誰に起こされた訳でもなく、不意に目が覚めた。
室内が明るくなっている。気付けばもうすでに朝のようだ。白いシーツがはだけて、もそもそと動き出せば、同じ部屋で寝ていたナミが振り返る。
町にある宿の一室である。それぞれ別の部屋へ入って一夜を過ごし、朝を迎えた。
彼女は先に起き出して立っていたらしい。
窓辺に立ち、部屋へ差し込む日光を浴びて輝くような様相。普段よりも美しく見えた。
すでに身支度も整え、着替えも終えた後らしく、寝ぼけ眼を見せるシルクに振り返ってくすりと笑う。呆けている姿に笑ったナミは可憐で、不思議といつもとは雰囲気が違うように思えた。
「おはよシルク。あんたも意外と寝相悪いのね」
「ん……おはよう、ナミ」
ゆっくり起き上がって目元を擦る。力の抜けたシルクの姿は普段より幼く見えた。
それを見ているとほのぼのして、自然に頬が緩む。
ナミの顔に昨日の陰りはない。昨夜の騒ぎでストレスを発散したのだろうか。
昨日は凄まじかった。
ルフィが音頭を取って宴会が如きバカ騒ぎをし、町人を巻き込んで大騒ぎを続け、数えきれないほどの笑顔に包まれた。彼女が笑っていたのもよく覚えている。手配書を見た折、表情の変化に不安を覚えていたが、ひとまず心配は杞憂だったと安堵したものだ。
徐々に意識を覚醒させたシルクも微笑んだ。
騒いで発散できたのならそれでいい。
窓辺に立つナミは手を組み、日光に目を細めながらぐぐっと伸びをしてみせる。
「ん~いい天気。やっぱり船で寝るのと陸で寝るのじゃ違うわね」
「ナミ、機嫌良さそうだね」
「まぁね。色々あったけど、なんだかんだ言ってお宝は集まってきてるし、あんたたちとの航海も無駄じゃなかったみたい。大変だったけどね」
「海賊、やりたくなった?」
「まさか。それとこれとは話が別」
肩を揺らして笑うナミに安堵を覚えた。
良い朝だと思う。慌ただしい日々のせいか、何気ない日常が尊い物に感じられる。
一時とはいえ不安も消え、全てが昨日と同じではない。
再び振り返ったナミと目が合って、穏やかな時間を噛み締めた。
「朝ごはん食べに行きましょ。どうせ今日中にこの島出るんだろうから、今の内じゃないとね」
「あ、ちょっと待って。すぐ準備するから」
ゆったり休んでいたシルクも慌てて起き出し、準備する。服を着替えて歯を磨き、乱れた髪を整えて、寝起きの様相は一つずつ消されていく。
幾ばくもせず準備は整った。
すぐにいつもの彼女になって、二人並んで部屋を出た。
ひとまず危険なことはないだろうと剣を置いて部屋を出る。
ナミとシルクは宿の一階に降りて、そこにある食堂へと入った。
昨夜その場で行われた宴の名残はすっかり消されている。手早く掃除されたのか見栄えはきれいな物だ。そこで数人の人影を発見して、テーブルについて食事をしている三人を見つけた。
ルフィとヨサクとジョニーである。
彼らも朝食の途中だったのだろう。すぐに気付いて振り返り、彼女たちを見つけた。
「おーいナミ、シルク。こっちこっち」
ルフィが手を振って二人を呼んだ。顔を見合わせ、苦笑しながらそちらへ向かう。
空いていた席に腰を落ち着け、ルフィの隣に二人並んで腰かけた頃、対面に座るジョニーが宿の女将を呼ぶ。それから適当に注文してしまい、女将はすぐキッチンへ引っ込んだ。
彼女たちの意見も聞かないのにはナミが呆れるも、シルクは気にしないと微笑む。
二人が座った途端、上機嫌なルフィが笑いかけて話し始めた。
「今こいつらからいいこと聞いたんだ。海の上にレストランがあるんだってよ」
「海のレストラン?」
「それって海上レストランのこと?」
シルクが首をかしげた後、ナミが呟く。
ルフィは少し驚きながらも顔を輝かせた。
「なんだ、知ってたのか。一流のコックが集まってるうんめぇ店なんだって。そこ行ってみよう。メシ食うついでにコック見つけるんだ。おれたちのコック」
「コックかぁ……そう言えば考えてなかったね」
楽しげなルフィの笑みにシルクが同意する。素直に納得している様子だ。
今日までの航海、料理に関しては大体がキリとシルクが協力して行っていた。しかし本職ではない。ただ器用だからなんとかなっていたというだけで、彼らでは一日に摂取する栄養までは気が回らないのだ。そろそろ探すべきだと、キリが料理中ぼやいていたのも聞いている。
海上レストラン、バラティエ。
イーストブルーでは有名な店で、味は抜群、料金は安い。人気店として広く名が知れていた。
ただ一方で粗暴なコックが多いとも、そのせいでウェイターがすぐ逃げてしまうとの噂もある。他にも、海賊に襲われても自分たちだけで撃退してしまうのだとか。
目的地としては面白いと思う。
海賊の仲間になってくれる人材を探すにも悪くない。
シルクは全面的に同意、笑顔で頷いた。一方ナミは我関せずとばかりに興味なさげで、運ばれてきた水を飲んで一息ついている。
「うん、探そう。これからの航海にきっと必要になるよ」
「いい考えだろ。肉とおでん作れる奴がいいなぁ」
「よっぽど気に入ったんだね。一流のコックならきっと作れるんじゃないかな、おでん」
「いやぁー楽しみだなぁ。ヨサクとジョニーが道案内してくれるんだ」
「任せてくだせぇ」
「これでもこの海を航海して長くなるんで、位置はばっちりわかってますから」
初対面の印象とは違いすっかり仲良くなったらしい。宴に参加していたのも大きいだろう。親しげな彼らはぐっと親指を見せ、満面の笑みで得意げに言った。
次の航路は決定したようだ。
ルフィは楽しみにしているが、気になるのはこの場にキリが居ないこと。普段ならば船長の傍であれこれ考えを巡らせる副船長はどこへ行ったのか。
他にも姿が見えないメンバーが居るため、口を閉ざしていたナミが尋ねる。
「それはいいけど、キリは? 大事な話なのにいないじゃない」
「ああ、キリの兄貴なら昨日の酒が堪えてるみてぇでまだ寝てますぜ」
「なんせゾロの兄貴と飲み比べしてたからなぁ。あの人ザルだから、相手にするとやべぇんだ」
「そういえばそんなことしてたっけ。でも、お酒弱かったかしら」
料理が運ばれてくる間、シルクが隣のナミへ言う。
能力に関して話す機会があって、彼の体質についても聞かされていたのだ。
「キリもアルコールには強いよ。でもほら、紙の体だから、水分を取るのも一苦労らしいの。体が濡れた時みたいに、中から濡れちゃうからだめなんだって」
「あぁ、そういうこと……能力者ってめんどくさいわね。シルクはまだマシな方か」
「これもかなり変わってるみたいだけどね。体質の変化も分かりにくいし」
「それでも伸びたり、濡れると力抜けるよりマシでしょ。にしても水飲むだけでだめって致命的じゃない。普通の生活に支障が出てるわけだから」
「うん。だから普段キリがだらけてる時って多いんだよ」
「そういう理由?」
「本人が言うには」
「絶対それだけじゃないわよ、あの性格からして。ただだらけたくてだらけてるだけだわ」
ナミが呆れて言えば、シルクが肩を揺らす。
確かにそんな気はする。反論できないのは彼を知っているためだった。なるほどと思う一方でそれとは別に、ナミが同じくらい理解しているのが嬉しく思う。
口では厳しく言いつつも、距離は確実に縮まっている。少なくともそれだけは確かだ。
「ウソップは? コビーたちも居ないけど」
「あいつら仲良くなったからな。ウソップが買い出しに行ったから手伝ってくれるんだとさ」
「ふーん。で、あんたはのんきに食事中ってわけ」
「実はもう一時間くらい食ってますよ」
「朝からなんつー食欲だ……しかも昨日の宴でめちゃくちゃ食ってたのに」
ヨサクとジョニーが呆れている目の前、ルフィは尚も食事を続けていた。それも今から食べ始めるナミやシルクより勢いは凄まじい。
彼ら二人にとっては初めてだろうが、仲間にとっては当たり前の光景。
特に反応もないまま、ナミとシルクは自身も食事を始め、軽食を口にし始める。
和やかな風景である。
のどかな時間をゆったり過ごし、朝らしい過ごし方。
しばらくまた海上レストランの話をしていると、二階からキリが降りてきた。あくびをしながら眠そうな顔。いつもより気が抜けた姿に見える。
彼を見つけたルフィは笑顔で手を振り、近くへ呼んだ。
ふらふらした足取りでやってきたキリが五人が囲むテーブルへと歩み寄る。
「おはようみんな。絶好調みたいだね」
「ああ、腹いっぱい食ったし、思いっきり寝たからな。それよりさ、いい話聞いたんだ」
「いい話? いきなり景気いいね」
「海上レストランがあるんだってよ。コック探すのそこにしよう。うめぇメシ作るコックを仲間にして、その次はいよいよグランドラインだ」
ようやく食事を終えて、立ったままのキリを見上げてそう言った。
いよいよである。
当初から目的地に定めていたグランドラインへ、いよいよ向かう時が来たらしい。機は熟したとはキリも思う。戦闘員、狙撃手、航海士。クルーは着実に増えてきて、あとは長い船旅に必要な、栄養に関する専門的な知識を持ったコックを仲間にすればそれで準備は完了。
時は来たということか。
ルフィの顔には冒険心が溢れるようで、気楽に見下ろしたキリはへらりと笑う。
異論はない。ならば決定に従うまでだ。
「いいよ。それじゃ先に海上レストランに行って、その後グランドラインだ」
「しっしっし。楽しくなってきたっ」
「ところで海上レストランって何?」
「あんた、知らないで頷いたの」
「あはは……キリはイーストブルーのこと、あんまり詳しくないもんね」
決断の後の質問でナミが表情を歪め、シルクが苦笑する。心配になるようなやり取りだったがすでに決定。今後の予定は固まったようだ。
不意に、シルクがナミの顔を見る。
キリの反応を見たのは別として、何やら様子が変わったように思えた。
「ねぇ、キリも何か食べる? 私たちも途中だから、いっしょに」
「そうだね。コーヒーだけもらおうかな」
「あんた水分取り過ぎると力抜けるんでしょ? やめときなさいよ」
「大丈夫だって、ちょっとくらいなら」
気を利かせてシルクが口火を切ると、すぐに変化は消えてしまう。おそらく誰も気付いていない。注意して観察していたシルク以外は。
隠し事をされているような素振りには悲しくなる。
しかし今はこのままでいるしかないのだ。
キリがヨサクとジョニーが座る側へ回って、椅子を引いて座ろうとする。
その瞬間に室内へウソップが飛び込んできた。扉を開ける音も荒々しい。見るからに慌てている表情と走り方で、転びそうになりながらも彼らの下まで駆け寄ってくる。
「た、たたたっ、大変だァ~!? 海軍が来たぞルフィ! おまえのじいちゃんが来たァ!」
「何ィ~!? じいちゃんが!?」
「コビーたちが言ってたんだ、間違いねぇ!」
その一言で空気が一変する。
眠たげにしていたキリが真顔になり、ナミとシルクに焦りが生まれる。ルフィは聞かされた途端から目を剥いて驚いていて、ヨサクとジョニーだけは状況が読めないものの、明らかな緊張感からまずい展開なのだろうことだけは理解できた。
テーブルを強く叩いてルフィが立ち上がる。
もはや悠長にしていられる状況ではない。焦るのも無理からぬことだった。
「キリ、どうしよう!? じいちゃんが来た!」
「ウソップ、距離は?」
「もう目の前まで来てる! おれたちが買い出ししてる間に近くまで来てたんだ! とにかく一旦外出てくれよ、そしたら早ぇから!」
慌てふためくウソップが駆け出し、全員が後へ続く。話についていけなかったヨサクとジョニーもひとまずついていき、一番後ろとなって宿の外へ出た。
山を使って作られた町は坂道が多く、長く、彼らが居る位置は山腹の半ばほどに近い。
広い通りに出れば海を一望できた。
確かに島へ近付いて来る軍艦が一隻ある。犬の船首を持つ特別な軍艦。ガープ中将の船だと言われて納得の外見で、あと十分もすれば島に到着するだろう。
つまり今からでは逃げられない。この距離感、あまりにも危険過ぎる。
動揺する面々の中で、キリが静かに歯を食いしばった。
「あれがじいちゃんの船か」
「くそっ、なんでここがわかったんだ? 前の島から結構離れたし、コビーたちは連絡してねぇって言ってた。この島の連中が通報したわけもねぇだろうし」
「勘で来たとかだったら最悪だね。ルフィの肉親だし、可能性あるけど」
「山勘でここに来ちまったってことかよ。そんなのありか」
途方もない緊張感に包まれる。
話は聞いていた。ルフィが無条件で恐れる相手で、キリとゾロが勝てないと認識した人物。それが、ルフィのみをターゲットに島へ近付いて来る。恐怖心を持たずにはいられない。
緊張感が増す中ルフィが振り返った。
傍に立つキリを見やり、真剣な顔つきで問われる。
「おれは海兵になるなんて嫌だぞ。海賊王になるって決めてんだ」
何とかしろ、と言いたいのか。
しばしの間キリは目を閉じ、考えた。
敵は海軍の英雄、ガープ。かつては海賊王ゴールド・ロジャーと互角に渡り合い、一国さえ滅ぼす彼を相手に生き残り、今も尚現役、伝説であり続ける人物。生半可な覚悟では勝てないことは以前の対峙で理解していた。もっと突き詰めて考えなければこちらが負ける。
この場における勝利はいらない。船長が望んでいないからだ。故に、必要なのは逃げるための手筈。ガープをやり過ごしてこの島を出る方法。
高速で思考が駆け巡る。今までにないほど速く、冷静に。
数秒の後にキリが目を開いた。
そして背後へ振り返り、仲間たちの顔を見回す。
幸いにも手駒は二つ増えていた。賞金稼ぎのヨサクとジョニー。まだ実力のほどは確認していないが、二人がかりとはいえ海賊団を潰せるほどの腕と、そして胆力があるのは間違いない。
彼は重々しく口を開いた。
「コビーたちは?」
「買った物を船に運んでくれてる。おれがこっちに来たから」
「それでいい。ヨサク、ゾロを起こしてきて。文句言うなら叩き起こしていいよ」
「合点だ!」
「ジョニー、この島の地図とかあるかな? できるだけ道が正確に描かれてる物がいい」
「よし、とりあえず宿のばあさんに聞いて来る!」
言われてすぐヨサクが駆け出し、少し遅れてジョニーが走り出す。それぞれ違った目的のために二人が宿の中へと入っていった。
改めてキリが振り返る。
再び海を眺めるとウソップが焦って声をかけてきた。
「おい、ゾロが来たら急いでメリー号に戻ろうぜ。今ならまだ――」
「もう遅い。今からじゃどうやっても逃げるのは無理だ」
「そ、それじゃどうすんだ?」
「この町で迎え撃つ」
まさかの発言にウソップが目を剥いた。
てっきり逃げるものだと思っていた。だがキリは、彼らと戦うつもりらしい。
「正気か!? おまえらが勝てねぇって思った相手なんだろ! 戦ったって勝てる訳……!」
「定義の違いさ。何も相手を倒すことだけが勝利じゃない。この場においてボクらの勝利は、全員が生きて島を出ること。つまり正面衝突だけが戦いじゃない」
「どうする気? 作戦があるってことだよね」
シルクが問えばキリは頷く。
自然と全員の視線が集まって、真剣な顔で見つめられた。
「幸いここは坂が多いし、道も狭い。戦力の差は利点にはならないだけじゃなく、むしろその差をこっちが利用できる。戦略さえあれば負けるような相手じゃないはずだ」
「に、逃げるだけ、なんだよな」
「そうだよ。ただしその前に敵を港から遠ざけなきゃいけない。それに先手を打たれてメリー号が沈められればそれで終わりだけどね」
「じゃやばいじゃねぇか! メリー号は港に堂々と停めてんだぞ!」
「まぁ、そうならないように願うしかないかな。ルフィの祖父ならその辺、雑にしてくれるとは思うけど、もしもの時はちゃんと止めに入るよ」
相手の行動や奇跡を待つしかないという、あまりにも悲惨な現状。やはり己と敵の間に実力の違いは大き過ぎる。しかしやらねば。この場をやり過ごせない男に、海賊王になる器があろうはずもない。また、その野望を持つ男に同行できるほどの価値などないはずだ。
「ヨサクとジョニーも含めて、ゾロが来れば全員の行動を決める。目的はあくまでも戦闘ではなくこの島から逃げること。それができれば、ボクらの勝ちだ」
「よし、やるぞ。相手がじいちゃんでも負ける気なんてねぇからな」
決意を固めるように呟かれる。
その時、またもナミの表情が変わっていたことに気付いたのは、シルクしかいない。
苦悩する表情。
悲しげで、辛そうで、なぜそこまで思いつめるのかと思える顔だった。当然心配しないはずもない。しかしこの場は敢えて問わず、シルクは唇を噛み、彼女に声をかけなかった。
船が近付いて来る。
言葉にできないほど大きく、不穏な気配が漂っており、それに気付く者も少なくはない。
ただ海を眺めながら、明らかに風が変わる瞬間を感じていた。