寒々しい空に月と星がよく映える。
草木も眠る丑三つ時、されど昭武は眠る気になれずに空を見上げていた。
(利害なしで桜夜がいて欲しい理由。……まとめきれないな)
長堯に言われた言葉が未だ昭武の中に止まっている。
やけに仰々しかったが、長堯はつまるところ「桜夜に対して気持ちも示せ」と言っていたのだ。
昭武は言われた通り、理由を考え始めた。すると、いつの間にかこの時間になってしまっていたのだ。
「……こうまで、オレはあいつのことが好きだったのかね。一度、気づいてしまうと面映ゆい物があるな」
ついに昭武は苦笑いを浮かべてしまう。
まさか事実上一代で北陸の雄に成り上がった自分が一人の少女にこうまで振り回されるとは思わなかったのだ。
ふと目を閉じれば、桜夜と共に戦った日々が蘇ってくる。
熊野家は昭武や雷源、井ノ口をはじめとする豪傑たちが集う家だった。彼らの中には破天荒な者も多く、緒戦は自然と苛烈なものとなっていく。そんな中、異彩を放つのが桜夜だった。
豪傑とは決して言えない、か弱い彼女だが、それでも必死に豪傑たちの中に紛れて戦い抜くその姿は昭武にはひどく眩しいものに思えたのだ。
(仮にオレが桜夜と同じ立場についたのなら、オレはきっとどこかで諦めてしまうだろうな。そんなに、オレの心は強くはできていないから)
かくして、いつの間にか昭武はそんな桜夜から目を離せなくなっていた。
烏滸がましくも守ってやりたい、もっと隣で見ていたいと強く思うようになっていた。
気づかないようにしていたのは、ただ照れ臭かったからなのかもしれない。
「はは、これじゃオレがただのガキみたいじゃないか」
事実、ガキである。少なくとも雷源や長堯が今の昭武を見れば、そう断じる。長堯に至ってはそう断じた上でさらに正面から向き合わざるを得ないように仕向けていた。
「行こうか、あいつのところに。気づいた以上、見過ごせない。折角のこの思いだ。鮮度を保ったまま届けてやろうじゃないか」
昭武は馬上にまたがり駆けた。
行き先は松倉の町の旧琴平宗方邸。今現在では、桜夜と宗晴の別邸として扱われるところであった。
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「よう、そろそろ始末は着いたか? あれから一月だ。いい加減余裕ができただろ?」
「ああ。そろそろ、というよりもあの戦いの後処理は一週間前に終わっているとも。……ちょうど暇していたところだ。呑むか?」
「ははっ、お前はいつも用意がいいな。んじゃご相伴に預かるぜ」
鯨海を臨む七尾城の天守で光教と穂高が美酒を酌み交わしていた。
二人が顔を合わせるのは三週間ぶりである。
光教は大戦の事後処理ばかりしており、穂高と遊んでいる暇などなかったのだ。
「そういえば、お前の方の仕事は終わらせたか?」
とはいえ、穂高をそのまま遊ばせておくほど能登の人的資源は潤沢ではない。穂高もまた一仕事任されていた。
「終わらせた。つーか悪趣味が過ぎるだろ、渡。普通、俺っちをあそこに派遣するか?むちゃくちゃ居心地悪かったぞ」
「仕方ないだろう。治政ができる者は全て後処理に使わざるを得なかった。恨むなら自分の脳筋ぶりを恨め。……それで結局、どうなった?」
「ああ、それな。流石はお前の策ってとこだ。利害について敏感なはずのあいつですら二つ返事で頷いたよ。精鋭騎兵を二千騎出してくれるらしい」
「む。やはり長尾景虎とは違って甘くはないか……」
穂高の報告を聞いて光教は表情を曇らせる。難しいとは前々から思っていたが、想定以上だった。
「ん?足りなかったか?」
「ああ。正直なところ、四千は欲しかった。いや、あの部隊が本当に来るのであれば最低限の働きは期待できるが、この場合は質より量が欲しかった」
「んー、まああいつだからなあ。無駄なことをしたがらない。ましてあんな辺鄙な場所だぜ。一度通ったから分かるが、あそこに軍を通させるなんて絶対嫌がるに決まってる」
「伝聞でしか聞いていないが、それほどの場所なのか?あの山道は」
「ああ。多分あそこが日ノ本一の険路だな。普通に行軍するだけで何人か滑落するようなとこだし。多分、あそこを無事に通り抜けただけで史に残るぜ」
あっさりととんでもないことを感想を述べる穂高。だが、その語り口がかえって真実味を帯びていた。
なんとも言えない微妙な空気になったので、両者とも酒をあおる。
酒は舌を円滑にする。ましてや話好きの穂高がいるのだ。そう沈黙は長く続かない。
「そういえば、あの娘はどうなった? ほら、俺っちが三週間前に推挙した浪人。結構頭良さそうだったから推挙したんだが……」
この酒の席から一月前のことだ。
穂高のもとを訪ねてきた少女がいた。
名を扇と云い、顔立ちが整っていることは勿論、腰よりも長く伸ばされた流麗な濡羽色の髪に
普通ならば、こんな怪しい人物にまともに取り合おうとはしないだろう。だが、人との距離を基本的に詰めたがる穂高は彼女と語らい、そののち数日間自らの祐筆として用いてその才を認めて推挙したのである。
「今の能登には俺っちや頼廉のおっさんとか長家の棟梁のような一軍の指揮を任せられる奴がいるし教連姉妹はお前の策の駒としては充分だろう。統治は広幸のおっさんがいればいい。だが、肝心のそれらをどう動かすのか、それをお前と一緒に考えられる奴がいない。今のところは俺っちがそれを担ってるが、あいにく向いているとは言えねえ。……あいつなら、その役目を果たせると思うんだけどな」
穂高は扇のことを高く買っていた。扇が相当な美少女であるために気に入ったという部分もあるが、何よりも今の能登に必要な人材だという点で扇を信用していたのである。
「馬鹿めが、おそらくそうはならないであろうよ」
しかし、光教は首を振った。
「確かにあの女の才幹は高い。それこそ経験を詰めば、俺に並ぶ。だがな、それ以上にあの女はいささか向上心が強過ぎる」
「そういえばそうだったな。祐筆に置いていた時、何度か祐筆の枠を踏み越えたことは言ってきていた」
「そうだろうな。才幹に補強された向上心は、時に主を疎む心に繋がる。ゆえに使い潰すことは出来ても使いこなすことは難しい。推測に過ぎぬが、奴の欲するところは己が才幹を用いて天下に自らの足跡を刻みつけることであろう。そして、それは往々にして下克上という形で現れる」
「……で、結局あの娘を雇わなかったってことか?」
「いや、雇う。というよりも、すでに使っている。……お前を外交に使っている間にな。ともあれ、これで布石は打てたことになる」
「そうかい。相変わらず惚れ惚れせるほど容赦がねえな。あれだけやってまだ足りないか」
「叩けるうちに叩く。これが戦国の常道だ。もっとも此度は俺としても蛇足であるとは思うが、あまり元手が要らぬからな、やっても問題なかろう」
ここまで話すと光教は杯を傾け、酒を流し込む。
「ふ、話し過ぎたか。戸沢白雲斎が覗いていることを警戒してあえて特定されぬよう話したが、これでは焼け石に水だろうな」
そう言って、光教は再び杯を傾ける。
それ以後は光教も穂高も言及することはなかった。
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旧琴平宗方邸に着いたのは、早朝のことだった。
昭武単騎とはいえ、桜洞城から松倉の町に行くには一山越える必要があるためだ。
「本当に思いつきだから、伝者を出すことも忘れてしまった。如何にオレが主だとしてもこの時間だしな……。入れてくれるだろうか」
一晩の間に昭武の頭は冷え、門番への取次を躊躇してしまう。いや、正確には桜夜に冷たい対応をされることを恐れているのかもしれない。
もっとも、仮に桜夜が昭武を追い返したとしても、それは前もって伝者や書状を出さなかったが故の形式的な対応で、決して桜夜が昭武に対して隔意を持っているというわけではないのであるが、今の昭武はとにかく桜夜の挙動の一つ一つに過敏になっているのだ。
(ここは一度、昼になるまで時をかけるか?……いや、でもなぁ……)
さりとて、先延ばしにすればいよいよ決断が無駄になることは明らかだった。
(ええい、ままよ!)
ついに昭武は決断する。
門番は早朝の国主の来訪に戸惑ったが、どうにか平静に桜夜が未だ起きていないことを説明し、代わりに宗晴のもとへ案内した。
かくして宗晴の部屋にて昭武と宗晴は向かい合う。
「これはこれは、殿。このような朝に何の御用で?」
「桜夜に大事な話があって来たんだが……。まあ、順序は違えどお前にも伝えなきゃいけないことだ。桜夜の前に、お前に話しても問題ないか」
「それは、我が琴平家に何か関わりが?」
おそるおそる宗晴は尋ねる。なにしろ朝方に主君が突如やって来て、自らの姉に大事な話があるというのだ。どうしても身構えてしまう。
「大いに関係するな。なにしろオレは桜夜に求婚しようとしているのだから。必然と琴平家とは関わらざるを得ない」
「はあ……、そうですか」
割合、とんでもないことを宣った昭武に対し、宗晴の反応は存外淡白なものだった。
「あれ?もう少しばかり驚かれると思ったんだけどな……。察知してたか」
「いえいえ、驚きましたよ。ただ、それ以上に妙にしっくりきていたのです。弁が立つわけではないので、これぐらいの表現しか出来ないんですが……」
「そうか、しっくりくる、か……。そういう言い方もあるか。中々悪くない」
何度も頷きながら、昭武は宗晴の言を咀嚼する。
昭武は桜夜のことを好いていることを自覚していたが、それは決して燃え盛る炎のようなものではなく、それよりか火鉢のように静々と、されど確かに温かみを感じさせるものだった。
「そう言ってくれるということは、宗晴。お前はさして反対するというわけではないという訳か?」
「はい。相手が殿ならば、姉上が嫌がるとは思えませんので。そうである以上、ぼくがわざわざ立ちはだかる理由はありません。これからは姉上をよろしくお願いいたします。殿」
和やかな笑みを浮かべて宗晴は答え、平伏する。が、一方で昭武はあんぐりと口を開けたまま固まっていた。
「どうされました?殿」
「いや、意外だったんだ。未来語でいう死酢魂まっしぐらのお前があっさりと認めるなんてな」
「……ぼくはですね、どうしたってあなたを認めざるを得ないんですよ。あの時、ぼくは頼綱を姉上の元へ行かせてしまった。聞けば頼綱は姉上を手篭めにしようとしていたそうではないですか。考えたくもないことですが、あの場に殿が駆けつけてくれなければ、間違いなく姉上は女性としては死んでいた」
苦味走った表情で宗晴は述懐する。
宗晴はずっと悔いていた。桜洞城の戦いの折、姉小路頼綱を足止めできなかったことを。
「あの時は、ぼくが姉上を守ると意気込んでいた。けれど出来なかった。だから、ぼくが出来なかったことを成し遂げた殿、あなたこそが姉上の隣にいて欲しいのです」
一方で、宗晴は昭武に自らがそうありたかった理想を投影していた。姉を守り、共に戦う剛の者。昭武は彼が任じられたかったその役目を見事に体現していた。
「……宗晴、お前に言われずともそうするよ。なぜならオレはずっと見ていたいんだ、あいつの笑顔をな」
昭武は優しく微笑むと宗晴は破顔した。
宗晴とあらかた話した後、昭武は桜夜の部屋に向かった。
襖を開くと、部屋の奥で桜夜が正座をして昭武を見つめている。それを見て昭武は心の臓が止まったような気がした。
(やべえ……、自覚してしまったら桜夜をまともに見られねえ……)
桜夜への恋心を自覚してしまった昭武には今の桜夜の姿は眩し過ぎた。
手早く準備を終わらせるためなのか、いつもはポニーテールに結われている髪は下ろされ色気が増しており、さらには普段は割と華美な装いをする桜夜が今は浴衣しか着ていない。だが、それがかえって桜夜自身が持つ清楚さを強調していた。
「どうしたんですか、昭武どの?何かお話があるのではないですか?」
昭武の内心を知ってか知らずか桜夜が促す。やむなく昭武は桜夜の対面に座った。
「それで、お話というのは? 昭武どのがわざわざわたしの元へ赴くぐらいです。余程重大な内容と見ました」
「まぁ、重大な話ではあるが……」
思わず昭武はそっぽを向いて頭をかいてしまう。
今から桜夜に告げようとしていることは、確かに昭武にとっては重大な内容だ。
(しかし、桜夜はそっちの方の話だとは思っていないだろうからなぁ)
何を話しているのか、と。白い目で見られそうで怖い。恋心を抱いていながら星崎昭武は度し難いことに桜夜にそれを晒すことに抵抗を覚えているのだ。
「そういえば、昭武どの。少し前に城下で気になる噂を聞いたのですが、ご存知ですか?」
「なんだ?」
「十二月二十四日、織田軍と武田軍の間で和睦が結ばれた日ですね。その日の夜に信奈様と良晴どのが接吻をしたようです」
「ああ、それならオレも聞いた。別段、不思議に思えなかったな。少なくとも金ヶ崎での事を見た人間ならそう思えるだろう」
「そうですね、ええ。あの二人の関係は微笑ましいです。わたしたちもかくありたいものですね」
桜夜は優しげに微笑む。
その笑顔はどうしようもなく昭武を惹きつけて、ついに昭武は腹をくくることができた。
「なぁ桜夜。今からオレが言うことは戯言と何ら変わりはしないかもしれないが、聞いてくれないか?」
そこで、昭武は一旦息を継ぐ。
息苦しさを感じる。まるでいちいち息を使い切る事を余儀なくされているようだ、と思った。
告げる。
「桜夜。オレはお前のことが好きだ。どうしようもないほど愛している。……オレと夫婦になってくれないだろうか?」
「何故、そのようなことを?」
「何故って言われたってなぁ……。正確に説明できるとは到底思えねえよ。ただ一つ、はっきりと言えるのは、お前の笑顔をずっと側で見ていたい。それぐらいだ」
照れ臭そうな笑みを浮かべて昭武は言う。いくら飛州の金獅子と諸国に名を轟かせたところで、一度惚れた女の前では形無しである。不器用ながらも言葉を紡ぐことしか出来なかったのだ。
「そうでしたか。……ああ、嬉しい」
告げられた桜夜は満面の笑みを浮かべていた。
(この時をずっと待っていました。桜洞城であなたに助けられてから、わたしはあなたを好いていた。……けれど、あなたがわたしに振り向いてくれるとは思えなかった。だというのに、あなたはわたしを選んでくれた)
昭武が桜夜を愛おしく思う一方、桜夜は明白に恋心を自覚していたが、それ以上に引け目を感じていた。
(しかし、わたしは武勇に優れている訳ではありません。故に優花どのや左近どののように昭武どのと轡を並べて戦うことができず、いつも一歩下がったところで守られてばかりでした。……本来ならば、わたしよりも左近どのの方が、あなたの伴侶にふさわしいのです)
だから、桜夜はいま決断を下そうとしていた。それは彼女にとっては我が身が張り裂けそうな痛みを伴うものだが、そうであるべきだと頭の片隅で利口な自分が叫んでいた。
「昭武どの、そのお気持ちは嬉しいのですが、わたしにはそれだけの価値はありませんよ?……本当にわたしでいいんですか?」
「無論だ。んな馬鹿なこと言うなよ」
言うと、昭武は桜夜を抱き寄せ、唇を重ねていた。
桜夜はもう何も考えられなかった。昭武が自分を求めてくれている。そうと分かれば、もうどうでもよかった。
相応しかろうとそうでなかろうとかまわない。今、この時だけはわたしのものだ。誰にも邪魔をさせたくない。
桜夜は昭武の背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返していた。
読んでくださりありがとうございます。
五十一話ですが、おそらく今話が本作で唯一の恋愛描写になります。
正直、自分は恋愛を書けるような性質じゃあないですが、この二人ばかりは多少無理してでもくっつけてやりたいと頑張りました。
それでは、誤字や感想などあればよろしくお願いします。