いつかの冬のことだ。
男がいた。どうしようもなく凡庸な男がいた。
一面の銀世界の中に異物のように佇む陣で男は傍らの偉丈夫にこう問われた。
「この国はいつだって血を流してばかりだ。八代様はどうも伝承や御文から見る限り、こういうのを嫌っていたようだが……」
その言葉に凡庸な男は申し訳なさそうな表情を浮かべて返した。
「みんなみんな、辛かったのでしょう。あの時代はそれこそこの乱世が始まって間もない頃でしたから。先行きが見えなくて恐ろしかった。だからこそ、平等な公界を作るという八代様の思想に惹きつけられた。しかし、それは武家にとってしてみれば、飼い犬に手を噛まれたようなもの。この両者は分かり合えない。ゆえに戦いをする羽目になったのです」
「それを言えば、俺は一応武家だがな。でも、今のところは戦い合うどころか、英雄として崇められているが」
「ええ、幸いなことにあなた様のようにお武家様の一部もにゃんこう宗を受容してくれました。しかし、虐げられる民達の共同体という側面が強い原始教団では想定されていません。それは立場上、口にすることは憚られますが、教団の基本思想が公界ではなく武家を排した祭政一致の新たな王権の設立へとすり替わってしまっているからです」
悲しいことに彼女の理想は高すぎた。いや、現実が非情過ぎたのかもしれない、と男は思う。
あまりに非情過ぎる現実は理想を追い抜き、美しい願いを復讐心の依代に変えてしまったのだ。
勿論、武家や公家の不甲斐なさには男も共感できる。だが、だからといって排除してはならないのだとも思う。
それは、上に立つ者が門徒に変わっただけの単なる過去の焼き直しであると同時に本猫寺八代当主・れんにょの願いを、にゃんこう宗の原理そのものを否定することに他ならないのだから。
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「ようやく、突破できた……」
門をくぐってから一刻が過ぎた頃、痛む尻をさすりながら昭武は桜夜たちの前に姿を現した。
「試練達成ぬこ。しかし、少々叩かれ過ぎぬこ」
試練を管掌していたきょうにょが、昭武を待ち構えている。猫耳と尻尾が独りでに動くあたり、いよいよ猫神らしかった。
「ともあれお前は試練を果たしたぬこ。であれば姉上との接見を許すぬこ。されど、今姉上は今定例漫談の最中ゆえしばし謁見室で待つがよいぬこ」
「はいはーい!案内は下間仲孝にお任せあれ!」
仲孝に促され、昭武は謁見室に向かう。
部屋に入ると桜夜が先に門徒から饗応を受けながら待っていた。
「桜夜さま。どうして私たちを導いては下さらないのですか?」
「そうにゃそうにゃ、本来ならば桜夜さまは下間の姓を与えられてもおかしくはないお人だにゃ。なのにどうして田舎侍の家臣に甘んじておられるのかにゃ?」
「もはや私たちには、本猫寺にしか居場所がないんです。どうかけんにょさまに合力して共に私たちを導いて欲しいです……」
昭武たちに気づかずに給仕の少女門徒たちが桜夜に懇願していた。その表情はとても切実なもので、昭武が足を踏み入ることを躊躇うほどだった。
「星崎どの、戦乱は長くなり過ぎました。大坂はみんな笑顔には見えるんですけど、実はそれは作っているだけなんですよ。漫才を使って怖いのをうまーく隠せてるだけです。本当はみんな武家が恐ろしくて恐ろしくてたまらないんです。だから、みんな自分に少しでも理解してくれる人や神仏に縋りたくなるんですよ」
立ち止まる昭武に仲孝が耳打ちする。それは彼にとって今までで最も乱世に苦しめられてきた民の心情を伝えてくるものだった。
良くも悪くも平湯村は平均的な環境とは言い難い。武家のものではないが、さりとて民にもなりきれない異郷だった。ゆえに昭武ではどちらの気持ちを完全に汲み取るなんてことはできなかったのだ。その不足を僅かばかり昭武はただ今補ったといえよう。
そして、それと同時に昭武は気づいた。
よくよく仲孝を見れば、右手が不自然に強く握りしめられている上に微かに震えているのだ。
(ああ、そうか。オレもまた怖がられているのか)
天下泰平と清らかな大義を掲げていたとしても武家である以上、戦を起こす。それに感情に流されたといえど、尻垂坂で殲滅戦を繰り広げてしまったこともあるのだろう。
その経歴が基本的に誰を相手にしても気丈に振る舞えるだろう仲孝でさえ萎縮させてしまっていたのだ。
「オレが、怖いか?」
「……失礼を承知で言えば」
「そうか……」
「それにしても、よく気づきましたね。うまく隠せてるつもりだったんですけど」
堪忍したのか、仲孝が先程とは似ても似つかない儚げな笑みを浮かべていた。
「よく見れば、な。どうやら今までお前が会ってきた武家は節穴だったようだ。余程民に興味がなかったらしい。まったく反吐が出るな」
武家が民からの信頼を取り戻さない限り乱世は終わらない。
民に対して彼らの身体と生活を守ることを約束しているからこそ国は国であることを許されるというのに、なぜ民をここまで軽視できるのか。信頼を失ってしまっては意味がないではないか。
昭武は、心中で咆哮していた。
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「わたしがけんにょです。星崎どの、琴平どの。今日はよろしくお願いします」
対面して早々、けんにょは昭武らに深々と頭を下げる。
けんにょはこれが戦国大名以上の勢力を持つ本猫寺の当主だと思えないほど陰が薄かった。
「雑賀孫市や。あんたらが噂に聞く飛騨の金獅子とその懐剣か。なるほどなぁ……」
矯めしすかしつつ、孫市は昭武と桜夜を観察するやいなや嘆息した。
「お堅いやっちゃな、あんたら。北陸特有の生真面目さが出てしまっとる」
「それこそお国柄ってやつだ、諦めてくれ。オレも正直穂高以上に陽気なやつと長いこと話せる気がしない。早々と交渉しようぜ」
「なんや、せっかちやな……。そんなんじゃモテへんで」
「結構結構。こう見えても妻帯者だからな。モテたいなんぞ言ってみろ?とんでもないことになる」
「はあ、まったく……ちいとも弄りがいのない男やな」
孫市が昭武への関心を無くし、静かになったことで会談は始まった。
昭武がけんにょに求めるのは不戦協定。現行当主の声かけがあれば、飛騨で蜂起せんとしている門徒も矛を下ろすはずだと考えていた。
しかし、けんにょは首を横に振った。
「無理、ですね。仮に私が建議したとしても通るとは思えません」
「ちょっと待て。本猫寺当主の命令は門徒にとって絶対ではないのか?」
「基本的にはそうです。しかし、門徒たちはもはや乱世が終わらない不安に押しつぶされかけているのです。私は抑えようとしているのですが、正直なところうまくいっているのは畿内だけですね。北陸となると現地の声を軽んずることができない状況になりつつあります」
「となると、玄仁や瑞泉寺のあたりか?」
「ええ、そうですね。実のところ、玄仁さんが従っているために北陸に畿内からの影響力が辛うじて保たれているものです」
「逆に言えばうちの門徒に影響力を効かせたい場合は越中の瑞泉寺が従わないと意味がないということか」
「理解が早くて助かります」
申し訳なさそうにけんにょは首肯する。
昭武にとって瑞泉寺は頭が痛い案件だった。
なにしろ領内におけるにゃんこう衆の中でも最大規模でしかも典型的な抵抗派だったからだ。熊野雷源や高知四万がいた時代は彼ら彼女らに押されていたが、基本的に越中ではこちらの方が影響力が強く、今回の蜂起も瑞泉寺が裏で糸を引いているという疑惑がある。
それに加え、今まで会談に口を挟まなかった孫市も、
「一応けんにょはんは和平派やけどな、基本的には本猫寺は対抗派や。これは畿内でも同じやな。せやから、うちの運営の仕方が当主の独裁ならまだしもあくまで合議制を基本に据えとる以上、うちらが賛成でも不戦は流石に通らん。まぁ、志は同じやから頑張ってはみるけどな、期待はせん方がええ」
と、畿内の方でも不戦は難しいと断ずる。
「ならば、御文を出してくれないか? 御文はあくまでも当主自身の意思を伝える手段だ。合議にかけられることはないだろう」
次善の案として昭武は提案するも、これにもまたけんにょは首を横に振った。
「御文ならば、確かに私の一存で出せますが、不戦協定に比べれば拘束力はかなり落ちます。それでもいいのならいくらでも書きますが……」
「確かに効果はないかもしれません。ですが、本猫寺当主が御文を送ったという事実には変わりはありません。それに、その事実があるとないのではいささか事態が異なってきます。ですので、御文を送っていただけないでしょうか?」
「わかりました。今すぐにでも取り掛かりましょう。……戦も一揆も思うように止められないこの身の上ですが、それでも呼びかける意義は確かにあるのですから」
腹をくくったけんにょが、昭武と桜夜の瞳を交互に見遣ったのち頷く。
その姿はまさしく門徒たちを救わんとする宗教者に違わぬものだった。
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「思いのほか、好感触だったな」
「ええ、けんにょさまと孫市さまが和平派だったのは不幸中の幸いでした」
けんにょに充てがわれた客室で昭武と桜夜は昼間の会見を振り返っていた。
「ああ、まだ当主になって数年もしていないのにすでに貫禄がある。彼女が味方なのは頼もしいな」
「しかし、けんにょさまの言う通り、御文では効果は薄いです。ただ今思い出したことですが、確か本猫寺の八代当主……今の本猫寺を事実上作り上げたれんにょさまでさえ、武家に対して怒り狂う一揆衆を止められず、ついに加賀は門徒の国になりました」
思い出した勢いのままに桜夜は語る。
本猫寺八代当主……れんにょの物語を。
ただの猫憑きの童女から日ノ本の民による武家への抵抗の象徴となった軌跡を。
読んでくださりありがとうございます。
絶え間なく説明回っぽいものが続きましたが、それも今話で打ち止めです。流石に次話では少し進めなければ……。