波が荒れ狂い、雨が横殴りにやってくる環境の中、船は真っ直ぐに軍艦を目指して進んでいる。
航海士の優れた手腕によるものか、帆は張ったままで風を受け、波を乗りこなしていた。本来であれば自殺行為に等しい。しかし彼らは命よりスピードを優先するかのようにその態度を変えなかったのである。おかげで軍艦に追いつくことができた。
甲板では船が沈まないようにとクルー一同が慌ただしく走り回っている。
知識があるなしに関わらず、操船などした事が無いアピスまであちこちで頑張っていた。
そうしていよいよ船が軍艦へ近付いた時、帽子を押さえたルフィが軍艦を見て叫ぶ。
「ナミ! このまま突っ込め! おれが向こうに飛び移る!」
「はぁ!? あんた正気なの!?」
「キリが待ってんだ! おれは行く!」
「ああもう、どうなっても知らないわよ……!」
舵輪を握るナミは文句を口にしながらも舵を切る。
船首から敵の横っ腹に突っ込む。そうすれば敵の虚をつけるはずだ。
その代わり相当な負荷が船へかかることになる。普段ならば轟沈もないだろうがこの嵐ではわからない。船が大破して海に呑み込まれてもおかしくはない。
それでもルフィは進めと言う。
不思議とナミは逆らわず、船の針路は決められている。
大きく揺れる船体をよろけながら歩き、ナミの下へシルクがやってきた。
「このまま突っ込むの? 体当たりする気?」
「しょうがないでしょ、あいつがそう言ってんだから!」
苛立った様子で返すナミから目を離し、敵船を見たシルクが考える。
内部で何が起こっているのか、軍艦からは何度も火の手が上がり、攻撃する前からその姿が変貌していく。詳細不明でも異変が起こっていることだけは確かだった。
敵からの砲撃はない。戦力差を埋めるならば、この機を利用しなければ。
真っ直ぐ敵船に向かうと知り、シルクは意を決してナミへ言った。
「ねぇナミ、船首から突っ込んだら舵を切って左舷を向けて」
「あんたまで何言い出すのよっ」
「お願い。正面から戦っても勝ち目はないでしょ? だから、やってみる」
「やるって何を……あっ、ちょっとシルク!」
言い切ったシルクは階段を下りて、船の動きに耐えられず甲板を転び始めたアピスと、彼女の首根っこを掴んで止めてやるゾロへ目を向けた。
「アピス、ゾロ、手伝って! 大砲使うよ!」
「あぁ? 一体なんだってんだ」
「わかった、手伝うよ!」
「おまえは転ばねぇように気をつけてろ。海に落ちたら一巻の終わりだぞ」
ゾロは片手でアピスを持ったまま、一足先に船の内部へと降りて行った。
それを見ずシルクはルフィを見やり、敵船に集中する彼へ声をかける。
「ルフィ、大砲で攻撃するから、チャンスが来たら命令して! 私たち下で待ってるから!」
「わかったぁ!」
暴風の中でも彼の返事が聞こえた。
踵を返してシルクは船内へ降り、これまで使った事の無かったスペースへと入る。
すでにゾロとアピスが待っていた。雨のせいで全身が濡れ、乾いた床に滴が落ちる。そんなことさえ気にしていられない。髪を掻き上げてすぐに作業へ入る。
とは言いつつも、海賊になったばかりの二人。そこに市民が一人。
大砲を使った経験などなく、咄嗟の思い付きだったがいきなり息詰まる。
砲弾と火薬、それから大砲を前にして、三人は立ち往生することとなった。
「それで、どうやって準備したらいいんだろう」
「知らねぇのに呼び出したのか」
「だ、だって大砲なんて使ったことないし。海で戦うなんて初めてでしょ」
「こうなりゃ適当にやるしかねぇだろ。要するに火薬詰めて弾込めりゃいいんだろ」
「とにかくやってみようよ。なんとかなるかもしれない」
締めくくるようなアピスの一言によって、訳も分からず動き出す。
砲口から火薬を詰め、砲弾を押し込む様はまるで実験の様相である。誰も正しい知識を持たず、どれだけ火薬を用意すればいいか、砲弾も目についた物を押し込むだけだった。
慌ただしく動いてようやく準備できたのは六門。
一人二門ずつ発射できれば、六つは砲弾を放てる計算だ。
外が見えないためタイミングはルフィ任せになる。
準備が終わるか終わらないかという頃に、外からルフィの大声が聞こえてきた。
「シルク、もうすぐ来るぞ!」
「こっちはいつでもいいよ! 二人とも、発射する前に船が揺れるから気をつけて」
緊張した面持ちで三人が大砲の傍へしゃがみ、攻撃のタイミングを待つ。
船は接近していた。
マストの上に立ったルフィは飛ばされないよう帽子を押さえ、片手でロープを掴みながら、軍艦の甲板を見る。視界が悪い中でもよくわかった。サーベルを手にしたキリが海兵に追い詰められている。辛そうな表情で動きも危ういが、少なくとも死んでいない。
接触まで一分とかからない。
それでも耐え切れず、ルフィが思い切り叫んだ。
「キリィ~ッ!」
暴風を越え、雨に負けず声は届いた。
キリだけでなく海兵たちまで振り返ったその瞬間に、船は船首から軍艦の横っ腹へ激突し、上手くナミが舵を切ったことで擦り付けるように左舷が接触する。
それを待ったルフィは冷静だった。絶好のタイミングで叫ぶ。
「シルク、撃て!」
「発射ァ!」
威勢よく叫んで、一斉に火が点けられた。
連続して六度、轟音が聞こえて砲弾が発射される。
隣へ並んだ船のサイズは軍艦の方が大きい。しかし至近距離からの砲撃を受けては被害も小さくはなく、ただでさえ穴が開いていた船体にダメ押しの一撃。船上各地から悲鳴が上がって混乱が深まった。もはや船の構造はかつてとは違っており、至る所が壁を抜かれている。
砲撃で船体が大きく揺れ、多くの海兵が足元をふらつかせていた。
船首付近で追い詰められたキリと、それを見ていたウェンディも例外ではない。
ただチャンスではあった。同時にやってきた襲撃と砲撃、これによって船上に冷静な者は居なくなる。この瞬間しかないとわかっている。
隣の船、マストの上に居るルフィを見たキリは最後の力を振り絞った。
「キリ、来い!」
奪ったサーベルを投げ捨て、苦手な雨に晒されながらも必死で走る。向かう先は当然隣の船だ。
紙は使えない。自身が紙になることもできない。
そんなことは全く関係がないとばかり、欄干へ飛び乗ったキリはその勢いで海へ跳んだ。
誰もがその光景を見ていた。接触したとはいえ、波に揉まれて二隻の船の間には早くも隙間ができている。加えて今の彼はふらふらで、とても辿り着ける距離ではない。
それは承知の上だったか、宙でキリが手を伸ばした。まるで助けを求めるように。するとマストの上からルフィの腕が伸ばされ、あっという間に彼の腕を掴んだ。互いに離さないよう強く握りしめ、思い切り引っ張られる。見事にキリの体は甲板へ落とされたのである。
ウェンディは彼らの行動に驚きを隠せないでいた。
なんと無謀で大胆な人間なのだろう。死すら恐れぬ行動は信頼の故か。
見事に奪われてしまった後では素直に感心してしまい、立ち尽くしてしまう。
捕らえたはずのキリは見事に彼らの下へ戻っていた。
「キリィ! おまえ大丈夫だったか!」
「ハァ、ありがと船長。ちょうど危ないとこだった」
「しっしっし、いいんだ。おれはおまえがいねぇと航海できねぇからな」
キリが戻った様を見たナミは、ほっと息をついてすぐに舵輪を回す。
もうこれ以上用はない。大打撃を受けた軍艦はきっと追って来れないだろう。
逃げるために船の向きを変えて、荒れ狂う波を乗りこなしながら逃げるための航路を取った。
その頃の船内では砲撃音に耳をやられた三人が呻いており、いまだ動き出せない様子。しばらくした後にようやくゾロが辺りを見回して口を開いた。
どうやら火薬を入れ過ぎた。辺りは黒い煙で視界が悪くなっている。
その中でもシルクとアピスの無事は確認できて、咳き込む二人へ声をかけた。
「おまえら無事か? 今すぐ上に戻るぞ。まだ終わってねぇんだからな」
「え、何? 何か言った? 耳がキーンってしてて……」
「いいから上がるぞ! ついて来い!」
ゾロは比較的ダメージが少なかったようだ。そのため耳を押さえて呆けた声を出すシルクへイライラと声をぶつけ、ジェスチャーで甲板へ上がれと伝える。
多少の不安は残るがシルクは歩き出し、次にゾロがアピスを見る。
能力者とはいえまだ子供、しかも戦闘には向かない。シルクならば同行しても問題ないが彼女は外へ出ない方がいいのかもしれない。そう思って表情を引き締める。
「アピス、おまえはここに残ってろ。まだ戦闘が終わった確信はねぇんだ」
「え、何? 何か言った? 耳がキーンってしてて……」
「おまえら……もういい。とにかく戦闘があるようなら顔出すなよ」
耳を押さえるアピスへ、端的に言いのけて踵を返した。
シルクに続いて甲板に出れば、大の字に倒れるキリとその隣にしゃがむルフィが見える。
雨に晒された状況など微塵も気にならず、喜色満面にシルクが駆け出した。その後ろからゾロも口の端を上げて歩き、すぐに出てきたアピスも嬉しそうな顔に変わる。
「キリ! 無事だったんだね!」
「やぁみんな、助けに来てくれてありがとう。どうしようかと思ってたんだよ」
「ったく、面倒な奴だ。だから近付くなっつっただろ、バカ」
全員が一か所に集まり、雨に打たれて動けないキリを見下ろす。
ずいぶんな迷惑をかけたはずだが彼らに怒りの態度はない。厳しい言葉を向けたゾロでさえ笑みを浮かべて責める態度ではなかった。
そこへアピスも加わって、一同は何が楽しいのか笑い合う。
嵐に見舞われ豪雨の中。
揺れる船はいつ転覆してもおかしくなく、軍艦から離れたとはいえ安心できる距離ではない。
それなのに彼らは笑ってひどく楽しそうにしている。仲間をたった一人取り返しただけ、お宝を手に入れた訳でもなく特別な冒険をした訳でもないのに。
舵輪を握るナミはそんな彼らが不思議で仕方ない。
能天気というのかバカというのか、今まで出会ったことがない海賊だ。
ただ不思議と気分は悪くない。
今まで彼らが海賊だという理由だけで毛嫌いしていた部分はあったが、認識を改めなければならないらしい。彼らは海賊でも、少なくとも仲間を見捨てるような薄情者ではなかった。キリを助けるために嵐の中へ突っ込んでいったのがその証明。とても温かい一味だ。
表情を変え、声色は前より柔らかく。
ナミは集まる一同へ笑みを向けた。
「ちょっとあんたたち、まだ航海は終わってないわよ。この嵐を生きて抜けなきゃいけないんだから、今からしっかり働きなさいよ」
「おう!」
「あぁ、ナミも来てくれたんだ。わざわざありがとう」
「私は別に、あんたたちを利用してお宝集めなきゃいけないわけだしさ……そうよ! あんた、せっかく海軍の軍艦に居たんだから、お宝の一つも盗んできなさいよね!」
「あはは、流石泥棒らしいお言葉。ブレない姿勢は見習わないとね」
「だけどナミって海賊専門じゃなかった?」
「細かいことはいいのよ。とにかくチャンスがあったら盗むの!」
首をかしげるシルクへ言いのけ、ナミは晴れやかな笑顔を見せた。
徐々にではあるが馴染んできた感じがする。
今や肩の力が抜けて、舵輪を握るのもリラックスしていた。
「さぁみんな、この嵐を抜けるわよ。まずは破けない内に帆を畳んで、それから――」
航海のためナミが指示を出そうとした瞬間にそれがやってきた。
荒波にも負けずに泳いできたシロクマ、ドニーが海中から飛び出し、船上へ飛び込んできたのである。二本足で甲板へ立ったその巨体は全員の目に留まり、当然無視できないものとなった。ルフィは大口を開けて喜んでいるかのような表情で、他の皆は純粋に驚愕する。
堂々とした風格で立ったドニーはすぐにキリを見つける。
その視線の動きで状況を理解したルフィは、咄嗟に拳を構えて立ちはだかった。
「こいつか、キリを連れて行きやがったのは」
「ルフィ、そいつかなり強いみたいだよ。グランドラインから来たんだ」
「心配すんな。負けねぇよ」
拳を握るルフィを先頭に、両隣にすぐシルクとゾロが得物を手に対峙した。
ドニーは冷ややかな目で彼らを見下ろす。
「アピス、キリを頼む。今動けねぇんだ」
「う、うん。わかった」
「こいつぶっ飛ばして全員で帰るぞ!」
軽く跳んだルフィが拳を握って右腕を伸ばす。慣れた調子の攻撃がドニーの腹へ迫った。
「ゴムゴムのピストル!」
腹へ迫った拳だがドニーの反応が素早く、両前脚で掴まれた。
流れるような動きで、人間かと見紛う仕草。背負い投げの要領で腕を引っ張り、軽々持ち上げた体を思い切り甲板へ叩きつける。ダメージはなかったろうが起こった音は痛そうで、あまりの勢いに甲板の一部に穴が開いた。
「ぶへぇ!?」
「野郎、かなり鍛えられてるようだな……!」
間を置かずに三本の刀を抜いたゾロが飛び掛かる。
些細な動きから実力が垣間見れるものの、やはり動物。毛皮があっても鎧を纏っている訳ではない。刃で切り裂けばダメージは与えられるはず。
真正面から挑みかかって刀を振り上げた。
ルフィの手を離したドニーは冷静に彼へ顔を向ける。
慌てる様子は微塵もなく、怖いくらいに冷静な挙動。
ゾロが繰り出した右の刀による斬撃は、黒色の鋭利な爪によって見事に受け止められた。
「うっ、こいつ――」
動きを止めずに左手による攻撃。やはり爪で受け止められて、わずかに削ることさえできていない。態度さえも全く慌てずに落ち着いたままだ。
続けて数度、連続して攻撃する。
ドニーは完璧にゾロの動きを見切っているようで、肉体はおろか毛皮にさえ掠らない。
歯噛みして、思わず一度距離を取った。
想像以上の実力だ。武器を持っていない上に相手は動物。だが動きの一つ一つに知性を感じて、さらに身体能力ではおそらく人間よりも上。今まで出会った敵の中で最も強いと感じる。
距離を使って助走を取り、再び三刀流の構えで敵へと突進する。
ゾロは厳しい表情で思い切り跳んだ。
「虎狩りッ!」
刀三本でまるで爪で引っ掻くような軌道の攻撃。高く跳んでドニーの胴体が狙われた。しかしその攻撃を見切った動きは素早く、軽いステップで立ち位置を変えると、それだけでゾロの攻撃が空を切った。宙で驚愕した彼はその隙を突かれて全力で殴り飛ばされる。
勢いよく飛んだ体は船室への壁に激突してぶち破り、内部へと姿を消した。
ルフィとゾロを相手にして無傷。あまりにも強い。
すでにルフィは立ち上がっているが人数の差は利点にならないらしい。
素早くシルクがキリとドニーの間へ入り、両手でサーベルを構える。勝てるとは思っていない。それでも、仲間を守りたいという意志は強かった。
「連れて行かせないよ。キリは私が守るから」
「こんにゃろっ!」
シルクを通し、キリを見るドニーへ再びルフィが飛び掛かる。
後方へ勢いよく伸ばした拳で顔面を狙い、腕が縮む勢いを利用して強烈な一撃を放つ。
「おおおおぉっ――
狙いは確かで横っ面に叩き込まれるはずだった。しかしまたも軽い動作で、しゃがんで避けられる。攻撃が空を切ったことにルフィが驚き、飛んでくる彼の腹へ拳が突き刺さった。
カウンター気味のアッパーカット。ダメージは無くとも衝撃までは吸収できない。
跳ね上げられたルフィは天高く飛ばされ、身動きが取れない所にさらにドニーが跳ぶ。
全身を捻って繰り出される蹴りは強烈な迫力を放っている。それを間近に見たルフィは咄嗟の防御すら忘れ、強かに頬を蹴られて体が飛んだ。先程ゾロが突っ込んでいった壁まで蹴り飛ばされ、ちょうどそこから出てこようとしたゾロと激突し、また大きな音を立てて壁が壊れる。二人とも室内で転がって、出てくるまで時間がかかりそうだ。
見事に着地したドニーの目は再びキリへ。
その前にはシルクがサーベルを構えており、どうしても無視できない状況。
緊張した面持ちの彼女と目が合い、強風に煽られながら対峙する。
「シ、シルク……」
「大丈夫よアピス。大丈夫、大丈夫だから」
言い聞かせるような言葉。それは自分に向けられているかのようだった。
ともすれば腕が震えそうになる。堪えるのに必死だった。大きな不安に押し潰されそうで、けれど背後に動けないキリと戦えないアピスが居ては逃げる訳にもいかない。
きつく唇を噛んで、必死にドニーを見上げる。
目が合った状態で彼がゆっくり構えようとしているところ、アピスが言った。
「この子、すごく怒ってる。多分キリを取られたから」
「何言ってるの。キリは私たちの仲間なんだから、あなたが連れて行っちゃだめ」
「そうなんだけど、なんか――」
「絶対守るから。もう足手まといにはならない」
こうなれば奇跡を信じる他なかった。
自信はないが強い意志だけを持ち、毅然として剣を前へ立ち塞がる。
そうするとドニーは拳法を使うかのような構えを見せた。
激しく揺れる船上にて睨み合うこと数秒。緊張感が辺りを支配し、高波が少なからず甲板へ乗り込んでくる環境下。先に動いたのはシルクだった。
見る者の予想を裏切って彼女が走り出して、正面から剣を振り上げる。
スピードで言えばルフィやゾロに敵う訳もない。ドニーにとって見切るのは簡単。
彼女の腕の動きに合わせて後ろへ跳び、刀身が届かない場所へと軽やかに逃げた。
「やああっ!」
気合いの声も空しく、攻撃は空を切った。その瞬間。
なぜかドニーの腹から血が噴き出し、白く見える体毛を真っ赤に染め上げた。
「えっ……?」
呟いたのは他でもなくシルクだった。目の前の状況に彼女が一番驚いている。
刀身は届いていない。斬った感触など手にはなかった。しかしドニーの腹からは確かに血が出ていて、見れば刀傷のような痕がある。
不思議な状況だったが間違いなくシルクが斬ったようだった。
その状況に一番早く順応したのは倒れたまま見守るキリで、呆けるシルクへと檄を飛ばす。
「シルク、そのまま剣を振り続けるんだ! 届かなくていい、早く!」
「え、あっ、うん」
次いでもう一度。大上段からサーベルを振り下ろす。
距離感は変わらないため刀身は届かない。それなのに再び、ドニーの体が切り裂かれた。
傷は決して深くない。だがルフィとゾロが敵わなかった相手に攻撃を当てたのである。
当てた本人が最も驚き、いまだ状況が理解できていない。しかしドニーが警戒して後ろへ飛び退いた頃にふと思い出した。軍艦島で食べた、悪魔の実である。
自身が能力者になったことを忘れていた。なにせどんな能力なのかは今でも判明していない。ただこの時、知らない内に能力を使って攻撃していたようだ。
混乱したままであったが場の空気は一変する。
シルクの攻撃によってドニーの余裕がわずかに崩れ、思わず船の淵まで下がっていた。
荒々しく壁を破壊し、慌ただしく出てきた二人はそこへ殺到する。
「んがぁぁっ! こんにゃろ、シロクマァ!」
「上等だ、ぶった切ってやる!」
怒り心頭といった様子の二人は騒がしく現れたにもかかわらず、一方で冷静さを失っていない。そうとわかったのは互いに協力しようとしている態度である。
床を蹴ってルフィが飛び出す一方、刀を納めたゾロは木片を拾い上げて思い切り投げつける。
攻撃と陽動。瞬時に役割を分けて行動していた。
それを見てシルクも敵の隙を伺うべくドニーを注視する。
敵は強い。だからこその連携だ。
ドニーは飛び掛かってくるルフィを相手にしながら、ゾロが投げる木片を弾き、さらにシルクの見えない斬撃を気にしなければならない。明らかに危険な状況に変わっている。
かくして三人同時の強襲により、ドニーの動きは精彩を欠いた。
「うおおおりゃっ! ゴムゴムの
連続で繰り出されるパンチを両の前脚で捌き、一歩ずつ後退して攻撃を避けようと動き続ける。幸いまだ一撃も受けていない。見切れない速度ではないのだ。
しかし突然、ルフィが攻撃をやめてその場を飛び退く。
次いで飛んできたのは顔面を狙う木片だった。ドニーは慌てず首を逸らして攻撃を避ける。
その瞬間、左の後ろ脚に痛みが走った。
見てみればシルクが剣を振り切った姿。間違いなく彼女は狙って斬っている。まだ自分でも理解し切れていない能力を利用して、離れた場所からの攻撃を当ててきている。
脚の痛みで体勢がわずかに崩れた。
ほんの些細な仕草、その隙を見逃さず、後方へ両腕を伸ばしたルフィが飛び込んでくる。
一瞬で懐へ入って逃げられない位置。ドニーが反撃するより早く両腕が前へ繰り出された。
「ゴムゴムの、バズーカ!」
ゴムの反動を利用した強烈な掌底。それが強かに腹を打つ。
ドニーの巨体はわずかに浮かび、船の一部を壊して空中へと飛ばされた。それでも諦めずに前脚を伸ばす。彼を必死に求めるが故に。
それを許さずゾロが飛んで、三本の刀を構えて、落下するドニーへと追撃を行った。
「鬼斬りィ!」
強烈な斬撃は爪で受け止められたものの、彼の体を無理やり海中へ叩き落す。防御されることも考慮の内だったらしい。斬るというより力ずくで押した印象だ。
ドニーは荒れ狂う海に落ちて姿が見えなくなる。
本来ならば自ら空中に躍り出たゾロも同じように落ちるはずだったが、ルフィが腕を伸ばして素早く腹巻を掴み、ぐいと引っ張って甲板へ連れ戻したことで事なきを得る。
強い相手だった。だがひとまずの勝利を得たのだ。
ルフィとゾロは甲板に座り込み、シルクも急に力が抜けたのか座り込む。
皆が思うことは同じ。生き残れて良かったということだ。
「ハァ、見たかクマ。舐めんじゃねぇぞ」
「ナミ! 帆を畳んでる暇はねぇ、このまま逃げるぞ! あいつがまた来ねぇ内に!」
忌々しげに呟くゾロは己の腕を嘆く。
シロクマ一匹仕留められない。これでは最強など夢のまた夢だと。
一方でルフィは船長として航海士に方針を告げている。嵐の中で帆を張ったままでは自殺行為とわかるが、今はそれよりも速度を重視したい。まだ軍艦の姿が見えなくなった訳ではないのだ。キリが万全の状態だったならば戦闘も良しとしよう。だがこの場は逃げておきたい。
ルフィの発言にナミは頷き、舵輪を回す。
その直後に大きな咆哮が聞こえた。
暴風すら吹き飛ばして天まで響く声。さっきのシロクマなのだと全員が気付く。
中でも動物の意志を理解するアピスは寂しそうな顔で呟いた。
「あの子、とっても悲しんでる。寂しいって言ってるみたい」
「寂しい、か……ボクに関係してるのかな」
「でも、呼んでる名前はキリじゃないよ。別の誰か。私も聞いたことない。多分だけど、離れたくないって言ってるんだと思う」
そう聞かされてキリは無表情に、感情の感じられない声でぽつりと呟く。
「ただの人違いだよ。そんな人間知らない」
名前も聞かずにそう断じて、のっそり動かした腕でアピスの頭を撫でる。
なぜ彼女が辛そうな顔をするのか。きっとその叫びが悲痛な物だったせいだろう。
しかし、関係はない。
ドニーがキリを通して他の誰かを見ていたとしても、そんな人間は知らない。ウェンディから聞かされた話も興味はない。自分は自分で、これまでの記憶がある。
たとえ真実がなんであっても、今更知りたいとは思わなかった。