは被害者だぞ!」
「それも作戦の一つってことか。面倒なことしやがるな」
見つかることを恐れたサンジが煙草を携帯灰皿の中に押し込んだ。
戦闘になったところで負けるつもりはないが、相手は海賊や海軍ではない。箒やフライパンで武装した、戦闘に慣れてさえいない町民。流石に蹴り飛ばすのは気が引ける。
身を屈めて草むらに身を隠した彼らは、町民の動きを耳を澄まして探ろうとしていた。
あいにくこの森は草が木に負けないほど高く伸びていて視界が悪い。相手の姿が見えなかった。言い換えれば町民からもこちらは見えず、身を隠すには好都合である。
「別におれは男が相手ならいくらでも蹴り飛ばしていいんだが、記憶を失っててもシルクちゃんが居る手前、それはできない。できれば見つからずに移動したいところだが」
「メリーが見つかったらどうする? ここまで来てたら多分遠くないぞ」
「最悪、一旦船を出す必要があるかもな。少なくともあいつらに見つからない場所まで」
「マジかよ……キリとゾロが見つかってねぇままなのにな」
「あのガキの口振りからするとまだ島は出ねぇだろ。チャンスはある。それより先にナミさんとロビンちゃん、シルクちゃんの安全を優先だ」
「少しはおれたちのことも気にかけてくれよ……」
呆れたウソップが嘆息するが、普段とまるで変わらないサンジは平然とした態度だった。
こういう関係性なのか。シルクはそう理解し、サンジが女性に優しい、或いは異様なまでに甘いのだということまで知る。
二人の背から目を離した時、彼女はひらりと宙を舞った紙切れを見つけた。
それは海の方へひらひら飛んでいって、空中で動きを止める。
不思議な光景だった。本来ならあり得ない。
まるで意思があるかのように海の上で停滞して、風に揺れながら彼女の視線の先にあった。
記憶を失ってもこれまで得た知識まで失った訳ではない。それが異常であることは理解できる。
シルクは警戒する様子もなく、ただ不思議そうにその紙のことを二人に質問した。
「二人共、あれは何?」
「なんだいシルクちゃん? 何か見つけた?」
「うん。紙が飛んできたんだけど、海に落ちずに浮いてるんだ」
「紙? それって――」
二人の視線が宙に浮かぶ紙を見つけた。その様子を見たことがあり、覚えている彼らは咄嗟に脳裏へ一人の顔を思い浮かべて、彼の能力に違いないと考える。
そうなれば自然と周囲へ視線を巡らせた。
「キリか? どっかに居んのか?」
「隠れる意味があるのかよ。おい、こっちに気付いてるならさっさと出て来い」
「あれ? ちょっと待って、チョッパーは?」
シルクが、隣に居たはずのチョッパーが居ないことに気付く。ついさっきまで居たはずなのだが姿形の欠片もなかった。ちょうど不思議な紙切れの存在に気付いた後だ。
訳も分からず周りを見回したサンジとウソップが怪訝な顔をする。
改めて紙切れに目を向ければ、今や浮かぶことを止めて海面に落ちて漂っていた。
あまりにもタイミングが良過ぎないだろうか。
紙切れへ目を向けているほんの一瞬、チョッパーが姿を消してしまった。
おかしいとは思いながらも、サンジとウソップは仲間を疑うことはできず、混乱する。
キリがチョッパーを攫ったなど、考えられない話だ。
彼は記憶を失ったはずで、能力の使い方も忘れていたはず。情報は全員で共有していたのだ。
「これは……どういうことだ?」
「わ、わからねぇ。でもさっきのはキリだよな?」
「ああ、多分な。問題なのはあの紙に気を取られてる間にチョッパーが姿を消したってことだ」
「キリが何かしたってのか? そんなのあり得ねぇだろっ」
「だが事実だ。忘れるなよ。おれたちはまだ何が起こってるのか理解できてねぇんだ」
サンジが厳しい視線を森の奥へと向ける。
ウソップは恐れを抱いた様子で顔を青ざめさせ、嫌な想像を振り払うように頭を振って、恐々と静かな森へ目を向ける。
しばし静寂に包まれていた森の奥から、美しい音色が聞こえてきた。
位置は遠い。だが確実に誰かが演奏しているだろう楽器の音だ。
「ありゃなんだ?」
「町の奴ら、じゃねぇよな。だったら……」
「この音、聞いた気がする……確か、夢の中で」
ぽつりとシルクが呟いた。
二人が振り返って彼女の表情を確認する。
シルクは笛の音に聞き入っているのか、それでもおかしな様子だったが、眠気を覚えているかのようにうとうとしていて、今にも眠ってしまいそうだった。
「さっきまで聞いてた曲……暖かくて、優しくて、だけど寂しい……私の知ってるみんなが、どこかへ行っちゃうような感覚……」
「シルクちゃん? どうしたんだ」
「なんか変だぞ。おいシルク……シルク!」
ウソップが大声で名前を呼んだことで、彼女はビクッと震え、正気を取り戻した。目はぱっちりと開いて驚いた顔で二人を見ている。
ほんの数秒、遠くから聞こえる音色を耳にして様子が変わっていたようだ。
これは何かあると気付かぬはずがなかった。
「な、何? ごめんなさい、なんか、急に眠くなっちゃって……」
「おいウソップ、こりゃあ」
「ひょっとしてあいつか? じゃあキリやチョッパーは――」
音色は今も続いている。探すチャンスは今しかない。
顔を見合わせて二人は決断した。
ここで躊躇っている場合ではない。仲間を取り戻せるなら今すぐ行動だ。
「探しに行こう! あの子供は近くに居るぞ!」
「シルクちゃん、もう少しだけ付き合ってくれ。調べてみる価値はありそうだ」
「わかった。私もついていくよ」
三人は船に戻ることを後回しにして、再び森の中へ入った。
音色が聞こえる方へ、音の出所を探して早足で進む。しかししばらく続いていた音色はその途中でぴたりと止まってしまった。それなりの長さだったが曲が終了したのだろう。
それでも方角は判明している。三人は迷わずそちらへ進んでいた。
草の長さが徐々に長くなり、すぐに木と並ぶほどの高さになって、視界が悪くなる。それらを掻き分けてさらに進み、音の出所を探っていた。
残念ながら誰かに出会うことはなく、例の少年の姿も見当たらない。
曲が終了したのか、それともこうなることを恐れて逃げたのか。どちらにせよ、このままでは結局何の収穫もなく戻るしかないのかもしれない。
上手く煙に巻かれている気がしてならない。
苛立ちを隠せないサンジとウソップは足を止め、変化の見られない周囲を眺める。
探すか、戻るか。今後の進退を決めなければならなかった。
「くそっ、チョッパーはどこだ。いっそのこと呼んでみるか? 町の連中に気付かれる恐れもあるが贅沢は言ってられねぇ」
「そういやさっきから町の奴らの声が聞こえねぇぞ。どうなってんだ?」
「ちくしょう、最初から全部後手後手だな。おいチョッパー! ここに居るのか! 居るんなら出てこい! 一旦船に戻るぞ!」
「チョッパー! キリィ! 早く出てこーい!」
町民が追ってきている状況から考えて、見つかるのはまずいとも思っていたが、募る焦りから堪らずチョッパーの名を大声で呼び始めた。二人は似たような予感を覚えていたようである。しかし呼んだところで反応はなく、返事はない。
代わりにではないが、がさがさと草むらの揺れる音が聞こえた。
シルクが反射的にそっちを見て、何かが動く影を見つける。
「あっち! 何か居たよ!」
「チョッパーか? お前どこ行くつもりだよ!」
「待てよチョッパー! 何があったんだ!」
シルクが示した方向に、今度は彼女を先頭にして走る。
がさがさと草むらを揺らす音が大きく聞こえていて、逃げていることは明らか。相当慌てているらしいこともわかる。だが幸いにも真っすぐ逃げていたようだ。
三人は大慌てでその影を追い、一目姿を見ようと目を凝らした。
やがて背の高い草むらを抜け出て、視界が開けた場所へ出た。
三人は一旦足を止めて周囲を見回す。
最初に気付いたのはウソップだ。数メートル先にある木の下にチョッパーが居たのだ。
「あっ」
思わず声が出て、慌てずに歩いて向かう。
ウソップの後ろに続いてサンジとシルクも彼の下を目指した。
チョッパーはなぜか、木の幹に隠れるような姿勢で立っていた。しかし残念ながら隠れる方向を間違えていて、三人からは全身が視認できて、頭の一部だけ木の幹に隠れている。驚きもしない、いつもの彼の間違った隠れ方だ。
無事だったことに安堵しながら、その姿勢をおかしいと感じつつ傍へ寄る。
なぜ、仲間であるチョッパーが三人の前で隠れなければならないのか。
嫌な予感を覚えつつ近寄ると、チョッパーは彼らを見ながらびくりと震えた。
ただの冗談であってくれ。そう思いながらウソップが声をかけてみる。
「チョッパー……お前、おれたちのこと、わかるか?」
チョッパーは見るからにビクビクしていて、怯えていた。まるで初めて会った時のように。
今にも逃げ出しかねない姿にサンジが嘆息し、否定したい気持ちを抑えて納得する。
彼もまた記憶を失ったのだ。