嵐を抜けて、死に物狂いで穏やかな波間へと到達した軍艦はすでに這う這うの体だった。
船体はボロボロで無数の穴が開き、いまだ沈没していないのが不思議な姿。至る所が水浸しで明らかに危機的状況であった。それでもなんとか海の上に浮いていて、前に進むことができている。
ひどい目に遭った、と誰もが思っていた。
かつてない被害に生き残った者たちでさえ心を折られ、動くのも億劫な精神状態。
見知らぬ少年が連れてこられた時にはこんなことになるとは思っていなかった。
濡れた甲板に座り込んで項垂れる海兵たちは非常に多く、その中で動いているのはほんの一部。
ウェンディは船医の手で治療されるドニーを見つめ、微笑みながら声をかけている。
「やられちゃったわね。あの子たちは強かった?」
彼が怪我をした姿など何年ぶりに見るだろう。それくらいの実力者だったのだろうか。
船出したばかりの少年少女にやられ、船は穴ぼこだらけで、海軍としては面子も丸潰れだ。だがウェンディはむしろ嬉しそうにすらしていて、他とは違い妙にリラックスしている。
傍には少尉が立っており、神妙な顔で彼女へ報告する。
「被害は甚大です。これでは第八支部に到着する前に沈没するのがオチでしょう。ここは一旦近くの町へ立ち寄り、船を直して部下を休ませるべきです」
「そうね。そうしましょう」
報告に対してもどこか心ここに非ずといった様子で、違うことを考えていそうな顔。
眉間に皺を寄せた少尉は叱るように言った。
「まさか、楽しんでいるなどと言いませんよね」
「そうねぇ……複雑な気分だわ。ひょっとしたらとは思ってたけど、ここまで一方的にやられると流石にへこんじゃう」
「当然です。これで能天気に構えているようでは、私は部隊を離れます」
「それじゃあへこんでてよかったわ。あなたが居ないと私の仕事が増えるもの」
「ですから、そういう気楽な発言が問題だと何度も何度も――」
「ねぇ、彼らの顔は見た?」
ドニーを見ながら言えば少尉が重く溜息をつく。
前々から勤務態度に問題があるとは思っていたが、何かがおかしい。
それが私室でのキリとの対話によるものではないかと思って心配事が増えていた。逡巡するものの、やはり従う気はあるのか少尉が報告する。
「あの嵐ですから正確な数はわかりません。ただ、舵取りをしていた少女が一人。ドニーと戦っていたのが剣士らしき青年が一人と少女が一人。そして、あの麦わら帽子の少年」
「腕が伸びてたわね。きっと能力者よ」
「無名とはいえ変わった一味ですね。能力者が二人も乗っている」
「ええ。腕が伸びる子に、紙を武器にする子。興味深いわ」
楽しそうにしている顔が気になった。ここ最近、というより何年か前からつまらなそうにしている表情が目立っていたのに、今日は一転して生き生きしている。
変化の理由はわかっていた。
けれど敢えて聞くような形で、彼女に真意を問う。
「予想は当たっていた、ということですか」
「ええ、そうなの。おじいちゃんが遺した手記でそうじゃないかとは思ってたけど、やっぱりあの人には子供が居た。そしてその子が、何の因果か海賊になったの。信じられる? これを運命的と思わずにどうするっていうのよ」
「運命の出会い、ですか」
「ドニーもそう思ってるわ。彼に間違いないって」
大人しく座るドニーはつぶらな瞳でウェンディを見つめる。
思うことは同じ。彼を見た感想はきっと揃っている。
見つめ合う二人は同じ気持ちで、いつかでもいい、彼との再会を願っていた。
「それを差し置いても、今回の件はいい教訓になったわ。私の采配ミス。考えが甘かった。もう一度引き締め直す必要があるわね」
「ようやく真面目になられましたか」
「鍛え直しよ。私だけじゃなく全員ね」
踵を返したウェンディは甲板で項垂れる海兵たちを見る。
鍛えられた男たちが揃いも揃ってだらしない。
腰に手を当てて元気な笑顔で、まるで少女のような活発さで告げる。
「この中で、イーストブルーを最弱の海だと思っていた人が何人いる?」
通りの良い声はその場の全員へ届いていた。
顔を上げる海兵たちだがその様子に覇気はなく、ウェンディを見る目にも元気はない。
その顔をぐるりと見回し、楽しげな笑顔。
溌剌とした声は全員へ届けられた。
「あなたたちはグランドラインの海を知る者たちよ。それは紛れもない事実。でも今回の一件でわかったでしょう? この海には最強も最弱もない。油断した者が死に、驕りを持たずに自分を磨き続けた者だけが生き残れる。それだけが世界中の海に共通するルール」
叱咤するようでもあって、元気付けるようでもあり、両方が感じられる。
海兵たちはその声に集中する。
「認めましょう、今回は私たちの負け。でもこれで終わりじゃないわ。いずれ海賊と交戦することもあるでしょうし、また彼らと再会する時がきっと来る。その時勝利を得るか死を得るかはあなたたち次第よ。腐らずに前を見れる人間だけが生き続けられる」
徐々にではあったが海兵たちの目に生気が戻ってくる。
確かに今は絶望していた。だがまだ死んだ訳ではないのだ。変わるチャンスはいくらでもある。
元気付けられた彼らの顔が上がり始め、立ち上がる者も次々増えていった。
「頭を垂れる暇があるなら自分を鍛えなさい。次は勝つわ」
そこかしこから威勢のいい返事が聞こえてきて、船上は一気に騒がしくなった。
少尉は静かに溜息をつく。
「まったく。調子がいいものですね、あなたも彼らも」
「ふふ、そうかしら。意外といい演説だったんじゃない?」
「さぁどうでしょう。如何せん私はあなたのことを知ってますのでなんとも」
「とりあえず町を目指しましょう。その後はちゃんと仕事しないとね」
ウェンディは風を受けて頬を緩ませ、濡れた髪を掻き上げ海を眺める。
「第八支部か……あーあ。誰か正義の味方が問題を解決してくれればいいのに」
「またそんなことを」
「あのおじゃる、気味が悪いのよねぇ」
「不穏な発言はやめてください。どこで誰が聞いているかわかりませんので」
少尉に窘められても微笑みは崩れず、楽しそうに肩を揺らしている。
ウェンディは心底楽しそうに嵐があった方角を眺めていた。
*
時刻は夕刻だったはずだが、嵐を抜けても厚い雲が空を覆い隠し、夕日は拝めない。
薄暗い空の下を行く帆船は以前より外傷が増えて修繕の甲斐が無くなっている。しかしそんなことすらどうでもよくて、甲板で大の字になって脱力する彼らはのんきな態度だった。雨に濡れて弱体化したキリだけでなく、厳しい戦闘を終えてぐったりするルフィ、ゾロ、シルクに加え、初めての海戦や大砲の砲撃音を経験したアピスまでしばし動く気力すらなく寝転がっている。
その様を見たナミは舵輪から手を離し、彼らの傍へやってきて苦い顔を見せた。
「こら。あんたたちいつまで寝てんのよ。私にばっかり舵取りさせて、自分たちは恥ずかしくならないの? 海賊でしょうが」
「いやぁーあのクマが強かったからよぉ。なんか力が抜けて」
「だから言ったでしょ、海軍に手を出すなんて馬鹿げてるって。……まぁ、なんとか全員無事に戻って来れたけどさ」
倒れた彼らを見回して呆れたように嘆息する。
あの嵐の中、すべてを見ていたナミはこの一味を侮っていたと言わざるを得ない。
妙な事態で敵船がボロボロだったとはいえ、まさか生きて帰って来れるとは。土壇場での彼らの迫力は表現し難い物があった。的確な指示と作戦、死を恐れない無謀さ、強敵を前に一歩も引かない姿勢。何より目を引かれたのは言葉もなく向けられる信頼感である。
明らかに敵わないだろうドニーを前にした時、彼らは何も言わずに役割を分けて協力した。あの一瞬の出来事で仲間の関係性が如実に伝わった気がする。
仲間。あれがそうなのだろうかと考える。
少ししんみりとした表情になったナミは頭を振り、彼らに気付かれる前に苦笑した。
何はともあれ無事に逃げ切り、嵐も抜けて、あとは軍艦島へ戻るのみ。
緩んだ空気に浸る彼らへ目をやって引き締めるように手を叩いた。
「はいはい、いつまでも寝てる場合じゃないわよ。早く軍艦島に戻らないと、またあいつらが来ちゃう可能性もあるんでしょ? さっさと動く」
「次はアピスの頼みを聞くんだったな。リュウ爺を故郷に連れてってやらねぇと」
「うん!」
「リュウ爺? 誰?」
ルフィが放った言葉から知らない名前を見出し、キリが小首をかしげた。
皆が事情を聞いていたが攫われていた彼だけは聞いていない。軍艦島と千年竜の関係について。
体を起こして胡坐を掻いたシルクが、寝転んだままのキリへ説明を始める。
「あの島には一匹の千年竜が居るんだって。私たちは見てないけどルフィが見たらしいの。アピスの友達で、故郷に帰りたがってるから送ってあげるみたい」
「千年竜ねぇ……伝説上の生物かと思ってたけど本当に居たのか」
「すんげぇんだぞ。でっかくてかっこよくてさぁ、ほんとに竜なんだ」
興奮した面持ちでルフィも起き上がった。少し前の疲れなど吹き飛んだかのように千年竜を見た印象を語る。キリも興味津々にそれを聞いていた。
一方でゾロもその場に胡坐を掻いてアピスを見る。
掻い摘んだ事情は耳にしている。そのリュウ爺が海軍に狙われていることも。
彼らは今しがた海軍と戦ったばかりだ。
あの船はボロボロになったものの、いつ応援がやってくるかはわからない。つまり悠長に休んでいる暇などない。無事に軍艦島へ到着したとして、また海軍と鉢合わせになれば、今度こそ勝てる見込みはないだろう。圧倒的な戦力差は微塵も変化していないのだ。
海戦では人数が物を言う、と彼らは今回の戦いで理解した。
操船する者、大砲を使う者、敵の動きをつぶさに観察する者。
今回勝てたのは運が良かった。
嵐という環境下で、敵船ではキリが暴れ回って陽動していたのが大きい。あれを海戦と呼ぶのは些か語弊がある。従って今、改めて海軍と正面から戦うのはまずかった。
厳しい顔つきでゾロが口を開く。
「こうなった以上、もうゆっくりはしてられねぇぞ。おそらくおれたちは海軍に目をつけられた。リュウ爺を守りたいんなら、そいつを連れてとっとと島を出た方が得策だ。連れてくんだろ、竜の巣に」
「うんっ。リュウ爺がそんなこと言うの初めてなんだもん」
「死期が近いってことか」
「そ、そんなこと言わないでよ……でも、うん。多分そうなんだと思う」
俯いたアピスは唇を噛んだ。
別れを惜しむかのような表情に見える。しかし覚悟はしつつあるらしい。
ただ認めたくないといったところか。
沈んでしまった声はリュウ爺を想っての変化だ。
「リュウ爺は何も言わないけど、わかってる。食べる量だって減ってるしほとんど動かないんだもん。昔は空を飛んだり、泳いだりとか、全く問題なかったのに。今は歩くだけでも辛そう」
「単純に歳くったってことか」
「でも、いいんだよね。寿命まで生きられたんだもん。リュウ爺は、千年も生きたんだ。そろそろゆっくり眠る時なんだよね」
アピスは顔を上げて、自分に言い聞かせるように呟く。
寂しさが胸中に込み上げている。本音を言えば離れたくなどない。けれどリュウ爺を想えばこそ、無理をして延命させるのも申し訳ないと思う。
別れの時が来たのだろう。
目を閉じてしばし考え、再び目を開けるとアピスは皆に聞こえるよう言った。
「大丈夫、ちゃんと笑って見送るから。私が弱いままだとリュウ爺が心配しちゃうもんね」
「アピス……」
気丈に言いながらもその時を想像し、アピスの目には涙が溜まっていた。自身を抱きしめるように腕を抱いたナミが名を呼ぶも、それだけで忘れられる様子ではない。
彼女は涙を流さなかった。必死に堪えて呑み込もうとし、ぎゅっと服を握りしめる。
頭が良くてもまだ子供。感情を抑え切れるほど完成されてはいない。
ふとシルクが彼女を抱きしめて、自らの胸にアピスの顔を埋めさせる。
どうやら事態は想像以上に緊迫しているようだ。
まだ体が動かず、大の字に倒れたままのキリが神妙な声で呟いた。
「わかった、そうしよう。軍艦島に着いたらすぐリュウ爺を連れて島を離れる。これから夜になる。闇に紛れれば海軍が近くに居ても見つかりにくいはずだ」
「問題は航路ね。その竜の巣ってどこにあるのかしら」
「それならボクデンさんに聞いてみようよ。壁画があるって言ってたから何か知ってるかも」
アピスの頭を撫でるシルクがそう言うと、誰も異論を口にしなかった。
船の針路は決まった。
ひとまず軍艦島へ立ち寄り、リュウ爺を連れてすぐに海へ。その先どこへ向かうのかはボクデンの話を聞いた上で決定する。どの道楽な道のりではなさそうだ。
敵は海軍。船は傷ついて、今度は動けない千年竜を連れて行くことになる。
大変な航海になりそうだという認識が強まった時、ルフィがパンと膝を叩いて立ち上がった。
「よしわかった。とりあえずメシ食おう」
「は? なんでそんな発想になるのよ」
唐突なルフィの提案にナミが顔をしかめる。
一体どんな思考回路をしているのか、つくづく彼だけはわからない。キリやゾロが真面目な顔で話していただけにその念は強くなった。
ナミは呆れて物も言えなくなるが、他の面子にとってはいつものことらしい。
さほど慌ててもいないのがまた気になる点だった。
「腹減ってると落ち込んじまうだろ。メシ食って腹いっぱいになればまた笑えるようになるって。アピスもそう思うだろ?」
「う、うんっ。そうだよね」
シルクの体から顔を離し、目元を腕で拭ってアピスがにっと口の端を上げた。
無理に笑っているのがわかるが気分を変えるきっかけとはなっただろう。確かにあったはずの緊張感も緩んで空気が軽くなっている。ルフィの発言も無駄ではなかったようだ。
それでいて考えがないようだから問題がある。
この状況で誰が料理を作れるのか。当然議題はそちらへ進む。
「だけど誰が作るの? キリは動けないみたいだし、私もまだまだで上手には作れないよ」
「じゃあおれが」
「それはダメ。えっと、ナミは?」
「いいわよ。一人五千ベリーね」
「金取んのかよ。どこまでがめついんだてめぇは」
「じゃあじゃあ、私が作る!」
困惑する一同の中でアピスが手を上げた。
全員の視線が彼女へ集まる。
共に食事を取った仲だが料理の腕に関しては未知数。他に選択肢はない状態だが果たして任せてしまっていいものか、逡巡して妙な空気が流れ始めた。
アピスはすっかり笑顔になっており、生き生きとした様子だ。
恩返しとばかりに役立とうとしているのだろう。先の戦闘の疲れさえ感じさせない。
それが子供の利点なものの、一同は思わず顔を見合わせてしまった。
「アピス、料理できるの?」
「まかせてよ。自信あるから」
「いまいち気乗りはしねぇが、金払うよりかはマシか」
「聞こえてるわよ。フン、別にいいわよ。作りたいわけじゃないし」
「しっしっし。そんじゃアピスにまかせるぞ。うまいメシ頼むな」
「うん!」
嬉しそうに頷いて話は纏まった。
その時になってしばし黙っていたキリが口を開く。相変わらず寝転ぶ姿は間抜けそのもので、もはや立ち上がろうという努力すらしていない。緩い表情はいつも通りと言えばいつも通りだ。
「その前に着替えようよ。ボクじゃなくても濡れた服だと嫌でしょ?」
「それもそうだね。ナミとアピスには私の貸すよ。サイズが合うかどうかわからないけど」
「この際着替えられれば文句言わないわ。流石にこのままじゃ寒くなってきたし」
「アピスもいいかな?」
「うん、大丈夫。みんなの前ならどんな服でも恥ずかしくないと思う」
「あははは、そんなに変な服持ってないけどね」
先に雨で濡れた服をどうにかしようと、女性三名が女部屋へと向かった。
ゾロも同じく立ち上がって男部屋へ向かおうとするのだが、はたと気付いて視線の先を変え、倒れたままのキリを見つける。ルフィと二人して見つめると彼はへらりと笑った。
「悪いんだけどさ、着替えさせてくれない?」
「っとにめんどくせぇ……」
「しょうがねぇなぁ。まぁキリは水に弱いからな」
頭を抱えるゾロとは対照的にルフィはすぐに彼を背負う。世話焼きな姿は普段とは真逆になっているようでおかしく、溜息をつくゾロはやれやれといった調子だ。
「甘やかし過ぎなんじゃねぇのか。弱点だってのは聞いたが、だったらそもそも近付くべきじゃねぇだろ。あのシロクマに手ぇ伸ばしたのはこいつなんだからな」
「いいじゃねぇか。キリにはいつも世話になってるし、これくらい」
「ありがとルフィ。やっぱ船長は頼りになるなぁ、どこかの誰かと違って」
「蹴り落とすぞ。これだからこいつは……」
「おまえら仲いいなぁ」
「よくねぇ。何を見てそう言ってんだ」
男たち三人もまた船内へ入り、着替えを始めた。
この後気分を新たにしたアピスがキッチンに入るのだが、料理の知識を持たない彼女が作ったそれはなんとも形容しがたく、凄まじい味がした。
平気な顔をしていたのはルフィだけで、他の四人は悲鳴を上げることになったようだ。