ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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“鷹の目”

 深く息を吸い、深く吐く。

 何度か繰り返せば体の中にある熱が落ち着き、消え去る訳でもないが、冷静な思考が戻ってくるようだ。気を抜けない状況ならば尚のこと冷静さが必要になるだろう。手放す訳にはいかない。

 

 肩に傷を負っていた。応急処置を行っているとはいえ完治していない状態。不安要素になる可能性も高くて、出来れば万全の状態で挑みたかったところだが、確かめるように腕を動かしてみると意外にも怪我のことなど忘れられるほど痛みもなく動いた。

 

 この間だけでいい。

 勝負の間だけこのままでいてくれれば十分だ。

 

 視線を上げ、敵を見据える。

 ミホークはナイフを掲げて構え、その時を待っている。すでに決闘は始まっていると言って過言でなかった。互いに武器を構え、睨み合い、出方を伺っている。たとえゾロが隙だらけな姿で深呼吸をしていたとして、それは相手にとって大した問題ではないのだ。

 

 一瞬でも気を抜けばその瞬間に敗北が来る。

 覚悟を決め、ゾロは自ら動き出す。

 小細工を用いず真っ向から接近し、右手の刀を思い切り振り切った。ミホークも合わせるように右手を動かし、小さなナイフが刀とぶつかり、刀身同士が硬い音を発する。

 力を込めた一撃があっさり軌道を変えられてしまって、ゾロはその瞬間に敵の実力を理解した。

 

 (受け流された――!)

 

 地面を強く踏みしめ、次いで左手の刀を振るう。

 常人では腕一本で受け止めきれないほどの力。鍛えられた筋力から来るその一撃は非常に重く、全身の使い方も堂に入り、技として昇華された上で敵に迫った。

 しかし、受け流される。

 ギャンッと独特の鈍い音を発し、またもゾロの刃は空を斬る仕草となった。

 

 敵には届かない。自身が標的と定めて狙っていた相手には、欠片も。

 強く歯噛みし、ゾロは更なる猛攻へ出た。

 

 「ウォオオアァッ!」

 

 両手、口、三本の刀による連続攻撃。一撃でも受ければ斬り飛ばされる強力な一撃。それを一太刀も逃さずミホークが防ぎ、受け流していく。

 その攻防、もはやコックたちに理解できる範疇ではない。

 一瞬の瞬きさえ許さない素早い動きが連続し、受けられても気にせず攻め続ける。

 ゾロの目からは闘志が消えていなかった。

 

 攻撃は確かに届いていない。だが攻め手を緩めることは彼の流儀に反する。

 攻めの姿勢、豪剣の使い手。

 自らの得手を知るだけにそれを揺るがさず、己の全力を注ぎこんだ。勝てないと知っているからと言って勝利を捨てた訳ではない。彼は本気で勝つために己の刀に信頼を預けた。

 攻めて攻めて攻め続ける。それこそが勝利を求める彼が選んだ道である。

 

 どれだけ打ち込み、隙を窺おうともミホークの動きに隙は生まれない。見事な手腕で彼の攻撃を受け流し続け、尚且つ余裕を崩すことさえできなかった。

 それでも、己の全てをぶつけた訳ではない。

 剣の鋭さは増すばかりだ。

 

 「なんと凶暴な剣か……」

 

 呟くミホークは一歩たりともその場を動いていない。右腕だけを動かし、それどころか足を動かす素振りさえなかった。

 動かずとも勝てると言うことか。

 そうと知って歯噛みするのはゾロではなく、彼の強さをよく知るヨサクだった。

 

 兄貴と仰ぎ見るゾロの強さはよく知っている。剣士としてはイーストブルーでナンバーワンとすら思っており、彼が誰かに負けることなどあり得ないと思っていた。

 そんな彼にとってその光景は悪い夢を見ているようで。

 意識せずとも全身に力が入り、応援する気持ちが言葉となって出そうなのを必死に堪える。

 ゾロの勝利を望むからこそ、些細な邪魔さえしたくない。この場における声援など意味はなく、きっとゾロの集中にとって悪影響になってしまう。だから一切声を出さなかった。両手の拳を震えるほど握り、ぐっと力が入った立ち姿で、胸が張り裂けそうな想いで見つめていた。

 

 ルフィもまた声を出さずにじっと堪えている。

 自分は何もせず、ただ見ているだけというのがひどく辛い。自分で戦うのがどれほど楽か、今になって理解した。これならば自分で体を動かしている方がよっぽど居心地が良いだろう。

 ゾロを失いたくはない。だが止めることはできなかった。

 だから負けるなと必死に見つめ、戦いを最後まで見守ることしかできそうになかった。

 

 一際強く刀身を叩きつけ、受け流された直後に後ろへ跳ぶ。

 乱れかけた呼吸を深く息を吸い、吐くことで無理やり落ち着かせ、視線を落として思考する。勝負がどちらの分にあるかなど火を見るより明らかだ。

 

 (なんてやさしい剣だ。どこから打ち込んでも軽く受け流しやがる。こんなにやさしい剣、今まで見たこともねぇ……)

 

 体を止める時間は一秒もあり得ない。

 即座に顔を上げて駆け出し、敵を鋭く睨んで刀を握り直した。

 

 (迷うなッ!)

 

 突きを放って受け流され、体勢を崩しながらもさらに前へ出る。

 刀の攻撃範囲を無視した足運び。流石にミホークの表情が変わった。今まで荒々しいとはいえ剣術を用いていた彼の突然の行動は、剣術の常識を無視しようとしている。同時に一歩踏み込んだそこは、ミホークの攻撃に晒される危険な位置でもあった。

 気にせず首を狙って刀を振るう。

 突然の行動にも動じず、ミホークは後ろへ足を運ぶことで攻撃を受け流し、無傷で彼との距離を保った。状況を変えようとする行動にしては考えが浅すぎると思考して。

 

 ゾロはそれ以上の深追いをしない。足を後ろへ運んだミホークを確認した後、両腕を交差させて構え、三刀流の技を放とうとした。

 剣術の距離感を作り出されたのは望むところ。

 待っていたその距離を目に、ゾロが地面を蹴って前へ飛び出した。

 

 「鬼……斬りィ!」

 

 三本の刀による強襲。突進力だけで言えば彼の技でも随一。その構えを見たヨサクはよしっと拳を振って喜びを露わに、止められる訳がないと勝利を確信する。

 

 一方、ミホークはあくまで冷静だった。

 初めて膝を曲げ、両足でその場に踏ん張り、静かで鋭い突きを放つ。

 

 接触の音は一度。

 三刀流で押し切るその技はたった一撃でミホークに止められて、ピクリとも動けなくなった。

 

 「う、嘘だろっ!? 兄貴の鬼斬りを止める奴なんて居るはずが……!」

 

 ヨサクが驚愕するのも無理はない。ゾロの鬼斬りは己が筋力に任せ、人体すら軽々と斬り飛ばす必殺の一撃。その突進力を止めた人間は今まで一人としていない。

 ただ一人、鷹の目のミホークを除いては。

 

 完璧に止められたことに、しかしゾロは慌ててはいなかった。

 思考は冷静なまま。それさえもあらかじめ考慮している。

 腕を振って強引に鍔迫り合いを終了させ、たたらを踏んで後ろに下がり、冷静に考える。

 

 この男は技術だけではない。細身に見えるが常人ならざる筋力を持ち、イーストブルーではお目にかかれない技を体得し、どんな攻撃にも怯えない頑強な精神力を持っている。

 比喩ではなく心技体全てが揃っていた。

 

 剣士としてあまりに完成された姿。

 まさに究極。この男こそ最強の名に相応しい。

 

 だからこそ負けたくなかった。

 

 「相手がどうであれ、おれの剣は豪剣……押し通るッ!」

 「焦るあまり己すら失くしたか。柔なき剣に強さなどない」

 

 再び真正面から襲い掛かる。恐れはない。今はただ勝利しか見えなかった。

 

 「鷹波!」

 

 素早い剣の挙動から、地を這うような衝撃波が駆け抜ける。それをしかと見切ってミホークはナイフを振るい、一瞬の動作で三度の斬撃を放ち、正面から打ち破った。

 飛ぶような斬撃は、イーストブルーでは見たことがない。

 意に介さずゾロが続ける。

 最初からそうだと思っていれば驚きも少ない。防がれるのは当たり前だ。

 

 今度は直接ミホークへ斬りかかり、数度刃を打ち合わせた。

 それでも彼の足を動かすことさえできずに、思考を変えて至近距離でぐるりと体を回転させる。何をするのだと一時はわからなかったが、彼の剣から生み出される風を感じて眉が動いた。

 

 力の豪剣ではなく、全身を使ったそれは“柔”の剣にも等しい。

 わずかに驚かされるものの、隙を生み出すほどではなかったようだ。

 

 「龍巻き!」

 

 やはり動かず、回避はなし。代わりに素早くナイフを振った。

 迫り来る旋風は、確かにミホークによって切り捨てられ、服の切れ端にすら届くことなく消えてしまう。否、力ずくでかき消されたのだ。

 ヨサクは驚愕し、開いた口が塞がらない。

 尚もゾロは前へ出た。

 

 二本の刀を背に背負うような構えで、力を溜めた後に三本の刀を爪の如く、斬撃を放つ。相手に届けば獣に切り捨てられたかのような傷跡ができるはずだった。

 それも、敵に届けばの話。

 油断なく向かってくるゾロを目にして、初めてミホークが攻勢に出た。

 

 「気概は認めよう。だが甘い」

 「虎狩り――!」

 

 一閃。ゾロの胸にナイフが突き刺さった。

 油断したつもりはない。片時もミホークから目を離した覚えがないまま、気付けば刺されていた。彼の動きが速過ぎたのである。とてもではないが常人に反応できる速度ではなかった。

 

 ヨサクがあっと声を漏らした時、力が抜けた両腕が攻撃をせずにだらりと落ちる。

 つま先立ちになり、ゾロは胸に刀身を埋めたままで立ち尽くした。

 痛みがじんわり広がる。血が腹から込み上げてくるのを感じて、刀を銜えたままだが、我慢できずに吐血した。白い鞘が赤く濡れて、ゆっくりと床へ滴り落ちる。

 

 決着だと認めさせるには十分な一撃だっただろう。しかしゾロは退こうとしなかった。胸にナイフを埋め込み、痛みを感じて、勝ち目がないと知りながら尚も前へ進む力を込める。

 異様な動きにミホークの眉が動いた。

 彼自身は全く動かぬまま、思わずゾロへと問うていた。

 

 「なぜ退かん。このまま心臓を貫かれたいのか」

 「さぁね……なぜかなんて、おれにもわからねぇよ」

 「退かねば死ぬぞ」

 「ああ、そうだな……だが、ここを一歩でも退いちまったら、何か大事な、今までの誓いとか約束とか、色んなもんがへし折れて、もう二度とここには帰って来れねぇ気がする」

 「そう、それが敗北だ」

 

 ミホークの言葉を受け、にぃっとゾロが笑った。

 血を吐き、刃を受け、それでも尚心が折れないのか。

 その姿は確かにミホークの記憶へと刻み込まれただろう。

 

 「だったら尚更退けねぇな」

 「死んでもか」

 

 問うてみたくなった。だから言葉を紡いだのである。

 すると彼は、一切の迷いを捨ててはっきりと答えを出した。

 

 「死んだ方がマシだ」

 

 尋常ではない覚悟と決断。誰にでもできることではない。

 驚嘆、そして好奇心。

 ナイフが抜け、ミホークは自ら退いた。

 数歩後ろへ下がってゾロとの距離を置き、血に濡れたナイフを手に静かに問う。

 

 いつしか場は彼らの姿に惹き込まれていた。

 世界最強の剣士が自ら退くなど誰が想像していただろう。

 その場に居た全員が固唾を飲んで決闘を見守り、その戦いの果てを目撃しようとしている。

 

 「敗北より死を取るか……いいだろう。小僧、名乗ってみよ」

 

 ゾロは再び構えを取り、力を失わない声で返す。

 

 「ロロノア・ゾロ」

 「久しく見ぬ強者よ、覚えておこう。貴様におもちゃでは不釣り合いだったな。剣士たる礼儀をもって、世界最強のこの黒刀“夜”で沈めてやる」

 

 そう言ってミホークはナイフを仕舞い、代わりに背中の長剣を抜いた。

 ガレオン船を五十隻両断した武器。それを見るや否や周囲からどよめきが聞こえるが、ゾロだけは動揺することもなく。ただ静かに、笑った。

 

 心は微塵も波立っていない。まるで澄んだ水面。

 一点の曇りもなく心は穏やかで、いつしか敵意は消えていき。ミホークを見据え、それでいて殺気は感じず、刀を下ろすこともない。彼らしからぬ静かな構えだった。

 ただ己の心臓の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。

 ひどく、落ち着いた。

 

 別人を見るかのような様相だった。

 今だけは死が怖くない。恐ろしい物など一つもなかった。

 ゾロは呼吸を小さく、自分でも気付かぬ内、無意識に心中で考え事をしていたようだ。

 

 (ここで失敗すれば、おれは死ぬ。あいつが居りゃあ止めてたか? 一味の存続を考える奴だ。馬鹿なことしてねぇでさっさと逃げろくらいは言うかもしれねぇ)

 

 考えながら気付く。きっと一人でこの男に出会っていればこんなことも考えなかった。気付きもしなかっただろう。穏やかな心は一人ではなかったが故に手に入れた物だ。

 今の彼には仲間が居て、我が強く戦いを選んだ自分と、申し訳ないと思う自分が居る。

 

 後悔はない。死ぬつもりもない。

 勝って勝利を伝えなければならない相手が居る。現世にも、この世ではないどこかにも。

 負けるつもりはなかった。

 

 (いいや、ルフィが許したんだ。ぶつくさ言いながら止めなかっただろうな……だが、ここで死ぬのは、約束を違えることになる)

 

 敗北よりも死を選ぶ。だが仲間のために死ぬ訳にはいかない。

 ならば勝利以外はあり得ない選択だ。

 

 もはや明鏡止水の極致に立って、彼の技は現段階での最高峰へ昇り詰める。

 覚悟はできた。どんな結果であれ、これが最後だと。

 

 両手で二本の刀を回し、予備動作に入った。ミホークは剣を構えて攻撃を待つ。逃げるよりも反撃を選び、正面から受けるつもりらしい。

 分かり易い勝負は望むところだ。

 全員が固唾を飲んで見守る中、ゾロが動き出した。

 

 「三刀流奥義!」

 

 回転する刀を持ち、全力で地面を蹴って前へ駆ける。

 勝負は一瞬で決まる。

 全身全霊をその一撃に込め、最強に勝つため、前へ跳んだ。

 

 「三・千・世・界‼」

 

 そうして、交差する。

 結果は一目でわかる物となって現れた。

 

 ゾロが両手に持つ刀は、刃を切り捨てられ、無残な姿となった刀身が宙を舞っている。口に銜える一本は無事だが、確かに相手へ届いたはずの攻撃はあっさり受け流されており、防御ばかりか、刹那の攻防でゾロの腹が一文字に切り裂かれていた。

 ミホークは無傷。対するゾロは腹から出る大量の血をばら撒いた。

 

 驚きはしない。冷静に両手の柄を捨て、口に銜えていた一本を手にする。

 白い柄のそれのみを鞘に戻し、キンッと納刀。

 すでにミホークはとどめを刺すため、背後で振り向こうとしていた。

 

 (負けた……おれが負けるなんて、考えたことなかったな。これが世界最強の剣か)

 

 離さぬようにしっかり左手に刀を持ち、両腕を広げて振り返る。ちょうどミホークへ体の前面を差し出すような恰好だ。もはや刀を抜く意志すら見せていない。

 完全に振り返った後でミホークが止まり、訝しげな目を向ける。

 

 「何を」

 「背中の傷は、剣士の恥だ」

 

 悔しさを滲ませるでもなく、晴れ晴れとした笑顔でそう言った。

 ミホークもまた確かな笑みを浮かべ、彼を認めて剣を振るう。

 

 「見事」

 

 袈裟切りに左胸から刃が入り、右の脇腹へと駆けていく。

 強かな一撃は一瞬。

 更なる鮮血が舞い、衝撃でゾロが天を仰いだ。

 

 壮絶な一撃である。

 誰もが目を見張り、その瞬間から目が離せなかった。

 ゾロの背が地面に触れた時、耐え切れなくなってルフィが叫ぶ。続いてヨサクが溢れ出る涙を堪え切れず、胸に突き刺さる喪失感に苛まれて叫んだ。

 

 「ゾロォォォォッ!?」

 「あ、兄貴ィィィッ!?」

 

 血ぶりをして、冷徹に剣が納められる。

 再び黒刀を背負った時、ミホークは振り返らずに歩き出し、自らの船へと向かい始めた。

 

 「生き急ぐな。若き力よ――」

 「おまえェ! よくもゾロをッ!」

 

 怒りに支配された様子のルフィが駆け出す。ゾロへ駆け寄るより先、ミホークを目掛けて足を運んで、痛くなるほど力強く拳を握った。それを知っていながらミホークは前を見ている。

 ヨサクも我慢できずにすぐゾロの下へ駆け寄った。

 

 場は騒然としている。

 動揺する者が多くなり、抑え切れないほどどよめきが起こっているのも不思議ではない。

 その光景を見ながら、煙草を噛み潰したサンジは苛立った様子で呟いていた。

 

 「どうかしてやがるぜ……負けるのを知っててなんで挑む。野望を捨てりゃあ、まだ生きれた。それくらいの頭はあったはずだろ。死ぬくらいなら、野望を捨てろよ」

 

 わなわなと震え、耐え切れなくなって叫ぶ。

 彼もまたゾロの姿に平静ではいられなくなっていたらしい。思いの丈をぶつけようとしていた。

 

 「簡単だろッ! 野望を捨てるくらい!」

 「うわああぁぁ~っ!」

 

 拳を振りかぶってルフィが跳び、背後からミホークへと襲い掛かった。だが後ろを見ずとも見えているらしい。伸ばされたパンチは一歩を横にずれるだけで回避され、攻撃はヒレへ突き刺さる。

 その刺さった腕を起点に体を引き寄せ、左の拳を振り上げながら接近していく。

 今度こそミホークは振り返り、鋭い眼差しでルフィを捉えた。

 

 「麦わらの男。貴様もまた、よくぞ見届けた」

 「おおおおぉぉっ!」

 

 接近と同時に殴りかかるが、軽く後ろへ跳ぶことで回避された。ルフィは勢いよく床へ突っ込んだ後、木目のそこが壊れて転げ回る。

 すぐに体勢を立て直し、再び攻撃に転じようとした折。

 ミホークは自身の船へ振り返りながら呟いた。

 

 「安心しろ。あの男はまだ生かしてある」

 「えっ……!?」

 

 確かに聞いたその言葉を信じ、咄嗟にルフィが振り返る。すでにヨサクがゾロの下へと到着していて、床に膝をついて彼の状態を見ようとしていたところだ。

 激しく咳き込んで血が吐き出される。

 ゾロはまだ生きていた。

 

 「ゾロッ!」

 「兄貴ィ! うぐっ、あっしは今、ほんとに死んじまったのかと……!」

 「良い物を見せてもらった。貴様が死ぬにはまだ早い」

 

 数歩進んでヒレの縁に立ち、ミホークは背を向けたまま語る。

 決して大きな声ではないとはいえ、静まり返った辺りではひどく大きく聞こえた。

 ルフィはその場を動かず、ふとミホークの背を見てその言葉を耳にする。

 

 「我が名はジュラキュール・ミホーク。おれは先、幾何月でもこの最強の座にておまえを待つ」

 

 細身であるが、それとは関係ない。

 あまりに雄大で、あまりに大きな背。

 ゾロだけでなくルフィもまた、その背を見て感じ入る物があったようだ。

 

 「己を知り、世界を知り、強くなれ。そして猛ける己の心力挿して、この剣を超えてみよ」

 

 不思議と彼が話すだけで大気が震える。

 面白い物を見た。これはその礼ということだろう。

 腕を組んで海を見たミホークは、己が背に届かぬ強者へ向けて言葉を放つ。

 

 「このおれを超えてみよ! ロロノア‼」

 

 重苦しい沈黙が辺りへ広がりつつある中で、その声が他の何よりも増して存在感を放った。

 世界最強の剣を見せ、その男がたった一人の若者へ声を投げかけている。珍しい、というよりまずあり得ない光景を目の当たりにしていた。

 息を呑んだ面々はもはや身じろぎ一つできずに彼の背を見つめていた。

 

 その場を去る前、自身の小舟に乗ろうとしたミホークはちらりとルフィに目をやる。

 見覚えのある帽子が気になった。

 おそらくゾロの仲間だろうと思うからこそ、敢えて声をかけて尋ねてみる。まるでヒントを与えるかのようで、分かりにくいながら、彼にも期待をかける素振りだった。

 

 「小僧。その帽子は赤髪の物か?」

 「え? おまえ、シャンクスのこと知ってんのか」

 「やはりそうか。貴様は何を目指す」

 「海賊王」

 「険しき道ぞ。このおれを超えることよりもな」

 「知らねぇよ。これからなるんだから」

 

 わずかにほくそ笑み、視線を切ってミホークが小舟へ乗り込んだ。

 ちょうどその時、ヨサクが狼狽する声が聞こえて動きが止まる。

 

 「あ、兄貴! 動いちゃだめだ!」

 

 慌ててルフィが振り返ればゾロが手を動かし、刀を抜いて、切っ先を天に向けている。

 生きてはいる。だが意識を保つのもギリギリで、気絶していないだけでも異常な状態だ。本来であれば死んでいたとしてもおかしくない深手であり、もう動けるはずがなかった。

 それなのにゾロは動こうとする。

 視界は霞んで何も見えない。頭上にある青い空さえ映っていなかった。

 そんな状態で、彼はルフィを求めていた。

 

 「ルフィ……居るか」

 「あ、ああ、いるぞ。ここにいる」

 「聞こえ、てるか」

 「ああ、聞こえてる。大丈夫だ」

 

 少し離れた位置に座ったままルフィが答えた。

 消え入りそうな声。今すぐに逝ってもおかしくないと思ってしまう。

 喋るだけでも極限状態の体にとっては大きなダメージになるはず。ヨサクは必死に止めようとするのだが、そのヨサクをルフィが視線だけで押し留め、好きなように喋らせてやる。

 

 息も絶え絶えに、普段の声量はない。しかし辺りの静けさが彼の声を助けるようで、気を失いそうなギリギリの状態で、天へ伸ばした刀は全く揺れずにその場に在る。

 壮絶な姿はコックたちの血相を変えさせ、狂気さえ見出す姿に固唾を飲んで見守った。

 

 ぽつぽつと、一言ずつ、ゆっくり語られる。

 話す彼と同じく、ルフィも必死にその声を聞いた。

 

 「不安に、させたかよ。おれが、世界一の剣豪にくらいならねぇと……おまえが困るんだよな」

 「兄貴ッ……!」

 

 大粒の涙を流すヨサクが見守ることにも気付けず、途切れそうになる呼吸を己の力で引き止め、ぐっと歯を食いしばる。それだけで喉を血が駆け上がってきたが、気合いで呑み込んだ。

 

 「おれはっ……おれはもう……!」

 

 ほんの一瞬、体に自由が戻る。

 なぜかはわからない。痛みを忘れ、胸が熱くなり、こぼれる涙を抑えようと左手を顔へ伸ばす。しかしどうやら止めることには失敗してしまったようだ。

 緊張から解き放たれた感情が一気に押し寄せ、溢れ出た涙をそのままに、彼は叫んだ。

 

 「二度と敗けねぇから‼」

 

 空まで響く声は、確かにその場の全員が耳にする。

 ルフィは静かにその言葉を受け止め、ミホークはわずかに口角を上げ、サンジは、何を想うのか呆然とした表情で聞いていた。

 ゾロの叫びは誓いとなって、己が船長と認める男へ伝えられる。

 

 「あいつに勝って、大剣豪になる日まで! 絶対にもう……おれは敗けねェ!」

 

 聞いている内からルフィは笑顔になっていき、終わる頃にはくしゃりと笑っていた。本当に嬉しそうな、心からの笑顔を浮かべて肩を揺らす。

 それだけはわかったのかもしれない。

 流れた涙はそのままに、ゾロの声色は多少変化していた。

 

 「文句あるか、海賊王」

 「しししし。ない」

 

 端的に告げて答えとする。

 それ以上は限界だったのか、ゆっくり腕を下ろした後でゾロは気を失ってしまい、ヨサクが慌ててコックたちを呼ぶ。それだけ話せたのが異常なのだ。放っておけばあっさり死ぬ。

 

 ヒレの上が騒がしくなる頃、小舟に乗ったミホークはその場を離れようとしていた。

 どこからやってきて、どこへ行くともしれないものの、振り返ったルフィを見て小舟に立って声をかける。その鋭い眼差しには幾ばくかのやさしさも見えていた気がした。

 

 「いいチームだ。また会いたいものだ、おまえたちとは」

 「あ、おい。おまえシャンクスの知り合いなんだろ。シャンクスはどこに居るんだ?」

 「まだおまえたちには早い話だ。が、覚悟は見せてもらった。教えてもよかろう」

 

 腕を組んで真っ直ぐ見据え、ミホークからルフィへ伝えられる。

 

 「新世界」

 「シン、セカイ……?」

 「グランドラインの後半をそう呼ぶ。先に行って待つ。おまえたちも必ず来い」

 「おう!」

 

 ゾロの治療のため慌ただしくなるバラティエを離れ、ミホークはその場を去った。

 仲間を心配する気はあるが、誓いを立てた彼が死ぬはずないと思っている。そのためルフィはミホークから聞かされた言葉を脳内で反芻し、まだ見ぬ海に期待をかけた。

 

 新世界。

 その言葉は彼の中に深く刻まれ、きっとシャンクスとの再会の地になるだろうと想像する。

 自分たちよりよほど強い人間を見たばかり。

 海の果ては遠く、冒険はまだ始まってさえいないのかもしれない。

 全ては、グランドラインに立ってから。

 

 振り返ったルフィもゾロを心配して彼の下へ駆け寄り、騒ぎの中心に突入していく。

 

 一度に色々な出来事が起こり、彼らは混乱し切っていたのだろう。

 艦隊の全滅。

 世界一の剣豪の一騎討ち。

 そして命懸けで啖呵を切ったゾロの姿。

 様々なことが一気に起こり過ぎた。

 

 船を斬られたクリーク海賊団がどうなったかを調べる様子もなく、まだ彼らは興奮冷めやらぬ面持ちで怒号を放ち、治療と感想を言い合うので精いっぱいだった。

 


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