激突の瞬間、言い知れない迫力を感じる。
ゾロは歯噛みして頭を振った。
敵の刀を受け止めた二本の刀を後押しするように、少し遅れて口の刀が叩きつけられる。鍔迫り合いは確かに押し切った。だがボガードは後ろへ下がり、腕を引いて衝撃を吸収する。
熟練の技。並大抵ではない技術を感じさせる挙動。
どうやら力で押し勝ったというより、自ら後ろへ退いて状況の変化を望んだらしい。
一時たりとも気を抜けない攻防の中での冷静な判断だ。今まで剣を合わせた誰よりも強く、一瞬の気の迷いで死を感じるほどの緊張感がある。
後ろへ下がった姿を見て、確かに迷いを感じかけた。
誘われている。そう思えない素振りでもない。
危機感を覚えないでもないが、それでもゾロは前へ出た。
押して押すこと、これが豪剣の極意。
自らの剣を理解し、信頼するからこその選択であった。力押しとは違う、だが鍛えた筋力を最大限に利用して、純粋なパワーで敵を斬る剣筋。それがゾロの最も得意とする技だ。
鋭く、素早く、強く攻撃を放つ。
ボガードは着実にそこへ剣を合わせに行った。
「ウェアァッ!」
甲高い金属音が連続する。
鬼気迫る姿から繰り出される攻撃は、流麗にして強靭、力と技とを組み合わせる一個の戦法。
三刀流とは初めて見るものの、名が売れるのも納得の戦いだった。
だがあくまでもイーストブルーのレベルである。
今まで止められたことがない全力の連撃を、ボガードは涼しい顔で全て受け流した。
「おおぉっ――!」
「末恐ろしい男だ……この若さでこれほどまで」
右手で刀を操り、ボガードが素早く後退する。
ゾロの攻撃は荒々しい剣だ。その場に留まるにはあまりにも勢いが強過ぎて危険性が高い。そういう意味では、彼の剣は攻撃力に優れ、現時点で突進力は常人の域を超えている。
早めに摘み取っておかねば、いずれは海賊たちの世に変革が起こるレベル。
十を超える攻撃を受け流して一瞬。思考は止まらない。
受け流して力を分断させているとはいえ、その腕力による強い力はボガードの腕にまでダメージを刻む。今は小さなそれも、戦闘が長引くようなら無視できない要素の一つとなるだろう。
今となっては数えきれないほどの訓練、戦闘の経験から、冷静に状況を考える。
敵は彼だけではない。他に異様な能力を使う者たちも数名。
早急に敵を仕留めるだけでなく、次の戦闘に備え、余力を残す必要があった。
故に、この場における出し惜しみはない。
考えるのは手を抜いて長引かせることではなく、全力を持って一刻も早く敵を倒すこと。
目の色を変えたボガードは突如としてその場から消えた。ゾロの剣が空を切り、目を見開く。動きが全く見えずに、しかしシロップ村での戦いによってその動きには覚えがあった。
(消えた――いや)
ボンッという奇妙な音がする。頭上、空の中で。
消えた訳ではない。まだその場に居て、ただ見えなくなるほどの速度で動いているだけだ。
証拠に気配は感じている。
格上の敵と戦うとあって、極限まで研ぎ澄まされた意識が敵の位置を伝え、即座に振り返った。ゾロの視界に刀を構えたボガードの姿が入る。やはり空中、落下するように向かってくる。一体どうやったのか、ともかく移動速度は明らかに彼の方が上だと判断できる状況だった。
間に合うタイミングで目が合って、反撃のため腕に力を込める。
対するボガードは驚いていた。表情には出さない、あくまで心の内で。
速度は自身が上回っていると知っている。尚且つ、気配を読めたとしても彼の力量は大した物ではない。殺気もできる限り殺した。それでも気付いたというのか。
まるで獣。常人よりも優れた感覚を持っているらしい。
繰り出されるは鋭い突き。
ゾロはその一撃を口に銜えた刀で受け流し、無傷でもって右手の刀で反撃に出ようとした。
(この態勢じゃ避けられねぇ。捉えた!)
油断なく、チャンスだと思って刀を振り抜こうとする。
その刹那、確かに見た。
何かを蹴るように脚を動かしたボガードの体が、奇妙にも刃が届く範囲から逃げ出してしまったのである。空気を蹴るかのような所作とボンッという音。さっきの技に違いない。
見事に回避したボガードは一旦彼から距離を取る。
おそらくは空中を移動できる技。能力者だろうか。ゾロの中に逡巡が生まれる。
「チッ、どういうことだ。空中で避けやがった」
「上に行けば行くほど、海軍に所属する者はこの技を会得している。これは空気を蹴って空を飛ぶ技、“
地面に足を着けて体勢を立て直す。
直後、またボガードの姿が掻き消える。月歩、その技とは別の技に違いない。
「“
やはり見えない。だが似た技なら以前見ていた。
キャプテン・クロの抜き足より速く、速度だけで言えば杓死に近い技。それでいて暴走するだけだった彼とは違い、その速度を操っている。
離れた位置から観察していたあの瞬間は無駄ではなかったようだ。
視認はできない。それでも性質はわかる。
攻撃の瞬間には姿が見えるのだ。
姿が消えたボガードを、ゾロは自身の左後方に振り返って発見した。
「何っ――!?」
「ンンっ!」
目が合い、驚愕し、咄嗟に左手の剣で防御される。ゾロの刀は強かにそれと打ち合った。
鍔迫り合いに持ち込んで動きが止まる。
してやったりといった顔のゾロは、凶悪そうに口の端を上げていた。
「大体考えることは一緒なんだよ、隙を突こうって考えてるならなぁ」
「フッ、意外に頭が回るらしい……しかし、あまり驚いていないようだな」
「いいや、十分驚いてる。空を飛ぶ人間ってのは初めてだ」
「剃のスピードは見たことがあると?」
「いや違った。見たことあったなぁ、空を飛ぶ人間。紙みてぇにひらひらしてるから」
全身の力を使った押し合いの最中、ボガードが眉をひそめる。
この男は一体何を見てきたのだ。
姿が掻き消えるほどの速度を持つ剃。脚力のみで空を飛ぶ月歩。どちらもイーストブルーで使える者など居ないはず。それを見て驚かないのは明らかに異質だった。
実力の差は大きい。この場で埋め切れないほどあったはず。にも拘らずゾロがボガードの動きを予測し、反応した末、数度止めたのは、いくつかの経験に基づく確固たる自信があったから。
敵の弱点を突こうとする人間の心理。或いは強者の技の影。
同程度の速度も、紙を使って空を飛んでみせる男も知っている。一度見たなら、次に見た時は驚愕するほどではない。こういった人間が存在するのだと知れたからだ。
力ずくで腕を払って距離を取る。
少し離れてから対峙し、ゾロは冷静に思考した。
(身のこなしと構えから見て、こいつの主体は突き。さっきの移動技と組み合わせた戦法ってわけだ。まだ本領発揮って感じじゃねぇ。なら――)
ゾロが姿勢を低くして身構えた。
咄嗟にボガードが反応して防御の姿勢となる。
それを認めて駆け出し、三本の刀を利用した、強烈な一撃を彼の刀へと叩き込む。
「鬼斬りィ!」
「うぐっ……!」
この瞬間だけは技を捨てて、力任せの斬撃を入れる。片手で剣を構えていたボガードの表情が曇った。それでいい。そうして腕に疲労を蓄積させるだけで効果はある。
自分と相手の力量の差くらい、わからないはずがない。
この戦いにはどうあっても勝てないのだ。
だからゾロは、ボガードの刀へ一撃を入れ、交差した後。振り返らずに海兵の部隊へ突っ込む。
まさかの行動で海兵たちに動揺が走り、体が硬直している。
その中へ勢いよく突進を開始した。
「そこをどけェ!」
凄まじい気迫は本部で鍛えられた海兵の部隊を驚愕させる。無謀にも一人で突っ込んでくる敵を相手に、ピクリとも動けない。分かり易過ぎる隙は彼の動きを大胆にさせた。
斬り飛ばし、蹴り飛ばし、殴り飛ばす。
剣士というより荒くれ者の挙動で、次から次に海兵たちが傷つけられた。
驚愕して我を忘れたボガードは数秒動けず、信じられない物を見る目でその光景を見ていた。
元賞金稼ぎという情報で甘く見ていたかもしれない。彼も海賊の一人。何をしてもおかしくなかったということだろう。だがそう考えても納得できない。彼の目を見た時、卑怯な真似をする男には見えなかった。剣士として向き合ったなら正々堂々と一騎討ちで、決着が着くまで戦うのだろうと、そう思わせる凄みと覚悟があった。
事実、本来のゾロならばそうしているに違いない。
相手がどんな強敵であれ、否、強敵だからこそ、自らが強くなるために挑む。そんな性質は嘘偽りではない。彼は卑怯を好まぬ男だった。
ただそれも、自分勝手に動ける状況でのみ。
賞金稼ぎの頃ならまず逃げていない。今そうしないのは、海賊になったという自覚のため。
自分がボガードに勝てないのは知っている。そして事実を知りながら敵へ挑み、敗北するのは仲間たちの望む未来ではない。だからゾロはキリの策に乗った。
船長の意志に従い、未来を目指す。
そのために手段を選ばぬ決意をし、自らのポリシーを曲げてまで行動したのである。
混乱する部隊を跳ね飛ばして駆け出した。
敵に背を向け、小さな路地へ入る。敵の姿が見えなくなっても足は止めない。必ず追ってくるとすでに知っているためだ。
「待て! ロロノアァ!」
やはり来た。
小さな路地を抜けてさっきとは別の広い通りへ出る。
通行人が多い。騒ぎを知りながら逃げ出さず、刀を抜いて現れたゾロに驚いている様子だ。
その通りで足を止め、空から降ってくるボガードを待つ。
五メートルほどの距離を置いて着地。
再度の対峙は一般市民が多い場所でとなった。
「なぜ逃げる。なぜ部下を襲った。おまえはそんな男ではないと感じ取ったが」
「勝手なこと言ってくれるねぇ。おれを知らねぇおまえが、おれがどんな人間かを決めるなよ。前々からおまえら海軍には言いたいことがあったんだ」
右手の刀の切っ先を突きつけ、にやりと笑みを浮かべて言う。
不遜な態度。
自信はないはず。しかし揺らぎはない。
「頭が高ぇってな」
「おまえも同じだろう……!」
少しはやる気になったらしい。ボガードの表情がわずかに変わった。
再びゾロから襲い掛かる。
一番の目的は死なないこと。今回の作戦で彼とルフィだけが単独行動を行っている。危険は最も高くて、且つ方向音痴なので不測の事態も多く考えられる。我を出している場合ではない。一味にとって何が最善かを考え、行動する。今のゾロにならばできるはずだ。
方向音痴もきっと良い方向に働くだろうとキリも太鼓判を押していた。その際も軽口を叩き合って顔をしかめたが、そこまで言うならば望むところ。
できるだけ町を走って敵をかく乱してやる。
そんな考えで剣を打ち合わし、するりと力を抜いて傍を通り抜け、また駆け出す。
戦いたいのかそれとも逃げたいのかわからない姿勢と行動。
珍しくボガードが歯噛みした。
「一体なんのつもりだ。何を考えてそうしている!」
「さぁな。知りたかったら追って来い」
そう言ってゾロはまた別の路地へと入り込んだ。選んでいる訳ではなく、ただ目についた道に入っているだけ。そうしていれば迷うのも当然であった。
しかしこれでいいのだろう。
現にボガードは自身の部隊を置き去りにしている。単独でゾロより強いとはいえ、ガープの部隊全体を考えた時に決して良い行動とは思えず、状況が傾き始めていると予測する。
あとはゾロが死ななければ問題ない。
別の通りへ出てまた足を止めた。
ボガードはすぐに追いついてきて、再び上空から落下し、勢いそのままで切っ先を向けてくる。
「逃がさん!」
「三刀流――」
迷わず刀を構えて、体勢を整える。
逃げる素振りを見せながら迎撃の意志はある。
敵の動きに合わせて、瞬時に体が回転、強い風を生み出した。
「龍巻き!」
向かってくるボガードを迎撃する竜巻が起こり、その中へ彼が突っ込んでくる。
身を撫でる風が切り傷を生み出す。しかし軽傷に過ぎず、台風の目へ突入したためか、本来の破壊力は全く彼に届いていない。せいぜい服と頬をわずかに切り裂いたのみだ。
構えを変えて敵の攻撃を受ける。
甲高い金属音。すぐに跳ね飛ばして距離を取る。
今度はボガードから攻撃が繰り出された。
防御に努めていた先程とは違い、攻勢に出た彼の姿はまさしく異形。剣士であることは間違いないが並大抵の腕ではない。それは些細な仕草一つでわかった。
その刺突は撃ち出された銃弾の如く。
ゾロの防御を容易く掻い潜り、彼の左肩に鋭く突き刺さった。
「ぐおっ――!?」
速過ぎる。剃と同様、見切れなかった。
刺されてから抜くまでの所作も早く、油断がないのが恨めしい。肩にぽっかりと穴が開き、大量に血が流れてくる。それでも痛む挙動さえ許されない状況だ。
歯を食いしばり、痛みに耐えて刀を振るう。
これで心が折れないのも彼の強みだった。
「チィ。うおおおらァ!」
「凶暴な剣だ。よくもここまで――」
凄まじい猛攻が繰り広げられる。ゾロの刀が猛威を振るった。
金属音が連続し、通りに居る誰もが恐れおののいて、逃げ出す者や動けぬ者が多発する。
数え切れないほどの攻撃が襲い掛かり、尚もボガードは一太刀も受けずに受け流し続けた。
やはり強い。
偶発的に与えた軽傷以外は掠り傷一つつけられていないのだ。これが海軍本部の実力。これが、グランドラインのレベルなのは間違いない。
苦戦しているのだと感じる。その一方で嬉しく思いつつあった。
果てはまだ遠い。目指すべき位置は遥か彼方。
その苦難こそ自分が求めていた物ではなかったか。
ゾロは好戦的に笑い、攻防の刹那でボガードを戦慄させる。
「おい。おまえと世界一の剣豪、どっちが強いんだ」
「何?」
「おれはそれになりてぇんだよ」
強く刀を打ち合わせて後ろへ下がり、勢いをつけて敵へ突進する。
銜えた一本は使わず、二刀流にてゾロが滑るように地面を駆け抜けた。
「鷹波!」
這うように迫る斬撃の衝撃波。行動と共にゾロはボガードの傍を通り抜けて背後へ回った。
ボガードは刀を地面に突き立て、迫り来る衝撃波を受け止める。
攻撃の余波が消えた後、即座に剣を抜いて振り返った。
次の攻撃がすでに迫っていたのである。
「虎狩り!」
今度は三本の刀で襲われる。体に触れる寸でのところで防ぐも、力強さは異常だ。
斬られるというより殴り飛ばされる様相だった。
払いのけられたボガードの体は家屋の壁へぶつかり、止められることなくそこを打ち抜いた。壁が崩れて建物の中まで転がり込んでしまう。
ゾロは動きを止めて深く息を吐く。
攻撃から逃走、全てにおいて全力を出して動いている。感じる疲労は今までの比ではない。力を抜けば一瞬で死に至らしめられるため、常に意識を研ぎ澄ましていなければならなかった。
しかし動きを止められたのもほんの数秒。
崩れた壁の向こう側から何かが飛来する気配を感じ取って、反射的にゾロは刀を構えていた。刃にぶつかったのは目に見える衝撃。かまいたちではない、言わば刀から飛ぶ斬撃だ。
理解した頃には体が宙に浮いており、反対側の家屋へ突っ込む。
壁を壊してゾロも姿を消し、平静を保った状態で先にボガードが通りに戻ってきた。
不謹慎ながら楽しくなってきたのは彼も同じのようだ。
そのせいか、先の問いに対する答えが紡がれる。
「世界一の剣豪は私にも届かんだろう。だから世界一と言われている」
瓦礫を蹴り飛ばしてゾロが起き上がった。
防御はしたが受け止めきれず、余波を受けて頬と胸元に浅い切り傷ができている。痛みは大した物ではない。ただ、また新しい技を見たようで、そんなこともできるのかと感心した。
苦戦とあっても冷静なまま。ゾロも通りへ戻ってくる。
正面から対峙する。
どちらも意識は変わっていたらしい。
ゾロはふと口に銜えた刀を鞘に納めて、佇まいを直そうと首を回し始めた。
「それだけ知れりゃ十分だ。でなきゃ面白くねぇからな」
「大人しく投降しろ。今ならまだ間に合う」
「そう言われて大人しくする奴らだと思ってんのか? 諦めろ」
左腕を伸ばし、刀の切っ先を敵へ向ける。
その笑顔に迷いがないことは明白で、先程の戦慄は間違いではなかったと理解した。
彼を生かしておくのはまずい。
ボガードの意識もまた、研ぎ澄まされていく。
対峙する敵から感じる覇気はまるで、鬼神のそれ。今はまだ大したことがなくとも、今まで感じたことのない新たな可能性は、確実に海軍を脅かす物になるはずだった。
「そんな説得に乗るくれぇなら、最初から海賊になんざなってねぇよ」
「そうか……それもそうだった」
当初の作戦は覚えている。だがどうせ逃げられないのならば、少し遊ぶくらいはいいだろう。
ゾロは敢えて足を動かさなかった。
自身より格上、ボガードを目の前に、冷静に刀を構えたのである。
*
「ぶはぁっ!? ど、どうしてっ!」
港では、ヨサクとジョニーの二人がメリー号を奪い返すことに成功していた。
しかしなぜか現在、彼ら二人は海に突き落とされていて、出航準備を終えたメリー号に乗っているのはナミ一人。聞いていた作戦とは違う。なぜ彼女だけ海へ逃げようとしているのか。
海面から顔を出し、心底わからないと問うてみれば、見下ろしてくる彼女は笑顔で答えた。
「あいつらには前に言っておいたの。仲間になるわけじゃない、手を組むだけだって。確かに良い仕事してたけどこうなっちゃったら終わりでしょ。英雄ガープと対決なんて、嫌だもん」
「そ、そんな……あの人たちは、あんたを信じてたのに!」
「バカな奴ら。私がどんな人間かも知らないで置いといたんだから、自業自得よ」
吐き捨てるように冷たく言い切り、以前とはまるで違う眼差しで二人を見下ろす。
彼女は動き出した船で徐々に遠ざかっていった。
海に浸かる二人はそれを見ていることしかできない。悔しく思って、彼らの役に立てないことを激しく後悔しながら、笑顔で手を振るナミを見る他なかった。
「あいつらに会ったらよろしく言っといて。じゃあねー」
「くそぉ、戻って来い裏切者ォ!」
「兄貴たちに謝れェ!」
彼らの声をほとんど耳に入れず、ナミは船尾から船の先端まで歩く。
後方には慌ただしくなる町。前方には広い大海原。
船首の傍にある欄干へ手をついて、深く息を吐いた。
笑顔は保ったまま。
遠くを見て一人で言葉を吐き出す。
「これでもう終わり……うん、大丈夫。今まで通りに戻るだけだもん。今の私にならできる。一人でやるって決めたんだから」
自分に言い聞かせるように呟く。
そうしている間にも頭の中には彼らとの航海が浮かび上がった。
「いい奴らだったなぁ……」
初めて会ったのはオレンジの町。
ルフィを利用しようとして、結果的には失敗して、それでも彼らが戦っている隙にお宝を盗むことができた。バギーたちが敗北し、町を救うこともできた。
ブードルとシュシュの叫びも耳に残っている。あれは紛れもない感謝。
海賊に感謝するなんてありえない、と思ったものだ。
「今度会えたら、また仲間に誘ってくれるかな……はは、無理か。こんなことした後じゃ」
次に訪れたのは軍艦島。
アピスを拾ったことがきっかけで、短い期間とはいえ大冒険をした。初めての海戦。彼らに指示を出して嵐の中を航海。勝利と敗北。そして激しい後悔と迷い。
死ぬかもしれない状況を体験して原初の想いが蘇ってきた。
まだ死ぬ訳にはいかない。死にたくない。壊れていく船の中で嫌というほどそう思った。
その直後の休息で、生きててよかったと本当に思えたのだが、そんな自分に後悔したのも覚えている。自分だけが良い想いをしているようで、彼らの傍に居るのが怖いと思ったのだ。
思い出す度、じわりと目に涙が浮かんでくる。
ナミは決して後ろを振り返らず、まるでメリー号が前へ進むのを拒むかのように、ひどくゆっくりと島から離れながら、努めて笑顔を絶やさなかった。
「また……逢えるかなぁ」
シロップ村でのことを思い出す。
海賊と戦って、ウソップを仲間にして、ゴーイングメリー号を手に入れた。
あの時は戦闘に参加しなかったが、それも一つの作戦であって、敵からお宝を盗むのは自分のためであり、一味のためでもある。だからキリも戦闘に参加させなかったのだと知っている。
たった五人、一人増えて六人になって、あの集団の中で自分の役割が出来上がっていた。
それに気付いた時にはもう遅くて。
最後に思い出すのは、あの言葉。
黄金は笑わねぇ。
知っていたはずだった。紙幣も、硬貨も、財宝も宝石も、黄金も。どれだけ集めても笑うことはない。一人で片っ端から集めている日々の中で、とっくに知っていたはずだった。
本当に欲しかった物はこれなのかと。胸を突き刺す何かから逃れられなかった。
ウーナンが人生最後に遺した言葉が今でも頭から離れない。
ついにナミは涙を流して、俯いてしまう。意識しないのに手に力が入って拳が震え、唇を噛み、耐えようとするも今からでは止められず、体を小さくして肩が震え始めた。
「はやく、自由になりたいよ……ベルメールさん」
静かに涙を流し続けて、しばしの間、痛いほどの静寂に身を包まれる。
この場には一人。
堪えていた物が一気に溢れ出し、今だけは堪えずに放出する。彼らには見せないと決めていた。だから今になって表に出すことができたのだが、彼女の胸に残ったのは寂しさと切なさ。どうしようもない空虚感が大きな楔となって突き刺さっている。
涙は溢れ、止められない。
その時だった。
音を立てぬようゆっくり船室の扉が開けられ、中から人が出てくる。ナミは気付いておらず、足音を立てぬよう慎重に歩いたせいか、気付かれることなく距離が狭まった。
船首へ近付く階段を上り切った辺りで、初めて口が開けられる。
「ナミ」
背後から聞こえた声で瞬間的に涙が止まった。
咄嗟に濡れた頬を拭い、素早くスカートの下に隠した武器を取り出す。手の中にあったのは三節棍。慣れた手つきで組み立てて一本の棒とし、振り返って両手でそれを構えた。
しかしそこではすでにシルクが剣を構えて立っている。
真剣な表情、唇をきゅっと結んでいる。
今の今まで全く気付いていなくて、ナミは狼狽を隠せなかった。
「シルク……あんた、なんで」
「ナミの様子がおかしかったから。心配になって、ずっと見てたの」
「つけてきたってこと? フン、真面目なあんたにしてはらしくないわね」
「ねぇナミ。もう、やめよう。いつまでもこんなことしてたって、何も変わらないよ」
その言葉が何を意味しているのか、ナミにはわかる気がした。
武器を向け合っていることか、それとも彼女たちを欺いていたことか、船を奪ったことか。
なんにしても今更やめられるはずがない。
慣れた挙動で瞬く間に感情を押し殺したナミは、厳しい目でシルクを睨んだ。
「やめるって? 私が何をやめればいいのよ。泥棒? それともあんたたちを裏切ること?」
「ナミ……」
「バカにしないで。自分の生き方くらい、自分で決められる。ルフィだってそうでしょ? おじいさんの言う事も聞かずに自分勝手に生きて、自分のやりたいことをやろうとしてる。……私はずっとこうしてきたのよ。嘘ついて、裏切って。誰も頼らずに一人で生きてきた。そうやってずっと戦ってきた……こうするしかないのよっ」
悲しげな顔のシルクを見ていると、押し殺したはずの感情が沸き上がってくる。
なんとか追い出さなければ。そう思う一方で、メリー号はどんどん島を離れており、今からでは島へ戻ることもできないし、もしシルクを海へ突き落せば、能力者となった彼女は泳げずに沈んでしまう。その行く末は溺死のみ。決断できないのもそこにある。
もしもの時はと考えていたはずなのに、今の自分は彼女を殺せない。
それが悲しくて、悔しかった。
ではどうすればいいかが考えられず。動揺はいつまで経っても止まらない。棒を持つ手が震えていて、おそらく襲い掛かられれば何もできないのもわかっている。
今まではどんな状況でも出来ていたことが、ここでは出来ない。
なぜか感情を操作しきれなくなっていた。
胸が熱くなって、上手く言葉を出せなくなっていた。
「私はっ――!」
声を大きくするが何も言えない。
視線を外してナミが俯いてしまって、重苦しい沈黙が広がる。
少し間はできたが、彼女の姿を見るのに耐えかねたのか、シルクが口を開いた。
「私、ナミのこと好きだよ。みんなもきっとそう。本当に仲間になって欲しいって思ってる」
「そんなこと……」
「もう、嘘つくのやめようよ。私、本当のナミと話してみたい」
カランと軽い音がした。反応してナミがわずかに視線を上げると、剣が捨てられている。
素手になったシルクは戦う素振りもなく、そのポーズすら捨て、ふわりとナミへ微笑みかけた。
身を守る術を捨て、無防備な状態で向かい合っているのだ。
その微笑みが、仕草がまた、彼女の心を苛む。迷いを大きくしてしまう。
「辛い時は言っていいんだよ。私だけじゃなくて、みんな受け止めてくれるから」
再び涙が溢れ出した時、ナミの足から力が抜けた。
その場へ崩れ落ちて動けなくなり、棒も思わず捨ててしまって、両手で顔を覆ってしまう。
決断できないと、そう自覚したようだ。
もはや涙が止められない。感情の波が押し寄せて溺れそうになっている。旅に出てからの八年間、ずっと押し殺していた物が弾き出されて、自分自身でも訳が分からなくなっていた。
ただ混乱して、涙がとめどなく溢れてくる。
シルクはそんな彼女へ歩み寄った。
傍へ膝をついて、肩へそっと手を置き、笑みを絶やさず優しく声をかける。
「私、もう、どうしたらいいのか……!」
「大丈夫。みんなで考えれば、きっと良い道も見つかると思うから」
子供のように泣きじゃくる彼女を抱きしめてやる。
ずっと不安に思っていたのだろう。いつからか見られた変化は彼女を苛み続けていたようで、一人で戦っていたに違いない。もっと早く気付いていればと今更ながらに思う。
しっかり捕まえた今、離してしまわないように強く抱きしめた。
まだ間に合う。今からだってやり直せるはずだ。
シルクはナミの頭を撫でてやり、母親か姉のように彼女へ声をかけ続ける。
やっと彼女と仲間になれそうな気がした。
その手掛かりを手に入れ、共に歩むためにも話さなければならないことがたくさんあるだろう。でも今だけは言葉も必要ない。落ち着けるまでいつまでも付き合うつもりだから。
抱き合ったまま、静かな時を過ごす。
瞬間、船がぐらりと揺れた。
平穏な海原での突然の変化にシルクの表情が変わり、ナミもハッと我に返る。
何があったのだと辺りを見回せば、メリー号のすぐ傍から水を押し上げて大きな何かが浮上してくる。水柱を上げて現れたのは、海王類に匹敵する大型サイズ、巨大なパンダであった。
シルクは目を点にして驚き、気付いたナミも涙を忘れる。
可愛らしい顔ながら圧倒的なサイズのパンダは、興味津々に船上を眺めていた。